「半七考」について 石沢英太郎さんの話に、「半七の会」を作ろうというのがあって、奥さんと一緒に、半七の研究論文を出そうということになったようだ。奥様が、捕物帳の中で半七が何度十手を振るったかを、石沢さんが、何度好物の鰻を食ったか、を研究しようということになった(同「解説」『半七捕物帳 二』(光文社時代文庫、1986)370頁)。 読み方として、実に面白く感じたので、気になっていた。石沢夫妻の「半七講」は長くは続かなかったようだが、その精神にあやかって、『半七考』というものを出して、全国の半七ファンのご批評とアイディアを仰ぎたいと考えた次第です。 で、結局、石沢さんは、捕物帳の中で半七が何度鰻を食したかの問いの解答は示しておられない(奥床しさがある)。この『半七考』も、石沢さんの問から、はじめさせていただく。 半七捕物帳や半七については、すでに先達のご論考も多いので、出る幕ではないのですが、稚拙なりに考えたものを勝手に提示して、ご意見やご批判を頂こうという次第です。 この「半七考」が幾篇続くか怪しいのですが、まずは第1回ということで、半七が食べたウナギについて、考えてみました。(5/14/2004) 第1集
第2集 (12/2005-) 1.半七が食した鰻(屋)は何回(どこ)か ■半七が食したのは、いつ誰と 私が把握できたのは、『半七捕物帳』の中では合計で4回である。ただし、食したかどうか不明なのが1回ある。さらに、『捕物帳』の記録に至った、半七老人が青年記者と鰻を食する場面は2回である。 (1)「十右衛門に誘われて、半七は近所の鰻屋へはいった。小ぢんまりした南向きの二階の縁側にはもう春らしい日影がやわらかに流れ込んで、そこらにならべてある鉢植えの梅のおもしろい枝振りを、あかるい障子へ墨絵のように映していた。あつらえの肴《さかな》の来るあいだに二人は差し向いで猪口の献酬《やりとり》を始めた。」(『勘平の死』) 「春らしい」とは、暖かい日という意味らしいのですが。時は暮れ、12月19日頃です。 (2)「云われた通りに小僧を帰して、利兵衛は素直に半七のあとに付いてくると、半七はかれを富岡門前の或る鰻屋へ連れ込んだ。ここでは半七の顔を識っているので、丁寧に案内して奥の静かな座敷へ通した。半七も利兵衛も下戸《げこ》であったが、それでもまず一と口飲むことにして、猪口《ちょこ》を二、三度やり取りした後に、酌の女中を遠ざけて、半七は小声で云い出した。」(『弁天娘』) 浅草三社祭りに出かけるところですので、これも春3月です。利兵衛は、明神下の質屋の番頭である。深川の鰻が一番で、他に神田川、池之端、御蔵前あたりが有名だったようだ、三田村鳶魚・娯楽の江戸・江戸の食生活(中公文庫、1997)。 (3)「日※《ひあし》はよほど詰まって、ゆう六ツの鐘を聴かないうちに、狭い家の隅々はもう薄暗くなった。お亀は神酒《みき》徳利や団子や薄《すすき》などを縁側に持ち出してくると、その薄の葉をわたる夕風が身にしみて、帷子《かたびら》一枚の半七は薄ら寒くなってきた。殊にもう夕飯の時分になったので、半七はお亀にたのんで近所から鰻を取って貰った。自分一人で食うわけにも行かないので、お亀とお蝶の母子《おやこ》にも食わせた。」(『奥女中』) 8月、浜町岸に近い路地の奥の家で、張り込み中。 (4)「鰻でも取りますか」 「鰻の蒲焼を註文して、二人は早い夕飯を済ませると、七月の日もかたむいて来た。露路のなかはひとしきり騒がしくなって、となりの送葬《とむらい》もとどこおりなく出てしまうと、半七ひとりを残して庄太は再びどこへか忙がしそうに出て行った。あたりはだんだんに薄暗くなって、どこからとも無しに藪蚊のうなり声が湧き出して来たので、半七は舌打ちした。」