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半七捕物帳を読む

  半七考




半七考 その5   捕物帳と稲荷

江戸には稲荷(社)が多かったようだ。現在の東京にも、まだ稲荷は残っている。武家や商売柄の信仰があったためと思われる。

半七が稲荷に出かけるのは、彼自身の信心もあるのだろうが、探偵としての情報収集のためでもある。捕物帳に出てくる稲荷を拾ってみよう。半七に登場する稲荷の、散歩ルートとしても面白いかも知れない。相当の健脚なら……。

湯島にあった化物稲荷

「その女は湯島の化物稲荷《ばけものいなり》……と云っても、この頃の人にはお判りにならないでしょうが、今の天神町の一丁目、その頃は松平采女という武家屋敷の向う角で、そこに化物稲荷というのがありました。なぜ化け物と云ったのか知りませんが、江戸時代には化物稲荷という名になっていて、江戸の絵図にも化物稲荷と出ている位ですから、嘘じゃありません。」 『大森の鶏』

調べてみると、なるほど地図にも化物稲荷と出ている。実在したもののようだ。さすがに現代には残っていないようだ。

浅草の太郎稲荷

「あれはいつでしたっけね」と、老人は眼をつぶりながら考えていた。「そうです、そうです。あの太郎稲荷がはやり出した年ですから慶応三年の八月、まだ残暑の強い時分でした。御存知でしょう、浅草田圃の太郎様を……。あのお稲荷様は立花様の下屋敷にあって、一時ひどく廃《すた》れていたんですが、どういう訳かこの年になって俄かに繁昌して、近所へ茶店や食い物屋がたくさんに店を出して、参詣人が毎日ぞろぞろ押し掛けるという騒ぎでしたが、一年ぐらいで又ぱったりと寂しくなりました。神様にも流行り廃りがあるから不思議ですね。」 『筆屋の娘』

【上図】 浅草・太郎稲荷 『風俗画報』より
明治20−30年代のものと思われる。老人が映っているようだ。裏手はやはり田圃である。素朴な風情に栄枯が偲ばれますね。

御宿稲荷

これは、半七の自宅の近所、神田三河町にある。「みしゅく」という。

「むむ。初午(はつうま)も二の午も大あたりだ。おれも朝湯の帰りに覗いて来たが、朝からお稲荷さまは大繁昌だ」と、三十二、三の亭主が答えた。」『白蝶怪』

 説明の要はないと思うが、この男こそ、半七の義父で、岡っ引きの吉五郎親分である。その壮年の頃である。

深川・砂村の稲荷

半七は庄太とともに、午後2時頃から、
「吾妻《あずま》橋を渡って、本所を通り越して、深川の果ての果て、砂村新田の稲荷前にゆき着いたのは八幡の鐘がもう夕七つ(午後四時)を撞き出したあとで、……」『広重と河獺』

むむ、とっても、健脚ですね。つい地下鉄路線図を思い浮かべる軟弱な私とは違う。

笠森稲荷

「幸次郎に別れて、半七は谷中の方角へ足を向けた。千駄木の坂下から藍染川を渡って、笠森稲荷を横に見ながら、新幡随院のあたりへ来かかると、ここらも寺の多いところで、町屋は門前町に過ぎなかった。」『菊人形の昔』

 半七は、千駄木の坂つまり団子坂を通って、谷中の方へ登っている。現在、もう藍染川はないですね。江戸末期の地図によると、現在の、谷中小の対面にある大円寺に、笠森稲荷があった。現・谷中小は、新幡随院・法住寺の跡ということになる。現在も寺の多いところですね。
 笠森稲荷といえば、明和三美人の一人、お仙が思い浮かばなくてはならない。笠森稲荷前の水茶屋鍵屋のお仙である。たしか、浮世絵にも描かれていましたね。ところが、お仙のいた「笠森稲荷」というのは、先に挙げた大円寺内の稲荷ではなく、その先、天王寺(明和当時では、感応寺という)の中門際にあったものだという。半七は、笠森稲荷を左手に見ながらも、お仙の名前を思い浮かべなかったというのが正しいようだ。

袖摺稲荷は2度*登場する。(*下記の注記参照)

「これは安政五年の正月十七日の出来事である。浅草田町の袖摺稲荷のそばにある黒沼孫八という旗本屋敷の大屋根のうえに……。」 『広重と河獺』

 なお、『広重と河獺』には、深川・砂村の稲荷とこの袖摺稲荷の2つが登場している。

そして、

「二人は馬道から田町一丁目にさしかかった。表通りは吉原の日本堤につづく一と筋道で、町屋も相当に整っているが、裏通りは家並《やなみ》もまばらになって、袖摺稲荷のあるあたりは二、三の旗本屋敷を除くのほか、うしろは一面の田地になっているので、昼でも蛙の声が乱れてきこえた。」『金の蝋燭』

王子稲荷も2度登場する。

「麹町四丁目の太田屋という酒屋は、福田の屋敷へ長年の出入りだったそうです。その女房が娘と小僧を連れて、王子稲荷の初午(はつうま)へ参詣に行くと、王子道のさびしい所で、伝蔵に出逢ったそうです。」『吉良の脇差』

