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綺堂氏、歌舞伎役者となる 若葉会・東京毎日新聞演劇会の文士劇 明治38−41年




 どこかで、綺堂自身が役者になって芝居をしたようなことを書いていたのですが、そのときは読み過ごして、そのままにしていました。その後、調べてみたら、やはり、綺堂は歌舞伎の俳優になっていました。しかも、歌舞伎座をはじめとして芝居を演り、そのために俳優の鑑札の交付を受けていたのでした。よく調べていないのですが、当時は、この鑑札がないと俳優として舞台に立てなかったのではないでしょうか。

時期は、名優と謳われ、明治の歌舞伎の一時代を築いた、団十郎、菊五郎、左団次が明治36・37年に相次いで逝き、方や川上音二郎らの新派劇が隆盛を迎えようとしていた明治38年のことです。綺堂らは何を考え、何を実践しようとして、自作を提供してまで自演しようとしたのでしょうか。

なお、当時の歌舞伎・演劇界をめぐる動きや事情については、音二郎・左団次・綺堂を中心として見た「明治の演劇小史 その1・その2」の項を参照ください。

素人文士劇は、つぎの2つの組織で運営された。まず、若葉会としての文士劇は2回だけである。それを引き継いで、東京毎日新聞演劇会によるものが6回に及んでいる。岡本綺堂は、両者に関与している。両方の文士劇の公演は、技芸の革新と俳優の向上の進路を開くためであると見られている。

素人文士劇を担ったのは、当時の各社の新聞記者連中である。若い17歳の綺堂が、明治23年1月末に東京日日新聞社の記者(見習)となって、歌舞伎の劇評担当になっていくのだが、ちなみに明治20年半ば頃の新聞劇評家(記者)にはつぎの人たちがいた。

森田思軒(報知新聞)、須藤南翠(改進新聞)、條野採菊・南新二(やまと新聞)、饗庭竹の舎(東京朝日新聞、竹の屋主人、篁村とも号す)、前島和橋・右田寅彦(都新聞)、井上笠園・水野好美(中央新聞)、竹下権次郎(時事新報)、鈴木芋兵衛(読売新聞)、野崎左文(国会新聞)、塚原渋柿園(東京日日新聞)などがいた。この他にも、尾崎紅葉は芋太郎の筆名で読売新聞に、また、斎藤緑雨も国会新聞に、ときどき劇評を寄せていた。

これらのうち、権威として、條野採菊、須藤南翠、饗庭竹の舎(竹の屋主人)、森田思軒などがいた(以上、岡本綺堂・明治の演劇113頁(大東出版、1942)による)。ことに條野採菊からは、これらの記者連の中で最年少であるため「日日の小僧さん」と呼ばれていた綺堂は目をかけられていた。やまと新聞が東京日日新聞の出先みたいな関係もあったためらしい。江戸のこと、芝居のことを多く教えてもらった。なお、條野採菊は、日本画家の鏑木清方の父で、清方とも綺堂は知合いで、芝居見物にも行く仲であった(同書232頁)。

明治も30年頃になると、新聞劇評は、読み物としても面白く、各社が競っていたらしい。朝日の饗庭篁村として劇評を書いても、読者からは「竹の屋主人」を出せと苦情が来たという笑い話もある。


◆若葉会による文士劇

「若葉会」というのは、新聞劇評家たちの集まりである。そのメンバーは、岡本綺堂(東京日日新聞)、右田寅彦・栗島狭衣(いづれも東京朝日新聞)、岡鬼太郎(おにたろう)・岡村柿紅(二六新聞)、鹿島桜巷(報知新聞)、井坂梅雪(時事新報)、松本当四郎(人民新聞)、杉贋阿弥(がんあみ)(毎日新聞)、小出緑水(演芸通信)らであった。

このメンバーで、日頃批評の対象としている歌舞伎や芝居を素人である文士たちが自ら演ってみようという試みであった。

明治38年5月11日、若葉会による、第1回文士劇が歌舞伎座で開催された。

第1回目の公演 明治38年5月11日 歌舞伎座

岡本綺堂作『天目山』、『忠臣蔵(喧嘩場)』、森鴎外作『日蓮上人辻説法』、舞踊『保名』であった。


岡本綺堂が発案

誰が言い出したのか。これについては、右田寅彦(当時東京朝日新聞の記者)の談話(『演芸画報』所掲)によると、文士劇を提案したのは岡本綺堂その人であった。そのいきさつはこうである――

