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半七捕物帳を読む

  半七考





1. 半七が食した鰻(屋)は何回(どこ)か (5/14/2004)
2. 「赤坂のお宅」とはどこか
3. 半七が振るった十手


半七考4.半七のルーツ

1.箱根の西の方

 『山祝の夜』は、半七が江戸より最も西の地で手柄を立てた話である。江戸人にとって箱根に出かけるのは一生に一度あるかないかくらいかであったという。例に漏れず、私は、この作品を江戸から離れた、旅先の箱根という地の話としてのみ、読んでいたのである。
 だが、半七は、箱根より西の方を見なかったのであろうかと、あらたに疑問を覚えた。むろん、山越えの反対側である、三島の地名は出てくる。しかし、こちらが期待するほどに、感傷めいた記述のない作品ではあるが、半七は、自分の父がこの箱根の坂を三度あまりも越えたが故に、自己すなわち半七自身が存在することに思いやらなかったであろうか。さらに、半七の祖父母は、この箱根峠の西の方、伊勢の方に居たはずである。半七と祖父母は、見(まみ)えた事があったのだろうか。半七や妹のお粂は、祖父母の思い出を持っているのであろうか。

 半七が、木綿問屋の通い番頭として勤めていた半兵衛の長男であることは、作者によって明らかにされている。半兵衛一家は日本橋に住んでいた。しかし、半兵衛と半七がどこから来たのか、あるいは江戸に古くから住んでいたのかは、作者綺堂も触れていないし、その後の研究も、寡聞にして、聞かない。そこで、半兵衛、半七らのルーツについて、検討してみたい。

2.半七の家族

 半七の家族関係に言及している『石灯籠』では、つぎのようになっている。半七の父は半兵衛といい、木綿店の通い番頭であったが、半七が13歳の時に死去した。この頃、半兵衛の家、つまり半七の家は、日本橋にあった。母のお民は、やはり半七が父の跡を継いで、木綿店で働くことを願ったが、半七は、堅気の道を歩まなかった。妹は、お粂といい、半七とは8つ違いである。後に、常磐津の師匠となって、母親と神田明神下で暮らすことになる。読者は、これらの親子に関する、これ以上のことは知らされていない。

3.日本橋の木綿店(だな)

 半兵衛は、日本橋の木綿店の通い番頭であった。ということは、作者綺堂は、実は重要なメッセージを出しているのである。江戸において、木綿店といえば、日本橋(大伝馬町1,2丁目)を指し、大伝馬町といえば、伊勢商人の店である。
<図4、伝馬町木綿問屋界隈> 江戸名所図会
 日本橋の木綿店といえば、当時はエリア的には限定されるのである。すなわち、日本橋の大伝馬町1丁目か、同2丁目に集中していたのである。しかも、この木綿店は、同郷同業の町であった。維新後も、明治・大正に掛けても、大伝馬町1・2丁目は、「堂々たる伊勢商人の木綿問屋の街であったことには変わりはない」(白石孝・日本橋町並み繁昌史170頁(2003))のであった。

 毎朝、毎晩、半兵衛は日本橋を渡って、半七の居る自宅と大伝馬町の店とを往復していたのである。
 先にも述べたように、これらの町には、伊勢商人の店がほとんどである。では、なぜ木綿問屋が伊勢出身で占められたのか。伊勢・三河などが綿織物の産地として知られ、なかでも伊勢は松坂木綿として最上の銘柄を産出していたことが、その商業力とあいまって、ここに伊勢店を形成する要因となったようだ。

紺野浦二著『大伝馬町』(1936)の記述によると、「伊勢店(たな)は一切伊勢出身の者でなければならなかったのです」としている(同書65頁)。作者の紺野浦二はペンネームだが、この大伝馬町の木綿問屋の経営者であった。

 「12・3歳で伊勢から小僧に来て、それが初登り、二度登り、三度登り、と順序を経て勤め上げて番頭となります。其番頭を何年か勤めて遂に此「隠居」と云ふ今での重役格になるのです。」(同頁) 小僧さんは、「こどもし」と呼ばれたらしいが、どの店にも15,6人はいたとある。入店5年目で「二才(にさい)」と呼ばれ、これを元服としたようだ。8年目で、「初登り」といって伊勢の主人の許へ挨拶に行く習わしだった。久方振りの里帰りという訳ですね。
 二度登りはさらに七年目、さらに6年経って三度登りをすませて、さらに三年目で支配役格の「番頭」になった。この頃になると、主人から家を持つ資金を与えられ、また結婚すること、所帯を持つことですね、ができた。
 さて、とすれば、半七の父、半兵衛も三度伊勢へ登ったことになる。通い番頭で、所帯を持っているとなると、年齢を推定するに、少なくとも、12・3(歳)+8+7+6+3=36−7歳より上ということになる。半兵衛が死亡したのは、その原因は分からないが、半七が13歳(妹のお粂が5歳:『石灯籠』)の時であったというのだから、上の式から見て、半兵衛は49−50歳くらいであったろうと推測される。四十五歳前後が当時の男子の平均余命とすれば、半兵衛は比較的長生きであったと思われる。

寡婦となった母お民は、後家を通すわけだが、息子の半七には「父の跡を継がせて、もとのお店に奉公させようという望みであったが、道楽肌の半七は堅気の奉公を好まなかった」のである。

