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どこがすごいの?! 団菊左 ―綺堂登場の時代と背景




     もくじ
    1.市川団十郎(9世)
     1−1.第一期活歴劇 依田学海との接近
     1−2.第二期活歴劇 福地桜痴との連携
     1−3.明治の黄金時代 「暫」「助六」
    2.尾上菊五郎(5世)
    3.市川左団次(初世)
    4.団菊左ばかりではない、四代目中村芝翫

団十郎といえば知らない者はいない伝説的名優である。伝説として聞くだけでは満足しない、また、その団十郎がいた明治歌舞伎の黄金時代を知らない、綺堂事物としては、彼のどこがどのようにすごかったのかが知りたい。

同時代にいなかった者が、今日に伝えられる彼の写真や絵はともかく、演技の映像的資料もないこの時代を描き出すことはとても不可能だが、せめてその足跡や輪郭なりとも求めてみようという次第です。そうすることが、「ポスト団菊左」ともいえる、来るべき新歌舞伎、「綺堂時代」を探る上では重要ではと考えた。

明治初年には、市川団蔵、坂東亀蔵(いずれも69歳)、関三十郎(64歳)、中村仲蔵(60歳)、女形では尾上菊次郎(55歳)、市川新車(48歳、のち門之助)などがまだ健在であった。若手では、坂東彦三郎、中村芝翫(5世歌右衛門の養父)などがおり、(9世)団十郎や(5世)菊五郎の先輩格で存在していた。団十郎(当時30−1歳くらい)や菊五郎(当時26−7歳)と同年輩では、沢村訥升、大谷友右衛門、市川九蔵(のち団蔵)、女形では、岩井半四郎、坂東三津五郎、沢村田之助(訥升の弟)などが人気役者であった。

1.市川団十郎 (9世)

履歴・修業

7代目団十郎の実子として生まれる。直ちに、河原崎座の座主である6世河原崎権之助の養子となる。のち7世権之助を名乗った。養父の権之助は、幼時から厳しく芸を仕込んだ。舞踊、長唄、三味線、琴、茶の湯、書画、漢学などである。

河原崎権十郎時代は、江戸末期、慶応4・明治元年5月の上野・彰義隊の戦の頃である。綺堂の作品「権十郎の芝居」にも出てくるように、羽左衛門(のちの菊五郎)や田之助等に比べると、若い頃は芝居はあまりうまくはなかったようだ。ただ、「そのマスクは目も鼻も口も大きく、ことにその眼は市川家代々の「にらみ」に適した威力をもっていた。朗々たる音声、それに柔軟な肢体を備えていた」(河竹繁俊・日本演劇全史794頁)など役者としての資質には恵まれていた。面長で、目は大きい。

明治2年春、若手の俳優が三座の座頭になって、歌舞伎界も若返った。訥升が守田座、菊五郎(当時27歳)が中村座、権十郎改め権之助(後の9世団十郎、当時32歳)が市村座であった。
春興行は、中村座が5世菊五郎の「鼠小僧」、市村座が権之助の「加賀騒動」、中幕「勧進帳」(権之助の弁慶)であった。

桜痴居士福地源一郎と団十郎(当時は、河原崎権十郎)とが知りあったのが、江戸末期であるという。洋行した経験のある福地に西洋劇の話を聞いてから、権十郎の技芸・芝居が写実を旨とするようになったという(榎本破笠「桜痴居士と団十郎」、秋庭上54頁)。西洋劇の写実風が権十郎に影響を与え、これが後に、団十郎の活歴劇志向への萌芽となったともいえよう。

明治7(1874)年、9世市川団十郎を襲名した。
明治10年4月 新富座開場 いわゆる新富座時代始まる。

1−1.「活歴」時代 第一期 明治10年代

活歴とは、団十郎自身がその意図に基づいて熱心に演じた史劇(歴史劇)ものを指す。明治10年代の終わりに一旦下火となったが、20年代に入り、再び福地桜痴との連携や歌舞伎座の新設などで展開したが、明治25・6年頃になると観客に飽きられて衰退したとされる。要するに、活歴時代は、ほとんど評判は良くなく、かつ短い。(なお、「活歴第一期」とか「第二期」とかは、活歴に関する演劇史方面では用いられないのだが、あえて時期を分ける便宜としてここでは用いる。)

