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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。この「一本足の女」は、個別に作品として取り上げられたして、岡本綺堂の『青蛙堂鬼談』シリーズの中では、「利根の渡」とならんで人気の高い作品です。 オリジナルは、雑誌『苦楽』(プラトン社)で、岩田専太郎さんの挿絵入りです。同氏の著作権があり、ここに公開できないのが残念ですが。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




一本足《いつぽんあし》の女《おんな》 ――『青蛙堂鬼談』より
           岡本綺堂
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      一

 第九の男は語る。

 わたしは千葉の者であるが、馬琴の八犬伝でおなじみの里見の家は、義実《よしざね》、義成《なり》、義通《みち》、実尭《たか》、義豊《とよ》、義尭《たか》、義弘《ひろ》、義頼《より》、義康《やす》の九代を伝えて、十代目の忠義《ただよし》でほろびたのである。それは元和元年、すなわち大坂落城の年の夏で、かの大久保相模守《さがみのかみ》の姻戚関係から滅亡の禍いをまねいたのであると伝えられている。
 大久保相模守忠隣《ただちか》は相州小田原の城主で、徳川家の譜代大名のうちでも羽振りのよい一人であったが、一朝にしてその家は取潰されてしまった。その原因は明らかでない。かの大久保石見守《いわみのかみ》長安の罪に連坐したのであるともいい、または大坂方に内通の疑いがあったためであるともいい、あるいは本多佐渡守父子《おやこ》の讒言によるともいう。いずれにしても里見忠義は相模守忠隣のむすめを妻にしていた関係上、舅《しゆうと》の家がほろびると間もなく、彼もその所領を召し上げられて、伯耆《ほうき》の国に流罪を申付けられ、房州の名家もその跡を絶ったのである。里見の家が連綿としていたら、八犬伝は世に出なかったに相違ない。馬琴はさらに他の題材を選ばなければならないことになったであろう。
 馬琴の口真似をすると、閑話休題《あだしごとはさておき》、これからわたしが語ろうとするのは、その里見の家がほろびる前後のことである。忠義の先代義康は安房《あわ》の侍従と呼ばれた人で、慶長《けいちよう》八年十一月十六日、三十一歳で死んでいる。その三周忌のひと月かふた月前のことであるというから、慶長十年の晩秋か初冬の頃であろう。
 当代の忠義に仕えている家来のうちに百石取りの侍に大滝庄兵衛というのがあった。百石といっても、実際は百俵であったそうだが、この百石取りが百人あって、それを安房の百人衆と唱え、里見の部下ではなかなか幅が利いたものであるという。その庄兵衛が夫婦と中間《ちゆうげん》との三人づれで館山《たてやま》の城下の延命寺へ参詣に行った。延命寺は里見家の菩提寺である。その帰り路に、夫婦は路傍にうずくまっている一人の少女をみた。
 少女は乞食であるらしく、夫婦がここへ通りかかったのを見て、無言で土に頭を下げると、夫婦も思わず立ちどまった。仏参の帰りに乞食をみて、夫婦はいくらかの銭《ぜに》を恵んでやろうとしたのではない。今度の忠義の代になってから、乞食に物を恵むことを禁じられていた。乞食などは国土の費《つい》えである。ひっきょうかれらに施し恵む者があればこそ、乞食などというものが殖えるのであるから、ひと粒の米、一文の銭もかれらに与えてはならぬと触れ渡されていた。庄兵衛夫婦も勿論その趣旨に従わなければならないのであるから、今や自分たちの前に頭を下げているこの乞食をみても、素知らぬ顔をして通り過ぎるのが当然であったが、ここで彼ら夫婦が思わず足をとどめたのは、その少女がいかにも美しく可憐に見えたからであった。
