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岡本綺堂氏のある一日


 岡本綺堂の日記などを参考に、もっとも長く生活した麹町区元園町1丁目27番地での生活を、シュミレーションしました。
 所は、それはそれで不自由な中にも楽しかった麻布十番や大久保の郊外の借家生活から、震災後の区画整理がなった後、父の代からの元園町1丁目に戻ることができた。そこへ新築した二階建ての家である。時は大正14−15年秋頃、ここで少年時代を過し、成長したこの町も、震災後変わり果てた町になっていた。綺堂氏、ときに54歳。
 また、末尾に、岡本家の誕辰記念の晩餐メニューを挙げておきました。

午前

7時から7時半頃に起床。
秋らしい感じの冷え方だ。紅茶を飲む。パンを食す。「朝日」を取り出して煙草を喫う。台所には、もういつもの魚屋が御用聞きに来ている。盤台の鯛の赤があざやかな色だ。今夜の夕食に何にするかと、女中のおたかさんが品書きの経木を持ってくる。「私は鯵(あじ)」という。鯛よりも、小魚の方が好きなのだ。

今日は頭が少し重い。夕べに春陽堂から出す戯曲集の校正の仕事をしたせいか、あるいは歯痛のためか。父親譲りで歯が弱い(と、本人は思っている)、治療のために隼町の小田切歯科まで出かける。いづれ入れ歯にしなくてはならないといわれている。気が重いことだ。大正8年、欧州からの帰りの、熱海丸の船上から、上の歯一枚をインド洋に投げ込んだこともある。あの歯はどうしただろう。

帰ってきて、文芸倶楽部の原稿の執筆にとりかかる。午前中かかって、8枚。文芸春秋から原稿料を送ってきたので、受取の返書を書く。ほかに、葉書3枚ばかり。出版社は勧めるが、電話は好きではないので、取り付けていない。

奥さんのおえいさんは、病院経由で、用事を済ましに出かける。

来客あったようだ。玄関の呼び鈴が鳴った。女中のおふみさんが門まで出て行く。おふみが川口様がお見えです、と知らせに来る。洋間の応接室へ通す。テーブルには灰皿と摺り跡のない新しいマッチが添えておいてある。プラトン社の川口松太郎君が原稿の依頼に来たのだった。1時間ばかり話す。

書生の森部に命じて、小包郵便を作らせ、戯曲集を松居、芥川(龍之介)の諸君に送らせる。また、庭の菊を剪って、花瓶に活けさす。

2階の書斎を女中さんが掃除にかかる。はたきや箒をかけていたが、何かの拍子に女中さんが机の上にあるブルー・ブラックのインク壜をこぼしてしまった。机カバー汚れる、それに原稿が一枚、二枚……と滲んでしまった。

「旦那様、とんだことを。すぐ片付けます。お原稿がこんなに汚れてしまって、一枚、二枚……。まことに相済みません……。」
女中はいそいで雑巾でふき取ろうとする。
「なんということをするのだ。大切な原稿に。そこへなおれ。打ち首に致す。」
「え。えぇ!それは、あんまり……。」
「あゝ、すまぬのう。芝居の筋を考えていたのだよ」
「先生、本当かと思いましたよ。いやですよ、悪いご冗談で」
「はゝゝゝ悪かった」

後の番町皿屋敷の着想(大正5年にすでに上演)ここにあり、とするのは、私の虚構(いたづら)で、インク瓶をこぼした話は事実でした。さて、元の日常生活に戻って……。

肘付窓を開けると東に5番町にある英国公使館屋根と英国旗が風に揺れているのが見える。父が36年間勤め、それによって私が大きくなったところだ。父はもう他界した。世話になったアストン(書記官で文学・演劇好きだった)さんは英国でどうしているだろう。 緑色の箱の「朝日」からタバコを取り出して喫む。また、ペンをとって、原稿用紙に向かう。

昼食
 だいたいは、鰻、鮨、洋食などの店屋物という。時間が不規則になるためか、気分転換でしょうか。ときに出先で外食。銀座に出かけた折は、松屋の食堂で、サンドイッチとか天麩羅そばとか。

午後

岡田禎子(門下生の一人で愛媛にて奉職)より速達で郵書が来ている。戯曲の添削を乞う旨。その他、もらった土産の礼状、原稿を速達便にて送付、俳句の選の封書などを書く。

麹町郵便局へ原稿料受取に出かける。帰りに、ちょっと廻って公使館側にある大きな樫の木を眺める。子供の頃落ちたどんぐりで遊んだところだ。

留守の間に来客があったそうだ。改造社の編集者、高等師範の女生徒たちが公演の依頼に来た由。額田六福氏が、手土産を持ってきた。1時間ばかり話す。

せんべいを齧って、お茶とお八つにする。適度に柔らかいせんべいが好みである。その後、原稿のつづきを書く。2枚。

5時、「荻の巣」という麹町4丁目にある湯屋に出かける。姉の梅さんが習っていた長唄の師匠の家があったあたりを通って、湯屋に行く。あそこの娘さんはどうしただろう。

庭には、池があり、春にはチューリップ、クロッカスが咲いていたが、今は菊である。眺めて、門をあけて外出。麹町・四谷方面へ散歩する。震災後、むろんだが、番町も四谷も変わり果てて、新しい建物や店が出来て、昔日の面影はない。

