logoyomu.jpg

綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。「笛塚」は『青蛙堂鬼談』シリーズの第11作品です。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 笛 塚《ふえづか》  ――『青蛙堂鬼談』より

             岡 本 綺 堂
kido_in.jpg

         一

 第十一の男は語る。

 僕は北国の者だが、僕の藩中にこういう怪談が伝えられている。いや、それを話す前に、彼の江戸の名奉行根岸肥前守のかいた随筆「耳袋《みみぶくろ》」の一節を紹介したい。
「耳袋」のうちにはこういう話が書いてある。美濃《みの》の金森兵部少輔の家が幕府から取潰されたときに、家老のなにがしは切腹を申渡された。その家老が検視の役人にむかって、自分はこのたび主家の罪を身にひき受けて切腹するのであるから、決してやましいところはない。むしろ武士としで本懐に存ずる次第である。しかし実を申せば拙者には隠れたる罪がある。若いときに旅をしてある宿屋に泊ると、相宿《あいやど》の山伏が何かの話からその太刀をぬいて見せた。それが世にすぐれた銘刀であるので、拙者はしきりに欲しくなって、相当の価でゆずり受けたいと懇望したが、家重代《いえじゅうだい》の品であるというので断られた。それでもやはり思い切れないので、あくる朝その山伏と連れ立って人通りのない松原へ差しかかったときに、不意にかれを斬り殺してその太刀を奪い取って逃げた。それは遠い昔のことで、幸いに今日まで誰にも覚られずに月日を送って来たが、今更おもえば罪深いことで、拙者はその罪だけでもかような終りを遂げるのが当然でござると云い残して、尋常に切腹したということである。これから僕が話すのも、それにやや似通っているが、それよりも更に複雑で奇怪な物語であると思って貰いたい。