半七は「肩揚げの下りないうちから道楽の味をおぼえた」のだが、そうとすれば、父親の晩年の頃から、遊んでいたことになろう。

<図、江戸期のマップ>
 赤傍線を引いたところが、大伝馬町1丁目、2丁目、一番右の傍線は、大丸小路を示す。

<現在の大伝馬町 写真(予定)>
 写真は、大伝馬町の西の方(1丁目方向)を眺めたもの。この通りが、旧日光街道であった。これを示す碑が建っている。ビルの谷間であるが、まだ問屋街のようだ。この通りの手前を東の方へ行くと、大伝馬町2丁目、通旅籠町そして、通油町と引き続く。通油町には、長谷川時雨が育った街であった。この界隈には、大丸が在ったはずである。
 現在は、この通りの1本北側の通りが小伝馬町で、地下鉄も通り、賑やかで広くなっている。十思公園には、石町にあった時の鐘が据えられている。また、有名な伝馬町の牢屋敷があったところでもある。

4.父は伊勢の人

 通い番頭まで勤めた半兵衛は、やはり伊勢の出身であったと考える他ないのである。この時期の木綿問屋は、その雇い人は、同郷人から選んだようだ。経営者である主人から、その番頭手代、丁稚にいたるまで、伊勢出身であるのが通例であった。したがって、半兵衛も、その例に漏れず、伊勢の出身であった可能性が高いのである。

なぜ同郷人か
 同郷人の方が気心が知れて安心である。雇い主も、同じ郷という地理的・文化的基盤と背景を同じくしている。考え方が均質、画一的である。また、どこの誰のせがれという、人物上の安心がある。幼い倅を差し出す、親としても、見知らぬ地方の雇い主よりは、地縁のある同郷人の雇いであることが、子の養育や修行上も安心である。  最も重要な点の第一は、優秀な産地を確保できる点ではなかったろうか。その子を丁稚として雇うことは“人質”でもあったわけである。そして、第二に、木綿製造のノウハウや経営のノウハウを、他郷人に知られる機会が少なくなるという、営業上の障壁や独占化にあったのではなかろうか。

所有と経営の分離
 驚くべきこと(社会経済史や経営史などの専門家からすれば常識に属することかも知れないが……)に、伊勢商人の間では、企業における所有と経営とが分離されていることである。大伝馬町の店は、取締役と呼ばれる者に委ねられており、所有者は伊勢の地にいて、折々の経営報告を聞くだけである。 伊勢の本宅の旦那は、勤番役の同意がなければ何もできない有様だったという(74頁)。引用・『大伝馬町』

半七は伊勢ルーツ
 半兵衛と所帯を持ったお民、つまり半七の母が、どこの出身であるかは分からないが、伊勢出身ではない可能性もある。しかしながら、半七は、少なくとも半分は伊勢人の血を引いていることに変わりはない。
 江戸に生まれ育った者を江戸っ子というならば、半七はその名に値しよう。半七の中には、伊勢商人の持つ、律儀さ・丁寧さ、親切心、先の読み・合理性、実行力そして革新性などの特質が引き継がれていたとしてもおかしくはない。むろん、これらは作者綺堂のもつ性質や好みや、あるいは作者自身の分身といった面でもあろうが。

5.「半七」「半兵衛」というネーミング余話

<図、区史(予定)>
 調べてみると、面白いことに、伝馬町の木綿問屋の番頭の名前が残されているが、面白いことに、それらの中に、「半兵衛」さんも、「半七」さんも存在するのである(東京市日本橋区役所編・日本橋区史上巻805−07頁(1937))。考えてみれば、江戸物捕物帳の命名のルーツやネタ本もこのあたりにあったのかと思わせるほどである。横溝氏の「佐七」も、傳七の名もある。

 岡本綺堂は、別のところで、「半七」というのは書きやすい名前だからそうしたということを述べている。それで、私も、義太夫の「三勝半七」あたりの名前から採ったものだろうぐらいに考えていた。私の想像だが、綺堂自身も、日本橋の木綿問屋の資料を持っていて、あるいは調べて、一応それらしき、番頭や手代にありそうな名前をピックアップしたものかもしれない。
 綺堂自身の語るところによれば、江戸の知識に関する、綺堂の先生の一人が、條野採菊であるが、採菊は、その昔、江戸幕末期の戯作者山々亭有人である。彼は、本郷にあった呉服問屋・伊豆倉の番頭であったという。そうとすれば、想像だが、木綿(伊豆倉で扱っていた品かどうかはともかく)問屋の内情や経営についての話を聞いていて、半七や半兵衛という、よくありそうな名を聞いたことがあったのかも知れない。

* * *
 かりに半七が伊勢ルーツであることが分かったとしても、それが何の役に立つというのだろうか? 私も 「それで? どうした?」と、思わないでもない。しかし、半七の背後にこのような地方・伊勢との繋がりがあり、また彼が日本橋・大店の文化や社会の中から出てきたといえることは、より半七を江戸の市井の中で捉え直すこと、また江戸という都会と田舎との繋がりにおいて考え直すことにならないだろうか。半七像の理解にイメージを与えてくれる手助けの一つにはなるのではないかと思っているのだが。もしくは、作者綺堂の江戸理解の深さをも示すことにならないだろうか。

                                 2004/07/07記

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