活歴劇への傾斜は、どうも一般に論じられているところでは、1つには、団十郎自身の傾向が、たとえば幼少の頃、土佐派の絵を習った経験などから史実重視また貴族趣味があったためといわれている。また、ブレーンともいえる求古会という取り巻きを持っていた。2つには、外的なもので、当時の演劇改良運動の影響でもあったと思われる。守田勘弥の西洋かぶれ、後に触れる依田学海ら貴顕官との付き合い、福地源一郎(桜痴)の西洋演劇の知識などが作用したものと思われる。


ブレーンとしての求古会

求古会は、もともと団十郎の個人的な集まりであった。有職故実を研究、指導する目的であった。画家や劇通、学識経験者などが集められた。柏木探古、依田学海、関根只誠、松岡明義、岡本半渓、川辺花陵など10数名がいたという(河竹繁俊・全史799頁には詳しく会員が挙げられている。)。明治16年からは毎月会合し、自分の芝居に招待した。また会が消滅した後も、当時の会員を自分の芝居に招待し続けたという。「岡本半渓」というが、わが岡本綺堂の父であることはいうまでもない。


守田勘弥の西洋かぶれ

明治11年4月28日の会談

はじめの頃は、政府側の書記官として、演劇改良の趣旨を伝える側にあった。新富座舞台開きの一と月前には、書記官として、松田道之書記官(のち東京府知事)と相談して、4月28日に四谷鉄砲坂の松田邸へ、勘弥、団十郎、菊五郎、宗十郎、仲蔵といった当時の著名な俳優らを招き、参議伊藤博文、中井弘、沖守固等を紹介し、演劇改良についての政府顕官らの意見開陳が行われたという。演劇・歌舞伎の向上や新政府の演劇政策についての考えを実行に移すための集まりだといえよう。勘弥の顕官たちへの接近が始まるのもこの頃である。

明治11年6月 新富座開場

座主の守田勘弥の、移転した新しい新富座が落成した。それまでの浅草猿若町から新富町へ移転したのは勘弥の先見の明であった。市川団十郎はじめ河竹新七(黙阿弥)も劇場側の出席者全員がフロックコートだった。式辞を読んだのは、団十郎であり、福地桜痴の手になるものであったという。


演劇改良会

明治18年8月に創立された。メンバーは、末松謙澄、伊藤博文、井上馨それに依田学海など、当時の政官界の主流が参加していることに注目してよい。

鹿鳴館が西洋舞踏会とすれば、演劇改良会は、歌舞伎の西洋化(欧化)であり、貴官顕紳たる当時の上流・新興階級のための和風芝居(演劇)の鹿鳴館化つまり、社交機関化でもあったといえるだろう(河竹繁俊・全史813頁)。歌舞伎界の方でも、当時の為政者層と結び付いて演劇を行うためのメリットもあったのである。

そして、改良会の意向に沿う演劇の基本的な志向とは、反猥褻・卑俗、歴史重視、写実主義であったといわれる。

明治21年4月末、天覧歌舞伎

演劇改良会の理念(?)の総仕上げとなったのは、天覧劇である。すでに相撲については、明治5年(於、浜離宮)に天覧があったという。
4月20日には、伊藤博文首相官邸で、仮面舞踏会が催されていた。
4月26日、27日、28日、29日の4日間、麻布鳥居坂の外務大臣井上馨伯邸で、末松謙澄の総指揮の下に、団十郎、菊五郎、左団次ら出演し、守田勘弥が幕内主任を務めた。歌舞伎の名声が高まったことはいえるだろう。演劇改良会の影響もあったという。
26日 勧進帳、高時ほか 主賓:天皇
27日 寺子屋、伊勢三郎ほか 主賓:皇后
28日 寺子屋、伊勢三郎ほか 主賓:内外高官
29日 勧進帳、忠臣蔵三、4段目ほか 主賓:皇太后

天覧劇の意義をめぐっては、つぎの指摘がある(要約あり)、
(1)民衆の演芸から、明治政府・上流社会の御用演劇
(2)演劇改良会の年来の主張を実現するもの
(3)俳優個人はいざ知らず、歌舞伎の社会的地位は著しく向上した
(4)全面的ではないにせよ、江戸歌舞伎と断絶した
(5)この後、演劇改良論・活歴などを批判する声が高まり、演劇論が盛んになる
西山松之助・市川団十郎287―88頁(昭和35年9月刊、吉川弘文館)による。