     この若葉会の起るに就ては、一つの原因があったのです。当時各新聞社連合の新聞記者(軟派を意味す)懇親会というのがあって、各社から交るがわる幹事を撰んでいましたが、ある時岡本綺堂君と私とが幹事に撰ばれた事がありましたが、その時岡本君が「今まで度々懇親会をやる中に杵屋兄弟の長唄だとか何だとか、屹と一くさりづつ余興をやらしたものだが、爾来に、寧そ我々の仲間で芝居を演ったら何うだろう」と云はれたので「そのれが可かろうと」私も賛成したのですが、その後この懇親会は自ら立消となって、せっかくの計画も実行する事が出来なくなって了いましたが、これが源で、芝居を演ろうといふ事が自然と頭に泌込んだのでした。
     その中に、自然と時を見て会合したのが、岡鬼太郎、杉贋阿彌、岡本綺堂、松本芝声(故人に成られた)、伊阪梅雪、鹿島桜巷、小川緑水氏と私などで、今度は愈々我々で芝居をやろうという事に成った。サァ場所は何所だ何所が可かろうという話しになって、元来が不馴れな事ゆえ余り大きな舞台も危かしい感じも起り、と云って狭くては演り切れまいとの考へも起りましたが、その頃は今のように諸方に貸席もなく、差当り両国の伊勢平が好かろうと、態々《わざわざ》伊勢平へ舞台の様子を見に行った者もありましたが、何分狭過ぎてアレでは可けないと、こんな評議をしている中、この談を聞いて歌舞伎座で貸さうという事になりましたので、是れでは余り大き過ぎるとは思いましたが何うせやる位ならと、とうとう歌舞伎座で演じる事に決しました。
     さあ斯う成ると諸君の意気込みは大したものです。のるか反るか、褒められるか笑はれるか、何処まで行くものか一番やつつけろというので、狂言名題にも昔風の酒落気は入れない事に成りましたが、私が三段目のチョボを受持ったり、松本君と鹿島君が山台に并《なら》んで「保名」を語る事になったなどは、矢張り素人狂言の芸尽くし的の気が残っていました。而して稽古にというと小出君の家でやったり、私の宅でやったりして、偖《さて》愈々《いよいよ》という時に成って、歌舞伎座の三階で稽古をしましたが、その時に何時も新十郎が参考人として来ていました。
     その時、両君の云われるには「岡本綺堂君が急に差支へが出来て出勤されぬ事になったが、天目山の勝頼の方は私が受ける事に当人と話して来たが、進士太郎の方がないが何うしたものだろう」と、爰《ここ》に又一場の評議が起りましたが、結局辻説法には私の身体が明いているので、進士太郎を私に持って来られました。ところが、私には小宮山内膳という大役があり、その上チョボの方を急稽古の真最中でしたから「これに然るべき人物を私が連れて来るから、何うか私の連れて来る者で納まって貰いたいものですが」と頼んだのです。ところがその日は開場当日の二日前で、諸君も詮方なしに「それでは右田君に一任する」という事になりました。
     それから私が翌日稽古に連れて行ったのが栗島狭衣君でした。栗島君はその時分は江見さん一派の素人相撲の大関で、そのれを私が芝居の方に説込んだ時には「自分にやる気は充分あるが、稽古に間がないから」と二の足を踏んだのでした。それを「なに訳はない。君なら必と出来る」とその侭連れ込んで行くと大勢の人も栗島君のために幾度でも稽古を繰返してやりました。ところが案外に旨くゆくので、私も人を見る明があったと、この処大に得意でした。但し相撲から芝居は可笑しいですねえ。
     ……無事芽出度く打出して(初日を)一同連立って帰って行く、その途中が可笑しかったです。「君は落着いていたね」「いやそういう君が中々落着いていた」というような工合に、自分の胸ドキドキであったに引較べて互いに人を見るとそのの人ばかりが落着いているように見えましたので、人羨みばかりしていました。しかし私はそう思いました。一同白粉や砥の粉を塗っていたから、お互いにどんな顔色をしたか分らないでいたようなものの、若しこれが素顔であったなら、一同真蒼であっただろうと思いました。栗島さんなどは斯う云っていました。「僕に稽古も足りないという後れがある上に、初めて芝居をするのだから、胸ドキドキは人一倍で、今朝家を出る時変な心持がしたし、それから出て来て、歌舞伎座の屋の棟を見た時ハツと思う。衣裳を着けられている中に又変な心持ちがして、愈々《いよいよ》舞台に出るという段になって又ハッとした」と何でもその変な心持ちとハッとしたのは幾度であったとか云って勘定していました。ハハハハハ。
     この若葉会の成立する時、会の名に就いて種々やかましい議論もありまして演劇研究会というような名も提出せられましたが、岡君が最も軟い名を好まれて、私のところへ頻繁に電話で相談せられた結果、ついにその時の時候に因んで謂わば私が名付け親で「若葉会」と命々しました。これには別に他に深い意味も何もなかったのでした。

