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明治の演劇小史 その2 ―綺堂登場の時代と背景:明治43年まで





春木座(のちの、本郷座) 鳥熊芝居

 岡本綺堂少年も、早朝から通った、本郷・春木座(のち本郷座)の



「春木座鳥熊芝居 第一回御目見興行絵番付」

川上音二郎のオッペケペー節

 権利幸福嫌ひな人に、自由湯をぱ飲ましたい。オツペケペ、オツぺケぺポペツポツポー、堅い上下(かみしも)角(かど)とれて、マンテル、ズポンに人力車、いきな束髪ポンネツト、貴女や紳士のいでたちで、表面の飾りに好いけれど、政治の思想が欠乏だ。天地の眞理が分からない。心に自由の種を蒔け。オツオペケペ、オツペケペツポー、ペツポツポー

 當り外さぬ中村座書生の所作事。オツペケぺ、川上ゑんちやうの大一座、自由の権利で教導し、板垣遭難大当り、監獄写真は物凄い、心の迷で赤いべゝ、存廃娼妓の問答は得意の弁士で大笑ひ、議論はまち/\客の癖。オツオペケペ、オツペケペツポー、ペツポツポー

 米価騰貴の今日に、細民困窮顧みす。オツペケペ、目深に被つれ高帽子、金の指輪、金時計、権門貴顕に膝を曲げ、芸者太鼓に金を蒔き、内に米を倉に積み、同胞兄弟見殺しか、幾ら慈悲なき慾心も、余り非道な薄情な。但しに冥土のお土産か、地獄で閻魔に面会し、賄賂使ふて極楽へ行けろかへ、行けないよ。オツオペケペ、オツペケペツポー、ペツポツポー

 洋語を習うて開化振リ、パン食ふばかリが改良でない。オツペケペ、自由の権利を拡張し、国威を張るのが急務だよ、知識と知識の比べやい、キヨロ/\致しちやゐられない、究理と発明魁で、異国に劣ず遣つ付けろ、神国めいぎだ、日本ポー、オツオペケペ、オツペケペツポー、ペツポツポー


川上一座の、「板垣君遭難実記」

オッペケペ―節をやっている絵も描かれている。明治24年10月の日付のあるパンフレット




演劇改良論


帰朝後の左団次による明治座改良の不評・失敗の記事

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明治41年1月21日付 東京朝日新聞

 
川上の革新劇 ―左団次の参加と綺堂の脚本

第一軍 旧劇、第二軍 新劇という一座編成で、明治座での大入り盛況の後、全国各地を巡業するというやり方を取った。音二郎は、巡業先の旅先から、作者の綺堂へ決まって封書・葉書をよこす律儀さがあった。

この興行によって、綺堂と(2世)左団次の連携が生まれるきっかけとなった。川上には、興行師としての評価、綺堂にとっては、本格的劇作家デビューの夢がかない、左団次はそれまで破綻状態だった明治座のマネジメントを軌道に乗せ、同じに歌舞伎役者としての名声を上げることになった歴史的なものであったといえよう。

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明治41年9月17日付「時事新報」による案内の記事。


綺堂の出世作『維新前後』の劇評記事
この劇評は粗雑だが、当時の音二郎・左団次を見る目の冷たいことは明らかだろう。綺堂の狂言(戯曲)への批判もさんざんなもの。せっかくなら、当時の「朝日」の劇評家といえば饗庭篁村、つまり竹の屋主人に書いて欲しかったですね。

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挿絵入りで、しかも2段組の記事は、東京朝日新聞明治41年9月17日付による(大きな画像・181KB)。
なお、関連記事あり:明治41年9月14・17・18日付 東京朝日新聞




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