団十郎の演劇改良としての「活歴」劇

仮名垣魯文の"命名"
 明治11年10月、新富座の中幕に、河竹黙阿弥の新作「斎藤実盛」を団十郎が演じたときである。劇評家でもあった魯文が、「かなよみ新聞」明治11年10月20日付で団十郎の史劇を揶揄・批判した用語が「活歴史」であった。これ以降、団十郎の劇風を指す専門用語として用いられる。

明治11年10月15日、新富座の中幕は「二張弓千種重藤(にちやうのゆみちぐさのしげとう)」だったが、
    「……中幕団十郎の白髪の実盛服装は在来りのものならず立烏帽子水干袴は大口と云ふ大渋の好みなりき……」 (村成義編・続々歌舞伎年代記214頁
という具合であって、かなり故実に忠実であって一般観客を驚かせたようだ。
さて、仮名垣魯文はつぎのように評した。
    「○新富座評
    新富座の狂言もいよ/\昨19日二番目の浄瑠璃までのこらず幕数も出揃ひになり殊に中幕の齋藤実盛その外とも相変わらず古実者(こじつしや)の指図(さしづ)とも見え例の烏帽子直垂なぞは何れも其時代の物を撰み活歴史といつても宜(よい)狂言(きようげん)で殊に跡先が世話物のゝ間へギラリとした大時代ゆゑしぶい仕打も目に立ます是では定めてまた〆られませう」
     「かなよみ新聞」明治11年10月20日
「団洲」の号
団十郎が西郷南洲を演じた。仮名垣魯文の命名で、その後、団十郎も号としてこれを用いた。

どのような芝居が活歴劇として所演されたか、それをリストしよう。
脚本團十郎の役名作者脚本参与者上演年月劇場名
西南雲晴東風西郷隆盛、兵糧方、五六蔵、川尻軍医河竹黙阿彌光妙寺三郎、中村弘、伊集院兼常、福地櫻痴明治11年2月新富座
松榮千代田神徳徳川家康、築山御前黙阿彌松田道之、依田學海、松岡明義11年6月新富座
二張弓千種重藤齋藤實盛黙阿彌11年10月新富座
赤松満祐梅白籏赤松入道満祐黙阿彌依田學海12年3月新富座
花洛中山城名所若山大納言福地櫻痴原作黙阿彌脚色櫻痴12年6月新富座
星月夜見聞實記荏柄平太黙阿彌13年6月新富座
茶臼山凱歌陣立眞田幸村、宮内局、家康黙阿彌13年11月新富座
千代誉松山美談大石内藏之助黙阿彌14年4月新富座
張貫筒眞田入城幸村黙阿彌15年3月春木座
二代源氏誉身換藤原仲光黙阿彌求古会々員17年5月新富座
紅葉時平家世盛重盛、西光黙阿彌學海17年11月新富座
北條九代名家功高時、本間山城、義貞黙阿彌學海及求古會々員17年12月猿若座
千歳曽我源氏礎山伏攝待佐藤嗣信、江間小四郎義時、静御前、教信尼黙阿彌18年2月千歳座
老樹曠紅葉直垂齋藤実盛黙阿彌貴顕某18年12月新富座
夢物語盧生容画渡辺崋山黙阿彌藤田茂吉、渡邊小華19年5月新富座
?源氏陸奥日記伊勢三郎黙阿彌演劇改良会々員19年12月新富座
關ケ原軍記家康黙阿彌松本順20年6月新富座

出典:秋葉太郎 日本新劇史上巻30―31頁より(昭和32年、理想社)

リストを一瞥しても分かるように、中心は史劇である。劇場の局外者が狂言・戯曲に容嘴を入れることが多くなっていることである。黙阿弥としてはやりにくかったろう。また、活歴劇とは、生きた歴史というほどの意味であろうが、演劇史では、団十郎が演じた史実に忠実な歴史劇という意味で用いられる。西山によれば、団十郎の高尚癖・故実主義をたたえる賛辞と、非芸術的なものだとする嘲笑との、二つの意味が込められていた(同・市川団十郎278−79頁)。
1.故実者の指図による史実の復元を芝居として演じて見せる。
2.衣装や道具も有職故実に忠実にする
3.芸術的な変形・デフォルメをなるべく行わない
などの特徴を見ることができる。