        ―秋庭太郎・東都明治演劇史(中西書房、1937年)434−435頁より転載―
(なお、底文には段落がないが、便宜上、段落を付けた。「其」→「その」、「或」→「ある」など現代仮名遣いに改めた)

上の引用にもあるように、綺堂は、急用ができたらしく、役を降りている。何の急用事であったかはわからない。
調べたところでは、東京日日新聞社の方から、出演するのを止められたらしい。職務命令というわけだろうが、どんな理由なのかはわからない。(2001年4月16日追加)

岡鬼太郎とは、初作の『金鯱噂高浪』での共著者であり、歌舞伎界の旧弊のために苦労した仲間でもある。岡鬼太郎の役者としての演技は、上の評でもそうだが、つぎに引用の劇評でも、すこぶる評判がいい。才能があったのだろう。また、所属の新聞社こそ違え(のちに、東京毎日新聞で一緒になるが)、若葉会での自作と、役者としての演技、演出を通じて、綺堂との関係は深まって行ったものと考えられる。後の「綺堂・作、鬼太郎・演出、左団次(2世)・演技」というチーム(ブレインと呼んでもよいかもしれない)が形成される、一方の柱であるといえる。


そこには、何があったのか。演劇改良の実践か

当時の雰囲気がどのようなものであったか、興味深いところであるが、これを伝えるつぎの記事がある。

「劇壇秘史無線電話」より−

     柿紅君の景氏はマア一通で梅雪君の相模は神妙に演て居られたとでも云ひましょうか、それから当四郎君の伍作は得意らしく見え、鬼太郎君の土屋昌恒は一寸出来されていました。二幕目同君の勝頼は中々好くしておられ、役者には一寸真似の出来ない処があった様に思われました。柿紅君の景氏はさしたることはなく、梅雪君の相模は前同様で本人も余程迷惑らしい風が見え、当四郎君の伍作は味に演られました。寅彦君の小宮山内膳は中々商売人じみていてことに調子の好いのは幕内の者も感服をしているようでしたし、緑水君の辻宗勝も立派でしたが、役々について強いて非難を云へば、勝頼の髭が薄かったのと、右の肩が始終下り勝になるのが目に立ち、相模の方が上に着てみる壷織が高尚過ぎて損の気でしたが、しかしとにかく、皆さんは学者を廃めて役者にお残りになすった方が好いという位な出来でした
    ▲なるほど、私はもっと面白くこのお話が聞けると思いましたら割合に面白くありませんね
    ●左様さ、マア露骨に云へば拙い方が皆無で旨い方が少ないというような芝居ですからそれほどに話の感じないのは無理はありません
    ▲その次は
    ●三段目の喧嘩場です。先づ第一の贋阿彌君の師直は強いて難をいったら総体に小作というのが瑕で科(しな)は実に旨いものでした
    ▲そうして若狭之助はどうでした
    ●これは緑水君が引受られ、前幕の辻宗勝よりは数等勝っていたようです。それから柿紅君の判官これも上出来でした。そうして梅雪君の伴内は無類飛切りです。それに当四郎君の加古川本蔵、これは御苦労と申す丈でしたが、梶川與惣兵衛でなく本名にしたのは流石じゃアありませんか
    ▲実にさうです。その芝居はぜひ見とうございましたなア、それから………
    ●森鴎外博士が昨年戦地へ出張される前に書かれた日蓮の辻説法です
    ▲日蓮は誰方が御引受でした
    ●それは二六の岡君で、なかなか旨いものでした。もっとも白の意味を得心の往く様に.云わなければならない難役ですから、中々に難しかろうと思っていましたが、十分に応えさせたのは敬服です。そうして報知の桜巷君の日朗は訳なしのこん/\ちき、梅雪君の放下僧の踊は十分演って退けました
    ▲舞台で踊ったのですか
    ●もちろんです
    ▲なかなか新聞記者というものは胆力の好いものですねえ
