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綺堂のファミリー






父 岡本敬之助、のち純(きよし)、半渓(号)

奥州二本松藩士武田芳忠の、5人兄弟のうちの3男として生まれた。他に2人の姉妹があったようだが、夭折した。一番上の兄が武田家を継ぎ、次男以下の4人の男兄弟ははやく江戸へ出たようだ。

200石の御家人の岡本家に入る。この間の事情は明らかではない。明治元年5月の上野のいくさ、彰義隊に参加するも、奥州にて敗走負傷し、江戸へ戻り、英国商人ブラウンにかくまわれる。その紹介もあってか、明治2年、当時高輪・泉岳寺に置かれていた英国公使館の日本語書記として雇われ、以後34年間に渡り勤務した。おそらくアーネスト・サトウとも会ったことがあると思う。むしろ英語ができない者を雇ったのだという。
また、彰義隊といえば、敬之助も義経袴に水色がかったぶちゃき羽織、朱鞘の刀に足駄履きの粋な姿であったろう。彰義隊の戦や敗走する話は、「権十郎の芝居」(三浦老人昔話)、「兜」、「相馬の金さん」(戯曲)などに使われている。父への想いがあったのだろうか。

9世市川団十郎の演劇改良のブレーンである求古会のメンバーでもあったようだ。このあたりが、父・純(維新後、改名・きよし)の趣味というべきかも知れない。この会を通じて、福地桜痴、関直彦とも知合いになったように思われる。団十郎の若い者が、父・純に会の集まりがあることを元園町の家まで知らせに来たりしている。応対したのが、綺堂少年だったというわけである。

歌舞伎や芝居に関心があったらしく、守田勘弥(のち芝翫)とも交際があった。守田もやはり、元園町の家を訪ねてきている。道を教えたのが、綺堂少年だった。

綺堂の作品にも登場している。「穴」は高輪・泉岳寺時代、「西郷星」では、竹橋騒動の時の対応振りが書かれている。また綺堂には、父や先祖を追憶した文がある。

風流人であったようだ。朝風呂に行くのに、ほほかむりをしてでかけた。また、知人の連帯保証人となったために、貸し金の返済訴訟に巻き込まれて、家運が傾いたようだ。このため、17歳くらいの綺堂少年は、金策のためだったろうと思われるが、甲府へ単独行を余儀なくされる。この事情により、少年綺堂は、大学への進学をあきらめた。父は、明治36年4月7日死去。綺堂の、文芸倶楽部「父の墓」の小文あり。

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著作:
・政治人情小説 保安条令後日之夢 イーグル書店 岡本半渓 1888・明治21年3月
・保安条令 後日の夢 井ノ口松之助(書店) 明治22年3月 岡本純
・里の鶯 金泉堂 明治22年5月 岡本半渓
・演劇改良 三人笑語 明治20年5月(日付なし。奥付に「編輯人 岡本純」) 明治書房 二本亭松風戯著 (市川団洲題辞)
・走馬燈

などの小説のほか、芝居評論、音曲解説、盆栽の作り方、小鳥の飼い方などの本があるという。(岡本経一「日記登場人物名簿」岡本綺堂日記616頁による)

二本亭松風戯著『演劇改良 三人笑語』(明治20年5月)は、秋葉太郎『日本新劇史上巻』146頁(昭和30年12月)によると、岡本純の著書とされている。
     「著者は岡本綺堂の実父岡本純である。二本亭松風とあるのは純の父が、奥州二本松の藩士であったからであらう。」 ―秋葉・同頁
 なるほど「二本亭松風」は郷里の二本松藩を連想させる。現物を見たわけではないが、団洲(団十郎)の題辞のある点や秋葉氏と綺堂との知己関係からすれば父・純の著作か否か確認したことも考えられるため、確率は高いだろう。とすれば、父の著作目録がもう一つ増えたわけだ。内容は、旧平、奇助、洋吉の3人が演劇改良を議論し、極端な欧化主義による改良に反対するというストーリーのようだ。なお、河竹繁俊・日本演劇全史823頁(1959、岩波書店)も、この「著者は岡本純(綺堂の実父)」としている。

上図は、岡本純著「保安条令 後日の夢」(明治22年の方)の表紙。実弟の武田悌吾の跋文がある。手に触れ読むことのない作品だろうとあきらめていたが、入手、読むことができた。解説子の意図によると、保安条例の当時の生活レベルでの様子がうかがえるから採録したという。これが、岡本綺堂の実父の手になる作品であることは知らないようだ(明治文化全集(吉野作造編、日本評論社・1927年)第13巻時事小説篇)。

