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綺堂の友人たち




綺堂の友人は、記者時代の交友関係がほとんどといってよいだろう。若さがあり、また芝居好きの仲間たちでもあった。なかでも、榎本虎彦、岡鬼太郎、松居松葉、鏑木清方の4人を取り上げる。


榎本虎彦 (えのもと とらひこ、1866〜1916)

 歌舞伎作者。別号破笠。福地桜痴の書生として学び、師の後を引き継いで歌舞伎座の立作者となった。「安宅の関」「名工柿右衛門」「南都炎上」などの代表作がある。

 劇作家希望の若き綺堂を、築地の福地桜痴の自宅へ案内したのは、榎本虎彦であった。近所の若い娘たちにからかわれたり、竹葉で好物の鰻を食しに行くのも二人であった。また、やまと新聞社時代などは、師の桜痴が編集長で、綺堂と虎彦は、ともに机を並べている。虎彦は、師であり、編集長である桜痴の“間”や“呼吸”を読むのに巧みであったという。

虎彦は、師の桜痴の跡を引き継いで、歌舞伎座の座付き作家となって行くのに対して、綺堂はあくまで局外作者の立場のままであった。


岡鬼太郎 (おか おにたろう、1872〜1943)

onitaro.jpg劇評家、劇作家。本名は嘉太郎(かたろう)。父の岡喜智は佐賀藩士で、海軍伝習所の伝習生として砲術を研究していたが、1861(文久)年には幕府の遣欧使節の一員として渡欧した。むろん、福沢諭吉らと一緒である。

麻布小学校高等科、東京府立中学校(現日比谷高校)に進学するも、のち慶応義塾本科4等の一に進学、明治25年に卒業した。同年生まれの岡本綺堂も、府立中学に進学しているが、そこでの同級生として知合いであったかどうかは不明。鬼太郎は、幼い時から寄席や芝居に興味があったようだ。

明治26年、父と福沢諭吉が旧知であった関係で、父に連れられて福沢を訪問し、彼の新聞である「時事新報」社へ、演芸記者としての入社が決まった。この年から翌年にかけて、杉贋阿弥(すぎ・がんあみ、郵便報知新聞)、岡本綺堂(東京日日新聞)、松居松葉(読売新聞)、伊原青々園(二六新聞)らと知合いになった。

後の明治38年5月からの若葉会の文士劇の代表メンバーがここにそろったわけである。この若葉会は、団十郎・菊五郎・左団次亡き後の、若手新聞記者による芝居革新の、実践的試みの母体となったものというべきだろう。また、若葉会および毎日新聞の両文士劇の実演において、岡鬼太郎の役者としての芝居が一貫して高く評価されていることは特記すべきであろう(→綺堂の文士劇 参照)。芝居への造詣と経験、学識の深さを感じさせ、後の演出家としての活躍の基礎となっているといえる。

鬼太郎は、その後、時事新報社を退社し、各社の新聞記者を経て、2世市川左団次らと演劇革新に貢献した。2世左団次の、明治座の財政困窮と芝居への苦悩は、1世左団次の代からの劇作家で芝居指導をしてきた松居松葉の後見のもと、芝居研究のため欧州へ向かわせることになった。明治40年8月に帰朝するが、明治40年秋、2世左団次は松居松葉と岡鬼太郎をブレーンに迎えて、11月の起死回生の明治座興行で歌舞伎改良の演劇を試みるも旧勢力の反発にあって失敗する。松葉は、全責任をとって都落ちをする。

その時、岡鬼太郎は、窮余の一策として川上音二郎と提携したり、また大阪の片岡仁左衛門を迎えるなどして、明治座の困窮を救うことになる。明治44年5月には綺堂の「修禅寺物語」、同年10月には「箕輪心中」など、岡鬼太郎の演出でヒットを得て、2世左団次の全盛へと動き出した。

ただ、明治41年夏、川上音二郎が脚本を依頼しに綺堂宅へ来たときに、「きっと左団次が出るのか」と念を押したのも、その背後に岡鬼太郎という旧知がいたこともあってそれならば脚本を書くという気になったと思われる。依頼に来たのが、左団次側の鬼太郎ではなく、川上本人であったところが、左団次と川上、つまり、左団次の復興を推し進める主軸が、新派の川上の側にあることは明白であろう。そのために、旧劇から、左団次はのちに批判されることにもなった。この川上革新劇は、左団次復活のために、綺堂物を川上がプロデュースして左団次でやろうという、ちょっと難しい側面を持っているのである。

