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綺堂ディジタル・アーカイヴ




つぎは綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです.
「綺堂歌舞伎論3部作」の2つ目として、明治初期からの歌舞伎の変遷と新派劇興隆の同時代の目撃者として、岡本綺堂による変遷史を公開します。たぶん明治の演劇界に対する余裕のある、客観的な記述が、やはり魅力でしょう。これで歌舞伎・書生(壮士芝居)芝居・新派劇の歴史はマスターですね。
なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください.




綺堂一夕話 ―歌舞伎と新派と―
           岡本綺堂
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     ◇
 演劇についてなにかの話をしろといふことであるが、現在のことは現代の人達が皆よく知つているのであるから、私達のやうな老人はどうしても昔話をするやうになる。早い話が、圓タクを値切つて東京驛まで五十錢で送らせたといふのでは、現代の人達の皆知つてゐることで、珍しくない。而も私は大正九年、麹町から東京驛まで自動車に乘つて、三圓五十錢を請求されたといへば、現代の人達は珍しがるのである。
 そんなわけであるから、老人は老人相當の昔話をする方が都合がよいことになる。その昔話のうちには、今の若い人たちに取つて何か珍しいやうな事があるかも知れない。そこで私は朋治時代の「芝居」といふものを紹介するために、歌舞伎座創立前後から新派劇勃興當時について、少し語りたいと思う。前にもいふ通り、所詮は老人の昔話にすぎない。
 京橋區木挽町に歌舞伎座といふ劇場の初めて建築されたのは明治二十二年、今から振返ると四十五年の昔である。その當時の木挽町三丁目は片側町のやうな寂しいところで、一方の采女町側には人家が建て續いてゐたが、一方の三丁目、即ち現在の歌舞伎座あたりは總て一面の空地で、ときどきに曲馬や花相撲などを興行する以外には、空しく草原として京橋區のまん中に取殘されてゐたのである。直ぐ眼の前に銀座の大通りを控えていながら、三十間堀の川ひとつを越えると、まるで世界が變つたやうに寂しい。勿論ここのみに限らず、その當時の東京市内にはそんな場所が幾らも殘つてゐたので、さのみ珍しいとも思はなかつたのである。
 その頃、今日の府立第一中學校は東京府尋常中學校と稱して、築地河岸にあつた。その遺蹟が現在の東京劇場で、私も麹町區元園町からこの學校に通つてゐたのである。その學校の跡が今や劇場となり、私も劇作家の一人としてそこに出入りしてゐることを思うと、まつたく今昔の感に堪へない。
 さういふわけであるから、私は通學の往復は必ず木挽町三丁目を通行して、花相撲の番附などを眺めてゐたことがあつた。そのうちに、明治二十一年の秋ごろであつたと記憶している。かの三丁目の草原に劇場建築地の杭が建てられたのである。福地櫻痴、千葉勝五郎兩氏の發企で、木挽町邊に改良劇場が新築されるといふ噂は、かねて新聞紙上でも承知していたが、その劇場はここに建てられるのである事を初めて知つて、やあ此處へ芝居ができるのだなどと云つて、私達は今更のやうにこの草原を珍しさうに眺めたりした。
 ほかの生徒達はただ無邪氣に眺めてゐるだけであつたが、その當時十七歳の少年であつた私は、一種の注意深い眼を以てこの劇場建築の成行を窺はざるを得なかつた。なぜと云うに、その一兩年以前から私は親にも許され、自分も決心して、將來は劇作家として身を立てることに定めてゐたので、他人の話を聽き、新聞の記事に注意して、常に劇界の動靜を窺つてゐた。その際、新たに改良劇場が建築されるといふのであるから、それが劇界に如何なる波紋を起すかは、私として大いに注意しなければならないからであつた。