 僕の国では謡曲や能狂言がむかしから流行する。したがって、謡曲や狂言の師匠もたくさんある。やはりそれらからの関係であろう、武士のうちにも謡曲はもちろん、仕舞《しまい》ぐらいは舞う者もある。笛をふく者もある。鼓をうつ者もある。その一人に矢柄喜兵衛という男があった。名前はなんだか老人らしいが、その時はまだ十九の若侍で御馬廻りをつとめていた。父もおなじく喜兵衛と云って、せがれが十六の夏に病死したので、まだ元服したばかりの一人息子が父の名をついで、とどこおりなく跡目を相続したのである。それから足かけ四年のあいだ、二代目の若い喜兵衛も無事に役目を勤め通して、別に悪い評判もなかったので、母も親類も安心して、来年の二十歳にもなったならば然るべき嫁をなどと内々心がけていた。
 前に云ったような国風であるので、喜兵衛も前髪のころから笛を吹き習っていた。他藩であったら或いは柔弱のそしりを受けたかも知れないが、ここの藩中では全然無芸の者よりも、こうした嗜《たしな》みのある者の方がむしろ侍らしく思われるくらいであったから、彼がしきりに笛をふくことを誰もとがめる者はなかった。
 むかしから丸年《まるどし》の者は歯並がいいので笛吹きに適しているとかいう俗説があるが、この喜兵衛も二月生れの丸年であるせいか、笛を吹くことはなかなか上手で、子供のときから他人《ひと》も褒める、親たちも自慢するというわけであったから、その道楽だけは今も捨てなかった。
 天保《てんぽう》の初年のある秋の夜である。月のよいのに浮かされて、喜兵衛は自分の屋敷を出た。手には秘蔵の笛を持っている。夜露をふんで城外の河原へ出ると、あかるい月の下に芒《すすき》や葦《あし》の穂が白くみだれている。どこやらで虫の声もきこえる。喜兵衛は笛をふきながら河原を下《しも》の方へ遠く降りてゆくと、自分のゆく先にも笛の音《ね》がきこえた。
 自分の笛が水にひゞくのではない、どこかで別に吹く人があるに相違ないと思って、しばらく耳をすましていると、その笛の音が夜の河原に遠く冴えてきこえる。ふく人も下手ではないが、その笛がよほどの名笛であるらしいことを喜兵衛は覚《さと》って、かれはその笛の持主を知りたくなった。
 笛の音に寄るのは秋の鹿ばかりでない、喜兵衛も好きの道にたましいを奪われて、その笛の方へ吸い寄せられてゆくと、笛は河しもに茂る芒のあいだから洩れて来るのであった。自分とおなじように、今夜の月に浮れて出て、夜露にぬれながら吹き楽む者があるのか、さりとは心僧いことであると、喜兵衛はぬき足をして芒叢《すすきむら》のほとりに忍びよると、そこには破筵《やれむしろ》を張った低い小屋がある。いわゆる蒲鉾小屋で、そこに住んでいるものは宿無しの乞食であることを喜兵衛は知っていた。
 そこからこういう音色の洩れて来ようとは頗る意外に感じられたので、喜兵衛は不審そうに立ち停まった。
「まさか狐や狸めがおれをだますのでもあるまい。」
 こっちの好きに付け込んで、狐か川獺《かわうそ》が悪いたずらをするのかとも疑ったが、喜兵衛も武士である。腰には家重代の長曽弥虎徹《ながそねこてつ》をさしている。なにかの変化《へんげ》であったらば一刀に斬って捨てるまでだと度胸をすえて、彼はひと叢しげる芒をかきわけて行くと、小屋の入口の筵をあげて、ひとりの男が坐りながらに笛をふいていた。
「これ、これ」
 声をかけられて、男は笛を吹きやめた。そうして、油断しないような身構えをして、そこに立っている喜兵衛をみあげた。
 月のひかりに照らされた彼の風俗は紛れもない乞食のすがたであるが、年のころは二十七八で、その人柄がここらに巣を組んでいる普通の宿無しや乞食のたぐいとはどうも違っているらしいと喜兵衛はひと目に見たので、おのずと詞《ことば》もあらたまった。
「そこに笛を吹いてござるのか。」
「はい。」と、笛をふく男は低い声で答えた。
「あまりに音色が冴えてきこえるので、それを慕ってここまで参った。」と、喜兵衛は笑を含んで言った。
 その手にも笛を持っているのを、男の方でも眼早く見て、すこしく心が解けたらしい。彼の詞も打解けてきこえた。
「まことに拙い調べで、お恥かしゅうござります。」
「いや、そうでない。先刻《せんこく》から聴くところ、なかなか稽古を積んだものと相見える。勝手ながら、その笛をみせてくれまいか。」
「わたくし共のもてあそびに吹くものでござります。とてもお前さま方の御覧に入るるようなものではござりませぬ。」
 とは言ったが、別に否《いな》む気色《けしき》もなしに、彼はそこらに生えている芒の葉で自分の笛を丁寧に押しぬぐって、うやうやしく喜兵衝のまえに差出した。その態度が、どうしてただの乞食でない、おそらく武家の浪人がなにかの子細で落ちぶれたものであろうと喜兵衛は推量したので、いよいよ行儀よく挨拶した。
「しからば拝見。」
 彼はその笛をうけ取って、月のひかりに透してみた。それから一応断った上で、試みにそれを吹いてみると、その音律がなみなみのものでない、世にも稀なる名管《めいかん》であるので、喜兵衛はいよいよ彼を唯者でないと見た。自分の笛ももちろん相当のものではあるが、とてもそれとは比べものにならない。喜兵衛は彼がどうしてこんなものを持っているのか、その来歴を知りたくなった。一種の好奇心も手伝って、かれはその笛を戻しながら、芒を折敷いて相手のそばに腰をおろした。
「おまえはいつ頃からここに来ている。」
「半月ほど前から参りました。」
「それまではどこにいた。」と、喜兵衛はかさねて訊いた。
「このような身の上でござりますから、どこという定めもござりませぬ。中国から京大阪、伊勢路《いせじ》、近江路、所々をさまよい歩いて居りました。」
「お手前は武家でござろうな。」と、喜兵衛は突然にきいた。
 男はだまっていた。この場合、なんらの打消しの返事をあたえないのは、それを承認したものと見られるので、喜兵衛は更にすり寄って訊いた。
「それほどの名笛を持ちながら、こうして流浪していらるるには、定めて子細がござろう。御差支えがなくばお聴かせ下さらぬか。」  男はやはり黙っていたが、喜兵衛から再三その返事をうながされて、かれは渋りながらに口を開いた。
「拙者はこの笛に祟られているのでござる。」