つぎのようなエピソードがある。

火事見舞いと水見舞い

明治14年新富座「夜討曽我」で、団十郎は五郎を演じた。腹巻に小手脛当、革足袋に武者わらじという鎌倉時代の絵巻物のような装束であった。これに対して、十郎を演じたのは、中村宗十郎である。こちらの方は、旧来のままの出で立ちで、素足に素袍、袴の股立を取り、土踏まずをわらで結んだ純粋の江戸歌舞伎のなりであった。チグハグな曽我兄弟になってしまった。新富座側では両人を説得したようだが、両者相容れず、「弟は火事見舞い、兄は水見舞い」「兄は川へ洗濯に、弟は山へ芝刈りに」などと失笑されたようだ。

損十郎

団十郎の活歴劇の相手は、菊五郎でも左団次でもできないので、新富座では、中村宗十郎をあてた。けれども宗十郎は団十郎の芝居に従わず、団十郎だけがドタバタ動くことになり、不評を買った。このため、団十郎は、菊五郎と左団次のコンビによる芝居に遅れをとり、活歴をやって損ばかりしているので「損十郎」と酷評された。損十郎は宗十郎にもかけた言い方のようだ。(木村錦花・興行師の世界233頁、西山282頁)


評判

団十郎の活歴物は、本人の熱心さとは裏腹に当時の観客への評判は芳しくない。明治10年代末頃になると、いよいよ団十郎の芝居がたびたび不人気、不入りで、中途で閉場を余儀なくされたこともあった。他方では、5世尾上菊五郎の世話物の芝居が当たって好評でもあり、団十郎としても活歴至上主義を改めざるを得なかったようだ。

「カッポレでも踊れ」事件

明治18年11月、「白髪染の実盛」を演じたとき、東京絵入新聞に掲載された投書が「高尚がつているよりカッポレでも踊れ」と酷評したらしい。団十郎は、翌19年1月、実際に大切でカッポレを舞台で踊った(郵便報知新聞明治19年1月24日。西山293頁、河竹繁俊・全史800頁)。

「是迄彼の活歴に倦み疲れたる見物非常の悦びにて好況となりたり」(田村成義編・続々歌舞伎年代記431頁(大正11年11月、市村座発行))。

団十郎の極度の写実・史実主義が、伝統として築き上げられてきた歌舞伎の古典様式を無視ないし破壊するもののように映ったといえるだろう。聴衆・観客と団十郎の演劇観に大いなるギャップがあったことは確かだろう。

このように、明治10年代には一旦は活歴熱も冷めざるを得なかったようだが、20年代に入ると再び手をつけ始めた。

1−2.第二期活歴劇 福地桜痴との連携

歌舞伎座が開場した明治22年の11月、初興行は黙阿弥の作を補綴した「俗説美談黄門記」ほかであった。少年の岡本綺堂は、父の関係で歌舞伎座の団十郎の楽屋に連れられていっている。そこには、福地桜痴居士もいた。桜痴居士とは初対面であった。

「団十郎は、今度の「黄門記」の江戸城中で光圀が護持院の僧を説破するくだりは、桜痴居士の加筆になったことを話して、「どうして河竹にあんなことが書けるもんですか。」などと言っていた。団十郎は心から桜痴居士に推服しているらしかった。」(岡本綺堂・明治劇談 ランプの下にて137頁)

桜痴と団十郎の連携がなっている。この二人は、幕末からの知り合いらしい。桜痴は、旧幕臣であり、数度の洋行の経験があり。新政府の官吏にもなった。明治10年の西南の役のルポは好評を博し、奏上までした。はやくから東京日日新聞の社長・編集長としても活躍していた。福沢諭吉を押さえて、人気番付の第1位を飾ったこともある。西洋演劇にも詳しい人物であった。さて、団十郎と桜痴の連携がどのような作品を上演したかつぎに見ておく。