 新聞には、種々の消息が傳へられた。新富座主の守田勘彌は眼の前にこの勁敵のあらはれたのに脅かされて、東京の大劇場、即ち中村、市村、千歳の三座經營者を語らひ、新富座を加うる四座の大同團結を組織した。大同團結といふのは政黨から出た言葉で、その當時のはやり言葉であつた。要するに、この大同團結によつて、東京在住の俳優はこの四座以外に出勤を許されないことになつたのである。改良劇場が新築されても、それに出勤する俳優が無くては何うすることもできない。それに對して、新劇場はいかなる作戰に出で[#ママ]るかと云うことが、興味ある問題として世間一般からも眺められてゐた。
 そのあいだに、新劇場の工事はだんだん進行した。その劇場の名が歌舞伎座と決定したことは新聞紙上にも傳へられ、新築工事場の立札にも歌舞伎座と筆太に記された。今までの草原は跡もなく、劇場以外の芝居茶屋や、それに附屬する商家などが續々と建築に取りかかつた。二十二年七月、私が中學を卒業する頃には、劇場の外廻りは殆ど落成して、ここに宏壯なる建築物が出現したのである。今までは新富町の新富座が東京第一、即ち日本第一の大劇場と認められてゐたのであるが、それとこれとはほとんど比較にもならないほどの大建物を見せられて、誰も彼もみな驚かされた。こんな大きな小屋でどんな芝居をするのであらうなどといつた。自分も將来來はかういふ大劇場の作者になるのだなどと、夢のやうに考えて私はなんだか嬉しかつた。
 歌舞伎座の落成が近づくと共に、その評判がいよいよ高くなつた。かの四座團結のために、劇場は落成しても早速に開場は覺束ないと云ひ、或はまた、四座團結が切崩されて、某々俳優は已に出勤の内約が整つたと云い、その噂は取り取りで眞相は判然しなかつたが、十月の末になると一切が發表された。歌舞伎座の舞臺開きには、團十郎、菊五郎、左團次、いはゆる團菊左の三名優が顏をそろえて出勤することになつたのである。
 所詮、かうなるに決まつているのだと、先見の明を誇るやうにいふ人もあつた。守田が負けたのだと、氣の毒さうにいふ人もあつた。その當時の私は、そこにどういふ事情が潜んでゐるかを知らなかつたが、後に聞けば、歌舞伎座の千葉勝五郎から一萬圓の金を守田に提供して、四座の團結を解くといふ妥協が成立したのであつた。今日と違つて、その時代の一萬圓は大金であるから、負債に苦しんでいる守田は、その大金のために我を折つて、各俳優の隨意出勤を默許することになつたのである。而も、主なる俳優は多年の義理に絡まれて、すぐに守田の手を離れることを潔しとしないやうな傾きもあるので、自然の結果、歌舞伎座側では俳優の給料をせり上げて、無理に彼らの出勤を承諾させた。明治以後、俳優の給料の暴騰はここに端を開いたのであるといふ。いづれにしても、四座の團結は破れ、各俳優の顏ぶれも整つて、歌舞伎座は二十二年十一月二十一日を以て新たに開場することになつた。
 東京の劇界は明治以來、最初の十年間は單に江戸時代の延長に過ぎない感があつたのみか、世間がまだ完全に安定しないので、兎角に劇界不振であつた。明治十一年六月、新富座の再築工事が落成して、それが前にもいふ通り、東京第一の大劇場と認められるに至つて、ここに初めて東京の劇界における新富町時代が出現したのである。勿論、他にも中村、市村、千歳、春木等の大劇場があつたが、團十郎、菊五郎、左團次、半四郎、仲藏の如き第一流の俳優は、大抵ここに出勤するを例としてゐたので、事實において新富座が東京の劇界を代表することになつてゐた。それが明治二十年頃から次第に衰運に向かつて來たところへ、さらに新しい歌舞伎座の出現に逢つて、ついにこれに壓倒されてしまつた。新富座時代は一轉して歌舞伎座時代となつた。劇通の口吻を假[#ママ]りて云へば、新富町時代が木挽町時代に推移したのである。