      二

 男は石見《いわみ》弥次右衛門という四国の武士であった。彼も喜兵衛とおなじように少年のころから好んで笛を吹いた。
 弥次右衛門が十九歳の春のゆうぐれである。彼は菩提寺に参詣して帰る途中、往来のすくない田圃なかにひとりの四国遍路の倒れているのを発見した。見すごしかねて立寄ると、彼は四十に近い男で病苦に悩み苦んでいるのであった。弥次右衛門は近所から清水を汲んで来て飲ませ、印籠《いんろう》にたくわえの薬を取出してふくませ、いろいろに介抱してやったが、男はますます苦むばかりで、とうとうそこで息を引き取ってしまった。
 かれは弥次右衛門の親切を非常に感謝して、見ず識らずのお武家様がわれわれをこれほどにいたわってくだされた。その有難い御恩のほどは何ともお礼の申上げようがない。ついては甚だ失礼であるが、これはお礼のおしるしまでに差上げたいと言って、自分の腰から袋入りの笛をとり出して弥次右衛門にささげた。
「これは世にたぐいなき物でござる。しかしくれぐれも心《こころ》して、わたくしのような終りを取らぬようになされませ。」  かれは謎のような一句を残して死んだ。弥次右衛門はその生国《しようこく》や姓名を訊いたが、かれは頭《かぶり》を振って答えなかった。これも何かの因緑であろうと思ったので、弥次右衛門はその亡骸《なきがら》の始末をして、自分の菩提寺に葬ってやった。
 身許不明の四国遍路が形見《かたみ》にのこした笛は、まったく世にたぐい稀なる名管であった。かれがどうしてこんなものを持っていたのかと、弥次右衡門も頗る不審に思ったが、いずれにしても偶然の出来事から意外の宝を獲たのをよろこんで、かれはその笛を大切に秘蔵していると、それから半年ほど後のことである。弥次右衛門がきょうも菩提寺に参詣して、さきに四国遍路を発見した田圃なかにさしかかると、ひとりの旅すがたの若侍がかれを待ち受けているように立っていた。
「御貴殿は石見弥次右衛門殿でござるか。」と、若侍は近寄って声をかけた。
 左様でござると答えると、かれは更に進み寄って、噂にきけば御貴殿は先日このところに於て四国遍路の病人を介抱して、その形見として袋入りの笛を受取られたと云うことであるが、その四国遍路はそれがしの仇でござる。それがしは彼の首と彼の所持する笛とを取るために、はるばると尋ねてまいったのであるが、かたきの本人は既に病死したとあれば致し方がない。せめてはその笛だけでも所望いたしたいと存じて、先刻からここにお待ち受け申していたのでござると言った。
 薮から棒にこんなことを言いかけられて、弥次右衛門の方でも素直に渡すはずがない。かれは若侍にむかって、お身はいずこのいかなる御仁で、またいかなる子細で彼の四国遍路をかたきと怨まれるのか、それをよく承った上でなげれば何とも御挨拶は出来ないと答えたが、相手はそれを詳しく説明しないで、なんでも彼の笛を渡してくれと遮二無二《しやにむに》彼に迫るのであった。
 こうなると弥次右衛門の方には、いよい疑いが起って、彼はこんなことを云いこしらえて大切の笛をかたり取ろうとするのではあるまいかとも思ったので、お身の素姓、かたき討の子細、それらが確かに判らないかぎりは、決してお渡し申すことは相成らぬと手強くはねつけると、相手の若侍は顔の色を変えた。
 この上はそれがしにも覚悟があると云って、かれは刀の柄に手をかけた。問答|無益《むやく》とみて、弥次右衛門も身がまえした。それからふた言三言言い募った後、ふたつの刀が抜きあわされて、素姓の知れない若侍は血みどろになって弥次右衛門の眼のまえに倒れた。
「その笛は貴様に祟るぞ。」