桜痴の史劇リスト(主要なもの)
相馬平氏二代譚明治23年3月歌舞伎座
近松「関八州繋馬」改作
武勇誉出世景清明治24年3月近松の改作
日蓮記明治24年5月
春日局明治24年6月
太閤軍記朝鮮の巻明治24年11月
求女塚身替新田明治25年3月近松の吉野都女楠
十二時会稽曾我明治26年5月近松の曾我会稽山
大久保彦左衛門明治26年9月
海陸連勝日章旗明治27年5月
侠客春雨傘明治30年4月
大森彦七明治30年9月
敵討護持院が原明治32年1月
芳哉義士誉明治34年10月

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忠臣、義士、烈婦を題材にしたものが多く、団十郎と桜痴の一致した興味と関心であったろう。また、近松物の改作が多いため、改作居士あるいは改悪居士と評された。

座付き作者としての桜痴

 北村透谷が同情的な劇評を残している。透谷自身も演劇に興味があったようだ。透谷は、「春日局」や新派劇の川上音二郎の求めに応じて書いた戯曲「平野次郎」を観劇したようだ。

「ひそかに思ふ。居士は戯曲家といふ上衣を着たる歴史家にはあらずやと。……居士の作を読みたる人は能く知らむ、……寧ろ実際を離れんよりは、理想を退けんとするを。人間の運命を極めんよりは事実に関する人間の一片面を写すに力を籠むるを。事を主として、性質を次にするを。故に居士の作には大(おほい)なる煩悶あらず、大なる悲苦あらず、大なる理想を含まず、大なる不調子を書かず。」
 「平野次郎 〔福地桜痴著〕」透谷全集2巻304頁(1950、岩波書店)

また、団十郎の演勝手のため芝居の興味を殺いだ面もあったようだ。「相馬平氏」を観劇した饗庭・竹の屋の劇評もこの辺りは作者に同情的である。

「遠慮なき所を白状せよとならば芝居としては興味薄しと云はん。然れども是皆改作々家福地源一郎氏の為す所にはあらず。……未だ文学大家福地氏にして俳優の註文によりて作為を曲げるの弊あるは歎ずべし。」(東京朝日新聞明治23年4月8日)

小泉八雲が妻節子に、団十郎の芝居見物を勧めているのはこの頃だ(小泉節子「思い出の記」)。

桜痴との疎遠

「侠客春雨傘(をとこだて[きょうかく]はるさめがさ)」(明治30年4月21日 歌舞伎座初演)
桜痴にとっては珍しい世話物である。
団十郎と桜痴の時代を目撃してきた岡本綺堂はつぎのようなエピソードを残している。この芝居は好評だったようだが、この頃になると桜痴と団十郎の仲はうまくいっていないようだ。
岡本綺堂「桜痴居士の諸作」(の作品はここ

これに両者の疎遠を見るのはいささか強引付会かもしれないが、両者のすれ違いを見るようで興味深い。団十郎が活歴劇に飽き、明治27年頃から復古的に、伝統芸へと回帰しだし、このため桜痴と疎遠になっていったのであった。

『桜痴全集』上編(明治44年12月、博文館)に収録された晩年の作「芳哉義士誉」の自序において

「余が年来作り出せる脚本の登場に好評を博したるものあるは、団洲梅幸諸優の卓絶なる技○(人偏+両)に由りて仕活(しいか)したるなり、其不評に了(をは)りたるは、仕殺(しころ)せるに非ずして、実は余が拙作初めよりこれを書殺(かきころ)したるのみ。……    (明治34年9月28日築地の病窓に記す)老桜痴人 福地源一郎」 (同書600頁)

かなり謙遜して書かれているようであるが、作者と演者互いに高めあい、互いに損なったこともあったであろう。

桜痴の作品は、依田学海のそれと異なって、俳優の団十郎と連携して、歌舞伎座を舞台に所演されたものである。演劇改良の実践であったといってよいし、団十郎にとっても文字通りそうであったし、活歴劇の実践であった。ただ、桜痴の戯曲は、知性的といってよいだろうが、反面、史劇を中心としている性格上、近代味には乏しかったといえよう。淡々としているが、心理的葛藤なかんずく劇的興味には欠けていた。

