岡本綺堂 異妖新編 (全17話) 編成および掲載順序は、岡本綺堂読物選集5巻異妖編下巻 昭和44年6月24日 青蛙房刊、に依っています。 このファイルには、青空文庫にて公開されている6ファイルを含んでいます(西瓜・鴛鴦鏡・白髪鬼・海亀・妖婆・恨みの蠑螺。その旨の表記あり)。また、残りの11ファイルは、綺堂事物にて公開しているものです。 なお、底本については、各ストーリーの末尾に注記してあります。                       綺堂事物 2006.7.25記 -------------------------------------------------------------------------------- 西瓜 岡本綺堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)雇人《やといにん》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)静岡|在《ざい》の [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)あっ[#「あっ」に傍点]と -------------------------------------------------------      一  これはM君の話である。M君は学生で、ことしの夏休みに静岡|在《ざい》の倉沢という友人をたずねて、半月あまりも逗留していた。  倉沢の家は旧幕府の旗本で、維新の際にその祖父という人が旧主君の供をして、静岡へ無禄移住をした。平生から用心のいい人で、多少の蓄財もあったのを幸いに、幾らかの田地を買って帰農したが、後には茶を作るようにもなって、士族の商法がすこぶる成功したらしく、今の主人すなわち倉沢の父の代になっては大勢の雇人《やといにん》を使って、なかなか盛んにやっているように見えた。祖父という人はすでに世を去って、離れ座敷の隠居所はほとんど空家同様になっているので、わたしは逗留中そこに寝起きをしていた。 「母屋《おもや》よりもここの方が静かでいいよ。」と、倉沢は言ったが、実際ここは閑静で居心のいい八畳の間であった。しかしその逗留のあいだに三日ほど雨が降りつづいたことがあって、わたしもやや退屈を感じないわけには行かなくなった。  勿論、倉沢は母屋から毎日|出張《でば》って来て、話し相手になってくれるのではあるが、久し振りで出逢った友達というのではなし、東京のおなじ学校で毎日顔をあわせているのであるから、今さら特別にめずらしい話題が湧き出して来よう筈はない。その退屈がだんだんに嵩《こう》じて来た第三日のゆう方に、倉沢は袴羽織という扮装《いでたち》でわたしの座敷へ顔を出した。かれは気の毒そうに言った。 「実は町にいる親戚の家から老人が急病で死んだという通知が来たので、これからちょっと行って来なければならない。都合によると、今夜は泊まり込むようになるかも知れないから、君ひとりで寂しいだろうが、まあ我慢してくれたまえ。このあいだ話したことのある写本だがね。家《うち》の者に言いつけて土蔵の中から捜し出させて置いたから、退屈しのぎに読んで見たまえ。格別面白いこともあるまいとは思うが……。」  彼は古びた写本七冊をわたしの前に置いた。 「このあいだも話した通り、僕の家の六代前の主人は享保から宝暦のころに生きていたのだそうで、雅号を杏雨《きょうう》といって俳句などもやったらしい。その杏雨が何くれとなく書きあつめて置いた一種の随筆がこの七冊で、もともと随筆のことだから何処まで書けばいいということもないだろうが、とにかくまだこれだけでは完結しないとみえて、題号さえも付けてないのだ。維新の際に祖父も大抵のものは売り払ってしまったのだが、これだけはまず残して置いた。勿論、売るといったところで買い手もなく、さりとて紙屑屋へ売るのも何だか惜しいような気がするので、保存するという意味でもなしに自然保存されて、今日まで無事であったというわけだが、古つづらの底に押し込まれたままで誰も読んだ者もなかったのを、さきごろの土用干しの時に、僕が測らず発見したのだ。」 「それでも二足三文で紙屑屋なんぞに売られてしまわなくって好かったね。今日《こんにち》になってみれば頗《すこぶ》る貴重な書き物が維新当時にみんな反古《ほご》にされてしまったからね。」と、わたしはところどころに虫くいのある古写本をながめながら言った。 「なに、それほど貴重な物ではないに決まっているがね。君はそんなものに趣味を持っているようだから、まあ読んでみて、何か面白いことでもあったら僕にも話してくれたまえ。」  こう言って倉沢は雨のなかを出て行った。かれのいう通り、わたしは若いくせにこんなものに趣味をもっていて、東京にいるあいだも本郷や神田の古本屋あさりをしているので、一種の好奇心も手伝ってすぐにその古本をひき寄せて見ると、なるほど二百年も前のものかも知れない。黴《かび》臭いような紙の匂いが何だか昔なつかしいようにも感じられた。一冊は半紙廿枚綴りで、七冊百四十枚、それに御家《おいえ》流で丹念に細かく書かれているのであるから、全部を読了するにはなかなかの努力を要すると、わたしも始めから覚悟して、きょうはいつもよりも早く電燈のスイッチをひねって、小さい食卓《ちゃぶだい》の上でその第一冊から読みはじめた。  随筆というか、覚え帳というか、そのなかには種々雑多の事件が書き込まれていて、和歌や俳諧の風流な記事があるかと思うと、公辺の用務の記録もある。題号さえも付けてないくらいで、本人はもちろん世間に発表するつもりはなかったのであろうが、それにしても余りに乱雑な体裁《ていさい》だと思いながら、根《こん》よく読みつづけているうちに「深川仇討の事」「湯島女殺しの事」などというような、その当時の三面記事をも発見した。それに興味を誘われて、さらに読みつづけてゆくと、「稲城《いなぎ》家の怪事」という標題の記事を又見付けた。  それにはこういう奇怪の事実が記《しる》されてあった。  原文には単に今年の七月初めと書いてあるが、その年の二月、行徳《ぎょうとく》の浜に鯨が流れ寄ったという記事から想像すると、それは享保十九年の出来事であるらしい。日も暮れ六つに近い頃に、ひとりの中間体《ちゅうげんてい》の若い男が風呂敷づつみを抱えて、下谷《したや》御徒町《おかちまち》辺を通りかかった。そこには某藩侯の辻番所《つじばんしょ》がある。これも単に某藩侯とのみ記してあるが、下谷御徒町というからは、おそらく立花家の辻番所であろう。その辻番所の前を通りかかると、番人のひとりが彼《か》の中間に眼をつけて呼びとめた。 「これ、待て。」  由来、武家の辻番所には「生きた親爺《おやじ》の捨て所」と川柳に嘲られるような、半|耄碌《もうろく》の老人の詰めているのが多いのであるが、ここには「筋骨たくましき血気の若侍のみ詰めいたれば、世の人常に恐れをなしけり」と原文に書いてある。その血気の若侍に呼びとめられて、中間はおとなしく立ちどまると、番人は更に訊《き》いた。 「おまえの持っているものは何《なん》だ。」 「これは西瓜でござります。」 「あけて見せろ。」  中間は素直に風呂敷をあけると、その中から女の生首《なまくび》が出た。番人は声を荒くして詰《なじ》った。 「これが西瓜か。」  中間は真っ蒼になって、口も利けなくなって、唯ぼんやりと突っ立っていると、他の番人もつづいて出て来て、すぐに彼を捻じ伏せて縄をかけてしまった。三人の番人はその首をあらためると、それは廿七八か、三十前後の色こそ白いが醜《みにく》い女で、眉も剃らず、歯も染めていないのを見ると、人妻でないことは明らかであった。ただ不思議なのは、その首の切口から血のしたたっていないことであるが、それは決して土人形の首ではなく、たしかに人間の生首である。番人らは一応その首をあらためた上で、ふたたび元の風呂敷につつみ、さらにその首の持参者の詮議に取りかかった。 「おまえは一体どこの者だ。」 「本所の者でござります。」 「武家奉公をする者か。」  それからそれへと厳重の詮議に対して、中間はふるえながら答えた。かれはまだ江戸馴れない者であるらしく、殊に異常の恐怖に襲われて半分は酔った人のようになっていたが、それでも尋ねられることに対しては皆、ひと通りの答弁をしたのである。彼は本所の御米蔵《おこめぐら》のそばに小屋敷を持っている稲城《いなぎ》八太郎の奉公人で、その名を伊平といい、上総《かずさ》[#ルビの「かずさ」は底本では「かずき」]の八幡在から三月前に出て来た者であった。したがって、江戸の勝手も方角もまだよく判らない。きょうは主人の言いつけで、湯島の親類へ七夕《たなばた》に供える西瓜を持ってゆく途中、道をあやまって御徒町の方角へ迷い込んで来たものであるということが判った。 「湯島の屋敷へは今日はじめて参るものか。」と、番人は訊いた。 「いえ、きょうでもう四度目でござりますから、なんぼ江戸馴れないと申しても、道に迷う筈はないのでござりますが……。」と、中間は自分ながら不思議そうに小首をかしげていた。 「主人の手紙でも持っているか。」 「御親類のことでござりますから、別にお手紙はござりません。ただ口上だけでござります。」 「その西瓜というのはお前も検《あらた》めて来たのか。」 「お出入りの八百屋へまいりまして、わたくしが自分で取って来て、旦那様や御新造様のお目にかけ、それで宜しいというので風呂敷につつんで参ったのでござりますから……。」と、かれは再び首をかしげた。「それが途中でどうして人間の首に変りましたか。まるで夢のようでござります。まさかに狐に化かされたのでもござりますまいが……。なにがどうしたのか一向にわかりません。」  暮れ六つといっても、この頃の日は長いので往来は明るい。しかも江戸のまん中で狐に化かされるなどということのあるべき筈がない。さりとて田舎者丸出しで見るから正直そうなこの若い中間が嘘いつわりを申立てようとも思われないので、番人らも共に首をかしげた。第一、なにかの子細があって人間の生首を持参するならば、夜中《やちゅう》ひそかに持ち運ぶべきであろう。暮れ方といっても夕日の光りのまだ消え残っている時刻に、平気でそれを抱えあるいているのは、あまりに大胆過ぎているではないか。もし又、かれの申立てを真実とすれば、近ごろ奇怪千万の出来事で、西瓜が人間の生首に変るなどとは、どう考えても判断の付かないことではないか。番人らも実に思案に惑った。 「どうも不思議だな。もう一度よく検めてみよう。」  かれらは念のために、再びその風呂敷をあけて見て、一度にあっ[#「あっ」に傍点]と言った。中間も思わず声をあげた。  風呂敷につつまれた女の生首は元の西瓜に変っているのである。叩いてみても、転がして見ても、それは確かに青い西瓜である。西瓜が生首となり、さらに西瓜となり、さながら魔術師に操られたような不思議を見せたのであるから、諸人のおどろかされるのも無理はない、それも一人の眼ならば見損じということもあろうが、若い侍が三人、若い中間が一人、その四人の眼に生首とみえたものが忽ち西瓜に変るなどとは、まったく狐に化かされたとでもいうのほかはあるまい。かれらは徒《いたず》らに呆れた顔を見合せて、しばらくは溜息をついているばかりであった。      二  伊平は無事に釈《ゆる》された。  いかに評議したところで、結局どうにも解決の付けようがないので、武勇を誇るこの辻番所の若侍らも伊平をそのまま釈放してしまった。たといその間にいかなる不思議があったにしても、西瓜が元の西瓜である以上、かれらはその持参者の申立てを信用して、無事に済ませるよりほかはなかったのである。伊平は早々にここを立去った。  表へ出て若い中間はほっとした。かれは疑問の西瓜をかかえて、湯島の方へ急いで行きかけたが、小半町《こはんちょう》ほどで又立ちどまった。これをこのまま先方へとどけて好いか悪いかと、かれは不図《ふと》かんがえ付いたのである。どう考えても奇怪千万なこの西瓜を黙って置いて来るのは何だか気がかりである。さりとて、途中でそれが生首に化けましたなどと正直にいうわけにもいくまい。これはひとまず自分の屋敷へ引っ返して、主人に一応その次第を訴えて、なにかの指図を仰ぐ方が無事であろうと、かれは俄かに足の方角を変えて、本所の屋敷へ戻ることにした。  辻番所でも相当に暇取ったので、長い両国橋を渡って御米蔵に近い稲城の屋敷へ帰り着いたころには、日もまったく暮れ切っていた。稲城は小身の御家人《ごけにん》で、主人の八太郎夫婦と下女一人、僕《しもべ》一人の四人暮らしである。折りから主人の朋輩の池部郷助《いけべごうすけ》というのが来合せて、奥の八畳の縁さきで涼みながら話していた。狭い屋敷であるから、伊平は裏口からずっと通って、茶の間になっている六畳の縁の前に立つと、御新造《ごしんぞう》のお米《よね》は透かし視て声をかけた。 「おや、伊平か。早かったね。」 「はい。」 「なんだか息を切っているようだが、途中でどうかしたのかえ。」 「はい。どうも途中で飛んだことがござりまして……。」と、伊平は気味の悪い持ち物を縁側におろした。 「実はこの西瓜が……。」 「その西瓜がどうしたの。」 「はい。」  伊平はなにか口ごもっているので、お米も少し焦《じ》れったくなったらしい、行燈の前を離れて縁側へ出て来た。 「そうして、湯島へ行って来たの。」 「いえ、湯島のお屋敷へは参りませんでした。」 「なぜ行かないんだえ。」  訳を知らないお米はいよいよ焦れて、自分の眼のまえに置いてある風呂敷づつみに手をかけた。 「実はその西瓜が……。」と、伊平は同じようなことを繰返していた。 「だからさ。この西瓜がどうしたというんだよ。」  言いながらお米は念のために風呂敷をあけると、たちまちに驚きの声をあげた。伊平も叫んだ。西瓜は再び女の生首と変っているのである。 「何だってお前、こんなもの持って来たのだえ。」  さすがは武家の女房である。お米は一旦驚きながらも、手早くその怪しい物に風呂敷をかぶせて、上からしっかりと押え付けてしまった。その騒ぎを聞きつけて、主人も客も座敷から出て来た。 「どうした、どうした。」 「伊平が人間の生首を持って帰りました。」 「人間の生首……。飛んでもない奴だ。わけを言え。」と、八太郎も驚いて詮議した。  こうなれば躊躇してもいられない。もともとそれを報告するつもりで帰って来たのであるから、伊平は下谷の辻番所におけるいっさいの出来事を訴えると、八太郎は勿論、客の池部も眉をよせた。 「なにかの見違いだろう。そんなことがあるものか。」  八太郎は妻を押しのけて、みずからその風呂敷を刎ねのけてみると、それは人間の首ではなかった。八太郎は笑い出した。 「それ見ろ。これがどうして人間の首だ。」  しかしお米の眼にも、伊平の眼にも、たしかにそれが人間の生首に見えたというので、八太郎は行燈を縁側に持ち出して来て、池部と一緒によく検《あらた》めてみたが、それは間違いのない西瓜であるので、八太郎はまた笑った。しかし池部は笑わなかった。 「伊平は前の一件があるので、再び同じまぼろしを見たともいえようが、なんにも知らない御新造までが人間の生首を見たというのは如何《いか》にも不思議だ。これはあながちに辻番人の粗忽や伊平の臆病とばかりは言われまい。念のためにその西瓜をたち割って見てはどうだな。」  これには八太郎も異存はなかった。