 言い終って彼は死んだ。訳もわからずに相手を殺してしまって、弥次右衝門はしばらく夢のような心持であったが、取りあえずその次第を届け出ると、右の通りの事情であるから弥次右衛門に咎めはなく、相手は殺され損で落着《らくちやく》した。彼に笛を譲った四国遍路は何者であるか、後の若侍は何者であるか、勿論それは判らなかった。
 相手を斬ったことは先ずそれで落着したが、ここに一つの難儀が起った。と云うのは、この事件が藩中の評判となり、主君の耳にもきこえて、その笛というのを一度みせてくれと云う上意が下《くだ》ったことである。単に御覧に入れるだけならば別に子細もないが、殿のお部屋さまは笛が好きで、価《あたい》を問わずに良い品を買い入れていることを弥次右衛門はよく知っていた。迂闊にこの笛を差出すと、殿の御所望という口実でお部屋様の方へ取りあげられてしまうおそれがある。さりとて仮にも殿の上意とあるものを、家来の身として断るわけには行かない。弥次右衛門もこれには当惑したが、どう考えてもその笛を手放すのが惜かった。
 こうなると、ほかに仕様はない。年の若いかれはその笛をかかえて屋敷を出奔した。一管の笛に対する執着のために、かれは先祖伝来の家禄を捨てたのである。
 むかしと違って、そのころの諸大名はいずれも内証が逼迫《ひつぱく》しているので、新規召抱えなどということはめったにない。弥次右衛門はその笛をかかえて浪人するより外はなかった。かれは九州へ渡り、中国をさまよい、京大阪をながれ渡って、わが身の生計《たつき》を求めるうちに、病気にかかるやら、盗難に逢うやら、それからそれへと不運が引きつづいて、石見弥次右衛門という一廉《ひとかど》の侍がとうとう乞食の群に落ち果ててしまったのである。
 そのあいだに彼は大小までも手放したが、その笛だけは手放そうとしなかった。そうして、今やこの北国にさまよって来て、今夜の月に吹き楽むその音色を、測《はか》らずも矢柄喜兵衝に聴き付けられたのであった。
 ここまで話して来て、弥次右衛門は溜息をついた。
「さきに四国遍路が申残した通り、この笛には何かの崇があるらしく思われます。むかしの持主は何者か存ぜぬが、手前の知っているだけでも、これを持っていた四国遍路は路ばたで死ぬ。これを取ろうとして来た旅の侍は手前に討たれて死ぬ。手前もまたこの笛のために斯様な身の上と相成りました。それを思えば身の行末もおそろしく、いっそこの笛を売放すか、折って捨つるか、二つに一つと覚悟したことも幾たびでござったが、むざむざと売り放すも惜しく、折って捨つるはなおさら惜しく、身の禍いと知りつつも身を放さずに持っております。」
 喜兵衛も溜息をつかずには聴いていられなかった。むかしから刀に就いては市こんな奇怪な因縁話を聴かないでもないが、笛に就いてもこんな不思議があろうとは思わなかったのである。
 しかし年のわかい彼はすぐにそれを否定した。おそらくこの乞食の浪人は、自分にその笛を所望されるのを恐れて、わざと不思議そうな作り話をして聞かかせたので、実際そんな事件があったのではあるまいと思った。
「いかに惜い物であろうとも、身の禍いと知りながら、それを手放さぬというのは判らぬ。」と、かれは詰《なじ》るように云った。 「それは手前にも判りませぬ。」と、弥次右衛門は云った。「捨てようとしても捨てられぬ。それが身の禍いとも祟りともいうのでござろうか。手前もあしかけ十年、これには絶えず苦められて居ります。」
「絶えず苦められる……。」
「それは余人にはお話のならぬこと。又お話し申しても、所詮《しよせん》まこととは思われますまい。」
 それぎりで弥次右衛門は黙《だま》ってしまった。喜兵衛もだまっていた。唯きこえるのは虫の声ばかりである。河原を照す月のひかりは霜を置いたように白かった。
「もう夜がふけました。」と、弥次右衛門はやがて空を仰ぎながら言った。
「もう夜がふけた。」
 喜兵衛も鸚鵡《おうむ》がえしに言った。かれは気がついて起ちあがった。