      ◇
 歌舞伎座新開場の狂言は「俗説美談黄門記」で、大切淨瑠璃として「六歌仙」を加えてあつた。前に云つた大同團結と同じやうに、この時代には何事にも改良といふのが口癖であつたので、新しい劇場も無論に改良芝居を標榜して立上がつたのである。
 觀客席はやはり座席で、棧敷といひ、土間といひ、それらの構造はほとんど在來の劇場と大差なきものであつたが、天井は高く、場内廣く、すべての設備がその當時としてひときは壯麗を極めてゐたので、まず觀客の眼を驚かした。入場料は棧敷一間に附き四圓七十錢、平土間一間に附き二圓八十錢で、一間は五人詰めであるから、一人にとつては九十四錢の割合である。その當時と今日とでは物價が七、八倍も相違しているから、その當時の九十四錢は今日の七圓前後に相當するものとみて好からう。
 當時の習慣として、座附の芝居茶屋が十軒ほどもあつて、比較的上等の客は皆この芝居茶屋から送り込まれることになつてゐたが、今度の歌舞伎座では、「當座附茶屋の儀は、御案内料として上等棧敷一間に附き金五十錢、平土間、並に中等棧敷一間に附き金四十錢、御客樣より別段に申請け、茶、煙草盆、敷物の料に充て候間、茶屋帳場へ御茶代、並に雇人共へ御祝儀等の御手當は御用捨下され度、云々」と發表した。これも改良を標榜する一端であつたが、この茶代廢止や祝儀廢止は殆ど實行されなかつた。觀客から茶代を出し、祝儀をやれば、いずれも喜んで受取つた。殊に日清戰後の好況時代に至つては、茶屋の茶代なども自然に騰貴して、見榮を張る客は棧敷一間に對して五十圓の茶代を出すなどと云うのも現れたほどで、茶代や祝儀の習慣は明治の世を終るまで依然繼續してゐた。
 狂言の「俗説美談黄門記」は、明治十年の十二月、新富座で上演して好評を博した黙默阿彌作の「黄門記童幼(をさな)講釋」に福地櫻痴居士が加筆したものである。新開場のことであるから、狂言の選定にはよほど苦勞したに相違ないが、座主の千葉勝五郎がこの狂言を主張したために、ついにこれに決定したのであるといふ。時間の都合で、その幾幕かを削つたのと、櫻痴居士が新たに江戸城中の場を書き加へたに留まり、他はほとんど原作の通りで、默阿彌自身が本讀みをしたさうである。名題は桜痴居士が新たに選んだもので、これに「俗説」の二字を冠らせたのが默阿彌の感情を害して、爾來再び歌舞伎座に關係しなかつたといふ噂もあるが、これは何も信じ難い。恐らく第三者の端摩臆測であらう。櫻痴居士は默阿彌を推奬して、「彼はなかなかの才子である」と云つてゐた。
 併し、團十郎があまり默阿彌を信用してゐないのは事實であつた。この芝居を見物の時、私は父に連れられて樂屋へ行つて、團十郎の部屋を訪ねたが、父は團十郎にむかつて、「今度の新幕(江戸城中の場)はやはり河竹(默阿彌)ですか。」と訊くと、彼は言下にそれを打消して、「どうして、どうして、あれは先生(櫻痴居士)が書いてくれたのです。河竹なんぞに書けるものですか」と答えた。その城中の場といふのは、水戸黄門が城中で諸役人や護持院の僧侶に對し、犬公方の殺生禁斷を批難する件で、劇としてはさのみ面白い場面でもなかつたが、和漢の故事を引いて滔々と論議するところが團十郎の氣に入つたらしかつた。例の活歴を創めて、專ら史實の穿索に努めてゐた團十郎としては、その方面に不得意の默阿彌を兎角に輕視する傾きのあつたのは自然の道理である。默阿彌もまた團十郎の芝居をかくことを好まなかつたやうである。
