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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
 岡本綺堂の保養地というか季節執筆地は、伊豆・修善寺、上州は磯部、の温泉地に決まっていた。伊豆では「修禅寺物語」、上州では「鳥辺山心中」の名作が書かれた。
 伊豆修善寺はすでにご紹介したので、これは上州・磯部の旅館での逸話。伊豆ものにはない、磯部近隣の、働き者の若い娘たちの日常が危うく崩れようとするのを、優しい視点で描いている。
 ほかに上州ものの随筆は、「山霧」「磯部の若葉」などが、『綺堂むかし語り』にあり、全編を青空文庫でダウンロードできる。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 葉 桜 ま で
岡 本 綺 堂kido_in.jpg


    一

 汽車の窓から熊谷堤の桜をながめて、上州の湯の村に着いたのは、四月十一日の午過ぎで、停車場を出ると、ここには桜の雲が押っかぶさるように白く漲っているのが先ず眼についた。ここの村にも湯の宿があって、わたしは毎年一度ぐらいはここに滞在するのを例としているが、ここで、花見をするのは今年が初めであった。停車場から私の革鞄をさげて案内してくれたのは、顔馴染のない若い番頭で、如才ないような、しかも生意気なような口ぶりで、しきりに土地の案内めいたことを説明して聞かせた。昨今はこの通りの花盛りで、諸方から花見の団体が毎日百人ぐらいはあつまって来ると自慢らしく話した。私は黙って聴きながらあるいた。それでも彼は眼が捷い。どこで見当をつけたか、途中でわたしに訊いた。
「旦那様は初めてじゃございませんね。」
「むむ。五、六年つづけて来る。」
「へえ。左様でございますか。」
 それは停車場から左へ折れて、石の多いだらだらの坂を降りかけた時で、その以来、彼は俄に態度をあらためて、黙っておとなしく私のあとから附いて来た。人を送る春風がそよそよと軽く吹いて、小さい料理店の軒にはほおずき提灯が紅い影をゆらめかせていた。二、三人の貧しい楽隊を先に立てて、今夜の芝居を触れてあるく一群も通った。紙風船の荷をかついでいる商人も通った。いずこの里にも花のかげには春の姿が宿っていると思いながら、私はのびやかな心持で宿の門をくぐった。
 帳場ではわたしの顔を識っていて、すぐに下座敷の八畳に案内してくれた。あまり縞麗な室ではないが、閑静を取得に私はいつもこの座敷を択むことにしていた。寒いあいだはここらに客を入れたことはないと見えて、古い障子はところどころ破れていた。
「障子はすぐに貼らせます。」と、番頭は云訳をしながら出て行ったが、その後幾日たっても貼り替えてはくれなかった。
「いらっしゃいまし。」
 一貫張りのちゃぶ台をかかえて、若い女中が這入って来た。名はお鶴さんと云って、年は二十一だということを私はあとで知った。お鶴さんは芝居に出るお腰元のような紫地に細かい矢飛白模様の綿入れを着て、菊の模様を染め出した白っぽいメレンスの帯をしめていた。お鶴さんは帳場から私の身分を聞いて来たらしく、気を利かしたような顔をしてこんなことを云った。
「お書き物をなさるならば、お机を南の明るい方へ置きましょうか。」
 私はその通りにして貰った。風呂からあがって二、三枚の絵葉書にペンを走らせていると、お鶴さんは茶菓子を持って来て、二言三言話して帰った。お鶴さんは小肥りに肥っていて、色の白い、顔の丸い、眉の薄い、眼の細い、口もとの可愛らしい、見るからおとなしそうな女であった。
 わたしは革鞄から小さい花瓶を出して、机兼帯のちゃぶ台のうえに置いた。そうして、庭から桜の枝を折って来て出鱈目に挿した。夕飯の給仕に来たときにお鶴さんはそれを見つけて、生花の話をいろいろ始めた。お鶴さんはその心得があるらしく見えた。自分の家はここから三里ほど距れた小さい町で、兄さんは鉄道に勤めている。阿母さんは妹を相手に停車場のそばで雑貨店を開いていると云った。 「なにしろ、まだここへ来たばかりですから、些(ちつ)とも勝手がわかりません。」