 母子で小僧連れというので、麹町4丁目のすぐ近くとばかり想像していたが、地図で探してもない。それで、王子稲荷というのは、荒川区の石神井川の王子稲荷であろうか。日本橋から約10キロあるという。とすると、とても遠く、おそらく女足に子供連れでは、一日がかりといえるだろう。途中まで駕籠を使ってということになるのだろうか。しかも、初午の日といっているので、2月はじめの頃で、寒くはあってもあまり暖かくはない日だろうというのに。
 飛鳥山といえば、かつて音無川と呼んだ、石神井川を挟んで、左手に王子稲荷、右手に飛鳥山。江戸から明治期までの春の花見の名所であったところである。その麓には、料理屋がたくさん並んでいたという。飛鳥山で思い出されるのは、日露戦役の、秋山騎馬隊で有名な秋山好古が、まだ若い頃、市ヶ谷の士官学校を受験したとき、作文の題が「飛鳥山ニ遊フ」 であった(司馬遼太郎「坂の上の雲」1巻64頁(文春文庫))。

「金蔵じゃあありませんでした」と、老人はまた笑った。「まあ、お聴きなさい。五月の末になって、例の神明の千次がわたくしの所へ来まして、金蔵は王子稲荷のそばの門蔵という古鉄買(ふるかねかい)の家に隠れていると注進しました。」『廻燈籠』

下谷の稲荷町も2度登場する。
むろん下谷稲荷があるから、その名に因んだ稲荷町であり、現在、銀座線の稲荷町駅に名を残している。下谷神社であろう。

「善八を出してやって、ふたりは下谷の稲荷町へ足を向けた。朝からの空っ風が白い砂けむりを吹き巻いている広徳寺前をうろついて、ようように香具師の富蔵の家を探しあてた。鉤(かぎ)の手に曲がっている路地の奥で、隣りの空地には、稲荷の社が祀られていた。」『三河万歳』

廣徳寺前というのは、下谷稲荷の前の道路が「廣徳寺前」と呼ばれており、これを挟んだ向かい側に、当時広大な廣徳寺があった。現在の上野消防署や日生ビルがある、東上野3丁目2番地あたりにあった。なぜか冬の夕暮れ、この辺りを歩き、神社があるのに驚いたものだった。

2度目は、

「半七。おめえの調べはまだ足りねえぜ。おれは鍋久の小僧を調べて、こんな事を聞き出した。鍋久の女中のお直という女は、きのう出しぬけに暇を出されたそうだ。もっとも今月は八月で、半季の出代り月じゃああるが、晦日《みそか》にもならねえうちに暇を出されるのはちっと可怪(おか)しい。これにゃあ何か訳がありそうだ。お直の宿は下谷(したや)の稲荷町(いなりちょう)だというから、ともかくも尋ねて行ってみろよ」 『大阪屋花鳥』

柳原の堤に近い稲荷(現・柳森神社)

 つぎは、芝居のように、あるいは円朝の語りのように、ちょっと気味が悪いくって、もっともぞっとする稲荷であるといえるかもしれない。むろん、状況がである。夜の川縁で、柳の並木……。

「日がくれてから七兵衛は葺屋町の家を出て、浅草の念仏堂の十夜講に行った。その途中で、念のために、柳原の堤を一と廻りして見ると、槍突きの噂におびえているせいか、長い堤には宵から往来の足音も絶えて、提灯の火一つもみえなかった。昼から陰っていた大空は高い銀杏のこずえに真っ黒に圧しかかって、稲荷の祠の灯が眠ったように薄黄色く光っているのも寂しかった。かた手に数珠をかけている七兵衛は小田原提灯を双子の羽織の下にかくして、神田川に沿うて堤の縁《ふち》をたどってゆくと、枯れ柳の痩せた蔭から一人の女が幽霊のようにふらりと出て来た。」 『槍突き』

江戸期の地図によると、たしかに「イナリ」と柳原堤のところに一カ所だけある。八辻が原と和泉橋の間である。おそらく、位置からみて、現在の柳森神社(あたり)ではないかと想像する。

武家屋敷の稲荷

「半七と幸次郎は荒物屋の店を出て、再びかの空地のまん中に立った。五六百坪のところに屋敷を構えていたのであるから、昔ここに住んでいたという臼井なにがしはよほどの小旗本であろう。武家屋敷のうちに祭られているのは、まず稲荷の祠が普通である。二人はその祠の正体を見とどけることにして、草の奥へ踏み込んで行った。」 『菊人形の昔』

ビルの屋上にも稲荷社が祀られているというの聞いたことがあるが、先日さる都会の真ん中のホテルに宿泊したとき、ホテルの別の棟の屋上に、赤い鳥居附きの稲荷社があったのにはすこし、びっくりした。部屋から見下ろしている、割と広めの屋上には、ただそれだけしかないのである。経営者の信仰なのか、あるいは、元々そこに稲荷があったためであろうか。

無名の稲荷

「火の見梯子から三軒ほどゆくと、そこには狭い路地があって、化け物に出逢ったという囲い者のお北はその路地の中程に住んでいた。路地の奥には可なりに広い空地があって、片隅に古い稲荷の社《やしろ》が祀られていた。あき地には近所の男の児が独楽《こま》をまわしていた。」 『半鐘の怪』

「稲荷さまのなかでなんにも音がしねえか。がたりともいわねえか」と、半七はまた訊いた。」


【注記】なお、同一作品中、同一の稲荷が複数回登場したものは、のべ回数ではなく、1度と数え、別の稲荷が登場すれば2つとした。
 作品中に固有名詞として登場しながら、それが「稲荷」であることを私が知らなかったものは、当然にここから漏れている可能性があります。たとえば、「熊谷さま」→「熊谷稲荷」のように! また「鬼子母神」の場合でも稲荷と付くのもかもしれませんね。
そんなときは「おい、○○が漏れているぜぃ」と教えて下さい。

 また、正確を期すとなると、作品中の年代では「稲荷(社)」扱いでも、後に神社になった場合もあると想定されます。たとえば、「三囲稲荷」→「三囲神社」、これらの曖昧さは、浅学のためにご海容賜ります。

2004/7/21 記

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