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半七捕物帳を読む

  半七考




半七考 その6   捕物帳をめぐる食2  鮨・鮓(すし)

 「鮨」の登場が、つぎのように意外と少ないのが驚きである。鮨を食っている暇はないということか。「鮓」という字が用いられてもいる。

鮨の最初は屋台として発達したらしいが、『半七捕物帳』には屋台の鮨屋は登場しないようだ。鮨売りが歩くのは、江戸の町である。

半七が、明らかに食した場面というのは、つぎの1回だけであろう。誰かからの差し入れ、もしくは贈られたものである。運んだのは、女房のお仙。わずかな登場である。

「こう云って、半七はまた考えている処へ、女房のお仙が女中に鮨の大皿を運ばせて来た。どこからか届けて来たと云うのである。商売柄でこんな遣い物を貰うのは珍らしくない。すぐに茶をいれさせて、半七ら三人は鮨を喰いはじめると、そのそばで女房がこんなことを話し出した。」 『二人女房』

○あとは鮨をテーマにしたトッピクスともいうべき、記述がある。

夜舟の鮨

「お磯の身売りについて、お葉は玉の下見(したみ)に行った。その帰りの船が次郎兵衛と一緒であったので、互いに心安くなった。乗合いは田舎道者(いなかどうじゃ)や旅商人《たびあきんど》、そのなかで年も若く、在郷者には不似合いのきりり[#「きりり」に傍点]とした次郎兵衛の男ぶりがお葉の眼に付いたらしく、船場で買った鮨や饅頭などを分けてくれて、しきりに馴れなれしく話しかけた。むかしの夜船はとかくにいろいろの挿話を生み易いものである。」『川越次郎兵衛』 歌留多会の夜食

 これは、半七ではなく吉五郎親分が活躍した時の話。しかも、夜食の五目鮨である。事件に巻き込まれる娘たちが出かけたのは、夜の関口台町の鈴木という武家屋敷で、歌留多会に出かけるためであった。歌留多会は正月の恒例行事であったようだ。

「いつの世にも歌留多には夜の更(ふ)けるのが習いで、男たちはまだ容易にやめそうもなかったが、若い女たちは目白不動の鐘が四ツを撞くのを合図に帰り支度に取りかかって、その屋敷で手ごしらえの五目鮨の馳走になって、今や帰って来たのである。」 『白蝶怪』

お北とお勝の二人に数奇な事件が起こる。歌留多会といえば、尾崎紅葉の『金色夜叉』のはじめの場面でも出てきますね。やはり、貫一・お宮さんと、富山が出会っている。若い男女が出会える数少ない機会であった。

鮨屋のおかみ

『夜叉神堂』には、「明石という鮨屋のおかみさん」が、登場している。半七が食した話ではない。

「鮨屋の女房おぎんは、夜叉神堂を背景にして、吟味のひと幕を開かれた。彼女は品川の女郎あがりで、年明きの後に六本木の明石鮨へ身を落ちつけたのである。」『夜叉神堂』

なるほど、そういう身の引き方もあるのか。

つぎは、当時の男と女の微妙な関係を「鮓」を媒介にして描いている。

「彼は武家屋敷の中間部屋へ出入りをする物売りの女であった。かれの提げている重箱の中には鮓(すし)や駄菓子のたぐいを入れてあるが、それを売るばかりが彼等の目的ではなかった。勿論、美(い)い女などは決していない。夜鷹になるか、提重になるか、いずれにしても不器量の顔に紅(べに)や白粉を塗って、女に飢えている中間どもに媚(こび)を売るのが彼等のならわしであった。ここで提重のお六に出逢ったのは勿怪(もっけ)の幸いだと思ったので、半七は摺り寄って小声で訊いた。」『朝顔屋敷』

海苔巻きの鮓

 さらに、当時の海浜の娯楽ともいうべき、光景が描かれている。品川の海ですね。

「かれらの多くは時刻の移るのを忘れていたので、午飯《ひるめし》を食いかかるのが遅かった。ある者は船に帰って、家から用意してきた弁当の重詰をひらくのもあった。ある者は獲物のはまぐりの砂を吐かせる間もなしに直ぐに吸物にして味わうのもあった。ある者は貝のほかに小さい鰈や鯒(こち)をつかんだのを誇りにして、煮たり焼いたりして賞翫(しょうがん)するのもあった。砂のうえに毛氈(もうせん)や薄縁(うすべり)をしいて、にぎり飯や海苔巻(のりまき)の鮓(すし)を頬張っているのもあった。彼等はあたたかい潮風に吹かれながら、飲む、食う、しゃべる、笑うのに余念もなかった。」 『海坊主』

半七は文字も読める。

だが、現代人には学がなく、弥助→維盛→鮓屋、という流れが分からない!?

「それを読み終って、半七はまた笑った。成程その筆蹟は町人らしくないが、「武士の誓言」などと云って、いかにも武士の仕業らしく思わせようとするのは、浅はかな巧みである。ゆうべ忍んでいた奴も、今朝この手紙を投げ込んだ奴も同じ筋の者に相違ない。こんな小細工をする以上、猶さら踏み込んで首根っこを押さえ付けてやらなければならないと思いながら、怱々に朝飯を食ってしまうと、子分の弥助が裏口からはいって来た。弥助という名が「千本桜」の維盛(これもり)に縁があるので、彼は仲間内から鮓屋(すしや)という綽名(あだな)を付けられていた。」 『河豚太鼓』

講釈!
「千本桜」とは、「義経千本桜」という浄瑠璃や歌舞伎の演目のことで、3段目の「框の木・鮓屋」では、釣瓶鮓屋の弥左衛門の家に雇われているのが、かの平維盛で、世を忍ぶために弥助と名を変えていた。この由来に因んで、子分の弥助は「鮓屋」というあだ名を頂戴していたという訳。既知でしたら、ご免なさい。

これは御用の向き

「何をぶらぶら遊んでいるのだ。おい、鮓屋。早速だが、用がある。ここへ来い」 『河豚太鼓』

-------  それまでの押し鮨から、にぎり鮨を編み出したのが、文政7年本所横網の「与兵衛」鮨。深川御船蔵町堺屋の「松ケすし(いさごすし)」とともに、贅沢鮨の双璧であったとは、三好一光編・江戸生業物価事典405頁(青蛙房)による。高価な鮨のため、天保年間には、これらの2つの鮨屋を含めて200余名が手鎖に掛けられたという。奢侈禁止ということでしょうか。

だいたい、『守貞漫稿』の時代では「鮨一つ値4文より五六十文」(上掲書127頁)であったようだ。

2004/8/17 記

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