 私の見物したのは、初日から二週間日であつたが、菊五郎は病氣のために河童の吉藏だけを勤め、「黄門記」の藤井紋太夫と、淨瑠璃の喜撰法師は弟の家橘が代つて勤めてゐた。菊五郎の半缺勤は新富座の守田勘彌が何か絲を引いたのであるなどと傳へられたが、これも虚説である。芝居道には兎角に種々の浮説が傳へられるから、古い記録をよむ者はょほど注意しなければならない。
 新開場であるから、小屋見物の客も多かつたであらう。この興行は非常の大入りとなつたと聞いてゐる。今日ならば無論に引續いて正月興行に取りかかるはずであるが、翌二十三年の正月には團十郎一座が京都の祇園館へ乘込むことになつてゐたので、他に然るべき一座を求めることもできず、正月も休み、二月も休み、やうやく三月二十五日から第二回興行の蓋を明けることになつた。正月興行を休むのは、その當時に於いても異例であつた。但し、新富座も同じく休場して、三月二日から春興行を始めたのである。
 この時の新富座は菊五郎、左團次、芝翫、福助の顏ぶれで、「め組の喧譁」を初演、それが評判となつて大入りを取つた。これに後れて開場した歌舞伎座は、團十郎一門に家橘、松之助らを加へて、一番目「相馬平氏二代譚」、二番目「御誂雁金染」、大切所作事「道成寺」であつた。第一回は新劇場見物の客で大入りを占めたが、第二回はさうも行くまい。ことに新富座大入りの後を受けては定めて苦戰であらうと一般に噂されてゐたが、その興行成績は案外によかつた。立派な劇場はできたものの、それが果たして持續されるかどうかといふ懸念も、まずこれで大方は消滅したのみか、その競爭者たる新富座が次第に衰運に傾いて來たので、結局は歌舞伎座が劇界の覇權を握ることとなつて仕舞つた。
 ついでに言つて置きたいのは、この時代における各劇場の興行回數である。この二十三年には、歌舞伎座四回(三月、五月、七月、十月)、新富座三回(三月、五月、十二月)、中村座五回(二月、三月、五月、九月、十月)、市村座二回(四月、七月)、千歳座三回(一月、二月、三月、五月燒失)で、多きも一年五回に過ぎず、よき[#少きの誤植か]は一年わづかに二回である。これは大かた資金に窮して興行を續けられない爲でもあつたが、資金に差支へない歌舞伎座といへども、一年四、五回以上の興行を續けることは不可能であつた。これを今日の各座毎月開場に比較すれば、實に著るしい相違である。
 この相違の原因は、東京の人口増加と觀客の増加である。東京の人口増加に伴つて、觀客もまた増加するのは自然の數であるが、その正比例以上に觀客は増加している。歌舞伎座開場の當時にあつては、江戸以來の餘習がまだ去り切らないために、いはゆる良家の家族らは、劇場などに足を踏み入れない風があつた。一部の人達は歐米の例を引いて、演劇は高尚なものであるとか、立派な藝術であるとか唱道しても、多年の習慣から蝉脱するのは容易でなかつた。第一に男女の學生などはほとんど劇場に出入りしなかつた。芝居の立見などに行くものは一種の不良學生であるかのやうに教師らから睨まれて、私などは頗る窮したものであつた。
 官吏、學校教員のたぐひは、その家族といへども芝居見物などに行かないのが普通であつた。今日、各學校で劇研究會を組織し、あるひは女學生が餘興劇などを演ずるのを見ると、實に今昔の感に堪へない。歌舞伎座は改良劇場であるといひ、かつは福地櫻痴居士の如き人物の主宰する劇場であるといふので、今まで劇場の木戸をくぐつた事のない人達もだんだんに近づいて來るやうにはなつたが、それとても多寡の知れたもので、昔からのプレイ・ゴーアーたる下町の人々、花柳界の人々、それらが唯一の劇場支持者であつたのであるから、數において限られていた。したがつて、今日のやうな毎月興行などは到底許されない事情の下に置かれたのである。それを思うと、今日の觀客は各階級を網羅して實に多種多樣である。
