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綺堂と弟子たち



 弟子たちによる、師岡本綺堂との出会いは、こちらです。(額田六福、岡田禎子、北林余志子氏分 公開 1/1/2004)

◆嫩(ふたば)会


門下生の集まりである、嫩(ふたば)会は、大正6年9月に誕生した。毎月1回、岡本綺堂宅(麹町区元園町)にて会合した。だいたい夕6時くらいから9時過ぎ頃までだったようだ。会の案内は、師の綺堂自身が葉書などで案内を出していた。出席表も師の綺堂自身がつけていたようで、また会員は、会費を納めることになっていて、綺堂自筆の領収証が渡されたという。

嫩会の当初は、劇評や劇作などの評論や雑談が主だったようだ。その間には、菓子とお茶、にぎり鮨か、冬は小田巻むしが出されたという。

「ふたば集」1号は大正9年4月に刊行された。雑誌『舞台』綺堂監修の発行。メンバー以外の作品も受けつける。昭和6年頃からは、岸本氏が編集を担当していたらしい。その頃、64頁で30銭、1000部を発行したが、人気のため、次号からは、2000部を刷ったという。

昭和5年正月、刷り上った喜びを、

  春を待つ机の上の舞台かな

と詠んだ。

昭和3年頃から、会員に芝居を書く上で、江戸の知識がなければいけないというので「江戸講話」がはじまったという。

綺堂は、この集まりで若い会員に、劇作家になることを勧めたわけではない。生活は別の道で安定させておいて、文筆は余力で進めるようにと、いつも言っていたという(岸本良衛『ひとつの劇界放浪記』71頁(青蛙房))。劇作だけでは食えないので、自らの経験である、新聞記者としての生活からそういう知恵を教えたのであろう。実際に、自分もそうであったように、読み物も書けるようにと、弟子に勧めている。

劇場への出入りを禁止した。奇妙なことに、劇作家である綺堂は、自分にも、弟子たちにも、普通の観劇以外で、劇場に出入りすることを禁じている。それは、芝居道楽ということで、作劇には資さず、作劇は書斎でできるという考えからであった。

自作の芝居の初日には弟子を誘って出かける。綺堂は、幕が開く前に懐中時計を袴から取り出して見、幕が降りると再び時計を見た。むろん、芝居の所要時間を計るためである。有名な、独り言が聞けることがあったという。おそらく、芝居でのセリフの具合を確かめるためか、セリフを考えて口ならしするためであったという。


◆綺堂氏、水谷八重子嬢と会う

綺堂の「両国の秋」の再演が昭和3年10月に本郷座であったときである。綺堂先生とお弟子さんとして来ていた岸本良衛(当時21歳の学生)が、西の五番目くらいの桝席に座っていると、「お君」役を演じる水谷八重子(当時24歳)の男衆が、挨拶に土産物を持ってきたそうである。岸本青年がもらったのは、水谷八重子のプロマイドと御菓子だった。先生は、八重子の写真を見て、

“「おお、サイン入りじゃないか」といたずらっぽく笑っておられた”

(岸本良衛『ひとつの劇界放浪記』33頁)らしい。岸本氏の本には、このときのプロマイドが掲載されているが、確かにサイン入りで、八重子嬢もなかなか初々しい。

言葉にはうるさい。「なさった」ではなく、「なすった」でないといけない。「夏目漱石は名主の倅だから言葉は正しい。三遊亭円朝も正しい。この二人を読みたまえ」と教えられたという(岸本・前掲書53頁)。

綺堂は、江戸や髷物ばかりを書けといったのではなく、現代物も書くようにと進言している。

◆嫩会の一泊旅行

 春か秋に、メンバーで一泊旅行をした。往復の汽車賃は各自持ちだが、宿泊費などは、師の綺堂持ちだったようである。綺堂、額田氏らはいつも着物、メンバーも着物洋服が半分づつだったようである。着物の場合は、袴を穿いていた。また、参加者は男性の弟子ばかりである。

箱根の宿で、綺堂が別部屋で就寝した後、額田氏はじめ残りの若いメンバーは、コップ酒に、花札遊びになったという。地震があったため、起きてきた師に見つかるが、賭け事ではなかったのでそのままにしていると、「なんだそんなことをしていたのか」と言って、岸本氏の後ろへ廻ってのぞき込み、「同二(どうに)は仲々いい手をしているな」と言ったという。

後日談があって、額田氏は綺堂にお小言を頂戴したという。
「同じ勝負事でも碁や将棋は聞こえはいいが、コップ酒で夜中に花を引いているのは困る」と。(岸本・前掲書77頁)

◆綺堂50歳誕辰(大正10年)時の記念写真

岡本綺堂50歳誕辰(大正10年)の記念写真では、
綺堂のほか、額田六福、森田信義、中野実、柳田顕道、新原得二、海野昌平、中嶋俊雄、菊岡進一郎、小林宗吉 の9名が写っている。
これらに、入門一番目の弟子である大村嘉代子を加えれば、10名の弟子が居たことになる。