 少女はまだ八つか九つぐらいで、袖のせまい上総《かずさ》木綿の単衣《ひとえもの》、それも縞目の判らないほどに垢付いているのを肌寒そうに着ていた。髪はもちろん振り散らしていた。そのおどろ髪のあいだから現われているかれの顔は、磨かない玉のようにみえた。 「まあ、可愛らしい。」と、庄兵衛の妻はひとりごとのように言った。
「むむ。」と、夫も溜息をついた。
物を恵むとか恵まないとかいうのは二の次として、夫婦はこの可憐な少女を見捨てて行くのに忍びないような気がしたので、妻は立寄ってその歳《とし》や名をきくと、歳は九つで名は知らないと答えた。
「生れたところは。」
「知りません。」
「両親の名は。」
「知りません。」
 こういう身の上の少女が生国《しようごく》を知らず、ふた親の名を知らず、わが名を知らないのは、さのみ珍しいことでもない。少女は妻の問いに対して、自分は赤児《あかご》のときに路傍に捨てられていたのを或る人に拾われたが、三つの年にまた捨てられた。それから又ある人に拾われたが、これも一年ばかりでまた捨てられた。拾われては捨てられ、捨てられては拾われ、その後二、三人の手を経るうちに、少女はともかくも七つになった。これまで生長すれば、乞食をしてもどうにか生きてゆかれるので、人のなさけにすがりながら今まで露命をつないでいると話した。
「まあ、可戻そうに……。」と、庄兵衛の妻は涙ぐんだ。「おまえのような可愛らしい子が、なぜ行く先ざきで捨てられるのか。」
「それはわたくしが不具者《かたわもの》であるからでございます。」と、少女はその美しい眼に涙をやどした。「世にも少ない不具者を誰が養ってくれましょう。はじめは不欄を加えてくれましても、やがては愛想をつかされるのでございます。」
 かれは年よりもませた口ぶりで言った。しかし見たところでは、人並すぐれた容形《なりかたち》で、別に不具者らしい様子もないので、妻も庄兵衛も不思議に思った。恥かしいのか、悲しいのか、少女は身をすくめ、身をふるわせて、ただすすり泣きをしているばかりであるのを、夫婦がいろいろになだめすかして詮議すると、かれが不具である子細が初めて判った。
 土に坐っているので今までは気が付かなかったが、少女は一本足であった。かれは左の足をもっているだけで、右の足は膝の上から切断されているのであった。生れ落ちるとからの不具ではない。さりとて何かの病いのために切断したのでもない。おそらく何かの子細で路ばたに捨てられていたところを、野良犬か狼のような獣《けもの》のために片足を啖い切られたらしいと、その疵口の模様によって庄兵衛は判断した。
 こうなると、夫婦はいよいよ不憫が増して来て、どうしてもこのままに見捨ててゆく気にはなれなくなった。こういう美しい、いじらしい少女を乞食にしておくということが不憫であるばかりでなく、前にもいう通りのお触れが出ている以上、かれは何人《なんぴと》の恵みをも受けることが出来なくなって、早く他領へ立退くか、あるいはここでみすみす飢え死にしなければならないのである。庄兵衛は試みに少女に訊いた。
「おまえは乞食に物をやるなというお触れの出ているのを知らないのか。」
「知りません。」と、かれはまったく何にも知らないように答えた。
 庄兵衛の妻はまた泣かされた。かれは夫を小蔭へまねいて、なんとかしてかの少女を救ってやろうではないかとささやくと、庄兵衛にも異存はなかった。しかし自分も里見家につかえる身の上で、この際おもて向きに乞食を保護するなどは穏かでないと思ったので、彼はきょうの供に連れて来た中間の与市を呼んで相談した。
 与市は館山の城下から遠くない西岬《にしみさき》という村の者で、実家は農であるが、武家奉公を望んで二、三年前から庄兵衛の屋敷に勤めているのである。年は若いが正直律義《りちぎ》の者で、実家には母も兄もある。庄兵衛はかの少女をひとまず与市の実家へあずけておきたいと思って、ひそかにその相談をすると、与市は素直に承知した。
「それではすぐに連れて行ってくれ。」
 主人の命令にそむかない与市は、一本足の乞食の少女を背負って、すぐに自分の実家へ運んで行った。まずこれで安心して庄兵衛夫婦もそのまま自分の屋敷へ帰ると、日の暮れるころに与市は戻って来て、かれを確かに母や兄に頼んでまいりましたと報告した。