活歴を生み出したもの:背景

坪内逍遥やその弟子ともいえる伊原青々園(「市川団十郎」などの著書もある)などは活歴の背景をつぎのようにいう。明治新政府の高官や貴顕紳は、薩長を中心とした中流以下の武士の出身であった。勤皇、復古、歴史追求、進取改良などの考えをもって、国事に奔走し、また政争や戦に明け暮れた人たちであった。演劇や音曲などは、二の次で、歌舞伎などの面白味などは分からなかったであろう。

「団十郎は、……歌舞伎のよくわからない政財界などの意見に踊らされ、歌舞伎そのものの長所とか、悪弊として破棄すべき点とか、そういう基本的分析や解明の上に、明確な意見を打ち立てて実践したのではなかった。従って、活歴とはいっても、それが好評をはくしたというところは、重盛のセリフであるとか、高時の天狗舞などのように、多くは歌舞伎の伝統的なセリフ芝居のところとか、彼が職人としてみにつけた舞踊劇などであった。」(西山松之助・市川団十郎291頁(昭和35年9月、吉川弘文館))

1−3.明治歌舞伎の黄金時代 "最後のひかり" 明治28−29年

 明治28−9年頃が明治歌舞伎の「最後のひかり」だと言うのは、同時代の目撃者、岡本綺堂である(同・明治劇談 ランプの下にて228頁(岩波文庫))。その作品として挙げるのは、歌舞伎十八番である「暫」と「助六」である。

「暫(しばらく)」 は明治28年11月興行(歌舞伎座)の中幕
連日の大入りであったという。綺堂も18年ぶりの所演となったこのときにはじめて「暫」を見たという。
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配役は、鎌倉権五郎景政(団十郎)、清原武衡(権十郎)、鯰坊主震斎(新蔵)、腹出し三人(猿之助、寿美蔵、八百蔵)、加茂次郎義綱(染五郎)などであった。

「素襖をきて大太刀をはいた姿―あれに魂がはいって揚幕から花道にゆるぎ出た時、さらに花道の七三に坐って、例の"東夷西戎南蛮北狄"の長台詞を朗々たる名調子で淀みなくつらねた時、わたしは満場の観客と共に、ただ酔ったような心持になっていた」(同230頁)と述懐している。

このとき(明治28年11月)の、歌舞伎座の「暫」を記録した写真(約238KB)を見つけたので掲げておきます。正面の3つの光は、ガス灯かもしくはもう電燈なのでしょうか。あるいはこの観客の中に綺堂が映っているかもしれない。(5/13/2002)

「助六」 は明治29年5月興行の中幕(歌舞伎座)
実際には4月30日が初日で、一番目が「富貴平家物語」中幕「助六由縁江戸桜」、二番目が「箱書附魚屋茶碗」であった。大入りだったようだ。各茶屋の入口には柿地に白で屋号を書いた暖簾を垂れた。8日には、吉原仲の町の連中数百人の見物、13日には、魚河岸連中でこれまた数百人が繰り出したという(田村成義編・続々歌舞伎年代記721頁)。

綺堂もこれが初見だったが、あまり興味はひかなかったようだ。ただ、このとき、団十郎の助六、芝翫の意休(いきゅう)、福助(のち五代目歌右衛門)の揚巻(あげまき)という配役で、

「助六と意休と揚巻と、この三人が舞台に列(なら)んだ姿、まったく錦絵が抜け出したようなそのおもかげは今もありありと眼にのこっている。」(同233頁)

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豊原国周筆「江戸桜」明治29年5月興行、左から福助、団十郎、芝翫. 大きな画像(138KB)

活歴を志向し、活歴時代の長かった市川団十郎ではあったが、その基本には、養父の河原崎権之助から厳しくまた深く古典諸芸を仕込まれ、また、江戸歌舞伎の伝統的技能を身につけていたからであった。それが、この時期にいわば総決算として絵巻物のように繰り広げられたと言えるのである。これを岡本綺堂は、「最後のひかり」と呼んだのである。

日清戦争と演劇界

桜痴と団十郎の連携も明治25,6年までであった。時代は日清戦争前後で、日本主義、ナショナリズムの高まりの時期にあった。日清戦争の逸話をいち早く取り入れたのは、新派劇の川上音二郎らであった。芝居人気は、当然こちらの方へ移り、旧派歌舞伎は人気を失った。