然らば試みに割ってみようというので、彼は刀の小柄を突き立ててきりきりと引きまわすと、西瓜は真っ紅な口をあいて、一匹の青い蛙を吐き出した。蛙は跳ねあがる暇もなしに、八太郎の小柄に突き透された。 「こいつの仕業かな。」と、池部は言った。八太郎は西瓜を真っ二つにして、さらにその中を探ってみると、幾すじかの髪の毛が発見された。長い髪は蛙の後足《あとあし》の一本に強くからみ付いて、あたかもかれをつないでいるかのようにも見られた。  髪の毛は女の物であるらしかった。西瓜が醜《みにく》い女の顔にみえたのも、それから何かの糸を引いているのかも知れないと思うと、八太郎ももう笑ってはいられなくなった。お米の顔は蒼くなった。伊平はふるえ出した。 「伊平。すぐに八百屋へ行って、この西瓜の出どころを詮議して来い。」と、主人は命令した。  伊平はすぐに出て行ったが、暫くして帰って来て、主人夫婦と客の前でこういう報告をした。八百屋の説明によると、その西瓜は青物市場から仕入れて来たのではない。柳島《やなぎしま》に近いところに住んでいる小原数馬《おはらかずま》という旗本屋敷から受取ったものである。小原は小普請入《こぶしんい》りの無役といい、屋敷の構えも広いので、裏のあき地一円を畑にしていろいろの野菜を作っているが、それは自分の屋敷内の食料ばかりでなく、一種の内職のようにして近所の商人《あきんど》にも払い下げている。なんといっても殿様の道楽仕事であるから、市場で仕入れて来るよりも割安であるのを幸いに、ずるい商人らはお世辞でごまかして、相場はずれの廉値《やすね》で引取って来るのを例としていた。八百屋の亭主は伊平の話を聴いて顔をしかめた。 「実は小原さまのお屋敷から頂く野菜は、元値も廉し、品も好し、まことに結構なのですが、ときどきにお得意さきからお叱言《こごと》が来るので困ります。現にこのあいだも南瓜《かぼちゃ》から小さい蛇が出たと言ってお得意から叱られましたが、それもやっぱり小原さまから頂いて来たのでした。ところで、今度はお前さんのお屋敷へ納めた西瓜から蛙が出るとは……。尤もあの辺には蛇や蛙がたくさん棲んでいますから、自然その卵子《たまご》がどうかしてはいり込んで南瓜や西瓜のなかで育ったのでしょうな。しかし西瓜が女の生首に見えたなぞは少し念入り過ぎる。伊平さんも真面目そうな顔をしていながら、人を嚇かすのはなかなか巧いね。ははははは。」  八百屋の亭主も西瓜から蛙の飛び出したことだけは信用したらしかったが、それが女の首に見えたことは伊平の冗談と認めて、まったく取合わないのであった、伊平はそれが紛れもない事実であることを主張したが、口下手の彼はとうとう相手に言い負かされて、結局不得要領で引揚げて来たのである。しかし、かの西瓜が小原数馬の畑から生れたことだけは明白になった。同じ屋敷の南瓜から蛇の出たことも判った。しかしその蛇にも女の髪の毛がからんでいたかどうかは、伊平は聞き洩らした。  もうこの上に詮議の仕様もないので、八太郎はその西瓜を細かく切り刻んで、裏手の芥溜《ごみため》に捨てさせた。あくる朝、ためしに芥溜をのぞいて見ると、西瓜は皮ばかり残っていて、紅い身は水のように融《と》けてしまったらしい。青い蛙の死骸も見えなかった。  事件はそれで済んだのであるが、八太郎はまだ何だか気になるので、二、三日過ぎた後、下谷の方角へ出向いたついでに、かの辻番所に立寄って聞きあわせると、番人らは確かにその事実のあったことを認めた。そうして、自分たちは今でも不審に思っていると言った。それにしても、なぜ最初に伊平を怪しんで呼びとめたかと訊くと、唯なんとなくその挙動が不審であったからであると彼等は答えた。江戸馴れない山出しの中間が道に迷ってうろうろしていたので、挙動不審と認められたのも無理はないと八太郎は思った。しかもだんだん話しているうちに、番人のひとりは更にこんなことを洩らした。 「まだそればかりでなく、あの中間のかかえている風呂敷包みから生血《なまち》がしたたっているようにも見えたので、いよいよ不審と認めて詮議いたしたのでござるが、それも拙者の目違いで、近ごろ面目もござらぬ。」  それを聞かされて、八太郎はまた眉をひそめたが、その場はいい加減に挨拶して別れた。その西瓜から蛙や髪の毛のあらわれた事など、彼はいっさい語らなかった。  稲城の屋敷にはその後別に変ったこともなかった。八太郎は家内の者を戒めて、その一件を他言させなかったが、この記事の筆者は或る時かの池部郷助からその話を洩れ聞いて、稲城の主人にそれを問いただすと、八太郎はまったくその通りであると迷惑そうに答えた。それはこの出来事があってから四月ほどの後のことで、中間の伊平は無事に奉公していた。彼は見るからに実体《じってい》な男であった。  その西瓜を作り出した小原の家については、筆者はなんにも知らなかったので、それを再び稲城に聞きただすと、八太郎も考えながら答えた。 「近所でありながら拙者もよくは存じません。しかし何やら悪い噂のある屋敷だそうでござる。」  それがどんな噂であるかは、かれも明らかに説明しなかったそうである。筆者も押し返しては詮議しなかったらしく、原文の記事はそれで終っていた。      三 「はは、君の怪談趣味も久しいものだ。」と、倉沢は八畳の座敷の縁側に腰かけて、団扇を片手に笑いながら言った。  親類の葬式もきのうで済んだので、彼は朝からわたしの座敷へ遊びに来て、このあいだの随筆のなかに何か面白い記事はなかったかと訊いたので、わたしはかの「稲城家の怪事」の一件を話して聞かせると、彼は忽ちそれを一笑に付してしまったのである。  暦の上では、きょうが立秋というのであるが、三日ほど降りつづいて晴れた後は、さらにカンカン天気が毎日つづいて、日向《ひなた》へ出たらば焦げてしまいそうな暑さである。それでもここの庭には大木が茂っているので、風通しは少し悪いが、暑さに苦しむようなことはない。わたしも縁側に蒲蓙《がまござ》を敷いて、倉沢と向い合っていたが、今や自分が熱心に話して聞かせた怪談を、頭から問題にしないように蹴散らされてしまうと、なんだか一種の不平を感じないわけにもいかなかった。 「君はただ笑っているけれども、考えると不思議じゃないか。女の生首が中間ひとりの眼にみえたというならば格別、辻番の三人にも見え、稲城の家の細君にも見えたというのだから、どうもおかしいよ。」 「おかしくないね。」 「じゃあ、君にその説明がつくのかね。」 「勿論さ。」と、倉沢は澄ましていた。 「うむ、おもしろい。聞かしてもらおう。」と、わたしは詰問するように訊いた。 「迷信家の蒙《もう》をひらいてやるかな。」と、彼はまた笑った。「君が頻《しき》りに問題にしているのは、その西瓜が大勢の眼に生首とみえたということだろう。もしそれが中間ひとりの眼に見えたのならば、錯覚とか幻覚とかいうことで、君も承認するのだろう。」 「だからさ。今も言う通り、それが中間ひとりの眼で見たのでないから……。」 「ひとりでも大勢でも同じことだよ。君は『群衆妄覚』ということを知らないのか。群衆心理を認めながら、群衆妄覚を認めないということがあるものか。僕はその事件をこう解釈するね。まあ、聴きたまえ。その中間は江戸馴れない田舎者だというから、何となくその様子がおかしくって、挙動不審にも見えたのだろう。おまけにその抱えている品が西瓜ときているので、辻番の奴等はもしや首ではないかと思ったのだろう。いや、三人の辻番のうちで、その一人は一途《いちず》に首だと思い込んでしまったに相違ない。そこで、彼の眼には、中間のかかえている風呂敷から生血がしたたっているように見えたのだ。西瓜をつつんで来たのだから、その風呂敷はぬれてでもいたのかも知れない。なにしろ怪しく見えたので、呼びとめて詮議をうけることになって、その風呂敷をあけると、生首がみえた。――その男には生首のように見えたのだ。あッ、首だというと、他の二人――これももしや首ではないかと内々疑っていたのであるから、一人が首だというのを聞かされると、一種の暗示を受けたような形で、これも首のように見えてしまった。それがいわゆる群衆妄覚だ。こうなると、もう仕方がない。三人の侍が首だ首だと騒ぎ立てると、田舎生れの正直者の中間は面食らって、異常の恐怖と狼狽とのために、これも妄覚の仲間入りをしてしまって、その西瓜が生首のように見えたのだ。それだから彼等がだんだんに落ち着いて、もう一度あらためて見ることになると、西瓜は依然たる西瓜で、だれの眼にも人間の首とは見えなくなったというわけさ。こう考えれば、別に不思議はあるまい。」 「なるほど辻番所の一件は、まずそれで一応の解釈が付くとして、その中間が自分の家へ帰った時にも再び西瓜が首になったというじゃあないか。主人の細君がなんにも知らずに風呂敷をあけて見たらば、やっぱり女の首が出たというのはどういうわけだろう。」 「その随筆には、細君がなんにも知らずにあけたように書いてあるが、おそらく事実はそうではあるまい。その風呂敷をあける前に、中間はまず辻番所の一件を報告したのだろうと思う。武家の女房といっても細君は女だ。そんな馬鹿なことがあるものかと言いながらも、内心一種の不安をいだきながらあけて見たに相違ない。その時はもう日が暮れている。行燈の灯のよく届かない縁先のうす暗いところで、怖々のぞいて見たのだから、その西瓜が再び女の首に見えたのだろう。中間の眼にも勿論そう見えたろう。それも所詮は一時の錯覚で、みんなが落ち着いてよく見ると、元の通りの西瓜になってしまった。詰まりそれだけの事さ。むかしの人はしばしばそんなことに驚かされたのだな。その西瓜をたち割ってみると、青い蛙が出たとか、髪の毛が出たとかいうのは、単に一種のお景物に過ぎないことで、瓜や唐茄子からは蛇の出ることもある。蛙の出ることもある。その時代の本所や柳島辺には蛇も蛙もたくさんに棲んでいたろうじゃないか。丁度そんな暗合があったものだから、いよいよ怪談の色彩が濃厚になったのだね。」  彼は無雑作《むぞうさ》に言い放って、又もや高く笑った。いよいよ小癪に障るとは思いながら、差しあたってそれを言い破るほどの議論を持合せていないので、わたしは残念ながら沈黙するほかはなかった。外はいよいよ日盛りになって来たらしく、油蝉の声がそうぞうしく聞えた。  倉沢はやがて笑いながら言い出した。 「そうは言うものの、僕の家《うち》にも奇妙な伝説があって、西瓜を食わないことになっていたのだ。勿論、この話とは無関係だが……。」 「君は西瓜を食うじゃないか。」 「僕は食うさ。唯ここの家にそういう伝説があるというだけの話だ。」  私は東京で彼と一緒に西瓜を食ったことはしばしばある。しかも彼の家にそんな奇妙な伝説があることは、今までちっとも知らなかったのである。倉沢はそれに就いてこう説明した。 「なんでも二百年も昔の話だそうだが……。ある夏のことで、ここらに畑荒らしがはやったそうだ。断って置くが、それは江戸の全盛時代であるから、僕らの先祖は江戸に住んでいて、別に何のかかり合いがあったわけではない。その頃ここには又左衛門とかいう百姓が住んでいて、相当に大きく暮らしている旧家であったということだ。そこで今も言った通り、畑あらしが無暗にはやるので、又左衛門の家でも雇人らに言いつけて毎晩厳重に警戒させていると、ある暗い晩に西瓜畑へ忍び込んだ奴があるのを見つけたので、大勢が駈け集まって撲り付けた。相手は一人、こっちは大勢だから、無事に取押えて詮議すれば好かったのだが、なにしろ若い者が大勢あつまっていたので、この泥坊めというが否や、鋤《すき》や鍬《くわ》でめちゃめちゃに撲り付けて、とうとう息の根を留めてしまった。主人もそれを聞いて、とんだ事をしたと思ったろうが、今更どうにもならない。殺されたのは男でなく、もう六十以上の婆さんで、乞食のような穢い装《なり》をして、死んでも大きい眼をあいていたそうだが、どこの者だか判らない。その時代のことだから、相手が乞食同様の人間で、しかも畑あらしを働いたのだから、撲り殺しても差したる問題にもならなかったらしく、夜の明けないうちに近所の寺へ投げ込み同様に葬って、まず無事に済んでしまったのだが、その以来、その西瓜畑に婆さんの姿が時々にあらわれるという噂が立った。これは何処にもありそうな怪談で、別に不思議なことでもなかったが、もう一つ『その以来』という事件は、又左衛門の家の者がその畑の西瓜を食うと、みんな何かの病気に罹って死んでしまうのだ。主人の又左衛門が真っ先に死ぬ、つづいて女房が死ぬ、伜が死ぬという始末で、ここの家では娘に婿を取ると同時に、その畑をつぶしてしまった。それでも西瓜が祟《たた》るとみえて、その婿も出先で西瓜を食って死んだので、又左衛門の家は結局西瓜のために亡びてしまうことになったのだ。もちろん一種の神経作用に相違ないが、その後もここに住むものはやはり西瓜に祟られるというのだ。」 「持主が変っても祟られるのか。」 「まあそうなのだ。又左衛門の家はほろびて、他の持主がここに住むようになっても、やはり西瓜を食うと命があぶない。そういうわけで、持主が幾度も変って、僕の一家が明治の初年にここへ移住して来たときには、空家《あきや》同様になっていたということだ。」 「君の家の人たちは西瓜を食わないかね。」と、わたしは一種の興味を以って訊いた。 「祖父は武士で、別に迷信家というのでもなかったらしいが、元来が江戸時代の人間で、あまり果物――その頃の人は水菓子といって、おもに子供の食う物になっていたらしい。そんなわけで、平生から果物を好まなかった関係上、かの伝説は別としても、ほとんど西瓜などは食わなかった。祖母も食わなかった。それが伝説的の迷信と結びついて、僕の父も母も自然に食わないようになった。柿や蜜柑やバナナは食っても、西瓜だけは食わない。平気で食うのは僕ばかりだ。それでもここで食うと、家の者になんだかいやな顔をされるから、ここにいる時はなるべく遠慮しているが、君も知っている通り、東京に出ている時には委細構わずに食ったよ。氷に冷やした西瓜はまったく旨いからね。」  かれはあくまで平気で笑っていた。わたしも釣り込まれて微笑した。 「そこで、君の家は別として、その以前に住んでいた人たちが西瓜を食ってみんな死んだというのは、本当のことだろうか。」 「さあ、僕も確かには知らないが、ここらの人の話ではまず本当だということだね。」と、倉沢は笑った。「たといそれが事実であったとしても、西瓜を食うと祟られるという一種の神経作用か、さもなくば不思議の暗合だよ。世のなかには実際不思議の暗合がたくさんあるからね。」 「そうかも知れないな。」  私もいつか彼に降伏してしまったのであった。西瓜の話はそれで一旦立消えになって、それから京都の話が出た。わたしは三、四日の後にここを立去って、さらに京都の親戚をたずねる予定になっていたのである。倉沢も一緒に行こうなどと言っていたのであるが、親戚の老人が死んだので、その二七日や三七日の仏事に参列するために、ここで旅行することはむずかしいと言った。自分などはいてもいないでも別に差支えはないのであるが、仏事をよそにして出歩いたりすると、世間の口がうるさい。父や母も故障をいうに相違ないから、まず見合せにするほかはあるまいと彼は言った。そうして、君は京都に幾日ぐらい逗留するつもりだと私に訊いた。 「そう長くもいられない。やはり半月ぐらいだね。」と、わたしは答えた。 「そうすると、廿七八日ごろになるね。」と、かれは考えるように言った。「帰りに又ここへ寄ってくれるだろう。」 「さあ。」