 それから半月ほどの後に、庄兵衛の妻はその様子を見届けながらに西岬の家へたずねてゆくと、少女はつつがなく暮らしていた。与市の母や兄も律義者で、主人の指図を大事に心得ているばかりでなく、彼らは不具の少女に不便《ふびん》を加えて、心から親切に優しくいたわっているらしいので、妻もいよいよ安心して帰った。
 それからふた月か三月ほど過ぎて、その年の暮れになると、更におどろくべき命令が領主の忠義から下された。さきに触れ渡して、乞食どもにはいっさい施すなと言い聞かせてあるのに、乞食どもはやはり城下や近在にうろうろと立ち迷っているのは、禁制《きんぜい》を破ってひそかに彼らに恵む者があるのか、あるいは彼らが盗み食いでもするのか、いずれにしても先度の触れ渡しの趣意が徹底しないのは、遺憾であるというので、さらに領内の宿無し又は乞食のたぐいに対して、三日以内に他領へ立退くべきことを命令した。その期限を過ぎてもなおそこらに徘徊しているものは、見つけ次第に打殺すというのである。
 この厳重な触れ渡しにおびやかされて、乞食どもはみな早々に逃げ散ったが、中にはその触れ渡しを知らないで居残っていた者や、あるいは逃げおくれて捕われた者や、それらは法のごとくに打殺されるのもあった。生き埋めにされるのもあった。こうして、里見の領内の乞食や宿無しのたぐいは一掃された。
「早くにあの娘を助けてよかった。」と、庄兵衛夫婦はひそかに語り合った。
 歩行も自由でない一本足の少女などは、この場合おそらく逃げおくれて最初の生贄《いけにえ》となったであろう。夫婦が少女を救ったことは幸いに誰にも知られなかった。勿論、与市には堅く口止めをしておいた。

     二

 幸運の少女は与市の実家で親切に養われていた。庄兵衛の妻も時どきにそっと彼女《かれ》をたずねて、着物や小遣銭などを恵んでいた。なんとか名をつけなければいけないというので、少女をお冬と呼ばせることにした。そのうちに五年過ぎて、お冬もいつか十六の春を迎えた。
 あめ風にさらされ、砂ぼこりにまみれて、往来の土の上に這いつくばっていた頃ですらも庄兵衛夫婦の眼をひいた程の少女は、だんだん成長するに連れて、玉の光りがいよいよ輝くようになった。子どもの時から馴れているので、杖にすがれば近所をあるくには差支えもなかった。人間も利口で、且《かつ》は器用な質《たち》であるので、針仕事などは年にもまして巧者《こうしや》であった。
「これで足さえ揃っていれば申分はないのだが……。」と、与市の母や兄も一層かれの不幸をあわれんだ。
 不具にもよるが、一本足というのではまず嫁入りの口もむずかしい。殊にここらはみな農家で、男も女も働かなければならないのであるから、いかに容貌《きりよう》がよくても、人間が利口でも、一本足の不具者を嫁に貰うものはなさそうである。あたら容貌を持ちながら一生を日かげの花で終るのかと思うと、与市の母や兄ばかりでなく、時どきにたずねてゆく庄兵衛の妻も暗い思いをさせられた。
 庄兵衛夫婦には子供がない。かれらが不具の少女を拾いあげたのも、勿論その不幸をあわれむ心から出たには相違ないが、子のない夫婦の子供好きということも半分はまじっていたので、妻は一面に暗い思いをしながらも、また一面にはだんだんに美しく生長してゆくお冬の顔をみるのを楽しみに、時どきに忍んで逢いに行くのであった。そうしていくらかの附金《つけがね》をしてやってもよいから、どこかで嫁に貰ってくれる家はあるまいかなどと、与市の母や兄に相談することもあったが、前にいったような訳であるから、この相談は容易に運びそうもなかった。
 こうして、また一年二年と送るうちに、お冬はいよいよ美しい娘盛りとなって、いつも近所の若い男どもの噂にのぼった。中にはいたずら半分にその袖をひく者もあったが、利口なお冬は振向きもしなかった。かれは与市の母や兄を主人とも敬い、親兄弟とも慕って、おとなしくつつましやかに暮らしていた。
 慶長十九年、お冬が十八の春には、その大恩人たる大滝庄兵衛の主人の家に、暗い雲が掩いかかって来た。かの大久保相模守忠隣が幕府の命令によって突然に小田原領五万石を召上げられ、あわせて小田原城を破却されたのである。