明治28年、日清戦争に題材を採った芝居で人気の川上音二郎一座が歌舞伎座で所演することになり、団十郎は同座の座頭を勤めていたが、歌舞伎座を追われることになった。明治座へ出勤。明治27年11月、歌舞伎座で、菊五郎とともに、壮士芝居・新派劇への対抗として「海陸連勝日章旗(あさひのみはた)」を打ったが、大失敗している。歌舞伎が壮士芝居に敗れるという象徴的意味があった。
 この後、団十郎が再び歌舞伎座に出勤するとき、舞台の板を削りなおさなければ舞台を踏まないと言ったというエピソードがある。

明治20年頃までは、負債に苦しめられたようだが、30年代に入ると富裕になったといわれている。築地に私邸、明治33年には3万円を投じて茅ヶ崎に別荘の弧松庵を作った。
日本銀行には5万円の預金があったという。明治31年、梅田の大阪歌舞伎(座)の開場興行には40日間で5万円という、当時としては破格の高額で出勤に応じたという逸話がある。新聞各紙は騒ぎ、団十郎は傲慢であるとの論調だったようだ。桜痴にすれば、大阪へは初出勤で、諸方へ祝儀を配らねばならず、出費も大きいゆえまるまる5万円が懐に入る勘定ではないという話が、岡本綺堂「5万円問題」同・明治劇談 ランプの下にて276頁にある。

明治36(1903)年9月13日、66歳にて死去。
後継者はなく、実娘(実子)と婚姻した市川三升がいたが、その没後の昭和31年に10代目団十郎を追贈された。三升・実子の養子として迎えられたのが、松本幸四郎の長男で、9代目海老蔵(明治42生まれ)を名乗った。


2.尾上菊五郎 (5世、1844−1903)

3代目の娘と12代目市村羽左衛門との二男に生まれた、市村座座元として13代目羽左衛門を継いだ。子役として舞台もつとめ、1857年(安政4)「鼠小紋東君新形(ねずみこもんはるのしんがた:鼠小僧)」の蜆(しじみ)売り三吉で写実的な演技を示めした。1862年(文久2)には「青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ:弁天小僧)」を満17歳で主演して注目された。4代目市村家橘をへて68年(慶応4)に5代目菊五郎を継いだ。

nagoyasan.jpg 4代目市川小団次の写実主義の影響をうけて「吉様参由縁音信(きちさままいるゆかりのおとずれ:湯灌場吉三)」「梅雨小袖昔八丈(髪結新三)」「扇音々大岡政談(おうぎびょうしおおおかせいだん:天一坊)」などを初演し、勘平、権太、忠信など、段取りの工夫や、怪談狂言にも意欲をみせて、「新古演劇十種」を選定した。また、明治期にはいわゆる散切(ざんぎり)頭の新風俗をとりこんだ、河竹黙阿弥の作品による散切物を取り入れた。「水天宮利生深川」(筆売(屋)幸兵衛)、などがあり、世話物を得意とした。
 (右図は、珍しく時代物、名古屋山三役の菊五郎)

如才なかった性質のようでもあり、また、嫌味な面があったことなどは、綺堂の「明治劇談 ランプの下にて」に譲る。


3.市川左団次 (初世、1842−1904)

大坂の出身で、子供芝居で活躍したが、江戸に下だって4代目市川小団次に入門した。1864(元治元)年には小団次の養子となって、左団次を名乗った。容姿、声ともに優れており、また堅実な芸風で男気のある立役を勤めて、大衆の支持を受けた。明治座を創設して、その座元・座頭として新歌舞伎にも意欲をみせた。

左団次は、明治座の座主、つまり経営者でもあった。座主兼座頭であった。明治32年10月には、はじめて素人、つまり歌舞伎局外者の書いた戯曲を上演するに至った点でも、評価されている。松井松葉の新聞小説「悪源太」を戯曲化したものであった。松井は、当時新聞記者で、綺堂とも机を並べ、昼飯の天ぷらを分け合って喰ったことのある仲間である。若い綺堂にとっては驚きとともに、羨望でもあったろう。一般には左団次の悪源太義平、市川権十郎の平重盛など好評であったという。他方、竹の屋・饗庭篁村には不評だったようだ。いずれにしても、松井松葉(のち、松翁)は、初代、それにその子の2代目左団次の後見役としての関係を深めてゆく。局外者には書けないといわれて、軽蔑されていたことが、少しずつ受け入れられてゆくのである。