しかし、その後、芥川龍之介の実弟である、新原得二は、嫩会から離れて、別の道へ進んだ(昭和五年没か?)。また、3名は夭折している。

大正11年、菊岡進一郎(早稲田大学卒業後)病没
大正13年 中嶋俊雄 没
大正14年7月12日 柳田顕道 没

柳田の死に際しては、綺堂は、つぎの哀悼の句を作っている。

    去年(こぞ)のけふは燈籠買ってきたりしに

ちょうど、訃報を受ける前日の11日には、「嫩会」の例会が催されていて、柳田危篤を13人のメンバーに知らせている。火葬場まで自ら送っている。

◆主な門下生

 *おことわり:履歴、作品などの点でまだ十分なものとはいえません。後日を期したいと思います。

大村嘉代子
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明治18年12月23日、麹町上二番町、陸軍教授木野村政徳、基子との間に生まれた。木野村家は相模小田原藩士。番町小学校、府立第一高女を経て、日本女子大学国文科第一回卒業生。実業家大村和吉郎氏と結婚した。女子大学卒業後、岡本綺堂に師事した一番古い弟子でもある。
著作集には、「たそがれ集」(大正13年9月、新作社)、「水調集」(大正14年9月、文成社)があり、主な上演作品には次のものがある、

紫蓮譚 有楽座 大正2年1月 栗島狭衣ほか
みだれ金春 帝国劇場 大正九年5月 宗十郎
柳橋夜話 帝国劇場 大正10年1月 宗十郎、梅幸
白糸と主水 帝国劇場 大正12年1月 梅幸
春日局 歌舞伎座 大正14年9月 歌右衛門、幸四郎
本町糸屋の娘 帝国劇場 昭和2年1月 梅幸、幸四郎

また、岡本綺堂『弟子への手紙』(青蛙房刊)の名宛人はこの人である。伊豆在住の家庭婦人でもあり、嫩会に頻繁に顔を出すわけにもいかなかったため、手紙による劇作の指導となったようである。綺堂邸の元園町から比較的近い番町小学校の出というのも、懐かしかったのかもしれない。昭和28年没、70歳であった。


額田六福

明治23年、岡山生まれ。明治43年、演芸画報の懸賞作品に応募したが、そのときの選者の一人が綺堂。のち入門を願い出る。大正5年4月上京、早稲田大学出身で、綺堂門下の筆頭弟子と言われる。劇作家で、昭和23年没。娘さんに額田やえ子さんという、刑事コロンボなどで有名な翻訳者がある。


小林宗吉

明治28年8月、宮崎市生まれ
入門は大正8−9年頃か?
大正11年1月「深川の秋」新国劇上演
綺堂閲の作品あり


森田信義

明治30年12月、神戸市生まれ
大正8年8月、綺堂、神戸に帰朝の折り、出迎え
慶応大中退
「織田信長」新国劇上演
のち東宝入社。


海野昌平

麻布中学の国語の先生、のち麻布学園の校長。


中野 實

明治34年11月、大阪市生まれ
大正8年8月、18歳のとき、綺堂が米欧の視察から神戸へ帰朝の折りに出迎えている。翌9年に嫩会参加した。大正11年、入営。満州にわたる。除隊後、岡本家の書生となったのは、関東大震災の後の12月である。麻布・大久保時代の書生はこの人である。その麻布・宮村町の避難生活時代、大正13年1月のある夜、に規模の大きい余震があった。綺堂と奥さんは、庭に飛び出したらしいが、書生の中野氏は、寝床を始末してから出ていったという。そこで、綺堂氏、「中野君は落付いたもんだな。やつぱり兵隊に行ってきた人は違うよ。」といって、笑ったという。
 綺堂訃報を、中国・広東で聞いた。中野氏にとっては、どうも二度目の召集だったらしい。出征にあたり、挨拶に綺堂邸を訪れたとき、綺堂は、「しかし、戦争のために、支那の文化が破壊されてしまうのは惜しいよ。」と語ったという。
 また、海南島では、「火野軍曹」と一緒だった旨、書き残している。あの作家の、火野葦平のことだろうか。中野氏は、後輩思いの人であったという。劇作家。昭和48年没。


中野秀子(旧姓・富塚)

明治39年9月、東京生まれ
大正13年6月、第一高等女学校高等科在学中に入門
昭和7年、中野實と結婚


山下巌

大正11年10月に門下となる。内閣印刷局勤務だった。昭和8年4月死去。
弟子の岸本から、山下の容態を聞き、「どうやら、いけないと思います」といわれて、綺堂は、「君、焼場はどこが近いかね。」と言ったときには、目に涙が光っていたという。通夜から葬式・焼場まで、そばを離れなかったという。


