(子分・幸次郎) 「はは、わっしは大丈夫だ」 ―『金の蝋燭』より ◆半七捕物帳の誕生 『半七捕物帳』とは、岡本綺堂によって書かれた、半七を主人公とする江戸探偵物シリーズ、全69篇の作品群をいう。ただし、68篇と数える者もあり。 書かれた時期は、綺堂45歳から晩年の65歳まで20年余りに及んでいる。ただ、途中2度の中断があり、第1期は13篇までを、第2期は大正9年5月から大正末までの32篇を指している。この2期をあわせて前期とする者もあり、前編の最後の作は「三人の声」である。後期ないしは第3期は、昭和9年夏からもっぱら『講談倶楽部』に執筆された。 下記のリストの69篇と、その後にいきさつを筆者自身が記した 「半七捕物帳の思い出」(文芸倶楽部昭和2年8月) 「半七紹介状」(サンデー毎日昭和11年8月増刊号) の2本を読めば、ほぼ“マスター“したといえる(笑)。 ルーツ 半七捕物帳の誕生の由来は、上の2本に詳しいわけですが、コナン・ドイルのシャーロック・ホームズと「江戸名所図絵」を合わせたものをつくったらどうだろうというものでした。綺堂は英語を読めますので、若いときから外国書の愛読をしていたのですが、丸善にてこれらを買い漁っていたようです。丸善の社史にも登場するとか……。 「江戸名所図絵」の方は、綺堂の追悼号として出された「舞台」(昭和14年5月1日号)によるもので、弟子の人が書いているそうです(私は残念ながら未読です)。それによると、病床にあった綺堂が、暇つぶしにふと「江戸名所図絵」を手にすると、懐かしい江戸の町々がむろん名所の絵入りで記載されており、シャーロック・ホウムズに江戸の町を歩かせたら…というヒントを得たようです。 そこで、作品のほとんどは、下記の作品リストの主要な舞台に見るように、江戸とその周辺の町中を舞台としています。 ◆半七シリーズ作品リスト ―発表時期と作品の舞台と時代 しかし、下の一覧表に見るように、発表順序は明らかになっているものの、初出掲載誌が不明なものも多い。自身「半七捕物帳」を青蛙堂で出版したり、他社の出版にも関与されたことのある、岡本経一さんすらも、出典が明らかでないものがまだあると述壊しておられる。 題名の下の( )内は後に改題されたタイトルで、私たちが今日目にするタイトル、ということですね。 発表誌・刊行年月日については、表末の文献を参考にしましたが、なお直接確認したものばかりではないため、正確ではないところがあるかもしれません。 2000年10月改訂. 独自に調査したもので、打消線による訂正および頁の記入.
岡本経一「解説」『半七捕物帳(6)』(1986年、光文社時代文庫) ** 和田芳恵「解題」大衆文学大系7岡本綺堂・菊池寛・久米正雄集(1971、講談社)843頁による 【補訂正メモ】 ・上記32番の「海坊主」の初出誌は、「新青年」で、オリジナルタイトルは「潮干狩(1)(2)」(大正13年)である。7/11/2001. ・42番「仮面」は『新青年』5巻5号80頁(大正13年4月1日)が初出誌である。舞台は「元治元九月の末」のままで昭和3年の改訂(下記参照)はないようだ。(7/20/2001). ・大正から昭和初期にかけてシリーズとして出版されたもの 「半七捕物帳」大正6年、平和出版 はじめの6篇を収録 「半七聞書帳」大正十年、隆文館 新作社版の5巻本、大正12年 春陽堂版2巻本、昭和4年 ◆「捕物帳」の創始としての『半七捕物帳』 綺堂はのちに一般的に使われることになる「捕物帳」という語を創始・一般化して広めた。当時の明治にも「捕物帳」という言葉は珍らしかったようだ。 綺堂の「捕物帳」という名称の使用は、泉鏡花の実弟である泉斜汀の「弥太吉老人捕物帳」よりも一月ばかり早かった。