 なるほど話してみると、お鶴さんは土地の勝手を私ほども知らないらしかった。知らないのも無理はない、この三月に初めてここへ奉公に来たのだと云った。上州は糸場が多い、温泉場が多い。中以下の家の娘たちは、養蚕に雇われるか、温泉場に奉公するか、兎にかくに夏場だけ働いて自分たちの嫁入衣装を作る。それがここらの習となっているので、お鶴さんも着物をこしらえるために今年初めて奉公に出た。去年も人にすすめられたのを持病の脚気があるので躊躇していたが、今年は思い切ってここへ来た。主人はまことに善い人であるが、初奉公はやっぱり辛いとお鶴さんはしみじみ話した。そうして、阿母さんや妹が恋しいようなことを云っていた。わたしはそんな話を聴きながら飯を食ってしまった。私の嫌いな鯉のあらいが膳に乗っていたので、あしたからこれを断ってくれと云うと、お鶴さんはひどく恐縮したような様子で、料理番さんの方へきっと云い付けて置きますと云った。
「どうもお粗末でございました。」
 お鶴さんが膳を引こうとするときに、南の縁側に向いた障子の腰硝子から内をのぞいて、何かげらげら笑っている女があった。おかしな奴だと思いながら、わたしも硝子越しに透してみると、それはお秋さんであった。お秋さんは三、四年ほど前からここに奉公していて、去年の五月わたしがここへ来た時にはわたしの座敷の受持であった。
「お秋さん、しばらく。」
 わたしが内から声をかけると、それを切っ掛けにお秋さんは座敷へすべり込んで来た。そうして、やはりげらげら笑いながら挨拶した。お秋さんはお鶴さんと同い年ぐらいであろう、わたしが初めて彼女(かれ)を見た時にはまだ肩揚があったらしく、客のまえに出ても唯おどおどしているような小娘であったが、去年逢った時にはもうすっかり大人びていた。一年振りで今年重ねて逢ってみると、お秋さんはもう何処へ出しても立派に一人前の姐さんで通れそうな女になっていた。お秋さんは平べったい顔をしているが、眉の力んだ、眼の丸い、色の白い、脊の高い、先ず十人並以上の女で、ここらの湯の女としては申分のない資格を備えていた。無暗にげらげら笑うのが婆の癖で、わたしと十分間ほど話しているあいだにも、お秋さんは殆(ほとん)どのべつに笑いつづけていた。
「おやかましゅうございました。」と、お秋さんはやがて出て行った。これは普通のお世辞や挨拶でなく、実際やかましかったと私は思った。お鶴さんもて叮嚀に挨拶して出て行った。廊下でも何かお秋さんの笑っている声が遠くきこえた。
 ちゃぶ台にむかって、私は書物を読みはじめると、日はもう暮れ切ってしまって、川の音が雨のようにきこえ出した。俄に表が騒がしくなったので、わたしは起って縁に出て、まばらに閉めてある雨戸のあいだから表をのぞいた。縁のまえには広い庭があって往来との界には低い石垣の堤を築して、堤のうえには扇骨木(かなめ)のあらい生垣が作られていた。その生垣を透して紅い提灯の火が春の宵闇に迷っているのが見えた。提灯の数は十四、五もあろう、その火の影が大勢の人の声と一所にゆれて縺れ合っていた。
「今晩は。」
 不意に声をかけられて振向くと、それは十六、七の若い女中で、手織らしい黄縞の袷を着て紅い襷をかけていた。ここから一里余もはなれた町の若い衆が夜桜を観に来たのだと、その女中が説明してくれた。夜桜そう云う詞をここらの土地で聴くのはなんだか不思議のようにも思われた。
「わたくしは国と申します。御用があったら御遠慮なく仰しゃってください。
 若い女中は自分から名乗ってゆき過ぎた。その投げ付けるような暴っぽい物云いに、わたしは少し感情を傷けられたが、年の若い、田舎育ちの娘に対して腹を立つのも無理だと思った。わたしは座敷に帰って再び電灯の下に坐ると、表の人声もどこへかだんだんに遠くなった。
「御めん下さい。」
 障子の外からしとやかに案内したのはお鶴さんであった。かれは障子を少しあけて、今ここへ若い女中が来なかったかと訊いた。お国さんならば今ここを通ったと私が答えると、お鶴さんは少し躊躇していたが、やがて又そのお国さんが何か御用を伺いましたかと訊いた。
「あの人には困るんでございますよ。」と、お鶴さんは顔をしかめて云った。
 お国さんは今年十七で、先月の中頃からここへ奉公に来たが、あの人には悪い癖がある。自分の受持でもない客の座敷へ無暗に入り込んで、色々の用を頼まれる。つまり本人の料見では幾らかの心附でも貰う気であろうが、そんなことをされると受持の女中が甚だ迷惑する。第一には自分が受持の客を粗略にしているようにみえて、帳場に対しても極りが悪い。それにもかまわずお国さんは無暗によその座敷の用を買い込んであるくので、朋輩達にも憎まれている。若しこちらのお座敷へ来てなにか云っても、どうぞ取合わずに置いてくれと、お鶴さんは頼むように云い置いて行った。
 それから一時間ほどたつと、果してお国さんが来た。
「なにか御用はございませんか。」
 電灯のまえに突き出したお国さんの顔をわたしは初めて視た。かれは色の黒い、少し反歯ではあるが、眼鼻立の先ず整った、左のみ憎気のない娘であった。私はなんにも用はないと断った。もし用があれば柱のベルを押すから、一々訊きに来るには及ばないと云った。
