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綺堂作品の舞台

その1: (このページ)
  1.半七親分の住まい 神田三河町界隈
  2.『青蛙堂鬼談』『近代異妖編』が語られる 小石川・切支丹坂

その2:
  3.「白髪鬼」の舞台 四谷・須賀神社
  4.雑司が谷・鬼子母神

その3:(以下、予定)
  5.浅草 浅草寺・雷門 ほか


1.半七親分の住まい 神田三河町界隈

mikawacho.jpg 半七親分は、神田三河町に住んでいた。神田三河町は、現在、内神田1丁目あたりを指すらしい。半七が住んでいたのは、この辺りであると考証されている。左手のビルは一心太助が住んでいたところとも言われており、そこに半七の親分で吉五郎と、その娘のお仙と結婚した半七が住んだとするのである(今井金吾「「半七捕物帳」江戸めぐり」ちくま文庫(1999)96頁)。内神田1丁目5番13とある。

シリーズ第1作の『お文の魂』では、「神田の半七という岡っ引で、その妹は神田の明神下で常磐津の師匠をしている。」とそのデビュー・シーンでは語られている。また言うまでもなく、「彼は江戸時代に於ける隠れたシャアロック・ホームズであった」という結びになってシリーズが予告される形になっている。

御宿稲荷

おんやどではなく、みしゅくと読ませるらしい。内神田1丁目6番にあるが、訪れた時はまだ春先で、白梅が咲いていた。赤い鳥居に白梅はなんとなくビルの谷間でも江戸っぽい風情を感じさせる。このお稲荷は半七捕物帳にも登場する。

mishuku.jpg(吉五郎親分)「おれも朝湯の帰りに覗いて来たが、朝からお稲荷さまは大繁昌だ」  『白蝶怪』

朝湯の帰りだから御宿稲荷からそう遠くないところに半七の住まいがあったことになる。

『白蝶怪』は、後に半七の舅(養父)となる吉五郎親分がまだ32,3と若い頃に活躍する物語である。ただ、『石灯籠』には「吉五郎は酒癖の良くない男であったが、子分たちに対しては親切に面倒を見てくれた。」とある。お酒に関しては、半七は下戸として描いてある。

【交通】JR神田駅から歩いて、15分前後。


2.『青蛙堂鬼談』『近代異妖編』が語られる 小石川・切支丹坂

【交通】地下鉄丸の内線茗荷谷駅から春日通りの播磨坂上を過ぎ、東京都衛生局研修センターと茗谷中学校との間の小道を下る。丸の内線のガード下を抜けて、上り坂に入ると、そこが切支丹坂である。地下鉄茗荷谷駅からせいぜい10−5分ほどで行ける。

kiri_map.jpg 茗谷中学校と東京都衛生局研修センターの間の通りを下る。右の写真の赤いところがその位置で、写真の下方が地下鉄茗荷谷駅方向。この通りは短くて、その先は行止まりに見えるが、すぐにコンクリートの急な石段の坂がある。頂に東京都の案内板があり、この坂は「庚申坂」というのが本当らしい。明治期には切支丹坂と呼ばれてもいたが、誤りとある。そこで、本当の「切支丹坂」を求めて、緑色の鉄棒の手すりを真ん中に設置した庚申坂を下る。坂を降りたところの、丸の内線のガードが見える。このガード下を潜る。入口に痴漢がでますと看板。なるほど、ガード付近には人家がない。いけない!向こうから婦人が来た。私は悪い人じゃありませんし、今はその時間帯ではありませんよ、という顔でなるべく素知らぬ様子で行過ぎる。物雑な看板だ。映画などのローケーションでも時々使われる場所らしい。

小日向1丁目16番地と24番地の間の、これまた急な坂を登る。小日向台地を登るのである。少し登ってゆくと、坂は途中で左にも分岐しているが、こちらではなく、まっすぐ上の方に向かっている方が、目指す切支丹坂である。むろん大型車は通れないほどで、乗用車でも通るなら、つま先だって避けなければならないような狭い小道である。登りきったあたりは、いわゆる閑静な住宅街といった按配である。こんなところでディジカメ出して撮っているのがはばかられる感じだが、日曜日の夕刻では人通りは少なかった。

切支丹坂の由来は、寛永20年(1643)、宣教師ジョセフ・カウロ一行10人が、九州にて捕らえられて、江戸送りされた。この坂の上にあった宗門奉行井上筑後守政重の下屋敷に牢が作られ、ここに入れられたことが坂の由来になっているようである。

kiri_dwn.jpgkirisitan.jpg 写真は、登りと降り。本当の切支丹坂は、先に書いたように、まっすぐの方である。左に分岐している方ではない。樹木が当時とは違うかもしれないが、なんとなく当時(大正時代)もそうであったような雰囲気がある。右側の写真の正面に四角黒く見えるのが、ガード下の道である。