 それだけに又、今日の各劇場は狂言選定に苦しんでゐるらしい。昔日は觀客の階級や種類が限られてゐたので、それに適應するやうな狂言を選ぶことは比較的容易であつたが、今日のやうに觀客の種類が各階級に亙つていると、甲に喜ばれるやうな物は乙に嫌はれ、丙に好まれるやうなものは丁に喜ばれずと云うやうなわけで、その取捨選定に迷ふ場合が屡々あるらしい。それを或る程度まで緩和するためには、各劇場が皆それぞれの特色を作つて、甲種に屬する觀客は專らAの劇場に行き、乙種に屬する觀客は一專らBの劇場に集まると云うやうな事にするの外はあるまいかと思はれる。
      ◇
 今日の新派の前身たる書生芝居(或は壯士芝居ともいふ)〕が初めて東京に出現したのは、明治二十四年六月に始まる。その以前から大阪には角藤定憲一座の書生芝居なるものが興つてゐたが、かの川上音二郎が藤澤淺次郎、金泉丑太郎、青柳捨三郎らの一派を率ゐて堂々と東京に乘込み、淺草西鳥越の中村座に第一回の旗揚興行を試みたのは、この時を以て嚆矢とするのである。
 その當時、書生芝居などといふものに就いて、東京の人はなんにも知らなかつた。東京の各劇場の中でも最も由緒ある中村座の舞臺に、書生らの素人芝居が興行されるといふ噂を聞いて、いずれも驚異の目をみはつたのである。中村座としてもこの種の興行を好まなかつたのは明白であるが、何分にも同座は經濟状態が甚だ窮迫してゐて、相當の俳優を以て開場することができず、一月興行以後、引續いて休場している始末であつたので、この盆前にさしかかつて何かで開場しなければ、劇場關係者一同が困難するといふ事情に迫られて、不本意ながらもこの興行を引受けたのである。その狂言は「板垣君遭難實記」ほか三種で、この連中が一體どんなことをするかと云ふ好奇心と、入場料が廉いのとの爲に、予想以上の好成績をあげて、更に一種の驚異を感ぜしめた。
 新派の演出法、いはゆる新派の型ともいふべきものは、その當時には見出されなかつた。いずれも無茶苦茶のつかみ合いであつた。殊に書生とか壯士とかいふのを標榜してゐるのであるから、兎角に書生や壯士のなぐり合ひとかつかみ合ひとかいふたぐひを賣物にして、ステッキを振廻す、椅子を倒す、踏む、蹴る、撲るるといふ大騒騷ぎ。その非藝術たること勿論であるが、なにしろ本氣になつて騷ぎ立てるのであるから、惡い意味の寫實といへばいい得る。その寫實を喜ぶ觀客もあつて、ああいふ立廻りは普通の芝居では觀られないと云つた。  而も彼等は一方にそのつかみ合ひを賣物にしてゐながら、一方には在來の觀客心理を捉えることを忘れなかつた。即ち一方には純寫實の喧嘩やつかみ合ひを演じながら、他の一方には竹本の淨瑠璃を用ゐて愁嘆場などをも演ずるのであつた。散髮の現代劇に竹本の淨瑠璃を用ゐるのは默阿彌以來の作風で、彼等もまたそれを踏襲してゐたのである。掴み合ひばかりでは觀客も流石に倦きてしまふのであるが、急所々々には淨瑠璃を用ゐて、兎もかくも舊式のお芝居らしい事もする。いはば甘いと辛いとを調合したやうな演出ぶりが、一部の觀客の氣に入つたのであつた。
 もう一つ、この一座の賣物は、座長の川上音二郎が舞臺でオツペケペー節を唄ふことであつた。即ち舞臺には金屏風を立て廻し、川上は黒木綿の筒袖に、木綿の袴をはいて、陣羽織をつけ、白のうしろ卷をして敷皮の上に坐り、大きい陣扇をかざして唄ふのである。唄の文句は時事を主題としたもので、國會が開けたから國民も奮起しろと云うやうなことを述べ、唄の最後にオツペケペツポーポーといふ。これも勿論、幼稚な非藝術的なものであるが、觀客は譯も無しに喝采した。
