logoyomu.jpg

綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
  狂綺堂主人「一日道中記(一)―(四・完)」 東京日日新聞 明治24年11月6、7、8、10日
 初期の「狂綺堂主人」のペンネームを使っていた19歳の頃の岡本綺堂の雑報。11月3日、本郷・湯島から根津、浅草・凌雲閣へと一日道中を試みたときの記事である。菊人形、浅草12階もさることながら、この「日日の小僧さん」、やはり若い女性へ眼が行くのは年のせいで致し方ないところか。
なお、原文で読まれたい方はこちらをご覧ください。(サーバー側変更によるリンク切れのため、調整中。悪しからず 8/25/2003.)画像ファイル(jpg + gif)約 114-314MB。ただし、コピーですので読みにくい部分、つぶれなどあります。
また、解読できていない、もしくは解読の誤りの字句などあるかと思いますが、お気づきの方はご指摘くださると幸いです。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。


dochuki101.jpg


◆ 一 日 道 中 記

             狂 綺 堂 主 人 (岡本 綺堂)
kido_in.jpg

東京日日新聞明治24年11月6日
   ◎一日道中記 (一)        狂綺堂主人


十一月(しもつき)初(はじめ)の三日と云ふは我が皇帝(そめらぎ)の最(いと)もめでたき御節会(おんせちえ)なり、あやしき小家に詫住居(わびすまゐ)して浮世の塵に埋(うずも)れし身も今日は朝疾(とく)より起き出づ、恭んで天の長く地の久からんことを願奉(ねぎまつ)りぬ。
空は晴れて風も寒からず、何処(いづく)をさして杖を曳かん、秋の色見んには団子坂の菊こそ好(よ)かんなれ、飄然我家を立出で辻車と呼ぶ浅ましくもガタめく車に打乗て眼鏡の橋を渡りて本郷の方にさしかゝり、湯島の神を車の中にて他(よそ)ながも伏拝む。
くれ竹の根津に走り来れば八雲立つと詠たりし其の昔しにはわらなくも八重垣町と呼ぶ所なり、今更云はでもの事ながら昔し咲匂ひぬる美人草の色香も消ゑて今は名も知らぬ秋の草おどろに乱る、床しき桶婦(たをやめ)の花の如く満ちたる楼閣も今は唯だ袂吹く秋風に赤蜻蛉の影二ツ三ツ。宮女如花満春殿、祇今唯有鷓鴣飛。哀れは此処に留まりぬ
其の昔し某楼とやらんの名妓(なとり)とぞ聞ゆる神泉亭に菊作れる人形ありと云ふさらむと打ち入りて見やれば立(たて)る木流るゝ水、配置中々に趣あり池の上二三間とも覚しきあたり、見る目おどろ/\しき雷神の宙に掛かれり、何やらん訳も無けれどおかし、ふみ返してはと云ふなる独木橋(そぞろきばし)めきたるを渡れば同じく続きの池の中には佐倉の渡の人形あり、坐れる宗吾棹さす甚兵衛いづれも派手やかなれど朝妻船をんどの姿にも似たらんかし、先代萩の床下、鈴鹿合戦の阿漕浦、いづれも人形の面貌(おもざし)よくも巧みなるものかな、黄菊白菊の花衣今更の事ならねど鮮やかなり。
通り抜くれば根津神社の鳥居先右左に杉松なんどの立てる様神威の最(いと)もいやこちなるを覚(おぼ)ふ、社殿の片側に十四五歳とも見ゆる清らかなる乙女子の柿の皮を剥きて売る、清げなるもの、美しき兒(ちご)蛇果(いちご)喰(く)ひたると書記(かきしる)せし清女の筆も忍ばれぬ、渋いかは知(しら)ねどなど※(※)ふれて過(すぐ)る浮男(うかれを)もあるべし。
社内を出(い)づれば此処には車など中々に雑踏す、野外に秋を訪(と)ふ人も尠(すくな)からざるにやと思へば化粧(けはい)こと/″\しう白粉瓜の皮よりも厚からん程に塗なせる女性(くせもの)、手を携ふる方様の心底も見えて最もかしこし、狐にもせよなど菊賞めるやうに呟やきながら尻目に其方を見やるもあり