と、私もかんがえた。再びここへ押し掛けて来ていろいろの厄介になるのは、倉沢はともあれ、その両親や家内の人々に対して少しく遠慮しなければならないと思ったからである。それを察したように、彼はまた言った。 「君、決して遠慮することはないよ。どうで田舎のことだから別に御馳走をするわけじゃあなし、君ひとりが百日逗留していても差支えはないのだから、帰りには是非寄ってくれたまえ。僕もそのつもりで待っているから、きっと寄ってくれたまえよ。廿七日か廿八日ごろに京都を立つとして、廿九日には確かにここへ来られるね。」 「それじゃあ廿九日に来ることにしよう。」と、私はとうとう約束してしまった。 「都合によると、僕はステーションへ迎いに出ていないかも知れないから、真っ直ぐにここへ来ることにしてくれたまえ。いいかい。廿九日だよ。なるべく午前《ひるまえ》に来てもらいたいな。」 「むむ、暑い時分だから、夜行の列車で京都を立つと、午前十一時ごろにはここへ着くことになるだろう。」 「廿九日の午前十一時ごろ……。きっと、待っているよ。」と、彼は念を押した。      四  その日は終日暑かった。日が暮れてから私は裏手の畑のあいだを散歩していると、倉沢もあとから来た。 「君、例の西瓜畑の跡というのを見せようか。昔はまったく空地《あきち》にしてあったのだが、今日《こんにち》の世の中にそんなことを言っちゃあいられない。僕はしきりに親父に勧めて、この頃はそこら一面を茶畑にしてしまったのだ。」  彼は先に立って案内してくれたが、成程そこらは一面の茶畑で、西瓜の蔓が絡み合っていた昔のおもかげは見いだされなかった。広い空地に草をしげらせて、蛇や蛙の棲家にして置くよりも、こうすれば立派な畑になると、彼はそこらを指さして得意らしく説明した。その畑も次第に夕闇の底にかくれて、涼しい風が虫の声と共に流れて来た。 「おお、涼しい。」と、わたしは思わず言った。 「東京と違って、さすがに日が暮れるとずっと凌ぎよくなるよ。」  こう言いかけて、倉沢はうす暗い畑の向うを透かして視た。 「あ、横田君が来た。どうしてこんな方へ廻って来たのだろう。僕たちのあとを追っかけて来たのかな。」 「え、横田君……。」と、私もおなじ方角を見まわした。「どこに横田君がいるのだ。」 「それ、あすこに立っているじゃあないか。君には見えないか。」 「見えない、誰も見えないね。」 「あすこにいるよ。白い服を着て、麦わら帽をかぶって……。」と、彼は畑のあいだから伸び上がるようにして指さした。  しかも、わたしの眼にはなんにも見えなかった。横田というのは、東京の××新聞の社員で、去年からこの静岡の支局詰めを命ぜられた青年記者である。学生時代から倉沢を知っているというので、ここの家へも遊びに来る。わたしも倉沢の紹介で、このあいだから懇意になった。その横田がたずねて来るのに不思議はないが、その人の姿がわたしの眼にはみえないのである。倉沢は何を言っているのかと、わたしは少しく烟《けむ》に巻かれたようにぼんやりしていると、彼はわたしを置去りにして、その人を迎えるように足早に進んで行ったかと思うと、やがて続けてその人の名を呼んだ。 「横田君……横田君……。おや、おかしいな。どうしたろう。」 「君は何か見間違えているのだよ。」と、わたしは彼に注意した。「横田君は初めから来ていやあしないよ。」 「いや、確かにそこに立っていたのだが……。」 「だって、そこにいないのが証拠じゃないか。」と、わたしはあざけるように笑った。「君のいわゆる『群衆妄覚』ならば、僕の眼にも見えそうなものだが……。僕にはなんにも見えなかったよ。」  倉沢はだまって、ただ不思議そうに考えていた。どこから飛んで来たのか、一匹の秋の蛍が弱い光りをひいて、彼の鼻のさきを掠めて通ったかと見るうちに、やがてその影は地に落ちて消えた。  それから三日の後に、わたしは倉沢の家を立去って京都へ行った。彼は停車場まで送って来て、月末の廿九日|午前《ひるまえ》にはきっと帰って来てくれと、再び念を押して別れた。  京都に着いて、わたしは倉沢のところへ絵ハガキを送ったが、それに対して何の返事もなかった。彼が平生の筆不精を知っている私は、別にそれを怪しみもしなかった。  廿九日、その日は二百十日を眼のまえに控えて、なんだか暴《あ》れ模様の曇った日で、汽車のなかは随分蒸し暑かった。午前十一時をすこし過ぎたころに静岡の駅に着いて、汗をふきながら汽車を降りると、プラットフォームの人混みのなかに、倉沢の家の若い雇人の顔がみえた。彼はすぐ駈けて来て、わたしのカバンを受取ってくれた。  つづいて横田君の姿が見えた。かれは麦わら帽をかぶって、白い洋服を着ていた。出迎えの二人は簡単に挨拶したばかりで、ほとんど無言でわたしを案内して、停車場の前にあるカフェー式の休憩所へ連れ込んだ。  注文のソーダ水の来るあいだに、横田君はまず口を切った。 「たぶん間違いはあるまいと思っていましたが、それでもあなたの顔が見えるまでは内々心配していました。早速ですが、きょうは午後二時から倉沢家の葬式で……。」 「葬式……。誰が亡くなったのですか。」 「倉沢小一郎君が……。」  わたしは声が出ないほどに驚かされた。雇人は無言で俯向いていた。女給が運んで来た三つのコップは、徒《いたず》らにわれわれの眼さきに列べられてあるばかりであった。 「あなたが京都へお立ちになった翌々日でした。」と、横田君はつづけて話した。「倉沢君は町へ遊びに出たといって、日の暮れがたに私の支局へたずねて来てくれたので、××軒という洋食屋へ行って、一緒にゆう飯を食ったのですが、その時に倉沢君は西瓜を注文して……。」 「西瓜を……。」と、わたしは訊き返した。 「そうです。西瓜に氷をかけて食ったのです。わたしも一緒に食いました。そうして無事に別れたのですが、その夜なかに倉沢君は下痢を起して、直腸カタルという診断で医師の治療を受けていたのです。それで一旦はよほど快方にむかったようでしたが、廿日過ぎから又悪くなって、とうとう赤痢のような症状になって……。いや、まだ本当に赤痢とまでは決定しないうちに、おとといの午後六時ごろにいけなくなってしまいました。西瓜を食ったのが悪かったのだといいますが、その晩××軒で西瓜を食ったものは他《ほか》にも五、六人ありましたし、現にわたしも倉沢君と一緒に食ったのですが、ほかの者はみな無事で、倉沢君だけがこんな事になるというのは、やはり胃腸が弱っていたのでしょう。なにしろ夢のような出来事で驚きました。早速京都の方へ電報をかけようと思ったのですが、あなたから来たハガキがどうしても見えないのです。それでも倉沢君が息をひき取る前に、あなたは廿九日の午前十一時ごろにきっと来るから、葬式はその日の午後に営んでくれと言い残したそうで……。それを頼りに、お待ち申していたのです。」  わたしの頭は混乱してしまって、何と言っていいか判らなかった。その混乱のあいだにも私の眼についたのは、横田君の白い服と麦わら帽であった。 「あなたは倉沢君と××軒へ行ったときにも、やはりその服を着ておいででしたか。」 「そうです。」と、横田君はうなずいた。 「帽子もその麦藁で……。」 「そうです。」と、彼は又うなずいた。  麦わら帽に白の夏服、それが横田君の一帳羅《いっちょうら》であるかも知れない。したがって、横田君といえばその麦わら帽と白い服を連想するのかも知れない。さきの夜、倉沢が一種の幻覚のように横田君のすがたを認めた時に、麦わら帽と白い服を見たのは当然であるかも知れない。しかもその幻覚にあらわれた横田君と一緒に西瓜を食って、彼の若い命を縮めてしまったのは、単なる偶然とばかりは言い得ないような気もするのである。  かれが東京で西瓜をしばしば食ったことは、わたしも知っている。しかも静岡ではなるべく遠慮していると言ったにも拘らず、彼は横田君と一緒に西瓜を食ったのである。群衆妄覚をふりまわして、稲城家の怪事を頭から蹴散らしてしまった彼自身が、まさかに迷信の虜《とりこ》となって、西瓜に祟られたとも思われない。これもまた単なる偶然であろうか。  彼はわたしに向って、八月廿九日の午前《ひるまえ》には必ず帰ってくれといった。その廿九日の午前に帰って来て、あたかもその葬式の間に合ったのである。わたしは約束を守ってこの日に帰って来たのを、せめてもの幸いであるとも思った。  そんなことをいろいろ考えながら、わたしは横田君らと共に、休憩所の前から自動車に乗込むと、天候はいよいよ不穏になって、どうでも一度は暴《あ》れそうな空の色が、わたしの暗い心をおびやかした。 底本:「異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二」原書房    1999(平成11)年7月2日第1刷 初出:「文學時代」    1932(昭和7)年2月 入力:網迫、土屋隆 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 -------------------------------------------------------------------------------- 鴛鴦鏡 岡本綺堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)流行詞《はやりことば》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)わっ[#「わっ」に傍点]と -------------------------------------------------------      一  Y君は語る。  これは明治の末年、わたしが東北のある小さい町の警察署に勤めていた時の出来事と御承知ください。一体それは探偵談というべきものか、怪談というべきものか、自分にもよく判らない。こんにちの流行詞《はやりことば》でいえば、あるいは怪奇探偵談とでもいうべき部類のものであるかも知れない。  地方には今も往々見ることであるが、ここらも暦が新旧ともに行なわれていて、盆や正月の場合にも町方《まちかた》では新暦による、在方《ざいかた》では旧暦によるという風習になっているので、今この事件の起った正月の下旬も、在方では旧正月を眼の前に控えている忙がしい時であった。例年に比べると雪の少ない年ではあったが、それでも地面が白く凍っていることは言うまでもない。  夜の十一時頃に、わたし達は町と村との境にある弁天の祠《やしろ》のそばを通った。当夜の非番で、村の或る家の俳句会に出席した帰り路である。連れの人々には途中で別れてしまって、町の方角へむかって帰って来るのは、町の呉服屋の息子で俳号を野童という青年と私との二人ぎりであった。月はないが星の明るい夜で、土地に馴れている私たちにも、夜ふけの寒い空気はかなりに鋭く感じられた。今夜の撰句の噂なども仕尽くして、ふたりは黙って俯向いて歩いていると、野童は突然にわたしの外套の袖をひいた。 「矢田さん。」 「え。」 「あすこに何かいるようですね。」  わたしは教えられた方角を透かして視ると、そこには小さい弁天の祠《ほこら》が暗いなかに立っていた。むかしは祠のほとりに湖水のような大きい池があったと言い伝えられていたが、その池もいつの代にかだんだんに埋められて、今は二三百坪になってしまったが、それでも相当に深いという噂であった。狭い境内には杉や椿の古木もあるが、そのなかで最も眼に立つのは池の岸に垂れている二本の柳の大樹で、この柳の青い蔭があるために、春から秋にかけては弁天の祠のありかが遠方から明らかに望み見られた。その柳も今は痩せている。その下に何物かがひそんでいるらしいのである。 「乞食かな。」と、わたしは言った。 「焚火をして火事でも出されると困りますね。」と、野童は言った。  去年の冬も乞食の焚火のために、村の山王の祠を焼かれたことがあるので、私は一応見とどける必要があると思って、野童と一緒に小さい石橋をわたって境内へ進み入ると、ここには堂守などの住む家もなく、唯わずかに社前の常夜燈の光りひとつが頼りであるが、その灯も今夜は消えているので、私たちは暗い木立ちのあいだを探るようにして辿《たど》って行くほかはなかった。  足音を忍ばせてだんだんに近寄ると、池の岸にひとつの黒い影の動いているのが、水明かりと雪明かりと星明かりとでおぼろげに窺われた。その影はうずくまるように俯向いて、凍った雪を掻いているらしい。獣《けもの》ではない、確かに人である。私服を着ているが、わたしも警察官であるから、進み寄って声をかけた。 「おい。そこで何をしているのだ。」  相手はなんの返事もなしに、摺りぬけて立去ろうとするらしいので、わたしは追いかけて、その行く手に立ちふさがった。野童も外套の袖をはねのけて、すわといえば私の加勢をするべく身構えしていると、相手はむやみに逃げるのも不利益だと覚ったらしく、無言でそこに立ちどまった。 「おい、黙っていては判らない。君は土地の者かね。」 「はい。」 「ここで何をしていたのだ。」 「はい。」  その声と様子とで、野童は早くも気がついたらしい。ひとあし摺り寄って呼びかけた。 「君は……。冬坡《とうは》君じゃないか。」  そう言われて、わたしも気がついた。彼は町の煙草屋の息子で、雅号を冬坡という青年であるらしかった。冬坡もわれわれの俳句仲間であるが、今夜の句会には欠席してこんなところに来ていたのである。そう判ると、わたし達もいささか拍子抜けの気味であった。 「うむ。冬坡君か。」と、わたしも言った。「今頃こんなところへ何しに来ていたのだ。夜詣りでもあるまい。」 「いや、夜詣りかも知れませんよ。」と、野童は笑った。「冬坡君は弁天さまへ夜詣りをするような訳があるんですから。」  なんにしてもその正体が冬坡と判った以上、私もむずかしい詮議も出来なくなったので、三人が後や先になって境内をあるき出した。野童は今夜の会の話などをして聞かせたが、冬坡はことば寡《すく》なに挨拶するばかりで、身にしみて聞いていないらしかった。わたしの家は町はずれで、他のふたりは町のまん中に住んでいるので、わたしが一番さきに彼らと別れを告げなければならなかった。  二人に挨拶して自分の家へ帰ったが、冬坡の今夜の挙動がどうも私の腑に落ちなかった。野童はなにもかも呑み込んでいるようなことを言っていたが、なんの子細があって彼はこの寒い夜ふけに弁天の祠へ行って、池のほとりにさまよっていたのであろう。しかし冬坡がこの頃ここらにも流行する不良青年の徒でないことは、わたしも平生からよく知っているので、彼がなんらかの犯罪事件に関係があろうとも思われない。したがって、わたしも深く注意することなしに眠ってしまった。  そのあくる日は朝から出勤していたので、わたしは野童にも冬坡にも逢う機会がなかった。すると、次の日の午前九時ごろになって、一つの事件がかの弁天池のほとりに起った。町の清月亭という料理屋の娘の死体が池のなかから発見されたのである。  娘はお照といって、年は十九、色も白く、髪も黒く、容貌《きりょう》も悪くないのであるが、惜しいことには生れながらに左の足がすこし短いので、いわゆる跛足という程でもないが、歩く格好はどうもよろしくない。殊にそういう商売屋の娘であるから、当人も平生からひどくそれを苦《く》にしていたらしい。だんだん年頃になるに連れて、その苦がいよいよ重って来たらしく、この足が満足になるならば私は十年ぐらいの寿命を縮めてもいいなどと、さきごろ或る人に語ったという噂もある。