 一方には歌舞伎の殿堂ともいふべき歌舞伎座の大建築ができると、それから間もなく、更にこの書生芝居なるものが勃興したのも、一種の面白い對照であつたと云はなければならない。川上の一座は中村座で二回の興行をつづけて、さらに地方巡業の途に上つたが、東京の大劇場で大入りを取つたといふのが看板になつて、到る處で相當の成績を收めた。
 この川上の成功が動機となつて、新しい書生芝居の一座が續續起つた。山口定雄、若宮萬次郎、福井茂兵衞、伊井蓉峰等が思ひ思ひに一座を組織して打つて出た。そのほかにも小さい書生芝居が幾種もあらはれて、その當時のいはゆる椴帳芝居で興行するものが多かつた。在來の歌舞伎俳優に比べると、書生芝居の一座は給料も廉く、衣裝かつら等の費用もかからないので、小さい劇場では好んで彼らを迎えるやうにもなつた。かうなると、やはり一種の流行で、最初は素人とか書生とかいつて輕蔑してゐた人達も一度は覗いて見ることになつて、その中には書生芝居に限るなどといふフアンも現て來た。中村座ばかりでなく、新富座、市村座の大劇場でも書生芝居を興行するやうになつた。
 これは書生芝居がだんだんに人氣を得て來た爲であるが、もう一つの原因は、その當時、歌舞伎座以外の各大劇場が著しく疲弊してゐた爲であつた。どこの劇場も資金に窮迫して、普通の歌舞伎芝居を興行することができない。前にもいふ通り、書生芝居は給料の廉い上に、道具もお粗末で構はない。鬘も地頭で出るのが多い。衣裝も自分達の着物をそのままで舞臺に出るのがある。そんなわけであるから、歌舞伎芝居とは比較にならないほどの少ない仕込金で開場することが出來る。俳優一座も決して贊澤なことは云はない。大劇場の舞臺に出られるのを自分達の名譽と心得て、大抵の無理は我慢する。かういふ風に萬事が好都合であるので、資金難の各大劇場は内心それを好んでゐると否とに拘らず、自然、かの書生芝居を迎へるやうになつたのである。その當時、各劇場が順調に榮えてゐたらば、書生芝居があれほど急速の發展を示すことは不可能であつたらうと思はれる。
 それにしても、書生芝居が大劇場の舞臺を踏んで堂々と興行し得るには、何か相當の理由がなければならない。彼等の演技は非藝術である。藝術的に云へば、ほとんどなんらの價値もない素人芝居である。それを喜んで見物した當時の觀客を一概に無智低級とのみは云はれない。その觀客の多數は現代劇に飢ゑてゐたからである。明治以來、歌舞伎芝居でもザンギリ物、即ち現代劇を上演しないではなかつたが、それ等はみな默阿彌式の舊套を追つたもので、要するにチヨン髭を着けたやうな現代劇であつた。世の中がだんだん進むに從つて、觀客はこうした内容形式の現代劇に滿足してゐられなくなつた。書生芝居の演ずるものは、たとひそれが藝術的であらうがなからうが、兎に角もザンギリの現代劇であつて、チヨン髷の現代劇でない。そこに不完全ながらも何かの新し味が含まれていることが、當時の觀客を引寄せる原因となつたのである。その當時、歌舞伎芝居が時代に適應するやうな現代劇を上演して、またそれに適應するやうな寫實の演出法を採用してゐたらば、書生芝居はおそらく進出の餘地を見出し得なかつたであらう。
 かうして、明治の劇界も二十四、二十五、二十六の三年を經過するうちに二十七年の七月にはかの日清戰爭が勃發した。その當時の習慣として、八月の各劇場は暑中休みであつた。殊に大戰爭が突然に始まつたので、芝居などは誰も顧みる者はあるまいと、いずれも手を束ねて成行きを窺つてゐる間に、聰明な川上音次郎は蹶然起ち上がつて運動を開始した。機を觀るに敏なる彼は、この日清戰爭を脚色して舞臺に上せることを企てたのである。何分にも開戰當初のことであり、それを直ぐに上演することは面倒であつたが、彼は八方を奔走して警視廳その他の諒解を求め、遂に八月三十一日から「日清戰爭」と題する新脚本を淺草座で上演することになつた。淺草座といふのは、淺草の駒形にある小さい劇場であるが、ここを借りるに就いては何かの便利があつたのであらう。ともかくも彼は第一に日清戰爭劇の火蓋を切つたのであつた。