東京日日新聞明治24年11月7日
   ◎一日道中記 (二)         狂綺堂主人


これより草津の温泉に入る、其処此処に植付たる菊、暮行く秋の色を留めぬ、人形には宇都宮騒動の石川八左衛門、佐賀暴動記の斎藤金次別の場、同じく海上の場なり、いづれも見事と云うの外なし。
此の外に菊を植えたる、又は盆栽を縦覧せしむる花園などまだ/″\多けれども左のみはと其処を立出で上野に向ひて行く、狭き町続きの破屋に手拭に頭包みたる女子の薄板もて軒端(のきバ)を繕ろふあり女性(によせう)にしては甲斐/\/\しき事かな、月は漏れ雨は止れと思ふにやと推量(おしはか)れむ最(いと)床し、池の端より上野に入ゝる、見上れむ樹々の梢も稍(や)や疎(まばら)に成行(ゆ)きて今霄(こよひ)の月や如何ならん、霜信(さうしん)早くも近づきぬ。
又もや車を走らせて浅草に向ふ、イザと下立(おりた)ちて歩行けバ例(いつ)も変らぬは仲見世の繁昌なりかし、両側に列(つら)ねたる店、中央(たゞなか)を歩む人、唯だ雑沓と云ふの外なく、是れも御佛(みほとけ)の功力(くりき)ぞと思へば坐(そゞ)ろに両の掌(たなごころ)合はさるゝ心地こそすれ、左側の店には年若き女子(をなご)のあまた、名さへ優しき紅梅焼を売るあり、伽羅の袖の香は遠く伝へて路行く人の足を留めんが為めか、色こそ見えねと云ふ心には似るべうもあらず、白き鬚の頬のあたりに長く垂れたる三千丈はいざ知らねど、衣食の愁に因つて此の如く長しとは一目にも知らるゝ買卜(ばいぼく)の翁、筮竹(せいちく)サヤサヤと振りて、此度の地震は必らず其の原因(おこり)なきにあらず、霜を踏で堅氷(けんへう)到る、とは易の面に歴然たりと咳一咳(しはぶき)して述立つる、写真舗(しやしんや)の店前に佇立(たゝず)む三四人の娘子、時移る迄去りもやらず、写真見ることに余念なく。チヨイと凌雲閣の写真があること、ヲヤ上野は好く写(う)つてるとねエ。など云へども心は此処に在らざるべし、少し小側(こわき)に市村座新狂言の写真多く掛連ねてありき。
二王門をはいれば鳩に豆喰ふことも忙がはし、横手の方を廻り行けば太平の世に乱を忘れず、弓ひく音こそ聞えたれ、軒並びの金屋(きんをく)阿嬌(あけふ)を貯てへ、チヨイトお這入(はいん)なさい、お寄んなさいの声々/″\例(いつも)ながら五月蠅し、壁の辺(ほとり)には生弓二三張、形ばかりに掛けたるが、矢並つくらふと読みたりし、那須の篠原にはあらねども、此処にも九尾の白狐なきにあらず、打見れば兎(と)ある店の中に曇らぬ眼鏡掛けたる書生体の男、弓満月に絞り能引(よつぴい)て飄(へう)も赦す、覗ひは狂はず正面の的にハツシ、傍の女子(をなご)は何やらん怪しげなる声音(こはね)して賞※(ほめた)つれを、男は茲に弓を措き眼鏡取りはづして烟草スパ/\、是見よと云ふ勇気は面(おもて)には顕はれぬ、あはれ日本一の弓取りぞかし


東京日日新聞明治24年11月8日
   ◎一日道中記 (三)          狂綺堂主人


花屋敷に入れむ此処にも菊の造人形あり、孫悟空が虎を捕(う)つの体凄まじくも出来たり、傍(かたへ)に佇む弱法師は三蔵にやあらん餘りに淋しげなり兎に角彼の安本亀八が作なれば面貌(おもざし)なんど生々(いき/\)として見ゆめり、同じく女鳴神の龍王壇上の体壇上にある新駒の鳴神、上下(かみしも)なる猿蔵団八の白雲黒雲、中央(たゞなか)に舞う家橘の絶間之助、いづれも真に逼(せま)れり、蓬莱又は鶴の一声なんどさま/″\の名のつきたる盆栽の菊を眺めて廻り行けば羆鹿虎(ひぐましかとら)扨(さて)は文鳥(ぶんちやう)鶺鴒(いしたゝき)檻(をり)の内に或は睡(ねむ)り或は歌ふ、閣に登れば蓄音機あり、団洲の地震の加藤、雁次郎の板倉内膳正、権十郎の原田甲斐の台詞(せりふ)あり/\と聞こゆ。
凌雲閣は高く聳(そび)えぬ、廻(めぐ)り/″\て登り行く、過ぎし頃世の浮男(うかれを)を騒がしたる美人とやらんの写真(えすがた)あり、名にし負ふ小川一真氏の手に係(かゝ)れむ定めて王昭君(わうせうくん)の恨みは無(なれ)からまし、いづれも雲鬢(うんぴん)花顔(はがん)扨ても鮮やかなるものかな、一々肩に投票の点数を記(し)るせるが千点以上の者も尠(すくな)からず、されば千人の眼(まなこ)は此の一身に集りしものか、返魂香(はんごんかう)に泣く武帝、馬嵬坡(バくわいば)に迷ふ明皇(めいわう)、今古其人なきにあらず、然るに如何なる者が如何なる所存にやありけん、右の傍(ほとり)にそれぞれ鉛筆にて批評を加へたり、或は西瓜の如しと云ひ、或は鮒の如しと云ふ、言語(ごんご)に絶えたる怪(け)しかる振舞や、物の哀れ知らぬにも程こそあれと打呟(うちつぶや)きて登り行けば、漸(やう)やくにして頂上に到りぬ。
閣は高し遠く四方(よも)の秋を望む、夕暮の烟(けむり)朧(おぼろ)なる間に落葉したる山も見ゆるなり、雲井を渡る雁(かり)も見ゆるなり、青海も浅黄になりて秋の暮と読みたりしはこゝなりけん、遥かの海原は水天彷彿(すゐてんぼうふつ)、万里(ばんり)家を懐(おも)ふの人こゝに登らば白雲秋風の恨みは弥増(いやま)すなるべし、望遠鏡数箇を据え一銭を取りてこれを貸す、稚(おさな)き男の兒(こ)が父とも見ゆるの袖を曳(ひ)きて。あなたの木立一ツ隔てたる北の方(かた)は何処(いずく)ぞと問ふ。要(やう)なき事を尋ぬるものかな、あれは恐ろしき安達ケ原[#「恐ろしき安達ケ原」に傍点]ぞと云ふ。稚なき者は心無けれバ打ち頷く。
閣を下れば見世物の鳴物ドンチヤン耳を貫(つら)きて田舎漢(ゐなかうど)の魂(たましゐ)を駭(おどろ)かす。