 その子細は知らず、なにしろ青天の霹靂《へきれき》ともいうべきこの出来事に対して、関東一円は動揺したが、とりわけて大久保と縁を組んでいる里見の家では、やみ夜に燈火《ともしび》をうしなったように周章《 しゆうしよう 》狼狽した。あるいは大久保とおなじ処分をうけて、領地召上げ、お家滅亡、そんなことになるかも知れないという噂がそれからそれと伝えられて、不安の空気が城内にもみなぎつた。
 庄兵衛もその不安を感じた一人であるらしく、このごろは洲先《すのさき》神社に参詣することになった。洲先は頼朝が石橋山の軍《いくさ》に負けて、安房へ落ちて来たときに初めて上陸したところで、おなじ源氏の流れを汲む里見の家では日ごろ尊崇《そんすう》している神社であるから、庄兵衛がそれに参詣して主家の安泰を祈るのは無理もないことであった。
 神社は西岬村のはずれにあるので、庄兵衛はその途中、与市の実家へ久振りで立寄った。彼は娘盛りのお冬をみて、年毎にその美しくなりまさって行くのに驚かされた。その以来、彼は参詣の都度《つど》に与市の家をたずねるようになった。そのうちに江戸表から洩れて来る種々の情報によると、どうでも里見家に連坐《まきぞえ》の祟りなしでは済みそうもないというので、一家中の不安はいよいよ大きくなった。庄兵衛は洲先神社へ夜詣りを始めた。
 彼の夜詣りは三月から始まって五月までつづいた。当番その他のよんどころない差支えでない限り、ひと晩でも参詣を怠らなかった。主家を案じるのは道理《もつとも》であるが、夜詣りをするようになってから、彼は決して供を連れて行かないということが妻の注意をひいた。まだそのほかにも何か思い当ることがあったと見えて、妻は与市を呼んでささやいた。
「庄兵衛殿がこの頃の様子、どうも腑に落ちないことがあるので、きょうはそっとそのあとを付けてみようと思います。おまえ案内してくれないか。」
 与市は承知して主人の妻を案内することになった。近いといっても相当の路程《みちのり》があるので、庄兵衛は日の暮れるのを待ちかねるように出てゆく。妻と与市とは少しくおくれて出ると、途中で五月の日はすっかり暮れ切って、ゆく手の村は青葉の闇につつまれてしまったので、かれらは尾《つ》けてゆく人のすがたを見失った。
「どうしょうか。」と、妻は立止まって思案した。
「ともかくも洲先まで行って御覧なされてはいかが。」と、与市は言った。
「そうしましよう。」
 まったくそれよりほかに仕様がないので、妻は思い切ってまた歩き出したが、なにぶんにも暗いので、かれは当惑した。与市は男ではあり、土地の勝手もよく知っているので、さのみ困ることもなかったが、庄兵衛の妻は足許のあぶないのに頗《すこぶ》る困った。夫のあとを尾けるつもりで出て来たのであるから、もとより松明《たいまつ》や火縄の用意もない。妻はたまりかねて声をかけた。 「与市。手をひいてくれぬか。」
 与市はすこし躊躇したらしかったが、主人の妻から重ねて声をかけられて、彼はもう辞退するわけにもゆかなくなった。かれは片手に主人の妻の手を取って、暗いなかを探るようにして歩き出した。そうして、まだ十間とは行かないうちに、路ばたの木のかげから何者か現われ出て、忍びの者などが持つ龕燈《がんどう》提灯を二人の眼先へだしぬけに突きつけた。はっと驚いて立ちすくむと、相手はすぐに呼びかけた。
「与市か。主人の妻の手を引いて、どこへゆく。」
 それは主人の庄兵衛の声であった。庄兵衛はつづけて言った。
「おのれらが不義の証拠、たしかに見届けたぞ。覚悟しろ。」
「あれ、飛んでもないことを……。」と、妻はおどろいて叫んだ。
「ええ、若い下郎めと手に手を取って、闇夜をさまよいあるくのが何より証拠だ。」
 もう問答のいとまもない。庄兵衛の刀は闇にひらめいたかと思うと、片手なぐりに妻の肩先から斬り下げた。
 あっと叫んで逃げようとする与市も、おなじく背後から肩を斬られた。それでも彼は夢中で逃げ出すと、あたかも自分の家の前に出たので、やれ嬉しやと転げ込むと、母も兄もその血みどろの姿を見てびっくりした。与市は今夜の始末を簡単に話して、そのまま息が絶えてしまった。