「それでも折角来たもんですから、水でも入れてまいりましょう。」と、お国さんは水さしの薬缶を引っ攫うように持って行った。
 十時頃に再び風呂に行って帰ってくると、お鶴さんはわたしの座敷に寝床を延べていた。
「お国さん、まいりましたろう。」
「むむ。来た。無理に水さしを持って行ってしまった。」
「そうでございますか。」
 おとなしいお鶴さんはその以上になんにも云わなかったが、あれほど頼んで置いたのに、なぜお国さんに用を頼んだと、幾らか私を怨んでいるらしい顔をしていた。
「だって、無理に持って行ってしまったんだから。あの人にも困るね。」と、私は云訳らしく云った。
「まことに困ります。では、お休みなさいまし。」
 お鶴さんは会釈して出て行った。火鉢の傍にはいつの間にか水さしが置いてあった。こういう所でも、銘々の仕事の上に小さい争闘が絶えないものだと私はつくづく思った。

      二

 あくる朝、わたしは早く起きて散歩に出た。小さい湯の村も旅館の近所には町を作つて、どこの家でも桜の下に店を開いていたが、梢の花はまだ眠ったように朧ろにみえた。うす白い靄が町のうえを掩って、近い山々もみな顔を隠していた。坂をのぼつて公園へ這入ると、入口の石の鳥居には新しい注連が張り渡してあった。正面の古い社にも新しい幕が張ってあった三、四人の男があつまって、社の横手に杉の葉で葺いた小さい家を作っていた。十五日はこの社の大祭で、攝待の湯飲所をここにこしらえるのだと云うことが判った。あさの風はまだ薄寒ので、そこには焚火の煙がほの白く流れていた。
 花盛りで、おまけに祭礼がある。私はよい時に来たと思った。一時間ほどあるいて宿へ帰ると、お鶴さんが朝飯を運んで来た。
「ゆうべ遅くに新規の女中が一人来たんですよ。だんだんに忙しくなってまいりますから。お秋さんとお国さんとわたくしと三人ぎりでは、手が足りなくって困っていたんですが、まあ好塩梅でございます。」と、お鶴さんは給仕をしながら話した。
 ここらの温泉場は冬季殆ど休業同様なので、春先になってから何処の宿でもだんだんに女中を殖やしてゆく。しかしそれはここばかりでなく、近所の温泉場がすべてそうであるから、春先になると女中の需要が一度に込み合って、その割に供給がない。利口な娘たちは五月六月の二月を養蚕に雇われて、七月八月の真夏だけを温泉場に雇われようとする。それがために春先はどうも奉公人が払底で、どこの宿でも新規の雇入れに困っている。今度来たのは二十五、六の年増であるが、なかなか気が利いているらしいとお鶴さんは云った。
 その日の午前にわたしは廊下で新しい女中に逢った。なるほど、年頃は二十五、六のやや赭ら顔であるが、俗にいう小股の切上った女で、着物の着こなし、帯の結び工合、いかにもきちん[#「きちん」に傍点]とした風俗であった。おそらく渡り者だろうと思って、午飯のときにお鶴さんに訊くと、名はお仲さんと云って、以前は知らないが、今は警察へ出る人の細君である。御亭主は五、六里も距れたところへ当分出張しているので、その留守の間に着物の二、三枚も拵えるつもりでここへ奉公に来たのだと云った。
「御亭主は承知なのかしら。」
「いいえ、無断で出て来たんですって。」
「乱暴だな。」
 お鶴さんは黙って笑っていた。
 午過ぎに私はまた散歩から帰ってくると、花瓶の桜は脆く散りかかって、白い貝のような小さい花弁を黒いちゃぶ台の上に浮かせていた。お国さんが硝子越しに私の座敷をのぞいて通った。私はちゃぶ台にむかって原稿を書いていると、やがて庭先からお国さんが声をかけた。
「あの、お花がいけなくなったようですね。これを生け替えてはどうですか。」
 かれは手に白い躑躅の枝を持っていた。わたしは縁へ出て、それを花瓶の桜と生けかえていると、お国さんも縁に腰をかけて、問わず語りにこんなことを云った。
「お鶴さんはほんとに気がつかないのね。あの人、なぜあんなにぼんやりしているんだろう。」
 お鶴さんのぼんやりしているのは私も認めていた。気の短い私からみると小焦れったい程にぐずぐずしていた。所詮お鶴さんは正直とおとなしいのとが取得で、あまり役に立ちそうな人ではなかった。しかし客のまえで自分の朋輩をつけつけ悪く云うお国さんに対しても、わたしは一種の反感をとどめ得なかった。
「お国さんは年の若い割によく気がつくね。」と、私は皮肉らしく云った。
「どうせ奉公に来ているんですもの、一生懸命に働きますわ。家へ帰ると達磨屋へ売られるから。」と、お国さんは平気で云った。
 わたしは思わずお国さんの顔をみた。