大正元年8月、2世左団次は、父の遺産でもある明治座を伊井容峰に譲渡して、同年11月には、岡鬼太郎ともども松竹合名会社へ移った。

劇評では、杉贋阿弥、松居松葉とならんで「三暴れ」と称されるほど、激評家だったという。鬼太郎の劇評は、厳正で「劇通の劇評など耳にも掛けず、思う侭を真一文字に無遠慮に書立て」る手法であったらしい。

そこで、鬼太郎=左団次=綺堂という連携の中でも、盟友ともいえる綺堂ものへの批評を探してみたが、意外と少なかった。綺堂への苦言を呈してはいるが、朝日新聞の記事をつぎに挙げてみる。鬼太郎が書いているように、綺堂の『鳥辺山心中』の中で「清き少女(をとめ)と恋をして」というのは、私のような素人目にもちょっと引っかかる。歌舞伎の狂言よりは、島崎藤村の表現のようなと思ってしまうのだが、綺堂としては歌舞伎に新しい表現を持ち込むためのひとつだったのかもしれない。芝居を見たわけではないので大それたことも言えないのだが、私はこの鬼太郎の批評に一利あると見るのだが、いかがだろうか。

鬼太郎の綺堂劇評

 岡鬼太郎「長編史劇・西郷隆盛―帝国劇場の左団次一座」朝日新聞昭和4年5月5日
  同  「綺堂劇その二―帝国劇場の左団次一座」朝日新聞昭和4年5月6日
   (岡鬼太郎氏本人および掲載誌の東京朝日新聞の著作権保護期間の50年を経過しています)

脚本に「小猿七之助」「御存知東男」「今様薩摩歌」などがある。簡潔な運びと洗練された味わい深い会話などを特色としている。永井荷風は、岡鬼太郎の近松評価にも敬意を表している。「岡鬼太郎君は近松の真価は世話物ではなくして時代物であると言われたが、わたくしは岡君の言う所に心服している。」(荷風随筆集(下)206頁(岩波文庫・1986)

また、少年時代からそうだったようだが、岡は小説家でもある。岡鬼太郎は、「花柳小説」というジャンルの先駆者であった。自らの柳橋に入り浸っていた頃の経験などを元にしたといわれる花柳界を舞台としたものがある。「隅田川」(明治29年8−9月)、「昼夜帯」(明治39年5月)、「花柳巷談 二筋道」(明治39年5月)、「もやひ傘」(明治40年月)、「春色輪屋なぎ」(明治40年12月)、「芸者おぼゑ帳」(明治45年2月)、「合三味線」(明治45年6月)、「あつま唄」(大正7年4月)などがある。永井荷風は、岡鬼太郎の明治30年頃の小説をもって「純然たる花柳小説と称する文学的ジャンル」の嚆矢であるとしている(永井荷風「明治大正の花柳小説」朝日新聞昭和10年2月18日号)。荷風は、かなり高く岡を評価している。考え方なりが、近かったのであろう。

岡鬼太郎の劇評にしても、また花柳小説にしても、今日ではほとんど注目されないのであるが、評価すべき機会が必要かと思う。


松居松翁 (まつい しょうおう、1870〜1933)

M_shoyo.jpg  劇作家。宮城県出身で、本名は北名真玄(まさはる)。初号は松葉であるが、師の坪内逍遥との音の重複を遠慮して、後に松翁と改めた(大正13年)。早稲田大学・坪内逍遥に師事した。

松居は、明治28年中央新聞、明治29年報知新聞など、新聞記者時代があった。岡といい、松居といい、明治27・28年頃は22−25歳くらいの若者であり、岡本綺堂との出会いの時期といってよい。記者としては、筆が早く、評判であったらしい。また、岡本綺堂とも、記者時代には机を並べた時期があった。新聞社での昼飯に、松金のてんぷらを二人で分け合って食べたという逸話を、綺堂は残している。

演劇改良の広い視点から見れば、松居は、当時、坪内をはじめとする早稲田大学などの大学派の改革運動と、各新聞記者ら劇通の劇作家(志望)記者らの改革運動との接点にあるといえよう。この他に、鴎外をはじめとする文学者らの劇作家グループがあった。