    ●それから贋阿彌君の禅僧、これはちょと出るだけですが、日蓮を下目にみるという役で、それやア実に旨いもので、松助以上でした。
    ▲ヘエ先には(初演は歌舞伎座)松助が演たのですか
    ●そうです。朝日の栗島狭衣君の進士太郎これは急稽古で舞台に現れたそうですが、少しもそうは見えませんで、たびたび稽古をした人たちに優るとも劣りはしない様でした
    ▲ヘェ器用なものですなア
    ●当四郎君の大学三郎一通り、柿紅君が引受けられた大学三郎の娘妙、これは作者が舞台面を賑やかにするため拵(こしら)えた役で、先は梅幸が引受けていましたが、その梅幸とあまり隔りがなく、ある点においては梅幸以上だというくらいな出来でした。サアこれからは大切の保名の物狂です。なかなかお出来でした。それに六代目の菊五郎と八十助の二人が後見に舞台へ出たのです
    ▲アアそうですか。そう褒めてばかり居られては、さっぱり面白くありませんねえ、悪くいえばどんな処です
    ●左様さ体は踊って居ましたが、目は踊らなかったように思われました
    ▲なるほどそうでしょう。保名といふやつは根が気違ですから、半分は目で見せなければならない役なので、貴方が其処に気のついたのは感心しました。なかなか目まで一緒に踊るといふなア無理な註文ですからね、それについて何か面白い話はありませんか
    ●田村のいうには素人の初舞台で皆彼位に演て退けることが出来れば役者はよほど不器用なもので………もっとも素人とは申しながら文筆のある人達ではあるし、つねに芝居の数を見ているから彼位に演れたのだらう、薪屋の久兵衛が演ったのとは一緒にならないから。それに真の改良芝居の俳優はこういう処から出るだろうと云いました。

 (なお、原文を現代仮名遣いに改めたところがある。)

森鴎外の賞賛 ―綺堂作品と文士劇の評判

 いわば同業者なので、劇評記者もあまり悪くは書かないだろうという推測は成り立つが、この若葉会の素人芝居について、いくつかの劇評を拾ってみよう。

 まず、若葉会を観劇した饗庭篁村(1855−1922)は、つぎの感想を述べている。饗庭は、明治のこの頃には東京朝日新聞の劇評記者で、「竹の屋主人」とも号していた。

「若葉会の演劇は一面には興奮剤とし、一面には殺菌剤として催されしものなるべし。猥雑野卑のことを、しかも拙なく演ずる者の為には殺菌剤とも、在物に詰らぬ改良を加へて入さへあればと其日暮しの旧式俳優には興奮剤とし、応病与薬、口で云つても筆に書いてもまだるきより、此劇剤を投じられしならん」(秋庭・前掲書427頁より)

 つぎに、当時日露戦争で、戦地にあった森鴎外は、自作が演ぜられたこともあるだろうが、綺堂の『天目山』を誉めたという。当時の文壇にあって、鴎外から賞賛されることはとくにまだ無名といってよい綺堂などの若い文士にあったは名誉なことだったに違いない。

このように、各素人俳優の演技の優れていたこと、またこの文士劇が当時の歌舞伎界や俳優等に与えた刺戟は大きなものがあったという。


若葉会の第二回公演 明治39年11月9日、歌舞伎座

初回に出演したメンバーに加え、永井鳳仙が参加して開催された。

狂言は、第一が、杉贋阿彌作の『内海落』、第二が『熊谷陣屋』、第三が、右田寅彦作の『公平天狗問答』等であったが、とくに好評を博したのは杉贋阿彌の熊谷であった。


 綺堂 俳優鑑札を申請

 上の第二回公演に先立って、綺堂はつぎの行動を起こしている。岡本綺堂が本気で歌舞伎の再興のために立ち上がらんとの決意を示した記事が見つかったので、つぎに採録します。寡聞にして、この新聞記事に言及したものはこれまで知りませんでした。新聞記者綺堂自身が新聞記事の種になったのも、劇作家綺堂としての記事を除けば、あまりないことではないでしょうか。

