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綺堂ディジタル・コレクション





つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル 化したものです。
 なお、入力者(和井府)自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆  12 権 三 と 助 十   『創作の思ひ出』より

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 御承知の如く、この「権三と助十」は大岡政談から出てゐる。一体この大岡政談なるものは何人の筆に成つたのか知らないが、材料の出所はすこぶる怪しいもので、容易に信憑すべからざることは勿論である。大岡越前守忠相は八代將軍吉宗に用ゐられて町奉行となり、寺社奉行となり、一萬石の大名にまで出世した。殊に享保二年二月から元文元年八月まで二十年間も江戸の町奉行を勤めてゐたのであるから、在職中の治績は大いに見るべきものがあつたに相違ないが、その事實は多く傳はつてゐないらしい。したがつて、出所曖昧なる大岡政談のごとき俗書が喧傳されることになつたのであらう。
 そこで、この「権三と助十」は大岡政談のうちで俗に皮剥き獄門と唱へられる小間物屋彦兵衛の疑獄事件である。神田橋本町の長屋にゐる小間物屋彦兵衛が日ごろ商売用で出入りをしてゐる月本橋馬喰町の米屋といふ旅籠屋の女隠居をころして、金百両をうばひ取つたといふ疑ひをうけて、召捕られ、鈴ケ森で獄門の刑に行はれた。彦兵衛は大阪の者で、そのせがれ彦三郎が若年ながら江戸へ出て來て、父彦兵衛に限つてそんな悪事を働くものではない、それは確かに無實の罪であるといふことを訴へ出ようとしたが、無証拠ではどうにもならない。父が確かに無罪であるといふ反証を出さなければ、訴へて出る術(すべ)もないので、彦三郎は頗る当惑してゐると、こゝに淺草幅井町の裏長屋に住んでゐる権三と助十といふ駕籠舁きがあつて、彼等は相長家の左官屋勘太郎といふ者が人殺し事件の當夜、天水桶で血刀を洗つてゐるのを見たといふのである。そこで彦三郎は権三と助十の二人を証人にたのんで町奉行所に訴へ出で、それから所謂大岡捌きになつて勘太郎は遂に服罪した。これがこの一件の大要である。
 ところで、大岡越前守の偉いところは、最初から小間物屋彦兵衛は眞の罪人でないと見て、他の死刑囚の顔の皮をむいて獄門にかけ、本人の彦兵衛は無事に助けておいたので、勘太郎の服罪と共に彦兵衛は生きて出獄したといふのである。いくら江戸時代でも、大岡様でも、こんな芝居は出來さうもない。これは支那の裁判の話の焼き直しであらう。併し大岡政談のうちでも有名な物の一つとなつてゐて、すでに芝居にも脚色され、主人公の彦兵衛よりも駕籠かきの権三助十が主役となつて活躍してゐるが、かの天一坊や村井長庵のたぐひと違つて、どうもぱつとしないので、上方では知らず、東京では小劇場以外にあまり上演されない。
 大劇場で権三助十を上演したのは、明治三十年の五月、春木座(後の本郷座)で仁左衛門がまだ我當と云つた頃に勤めたことがあるに過ぎないらしい。その當時の役割は駕籠かき権三、彦兵衛の女房おとく、大岡越前守の三役が我當、駕籠かき助十が當十郎、小間物屋彦兵衛が徳三郎、左官勘太郎が勘五郎で、大体に不評の不成績であつたやうに記憶してゐる。
 今度わたしが書いたのも矢はり権三と助十が主役となつて働くわけで、大体の筋は彼の大岡政談に拠つたのであるが、皮むき獄門などは余りに嘘らしいので、彦兵衛は牢内で病死と披露されて實は生きてゐたと云ふことにした。併し在來の狂言とはまつたく別物で、大岡捌きを主眼として書いたのでないから、越前守などは出さない。権三の夫婦と助十の兄弟と、この四人が隣同士に住んでゐて、仲が悪いかと思ふと忽ちに親しみ、仲が好いかと思ふと又忽ちに喧嘩になり、強いかと思ふと忽ちに弱くなり、弱いかと思ふと又忽ちに強くなると云つた風に、どの人の心持も刻々に変化して行くところに興味を持つて見物して下さればよいのである。場所が橋本町であるから願人坊主を出してみたが、願人のことは曾て三田村鳶魚氏が詳しく書いてゐられるから別に説明しない。願人は住吉踊にしたいと思つたが、六月興行にかつぼれが出てゐるので、唯のあほだら坊主にしておいた。     (大正一五・七)



底本:岡本綺堂 「甲字楼夜話」綺堂劇談349−354頁
  青蛙房 昭和31年2月10日
入力:和井府 清十郎
公開日:2007年12月24日

おことわり:  一部旧漢字になっていない箇所があります





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