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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
 今年も押し詰まってきましたが、その時期に題材を採った岡本綺堂の『今古探偵十話』より「平造とお鶴」をアップします。
 時代の移り変わりによる、旧主従の人間関係、それに洋服を着ているということが話題になった明治の初期という時代の匂いがします。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 平造(へいぞう)とお鶴(つる)

  『今古探偵十話』より

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N君は語る。

 明治四年の冬ごろから深川富岡門前の裏長屋にひとつの問題が起こった。それは去年の春から長屋の一軒を借りて、殆んど居喰い同様に暮らしていた親子の女が、表通りの小さい荒物屋の店をゆずり受けて、自分たちが商売をはじめることになったというのである。
 母はおすまといって、四十歳前後である。娘はお鶴といって、十八九である。その人柄や言葉づかいや、すべての事から想像して、かれらがここらの裏家に住むべく育てられた人達でたいことは誰にも覚られた。
「あれでも士族さんだよ。」と、近所の者はささやいていた。
 かれらは自分たちの素姓をつつんで洩らさなかったが、この時代にはこういう人々の姿が到るところに見いだされて、零落した士族それは誰の胸にも浮かぶことであった。女ふたりが幾ら約(つま)しく暮らしていても、居喰いでは長く続こう筈もない。今のうちに早く相当の婿でも坂るか、娘の容貌(きりよう)のいいのを幸いに相当の旦那でも見つけるか、なんとかしたらよかろうにと、蔭では余計な気を揉むものがあったが、痩せても枯れても相手が士族さんであるから、うかつなことも言われないという遠慮もあって、周囲の人たちも唯いたずらにかれらの運命を眺めているばかりであった。それがこの七、八月頃からだんだん工面(くめん)が好くなったらしく、母も娘も秋から冬にかけて、新しい袷や綿入れをこしらえたのを、眼のはやい者がたちまち見つけ出して、それからそれへと吹聴(ふいちよう)した。それだけでも井戸端の噂を作るには十分の材料であるのに、その親子がさらに表通りへ乗り出して、たとい小さい店ながら、荒物屋の商売をはじめるというのであるから、問題がいよいよ大きくなったのも無理はなかった。
 しかし一方からいえば、それはさのみ不思議なことでもないのであった。この七、八月頃から廿五六の若い男が時々にたずねて来て、なにかの世話をしているらしい。男の身許はわからないが、ともかくも小綺麗な服装(みなり)をしていて、月に二、三度は欠かさずにこの路地の奥に姿をみせている。そうして、おすま親子に対する彼の態度から推察すると、どうも昔の主従関係であるらしい。おそらく昔の家来筋の者が旧主人のかくれ家をさがし当てて、奇特(きどく)にもその世話をしているのであろう。親子が今度新しい商売を始めるというのも、この男の助力に因ること勿論である。こう考えてみれば、別に不思議がるにも及ばないのであるが、好奇心に富んでいるこの長屋の人たちは、不思議でもないような、この出来事を無理に不思議た事として、更にいろいろの噂を立てた。
「いくら昔の家来筋だって、今どきあんなに親切に世話をする者があるか。何かほかに子細があるに相違ない。おまけに、あの人は洋服を着ていることもある。」  この時代には、洋服もひとつの問題であった。あるお世話焼きがおすま親子にむかって、それとなく探りを入れると、母も娘もふだんからつつましやかな質(たち)であるので、あまり詳しい説明も与えなかったが、ともかくもこれだけの事をかれらの口から洩らした。
 ここへたずねて来る男は、おすまの屋敷に奉公していた若党の村田平造という者で、維新後は横浜の外国商館に勤めている。この六月、両国の広小路で偶然彼にめぐり逢ったのが始まりで、その後親切にたびたび尋ねて来てくれる。そうして、ただ遊んでいては困るであろうというので、彼が百円あまりの金を出してくれて、表通りの店をゆずり受けることになった。――こう判ると、すべてが想像通りで、いよいよ不思議はないことになるので、長屋の人たちの好奇心もさすがにだんだん薄らいで来た。そのあいだに、おすま親子は表の店へ引き移って、造作などにも多少の手入れをして、十二月の朔日(ついたち)から商売をはじめた。