 明治36年までに団十郎と菊五郎は相次いで死去し、歌舞伎界はさびしいものになっていたといいます。また、新派劇である書生(壮士)芝居の興隆は、本郷座や真砂座を中心として、目を見張るものがありました。おそらく、芝居は新劇という流行振りだったのでしょう。

 そのような中、東京日日新聞社の記者である綺堂は、仕事の傍ら戯曲を書き続けながらも発表の機会はほとんどありません。むなしく行李の中に手作りで製本されたまま眠っていた状態でした。明治37年に日露戦争が勃発すると、これに新聞記者として従軍した若き綺堂は、屍山血河、いつ死ぬとも限らない、否死ぬのが必然である戦争の中、満州の遼東半島で、これまた名優と謳われた左団次の訃報を、内地から遅れて届いた新聞記事の中に見つけます。「あゝ、左団次もとうとう死んだか」と、嘆息とともに述懐したのもこのときでした。  生きて帰ったら、なんとかして芝居作家としての仕事に専念したいと思ったことでしょう。そして、旧劇・歌舞伎の衰微をなんとかして押しとどめ、再興したいと考えたのでしょう。その形が、同好の若い記者たちで計画した文士劇だったのです。岡本綺堂としては、これを成功させるために、俳優免許の登録申請という、なんとも積極的な行動をとったのでした。

 さる文章の中には、舞台に立つには俳優免許が必要だということが書いてあったのでしたが、これを裏付ける直接的な証拠が出てきたのには、驚きでした。報知新聞のこの記事を書いた記者がだれか推測つきませんが、おそらく日日の綺堂とは旧知の間柄だった報知新聞の鹿島桜巷だったかもしれません。記事が綺堂個人に着目した個別的で、やや身内的であるように思えます。(2002/05/27 記)

  報知新聞 明治39年11月15日付

岡本綺堂が九等俳優
  頭取の連印なしで許可

 身を以て劇界刷新の衝に當らんとし新たに同志を結合し、來月一日より一週間明治座に於て開演する文士演劇の一員たる岡本綺堂氏は、率先して本月七日原籍所在の麹町區役所へ俳優開業屆を出し九等鑑札を下されしが、これまで新たに俳優開業屆を爲すには俳優組合頭取の連印を要したるも、文士演劇の俳優諸氏は其の組合によらずして別に一旗幟を樹つる者なれは、頭取の連印を潔しとせず茲に連印なしにて出願せしが、同區役所も便宜を與へて直ちに下附さるゝ事となれし、開業屆は左の如し。
    開業御屆
九等俳優
  藝名、綺堂
右鑑札御交附附相成度候也
 但し頭取は無之候
右及御屆候也
 明治丗九年十一月七日
   東京市麹町區元園町一丁目十九番地東京府平民
                   岡本 敬二
              明治五年十月十五日生
 因に俳優の等級は一等より九等迄にして、九等は最下級に屬するも、其技藝の等級とは見るべからず、さて九等の税金は年税1圓五十錢にして、それに市税、特別税の附加税を合わせて半期一圓二十錢を要す、一等俳優の本税は年税百八十圓なれば、九等の一圓五十錢に比すれば百の一弱に相當す。


 つぎの「東京毎日新聞演劇会」での本格的歌舞伎俳優として舞台に立つために、俳優鑑札を取得する必要があったみたいですね。弟子の大村さんだったか、額田さんだったかに、かのシェークスピアも若い頃は俳優志願だった、というようなことを述べています。また、「平民」としているのは御家人出の岡本家としてはおかしいのですが、おそらく武家であっても「士族」として登録しなかった例も多く、何らかの事情があったためと考えられます。


綺堂、芝居のために「毎日」へ転職

綺堂としては、やはり芝居が続けたかったらしく、東京日日新聞を辞職して、東京毎日新聞へ移った。これは毎日新聞の記者でないと演劇会に入れないからである。時に綺堂、35歳である。