それらの願《がん》掛けのためか、あるいは他に子細があるのか知らないが、お照は正月の七草ごろから弁天さまへ日参をはじめた。それも昼なかは人の眼に立つのを厭って、日の暮れるのを待って参詣するのを例としていた。料理屋商売としては、これから忙がしくなろうという灯ともしごろに出てゆくのは、少しく不似合いのようではあるが、彼女はひとり娘である上に、現在は女親ばかりで随分あまやかして育てているのと、もともと狭い土地であるから、弁天の祠まで往復十町あまりに過ぎないので、さのみの時間をも要しないがために、母も別にかれこれも言わなかったらしい。お照は昨夜も参詣に出て行って、こうした最期を遂げたのである。  清月亭は宵から三組ほどの客が落ち合っていたので、それにまぎれて初めのうちは気も付かなかったが、八時ごろになっても娘が帰って来ないので、母もすこしく不安を感じ出して、念のために雇人を見せにやると、弁天社内にお照のすがたは見えないと言って、一旦はむなしく帰って来た。いよいよ不安になって、心あたりを二、三軒聞きあわせた後に、今度は母が雇人を連れて再び弁天の祠へ探しに行ったが、娘の影はやはり見あたらなかった。彼女の死体はあくる朝になって初めて発見されたのであった。  その訴えに接して、わたしは一人の巡査とともに現場へ出張して、型のごとくにその死体を検視することになった。池は南にむかって日あたりのいいところにあるが、それでもここらのことであるから、岸のあたりはかなりに厚く凍っている。お照の死体は池のまん中に浮かんでいたというのであるが、私たちの出張したときには、もう岸の上に引揚げられて、しょせん無駄とは知りながら藁火などで温められていた。  この場合、他殺か自殺かを決するのが第一の問題であることは言うまでもない。医師もあとから駆けつけて来たが、誰の目にもすぐに疑われるのは、お照の額のやや左に寄ったところに、生々《なまなま》しい打ち疵の痕が残っていることである。しかもそれをもって一途《いちず》に他殺の証拠と認め難いのは、ここらの池や川は氷が厚いので、それが自然に裂けて剣《つるぎ》のように尖っている所もある。あるいは自然に凸起して岩のように突き出ている所もある。それがために自殺を目的の投身者も往々その氷に触れて顔や手足を傷つけている場合があるので、お照の死体もその額の疵だけで他殺と速断するのは危険であることを私たちも考えなければならなかった。殊に医師の検案によると、死体は相当に水を飲んでいるというのであるから、他殺の死体を水中に投げ込んだという疑いはいよいよ薄くなるわけである。  もしお照が自殺であるとすれば、彼女は投身の目的で岸から飛び込んだが、氷が厚いので目的を達しがたく、単に額を傷つけたにとどまったので、さらに這い起きて真ん中まで進んで行って、氷の薄いところを選んで再び投身したものと察せられる。しかし困ったことには、私たちの出張するのを待たずして、早く死体を引揚げてしまったために、氷の上は大勢に踏み荒らされて、泥草鞋《どろわらじ》などの跡が乱れているので、その当時の状況を判断するについて、はなはだしい不便を与えるのであった。  この時、わたしの注意をひいたのは、岸に垂れている二本の枯柳の大樹の根もとが、二つながら掘り返されていることである。さらに検《あらた》めると、一本の根もとの土は乾いている。他の一本の根もとの土はまだ乾かないで、新しく掘り返されたように見える。わたしはそこらに集まっている土地の者に訊いた。 「この柳の下はどうしてこんなに掘ってあるのかね。」  いずれも顔を見合せているばかりで、進んで返事をする者はなかった。誰も今まで気がつかなかったというのである。わたしは岸に近い氷の上に降りて立って、再びそこらを見まわすと、凍り着いているまばらな枯芦のあいだに、園芸用かとも思われるような小さいスコープを発見した。スコープには泥や雪が凍っていた。  何者かがこのスコープを用いて、柳の下を掘ったのであろう。そう思った一刹那、かの冬坡のすがたが私の目先にひらめいた。彼はおとといの晩、この柳の下にうずくまって、凍った雪を掻いていたのである。      二  お照の死体は清月亭の親許へ引渡された。  種々の状況を綜合して考えると、大体において自殺説が有力であった。彼女は自分が跛足に近いのを近ごろ著《いちじ》るしく悲観していたという事実がある以上、若い女の思いつめて、遂に自殺を企てたものと認めるのが正当であるらしかった。もう一つ、清月亭の女中たちの申立てによると、その相手は誰であるか判らないが、お照は近来なにかの恋愛関係を生じて、それがために人知れず煩悶していたらしいというのである。そうなると、自殺の疑いがいよいよ濃厚になって来て、不具者の恋、それが彼女を死の手へ引渡したものと認められて、警察側でも深く踏み込んで詮議するのを見合せるようになった。  冬坡は何のために柳の下を掘っていたのか。又それがお照の死と何かの関係があるのかないのか。それらのことは容易に判断が付かなかったが、わたしは警部という職務のおもて、一応は冬坡を取調べるのが当然であると考えていると、あたかもその日の夕方に、町の裏通りで冬坡に出逢った。  そこは東源寺という寺の横手で、玉椿の生垣のなかには雪に埋もれた墓場が白く見えて、ところどころに大きい杉が立っていた。ゆうぐれの寒い風はその梢をざわざわと揺すって、どこかで鴉の啼く声もきこえた。冬坡はわたしの来るのを知っているのか、知らないのか、俯向きがちに摺れちがって行き過ぎようとするのを、わたしは小声で呼びかえした。 「冬坡君。どこへ行くのだ。」  彼はおびえたように立停まって、無言でわたしに挨拶した。冬坡は平生から温良の青年である。殊にわたしの俳句友達である。彼に対して職権を示そうなどとは勿論かんがえていないので、わたしは個人的に打解けて訊いた。 「君はおとといの晩、あの弁天池のところで何をしていたのかね。」  彼はだまっていた。 「君はスコープで何か掘っていたのじゃないかな。」と、わたしは畳みかけて訊いた。 「いいえ。」 「では、夜ふけにあすこへ行って、何をしていたのかな。」  彼はまた黙ってしまった。 「君はゆうべもあの池へ行ったかね。」 「いいえ。」 「なんでも正直に言ってくれないと困る。さもないと、わたしは職務上、君を引致《いんち》しなければならないことになる。それは私も好まないことであるから、正直に話してくれ給え。ゆうべはともあれ、おとといの晩は何をしに行ったのだね。」  冬坡はやはり黙っているのである。こうなると、私も少しく語気を改めなければならなくなった。 「君はふだんに似合わず、ひどく強情だな。隠していると、君のためにならないぜ。実は警察の方では、清月亭のむすめは他殺と認めて、君にも疑いをかけているのだ。」と、わたしは嚇すように言った。 「そうかも知れません。」と、彼は低い声で独り言のようにいった。 「それじゃあ君は何か疑われるような覚えがあるのかな。」  言いかけて私はふと見かえると、折れ曲った生垣の角から一人の女の顔が見えた。女は顔だけをあらわして、こちらを窺っているらしかった。もう暮れかかっているので、その人相はよく判らないが、ゆう闇のなかにも薄白く浮かんでいる彼女の顔が、どうも堅気の女ではないらしい。わたしはそう直覚しながら、さらによく見定めようとする時、不意にわっ[#「わっ」に傍点]という声がきこえた。何者かがうしろから彼女を嚇したのである。つづいて若い男の笑い声がきこえて、角から現われ出たのは野童であった。  彼らとわたし達との距離は四、五間に過ぎないのであるから、このいたずら騒ぎのために、今まで隠されていた女の姿も自然にわたしの目先へ押出された。女はコートを着て、襟巻に顔の半分を深く埋めていたが、それが町の芸者であるらしいことは大抵察せられた。野童の家はこの町でも大きい店で、彼も相当に道楽をするらしいから、かねてこの芸者を識っているのであろう。そう思っているうちに、野童の方でもわたし達の姿を見つけて、足早に進み寄って来た。 「今晩は……。やあ、冬坡君もいたのか。」  そうは言ったものの、彼は俄かに口をつぐんで、わたし達の顔をじっと眺めていた。普通の立ち話以外に何かの子細があるらしいことを、彼もすぐに覚ったらしい。飛んだ邪魔者が来たとは思ったが、わたしも笑いながら挨拶した。 「君と今ふざけていたのは誰だね。」 「え。あれは……。」と、野童は冬坡の顔をみながら再び口をつぐんだ。 「ああ、それじゃあ冬坡君のおなじみかね。」  わたしは再び見かえると、女の姿はいつの間にか消えてしまって、あたりを包む夕闇の色はいよいよ深く迫って来た。  野童はおとといの晩わたしに向って、冬坡君は弁天さまへ夜詣りをする訳があると言った。してみると、彼は冬坡について何かの秘密を知っているらしい。その秘密はかの芸者に関係することではあるまいか。しかしそれだけのことならば、いかに内気の青年であるといっても、冬坡が堅く秘密を守るほどの事もあるまい。いずれにしても、野童と冬坡とは別々に取調べる必要がある。ふたりが鼻を突き合せていては、その取調べに不便があると思ったので、わたしはここで、ひとまず冬坡を手放すことにした。  二つ三つ冗談を言って、わたしはそのまま行きかけると、野童は曲り角まで追って来て、そっと訊いた。 「あなたは今、冬坡君を何か調べておいでになったのですか。」 「うむ、少し訊きたいことがあって……。君にも訊きたいことがあるのだが、今夜わたしの家へ来てくれないか。」 「まいります。」  わたしは家へ帰って風呂にはいって、ゆう飯を食ってしまったが、野童はまだ来なかった。そのうちに細かい雪が降り出して来たと、家内の者が言った。この春はここらに珍らしいほど降らなかったのであるから、もう降り出す頃であろうと思いながら、薄暗い電燈の下で炬燵《こたつ》にはいっていると、外の雪は音もなしに降りつづけているらしかった。  九時過ぎになって、野童が来た。いつもは遠慮なしに炬燵にはいって差向いになるのであるが、今夜はなんだか固くなって、平生よりも行儀よく坐っていた。炬燵にはいれと勧めても、彼は躊躇しているらしいので、わたしは妻に言いつけて、彼に手あぶりの火鉢をあたえさせた。 「とうとう降り出したようだな。」と、わたしは言った。 「降って来ました。今度はちっと積もるでしょう。」 「さっきの芸妓はなんという女だね。」  野童は暗い顔をいよいよ暗くして答えた。 「染吉です。」 「ああ、染吉か。」とわたしは二十三四の、色の白い、眉の力《りき》んだ、右の目尻に大きい黒子《ほくろ》のある女の顔をあたまに描いた。 「それについて、今夜出ましたのですが……。」と、野童は左右へ気配りするように声をひそめて言い出した。「あなたはなんで冬坡君をお調べになったのでしょうか。」  わたしはすぐには答えないで、相手の顔を睨むように見つめていると、彼は恐れるように少しためらっていたが、やがて小声でまた言いつづけた。 「さっき寺の横手で、あなたにお目にかかった時に、どうもなんだかおかしいと思いまして、あれから冬坡を或る所へ連れて行って、いろいろに詮議をしますと、最初は黙っていて、なかなか口をあかなかったのですが、わたくしがだんだん説得しましたので、とうとう何もかも白状しました。」 「白状……。なにを白状したのかね。あの男がやっぱり清月亭のむすめを殺したのか。」と、わたしはもう大抵のことを心得ているような顔をして、探りを入れた。 「まあ、お聴きください。御承知の通り、冬坡はおふくろと弟と三人暮らしで、大して都合がいいというわけでもなく、殊におとなしい性質の男ですから、自分から進んで花柳界へ踏み込むようなことはなかったのですが、商売が煙草屋で、花柳界に近いところにあるので、芸妓や料理屋の女中たちはみんな冬坡の店へ煙草を買いに行きます。冬坡はおとなしい上に男振りもいいので、浮気っぽい花柳界にはなかなか人気があって、ちっとぐらい遠いところにいる者でも、わざわざ廻り路をして冬坡の店へ買いに来るようなわけでしたが、そのなかでもあの染吉が大熱心で、どういうふうに誘いかけたのか知りませんが、去年の秋祭りの頃から冬坡と関係をつけてしまったのだそうです。染吉もなかなか利口な女ですし、冬坡はおとなしい男なので、二人の秘密はよほど厳重に守られて、今まで誰にも覚られなかったのです。わたくしもちっとも知りませんでした。いや、まったく知らなかったのです。」  あるいは薄うす知っていたかも知れないが、この場合、彼としてはまずこう言うのほかはあるまいと思いながら、わたしは黙ってきいていた。      三  外の雪には風がまじって来たらしく、窓の戸を時どきに揺する音がきこえた。雪や風には馴れているはずの野童が、今夜はなんだかそれを気にするように、幾たびか見返りながらまた語りつづけた。 「そのうちに、またひとりの競争者があらわれてきました。と申したら、大抵御推量もつきましょうが、それはかの清月亭のお照で、もちろん染吉との関係を知らないで、だんだんに冬坡の方へ接近してきて、これも去年の冬頃から関係が出来てしまったのです。こう言うと、冬坡ははなはだふしだらのようにも聞えますが、何分にもああいう気の弱い男ですから、女の方から眼の色を変えて強く迫って来られると、それを払いのけるだけの勇気がないので、どっちにも義理が悪いと思いながら、両方の女にひきずられて、まあずるずるにその日その日を送っていたという訳です。  しかし、それがいつまでも無事にすむはずがありません。去年の暮に、冬坡のおふくろが風邪をひいて、冬至《とうじ》の日から廿六日頃まで一週間ほど寝込んだことがあります。そのときに染吉とお照とが見舞に来て……。どちらも菓子折かなにかを持ってきて、しかも同時に落合ったものですから、はなはだ工合の悪いことになってしまいました。どうもひと通りの見舞ではないらしいと染吉も睨む、お照も睨む。双方睨みあいで、そのときは何事もなく別れたのですが、二人の女の胸のなかに青い火や紅い火が一度に燃えあがったのは判り切ったことです。  そこで、人間はまあ五分五分としても、お照の方が年も若いし、おまけに相当の料理屋の娘というのですから、この方に強味があるわけですが、困ったことには片足が短い、まあこういう場合にはそれが非情な弱味になります。また、染吉は冬坡よりも二つ年上であるというのが第一の弱味である上に、競争の相手が自分の出先の清月亭の娘というのですから、商売上の弱味もあります。そんなわけで、どちらにもいろいろと弱味があるだけに、余計に修羅を燃やすようにもなって、その競争が激烈というか、深刻というか、他人には想像の出来ないように物凄いものになって来たらしいのです。  しかし、なにぶんにも暮から正月にかけては、料理屋も芸妓も商売の忙がしいのに追われて、男の問題にばかり係りあってもいられなかったのですが、正月も、もうなかば過ぎになって、お正月気分もだんだんに薄れてくると、この問題の火の手がまたさかんになりました。染吉もお照も暇さえあれば冬坡を呼び出して、恨みを言ったり、愚痴を言ったりして、めちゃめちゃに男を小突きまわしていたらしいのです。この春になってから、冬坡がとかくに句会を怠けがちであったのも、そんな捫着《もんちゃく》のためであったということが今わかりました。」 「しかし君はおとといの晩、冬坡君は夜詣りをするわけがあると言ったね。」と、わたしはやや皮肉らしく微笑した。  