はやくから1世左団次と組んで、歌舞伎改良に従事・実践したが、その作「悪源太」(明治32年、報知新聞連載)は、座付き作者以外の者の作品が初演されたもの(1世左団次のために脚色)として有名であり、後の素人劇作家の先駆け・希望でもあった。

明治37年、1世左団次から、その遺児筵升(のちの2世左団次)の後見も依頼され、その演技指導と歌舞伎改革に貢献した。明治39年に渡欧し、翌年8月に左団次ともども帰国した。

翌、明治41年1月には、2世左団次帰朝公演が行われた。準備と稽古は十分になされたらしい。松葉、岡鬼太郎の左団次ブレーンと、左団次本人、木村綿花らによって、明治座革新案を企図し、劇場改革に乗り出した。しかし、芝居茶屋制度の廃止、舞台・観客席の西洋化、劇場の飲食禁止などで不評をかこち、暴力沙汰もあり、改革興行は挫折した。小山内薫は左団次らの芝居そのものや劇場改革には賛辞を送っており、また彼の評価によると芝居そのものははるかに革新的だったのだが、ただ実際の興行そのものは失敗した。このため、松居は責任をとって東京を去り、静岡に蟄居した。この間のいきさつは、→明治演劇小史、参照

松居は、明治44年、帝国劇場の開場に伴い、新劇主任となる。商業演劇界の指導者として活躍した。作品に「坂崎出羽守」「文覚」など、著書に「団州百話」「劇壇今昔」などがある。


鏑木清方 (かぶらぎ きよかた、1878〜1972)

日本画家として有名である。東京出身で、本名は、健一。浮世絵師水野年方に学び、明治・大正の人物、風俗を精細な考証と清新な画風で表現。作品「墨田川舟遊」「三遊亭円朝」などがある一方で、随筆などにも才能があった。島崎藤村が、『破戒』の挿絵を依頼しに清方宅を訪れた。また、若い頃には、樋口一葉のファンであって、その没後はたびたび墓参したという。つぎのリンクには「一葉女史の墓」と題する印象的な画がある。

野口孝一「木挽町時代の鏑木清方」東京都中央区 区報「区のおしらせ 中央」

日報社や東京日日新聞社の創設者の一人である條野採菊(本名、伝平、山々亭有人などと号した)を父に持つ。鏑木姓は、母方の姓という。東京日日新聞社や、やまと新聞社に勤務していた頃、綺堂が新聞記者時代に、父採菊と知合いになった関係で、また綺堂・1872年生まれと比較的年齢も近いことから、たがいに行き来・知合いになったものと思われる。

どの程度の知合であったかというと、芝居見物をする仲であったようだ。最晩年の尾上菊五郎が病に倒れながらも、「終わり初物」となった勘平の道行の舞台を勤めることになった明治35年11月半ば、「忠臣蔵」「国姓爺合戦」の興行4日目を、松居松翁、岡鬼太郎、鏑木清方と綺堂の4人で平土間で見物したという(岡本綺堂『明治の演劇』232頁(1942、大東出版社))。道行の勘平の、菊五郎の“ふっくらとした柔らか味のある”舞台を、今後の歌舞伎はもう出せないのではないかと慨嘆している。清方は、熱心にそれをスケッチしていたという。尾上菊五郎は翌年明治36年2月没。

今後の綺堂関係との観点では、清方が綺堂について印象記など残していないかなど、調べてみる必要があると思われる。


半七碑除幕式 「十手飛び提燈舞う 賑やかに“半七碑”除幕」 東京日々新聞1949年11月7日

  ○式の写真あり
浅草花屋敷内
野村胡堂ら捕物作家クラブ
11月6日午前10時から除幕式
横溝正史氏令嬢瑠美ちゃん(十一)の手で行われた。
帯に十手を差し込んだ一龍斉貞丈の扮する半七
志村立美画伯の岡っ引らで一幕を演じた
コナ煙草の焼香

* * *

以上が記事の概要です。煙草を好んでいた綺堂に因んで煙草での焼香になったものと思われる。
除幕式が11月6日となっているのは、岡本綺堂の誕生日(11月15日)を意識してのことかと思われる。ただ、現在、半七碑は、花屋敷の中にはなく、浅草寺の境内にあるので、この間の経緯は未確認。  現在の半七碑の近くには、ガマの置物があり、たしか三本足だったと思う。三本足のガマ・蛙を好んでいた綺堂に因んだものであろう。しかし、先の新聞記事では触れられていない。

(この項、未完。7/29/2007.)





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