      三

 浪人に別れて帰った喜兵衛は、それから一|刻《とき》ほど過ぎてから再びこの河原に姿をあらわした。かれは覆面して身軽によそおっていた。「仇討《かたきうち》襤褸錦《つづれのにしき》」の芝居でみる大晏寺堤の場という形で、かれは抜き足をして蒲鉾小屋へ忍び寄った。
 喜兵衛は彼の笛が欲しくて堪らないのである。しかし浪人の口ぶりでは所詮それを素直に譲ってくれそうもないので、いっそ彼を暗討にして奪い取るのほかは無いと決心したのである。勿論、その決心をかためるまでには、かれもいくたびか躊躇したのであるが、どう考えてもかの笛がほしい。浪人とは云え、相手は宿なしの乞食である。人知れずに斬ってしまえば、格別にむずかしい詮議もなくて済む。こう思うと、かれはいよいよ悪魔になりすまして、一旦わが屋敷へ引っ返して身支度をして、夜のふけるのを待って再びここヘ襲って来たのであった。
 嘘かほんとうか判らないが、さっきの話によるとかの弥次右衛門は相当の手利きであるらしい。別に武器らしいものを持っている様子もないが、それでも油断はならないと喜兵衛は思った。自分もひと通りの剣術は修業しているが、なんといっても年が若い。真剣の勝負などをした経験は勿論ない。卑怯な暗討をするにしても、相当の準備が必要であると思ったので、彼は途中の竹藪から一本の長い竹を切出して竹槍をこしらえて、それを掻い込んで窺い寄ったのである。葉ずれの音をさせないように、かれはそっと芒をかきわけて、先ず小屋のうちの様子をうかがうと、笛の音はもうやんでいる。小屋の入口には筵をおろして内はひっそりしている。
 と思うと、内では低い唸《うな》り声がきこえた。それがだんだに高くなって、弥次右衝門はしきりに苦んでいるらしい。それは病苦でなくて、一種の悪夢にでもおそわれているらしく思われたので、喜兵衡はすこしく躊躇した。かの笛のために、彼はあしかけ十年のあいだ、絶えず苦められているという、さっきの話も思いあわされて、喜兵衛はなんだか薄気味悪くもなったのである。
 息をこらしてうかがっていると、内ではいよいよ苦みもがくような声が激しくなって、弥次右衝門は入口の筵をかきむしるようにはねのけて、小屋の外へころげ出して来た。そうして、その怖しい夢はもう醒めたらしく、かれはほっと息をついてあたりを見まわした。
 喜兵衛は身をかくす暇がなかった。今夜の月は、あいにく冴え渡っているので、竹槍をかい込んで突っ立っている彼の姿は浪人の眼の前にありありと照し出された。
 こうなると、喜兵衛はあわてた。見つけられたが最後、もう猶予は出来ない。かれは持っている槍を把《と》り直して唯ひと突きと繰出すと、弥次右衡門は早くも身をかわして、その槍の穂をつかんで強く曳いたので、喜兵衛は思わずよろめいて草の上に小膝をついた。
 相手が予想以上に手剛いので、喜兵衛はますます慌てた。かれは槍を捨てて刀に手をかけようとすると、弥次右衛門はすぐに声をかけた。
「いや、しばらく……。御貴殿は手前の笛に御執心か。」
 星をさされて、喜兵衛は一言もない。抜きかけた手を控えて暫く躊躇していると、弥次右衛門はしずかに云った。
「それほど御執心ならば、おゆずり申す。」
 弥次右衛門は小屋へ這入って、彼の笛を取り出して来て、そこに黙ってひざまずいている喜兵衛の手に渡した。
「先刻の話をお忘れなさるな。身に禍いのないように精々お心をお配りなされ。」
「ありがとうござる。」と、喜兵衛はどもりながら言った。「人の見ぬ間に早くお帰りなされ。」と、弥次右衛門は注意するように云った。
 もうこうなっては相手の命令に従うよりほかはない。喜兵衝はその笛を押しいただいて、殆んど機械のように起ちあがって、無言で丁寧に会釈《えしやく》して別れた。