若葉会から東京毎日新聞演劇会へ

この若葉会は上の2回の公演で終了したが、若葉会の後身とも見られるものが、政論家島田三郎を主宰者とした『東京毎日新聞』の「演劇会」であった。この会も劇界刷新を意気込んでおり、出演の文士たちは俳優の鑑札を受け、入場料をもとり、普通興行に等しい大々的な催しであった。これは、6回の公演が足掛け3年にもおよぶというスケールのものであった。

第一回東京毎日新聞演劇会 明治39年12月1日から5日間、明治座で開催

俳優は何れも東京毎日新聞社員である、杉、岡、栗島、岡本の4人が中心となった。なお、岡、栗島、岡本の3人は、同社の社員でなければ同演劇会に参加できなかったために新らたに『東京毎日新聞』に入社したのである。その他に、市川新十郎、市川九女八等が参加した。

狂言は、第一が、岡本綺堂作『新羅(しんら)三郎』
配役は、栗島狭衣の新羅三郎、岡鬼太郎の参議良賢、岡本綺堂の「豊(ぶん)の時秋」、九女八の小式部、新十郎の大納言師輔ほか。
第二が、『熊谷陣屋』(杉の熊谷、九女八の相模、水田濟月女の藤の方、市川登升の義経、市川麗重の梶原、市川桃太郎の軍次、新十郎の彌陀六)

第三が、森鴎外作『日蓮上人辻説法』
岡鬼太郎の日蓮上人、岡本綺堂の進士太郎、新十郎の禅僧、市川錦吾の日朗、栗島の大学三郎、水田濟月女の娘妙。

第四が仲野徹軒訳『放心家』
栗島の渦野少佐、水田濟月女の令嬢品子、杉の粒良大尉、市川登升の子息輕夫らであった。

岡鬼太郎の日蓮聖人が時に好評であったという。

 この第1回の公演については、朝日新聞社の、竹の屋主人(饗庭篁村)の劇評がある。「文士演劇会(一)(二)」東京朝日新聞明治39年12月4日(六)(下の画像)、同年12月5日(四)―下記の引用は、前者(一)から―

bunshi101b.jpg狭衣氏の新羅《しんら》三郎烏帽子鎧黒の馬に乗り弓を持ち綺堂氏の時秋《ときあき》袴を括りあげ馬の口を取りての見得《みえ》立派にて大喝采、見る目清《すが》/\しく気の勇む心地したり」

と評した。当時の劇評家の権威であった竹の屋主人による限りでは、綺堂の演技もなかなかのものだったといえようか。下記の劇評も参照。


第二回公演、明治40年7月4日から5日間、新富座で興行

俳優は従前の人々の他に.田村西男、小口紫水、高梨俵堂、荒川重秀、葛城文子等が参加。出し物の第一が、高安月郊作『吉田寅次郎』、第二が岡本綺堂作『阿新丸』、第三が『孝子屋』、第四が橋本青雨作『爪ニツ』。

東京朝日新聞明治40年7月5日付の劇評には、

「綺堂氏の三郎資氏も場数を踏まれたるだけに落付も出来調子も冴えて上評なり。鬼太郎氏の山城入道は凝性の子(し)の事とて行届いてソツのなかりしは嬉しかりき……」とある。

余談として、明治40年といわれてもピンとこないのだが、同年7月には、夏目漱石の『虞美人草』が「東京朝日新聞」での連載がすでに始まっていた時期である。またこれにあやかった「虞美人草浴衣」というのが売り出され、人気だったらしい。

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第三回公演、明治40年8月17日から3日間、横濱羽衣座で開演

第四回公演、明治40年10月23日より東京座
出し物は、第一が、岡本綺堂作の『十津川戦記』、第二『実盛物語』、第三が、山崎紫紅作『難破柴田』、第四は、栗島狭衣作『朝飯前』(喜劇)であった。

第五回公演、明治41年4月1日から10日間、新富座
番組は第一が、岡本綺堂作『由井正雪」、第二が『盛綱陣屋』、第三が山崎紫紅作『信玄最後』、第四が栗島狭衣作『死神』等であった。