「馴れない商売ですからどうなるか判りませんが、村田が折角勧めてくれますので、ともかくも店をあけて見ますから何分よろしく願います。」と、おすまは近所の人に言った。
 前にもいう通り、この親子は行儀のよい、淑ましやかな質であるので、近所の人たちの気受けもよかった。二つには零落した士族に対する同情も幾分か手伝って、おすまの荒物店は相当に繁昌した。士族の商法はたいてい失敗するに決まっていたが、ここは余ほど運のいい方で、あくる年の五、六月ごろには親子二人の質素た生活にまず差し支えはないという見込みが付くようになった。
 そうなると、娘のお鶴さんももう年頃であるから、早くお婿を貰ってはどうだと勧める者も出て来た。以前は士族さんでも、今は荒物屋のおかみさんであるから、近所の人たちも自然に遠慮がなくなって婿の候補者を二、三人推薦する者もあったが、おすま親子はその厚意を感謝するにとどまって、いつも体よく拒絶していた。それでは、あの村田という人をお婿にするのかと露骨にきいた者もあったが、おすまはただ笑っているばかりで答えなかった。
 しかし従来の関係から推察して、かの村田という男がお鶴の婿に決められたらしいという噂が高くなった。以前はあまり身だしなみもしなかったが、お鶴もこのごろは髪を綺麗に結い、身なりも小ざっばりとしているので、容貌のいいのがまた一段と引き立ってみえた。
 九月の初めである。この当時はまた旧暦であるから、朝夕はもう薄ら寒くなって来たので、お鶴は新いい袷を着て町内の湯屋へ行った。きょうは午頃から細かい雨が降っていたので、お鶴は傘をかたむけて灯ともし頃の暗い町をたどって行くと、もう二足(ふたあし)ばかりで湯屋の暖簾をくぐろうとする所で、物につまずいたようにばったり倒れた。鋭い刃物に脇腹を刺されて殆んど声も立てずに死んだのである。往来の人がそれを発見して騒ぎ立てた頃には、雨の降りしきる夕暮れの町に加害者の影はみえなかった。それが洋服を着た男であるともいい、あるいは筒袖のようなものを着た女であるともいい、その噂はまちまちであったが、結局取り留めたことは判らなかった。
 いずれにしても、この不意の出来事が界隈の人々をおどろかしたのは言うまでもない。係りの役人の取り調べに対して、おすまはこういう事実を打ち明けた。
「わたくしの連合(つれあ)いは大沢喜十郎と申しまして、二百五十石取りの旗本でございましたが、元年の四月に江戸を脱走して奥州へまいりました。その時に用人の黒木百助と、若党の村田平造も一緒に付いてまいりましたが、連合いの喜十郎と用人の百助は白河口の戦いで討死にをいたしました。若党の平造はどうなったか判りませんが、身分の軽い者でございますから、おそらく無事に逃げ延びたものであろうと存じておりますと、昨年の六月、両国の広小路でふとめぐり逢いましたのでございます。平造は案の通り、無事に奥州から落ちてまいりまして、それから横浜へ行って外国商館に雇われていると申すことで、四年のあいだに様子もたいそう変わりまして、唯今ではよほど都合もよいような話でございました。
 わたくし共は主人を失ない、屋敷も潰(つぶ)れてしまいまして、見る影もなく落ちぶれております。それを平造はひどく気の毒がりまして、その後は毎月二、三度ずつ横浜から尋ねて来て、いろいろの面倒を見てくれますばかりか、来る度ごとに幾らかずつの金を置いて行ってくれました。いっそ小商いでも始めてはどうだと申しまして、唯今の店も買ってくれました。そのお蔭で、わたくし共もどうにかこうにか行き立つようになりますと、平造はもうこれぎりで伺いませんと申しました。わたくし共もこの上に平造の世話になる気はございませんから、それぎりで別れてしまってもよかったのでございますが……。娘のお鶴は平造の親切に感じたのでございましょう、内々で慕っているような様子がみえます。わたくしも出来るものならば、ああいう男を娘の婿にしてやりたいという気も起こりましたので、金銭の世話は別として、相変わらず尋ねて来てくれるように頼みました。そうして、お鶴を貰ってくれないかというようなことも仄めかしますと、平造は嬉しいような、迷惑らしいような顔をしまして、御主人のお嬢さまをわたくし共の家内に致すのは余りに勿体のうございますからという、断わりの返事でございました。