保安条例は、民権派弾圧のために出されたもので、東京四方3里外へ追放するなどの規定を含んでおり、中江兆民などは大阪へ逃れざるをえなかった。この小説でも、宿屋に滞在する若い書生が、ポリスの訊問にあい、引き立てられるところから始まる。この書生は民権運動とは無関係で冤罪のようなストーリー展開である。条例施行直後にこのような小説を出す勇気と、そのねらいについて作者に聞きたいところである。

【追記 5/26/2003】 岡本半渓とその著作

岡本半渓は、劇作家岡本綺堂の実父である。明治35年4月に没するのだが、葬儀は公使館で執り行ってくれたという。彰義隊時代あるいいはそれ以前からの、河原崎権十郎、後の、名優と謳われた9世市川団十郎のファンであり、それが縁で、団十郎のブレーンであった求古会のメンバーであった。必然、麹町元園町の岡本家には、三升屋や守田勘弥なども出入りした。若い尾崎紅葉も、父純(新政府になって名乗った名前)のもとを尋ねたことがある。

岡本半渓は遊芸に詳しかったようだ。小鳥の飼い方の著作もあるのだと、岡本経一さんもどこかで書いていた。岡本半渓の著作を読むことになるとは夢にも思っていなかったし、そんなものがあるとは思ってもいなかったが、「保安条例後日の夢」を読むことができた。弾圧立法として悪名高い、保安条例の発布される前後を舞台にした物語である。

さて、古新聞を繰っていたら、広告に岡本半渓の本がリストされているのを見つけた。下の画がそれである。東京朝日新聞明治21年9月9日(四)より。

hankei-book.jpg 右から「月琴提琴 清楽の栞 続篇」正価金三十銭、とある。その左が、「月琴提琴 清楽の栞 再板」、さらに左に、「保安条例後日の夢 三版」、「兵法要務 柔術剣棒図解秘訣 三版」「毛糸あみ物独案内 五版」とある。
 当時何部を刷ったか知らないが、版を重ねているのは、結構売れた証拠となるのだろうか(あるいは、売れ行きよいとの印象を与えるためにそうしたとか……。武士は嘘はつかないはず……かも)。

「岡本半渓先生著」と謳ってあるので、この5編はすべて岡本半渓の著作であろうと思われる。「保安条例後日の夢」も中ほどに書いてあるので、間違いはないだろうと思う。出版社は、「東京京橋大工町9番地 ○魁真楼 井口松之助」書店である。ここからは岡本敬二先生の名前で、英会話の本(したがって、綺堂の著作リストでは第一番に出てくる。かりに実・真作であるならば17歳のころ、東京府立一中に在学の頃ということになる)が出されている。また、若い綺堂が日日に入社したての明治25、6年頃に下宿していた家でもある。

宣伝文句を読んでゆくと、2番目の「月琴提琴 清楽の栞 再板」には、「中江篤介君序」とある。序もぜひ読んで見たいものだが、なぜ中江兆民と知り合いであったか、あるいはなぜ序を書いてもらったかなど興味は尽きない。「保安条例後日の夢」の序であるならよく判るが、こちらの序は実弟の武田悌吾である。この、綺堂にとってはおじさんにあたる武田は、半七捕物帳の第1作「お文の魂」に登場する、「Kのおじさん」のモデルである。

いずれにせよ、岡本綺堂の父・岡本半渓は、当時かなりの文人あるいは趣味人であったといえるだろう。そこで、編み物の独習本というのは見たとき(失礼ながら)笑ったのだが、本当に、旧武士であった彼はレースや毛糸を編むことが出来たのだろうか。抵抗はなかったのだろうか。わが国の編み物の歴史がいつから始まるか知らないが、西洋風あるいは英国風の編み物の技術を教えようとした本だと考えれば結構ありえない話ではない気もするが。編み物の教則本(である仮定として)であるとしたら、かなりその分野の嚆矢の部類に属するのではなかろうか。

岡本綺堂に親父のこの辺りの趣味や生活についてあまり書いていないのは残念な気もする。父が男子の修行に厳しかったとか、品川へ遊びに行ったとか、怪談話をしたとかなどはあるのですが。【追記 了】


母 幾野(きの)

 芝の町家の生まれであるが、当時の慣習に倣って、薩摩藩、二本松藩などで、御殿女中を勤めた。きれい好きで、厳しかったようだ。綺堂作品にもほとんど登場しないが、御殿女中ものの知識は母親の話を聞いたものがあるかもしれない。また、元園町へ引っ越す前の、飯田二合半坂の借家での幽霊屋敷の話や西郷星などの話の中で登場するくらいだろうか。日記(大震災の前のものは焼失している)にも、その母方の話や縁者はあまり出てきていないように思われる。