 脚本は決して優れたものでは無かつた。要するに、新聞の戰報を綴り合せたにすぎないものであつたが、開場以來、その人氣は凄じいもので、一月以上も日々の大入り滿員をつづけた。書生芝居の聲價は俄に騰つた。それを見習つて、他の書生芝居でも思ひ思ひに戰爭劇を上演した。仕舞には團十郎、菊五郎も歌舞伎座に於いて、左團次も明治座に於いて、皆それぞれに戰爭劇を上演することになつたが、その評判は戰爭劇の第一歩を踏み出した川上一座に及ばなかつた。
 淺草座の興行を終ると、川上はさらに戰地へ走つた。さうして、その十二月には「川上音二郎戰地見聞日記」を市村座で上演した。彼は舞臺上の伎倆よりも、かうした興行的手腕に富んでゐたのである。市村座の興行も無論に成功した。その他の書生芝居も皆この戰爭劇には相當の成績を擧げたので、その後にも手をかえ、品をかえて、戰爭劇が到るところに繰返された。
 この戰爭に書生芝居は勝つた。歌舞伎芝居は敗れた。翌二十八年の五月には、川上一座が歌舞伎の本城たる歌舞伎座に乘込んで、戰爭劇「威海衞」を上演することになつた。人氣隆々たるものである。從來ややもすれば、一部の人々に輕蔑されつつあつた書生芝居も、ここにその地盤を完全に踏み固めることを得て、やがて前者は新派と呼ばれ、後者は舊派と呼ばれ、わが劇界に二つの王國を作り出すことになつたのである。その後、たがひに一盛一衰はあつても、その系統は今も連綿たること、人の知る通りである。
 川上にかぎらず、すべての書生芝居が創業當時に成功した足跡を觀察するに、いずれもその目標を知識階級に置かず、寧ろ當時の中流以下、今日のいわゆる大衆を引寄せることに努めてゐたのである。たとひ、その演技に非藝術の批難はあつても、彼らが急速に多數のフアンを作り得た理由はそこにも潜んでゐる。たとひ其當時の觀客が現代劇に飢ゑてゐても、彼らが知識階級を目標とする高踏的態度をとつていたらば、おそらく中途で滅亡して仕舞つたであらう。いつの代にも、新しい劇團を打ち建てる困難はそこにある。


底本・初出誌:「新潮」昭和9年1月1日(第31年1)号103−111頁
入力:和井府 清十郎
公開:2002年7月15日
なお、振りかな(ルビ)は《》で示す

この作品は、現在、岡本綺堂「風俗 江戸明治物語」(今井金吾校注)(河出文庫、昭和62年6月刊)において、新漢字新かな文字で刊行されています。しかし、原文(初出誌)に忠実ではない部分が多数あり、またアレンジがしてあるので採用しなかった。とくに小見出しが新たに作られたり、用語法が変えれたり、さらには段落が新たに設けられたりもしている。現代の読者へのサービスのつもりであろうが、底本をどのように変え、アレンジしたかの説明は欲しいものです。

なお「綺堂事物」では、底本の入手にもよりますが、なるべくオリジナル・原点に忠実にという原則をとっているつもりです。
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明治三〇年代の歌舞伎座.現在の桃山様式とは違う形

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『風俗画報』による絵(明治34年)綺堂もこのように見た。拡大図



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