山上貞一
明治32年1月、大阪生まれ。早稲田大学中退、松竹大阪支社入社。


岡田禎子

明治35年3月、愛媛県生まれ
大正12年5月、綺堂に講演を依頼
東京女子大学(新渡戸稲造校長)在学中に入門
 岡田が綺堂を大学の講演会に呼んだのが機縁となっている。綺堂が女子大学を訪れたときの女学生の応接の様子はほほえましい(別の機会に紹介したい)。
綺堂門下の女性のうちでは、もっとも劇作ができるのではないかと、綺堂は日記に綴っている。
「夢魔」改造 昭和4年1月号31−47頁(1929)
『正子とその職業』改造社 昭和5年3月号42−73頁(1930)
同上[復刻版] (ゆまに書房、1998.5)
『岡田禎子作品集』愛媛県松山南高校同窓会編(青英舎、1983.1)


北林余志子 (旧姓・鈴木)
明治35年5月 横浜生まれ。昭和2年、小林宗吉の紹介で入門。姉御肌だったという。門下の岡田禎子も寅年生まれで、向こう気が強かったらしく、男でもかなわないほどだったらしく、綺堂が、「二人に喧嘩をさせてみたい」といったほどだという。 「開港女気質」などの作品が上演された。


岸井良衛

明治41年3月 日本橋生まれ。大正15年4月 文化学院在学中に嫩会の会員となる。
震災後のメンバーなのだが、会での綺堂の江戸話をもとに採録した著書や、綺堂との身近な付合いの記録は貴重なものとなっている。
大阪松竹や東宝などで演劇人として活躍、著書も多い。

岸井良衛編、岡本綺堂・江戸に就ての話 青蛙房 (初版・1955)
岸井良衛、ひとつの劇界放浪記(青蛙房・1981)
同、大正の築地っ子(青蛙房)
同、山陽道(中央公論社, 1975、中公新書399)
同、女芸者の時代 (青蛙房, 1974、青蛙選書45)
同、東海道五十三次 : 百二十五里・十三日の道中 (1964、中公新書53)
同、江戸の町 (1976、中公新書432)
五街道細見 岸井良衛編(新修版、青蛙房、1973)
五街道細見  岸井良衛編 (増訂版、青蛙房、1963.9)
五街道細見 岸井良衛編 (青蛙房、1959.2)


中島末治
明治38年4月 大阪生まれ。


三橋久夫

慶応大卒
昭和6年 入門


徳本伊三美

法政大学の学生時に入門


作間(佐久間) 真一



北条秀司

昭和8年4月 入門
劇作家。綺堂が命名したペンネームという。綺堂派演劇の後継者とも目された。
北條秀司「私の履歴書」日本経済新聞社編『私の履歴書 文化人5』429頁(1983)


三好一光

明治41年2月 東京生まれ
昭和9年10月 入門


下山省三

明治40年1月 岡山県生まれ


正岡容

明治37年12月 東京生まれ



上のリストは、網羅的ではないので、この他にも門下生がいる。たとえば、東京日日新聞時代の先輩で、師でもある、塚原渋柿園氏の孫の、鈴木千枝雄などがいる。(下の写真参照)

また、特徴として、女性の門下生が何人かいることである。夏目漱石の場合と比較すれば、両者の違いは明らかだろう。綺堂が歌舞伎という女性に人気のある芝居の作家であり、また、女性向けの雑誌にも寄稿していたりしたためであろうか。また、女性に対する指導も、分け隔てなかったといえるのではなかろうか。むろん、当時の社会や文化のために、男性の弟子たちと対等に集まりや勉強会に出ることができない状況は根本には存在する。


いろんな人たちの会やそのメンバーたちについての感想としては、なかなかアットホームな雰囲気だったようだ。メンバーではない人もそのようなことを書き残している。けっして党派的ではなく、劇作をしたいという同志の集まりだったようで、綺堂の人格の一面を物語っているといえよう。

岡本綺堂の栄子夫人は、昭和18年4月18日(なお、岡本経一「日記登場人名簿」『岡本綺堂日記』611頁では、4月17日)に68歳で逝去した。そのときの写真が残されている。上目黒の西郷山房の綺堂宅に、一門の門下生がほぼ勢ぞろいしている。
    (上列左より) 樋口十一、一二三淑夫、小林宗吉、岡田禎子、岡本経一、三橋久夫、佐久間真一
    (中列左) 北林透馬、草場藤三郎、中野実、森田信義、額田六福、大村嘉代子、中野秀子、岸本良衛、三好一光、下山省三、北條秀司
    (前列左) 鈴木千枝雄、神谷とも子、江守将浩、中島末治、北林余志子、中村孝子



参考:
岡本経一「日記登場人名簿」『岡本綺堂日記』611頁
岸本良衛『ひとつの劇界放浪記』(青蛙房、昭和56年)
『舞台』(岡本綺堂追悼号)など





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