「阿父さんや阿母さんは無いのかい。」
「阿母さんだけさ。」
 ゆうべに引替えて、お国さんの物云いはだんだんに暴っぽくなって来た。彼女はおのずからに持前の野性をあらわして来たらしい、その太く嶮しい眉のあいだに一種の精桿の気を漂わしているようにも見えた。
「阿母さんはほんとうの阿母さんかい。」
「実の親……。あたしを可愛がってくれるわ。」
「可愛がってくれる阿母さんが、お前をだるま屋へ売るのかい。」
「そりゃ貧乏だからさ。」
 お国さんは相変らず平気でいた。この時に、横手の廊下の方で義太夫を唄いながら通る女があった。
 ――おなさけお慈悲の御勘当、あんまり冥利がおそろしい――
「お仲さんだよ。ゆうべ来たばかりで、もう鼻唄。随分ずうずう[#「ずうずう」に傍点]しいね。あの人こそ 達磨屋にでも稼いでいたんだろう。」と、お国さんはその嶮しい眉をあげて憎々しく罵った。暴っぽい物云いがいよいよ暴っぽくなって来た。
「旦那、東京にもあたしのような女がありますかね。」
「そりゃあるさ。」と、私は笑いながら答えた。
「でも、あたし見たような女は上州名物なんですとさ。上州からは国定忠次が出たでしょう。」
 国定忠次を以て郷党の誇りとしているお国さんの眼から観たらば、なるほどお鶴さんはぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]にもぐず[#「ぐず」に傍点]にも見えるかも知れない。こういう私自身も国定忠次にはかないそうもない。お国さんの眼にはこの東京のお客も薄ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]に見えることであろう。わたしも閉口して、早々に座敷へ引込んでしまった。
 表二階のお客が忙しいとか云うので、きょうはお秋さんの笑い声が下座敷に一度もきこえなかった。下にもお秋さんが受持の一組があるのであるが、それは新規のお仲さんに代りを頼んであるらしかった。
 そのあくる日は陰っていた。桜はどこも盛りになって、丘も人家も花に埋められてしまった。縁に立って見あげると、白い花は坂の上から雪なだれのように一面にうず高く押寄せていた。生あたたかい風が緩く吹いていた。この日は四人の女中達について、私の注意をひくような事件は何にも起らなかった。わたしは一日黙って原稿を書いた。
 次の日は朝から晴れていた。明日はいよいよお祭で、今夜は宵宮だというので、町の家では軒ごとに提灯をかけた。近在からも花見がてらの参詣が多いのを見越して、町もおのずと景気づいていた。庇髪に結った鮨屋の娘はあかい襷かけて、早朝から折詰をこしらえていた。公園へ行ってみると、摂待の湯飲所はもう出来あがって、そこには大きい釜が懸けてあった。そのそばには甘酒屋の店も出ていた。桜の雪を蹴散して白い鳩の群が威勢よく飛んでいた。芝原には莚をしいて、子供たちが太鼓を叩いていた。社のなかでも大太鼓の音が神々しくひびいた。
 散歩から帰ると、廊下でお秋さんに逢った。
「ちっとも下へ来ませんね。」
「ええ。非常に多忙を極めているもんですから。」と、お秋さんはわざとらしく漢語を使って、例の如くげらげら笑っていた。お秋さんという女は、百の三分の二を笑って暮すに相違ないと私は思った。
 午飯の時にお鶴さんが小声で話した。
「お国さんはお暇が出るそうです。」
「だるま屋へ行くのかい。」
「どうだか知りませんけれど、少し不都合なことがありましてね。」
 きのうの午後に二階に逗留している女客の蟇口から二円の金がなくなって、その疑いがお国さんの上にかかった。お国さんはその日に一円ばかりの新しい下駄を買った。その客の座敷はお国さんの受持でもないのに、かれは例の如くに毎日出這入りしている。その日も客が風呂へいっている留守に入り込んで、座敷のなかを片附けたりしていた。それらの事情からお国さんはその嫌疑を免かれることが出来なくなった。五、六日前にも一泊の客の金が少しばかり紛失した。その疑いも実はお国さんにかかっていた場合であったから、かれはどうしてもここの家にいられなくなった。
「たしかな証拠もないのに、あたしに傷をつける。」と云って、お国さんは例の野性を発揮して、大きな声で怒鳴り散らしていると、丁度その時に駐在所の巡査が客帳をしらべに来た。巡査の姿をみると、お国さんは急におとなしくなって、素直に出て行くことを承知した。多分午過ぎには荷物をまとめて帰るだろうとのことであった。
「わたくしよりも年は下ですけれど、あの人はなかなか強いんですからね。わたくしは随分いじめられたんですよ。」と、お鶴さんはほっとしたような顔をして、自分の敵の立去るのを喜んでいるらしく見えた。