 あくる朝になって、庄兵衛から表向きの届けが出た。妻は中間の与市と不義を働いて、与市の実家へ身を隠そうとするところを、途中で追いとめて二人ともに成敗いたしたというのである。妻の里方ではそれを疑った。与市の母や兄はもちろん不承知であった。しかし里方としても確かに不義でないという反証を提出することは出来なかった。与市の母や兄は身分ちがいの悲しさに、しょせんは泣き寝入りにするのほかはなかった。
 それと同時に、与市の家へは庄兵衛の使が来て、左様な不埒《ふらち》者の宿許《やどもと》へお冬を預けておくことは出来ぬというので、迎いの乗物にお冬を乗せて帰った。その日から一本足の美しい女は庄兵衛の屋敷の奥に養われることになったのである。
 何分にも主人の家が潰れるか立つか、自分たちも生きるか死ぬか、それさえも判らぬという危急存亡の場合であるから、誰もそんなことを問題にする者はなかった。

      三

 不安と動揺のうちに一年を送って、あくれば元和《げんな》元年である。その年の五月は大坂は落城して、いよいよ徳川家一統の世になった。今まで無事でいたのを見ると、或いはこのままに救われるかとも思っていたのは空頼みで、大坂の埒《らち》があくと間もなく、五月の下旬に最後の判決が下された。里見の家は領地を奪われて、忠義は伯耆《ほうき》へ流罪を申付けられたのである。
 主人の家がほろびて、里見の家来はみな俄浪人となった。そのなかで大滝庄兵衛は夫婦のほかに家族もなく、平生から心がけもよかったので、家には多少の蓄財もある。浪人しても差しあたり困るようなこともないので、僅かの家来どもには暇を出して、庄兵衛は館山の城下を退散した。しかし、彼は自分ひとりというわけにはゆかなかった。彼にはお冬という女が付きまとっていた。庄兵衛もそれを振捨てて行こうとは思わないので、歩行の不自由な女を介抱しながら、ともかくも江戸の方角へ向うことにして、便船《びんせん》をたのんで上総《かずさ》へ渡り、さらに木更津から船路の旅をつづけてつつがなく江戸へはいった。
 それは庄兵衛が不義者として妻と中間とを成敗してから一年の後で、庄兵衛は四十六歳、お冬は十九歳の夏であった。
 かれらはもう公然の夫婦で、浅草寺《せんそうじ》に近いところに仮住居を求め、当分はなす事もなしに月日を送っていた。安房の里見といえば名家ではあるが、近年はその武道もあまり世にきこえないので、里見浪人をよろこんで召抱えてくれる屋敷もなかった。お冬も武家奉公を好まなかった。一本足の女、しかも自分とは親子ほども年の違う女を、拙者の妻でござるといって武家屋敷へ連込むことは、庄兵衛もなんだか後《うしろ》めたいようにも思ったので、かたがた二度の主取りは見合せることにしたが、いつまでもむなしく遊んではいられないので、彼は近所の人の勧めるがままに手習の師匠を始めると、その人が親切に周旋して、とりあえず七、八人の弟子をあつめて来てくれた。そうなると、庄兵衛も家のことの手伝いもしていられない。足の不自由なお冬だけでは何かにつけて不便なので、台所働きの下女を雇うことにしたが、どの女もひと月かふた月でみな立去ってしまった。
 あまりに奉公人がたびたび代るので、近所の人たちも不思議に思って、暇を取って出てゆく一人の女にそっと訊いてみると、こんなことを言った。
「若い御新造《ごしんぞ》はあんな美しい顔をしていながら、なんだか怖い人です。その上に、あんまり旦那さまと仲が良過ぎるので、とても傍《そば》で見てはいられません。」
 親子ほども年の違う夫婦が仲よく暮らしていることは近所の者も認めていたが、傍で見ているに堪えられないで奉公人らがみな立去るほどにむつまじいというのは、すこしく案外であった。
 それから注意して窺うと、庄兵衛夫婦のむつまじいことは想像以上で、弟子のうちでも少しく大きい子どもは顔を赧《あか》くするようなことが度たびであった。十二三になる娘などは、もうあのお師匠さんへ行くのはいやだと言い出したものもあった。そんなわけで、多くもない弟子がだんだんに減って来るばかりか、貯えの金も大抵使い果してしまったので、仲のよい夫婦も一年あまりの後には世帯の苦労が身にしみて来た。