東京日日新聞明治24年11月10日
   ◎一日道中記 (四)          狂綺堂主人


いざやと一(ひと)ツの見世物小屋に入れば此処(こゝ)は狙公(さる)の芝居なり、見物は老若男女場内に充満(みち/\)てヤゝと賞(ほむ)る声頻(しき)りに聞ゆ、物具(もののぐ)爽やかに装(よそほ)ふたる大猿(おおさる)は志(し)の党の旗頭熊谷次郎直実、いまや花の盛りの敦盛卿を取つて押へぬ、かくなる上は是非に及ばす未来は必らず一蓮托生、首は前にぞ落ちにける、磯に伏したる玉織姫、沐猴(もくかう)にして、冠(かんむり)すと云ふ諺にも似たるかな、最(いと)もあでやかなる衣(きぬ)着(き)たるが裳(すそ)もホラーー走寄(はしりよ)り頭掻抱きてキヤツと泣く、巴峡啼猿(はけふていえん)の恨みもかくやらん。
次は子供の玉乗りなり、稚(おさ)なき女童の大きやかなる又は小さき玉に乗る、玉はコロ/\転び行くに、上なる人は少しも騒がず双(さう)の手を開き片脚(かたあし)を挙げなどする。見るも中々(なか/\)に危うき事なり、浮世を渡るも皆な此(かく)の如きものぞかし。
西洋手品の見世物あり、切たる首の或(あるひ)は語り或は歌ふ、枯たる枝に花咲くこともあれば是(こ)れも怪しむに足らざるべきか。 まだ/″\澤山(たくさん)あれども今は眼も脚も疲れぬ、イザ返(かへ)らんと立出(い)づる折から、時計の金鎖(きんぐさり)夕闇にもキラ/\閃(きら)めく紳士、芸妓(げいぎ)とも見ゆる女子(おなご)三人許(ばか)りに取囲まれ、酔ふたる面(かほ)は猩々(しやう/\)の如く、足元はヨロ/\と来かゝりぬ、落行先(おちゆくさき)は何処(いづく)なるらん心許(こゝろもと)なし。
再(ふたゝ)び仲見世を過ぎて大通に出づれバ混雑云はん方なし、行かふ馬車人力車、げにや肩摩(けんま)轂撃(こくげき)さても繁昌なるかな            (完)
[以下、1コマ落ち]
一昨日の日曜、同志のゑせ者と瀧野川(たきのがは)に遊ぶ林間に酒を煖(あたゝ)めて秋刀魚(さんま)を焼き、石造(せきけい)ならぬ板橋に車を停めて夕陽(せきよう)に色なき紅葉(かうやう)を眺め、頗(すこぶ)る面白きやうの事あり、次に記(しる)すべし読みて玉(たま)へ。



底本: 狂綺堂主人「一日道中記(一)―(四・完)」 東京日日新聞 明治24年11月6、7、8、10日

※段落(冒頭1字落とし)はないので、原文のままの体裁によった。
※原文は全ルビであるが、これを改めて( )として一部にルビを残した。
※旧漢字を現代漢字に改めた箇所がある。
※判読不能文字は※で示した。また、判読困難な文字があるため、推測した箇所がある。
  ・「桶婦(たをやめ)」
※なお、「一日道中記」の一部が、細馬宏通さんの「浅草十二階計画」(http://www.12kai.com/12kai/kidou.html)に出されています。連載の(二)(三)の一部が抄出されています。ただし、同抄出分には、原文と異なる箇所がいくつかあります。綺堂が訪れた当時の凌雲閣の解説もあり、参考になります。
入力:和井府 清十郎
公開:2003年4月28日


fusennori03-m24.jpg
風船乗評判高閣(ふうせんのりうわさのたかどの)・香朝楼筆(3世歌川国貞)明治24年刊[一部](錦絵の中の凌雲閣1)



綺堂事物ホームへ

(c) 2003. Waifu Seijyuro. All rights reserved.
inserted by FC2 system