 しかしお国さんがいなくなると、女中がまた一人減ることになる。折角お仲さんが来たと思うとすぐにお国さんが減ってしまっては、やはりもとの三人で相変らず忙しいと、お鶴さんは細い肩を皺めていた。唯った三人の女中で、滞在と一泊とをあわせて平均二十組以上の座敷を受持つのはなかなか楽ではないと、お鶴さんは疲れ果てたような顔をしていた。お秋さんは一体が元気の好い質でもあり、ことに多年ここに勤め馴れているから、一向無頓着らしい顔をしているが、わたしのような初奉公の者には迚[#とて]も勤め切れないと、お鶴さんはだんだんに涙ぐんで来た。
「人並の着物でもこしらえたいと思うから、こうして辛抱しているんですけれど、そんな慾さえ捨てれば、家にいても何(ど)うにかこうにかしていられるんです。」
 仕事が忙しいばかりでなく、お鶴さんはこうした商売の女には余りおとなし過ぎていた。したがって余計に気苦労も多かろうと私も思い遣った。
「いつでも手前勝手のお話ばかりしていて済みません。」
 お鶴さんは膳を引いて行った。お鶴さんは恋しい阿母さんや妹の顔を毎晩の夢にみながら、着物のために働いているのである。私は何だかいじらしいような気にもなった。
 午後に再び散歩に出ると、公園の近所はいよいよ賑わっていた。どこからこんなに出て来たのか、ハイカラ風の若い娘達や、洋服姿の若い男などもそこらにうろうろしていた。太鼓の音はどんどん聞えた。社のまえの石甃には参詣人が押合って通った。股引で草鮭がけの男や、脚袢で藁草履をはいたお婆さんなども、賽銭箱の前にうずくまっていた。花の下には莚をしいて、酔って唄っている花見の団体もあった。正宗やビールを売っている露店も出た。鮨屋の娘もここに店を出していた。玩具屋や駄菓子屋の店もならんでいた。飴屋が笛を吹いていた。大きい杉と大きい桜とを背景にして、こうした歓楽の春のけしきがえがかれているのを、私は飽かずに見てあるいた。これほどの雑沓のなかでも、東京と違っておびただしい砂の舞はないのが取分けて嬉しかった。
 帰ってくると、坂の中途でお国さんに逢った。

       三

 お国さんはいよいよ暇を取ってゆくらしい。小さい柳行李と風呂敷包みとを軽々と引っかかえて、一人で坂を登って来た。すれ違うと、彼女はわたしに挨拶した。
「あたし、もうあすこにいないのよ。あんな家にいるもんですか。ばかばかしい。これから家へ帰ってもっと好いところへ奉公に行くんですわ。」
 だるま屋のことが胸に泛んで、わたしは可哀そうな心持になった。お国さんは平気な顔をして坂をのぼって行った。祭の太鼓がここまでも手に取るように響いた。
 宿へ帰ると、門のところでお秋さんに逢った。お秋さんはなにか買物にでも行くらしかった。
「お帰んなさいまし。あははははは。」と、かれは先ず笑った。
「どこへ行くの。今そこでお国さんに逢ったっけ。あの人、とうとう暇を取ったんだってね。」
「ええ。つまりみんなと折合が悪いからですよ。なにしろまだ若いもんですからね。」
「そうさ。君のように甲羅を経ていないからね。」
「違いない。あははははは。」
 お秋さんは笑いながら出て行った。わたしが座敷へ帰ると、お鶴さんはあとから附いて来て、火鉢の火をついでくれた。そうして、きょうはなんだか膝ががく付くとか云った。お鶴さんは持病の脚気がそろそろ始まるのかも知れないと脅かされているらしかった。
「朝から晩まで階子をあがったり降りたり、長い廊下をあるいたりして、脚気にはよくないでしょうねえ。」と、彼女はひどく不安そうに云った。わたしもそれを否認するわけには行かなかった。脚気の持病のある者がこんな商売をしているのはたしかに悪かろうと思われた。しかしわたしはそれを正直に説明する勇気がなかった。ふだんからそのつもりで養生していたら、別に仔細はなかろうと云うような極めて曖昧な返事をして置くと、お鶴さんも少し心強くなったらしく、朋輩の人達もみんな然う云ってくれるから自分もまあそのつもりで辛抱している。もし急に悪くなるようなことがあっても、電報さえかければ阿母さんはすぐに迎いに来てくれる筈になっていると話した。
「阿母さんはよっぽど可愛がってくれるんだね。」
「ええ。まだ子供のように思っているんですよ。」と、お鶴さんは急に晴やかな顔をしてにこにこ笑っていた。
 お国さんも阿母さんが自分を可愛がってくれると云った。しかしその阿母さんは娘を達磨屋へ売ろうとする阿母さんであった。お鶴さんの阿母さんはそんな人ではないらしかった。奉公に骨が折れても、脚気の持病があっても、やっぱりお鶴さんの方が仕合せらしいと私は思った。
