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綺堂アーカイヴ


◆綺堂補遺

・その1 綺堂の肖像ほか (このページ)

その2 広告案内に見る綺堂作品





1.最も知られた肖像写真
 岡本綺堂の肖像写真は、このホーム・ページの冒頭でも使っているような構図のものを目にすることが多い。
 その元となったのは、つぎのもの(171KB)ではないかと思う。
日本戯曲全集第35巻現代編第3輯・岡本綺堂(1928年・春陽堂)の口絵写真による。

2.若き綺堂 明治35年頃

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3.綺堂、従軍記者となる。明治37年、日露戦争第2軍の従軍記者として、東京日日新聞より派遣。背嚢、双眼鏡、日章旗に、東日の腕章。場所は不明、壮行会の会場か自宅庭か。

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4.パスポート 大正8年頃、欧米視察旅行前


岡本敬二の自著か?また、渡航目的には、劇場組織の研究とある。
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5.天洋丸船上にて、大正8年、綺堂(椅子)の右、葉巻を持つのは伊坂梅雪。ハンチングに洋服姿は珍しい。

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6.大正10年 50歳誕辰記念

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(前列左より)小林宗吉 中野実 岡本綺堂 森田信義 中嶋俊雄
(後列左より)織田顕道 額田六福 新原得二 海野昌平 菊岡進一郎

 構えが好いですね。額田氏(後列左から2人目)は、岡山出身で、早稲田大学の出、綺堂一門の筆頭弟子であり、劇作家であった。また、新原氏(後列中央、背広姿)は作家芥川龍之介の実弟。この兄弟と面識・交流があったことになる。
 右下の刻印より、麹町の東条会館(写真館)で撮ったものと思われる。
 雑誌『舞台』(岡本綺堂追悼号)より
  より大きな画像(98 KB)

7.書斎 夏

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 浴衣に団扇という夏スタイル。『春陽堂月報』昭和2年11月(13日)号より。
とすると、まだ元園町1丁目27番地の家、甲字楼の2階の書斎かと思われる。上目黒への引越しの前であろう。テーブルの上の手前は、タバコ盆のようである。竹の編物の箱に、マッチである。

これは、上の月報に掲載された以外は、初公開ではなかろうか。大きな画像はここ(33KB)

8.庭で

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 自宅の庭とするのが最も考えられるものだが、どの頃に住んだ家かは分からない。顔の感じからすると、上の1の写真の頃とあまり経ってはいないと思う。 (やや見やすくなりますが、より大きな画像・225KB
 撮影年月日 不明
 場所   不明
 出典:大衆文学大系7巻 岡本綺堂・菊池寛・久米正雄・集 (1971 講談社)口絵

9.横顔

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どの年代に撮られたのかは不明だが、写真の風貌からして、昭和の初め頃ではないかと考えて、ここに置いた。

 撮影年月日 不明
 場所   不明
 出典:口絵

10.執筆中

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 執筆中と称するものは珍しいのではないかと思う。はっきりしない画像だが晩年に近い頃のものではなかろうか。握っているのが、例のGペンでしょうか。 (やや見やすくなりますが、より大きな画像・107KB
 撮影年月日 昭和12年夏頃
 場所   上目黒・西郷山房書斎
 大衆文学大系7巻(岡本綺堂 菊池寛 久米正雄 集)月報6(第7巻)(1971年10月)9頁

11.晩年の1932年頃、場所は目黒の自宅か?

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出世作となった「維新前後」(明治41年9月)の著書

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本名の「岡本敬二」での著作者名

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ペンネーム以外での著作者名は珍しいと思われる

書簡

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岡本綺堂の訃報を掲載した新聞記事

 1939年3月2日付

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三田村鳶魚「日記」昭和14年3月2日付(『三田村鳶魚全集』27巻129頁)によると

「新聞にて岡本綺堂氏、昨日逝去のよし、六八歳也、初めて其の人を見しは、久良岐氏が川柳解釈会を池の端にて催せし時同席せしなり、その後打ち絶えしが、新脚本論の最中に元園町の宅に往訪せし依頼懇意せしなり、夕刻になりて、明日午後三時、青山斎場にて告別式ある旨の通知あり。」と記している。




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