7時頃、夕食。自宅にて、鯵を焼いて食う。下戸だから、酒は飲まない。

月一回に、門下生の主だったメンバーの「わかば会」の集まりがあるときには、8−9時頃、集まり始めて、劇論、江戸研究などをする。その間、茶菓や菓物が出る。綺堂氏が昼間じきじきに買ってきた菓子が出るときもある。10時頃に散会。綺堂氏、奥に向かって「帰りますよ」と声をかける。自分はそのまま2階の書斎へ向かう。女中さんのお見送りで帰途につく。

会がないときでも、来客あることあり。

9時から10時半くらいまで、たいていは読書か校正など。このときには旧稿の「青蛙堂鬼談」の校正などする。

来客が多くて執筆はかどらず、悩む。聞くところによると、夏目漱石氏のように、曜日を決めて面会日というのもよいようには思うが、向こう様のご都合や遠路はるばる来てくれる者もあるのだ。

11時 だいたい10時半から11時頃、就寝。




さて、夜は更けて、閑話休題。
大正14年10月15日 綺堂氏の(数え年)53歳誕辰日の晩餐メニューを挙げておきます。

誕辰日には、書生の森部、女中のおたか、およしさんに、祝儀の金をやる、とあります。
晩餐には、
「鯛のしほ焼、さしみ、蝦の金ぷら、松茸と蓮根とくはいの旨煮、さよりと蝦と松茸の吸物、赤の飯」とある(『綺堂日記』416頁)。

当時は「金ぷら」というのですか、たぶん天ぷらのことでしょう*。このお祝い、ちょっと、おいしそうですね。お呼ばれしたいです。

綺堂氏の日常はこのようなものだったようですが、意外にアット・ホームというか、なかなか他人に気配りのあった、心優しい一面のあった人のようです。ベーシックに厳格なのは厳格だったでしょうが。気骨ある明治人ですからね。

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「パン」
    どのようにして食していたかは興味があります。思い出すのは漱石ですが、パンの耳を外し、火鉢かなにかで焼いて、砂糖をまぶしてとか、ジャムを塗ってとかいうものでした。さて、当時流行った、付け焼きパン(バターを付けたのでしょうか?)が屋台で売られているという絵(「食パン」とある)です。風俗画報明治34年2月15日(226)号より。
「朝日」
    図柄 明治37年発売。漱石の『我輩は猫である』の苦沙弥先生もこの銘柄であった。枕もとに置いていたのを泥棒に失敬されるのだが。寒月君は「敷島」である。漱石の作品では、「敷島」の方が頻出度は高い。『坊ちゃん』が吸っているのもこちらである。『草枕』の鏡が池のシーン、『虞美人草』や『門』でも敷島である。
「金ぷら」
    「金麩羅は、天麩羅の衣に卵黄を交へたるものなり」
    平出鏗二郎『東京風俗志中巻』(明治34年刊)155−156頁、でした。日本橋木原店(だな)に金麩羅屋があるといい、京橋・銀座の天金が著名であるとしている。



 ◆上の前年である大正13年の誕生日の日記をつぎに掲げます。たぶん、まだ大久保百人町の借家でのことですね。

岡本綺堂日記246−247頁(昭和62年12月刊、青蛙房)
大正13(1924)年


十月十五日(水曜)晴(七十度)
 午前六時半起床。朝はなか/\寒くなつた。
けふは私の誕辰に相当するので、午餐には赤の飯を焚かせる。去年は震災でなんにもしなかつたのである。額田が来て、細君の母重病といふ電報をうけ取つたので、修善寺行は中止、細君は子供をつれて、今夜の特急で広島へ出発することになつたといふ。どこもなか/\多事である。額田は三十分ほど話して帰る。神田の田村書店から先日購入の書物を小包便で郵送して来たので、返書。
 午餐は家内うち寄つて赤の飯を食ふ。小鯛のしほ焼、松茸と半ぺんと芹の吸物、ほかに烏賊と栗と蓮根のうま煮。女中三人に祝儀の金をやる。
 天気快晴。午後から散歩。大久保駅から電車に乗つて、東中野で下車。そこらを一巡して、更に電車で中野駅下車。こゝ昔に比べると見違へるやうに繁華になつた。以前は畑であつたところが、すべて住宅地に変つてしまつた。三時ごろ帰宅すると、渡辺のひさ子と博とがおえいの見舞に来てゐた。留守中に春陽堂の使が来て、戯曲集第四巻の原稿をうけ取つて行つたといふ。ひさ子等は鮓を食ひ、庭のダリアやコスモスなどを折つて帰る。六時半ごろ入浴。夜は戯曲集の初校四十八ぺージ、再校十六ページ校了。
 読書。十時半就寝。
綺堂邸

震災後に新築された洋館で、麹町に因んで命名された「甲字楼」(元園町1丁目27番地) 


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