「それにしても、お国さんはどうするだろう。」と、お鶴さんの行ってしまったあとで、わたしは色々の想像をめぐらした。
 その日は夕方から夜にかけて原稿をかいた。芝居小屋は宿に近い丘の上にあるので、時々にツケを打つ音がばたばた聞えた。今夜の外題が伊賀越の仇討であることを知っている私は、舞台で今頃なにをしているだろうかなどと考えたが、さすがに観にゆく気にもなれなかった。風呂へ這入って帰る頃には少し強い南風が吹き出して、闇のなかから白い花がばらばらと渡り廊下へ吹き込んで来た。
 あくる日はどんよりと陰っていた。それでも大祭の当日なので、私がまだ寝床にいる頃から太鼓の音が枕にひびいた。あさ飯をしまって散歩に出ると、ゆうべの風で坂路は斑らに白くなっていた。その落花を踏んで参詣人がぞろぞろと通った。町の芸妓も手をひかれて通った。花見がてらの団体も早朝からもう繰込んでいた。
「大層賑かですね。」と、わたしは理髪店のまえに立っている職人に声をかけると、職人も今日は白い仕事着の下に何か光った着物を着ているらしかった。
「それでも今年はさびしいようです。やっぱり選挙がいくらか邪魔をしているらしゅうござんすよ。」と、彼は答えた。
「なにしろお天気にしたいもんですね。」
「そうですよ。降られちゃ型無しですから。」
 わあっという鬨(とき)の声があがったので、わたしは坂の上をみあげると、どこの花見にも観るような異装の一群が押寄せて来た。女の着物をきて白粉をつけた男や、紙でこしらえたかみ※※[#示偏+上][#示偏+下](かみしも)を着た男や、附髭をして紙の兜をかぶった男や、およそ十二、三人が何か大きな声で唄いながら、ときどきに一斉に関の声をあげていた。それを囃し立てながら又大勢の人がそのあとから附いて来た。その雑沓のなかをくぐりながら私は公園の入口まで行くと、どこかの製糸所の女工が押出して来たらしく、揃いの花簪をさした若い女の群が狭い入口を一ぱいに塞いでいた。これでは迚も這入れそうもないと諦めて、わたしはそのまま引返した。
 帰って風呂に這入って、また原稿を書いていると、お鶴さんが塗盆に重箱を乗せてうやうやしく持って来た。
「少々ばかりですが、お祭でございますから。お気に入りましたら何杯でもお替えください。」
 お鶴さんが置いて行ったのは強飯の重箱であった。重箱を何杯もかかえるほどの勇気はないので、わたしは小皿に盛り分けてその三分の一ほどを食った。硝子越しにながめると、庭の桜が音も無しにほろほろと落ちていた。空の色はいよいよ暗くなって来た。
「たんと召上ってください。」と、障子の外から声をかけて通る者があった。その笑い声でそれがお秋さんであることはすぐに判った。
「お秋さん、帰りにこの重箱を下げてくださいな。」
「はい、はい。」
 やがてお秋さんは引返して来て、重箱の蓋をあけて見た。
「あなた、些(ちつ)とも上らないんですね。」
「もう沢山。」
「お鶴さんが話しませんでしたか、あのお仲さんはもう居なくなってしまったんですよ。」
「来たばかりで、もう居なくなる……。ここの家が気に入らないのかね。」
「いいえ、そうじゃないんです。御亭主が来て引摺って行ったんです。」
 御亭主に無断でここへ奉公に出たことが、すぐに御亭主の耳に這入って、彼は出張先から引返して来た。そうして、二時間ほど前にこの家へたずねて来て、お仲さんを烈しく責めた。警察に奉職している者の妻が茶屋や宿屋に奉公するとは何事だと呶鳴りつけた。折角来たものだから一月だけはここにいたいと、お仲さんは強情を張ったが、御亭主はどうしても承知しなかった。彼はお仲さんの着替や手荷物を取りあつめて、一足先に持って帰ったので、お仲さんは着のみ着のままになってしまった。それでは奉公は出来ないので、かれもよんどころなく暇を貰ってゆくことになった。
「無断で来るというのが好くありませんわねえ。」と、お秋さんは云った。
「無論、よくない。御亭主が怒るのも無理はないよ。」
「それでもお仲さんはこんなことを云っているんですよ。何、家へ帰ったってじっとしているもんか。今度はもっと遠いところへ行くつもりだって……。随分ですわね。」
「少しお秋さんに似ているようだね。」
「あら。あははははは。」
「しかしそのなかでお秋さんは一番気楽らしいね。」
「まあ、そうでしょうね。おとなしく稼いで溜まるばかりですもの。あははははは。」
「ほんとうに溜まるばかりだろうね。」
「ちっと貸してあげましょうか。あははははは。」
 お秋さんの笑い声には私もこの頃は少し飽きて来たので、もう一所になって笑ってもいられなかった。わたしは黙って莨を吸っていると、お秋さんは縁側へ出てまた誰かと話しながら笑っていた。
