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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、岡本綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
 円朝ものの芝居なら菊五郎で決まりだが。団十郎も演じていた。落語からの翻案・脚色で黙阿弥は何と言われたか……。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 五 團十郎の圓朝物

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 以上列擧したところに拠ると、大劇場で圓朝物を上演したのは、殆ど五代目菊五郎の一手専賣といふべきである。それは人情話の性質上、すべてが世話狂言式の物であるから、團十郎や左團次の出し物には適しない。もう一つには、菊五郎と違つて團十郎等は、人情話の脚色物などを喜ばなかつた爲でもある。
 併し團十郎等も全く圓朝物に手を着けないわけでもなかつた。左團次は前にも云つた通り、菊五郎の安中草三に附合つて、恒川半三郎の役を勤めてゐる。猶その以前、即ちかの「鹽原多助」「牡丹燈籠」などが菊五郎によつて上演されない頃、明治十九年の新富座一月興行に於て團十郎こ左團次は已に圓朝物を上演してゐるのである。それは「西洋話日本寫繪」といふ六幕十五場の反編で黙阿彌が七十二歳の作である。勿論、黙阿彌一人の筆に成つたのではなく、門下の新七や其水も手傳つたのであらうが、七十二歳にしてこの作あり、その後にも「加賀鳶」「渡邊華山」「花井お梅」その他の長編を續々發表してゐるのを見ても、黙阿彌の老健が思ひやられる。外國の例はしばらく措き、日本でも近松といひ、南北といひ、黙阿彌と云ひ、いづれも筆を執つては老健無比、まことに畏るべきである。
 この「西洋話」は圓朝の「英國孝子傳」を脚色したもので、原作はやはり若林坩藏の速記本として、かの「牡丹燈籠」などと同様、日本紙綴りの分冊として発行されたのである。したがつて番附のカタリの中にも「若林坩藏が速記法にて綴りし絵本を、初席の種に仕組みし新狂言」と記してある。この時代には「速記法」といふ名称が新しく感じられたのであつた。英國の小説を福地櫻痴居士が圓朝に口授し、それに拠つて圓朝が翻案したもので、外國種だけに明治時代の話になつてゐる。その主人公の孝子ジョン・スミスを清水重次郎といふ名で市川小團次が勤めた。小團次は晩年あまり振はなかつたが、その當時は新富座の花形であつた。
 他の役割は春見丈助(團十郎)井生森又作、家根屋清次(左團次)丈助の娘いさ(源之助)重次郎の姉おまき(秀調)で、團十郎の丈助は川越藩の家老である。維新後に上京して宿屋を開業したが、士族の商法で思はしくない。そこ旧藩地の百姓助右衛門が何かの仕入れに三千圓を携へて上京し、旧藩の關係で丈助の宿屋に滞在すると、丈助は助右衛門をぶち殺して三千圓を奪ひ、その死体の始末を友人井生森又作に頼む。團十郎が勤める役だけに、同じ貧乏士族でも筆賣幸兵衛などのやうにじめ/\してゐるのではない。積極的に相手をどし/\ぶち殺して、その當時では大金といふべき三千圓を着服して涼しい顔をしてゐる。  その友人の又作なる者も同じく貧乏士族であるが、これも金になるなら何でも引受けると云つて、助右衛門の死麗を行李詰にして人力車に積み込み、上州沼田在の川に捨てる。その車を挽いて行つた車夫が怪しんで強請りかけると、又作はおどろかず、車の蹴込みの板を取つて車夫をぶち殺して立去る。揃ひも揃つてきびくしてゐるのはさすがに團十郎と左團次の芝居で、センチメンタリズムなどは微塵もなく、いづれも徹底したものである。又作はそれを種にして、丈助の家へたび/\無心に來るので、丈助は面倒になつて、これをも殺してしまふのである。
 こんな話ばかりでは人情話どころか、不人情話と云ふべきであるが、さきに殺された助右衛門の娘おまきと伜重次郎、この姉弟が父のかたきを尋ねる苦心談があり、結局は丈助が前非を悔いて切腹し、めでたしくに終ることになつてゐる。新富座でどうしてこんな物を上演することになつたのか、私はその事情を知らないが、圓朝物の速記本が流行するので、その脚色を思ひ付いたのであらう。さりとて「牡丹燈籠」「鹽原多助」のたぐひはこの一座に不向きであるので、團十郎や左團次に出來さうな物といふ註文から、この「西洋話」が選抜されたものらしい。
 前年以來、新富座は兎角に不入り續きであつたので、團十郎は一番目に石川五右衛門、中幕に「八陣」の加藤、二番目が「西洋話」の丈助を勤め、大切浄瑠璃に「かつぽれ」を踊るといふ大勉強に、先づ相當の成績を収めたが、二番目の圓朝物は好評でなかつた。それでも十年後の明治二十九年十一月、明治座で再演された。役割は井生森又作、家根屋清次(左團次)春見丈助(権十郎)娘おいさ(莚女〕清水重次郎(米藏)姉おまき(秀調)で、左團次と秀調が初演以來の持役である爲に、この狂言が選抜されたらしいが、その後どこの大劇場でも重ねて上演しないので、圓朝物の中でも忘れられた物の一つとなつた。
 私は餘りに多く圓朝を語り過ぎた觀があるが、なんと云つても圓朝が明治時代における落語界の大立者(おほだてもの)で、劇方面にも最も關係が多いのであるから已むを得ない。これから転じて他の落語講談の舞台との關係を説くのであるが、これは非常に範圍が廣い。江戸時代には小説作者と狂言作者との間に一種の不文律があつて、非常に大当をとつた小説は格別、普通は小説を劇化しない事になつてゐた。互ひに相侵さざるの意であつたらしい。而も天保以後にはその慣例がだんだんに頽れて來た。それと同時に、講談や人情話を脚色することも流行して來た。黙阿彌が二代目新七の頃、仮名垣魯文と共に葺屋町の寄席へ行つたことがある。そのとき高坐に上つて玉屋榮次(二代目狂訓亭と自稱してゐた。)が聽衆に向つてこんな事を云つた。
「わたくし共の話をお聽きになるのは、お笑ひの爲ばかりでなく、色々とお爲になることがございます。現に今晩も狂言作者で名高い河竹其水(黙阿彌の俳名)さん、戯作で賣出しの鈍亭魯文先生なぞがお見えになつて居ります。この先生方もわたくし共の話を聽いて、御商賣の種になさいますので……。」
 彼は黙阿彌と魯文の坐つてゐる方を見ながら云つたので、他の聽衆も一度に二人を見返ると、魯文はにや[「にや」に傍点]/\笑つてゐた。黙阿彌はむつ[「むつ」に傍点]として起つて帰つた。こゝにも魯文と黙阿彌の性格がよく現はれてゐるやうに思はれる。高坐の上でさういふ形式の自己宣伝を試みるのは穏当でないが、榮次も無根のことをロ走つたのでは無い。實際その當時の戯作者や狂言作者が寄席の高坐から種々の材料を攝取してゐたのは、爭 ひがたき事實であつた。唯その人情話や講談のたぐひを小説化し又は戯曲化する場合に、どれだけ自己の創意を加へるかは、その作家の技倆如何に因るのであつた。黙阿彌などの作には自己の創意が多量に加はつてゐるのが多い。そんなわけであるから、江戸末期から明治の初年に亙る各種の世話狂言について、一々その出所を寄席の高坐に求めることになると、恐らくその多きに堪へないであらう。



底本:岡本綺堂 歌舞伎談義 青蛙房
   1957年 発行
入力:和井府 清十郎
公開:2004年1月28日




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