野童はすこし慌てたように詞《ことば》をとぎらせた。なんといっても、彼はすでに冬坡の秘密を知っていたに相違ないのである。しかしここで詰まらない揚げ足をとっていて、肝腎の本題が横道へそれてはならないと思ったので、わたしは笑いながらまた言った。 「そこで、結局どういうことになったのだね。」 「染吉とお照は一方に冬坡をいじめながら、一方には神信心をはじめました。殊にああいう社会の女たちですから、毎晩かの弁天さまへ夜詣りをして、恋の勝利を祈っていたのです。そのうちに誰が教えたか知りませんが、弁天さまは嫉妬深いから、そんな願掛けはきいてくれないばかりか、かえって祟りがあると言ったので、染吉はこの廿日ごろから夜詣りをやめました。お照も廿三四日頃からやはり参詣を見合せたそうです。すると、この廿五日の巳《み》の日の晩に、二人がおなじ夢を見たのです。」 「夢をみた……。」 「それが実に不思議だと冬坡も言っていました。」と、野童自身も不思議そうに言った。「それが二人ながらちっとも違わないのです。弁天さまが染吉とお照の枕元へあらわれて、境内の柳の下を掘ってみろ。そこには古い鏡が埋まっている。それを掘出したものは自分の願《がん》が叶うのだというお告げがあったそうです。そこで、あくる晩、染吉はお座敷の帰りに冬坡をよび出して、これから一緒に弁天さまへ行ってくれと無理に境内へ連れ込んで、一本の柳の下を掘っているところへ、あなたとわたくしが来かかったので、染吉はあわてて祠のうしろへ隠れてしまって、冬坡だけがわれわれに見付けられたのです。常夜燈を消して置いたのも染吉の仕業で、何分あたりが暗いので、そこらに染吉の隠れていることは一向気が付きませんでした。われわれが立去ったあとで、染吉が再び掘ろうとしたのですが、冬坡がスコープを持って行ってしまったので、仕方がなしに帰って来たそうです。」 「お照は掘りに来なかったのだね。」 「お照がなぜすぐに来なかったのか、その子細はわかりません。商売が商売ですから、その晩はどうしても出られなかったのかも知れません。それでも次の日、すなわち昨日の夕方に冬坡を呼び出して、やはり一緒に行ってくれと言ったそうですが、冬坡はゆうべに懲りているので、夢なんぞはあてになるものではないからやめた方がいいと言って、とうとう断ってしまいました。それでもお照は思い切れないで、自分ひとりで弁天の祠へ行って、二本目の柳の下から鏡を掘出したのです。」 「鏡……。ほんとうに鏡が埋められていたのか。」と、わたしは炬燵の上からからだを乗出して訊いた。 「まったく古い鏡が出たのだから不思議です。」と、彼は小声に力をこめて言った。「お照がそれを掘出したところへ、染吉があとから来ました。染吉もまだ思い切れないので、今夜は日の暮れるのを待ちかねて、二本目の柳の下を掘りに来ると、お照がもう先廻りをしているので驚きました。どちらもあからさまに口へ出して言えることではありませんから、お互いにまあいい加減な挨拶などをしているうちに、お照がなにか鏡のようなものを袖の下にかくしているのを、常夜燈のひかりで染吉が見付けたのです。お照も早く常夜燈を消しておけばよかったのでしょうが、年が若いだけにそれ程の注意が行き届かなかったので、たちまち相手に見付けられてしまったのです。一方のお照が死んでいるので、詳しいことはわかりませんが、染吉はそれを見せろと言い、お照は見せないと言う。日は暮れている、あたりに人はなし、もうこうなれば仇同士の喧嘩になるよりほかはありません。なんといっても、染吉の方が年上ですし、お照は足が不自由という弱味もあるので、その鏡をとうとう染吉に奪い取られました。それを取返そうとしがみつくと、染吉ももうのぼせているので、持っている鏡で相手の額を力まかせに殴りつけた上に、池のなかへ突き落して逃げました。」  お照の額の疵は氷のためではなかった。たとい氷でないとしても、それが鏡のたぐいであろうとは、わたしも少しく意外であった。 「ただ突き落して逃げたのだね。」と、わたしは念を押した。 「染吉はそう言っているそうです。御承知の通り、岸の氷は厚いのですから、ただ突き落しただけでは溺死する筈はありません。まんなか辺まで引摺って行って突き落すか。それとも染吉が立去ったあとで、お照は水でも飲むつもりで真ん中まで這い出して行って、氷が薄いために思わず滑り込んだのか。あるいは大切な鏡を奪い取られたために、一途に悲観して自殺する気になったのか。それらの事情はよく判らないのですが、いずれにしても自分がお照を殺したも同然だといって、染吉は覚悟しているそうです。」 「覚悟している……。それでは自首するつもりかね。」 「それが困るのです。」と、野童は顔をしかめた。「自分でもそう覚悟をしていながら、やはり女の未練で、きょうも冬坡を寺の墓地へよび出して、これから一緒に北海道へ逃げてくれと頻りに口説いているのです。」 「冬坡はどこにいるね。」 「今はわたくしの家の奥座敷に置いてあるのです。うっかりした所にいると、染吉が付きまとって来て何をするか判りませんから。」 「よろしい。それではすぐに女を引挙げることにしよう。君の留守に、冬坡が又ぬけ出しでもすると困るから、早く帰って保護していてくれ給え。」  野童をさきに帰して、わたしはすぐに官服に着かえて出ると、表はもう眼もあけられないような吹雪になっていた。署へ行って染吉を引致の手続きをすると、彼女は午後から一度も抱え主の家へ帰らないというのであった。停車場へ聞き合せにやったが、彼女が汽車に乗込んだような形跡はなかった。  もしやと思って、弁天社内を調べさせると、あたかもお照とおなじように、その死体は池の中から発見された。雪と水とに濡れている染吉のふところには、古い鏡を大事そうに抱いていた。冬坡を連れて逃げる望みもないとあきらめて、彼女はここを死に場所に選んだのであろう。お照がみずから滑り込んだのであれば勿論、たとい染吉が引摺り込んだとしても、事情が事情であるから死刑にはなるまい。しかも彼女は思い切って恋のかたきの跡を追ったのである。  鏡は青銅でつくられて、その裏には一双の鴛鴦《おしどり》が彫ってあった。鑑定家の説によると、これは支那から渡来したもので、おそらく漢の時代の製作であろうということであった。漢といえば殆んど二千年の昔である。そんな古い物がいつの代《よ》に渡って来て、こんなところにどうして埋められていたのか、勿論わからない。さらに不思議なのは、染吉もお照もおなじ夢を見せられて、その鏡のために同じ終りを遂げたことである。弁天さまに対して恋の願掛けなどをしたために、そんな祟りを蒙ったのであろうと、花柳界の者は怖ろしそうに語り伝えていた。実際わたし達にもその理屈が判らないのであるから、迷信ぶかい花柳界の人々がそんなことを言いふらすのも無理はなかった。殊にその鏡の裏に鴛鴦が彫ってあったということも、この場合には何かの意味ありげにも思われた。  冬坡は一応の取調べを受けただけで済んだが、土地に居にくくなったとみえて、五里ほど離れている隣りの町へ引っ越してしまったが、その後別に変ったこともないように聞いている。 底本:「異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二」原書房    1999(平成11)年7月2日第1刷 初出:「新青年」    1928(昭和3)年10月 入力:網迫、土屋隆 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 -------------------------------------------------------------------------------- 白髪鬼 岡本綺堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)素人家《しろうとや》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)七|間《ま》ほど -------------------------------------------------------      一  S弁護士は語る。  私はあまり怪談などというものに興味をもたない人間で、他人からそんな話を聴こうともせず、自分から好んで話そうともしないのですが、若いときにたった一度、こんな事件に出逢ったことがあって、その謎だけはまだ本当に解けないのです。  今から十五年ほど前に、わたしは麹町の半蔵門に近いところに下宿生活をして、神田のある法律学校に通っていたことがあります。下宿屋といっても、素人家《しろうとや》に手入れをして七|間《ま》ほどの客間を造ったのですから、満員となったところで七人以上の客を収容することは出来ない。いわば一種の素人下宿のような家で、主婦は五十をすこし越えたらしい上品な人でした。ほかに廿八九の娘と女中ひとり、この三人で客の世話をしているのですが、だんだん聞いてみると、ここの家《うち》には相当の財産があって、長男は京都の大学にはいっている。その長男が卒業して帰って来るまで、ただ遊んでいるのもつまらなく、また寂しくもあるというようなわけで、道楽半分にこんな商売を始めたのだそうです。したがって普通の下宿屋とはちがって、万事がいかにも親切で、いわゆる家族的待遇をしてくれるので、止宿人《ししゅくにん》はみな喜んでいました。  そういうわけで、私たちは家の主婦を奥さんと呼んでいました。下宿屋のおかみさんを奥さんと呼ぶのは少し変ですが、前にも言う通り、まったく上品で温和な婦人で、どうもおかみさんとは呼びにくいように感じられるので、どの人もみな申合せたように奥さんと呼び、その娘を伊佐子さんと呼んでいました。家の苗字は――仮りに堀川といって置きましょう。  十一月はじめの霽《は》れた夜でした。わたしは四谷須賀町のお酉《とり》さまへ参詣に出かけました。東京の酉《とり》の市《まち》というのをかねて話には聞いていながら、まだ一度も見たことがない。さりとて浅草まで出かけるほどの勇気もないので、近所の四谷で済ませて置こうと思って、ゆう飯を食った後に散歩ながらぶらぶら行ってみることになったのですから、甚だ不信心の参詣者というべきでした。今夜は初酉だそうですが、天気がいいせいか頗《すこぶ》る繁昌しているので、混雑のなかを揉まれながら境内《けいだい》と境外を一巡して、電車通りの往来まで出て来ると、ここも露天で賑わっている。その人ごみの間で不意に声をかけられました。 「やあ、須田君。君も来ていたんですか。」 「やあ、あなたも御参詣ですか。」 「まあ、御参詣と言うべきでしょうね。」  その人は笑いながら、手に持っている小さい熊手と、笹の枝に通した唐《とう》の芋とを見せました。彼は山岸猛雄――これも仮名です――という男で、やはり私とおなじ下宿屋に止宿しているのですから二人は肩をならべて歩き始めました。 「ずいぶん賑やかですね。」と、わたしは言いました。「そんなものを買ってどうするんです。」 「伊佐子さんにお土産ですよ。」と、山岸はまた笑っていました。「去年も買って行ったから今年も吉例でね。」 「高いでしょう。」と、そんな物の相場を知らない私は訊《き》きました。 「なに、思い切って値切り倒して……。それでも初酉だから、商人の鼻息がなかなか荒い。」  そんなことを言いながら四谷見附の方角へむかって来ると、山岸はあるコーヒー店の前に立ちどまりました。 「君、どうです。お茶でも飲んで行きませんか。」  かれは先に立って店へはいったので、わたしもあとから続いてはいると、幸いに隅の方のテーブルが空《す》いていたので、二人はそこに陣取って、紅茶と菓子を注文しました。 「須田君はお酒を飲まないんですね。」 「飲みません。」 「ちっともいけないんですか。」 「ちっとも飲めません。」 「わたしも御同様だ。少しは飲めるといいんだが……。」と、山岸は何か考えるように言いました。「この二、三年来、なんとかして飲めるようになりたいと思って、ずいぶん勉強してみたんですがね。どうしても駄目ですよ。」  飲めない酒をなぜ無理に飲もうとするのかと、年の若い私はすこしおかしくなりました。その笑い顔をながめながら、山岸はやはり子細ありそうに溜息をつきました。 「いや、君なぞは勿論飲まない方がいいですよ。しかし私なぞは少し飲めるといいんだが……。」と、彼は繰返して言いましたが、やがて又俄かに笑い出しました。「なぜといって……。少しは酒を飲まないと伊佐子さんに嫌われるんでね。ははははは。」  山岸の方はどうだか知らないが、伊佐子さんがとにかく彼に接近したがって、いわゆる秋波を送っているらしいのは、他の止宿人もみな認めているのでした。堀川の家《うち》では、伊佐子さんが姉で、京都へ行っている長男は弟だそうです。伊佐子さんは廿一の年に他へ縁付いたのですが、その翌年に夫が病死したので、再び実家へ戻って来て、それからむなしく七、八年を送っているという気の毒な身の上であることを、わたし達も薄々知っていました。容貌《きりょう》もまず十人並以上で阿母《おっか》さんとは違ってなかなか元気のいい活溌な婦人でしたが、気のせいか、その蒼白い細おもてがやや寂しく見えるようでした。  山岸は三十前後で、体格もよく、顔色もよく、ひと口にいえばいかにも男らしい風采の持主でした。その上に、郷里の実家が富裕であるらしく、毎月少なからぬ送金を受けているので、服装もよく、金づかいもいい。どの点から見ても七人の止宿人のうちでは彼が最も優等であるのですから、伊佐子さんが彼に眼をつけるのも無理はないと思われました。いや、彼女が山岸に眼をつけていることは、奥さんも内々承知していながら、そのまま黙許しているらしいという噂もあるくらいですから、今ここで山岸の口から伊佐子さんのことを言い出されても、私はさのみ怪しみもしませんでした。勿論、妬むなどという気はちっとも起りませんでした。 「伊佐子さんは酒を飲むんですか。」と、わたしも笑いながら訊きました。 「さあ。」と、山岸は首をかしげていました。「よくは知らないが、おそらく飲むまいな。私にむかっても、酒を飲むのはおよしなさいと忠告したくらいだから……。」 「でも、酒を飲まないと、伊佐子さんに嫌われると言ったじゃありませんか。」 「あははははは。」  彼があまりに大きな声で笑い出したので、四組ほどの他の客がびっくりしたようにこっちを一度に見返ったので、わたしは少しきまりが悪くなりました。茶を飲んで、菓子を食って、その勘定は山岸が払って、二人は再び往来へ出ると、大きい冬の月が堤の松の上に高くかかっていました。霽れた夜といっても、もう十一月の初めですから、寒い西北の風がわれわれを送るように吹いて来ました。  四谷見附を過ぎて、麹町の大通りへさしかかると、橋ひとつを境にして、急に世間が静かになったように感じられました。山岸は消防署の火の見を仰ぎながら、突然にこんなことを言い出しました。 「君は幽霊というものを信じますか。」  思いも付かないことを問われて、わたしもすこしく返答に躊躇しましたが、それでも正直に答えました。 「さあ。わたしは幽霊というものについて、研究したこともありませんが、まあ信じない方ですね。」 「そうでしょうね。」と、山岸はうなずきました。「わたしにしても信じたくないから、君なぞが信じないというのは本当だ。」  彼はそれぎりで黙ってしまいました。