 午過ぎから細かい雨がしとしとと降り出して来た。それでも公園の方では太鼓の音が絶えずきこえた。縁側に出て表をのぞいていると、新しい着物をきた女たちの濡れて帰るのが生垣のあいだから廻り灯籠のように幾人もつづいて見えた。庭の桜が乱れて散っていた。
 祭の日は雨に暮れてしまった。

   四

 それから四日経つと、わたしは廊下でお国さんに逢った。お国さんはなんにも云わずに俯向いて摺れ違って行った。
 ゆう飯を運んで来たときに、私はお鶴さんに訊いた。
「お国さんは又帰って来たの。」
「ええ。きょうのお午頃に……。なんでもひどい目に逢ったんですって。」と、お鶴さんも流石に気の毒そうな顔をして囁いた。
 お国さんは十四日の夕方に家へ帰ると、その明くる日から近所の小さい町の料理屋へ奉公に遣られた。その料理屋は土地でも相当に繁昌する家で、足かけ三日の間、お国さんは随分忙がしく働かされた。いくらお国さんでもこれには迚も堪え切れなかったので、今朝無断でそこを飛び出した。そうして、再びここへたずねて来て、もともと通りに是非使ってくれと泣いて頼んだ。しかし無断で出て来たよその奉公人であるから、その方の始末が付かないうちはここの家でも雇うわけには行かなかった。その訳を云って聞かせても、当人がどうしても肯かないので、先ずそのままにしてあるとのことであった。
「お仲さんが不意にいなくなって、こっちも手の足りないところですから、まあその儘にしてあるんですけれど、無断で飛び出して来たんですから、いずれ何か捫着が起るでしょうよ。なんでも今度の家ではよっぽど酷い目に逢ったとみえて、真蒼な顔をして来たんですよ。」
「とうとう達磨屋へ遣られたんだね。」
「そうかも知れません。」と、お鶴さんはあるか無いかの細い眉をひそめていた。
 祭のあとは、町も火が消えたように寂かになって、桜が忙がしそうに散るばかりであった。日が暮れてから私は風呂へ行った。今夜も陰っていた。真黒な空は横手の丘の上まで重そうに押っ被さって来て、弱々しい星の光が二つ三つ微かに洩れていた。暗い丘の薬師堂で鰐口を鳴らす音がさびしく聞えて、奉納の瓦斯(ガス)灯の火が散り残った桜の間からぼんやりと薄紅くにじみ出していた。宿の庭の大きい池では早い蛙がもう鳴き出した。どこかの宿の二階で三味線の音が沈んできこえた。
 渡り廊下の中途でわたしはお国さんに逢った。廊下の入口には小さい電灯が点っていた。その電灯に照されたお国さんの姿はまるで幽霊のようであった。頽れかかった銀杏返しの髪のおくれ毛を顔一ぱいに振りかけて、両袖をしっかり掻き合せて肩をすくめて、前屈みになって、暗い中からすう[#「すう」に傍点]と出て来た時には、わたしは思わず立停まった。お国さんはやはり何にも云わないで、消えるように摺れ違って行ってしまった。国定忠次の末葉もわずか二日か三日のあいだに、精神と肉体とに怖るべき打撃をうけて、彼女の魂から昔の精悍の気をすっかり奪い去られたらしく思われた。
「お国さんは大変おとなしくなったようだね。」と、私はあくる朝お鶴さんに云った。
「ええ。まるで生れ変ったようにおとなしくなってしまいました。今朝も御飯を食べながらぽろぽろと涙をこぼしているんです。」
 私もなんだか悲しくなった。
 その日の午過ぎに、お谷さんという年増の女中が来た。お谷さんは一昨年(おととし)の夏もここにいたので、私とも顔馴染であった。去年も七、八の二月はここに来ていたそうであるが、私はその頃ここへ来なかったので知らなかった。
「お国さんはやっぱり断られたんですよ。」と、お鶴さんは夕飯のときに話した。「お谷さんが来るようになりましたし、それにお国さんの先の主人から何だか面倒を云って来そうだもんですから、帳場の方でもとうとう断ることにしたんだそうです。お秋さんの話では、お国さんは何か悪い病気にでもなっているんじゃないかって云いますがね、どうですかしら。真蒼な顔をして、なんだか歩き工合が変なんですよ。」
 私はいよいよ情なくなった。
「ここを断られて何うするだろう。」
「元の主人の方へはもう行かない。阿母さんの方へ帰るんだと云っていました。」
 阿母さんのところへ帰ってどうなるだろう。わたしはお国さんの運命を想像するに堪えなかった。
「わたくしもなんだか足の工合がだんだんに悪くなるんですよ。」と、お鶴さんは切なそうに云った。「この分じゃあ夏場まで辛抱が出来ないかも知れません。」
 それから彼女はお仲さんの噂をした。お仲さんは又もや家を飛び出して、今度は武州大宮の町へ奉公に行ったとのことであった。今度は離縁されても戻らないと云っているから、これにも何か捫着が起るだろうと云った。