4.団菊左ばかりではない、四代目中村芝翫

明治の時期が団菊左ばかりで占められていたわけではない。綺堂が高い評価を下しているのは、4代目中村芝翫である。岡本綺堂・明治劇談ランプの下259頁

大阪道頓堀の生まれで、3代目の歌右衛門が養父となり、ともに江戸へ下った。弘化元年から慶応末年までがその黄金時代で、黙阿弥との連携でも有名な小団次や、若い団十郎や菊五郎も、「彼の敵ではなかった」(同書259頁)というほどであた。が、明治に至り、新富座全盛の頃になると、この江戸劇界の若い団十郎や菊五郎にその人気を奪われたらしい。明治32年1月没。息子の福助が5代目芝翫を継ぎ、5代目歌右衛門となった。

明治16年10月末、新富座へ父やその友人と連れ立って観た「妹背山婦女庭訓」の吉野川。芝翫は「大判事」の役どころ、団十郎が貞高、左団次は久我之助。道行恋の苧玉巻では、芝翫の求女、高助の橘姫、団十郎のお三輪役。

役の舞台顔が、「実に無類というほかはなかった」のだった。「団十郎などの顔はなんだか素人のように見えた。俳優の舞台顔――それは中村芝翫のようでなければならないとわたしは思った。」(263頁)とまで書いている。

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左図は、祭礼姿の4世中村芝翫(手子前駒) 豊原国周筆、1879(明治3)年頃

さてどんな舞台顔かというと

「かれが大百のかつら、四天の着附、だんまりの場に出る山賊などに扮して、辻堂の扉などをあけてぐっと大きく睨んだとき、あらゆる俳優はその光を失わなければならなかった。彼の目は鋭かった。いわゆる睨みの利く眼であったが、さりとて団十郎のようにおおきいのでもなく、団蔵のように凄いのでもなく、鋭いうちにも一種の愛嬌を含んでいるので、彼が葱売りの美しい娘などになれば、その眼がいかにも可愛らしく見えた。……彼が逝きて後、わたしは古風の歌舞伎劇を演ずるに適すること彼のごとき、顔と芸の持ち主を知らない。」

というのです。綺堂のほぼ絶賛といって良いでしょう。天才肌だったともいい、とくに明治になってからはセリフや金の勘定はうまくなかったという。

綺堂の個人的好みかもしれないので、さらに補強しておくと、

「人気第一は中村芝翫、張りのある容貌、蝋引きのような眼、すばらしい顔立ち、したがって「対面」の工藤や「助六」の意休、「八陣」の加藤など錦絵も及ばぬ立派さ、踊が名人で「道成寺」が当時随一、供奴や山神など気が乗るとハッハッというかけ声、ただ台詞の呑み込みが悪く、年中黒衣がついていた。」

と評するのは、山本笑月・明治世相百話80頁である。山本氏は、明治4年生まれで、長谷川如是閑、大野静方(鏑木清方の画の先生ですね)の実兄で、やまと新聞や朝日新聞の記者だった。(この項、追記1/06/2002)


お世話になった参考文献:

秋葉太郎・日本新劇史上巻(昭和30年、理想社)
伊原青々園「歌舞伎芝居の変遷」『太陽』(33巻8号)明治大正の文化170頁(昭和2年6月)
岡本綺堂・明治劇談 ランプの下にて(1993、岩波文庫)
河竹繁俊・日本演劇全史(1959、岩波書店)
坪内逍遥・柿の蔕(昭和8年7月、中央公論社)[帯は「蔕」の誤りでした.ご指摘有難うございました.10/24/2006]

個人的には、つぎの2つの本が好きである。秋葉氏の本は当時の雰囲気を伝えており文献的にも優れている。同書が復刊されることを望みたいほどである。岡本綺堂の本は、幼時の体験から劇評記者としての実際に体験・見聞きした者の感想・記述などきわめて有益だった。

4代目中村芝翫の錦絵と解説は立命館アート・リサーチセンター内: http://www.arc.ritsumei.ac.jp/theater/yakusya/ukiyoeten/3-10mokuroku.htm





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