「わたくしはもともと乞食ですから、ふたたび元の身の上にかえると思えばよいのです。」
 お冬は平気でいるらしかったが、庄兵衛は最愛の妻を伴って乞食をする気にはなれなかった。元和二年の師走《しわす》の夜に、かれが浅草の並木を通ると、むこうから来る一人の男に出逢った。それは町家の奉公人で、どこへか懸取りに行ったらしく見えたので、庄兵衛は俄かにきざした出来ごころから不意にそのゆく手に立ちふさがった。
「この師走に差迫って、浪人の身で難渋いたす。御合力《ごこうりよく》くだされ。」
 一種の追剥ぎとみて、相手も油断しなかった。彼は何の返事もせずに、だしぬけに自分の穿いている草履をとって、庄兵衛の顔を強くうった。そうして、こっちの慌てる隙をみて、かれは一目散に逃げ去ろうとしたのである。
 泥草履で真っこうをうたれて、庄兵衛は赫《かつ》となった。斬ってしまって、いまさら悔む気にもなったが、毒食わば皿までと度胸をすえて、庄兵衛は死人の首にかけている財布を奪い取って逃げた。浅草寺のほとりまで来て、そっとその財布をあらためると、銭が二貫文ほどはいっているだけであった。
「こればかりのことで飛んだ罪を作った。」と、彼はいよいよ後悔した。
 しかし今の身の上では二貫文の銭《ぜに》も大切である。庄兵衛はその銭を懐ろにして家へ帰ったが、生れてから初めて斬取《きりと》り強盗を働いたのであるから、なんだか気が咎めてならない。万一の詮議に逢った時にその証拠を残しておいてはならないと思ったので、かれは燈火《あかり》の下で刀の血を丁寧に拭《ぬぐ》おうとしていると、お冬がそばから覗き込んだ。
「もし、それは人の血ではござりませぬか。」
「むむ、途中で追剥ぎに出逢ったので、一太刀斬って追い払った」と、庄兵衛は自分のことを逆に話した。
 お冬はうなずいて眺めていたが、やがてその刀の血を嘗《な》めさせてくれと言った。これには庄兵衛もすこし驚いたが、自分の惑溺している美しい妻の要求をしりぞけることは出来なくて、彼はその言うがままに人間の血汐をお冬にねぶらせた。
 その夜の閨《ねや》の内で、彼は妻からどんな註文を出されたのか知らないが、その後は日の暮れる頃から忍び出て、三日に一度ぐらいずつは往来の人を斬って歩いた。その刀の血をお冬は嬉しそうにねぶった。死人のふところから奪った金は、夫婦の生活費となった。ある夜、どうしても人を斬る機会がなくて路ばたの犬を斬って帰ると、お冬はそれを嘗めて顔色を悪くした。
「これは人の血ではござりませぬ。犬の血でござります。」
 庄兵衛は一言もなかった。そればかりでなく、それが男の血であるか女の血であるか、あるいは子供の血であるかということまでも、お冬はいちいちに鑑別して庄兵衛をおどろかした。それがだんだんに劫《こう》じて来て、庄兵衛は挟に小さい壺を忍ばせていて、斬られた人の疵口から流れ出る生血《なまち》をそそぎ込んで来るようになった。
 彼はその惨虐な行為に対して、時どきに良心の呵責《かしやく》を感じることがないでもなかったが、その苦しみも妻の美しい笑顔に逢えば、あさ日に照らされる露のように消えてしまった。彼は一種の殺人鬼となって、江戸の男や女を斬ってあるいた。そうして、妻を喜ばせるばかりでなく、それが男の血であるか、女の血であるかを言い当てさせるのも、彼が一つの興味となった。
 しかしこの時代でも、こうした悪鬼の跳梁跋扈《ちようりようばつこ》をいつまでも見逃がしてはおかなかった。殊に天下もようやく一統して、徳川幕府はもっぱら江戸の経営に全力をそそいでいる時節であるから、市中の取締りも決しておろそかにはしなかった。町奉行所ではこの頃しきりに流行るという辻斬りに対して、厳重に探索の網を張ることになった。庄兵衛も薄うすそれを覚らないではなかったが、今更どうしてもやめられない羽目になって、相変らずその辻斬りをつづけているうちに、彼は上野の山下で町廻りの手に捕われた。
