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半七捕物帳を読む

  半七考




半七考 第2集

     もくじ

      1.「足音を盗む」表現 (12/21/2005)
      2.半七が聞いた鐘の音から午後のドーンまで(3/6/2006)
      3.湯屋の二階
      4.渋柿園先生のお宅
      (以下、続く予定)

      半七考 第1集もくじ




2.半七が聞いた鐘の音から午後のドーンまで

1.半七は江戸の鐘をどのくらい聞いただろうか。

鐘といっても時刻を知らせる時の鐘。
綺堂氏自身が、江戸の鐘については、公認の9つの場所、鐘撞番人、維持費などもろものについて詳細に書いているので、そちら(『江戸風俗物語』)をご覧いただくとして、ここでは半七に登場してきた時の鐘に限っている。

日本橋・石町
現在は、旧伝馬町の牢屋敷跡である十思公園に保存されていますね。

「声はいよいよ陰って低くなったので、それから後はよく判らなかったが、お冬のすすり泣きをする声もおりおりに聞えた。石町《こくちょう》の八ツ(午後二時)の鐘が響いた。それに驚かされたように、障子の内では人の起ちあがる気配がしたので、半七は再び南天の繁みに隠れると、縁をふむ足音が力なくきこえて、和吉は縁づたいにしょんぼりと影のように出て行った。泥足をはたいて半七は縁に上がった。」 『勘平の死』

日本橋・石町、上野、浅草など9カ所が公認の鐘撞堂です。つぎの芝のは公認ではなかったそうです。なかなか大きな鐘があります。
<写真あり>
「親分の顔色が悪いので、熊蔵も手持無沙汰で黙っていた。芝の山内の鐘がやがて四ツ(午前十時)を打った。下の格子があいたと思うと、番台の男が「いらっしゃい」と、挨拶する声につづいて、二階に合図をするような咳払いの声がきこえた。二人は顔をみあわせた。」 『湯屋の二階』

上野の鐘撞堂は、静養軒の門前にあった。カシの棒で撞いた。

「(半七は)女房を相手に二つ三つ世間話をしているうちに、やがて上野の鐘が四ツ(午前十時)を撞《つ》いた。」『お化け師匠』

場所は、浜町河岸に近い路地裏ですので、日本橋石町の鐘でしょうか?

「この頃の日※[#「※」は「上部は日、下部は咎」、183-4]《ひあし》はよほど詰まって、ゆう六ツの鐘を聴かないうちに、狭い家の隅々はもう薄暗くなった。お亀は神酒《みき》徳利や団子や薄《すすき》などを縁側に持ち出してくると、その薄の葉をわたる夕風が身にしみて、帷子《かたびら》一枚の半七は薄ら寒くなってきた。」 『奥女中』

深川八幡の鐘

「吾妻《あずま》橋を渡って、本所を通り越して、深川の果ての果て、砂村|新田《しんでん》の稲荷前にゆき着いたのは八幡の鐘がもう夕七つ(午後四時)を撞き出したあとで」 『広重の絵』

浅草の鐘は弁天山、浅草寺の雷門脇にあった。
「弁天山の五ツ(午後八時)の鐘を聞いて、二人は再びここを出た。小左衛門の露路の近所を遠巻きにして、そこらをうろ付いている筈であるが、半七は念のために露路の奥へ覗きにゆくと、井戸を前にした小左衛門の家の奥から女の泣き声が洩れてきこえた。」 『大阪屋花鳥』

同じく浅草寺。
「遠方を来たのであるから、まあゆっくり休んで行けと、お富は云った。どう見ても、悪意の無さそうな女である。引き留められたのを幸いに、半七は坐り込んで煙草を吸いはじめると、浅草寺《せんそうじ》の八ツ(午後二時)の鐘がきこえた。」 『新カチカチ山』

どこの鐘か迷うのは、半七が自宅で聞いた鐘。上野か浅草か?上野でしょうか?

「日が暮れて、涼しい風が又吹き出した。油断すると寝冷えするなどと云いながら、四ツの鐘を聞いて寝床にはいると、その夜なかに半七の戸を叩いて、松吉が飛び込んだ。」 『幽霊の観世物』

目白不動堂の鐘

「自分には大事の役目のあることを承知しているので、今夜は眠らない覚悟をきめて、しずかに夜の更《ふ》けるのを待っていると、目白不動の四ツ(午後十時)の鐘を聞いて、寺内もひっそりと鎮まった。」 『白蝶怪』


 鐘そのものはたくさん登場するが、「半七本人」が聞いた鐘は、9回。半七以外の者が聞いたもの、また緊急の鐘である半鐘は除いた。聞いた鐘の場所は、石町、上野、目白不動堂など6箇所にのぼる。作者綺堂としては、鐘について十分配慮した、物語の背景や小道具になっているといえるだろう。

鐘の音色については、殷々滅滅とか、くぐもったとか、重いとかの描写があってもよいようだが、探偵物の性格か、スペースの省略のためか、あまり記述はない。
時刻別にみると、朝2回、昼4回、夜3回である。

なお、鐘撞名人の名人芸とでもいうべき、午後のドンと競うような、芸術的撞き方については、こちらをご覧ください。そういうことができるのですね、人によっては!
また、時刻を知らせるのに、鐘の前は太鼓だったという。綺堂、江戸風俗物語、参照。
江戸の時刻の刻み方については、こちらを参照ください。


2.午後のドーン

 年齢を曝すようですが、小学校・中学校くらいまでは、お昼になると校舎の高いところに据えてあるらしいスピーカーからサイレンがウォーーーンと数秒も鳴るので、近くにいた時などはひどくびっくりしたことがある。腕時計をもたずに仕事や野良仕事をしている人には、午後の合図は重要だっただろう。遠くの学校や役場でも鳴らしていて、少し微妙にずれているのがご愛敬だったが。
 「どん」だな、お昼にしよう、というのが挨拶である。サイレンの替わりに、午後の時を知らせていたのだが、午砲(どん)である。残念ながら、聞いた記憶はないように思う。  聞いたのは、「坊ちゃん」と「三四郎」である。

 旧前田家の育徳園、通称三四郎池で、「あの女」というのは、看護婦に付き添われて、三四郎の前で白い花を落としたあの女ですね。

「熊笹の中を水ぎわへおりて、例の椎の木の所まで来て、またしゃがんだ。あの女がもう一ぺん通ればいいくらいに考えて、たびたび丘の上をながめたが、丘の上には人影もしなかった。三四郎はそれが当然だと考えた。けれどもやはりしゃがんでいた。すると、午砲(どん)が鳴ったんで驚いて下宿へ帰った。」 夏目漱石『三四郎』

三四郎と若い女が眺めた池の水面を見たいと思いませんか。漱石と同時代の明治30年代頃の「三四郎池」の趣はこちらから。橋のある方、つまり三四郎と女が出会った方面を撮っています。例の大きな椎の木とはどれを指すのでしょう。最近のぞいたら、きれいに整備されていました。

つぎは、新任の英語教師として松山中学の教壇に立った時の印象である。まあ、初授業でナーバスになっていたのです。

「おれは卑怯な人間ではない。臆病な男でもないが、惜しい事に胆力が欠けている。先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内で午砲(どん)を聞いたような気がする。」 夏目漱石『坊ちゃん』

さて、坊ちゃんが驚くほどに聞いたという「丸の内の午砲」は上の画像のものである。綺堂自身も聞いたでしょうし、半七老人も明治になって聞いたことがあるでしょう。

<画像>
皇居の日本橋側にあったようだ。
出典は、「風俗画報」○号○頁(確認中)。

            2006年3月6日 記

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