 そうはいうものの、平造もまんざら忌(いや)ではないらしい様子で、その後も相変わらず尋ねてまいりました。八月のはじめに参りました時に、わたくしは再び娘の縁談を持ち出しまして、主人の家来のというのは昔のことで、今はわたし達がお前の世話になっているのであるから、身分の遠慮には及ばない。娘もおまえを慕っているのであるから、忌でなければ貰ってくれと申しますと、平造はやはり嬉しいような困ったような顔をして、自分は決して忌ではないが、その御返事は今度来る時まで待って頂きたいといって帰りました。それから八月の末になって、平造はまた参りましたが、あいにくわたくしは寺参りに行った留守でございまして、お鶴と二人で話して帰りました。
 その時に娘と差し向かいでどんな話をしたのかよく解りませんが、平造は縁談を承知したらしいような様子で、お鶴は嬉しそうな顔をしていました。しかしお鶴の話によりますと、平造が帰るのを店さきに立って見送っていると、ここらでは見馴れない女の児が店へはいって来たそうです。買物に来たのだと思って、なにを差し上げますと、声をかけると、その女の児は怖い顔をして、おまえは殺されるよと言ったぎりで、出て行ってしまったということで……。うれしい中にもそれが気にかかるとみえまして、それを話した時には、お鶴もなんだかいやた顔をしておりましたが、たに、子供の冗談だろうぐらいのことで、わたくしは格別に気にも止めずにおりましたところ、それから五、六日経たないうちに、娘はほんとうに殺されてしまいましたのでございます。」
 この申し立てによると、お鶴の死は平造との縁談に何かの関係があるらしく思われた。しかもお鶴に対して怖ろしい予告をあたえた少女は何者であるか、それは勿論わからなかった。おすまも留守中のことであるので、その少女の人相や風俗を知らなかった。ここにひとつの疑問は、平造がおすま親子に対して、自分の住所や勤め先きを明らかにしていないことであった。単に横浜の外国商館に勤めているというだけで、彼はその以外のことをなんにも語らなかったのである。世間を知らない親子はさのみそれを怪しみもしなかったのであるが、これほどの関係になっていながら、それを明かさないのは少し不審である。彼は商館に寝泊まりしていると言っていたそうであるが、それがどうも疑わしいので、念のために横浜の外国商館を取り調べてみたが、どこにも村田平造という雇人はなかった。
彼はその後、深川の旧主人の店に再びその姿をみせなかった。
 お鶴殺しの犯人は遂に発見されなかった。事件はすべて未解決のままに終った。この年の十二月に暦が変わって明治六年の正月は早く来た。したがって、時候はひと月おくれになって、今までは三月と決まっていた花見月が四月に延びた。
 その四月の花見に、ここの町内のひと群れが向島へ繰り出すと、群集のなかに年ごろ卅二三の盛装した婦人と廿六七の若い男とが連れ立って行くのを見た。その男は確かにあの村田平造であると長屋の大工のおかみさんが言った。ほかの二、三人もそうらしいとささやき合っているうちに、男も女も混雑にまぎれて姿を隠してしまった。  その噂がまた伝わって、ここにいろいろの風説が生み出された。
 かの平造が横浜の商館に勤めているというのは嘘で、彼はある女盗賊の手下(てした)になっているのだという者もあった。またかれが商館に勤めているのは事実であるが、姓名を変えているので判らないのである。一緒に連れ立っていたのは外国人の洋妾(らしあめん)で、背中に一面の刺青(ほりもの)のある女であるという者もあった。しかもそれらの風説に確かな根拠があるのではなく、平造の秘密はお鶴の死と共に、一種の謎として残された。いずれにしても平造が去ろうとする時に去らせてしまえば、おすまの一家はなんの禍いを受けずに済んだのであろう。それがいつまでも母親の悔みの種であった。
                          昭和二年一月作「文芸講談」

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底本:岡本綺堂読物選集 第6巻探偵編 (青蛙房)
   1969年10月10日 発行
入力:和井府 清十郎 公開:2004年1月13日




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