今日《こんにち》ではわたしも商売柄で相当におしゃべりをしますが、学生時代の若い時には、どちらかといえば無口の方でしたから、相手が黙っていれば、こっちも黙っているというふうで、二人は街路樹の落葉を踏みながら、無言で麹町通りの半分以上を通り過ぎると、山岸はまた俄かに立ちどまりました。 「須田君、うなぎを食いませんか。」 「え。」  わたしは山岸の顔をみました。たった今、四谷で茶を飲んだばかりで、又すぐにここで鰻を食おうというのは少しく変だと思っていると、それを察したように彼は言いました。 「君は家で夕飯を食ったでしょうが、わたしは午後に出たぎりで、実はまだ夕飯を食わないんですよ。あのコーヒー店で何か食おうと思ったが、ごたごたしているので止《や》めて来たんです。」  なるほど彼は午後から外出していたのです。それでまだ夕飯を食わずにいるのでは、四谷で西洋菓子を二つぐらい食ったのでは腹の虫が承知しまいと察せられました。それにしても、鰻を食うのは贅沢です。いや、金廻りのいい彼としては別に不思議はないかも知れませんが、われわれのような学生に取っては少しく贅沢です。今日では方々の食堂で鰻を安く食わせますが、その頃のうなぎは高いものと決まっていました。殊に山岸がこれからはいろうとする鰻屋は、ここらでも上等の店でしたから、わたしは遠慮しました。 「それじゃあ、あなたひとりで食べていらっしゃい。わたしはお先へ失敬します。」  行きかけるのを、山岸は引止めました。 「それじゃあいけない。まあ、附き合いに来てくれたまえ。鰻を食うばかりじゃない、ほかにも少し話したいことがあるから。いや、嘘じゃない。まったく話があるんだから……。」  断り切れないで、私はとうとう鰻屋の二階へ連れ込まれました。      二  ここで山岸とわたしとの関係を、さらに説明しておく必要があります。  山岸はわたしと同じ下宿屋に住んでいるという以外に、特別にわたしに対して一種の親しみを持っていてくれるのは、二人がおなじ職業をこころざしているのと、わたしが先輩として常に彼を尊敬しているからでした。わたしも将来は弁護士として世間に立つつもりで勉強中の身の上ですから、自分よりも年上の彼に対して敬意を払うのは当然です。単に年齢の差があるばかりでなく、その学力においても、彼とわたしとは大いに相違しているのでした。山岸は法律上の知識は勿論、英語のほかにドイツ、フランスの語学にも精通していましたから、わたしはいい人と同宿したのを喜んで、その部屋へ押しかけて行っていろいろのことを訊くと、彼もまた根《こん》よく親切に教えてくれる。そういうわけですから、山岸という男はわたしの師匠といってもいいくらいで、わたしも彼を尊敬し、彼もわたしを愛してくれたのです。  唯ここに一つ、わたしとして不思議でならないのは、その山岸がこれまでに四回も弁護士試験をうけて、いつも合格しないということでした。あれほどの学力もあり、あれほどの胆力もありながら、どうして試験に通過することが出来ないのか。わたしの知っている範囲内でも、その学力はたしかに山岸に及ばないと思われる人間がいずれも無事に合格しているのです。勿論、試験というものは一種の運だめしで、実力の優《まさ》ったものが必ず勝つとも限らないのですが、それも一回や二回ではなく、三回も四回もおなじ失敗をくり返すというのは、どう考えても判りかねます。 「わたしは気が小さいので、いけないんですね。」  それに対して、山岸はこう説明しているのですが、わたしの視るところでは彼は決して小胆の人物ではありません。試験の場所に臨んで、いわゆる「場打《ばう》て」がするような、気の弱い人物とは思われません。体格は堂々としている。弁舌は流暢である。どんな試験官でも確かに採用しそうな筈であるのに、それがいつでも合格しないのは、まったく不思議と言うのほかはありません。それでも彼は、郷里から十分の送金を受けているので、何回の失敗にもさのみ屈する気色《けしき》もみせず、落ちつき払って下宿生活をつづけているのです。わたしは彼に誘われて、ここの鰻の御馳走になったのは、今までにも二、三回ありました。 「君なぞは若い盛りで、さっき食った夕飯なぞはとうの昔に消化してしまった筈だ。遠慮なしに食いたまえ、食いたまえ。」  山岸にすすめられて、私はもう遠慮なしに食い始めました。ともかくも一本の酒を注文したのですが、二人ともほとんど飲まないで、唯むやみに食うばかりです。蒲焼の代りを待っているあいだに、彼は静かに言い出しました。 「実はね、わたしは今年かぎりで郷里へ帰ろうかと思っていますよ。」  私はおどろきました。すぐには何とも言えないで、黙って相手の顔を見つめていると、山岸はすこしく容《かたち》をあらためました。 「甚だ突然で、君も驚いたかも知れないが、わたしもいよいよ諦めて帰ることにしました。どう考えても、弁護士という職業はわたしに縁がないらしい。」 「そんなことはないでしょう。」 「私もそんなことはないと思っていた。そんな筈はないと信じていた。幽霊がこの世にないと信じるのと同じように……。」  さっきも幽霊と言い、今もまた幽霊と言い出したのが、わたしの注意をひきました。しかし黙って聴いていると、彼は更にこんなことを言い出しました。 「君は幽霊を信じないと言いましたね。わたしも勿論、信じなかった。信じないどころか、そんな話を聴くと笑っていた。その私が幽霊に責められて、とうとう自分の目的を捨てなければならない事になったんですよ。幽霊を信じない君たちの眼から見れば、実にばかばかしいかも知れない。まあ、笑ってくれたまえ。」  わたしは笑う気にはなれませんでした。山岸の口からこんなことを聞かされる以上、それには相当の根拠がなければならない。といって、まさか幽霊などというものがこの世にあろうとは思われない。半信半疑でやはり黙っていると、山岸もまた黙って天井の電燈をみあげていました。広い二階に坐っているのはわれわれの二人ぎりで、隅々からにじみ出して来る夜の寒さが人に迫るようにも思われました。  しかし今夜もまだ九時ごろです、表には電車の往来するひびきが絶えずごうごうと聞えています。下では鰻を焼く団扇《うちわ》の音がぱたぱたと聞えます。思いなしか、頭の上の電燈が薄暗くみえても、床の間に生けてある茶の花の白い影がわびしく見えても、怪談らしい気分を深めるにはまだ不十分でした。もちろん山岸はそんなことに頓着する筈もない、ただ自分の言いたいだけの事を言えばいいのでしょう。やがて又向き直って話しつづけました。 「自分の口から言うのも何だが、わたしはこれまでに相当の勉強もしたつもりで、弁護士試験ぐらいはまず無事にパスするという自信を持っていたんですよ。うぬぼれかも知れないが、自分ではそう信じていたんです。」 「そりゃそうです。」と、私はすぐに言いました。「あなたのような人がパスしないという筈はないんですから。」 「ところが、いけないからおかしい。」と、山岸はさびしく笑いました。「君も御承知だろうが、ことしで四回つづけて見事に失敗している。自分でも少し不思議に思うくらいで……。」 「私もまったく不思議に思っているんです。どういうわけでしょう。」 「そのわけは……。今も言う通り、わたしは幽霊に責められているんですよ。いや、実にばかばかしい。われながら馬鹿げ切っていると思うのだが、それが事実であるからどうにも仕様がない。今まで誰にも話したことはないが、わたしが初めて試験を受けに出て、一生懸命に答案を書いていると、一人の女のすがたが私の眼の前にぼんやりと現われたんです。場所が場所だから、女なぞが出て来るはずがない。それは痩形で背の高い、髪の毛の白い女で、着物は何を着ているかはっきりと判《わか》らないが、顔だけはよく見えるんです。髪の白いのを見ると、老人かと思われるが、その顔は色白の細おもてで、まだ三十を越したか越さないか位にも見える。そういう次第で、年ごろの鑑定は付かないが、髪の毛の真っ白であるだけは間違いない。その女がわたしの机の前に立って、わたしの書いている紙の上を覗き込むようにじっと眺めていると、不思議にわたしの筆の運びがにぶくなって、頭もなんだか茫として、何を書いているのか自分にも判らなくなって来る……。君はその女をなんだと思います。」 「しかし……。」と、わたしは考えながら言いました。「試験場には大勢の受験者が机をならべているんでしょう。しかも昼間でしょう。」 「そうです、そうです。」と、山岸はうなずきました。「まっ昼間で、硝子窓の外には明るい日が照っている。試験場には大勢の人間がならんでいる。そこへ髪の毛の白い女の姿があらわれるんですよ。勿論、他の人には見えないらしい。わたしの隣りにいる人も平気で答案を書きつづけているんです。なにしろ、私はその女に邪魔をされて、結局なんだか判らないような答案を提出することになる。何がなんだか滅茶苦茶で、自分にも訳が判らないようなものを書いて出すのだから、試験官が明き盲でない限り、そんな答案に対して及第点をあたえてくれる筈がない。それで第一回の受験は見ごとに失敗してしまった。それでも私はそれほどに悲観しませんでした。元来がのん気な人間に生れ付いているのと、もう一つには、幸いに郷里の方が相当に暮らしているので、一年や二年は遊んでいても困ることはないという安心があったからでした。」 「そこで、あなたはその女に就いてどう考えておいでになったんです。」 「それは神経衰弱の結果だと見ていました。」と、山岸は答えました。「幾らのん気な人間でも、試験前には勉強する。殊にその当時は学校を出てから間もないので、毎晩二時三時ごろまでも勉強していたから、神経衰弱の結果、そういう一種の幻覚を生じたものだろうと判断しました。したがって、さのみ不思議とも思いませんでした。」 「その女はそれぎり姿を見せませんでしたか。」と、わたしは追いかけるように訊いた。 「いや、お話はこれからですよ。その頃わたしは神田に下宿していたんですが、何分にも周囲がそうぞうしくって、いよいよ神経を苛立《いらだ》たせるばかりだと思ったので、さらに小石川の方へ転宿して、その翌年に第二回の試験を受けると、これも同じ結果に終りました。わたしの机の前には、やはり髪の白い女の姿があらわれて、わたしが書いている紙の上をじっと覗いているんです。畜生、又来たかと思っても、それに対抗するだけの勇気がないので、又もや眼が眩《くら》んで、頭がぼんやりして、なんだか夢のような心持になって……。結局めちゃめちゃの答案を提出して……。それでも私はまだ悲観しませんでした。やはり神経衰弱が祟っているんだと思って、それから三月ほども湘南地方に転地して、唯ぶらぶら遊んでいると、頭の具合もすっかり好くなったらしいので、東京へ帰って又もや下宿をかえました。それが現在の堀川の家で、今までのうちでは一等居ごころのいい家ですから、ここならば大いに勉強が出来ると喜んでいると、去年は第三回の受験です。近来は健康も回復しているし、試験の勝手もよく判っているし、今度こそはという意気込みで、わたしは威勢よく試験場へはいって、答案をすらすらと書きはじめると、髪の白い女が又あらわれました。いつも同じことだから、もう詳しく言うまでもありますまい。わたしはすごすごと試験場を出ました。」  あり得《う》べからざる話を聴かされて、わたしも何だか夢のような心持になって来ました。そこへ蒲焼のお代りを運んで来ましたが、わたしはもう箸をつける元気がない。それは満腹の為ばかりではなかったようです。山岸も皿を見たばかりで、箸をとりませんでした。      三  うなぎを食うよりも、話のつづきを聞く方が大事なので、わたしは誘いかけるように又訊きました。 「そうすると、それもやっぱり神経のせいでしょうか。」 「さあ。」と、山岸は低い溜息を洩らしました。「こうなると、わたしも少し考えさせられましたよ。実は今まで郷里の方に対して、受験の成績は毎回報告していましたが、髪の白い女のことなぞはいっさい秘密にしていました。そんなことを言ってやったところで、誰も信用する筈もなし、落第の申訳にそんな奇怪な事実を捏造《ねつぞう》したように思われるのも、あまり卑怯らしくって残念だから、どこまでも自分の勉強の足らないことにして置いたのです。ねえ、そうでしょう。わたしの眼にみえるだけで、誰にも判らないことなんだから、いくら本当だと主張したところで信用する者はありますまい。まして自分自身も神経衰弱の祟りと判断しているくらいだから、そんな余計なことを報告してやる必要もないと思って、かたがたその儘にして置いたんですが、三度が三度、同じことが続いて、おなじ結果になるというのは少しおかしいと自分でもやや疑うようになって来た。そこへ郷里の父から手紙が来て、ちょっと帰って来いというんです。父は九州のFという町でやはり弁護士を開業しているんですが、早い子持ちで、廿三の年にわたしを生んだのだから、去年は五十二で、土地の同業者間ではまずいい顔になっている。そのおかげで私もまあこうしてぶらぶらしていられるんですが……。その父も毎々の失敗にすこし呆れたんでしょう。ともかくも一度帰って来いというので、去年の暮から今年の正月にかけて……。それは君も知っているでしょう。それから東京へ帰って来たときに、わたしの様子に何か変ったところがありましたか。」 「いいえ、気がつきませんでした。」と、わたしは首をふりました。 「そうでしたか。なんぼ私のような人間でも、三回も受験に失敗しているんだから、久しぶりで国へ帰って、父の前へ出ると、さすがにきまりが悪い。そこは人情で、なにかの言い訳もしたくなる。その言い訳のあいだに口がすべって、髪の白い女のことをうっかりしゃべってしまったんです。すると、父は俄かにくちびるを屹《きっ》と結んで、しばらく私の顔を見つめていたが、やがて厳粛な口調で、お前それは本当かという。本当ですと答えると、父は又だまってしまって、それぎりなんにも言いませんでしたが、さてそうなると私の疑いはいよいよ深くならざるを得ない。父の様子から想像すると、これには何か子細のあることで、単にわたしの神経衰弱とばかりは言っていられないような気がするじゃありませんか。その時はまあそれで済んだんですが、それから二、三日の後、父はわたしに向って、もう東京へ行くのは止せ、弁護士試験なぞ受けるのは思い切れと、こう言うんです。実家に居据わっていても仕方がないので、わたしは父に向って、お願いですから、もう一度東京へやってください。万一ことしの受験にも失敗するようであったら、その時こそは思い切って帰郷しますと、無理に父を口説いて再び上京しました。したがって、ことしの受験はわたしに取っては背水の陣といったようなわけで、平素のん気な人間も少しく緊張した心持で帰って来たんです。それが君たちに覚られなかったとすると、私はよほどのん気にみえる男なんでしょうね。」  山岸は又さびしく笑いながら語りつづけました。 「ところで、ことしの受験もあの通りの始末……。やはり白い髪の女に祟られたんですよ。かれは今年も依然として試験場にあらわれて、わたしの答案を妨害しました。言うまでもない事だが、試験場におけるわたしの席は毎年変っている。しかもかれは同じように、影の形に従うがごとくに、私の前にあらわれて来るのだから、どうしても避ける方法がない。わたしはこの幽霊――まず幽霊とでもいうのほかはありますまい。この幽霊のために再三再四妨害されて、実に腹が立ってたまらないので、もうこうなったら根くらべ意地くらべの決心で、来年も重ねて試験を受けようと思っていたところが、二、三日前に郷里の父から手紙が来て、今度こそはどうしても帰れというんです。