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綺堂ディジタル・コレクション





つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル 化したものです。
 なお、入力者(和井府)自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ う 圓 朝 全 集

  『甲字楼夜話』より

岡 本 綺 堂 kido_in.jpg


 ある人が來て何かの話の末に、このごろ圓朝全集を讀みつゞけてゐるが、どれも豫想したほどに面白くない。あれでも名人であるのかしらと云ふやうな話があつた。勿論その人は圓朝の口演を實際に聽いたことのない二十代の青年である。  豫想したほどに面白くない。――それは寧ろ當然であると、わたしは答へた。
 圓朝全集は圓朝の口演を速記したものであるから、單に活字の上で讀んだのでは其の興味を感じられないのは當然ではあるまいか。たとひ相當の興味を感じ得られるとしても、その實際よりも大いに割引されるのは見易き道理である。たとへば、雨がザツと降つて來たと云つても、それが圓朝の口から出れば、いかにも大雨沛然として來つた感じをあたへるが、活宇の上では單にそれだけのことである。圓朝の名人たるのは其の話術の妙にある。而もそれを活字の上で讀んだのではどうにもならない譯である。
 圓朝が曾てその弟子達を戒めたといふ話が傳はつてゐる。
「おまへ達は物をくどく云ふからいけない。たとへばお化が出たときに、お前達は『わあ、大變だ。お化が出た。』といふ。それでは話といふものにならない。唯、『わあ』といふ一句で、お化が出て大変だといふだけの意味を含ませなければいけない。『わあ、大變だ。お化が出た。』といふのは小説である。小説は丈宇の上だけで讃むのであるから、一々叮嚀に『わあ、大變だ。お化が出た。』と書かなければならないが、話は口でいふのであるから、その云ひ方でどうにでもなる。少なくも『わあ、大變だ。』ぐらゐで聽き手に會得させる工夫をしなければいけない。」
 圓遊もおなじやうなことを私に語つたことがある。
「話でくどいことを説明するのはいけません。早い話が『表へ出ると、眞暗でございます。』といふ。その『眞暗でございます。』の一句で、いかにも夜の暗いことを感じさせるのが話の上手といふものです。それをくどく説明して、『一寸先も見えない』とか、『墨を流したやうに黒い』とか、色々のことをならべ立てるのは初心の者のやることで、却つて聽きの受けが悪いものです。」  わたしは若いときに圓朝の話をしば/\聽いたことがあるが、その話は圓朝全集にあらはれてゐるものよりも更に簡潔であつたやうに記憶してゐる。圓朝全集の原稿はやまと新聞その他に掲載されたものを土台にしてゐるのが多い。新聞社ではそれを連日の續きものとして讀ませる都合上、幾分か其の口演に加筆したやうに思はれる個所が無いでもない。いづれにしても、圓朝等は自分のイキ一つで其の話を面白くも聽かせ、悲しくも嬉しくも、物凄くも怖ろしくも、聞かせるのを能事としてゐたのであるから、それを高坐の上から聽かないで、紙の上や活字の上から見ようといふのは間違つてゐる。その間違ひを棚にあげて、豫想したほどに面白くないなどと云はれては、圓朝も迷惑するであらう。
 それは圓朝等の人情話や落語ばかりではない、戯曲の上にも同様であると思ふ。作者が舞台の上で観るべく書いてある戯曲を、單に紙の上や活字の上で讀んだだけで、面白いとか面白くないとか云ふ批評は容易に下せる筈のものでない。前に云った圓朝の「わあ」や、圓遊の「眞暗」とおなじことで、文字の上では何だか物足らない、興味の薄いもののやうに感じられても、それが舞台の上で實演されると、思ひのほかの効果を擧げ得ることがある。落語ばかりでなく、芝居にもイキがある。そのイキは舞臺に掛けてみなければ、本當にわかるもので無い。その意味から云ふと、圓朝等もその口演の筆記を發表せず、劇作家もその戯曲の原稿を發表せず、前者は高坐に於てのみ、後者は舞臺に於てのみ發表するのが最も安全であるとも考へられる。むかしの人達は皆それであつた。
 しかし今日ではさうも行かない。さうして、圓朝は活字の上で批評をうけ、戯曲作者は活字の上で批評を受けなければならないのである。


底本:岡本綺堂 「甲字楼夜話」綺堂劇談194−197頁
  青蛙房 昭和31年2月10日
入力:和井府清十郎
公開日:2006年9月6日

おことわり:
題名の上の、「う」は、「いろは」の順を示す(底本のまま)。
原文の旧漢字に忠実になるようにしていますが、旧漢字のようには一部表記できていないものも存します。





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