 屋敷へ戻る途中、喜兵衛は一種の慚愧《ざんき》と悔恨とに打たれた。世にたぐいなしと思われる名管を手に入れた喜悦と満足とを感じながら、また一面には今夜の自分の恥かしい行為が悔まれた。相手が素直に彼の笛を渡してくれただけに、斬取り強盗にひとしい重々の罪悪が彼のこころにいよいよ強い呵責《かしやく》をあたえた。それでもあやまって相手を殺さなかったのが、せめてもの仕合せであるとも思った。
 夜があけたならば、もう一度彼の浪人をたずねて今夜の無礼をわび、あわせてこの笛に対する何かの謝礼をしなければならないと決心して、かれは足を早めて屋敷へ戻ったが、その夜はなんだか眼が冴えておちおちと眠られなかった。
 夜のあけるのを待ちかねて、喜兵衛は早々にゆうべの場所へたずねて行った。その懐中には小判三枚を入れていた。河原には秋のあさ霧がまだ立ち迷っていて、どこやらで雁《がん》の鳴く声がきこえた。
 芒をかきわけて小屋に近寄ると、喜兵衛はにわかにおどろかされた。石見弥次右衛門は小屋の前に死んでいたのである。かれは喜兵衛が捨てて行った竹槍を両手に持って、我とわが喉《のど》を突き貫いていた。

 そのあくる年の春、喜兵衛は妻を迎えて、夫婦の仲もむつまじく、男の子ふたりを儲けた。そうして何事もなく暮していたが、前の出来事から七年目の秋に、かれは勤め向きの失策から切腹しなければならないことになった。かれは自宅の屋敷で最期《さいご》の用意にかかったが、見届けの役人にむかって最後のきわに一曲の笛を吹くことを願い出ると、役人はそれを許した。
 笛は石見弥次右衛門から譲られたものである。喜兵衛は心しずかに吹きすましていると、あたかも一曲を終ろうとするときに、その笛は怪しい音を立てて突然ふたつに裂けた。不思議に思ってあらためると、笛のなかにはこんな文字が刻みつけられていた。
   九百九十年 終《にしておわる》 浜主
 喜兵衛は斯道《しどう》の研究者であるだけに、浜主の名を識っていた。尾張《おわり》の連《むらじ》浜主《はまぬし》はわが朝に初めて笛をひろめた人で、斯道の開祖として仰がれている。今年は天保九年で、今から逆算すると九百九十年前は仁明天皇の嘉祥元年、すなわちかの浜主が宮中に召されて笛を秦したという承和十二年から四年目に相当する。浜主は笛吹きであるが、初めのうちは自ら作って自ら吹いたのである。この笛に浜主の名が刻まれてある以上おそらく彼の手に作られたものであろうが、笛の表ならば格別、細い管《くだ》のなかに何うしてこれだけの漢字を彫ったか、それが一種の疑問であった。
 さらに不思議なのは、九百九十年にして終るという、その九百九十年目があたかも今年に相当するらしいことである。浜主はみずからその笛を作って、みずからその命数を定めたのであろうか。今にして考えると、かの石見弥次右衛門の因縁話も嘘ではなかったらしい。怪しい因縁を持った此笛は、それからそれへとその持主に禍いして、最後の持主のほろぶる時に、笛もまた九百九十年の命数を終ったらしい。
 喜兵衛は、あまりの不思議におどろかされると同時に、自分がこの笛と運命を共にするのも逃れがたき因縁であることを覚った。かれは見届けの役人に向って、この笛に関する過去の秘密を一切うち明けた上で、尋常に切腹した。
 それが役人の口から伝えられて、いずれも奇異の感に打たれた。喜兵衛と生前親しくしていた藩中の誰彼がその遺族らと相談の上で、二つに裂けた彼の笛をつぎあわせて、さきに石見弥次右衛門が自殺したと思われる場所にうずめ、標《しるし》の石をたてて笛塚の二字を刻ませた。その塚は明治の後までも河原に残っていたが、二度の出水のために今では跡方もなくなったように聞いている。

------------
底本:岡本綺堂 岡本綺堂怪談集 影を踏まれた女 光文社 昭和63年10月20日 初版第1刷発行 入力:和井府 清十郎
公開:2001年9月17日

※今日の人権意識からすると不適切と思われる語句や表現が見受けられますが、時代的な背景と作品の価値に鑑み、また原文の同一性を保持・尊重する立場からそのままとしました。




綺堂事物ホームへ

(c) 2001. Waifu Seijyuro. All rights reserved.
inserted by FC2 system