この正月の約束があるから、わたしももう強情を張り通すわけにもいかないのと、もう一つ、わたしに強い衝動をあたえたのは、父の手紙にこういうことが書いてあるんです。たとい無理に試験を通過したところで、弁護士という職業を撰むことは、お前の将来に不幸をまねく基《もと》であるらしく思われるから、もう思い切って帰郷して、なにか他の職業を求めることにしろ。お前として今までの志望を抛棄するのは定めて苦痛であろうと察せられるが、お前にばかり強《し》いるのではない、わたしも今年かぎりで登録を取消して弁護士を廃業する。」 「なぜでしょう。」と、わたしは思わず喙《くち》をいれました。 「なぜだか判らない。」と、山岸は思いありげに答えました。「しかし判らないながらも、なんだか判ったような気もするので、わたしもいよいよ思い切って東京をひきあげて、年内に帰国するつもりです。父はF町の近在に相当の土地を所有している筈だから、草花でも作って、晩年を送る気になったのかも知れない。わたしも父と一緒に園芸でもやってみるか、それとも何か他の仕事に取りかかるか、それは帰郷の上でゆっくり考えようと思っているんです。」  わたしは急にさびしいような、薄暗い心持になりました。どんな事情があるのか知れないが、父も弁護士を廃業する、その子も弁護士試験を断念して帰る。それだけでも聞く者のこころを暗くさせるのに、さらに現在のわたしとしては、自分が平素尊敬している先輩に捨てて行かれるのが、いかにも頼りないような寂しい思いに堪えられないので、黙って俯向いてその話を聞いていると、山岸は又言いました。 「今夜の話はこの場かぎりで、当分は誰にも秘密にしておいてくれたまえ。いいかい。奥さんにも伊佐子さんにも暫く黙っていてくれたまえ。」  奥さんはともあれ、伊佐子さんがこれを知ったら定めて驚くことであろうと、わたしは気の毒に思いましたが、この場合、かれこれ言うべきではありませんから、山岸の言うがままに承諾の返事をして置きました。  お代りの蒲焼は二人ともにちっとも箸をつけなかったので、残して行くのも勿体ないといって、その二人前を折詰にして貰うことにしました。それは伊佐子さんへのお土産にするのだと、山岸は言っていました。熊手と唐の芋と、うなぎの蒲焼と、重ね重ねのおみやげを貰って、なんにも知らない伊佐子さんはどんなに喜ぶことかと思うと、わたしはいよいよ寂しいような心持になりました。  表へ出ると、木枯しとでも言いそうな寒い風が、さっきよりも強く吹いていました。宿へ帰るまで二人は黙って歩きました。      四  おみやげの品々を貰って、伊佐子さんは果して大喜びでした。奥さんも喜んでいました。その呉れ手が山岸であるだけに、伊佐子さんは一層嬉しく感じたのであろうと思うと、わたしは気の毒を通り越して、なんだか悲しいような心持になって来たので、そうそうに挨拶して、自分の部屋へはいってしまいました。  堀川の家で止宿人にあたえている部屋は、二階に五間、下に二間という間取りで、山岸は下の六畳に、わたしは二階の東の隅の四畳半に陣取っているのでした。東の隅といっても、東側には隣りの二階家が接近しているので、一間の肱かけ窓は北の往来にむかって開かれているのですから、これからは日当りの悪い、寒い部屋になるのです。今夜のような風の吹く晩には、窓の戸をゆする音を聞くだけでも夜の寒さが身に沁みます。もう勉強する元気もないので、私はすぐに冷たい衾《よぎ》のなかにもぐり込みましたが、何分にも眼が冴えて眠られませんでした。いや、眠られないのがあたりまえかとも思いました。  わたしは今夜の話をそれからそれへと繰返して考えました。髪の白い女というのは、いったい何者であろうかとも考えました。山岸はそれを幽霊と信じてしまったらしいが、さっきも言う通り、白昼衆人のあいだに幽霊が姿をあらわすなどというのは、どうしても私には信じられないことでした。しかも山岸が彼の父にむかってその話を洩らしたときに、父の態度に怪しむべき点を発見したらしい事を考えると、父には何か思いあたる節《ふし》があるのかとも察せられます。ことに父も今年かぎりで弁護士を廃業するから、山岸にも受験を断念しろという。それには勿論、なにかの子細がなければならない。それから綜合して考えると、これは弁護士という職業に関連した一種の秘密であるらしい。山岸は詳しいことを明かさないが、今度の父の手紙にはその秘密を洩らしてあるのかも知れない。そこで彼もとうとう我《が》を折って、にわかに帰郷することになったのかも知れない。  わたしの空想はだんだんに拡がって来ました。山岸の父は職業上、ある訴訟事件の弁護をひき受けた。刑事ではあるまい、おそらく民事であろう。それが原告であったか、被告であったか知らないが、ともかくも裁判の結果が、ある婦人に甚だしい不利益をあたえることになった。その婦人は、髪の白い人であった。彼女《かれ》はそれがために自殺したか、悶死したか、いずれにしても山岸の父を呪いつつ死んだ。その恨みの魂がまぼろしの姿を試験場にあらわして、彼の子たる山岸を苦しめるのではあるまいか。  こう解釈すれば、怪談としてまずひと通りの筋道は立つわけですが、そんな小説めいた事件が実際にあり得るものかどうかは、大いなる疑問であると言わなければなりません。  さっき聞き落したのですが、一体その髪の白い女は試験場にかぎって出現するのか、あるいは平生でも山岸の前に姿をみせるのか、それを詮議しなければならない事です。山岸の口ぶりでは、平生は彼女と没交渉であるらしく思われるのですが、それも機会を見てよく確かめて置かなければなりません。そんなことをいろいろ考えているうちに、近所の米屋で、一番鶏の歌う声がきこえました。  あくる朝はゆうべの風のためか、にわかに冬らしい気候になりました。一夜をろくろく眠らずに明かした私は、けさの寒さが一層こたえるようでしたが、それでも朝飯をそうそうに食って、いつもの通りに学校へ出て行きました。その頃には風もやんで、青空が高く晴れていました。  留守のあいだに何事か起っていはしないかと、一種の不安をいだきながら、午後に学校から帰って来ますと、堀川の一家にはなんにも変った様子もなく、伊佐子さんはいつもの通りに働いています。山岸も自分の部屋で静かに読書しているようです。私はまずこれで安心していると、午後六時ごろに伊佐子さんがわたしの部屋へ夕飯の膳を運んで来ました。このごろの六時ですから、日はすっかり暮れ切って、狭い部屋には電燈のひかりが満ちていました。 「きょうは随分お寒うござんしたね。」と、伊佐子さんは言いました。平生から蒼白い顔のいよいよ蒼ざめているのが、わたしの眼につきました。 「ええ、今からこんなに寒くなっちゃやりきれません。」  いつもは膳と飯櫃《めしびつ》を置いて、すぐに立ちさる伊佐子さんが、今夜は入口に立て膝をしたままで又話しかけました。 「須田さん。あなたはゆうべ、山岸さんと一緒にお帰りでしたね。」 「ええ。」と、わたしは少しあいまいに答えました。この場合、伊佐子さんから山岸のことを何か聞かれては困ると思ったからです。 「山岸さんは何かあなたに話しましたか。」と、果して伊佐子さんは訊きはじめました。 「何かとは……。どんな事です。」 「でも、この頃は山岸さんのお国からたびたび電報がくるんですよ。今月になっても、一週間ばかりのうちに三度も電報が来ました。そのあいだに郵便も来ました。」 「そうですか。」と、私はなんにも知らないような顔をしていました。 「それには何か、事情があるんだろうと思われますが……。あなたはなんにもご承知ありませんか。」 「知りません。」 「山岸さんはゆうべなんにも話しませんでしたか。わたしの推量では、山岸さんはもうお国の方へ帰ってしまうんじゃないかと思うんですが……。そんな話はありませんでしたか。」  わたしは少しぎょっとしましたが、山岸から口止めをされているんですから、迂濶《うかつ》におしゃべりは出来ません。それを見透かしているように、伊佐子さんはひと膝すりよって来ました。 「ねえ。あなたは平生から山岸さんと特別に仲よく交際しておいでなさるんですから、あの人のことについて何かご存じでしょう。隠さずに教えてくださいませんか。」  これは伊佐子さんとして無理からぬ質問ですが、その返事には困るのです。一つ家に住んでいながら、一体この伊佐子さんと山岸との関係がどのくらいの程度にまで進んでいるのか、それを私はよく知らないので、こういう場合にはいよいよ返事に困るのです。しかし山岸との約束がある以上、わたしは心苦しいのを我慢して、あくまで知らない知らないを繰返しているのほかはありません。そのうちに伊佐子さんの顔色はますます悪くなって、飛んでもないことを言い出しました。 「あの、山岸さんという人は怖ろしい人ですね。」 「なにが怖ろしいんです。」 「ゆうべお土産だといって、うなぎの蒲焼をくれたでしょう。あれが怪しいんですよ。」  伊佐子さんの説明によると、ゆうべあの蒲焼を貰った時はもう夜が更けているので、あした食うことにして台所の戸棚にしまっておいた。この近所に大きい黒い野良猫がいる。それがきょうの午前中に忍び込んできて、女中の知らない間に蒲焼の一と串をくわえ出して、裏手の掃溜《はきだめ》のところで食っていたかと思うと、口から何か吐き出して死んでしまった。猫は何かの毒に中《あた》ったらしいというのです。  こうなると、わたしも少しく係合いがあるような気がして、そのまま聞き捨てにはならないことになります。 「猫はまったくそのうなぎの中毒でしょうか。」と、私は首をかしげました。「そうして、ほかの鰻はどうしました。」 「なんだか気味が悪うござんすから、母とも相談して、残っていた鰻もみんな捨てさせてしまいました。熊手も毀《こわ》して、唐の芋も捨ててしまいました。」 「しかし現在、その鰻を食ったわれわれは、こうして無事でいるんですが……。」 「それだからあの人は怖ろしいと言うんです。」と、伊佐子さんの眼のひかりが物凄くなりました。「おみやげだなんて親切らしいことを言って、わたし達を毒殺しようと巧《たく》らんだのじゃないかと思うんです。さもなければ、あなた方の食べた鰻には別条がなくって、わたし達に食べさせる鰻には毒があるというのが不思議じゃありませんか。」 「そりゃ不思議に相違ないんですが……。それはあなた方の誤解ですよ。あの鰻は最初からお土産にするつもりで拵えたのじゃあない、われわれの食う分が自然に残って、おみやげになったんですから……。わたしは始終一緒にいましたけれど、山岸さんが毒なぞを入れたような形跡は決してありません。それはわたしが確かに保証します。鰻がひと晩のうちにどうかして腐敗したのか、あるいは猫が他の物に中毒したのか、いずれにしても山岸さんや私には全然無関係の出来事ですよ。」  わたしは熱心に弁解しましたが、伊佐子さんはまだ疑っているような顔をして、成程そうかとも言わないばかりか、いつまでもいやな顔をして睨んでいるので、わたしは甚だしい不快を感じました。 「あなたはどうしてそんなに山岸さんを疑うんですか。単に猫が死んだというだけのことですか、それともほかに理由があるんですか。」と、わたしは詰問するように訊きました。 「ほかに理由がないでもありません。」 「どんな理由ですか。」 「あなたには言われません。」と、伊佐子さんはきっぱりと答えました。余計なことを詮議するなというような態度です。  わたしはいよいよむっとしましたが、俄かにヒステリーになったような伊佐子さんを相手にして、議論をするのも無駄なことだと思い返して、黙ってわきを向いてしまいました。そのときあたかも下の方から奥さんの呼ぶ声がきこえたので、伊佐子さんも黙って出て行きました。  ひとりで飯を食いながら、わたしはまた考えました。余の事とは違って、仮りにも毒殺などとは容易ならぬことです。伊佐子さんばかりでなく、奥さんまでが本当にそう信じているならば、山岸のために進んでその寃《えん》をすすぐのが自分の義務であると思いました。それにしても、本人の山岸はそんな騒ぎを知っているのかどうか、まずそれを訊きただしておく必要があるとも考えたので、飯を食ってしまうとすぐに二階を降りて山岸の部屋へたずねていくと、山岸はわたしよりもさきに夕飯をすませて、どこへか散歩に出て行ったということでした。  わたしも頭がむしゃくしゃして、再び二階の部屋へもどる気にもなれなかったので、何がなしに表へふらりと出てゆくと、そのうしろ姿をみて、奥さんがあとから追って来ました。 「須田さん、須田さん。」  呼びとめられて、わたしは立ちどまりました。家から一五、六間も離れたところで、路のそばには赤いポストが寒そうに立っています。そこにたたずんで待っていると、奥さんは小走りに走って来て、あとを見返りながら小声で訊きました。 「あの……。伊佐子が……。あなたに何か言いはしませんでしたか。」  なんと答えようかと、私はすこしく考えていると、奥さんの方から切り出しました。 「伊佐子が何か鰻のことを言いはしませんか。」 「言いました。」と、わたしは思い切って答えました。「ゆうべの鰻を食って、黒猫が死んだとかいうことを……。」 「猫の死んだのは本当ですけれど……。伊佐子はそれを妙に邪推しているので、わたしも困っているのです。」 「まったく伊佐子さんは邪推しているのです。積もってみても知れたことで、山岸さんがそんな馬鹿なことをするもんですか。」  わたしの声が可なりに荒かったので、奥さんもやや躊躇しているようでしたが、再びうしろを見返りながらささやきました。 「あなたも御存じだかどうだか知りませんけれど、このごろ山岸さんのところへお国の方から電報や郵便がたびたび来るので、娘はひどくそれを気にしているのです。山岸さんは郷里へ帰るようになったのじゃあないかと言って……。」 「山岸さんがもし帰るようならば、どうすると言うんです。伊佐子さんはあの人と何か約束したことでもあるんですか。」と、わたしは無遠慮に訊き返した。  奥さんは返事に困ったような顔をして、しばらく黙っていましたが、その様子をみて私にも覚られました。ほかの止宿人たちが想像していたとおり、山岸と伊佐子さんとのあいだには、何かの絲がつながっていて、奥さんもそれを黙認しているに相違ないのです。そこで、わたしはまた言いました。 「山岸さんはああいう人ですから、万一帰郷するようになったからといって、無断で突然たち去る気づかいはありません。きっとあなたがたにも事情を説明して、なにごとも円満に解決するような方法を講じるに相違ありませんから、むやみに心配しない方がいいでしょう。伊佐子さんがなんと言っても、うなぎの事件だけは山岸さんにとってたしかに寃罪です。」  伊佐子さんに話したとおりのことを、わたしはここで再び説明すると、奥さんは素直にうなずきました。 「そりゃそうでしょう。あなたの仰しゃるのが本当ですよ。山岸さんが、なんでそんな怖ろしいことをするものですか。それはよく判っているのですけれど、伊佐子はふだんの気性にも似合わず、このごろは妙に疑い深くなって……。」 「ヒステリーの気味じゃあないんですか。」 「そうでしょうか。」と、奥さんは苦労ありそうに、眉をひそめました。  伊佐子さんに対しては一種の義憤を感じていた私も、おとなしい奥さんの悩ましげな顔色をみていると、又にわかに気の毒のような心持になって、なんとか慰めてやりたいと思っているところへ、あたかも集配人がポストをあけに来たので、ふたりはそこを離れなければならないことになりました。  