妻 お栄

 愛媛宇和島藩士小島邦重の娘である。岡本綺堂の年譜によると、結婚は明治30(1897)年1月とされているが、どのような縁で知り合ったかは、寡聞にしてわからない。今となっては謎といってもいいかもしれない。若い新聞記者であった綺堂とその両親とも一時期同居したようだ。婚姻の時期が、綺堂が新聞社勤めを辞めている時期とも重なるので、経済的には不安定というか、親元でのいわば居候状態であったのではなかろうかと推測する。それにもかかわらずなぜという疑問が出てくる。昭和18年に目黒の自宅にて死去。


姉 梅

 明治3年生まれ。明治33年1月、石丸常次郎に嫁ぐ。夫・石丸氏は、福島・須賀川で、幼稚園の先生を務めていたが、後に養鶏場を経営したりしていた。昭和4年8月に夫が死亡した後は、須賀川を引き上げて、元園町の綺堂宅に身を寄せた。どのような縁で石丸氏に嫁いだかはわからない。

 綺堂の記述によると、明治34年11月30日には姉の娘の葬儀が青山墓地で執り行われたとある。梅の娘も夭折したようだ。梅には息子の英一があるが、この娘というのが英一の姉なのか、妹なのかは目下はわからない。

 梅自身は、養子である岡本経一氏の郷里である岡山・勝間田町の実家で、昭和21年1月11日死去した。77歳であった。経一氏は、梅女は小柄で気さくな老女だったと書いている。また、綺堂と同じように、口の中で何か語る(独語する)癖があったという。


甥 英一

 姉梅の長男であるが、明治42年に綺堂が引き取ったようだ。画学校に通うも、18歳で夭折した。綺堂夫妻には実子がなかったので、おそらく姉の子を養子にするつもりだったろう。

 綺堂の追悼句や5月節句人形の事件などの記述があり、その死を悼んでいる。また、甥の追悼集を書いたりした。日記を見ても命日など、墓参りや供養をかかさない。


叔父 武田悌吾

 彼は、父敬之助・純のすぐ下の弟であり、綺堂にとっては叔父にあたる。やはり英国公使館勤務で、渡英した経験もある。住まいは、番町であったらしい。娘があり、のちに下記の小林蹴月と結婚する。半七捕物帳の「お文の魂」の冒頭に出てくるのは、この叔父さんがモデルであるような気がする。現に、綺堂は、この叔父からシェークスピアなどの話などを小さい頃に聴いている。明治27年没。


小林蹴月 のち秋月

 長野の出身 本名を芳三郎という。綺堂より3歳ばかり年上というから明治2年あたりの生まれであろう。
 岡鬼太郎・綺堂らと雑誌「東もやう」を刊行するなど、綺堂の演劇仲間といってよい。中央新聞などの新聞記者で、綺堂とは同僚だったこともある。また蹴月は、明治末から大正初期にかけて活躍した新聞小説家でもあり、芝居も上演されているが、後には骨董の鑑定でも有名であったという。

 叔父武田悌吾の娘と結婚しているので、綺堂と蹴月は姻戚関係ということになる。紀尾井坂、清水谷公園近くに住居し、近所の堺(利彦)枯川とも親しかったという。また、無類の酒好きでもあったようだ。「堺利彦伝」にもしばしば登場している。

 綺堂も散歩の途中などに頻繁に訪れている。綺堂日記への登場回数も多い。気が合うのか、家族同志の付き合いといった風だったようだ。関東大震災の初日の深夜に元園町の綺堂の自宅が焼け落ちたあと、一家で避難したのがこの蹴月の家である。

 主な作品:
 「むしろ旗」中央新聞明治35(1902)年11月25日(から連載)
 「賢夫人」中央新聞明治36(1903)年11月24日(から連載)
 「ゑはがき帖」中央明治37年10月29日
 「灯」やまと新聞明治45年4月24日
 「其夜の月」やまと新聞明治45年1月23日
 「妻と子」やまと新聞大正2年6月29日
 「夜半の鐘」やまと新聞大正3年3月26日
 「毒薬の壷」やまと新聞大正4年12月26日
 「袖と袖」やまと新聞大正5年12月10日
 「白芙蓉」中外商業新聞大正7年8月25日
 映画化:


養子 岡本経一

 元を森部経一といい、岡山県勝間田の同郷の先輩である額田六福氏の紹介で、関東大震災後の大久保での疎開時代に、綺堂の書生となった。書生としては、中野氏に次ぐ、2番目ではなかったろうか。
 青蛙房(文京区本郷)初代社長、のち会長でもある。
岡本経一「日記登場人物名簿」綺堂日記611頁以下、参照。
岡本経一「補遺」岡本綺堂『明治劇談 ランプの下にて』青蛙房選書8(昭和40年6月)ほか。

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岡本純著『政治人情小説 保安条令後日之夢』(明治21年)の挿絵


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