雑誌『文芸倶楽部』(大正6年1月号42頁)では、はじめは「江戸時代の探偵名話 半七捕物帳 巻の一」(第1話「お文の魂」)として出版された。シリーズとしての執筆が再開された大正9年6月からは「半七聞書帳」とされた。 「捕物帳」という語を、どこからヒントを得て、用いたかが推理されている。まずは、ドイルのホームズシリーズからではないかという考証がされている。綺堂が読んだドイルの本三冊(シャアロック・ホームズの「アドヴェンチュア」と「メモヤー」と「レターン」)のうち、捕物帳という意味に近いのはないが、半七よりも後のドイルの作品には、「シャーロック・ホウームズのCasebook(事件帳ないし事例集)」というのが存在するのでこれが捕物帳に近い表現であるが、時間的に前後しているというわけである。木村毅は、「メモヤー(備忘録)」が、日本語風に「捕物帳」に「転生」したというのが考えやすいとして、ルーツをこちらの方に求めている(同「大衆文学夜話 第6回」大衆文学大系7巻月報6号8―10頁(1971.10))。 つぎに、やはり江戸の警察制度や刑事手続や慣行の中にあったか、が検討されている。第2話の「石燈籠」で、有名な、作者綺堂の「定義」が、半七自身から説明するという形で、なされている。
さて、その「捕物帳」が江戸時代に本当に実在したのか、が問題とされている。綺堂は、むろんあったという説であり、これを肯定する者もいる。しかし、綺堂とは交流もあった、「江戸学」で有名な三田村鳶魚は、「捕物帳」とは言っていなかったといっている。ただ「捕者帳」は存在しており、これは捕物に出動した者を奉行所が控えておくための記録帳であったという。 これは裁判官と題する外国人による絵だが、そのための記録が取られている場面である。ただ、町人ではなさそうである。 ◆作品のスタイル 半七と青年 『半七捕物帳』は、ふとしたことから、浅草で、私という青年が隠居風の老人に出会った。この老人が半七親分であって、その昔話を聴くという出会いからはじまる。 半七と家族・住居 半七親分は、神田・三河町に住み、建具屋を営む傍ら、目明しをした。子分は10人ほどいたことになっている。 作品中では、半七は文政6(1823)年の生まれで、45歳で隠居して、明治5年に死去したことになっている。父は半兵衛で、日本橋の木綿問屋の通い番頭で、母はお民といい、妹がありお粂(のちに常磐津師匠の文字房となる)として登場する。父とは13歳で死別したが、その後神田の岡引の吉五郎の子分となる。さらに、吉五郎の娘・お仙と結婚した。老後は養子に唐物屋を開業させている、という設定である。 また、半七の実在や名前の由来など、半七ファン(シャーロキアンに習って、ハンシチアンともいうらしい)にとってはたまらない議論がなされている。今井金吾『「半七捕物帳」江戸めぐり』(1999・筑摩文庫版、元は『半七は実在した―「半七捕物帳」江戸めぐり』(1989・筑摩書房))などに詳しい。 さらに、半七親分と懇意だった三浦老人から聞き取りした話が、『三浦老人昔話』(全12篇)というつながりになっている。 半七の容貌 「お文の魂」には、綺堂作品にしてはめずらしく半七の容貌・風貌が記述されている。