 牢屋につながれて三日五日を送っているあいだに、狂える心は次第に鎮まって、庄兵衛は夢から醒めた人のようになった。彼は役人の吟味に対して、いっさいの罪を正直に白状した。安房にいるときに、妻と中間とを無体に成敗したことまで隠さずに申立てた。
「なぜこのように罪をかさねましたか。我れながら夢のようでござります。」
 彼もいちいち記憶していないが、元和二年の冬から翌年の夏にかけておよそ五十人ほどを斬ったらしいと言った。そうして、今になって考えると、かのお冬という一本足の女はどうもただの人間ではないかも知れないとも言った。その証拠として、かれは幾カ条かの怪しむべき事実をかぞえ立てたそうであるが、それは秘密に付せられて世に伝わらない。
 いずれにしても、お冬という女も一応は吟味の必要があると認められて、捕り方の者四、五人が庄兵衛の留守宅にむかった。女ひとりを引っ立てて来るのに四、五人の出張《でば》りはちっと仰山《ぎようさん》らしいが、庄兵衛の申立てによって奉行所の方でも幾分か警戒したらしい。
 それは六月の末のゆうぐれで、お冬は竹縁に出て蚊やり火を焚いていたが、その煙りのあいだから捕り方のすがたを一と目みると、お冬は忽ちに起ちあがって庭へ飛び降りたかと思う間もなく、まばらな生け垣をかき破って表へ逃げ出した。捕り方はつづいて追って行った。  一本足でありながら、お冬は男の足も及ばないほどに早く走った。その頃はここらに溝川《みぞかわ》のようなものが幾すじも流れているのを、お冬はそれからそれへと飛ぶように跳り越えてゆくので、捕り方の者どももおどろかされた。それでもあくまでも追い詰めてゆくと、かれは隅田川の岸から身をひるがえして飛び込んだ。その途中、捕り方に加勢してかれのゆく手を遮ろうとした者もあったが、その物すごく瞋《いか》った顔をみると誰もみな飛びのいてしまった。
「早く舟を出せ。」
 捕り方は岸につないである小舟に乗って漕ぎ出すと、お冬のすがたは一旦沈んでまた浮き出した。川の底で自分から脱いだのか、あるいは自然に脱げたものか、浮き上がった時のお冬は一糸もつけない赤裸で、一本足で浪を蹴ってゆく女の白い姿がまだ暮れ切らない水の上にあきらかに見えた。
 それを目がけて漕いで行くと、あまり急いで棹を損じたためか、まだ中流まで行き着かないうちに、その小舟は横浪に煽られてたちまち転覆した。捕り方は水練の心得があったので、いずれも幸いに無事であったが、その騒ぎのあいだにお冬のゆくえを見失ってしまった。ともかくも向う岸の堤《どて》を詮議したが、そこらでは誰もそんな女を見かけた者はないとのことで、捕り方もむなしく引揚げた。
 牢屋のなかでその話を聴いて、庄兵衛はいよいよ思い当ったように嘆息した。
「まったくあの女は唯物《ただもの》ではござらなんだ。あれが世にいう鬼女でござろう。」
 それから十日《とおか》ほど経つと、庄兵衛は牢役人にむかって、早くお仕置をねがいたいと申出た。実は昨夜かのお冬が牢の外へ来て、しきりに自分を誘い出そうとしたが、自分はかたく断って出なかった。みすみす魔性の者とは思いながらも、かれの顔をみるとどうも心が動きそうでならない。一度は断っても、二度が三度とたび重なると、あるいは再び心が狂い出して破牢を企てるようなことにならないとも限らない。それを思うと、我れながら怖ろしくてならないから、一刻も早く殺してもらいたいというのであった。
 その望みの通りに、彼はそれから二日の後、千住で磔刑《はりつけ》にかけられた。


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底本:岡本綺堂 岡本綺堂怪談集 影を踏まれた女 光文社 昭和63年10月20日 初版第1刷発行
入力:和井府 清十郎

※今日の人権意識からすると不適切と思われる語句や表現が見受けられますが、時代的な背景と作品の価値に鑑み、また原文の同一性を保持・尊重する立場からそのままとしました。

公開:2001年2月17日
訂正:2箇所(誤字脱字) 2001年2月21日




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