(『鬼娘』) これも夏ですね。庄太は子分。 なお、ここに漏れているものがあったら、ぜひご指摘下さい。 ○半七が食したかどうか、記述から不明なのは、つぎのものである。 「半七は庄太に幾らかの金をやって、まあ午飯《ひるめし》でも食っていけと云うと、庄太は喜んで鰻飯の馳走になった。その間に彼は又こんなことを話した。」(『春の雪解け』) これはタイトルが示すとおり、春、雪模様の頃、浅草あたりですね。 ○半七老人と青年記者 半七老人と青年記者とが食したのは2回である。 「二人は話しながら連れ立って境内にはいった。老人は八幡の神前でうやうやしく礼拝していた。そこらを一巡して再び往来へ出ると、老人はどこかで午飯《ひるめし》を食おうと云い出した。宮川《みやがわ》の鰻もきょうは混雑しているであろうから、冬木《ふゆき》の蕎麦にしようと、誘われるままにゆくと、わたしは冬木弁天の境内に連れ込まれた。」 おっとこれは、結局、食せずなので、除外ですね。 (1)『半七紹介状』では、半七との出会いが、浅草の惣菜岡田で偶然席を隣にしたことだったのですが、二人は浅草「やっこ鰻」で鰻を食べます。 そして、これはどうも赤坂の隠居宅でのごちそうらしいです。明治30年半ば頃でしょうか。 (2)「その話の終るのを待っていたように、老婢は膳を運び出して来て、わたしの前に鰻めしが置かれた。」 ■うなぎ料理法 『捕物帳』の中で、料理の仕方で出てくるのは、蒲焼きと鰻めし(飯)の二通りである。鰻めしというのが鰻丼のことでしょうか、分かりませんが。 右絵、明治の鰻屋(風俗画報、明治36年) なお、右下に「牛肉店」とあるのは新旧店の対比の説明書きの一部 『守貞漫稿』には、古くは筒切り、筒焼きだったようで、これぞ蒲穂。その後、「京阪では、背より裂きて中骨を去り、首尾のまま鉄串三五本を横に刺し、醤油に諸白酒を加えたるを付けて之を焼き、その後首尾を去り、又串も抜き去り……。江戸は、腹より裂きて中骨及び首尾を去り、よきほどに切りて小竹串を一切れ二本ずつ横に貫き、醤油に味醂酒を加え、之を付けて焼き……」とある。 これはちょっと意外ですね。江戸は武士の町で、腹から裂くのは縁起が云々というのが、今日ではまことしやかに伝えられていると聞いていますから。 つぎは何を注文にやらせているのか、実は私には分からなかったのです。 「定や、小荒いところを一分ばかり、そう云って来てくれ」 定「飯附きだろうね」 (河竹黙阿弥作『村井長庵』) 黙阿弥では、鰻の蒲焼き云々といちいち云っていないのであると。 上記の2つとも、三好一光編江戸生業物価事典357頁(青蛙房、2002)による。そういう時代だったのかと……。 看板に「う」とだけ書いてあるのは、上方で、江戸ではそうは言わなかったと、三田村鳶魚は書いている(同・娯楽の江戸・江戸の食生活(中公文庫、1997)328頁)。 ■せいろ干しのある風景 鰻といえば、せいろ蒸しもある。せいろ違いだが、残暑が、干したせいろに当たる光景の描写は、多忙となる直前の雰囲気も写しこんでいて、情緒がある。ちょっと、レトロ風の写真にでもなりそうな。 「如才もあるめえが、半七の妹だ。うまくやってくれ」 「ほほほほほ。あたしは商売違いですもの」 「そこを頼むんだ。うまく行ったら鰻ぐらい買うよ」 妹に頼んで半七はそこを出ると、どこの店でももう日よけをおろして、残暑の強い朝の日は蕎麦屋の店さきに干してあるたくさんの蒸籠《せいろう》をあかあかと照らしていた。」(『筆屋の娘』) 岡本綺堂自身も、好物は鰻だったのですが、それについては、こちらをご覧下さい。 今度は、蕎麦、鮨ですね。どちらが多いでしょう。あるいは鰻尽くしで、もう1話。 2004/05/14記■ |