下の写真は、大正11年頃の切支丹坂といわれているものである(「東京市史跡名勝天然記念物写真帖 第1輯」(大正11年刊)より)。上の右側の写真と同じく、坂上から下を撮影したものと見られる。ほぼ綺堂の時代のイメージといえるだろう。撮影は晴れの日のようだが、鬱蒼としているだろうか。見にくいが坂道は石板3列で舗装されているように見えるが、生垣の右側が切支丹屋敷跡である。(6/14/2002 追記)

kirisitanzaka08.jpg 切支丹坂は、綺堂の作品では4つのものに登場するようだ。『近代異妖編』や『青蛙堂鬼談』が物語される、元弁護士の家がここに所在するという設定なっている。雪で、ぬかるみも予想されるせいか、あまり出かけたくないが……というのがなんとなくわかりそうな感じである。交通の便は悪く、当然舗装はなかったし、道の両脇には草木が鬱蒼と茂り、今よりは坂も険しかったのかも知れない。

もう一つは体験的スリラーの紹介として随筆の中でである。自分の体験ではなく、お弟子さんの大村嘉代子さんの話の紹介である。不気味なお婆さんとこの坂で4度も出くわしたという体験話である(岡本綺堂「綺堂夜話」『文芸倶楽部』1928(昭和2)年9月5日号98頁)。

ところで、綺堂の作品での「切支丹坂」とはどちらを言うのだろうか?『青蛙堂鬼談』第1話では、電車を降りて「藤坂」を下ったとある。藤坂は、小日向4丁目3と4の間 にある、春日通りの播磨坂上から茗荷谷へ下る坂をいうものと考えられる。坂下には、由来ともなった、藤寺とも呼ばれる曹洞宗伝明寺がある。また富士坂ともよばれるところからすると、かつてはおそらく富士山が望めたのであろう。

そして、線路を超え、あるいは潜り、切支丹坂を登る。『青蛙堂鬼談』の元となった、青蛙の号を持つ、隠居した元弁護士の自宅が青蛙堂で、その2階の10畳と8畳の2間ぶち抜きで開催された。やはり正しく切支丹坂の方を指している。さて、この家に10数名が集合して語る会が催されたのが、雪が舞い、うっすらと積もっていた3月3日の夕刻である。そのときの物語は、『青蛙堂鬼談』と、その続編である『近代異妖編』としてまとめられた。その後、さらに4月末にも、召集がかけられて、やはり一人一話形式で物語された。それが、『探偵夜話』としてまとめられた。今度は、下座敷の広間で、床の間には白い躑躅が生けてあって、この時は一五・六人が集まったとある(「火薬庫」冒頭部分)。いづれの会合でも、「星崎さん」というのが第一話の口火を切ったことになっている。

では、綺堂はこの坂を登ったことがあるのだろうか?実際には出かけたことがなく、作品の舞台としてだけの場所だったかもしれない。それにしては、青蛙堂鬼談の方では、雪の日の坂道を登る難儀さの描写がリアルであるので、実地だったともいえる。なぜ小石川・切支丹坂を登場させたのだろうか。つぎの点も参考になるかもしれない。この切支丹坂は、田山花袋の『蒲団』にも、また、夏目漱石は『琴のそら音』という作品でも登場させている。

    「…竹早町を横ぎって切支丹坂にかかる。なぜ切支丹坂と云うのか分らないが、この坂も名前に劣らぬ怪しい坂である。……暗闇な坂を下りて、細い谷道を伝って茗荷谷を向へ上って七八町行けば小日向台町の余が家へ帰られるのだが、向へ上がるまでがちと気味がわるい。」
と書いている。漱石にとっても、どうも薄気味悪かったようである。綺堂の作品でも、坂の名前の由来や坂のまわりの雰囲気が、鬼談をするのに好都合だったのだろう。

(補訂正・06/29/2001) 漱石の上の叙述では、竹早町から最初に下る坂が「切支丹坂」となっており、つぎに今度は小日向台地を登ることになっている。これはおかしい。漱石が「切支丹坂」としているのは、実は研修センターと茗台中との間にある「庚申坂」(コンクリートで覆われた階段で鉄製の支柱が取り付けられている)の方である。明治期には、漱石がそうであったように取り違えられていたらしい。私の方も名前に引きずられてしまった。綺堂の方は、今日と同じように捉えているので、間違いはない。

切支丹坂を登りきって、住宅街を一回りすると道路わきの地面に、切支丹坂の案内とともに新渡戸稲造の家もこの近くにあったと案内表示には書かれていた。



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