 その翌日はお谷さんがわたしの座敷へ午飯の膳を運んで来た。お鶴さんは気分が悪くてきょうは一日休ませて貰うことになったとのことであった。その話をしている時に、お秋さんが笑いながら縁側を通った。
「あなた、今日はお給仕が違いましたから、たんと召上ってください。」と、お秋さんは障子の外から声をかけた。
「お秋さん。君は一度もお給仕に来てくれないね。」と、私も笑いながら云った。
「あたしみたような野蛮人はお気に入らないでしょう。あははははは。」
「その野蛮人が好いという人もあるんだから。」と、お谷さんも内から戯(から)かった。
「知らない。馬鹿、あははははは。」
 お秋さんは通り過ぎてしまった。
「あの人はいつも笑っている人だね。実に不思議だ。」
「不思議なくらいですね。」と、お谷さんは金歯をみせて軽く笑った。「でも、あれで苦労があるかも知れませんよ。」
「苦労する相手があるのかね。」
「あると云えばある。考えてみると果敢ないような訳ですけれど……。」
 去年も一昨年もつづけてここに来ているので、お谷さんはお秋さんの秘密を知っていた。一昨年お秋さんがまだ十九の年の夏に、ここに半月ほど逗留していた溝口という若い学生があった。それは東京の医学生で、お秋さんがその座敷を受持っていた。若い学生と若いお秋さんとのあいだに本当の恋が成立ったか何うかは疑問であるが、その学生は来年の夏も屹(きつ)と来ると約束して別れた。帳場の眼を忍んでお秋さんは停車場まで送って行った。お秋さんはその約束を楽みに去年もここに奉公をつづけていたが、その学生は来なかった。お秋さんは宿帳をしらべて東京の男へ手紙を出した。すると、その男から返事が来て、今年は差支があって行かれないが、来年の夏は屹と行くとのことであった。お秋さんはそれを心待ちにして、今年までここに辛抱しているのらしい。当人はそれを否認しているけれども、一つ家に何年も勤め通しているのは何か仔細がなければならない。現にきのうも獨り言のように、早く夏が来ればいいと云っていたので、お谷さんから散々ひやかされた。
「こういうところには能くそんな話がありますがね、どうも巧く纏まるのはないもんですよ。お秋さんもまだ年が若いし、正直ですからねえ。」と、お谷さんはまじめな顔をして憫むように云った。
「ふむう。お秋さんにもそんな苦労があるのか。」
 私は意外に感じた。朝から晩までげらげら笑いつづけているお秋さんの懐ろに、そんな果敢ない恋物語を秘めていようとは夢にも思い付かなかった。わたしは急にお秋さんが可哀そうになって来た。下らないことをげらげら笑う女だとばかり思っていて、その笑い声の底に悲しい響きの流れていることを、私は今まで発見しなかったのであった。いや、お秋さんばかりでない。今わたしの眼のまえに坐っているお谷さんも、詳しく洗い立をしてみたら、これもなにかの哀れな話を抱えているかも知れない。どうで安楽な身の上でここに奉公している者もないにしろ、どの人の上にも暗い影が附き纏っているのは余りに悲しかった。
 私はその後一週間ばかり滞在して、ここを立った。お鶴さんは二日働いて一日休むという風で、わたしの座敷の仕事は大抵お谷さんが受持っていた。お国さんはその後どうしたか、一向に噂を聞かなかった。わたしがいよいよ立つという朝、お鶴さんは這うようにして私の座敷へ挨拶に来た。
「何分からだが悪いもんですから、一向にゆき届きませんでした。」
 脚気はだんだん悪くなるらしいので、お鶴さんはゆうべ阿母さんのところへ手紙をだした。ひょっとすると今月一ぱいでお暇を貰うことになるかも知れないと云った。実際、お鶴さんはよほど心臓を痛めているらしく、苦しそうに胸をかかえていた。
「まあ、大事におしなさい。あんまり切ないようなら一旦家へ帰って、養生をしてから又働く方がいいかも知れない。」
 私はお鶴さんを慰めて別れた。お鶴さんもお谷さんも玄関まで送って来た。番頭に革鞄を持たせて、宿の門を出ようとすると、お秋さんは外から帰って来た。
「お立ちでございますか。」と、お秋さんは流石に叮嚀に挨拶したが、すぐに又いつものように笑い出した。「まだお目にはかかりませんが、奥さんによろしく。」
「溝口さんにもよろしく。」
「あははははは。」
 お秋さんの笑い声をうしろに聴きながら、わたしはだらだらの坂路を登った。両側の桜はもう青葉になり尽していた。


底本:綺堂随筆 江戸っ子の身の上 2003年1月20日 河出書房新社
底本の親本:岡本綺堂 十番随筆
入力:和井府 清十郎
公開:2003年8月11日




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