同じくその7日には新聞社とは別に文士劇喜劇大会と称して明治座に開催。
狂言は、第一が、栗島狭衣作『山の番人』、第二が、田村酉男作『美顔術』、第三が、尾崎紅葉原作『七十二文命の安売』、第四が、栗島狭衣作『大恐縮』等であった。狭衣、西男、文子が中心となって演じた。

第六回公演、明治41年12月1日から5日間、東京座
座員は従来の一派に早稻田の水口薇陽、佐々素影、廣田虚舟、佐々木旭水らが新たに加入出演した。

狂言は、第一が岡本綺堂作『桶』、第二が『弁慶上使』、第三、山崎紫紅作『その夜の石田』、第四、水口薇陽作『誕生日』等であった。また永井鳳仙、鳥居清忠、小出緑水一派の演劇同好会と称する文士劇が同じく十二月に催された。


 文士劇といういわば素人芝居の演技は、新旧俳優と比較しても遜色ないものであったと評価されている。
 このように、6回におよぶ公演を続けて来た東京毎日新聞演劇会も、同新聞社の経営者の更迭により自然解消したため、この文士劇も消滅した。しかし、杉贋阿彌、水口薇陽、岡鬼太郎、荒川重秀等が発起人となって文士劇協会を組織したが、間もなく解散した。

秋庭は、若葉会の素人芝居をつぎのように評している。

「文士劇滅亡の原因は共の公演を純然たる興行として演じた結果であらうと想はれる。文士劇なるものが誕生した当初の趣旨から考ふれば、あくまで其の公演は営利を離れてなさねばならなかった筈である。云はゞ純然たる素人芝居の格で続くべきであった。畢竟するに打算を離れて演ずべきであった。営業化したことが文士劇の亡んだ最大の原因であったと想ふ。東京毎日新聞の演劇会が新聞社に利用されたるが如きも滅亡をはやめた一原因であった。該新聞社に属する文士でなければその中心となって活動することが出来なかったといふが如きは甚だ遺憾事であった。若葉会が旗挙げされた当初は、劇場も概ね劇場主の好意づくで無料で貸して貰へた……」 ―秋庭・前掲書428−29頁。


自作の実験としての文士劇

綺堂にとって、約3年にわたる文士劇の時代はどのような意味を持ったかを探っている。注目すべきは、新聞劇評記者といっても、右田寅彦、栗島狭衣や綺堂など、いくつかの狂言戯曲が彼らの自作を提供していることである。当時の演劇改良など歌舞伎の改善への社会的動きがあったとはいえ、たんなる批評家ではない、彼らの意気込みとレベルの高さを感じる。また、旧知の新聞記者連とはいえ素人の芝居を歌舞伎座他でも上演させてくれるという時代の気分になっていたとも言えるだろう。

俳優としての鑑札をもらったとあるが、おそらく若き綺堂も、本気で芝居役者になろうとまでは思っていなかったであろう。役者が狂言つまり脚本をどのように演じるのか、演出はどうなっているのか、役者と作家の違いは何か、など、後の新歌舞伎作家としての成長に資するものが多かったといえよう。むろん、新聞記者として、日々芝居を桟敷から見ているだけでも多くのことはわかるのであろうが、身をもって演じたところに、頭で考えたこととは異なることも感じたに違いない。

なかでも綺堂が自作の作品のいくつかを、他の記者に較べて多くの作品を、これらの公演で提供しているのも、一つの特徴である。おそらく書き溜めていたものを吐き出したということだろう。また、自分の作品を公開することで作家としての実質的デビューを果たし、また自作の脚本が実際に使えるものかどうかの実験であったとも言えるだろう。その機会として、前後8回に及ぶ文士劇は捉えられるのではなかろうか。
    補注 つぎの評価はこの点を補強するだろう。

    河竹繁俊・日本演劇全史889頁(1959、岩波書店)――
     「…文士の作、ことに岡本綺堂が多くの作を書下し、劇作家としての道をますます推進せしめたことは、後の歌舞伎にとって見過すべからざる事柄であった。」
まだ演劇会による文士劇が続いている頃、明治41年7月6日早朝、時代は動きつつあった。2世左団次の持座である明治座に出勤していた新派の川上音二郎が、汗を拭き拭き、麹町区元園町1丁目19番地の綺堂宅を訪れていた。これは、のちに、綺堂=左団次の連携の契機となった『維新前後』を依頼するためであった。




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