人それぞれに半七のイメージがあるから、こうだとはいえないが、私には団十郎あたりの雰囲気に似ていると思うのですが。つぎの画像は、九世市川団十郎が幡随院長兵衛に扮したものです。刀の代わりに十手、また取締まる方と取締まられる方の大きな違いはありますが、イメージとしては近いのではないかと思います。しかし、脚本化して、芝居で半七を演じたのは、菊五郎の方でした。 中断と出版誌 シリーズの前編に当るものは、『文芸倶楽部』に掲載されたものが多く、これは博文館の発行による雑誌の一つである。 後編は講談社の『講談倶楽部』に掲載されたものが中心である。野間清治社長が半七ファンであったいきさつで、懇望されて再開し、こちらに載せることになったという。 なお、雑誌『キング』は講談社から大正14年に創刊されたもので、74万部(当時の内地人口約6000万人)を売ったという大正期のベストセラー雑誌である。 震災による災を免れた原稿 新作社版の5巻本(下記のシリーズ本としての出版の項、参照)は、第1輯が大正12年4月、第2輯が同年7月に刊行されたが、この年9月1日は関東大震災が発生した。8月13日頃から半七捕物帳第3輯用の原稿を整理し始めて、第3輯の原稿は、すでに八紘社印刷所に廻っていたが、同印刷所が9月1日の震災の災禍を免れたために、幸いに原稿も焼失を免れて、2ヶ月後の11月に出版されることになった(8月23日に初校正完了し、八紘印刷所へ返送し、震災後の9月24日には、八紘社から再校正の32頁分が届けられている。『綺堂日記』43頁・48頁参照。なお縄田一男『捕物帳の系譜』14頁は、印刷所を「牛込区早稲田鶴巻町にあった溝口印刷所」としているが疑問。)。まずは1000部出された。その後、新作社版半七捕物帳全5巻は、大正14年4月までに完結した。 昭和3年の大改訂 シリーズもの、しかも中断が何回かあった連作の宿命とも言うべきか、後の作品との帳尻を合わせるために筆者綺堂自身によって改訂がなされたようだ。 上にも書いた、春陽堂版の『半七捕物帳』上下2巻本(昭和4年1月刊)のためである。時は昭和3年7月、暑い盛りに1週間を費やして改訂が進められた。この春陽堂版が後の、半七捕物帳の基調になったという(岡本経一「半七むかし話」岡本綺堂・半七捕物帳巻の六(筑摩書房・1998)379頁)。主要な改訂は次ぎのようなものだったという。 ◆半七捕物帳は江戸へのメランコリー(郷愁)か ・半七シリーズの作品については、幾多の紹介・研究本があり、また、あらすじなども紹介されたり、ホームページも存在するので、そちらに譲ります(リンクの項、参照)。 ここでは、別の視点からこのシリーズを取り上げることができたらとプラン中です。(以下、作成中) 語り部・出会 第1話の「お文の魂」が載った『文芸倶楽部』大正6年1月号42頁の見出しには「江戸時代の探偵名話 半七捕物帳 巻の一」とあります。 「わたし」が半七シリーズでの語り手なのだが、当時(明治の初め頃と思われる)12歳だったわたしは、日ごろ奇怪な、幽怪な話や事柄を嫌っていた旗本の叔父さんから、叔父さん自身が奇怪だと口走った話に興味を引かれる。それがこの第一話なのだが、詳しくは話してくれないために、この事件にかかわったと思われる、叔父さんの友人で、Kのおじさん、と呼んでいる旗本の2男である人に会いに出かける。Kおじさんのところは、わたしの家から4町ばかりしか離れていない番町で、
さて、Kのおじさんと半七の出会いは、どういうことになっているのか。Kのおじさんは、神田明神下の常磐津の師匠のところへ出かけて習っていた。この師匠というのが、半七の妹(上で紹介した、文字房)であった。この関係で、Kのおじさんは当時42、3歳の半七と知り合いになったというのである。 とすると、わたしは、Kのおじさんから聞いた話を語りつづけなければならないことになるが、Kのおじさんの登場はこの第1話だけで、約10年後にわたしが当の半七老人と浅草で出会ったということになっている。それは、日清戦争後で、半七は73歳で、Kのおじさんはすでに亡くなっていた。ちょっと、複雑な出会いといえるのではないでしょうか。 綺堂事物ホームへ (c) 2000-2001 All rights reserved. Waifu Seijyuro |