そのときに気がついて見返ると、伊佐子さんが門口《かどぐち》に立って遠くこちらを窺っているらしいのが、軒燈の薄紅い光りに照らしだされているのです。わたし達もちょっと驚いたが、伊佐子さんの方でも自分のすがたを見付けられたのを覚ったらしく、消えるように内へ隠れてしまいました。      五  奥さんに別れて、麹町通りの方角へふた足ばかり歩き出した時、あたかも私の行く先から、一台の自動車が走ってきました。あたりは暗くなっているなかで、そのヘッド・ライトの光りが案外に弱くみえるので、私はすこしく変だと思いながら、すれ違うときにふと覗いてみると、車内に乗っているのは一人の婦人でした、その婦人の髪が真っ白に見えたので、わたしは思わずぞっとして立停まる間に、自動車は風のように走り過ぎ、どこへ行ってしまったか、消えてしまったか、よく判りませんでした。  これはおそらく私の幻覚でしょう。いや、たしかに幻覚に相違ありません。髪の白い女の怪談を山岸から聞かされていたので、今すれちがった自動車の乗客の姿が、その女らしく私の眼を欺いたのでしょう。またそれが本当に髪の白い婦人であったとしても、白髪の老女は世間にはたくさんあります。単に髪が白いというだけのことで、それが山岸に祟っている怪しい女であるなどと一途《いちず》に決めるわけにはいきません。いずれにしても、そんなことを気にかけるのは万々《ばんばん》間違っていると承知していながら、私はなんだか薄気味の悪いような、いやな心持になりました。 「はは、おれはよっぽど臆病だな。」  自分で自分を嘲りながら、私はわざと大股にあるいて、灯の明るい電車路の方へ出ました。ゆうべのような風はないが、今夜もなかなか寒い。何をひやかすということもなしに、四谷見附までぶらぶら歩いて行きましたが、帰りの足は自然に早くなりました。帽子もかぶらず、外套も着ていないので、夜の寒さが身にしみて来たのと、留守のあいだにまた何か起っていはしまいかという不安の念が高まってきたからです。家へ近づくにしたがって、わたしの足はいよいよ早くなりました。裏通りへはいると、月のひかりは霜を帯びて、その明るい町のどこやらに犬の吠える声が遠くきこえました。  堀川の家の門《かど》をくぐると、わたしは果して驚かされました。わたしが四谷見附まで往復するあいだに、伊佐子さんは劇薬を飲んで死んでしまったのでした。山岸はまだ帰りません。その明き部屋へはいり込んで、伊佐子さんは自殺したのです。その帯のあいだには母にあてた一通の書置を忍ばせていて、「わたしは山岸という男に殺されました」と、簡単に記《しる》してあったそうです。奥さんもびっくりしたのですが、なにしろ劇薬を飲んで死んだのですから、そのままにしておくことは出来ません。わたしの帰ったときには、あたかも警察から係官が出張して臨検の最中でした。  猫の死んだ一件を女中がうっかりしゃべったので、帰るとすぐに私も調べられました。そこへあたかも山岸がふらりと帰ってきたので、これは一応の取調べぐらいではすみません、その場から警察へ引致《いんち》されました。伊佐子さんは自殺に相違ないのですが、猫の一件があるのと、その書置に、「山岸という男に殺されました」などと書いてあるので、山岸はどうしても念入りの取調べを受けなければならないことになったのです。  警察の取調べに対して、山岸は伊佐子さんとの関係をあくまでも否認したそうです。 「ただ一度、ことしの夏の宵のことでした。わたしが英国大使館前の桜の下を涼みながらに散歩していると、伊佐子さんがあとからついてきて、一緒に話しながら小一時間ほど歩きました。そのときに伊佐子さんが、あなたはなぜ奥さんをお貰いなさらないのだと訊きましたから、幾年かかっても弁護士試験をパスしないような人間のところへ、おそらく嫁にくる者はありますまいと、わたしは笑いながら答えますと、伊佐子さんは押返して、それでも、もし奥さんになりたいという人があったらどうしますと言いますから、果してそういう親切な人があれば喜んで貰いますと答えたように記憶しています。ただそれだけのことで、その後に伊佐子さんからなんにも言われたこともなく、わたしからもなんにも言ったことはありません。」  奥さんもこう申立てたそうです。 「娘が山岸さんを恋しがっているらしいのは、わたくしも薄々察しておりまして、もし出来るものならば、娘の望みどおりにさせてやりたいと願っておりましたが、二人のあいだに何かの関係があったとは思われません。」  ふたりの申口が符合しているのをみると、伊佐子さんは単に山岸の帰郷を悲観して、いわゆる失恋自殺を遂げたものと認めるのほかないことになりました。猫を殺したのも伊佐子さんの仕業で、劇薬の効き目を試すために、わざと鰻に塗りつけて猫に食わせたのであろうと想像されました。猫の死骸を解剖してみると、その毒は伊佐子さんが飲んだものと同一であったそうです。  ただ判りかねるのは、伊佐子さんがなぜあの猫の死を証拠にして、山岸が自分たち親子を毒殺しようと企てたなどと騒ぎ立てたかということですが、それも失恋から来た一種のヒステリーであるといえばそれまでのことで、深く詮議する必要はなかったのかも知れません。  そんなわけで、山岸は無事に警察から還されて、この一件はなんの波瀾をもまき起さずに落着《らくちゃく》しました。ただここに一つ、不思議ともいえばいわれるのは、伊佐子さんの死骸の髪の毛が自然に変色して、いよいよ納棺というときには、老女のような白い髪に変ってしまったことです。おそらく劇薬を飲んだ結果であろうという者もありましたが、通夜の席上で奥さんはこんなことを話しました。 「あの晩、須田さんに別れて家へ帰りますと、伊佐子の姿はみえません。たった今、内へはいった筈だが、どこへ行ったのかと思いながら、茶の間の長火鉢のまえに坐る途端に、表へ自動車の停まるような音がきこえました。誰が来たのかと思っていると、それぎりで表はひっそりしています。はてな、どうも自動車が停まったようだがと、起って出てみると表にはなんにもいないのです。すこし不思議に思って、そこらを見まわしていると、女中があわてて駈け出して来て、大変だ大変だと言いますから、驚いて内へ引っ返すと、伊佐子は山岸さんの部屋のなかに倒れていました。」  ほかの人たちは黙ってその話を聴いていました。山岸もだまっていました。私だけは黙っていられないような気がしたので、その自動車は……と、言おうとして、また躊躇しました。なんにも知らない奥さんの前で、余計なことを言わない方がよかろうと思ったからです。  伊佐子さんの葬儀を終った翌日の夜行列車で、山岸は郷里のF町へ帰ることになったので、わたしは東京駅まで送って行きました。  それは星ひとつ見えない、暗い寒い宵であったことを覚えています。待合室にいるあいだに、かの自動車の一件をそっと話しますと、山岸は唯うなずいていました。そのときに私は訊きました。 「髪の白い女というのは、あなたが試験場へはいった時だけに見えるんですか、そのほかの時にも見えるんですか。」 「堀川の家《うち》へ行ってからは、平生でも時々見えることがあります。」と、山岸は平気で答えました。「今だから言いますが、その女の顔は伊佐子さんにそっくりです。伊佐子さんは死んでから、その髪の毛が白くなったというが、わたしの眼には平生から真っ白に見えていましたよ。」  わたしは思わず身を固くした途端に、発車を知らせるベルの音がきこえました。 底本:「異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二」原書房    1999(平成11)年7月2日第1刷 初出:「文藝倶樂部」    1928(昭和3)年8月 ※「啄《くち》」と「喙《くち》」、「古老」と「故老」の混在は底本の通りとしました。 入力:網迫、土屋隆 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 -------------------------------------------------------------------------------- 鷲 岡本綺堂       一  今もむかしも川崎の大師は廿一日が縁日で、殊に正五九《しようごく》の三月《みつき》は参詣人が多い。江戸から少しく路程《みちのり》は離れているが、足弱《あしよわ》は高輪あたりから駕篭に乗ってゆく。達者な者は早朝から江戸を出て草履《ぞうり》か草鞋草鞋《わらじ》ばきで日帰りの短い旅をする。それやこれやで、汽車や電車の便利のない時代にも、大師詣《もう》での七、ハ分は江戸の信心者であった。  これもその信心者の一人であろう。四十を一つ二つも越えたらしい武家の御新造《ごしんぞ》ふうの女が、ひとりの下男を供につれて大師の門前にさしかかった。文政十一年の秋ももう暮れかかる九月二十一日朝の四つ半頃(午前十一時)で、大師河原の芦の穂綿は青々と晴れた空の下に白く乱れてなびいていた。  この主従は七つ(午前四時)起きをして江戸の屋敷を出て、往きの片道を徒《かち》で歩いて、戻りを駕篭に乗るという世間なみの道中であるらしく、主人の女はもうかなりに疲れたらしい草履の足をひき摺っていた。下男はいわゆる中間《ちゆうげん》で、年のころは二十四、五の見るから逞《たく》ましそうな男ぶりであった。彼は型のごとくに一本の木刀をさして、何かの小さい風呂敷づつみを持って、素足に草鞋をはいていた。 「お疲れでござりましょう。万年屋でひと休み致してまいればよろしゅうござりました。」と、彼は主人をいたわるように言った。 「御参詣も済まないうちに休息などしていては悪い。御参詣を済ませてから、ゆるゆると休みましょう。」  女はわざと疲れた風を見せないようにして、先に立って大師の表門をくぐると、前にもいう通りきょうは九月の縁日にあたるので、江戸や近在の参詣人が群集して、門内の石だたみの道には下り下向の袖と数珠《じゆず》とが摺れ合うほどであった。女も手首に小さい珠数をかけていた。  その人ごみのあいだを抜けて行くうちに、女はふと何物をか見付けたように、下男をみかえってささやいた。 「あれ、あすこにいるのは……。」  言われて、下男も見かえると、石だたみの道から少し離れた桜の大樹の下に、ふたりの女がたたずんで、足もとに餌をひろう鳩の群れをながめていた。下男はそれを見つけて、足早に駈け寄った。 「もし、もし、お島さんのおっかあじゃあねえか。」  下男の声はずいぶん大きかったが、あたりが混雑しているせいか、それとも何か屈託でもあるのか、呶鳴《どな》るような男の声も女ふたりの耳にはひびかないらしかった。下男は焦《じ》れるように又呼んだ。 「これだから田舎者は仕様がねえ。おい、お島のおっかあ、何をぼんやりしているんだな。市ケ谷の御新造さまがお出でになっているんだよ。」  市ケ谷という声におどろかされたように、二人の女は急に顔をあげた。かれらは母と娘であるらしく、母は御新造さまと呼ばれる女よりも二つ三つも年下かと思われる年配で、大森か羽田あたりの漁師の女房とでもいいそうな風俗であった。娘はまだ十六、七で、色こそ浜風に黒ずんでいるが、眉は濃く、眼は大きく、口もとはきっと引締まって、これに文金島田の鬘《かつら》をきせたらば、然るべき武家のお嬢さまの身代り首にもなりそうな、卑しからざる顔容《かおかたち》の持ち主であった。信心参りのためでもあろう、親子ともに小ざっぱりした綿の袷《あわせ》を着て、娘は紅い帯を締めていた。母はやはり珠数を持っていた。 「あれ、まあ。」と、母は初めて気が付いたように、あわてて会釈《えしやく》した。「久助さんでござりましたか。御新造さまも御一緒で……。」  かれはうろたえたように伸びあがって、群集のなかを見まわすと、その御新造も人ごみを抜けて、桜の木の下に近寄った。 「あれ、御新造さま……。」と、母は形をあらためて丁寧に一礼すると、娘もそのうしろからうやうやしく頭を下げた。  「めずらしい所で逢いました。」と、女もなつかしそうに言った。「お前がたも御参詣かえ。」 「はい。」  とは言ったが、母の声はなんだか陰《くも》っているようにも聞かれた。娘もだまって俯向《うつむ》いていた。かれらには何かの屈託があるらしかった。 「角蔵どんはどうした。達者かえ。」と、下男の久助は訊いた。 「はい。おかげさまで無事に稼いでおります。」と、母は答えた。「あなた方はまだ御参詣はお済みになりませんか。」 「これからだ。おめえ達はもう済んだのか。」 「はい。」 「では、ここに少し待っていておくれでないか。わたし達は御参詣を済ませて来ますから。」 と、女は言った。  「はい、はい。どうぞごゆっくりと御参詣遊ばして……。」  親子二人をここに残して、御新造と下男はふたたび石だたみの道を歩んで行った。人に馴れている鳩の群れはいつまでも飛び去らずに、この親子のまえに餌をひろっていた。  この物語をなめらかに進行させる必要上、ここで登場人物四人の身もとを簡単に説明しておく必要がある。御新造と呼ばれる女は、江戸の御鉄砲方《おてつぽうかた》井上左太夫の組下の与力、和田弥太郎の妻のお松で、和田の屋敷は小石川の白山前町《はくさんまえまち》にあった。弥太郎は二百俵取りで、夫婦のあいだにお藤と又次郎という子供を持っているが、長女のお藤はことし二十二歳で、四年前から他家に縁付いているので、わが家にあるのは相続人の又次郎だけである。二百俵取りでは、もとより裕福という身分でもなかったが、和田の家は代々こころがけのいい主人がつづいたので、その勝手元はあまり逼迫《ひつぱく》していなかった。家内は夫婦と忰"、ほかに中間の久助、女中のお島、おみよの六人で、まずは身分相当の生活に不足はなかった。弥太郎は四十六歳、鉄砲を取っては組内でも老巧の達人として知られていた。  こう言うと、まことに申分のないようであるが、その和田の家へこの頃ひとつの苦労が起っていた。それは羽田《はねだ》の鷲撃ちの年番に当ったことである。  羽田の鷲撃ち――毎年の秋から冬にかけて、遠くは奥州、あるいは信州、甲州、近くは武州、相州または向う地の房総の山々から大きい鷲が江戸附近へ舞いあつまって来る。鷲は猛鳥であるから、他の鳥類をつかむのは勿論、時には人間にも害をなすことがある。子供が鷲にさらわれたなどというと、現代の人々は一種の作り話のようにも考えているらしいが、昔に限らず、明治の時代になっても、高山に近い土地では子供が大鷲につかまれたという実例がしばしば伝えられている。まして江戸時代には大鷲が所々を飛行していたらしい。俗に天狗に掴まれたなどというのは、多くは鷲の仕業で奥州岩木山の鷲が薩摩の少年をさらって行ったというような、長距離飛行の記録もある。 そこで、地勢の関係かどうか知らないが、江戸へ飛んでくる鷲の類は、深川洲崎の方面、または大森羽田の方面に多く、おそらく安房上総《あわかずさ》の山々から海を渡って来るのであろうと伝えられていた。たとい人間をつかむという例は比較的に少ないにしても、人家の飼鳥《かいどり》や野生の鳥類をつかみ去ることは珍らしくない。それらの害を払うためと、もう一つには御鷹場あらしを防ぐために、幕府の命令によって鷲撃ちが行なわれることになっていた。  将軍家の例として、毎年の冬から春にかけて鷹狩が催されるのであるが、その鷹場付近に大鷲が徘徊して、種々の野鳥をつかみ去られては、折角の鷹狩の獲物《えもの》を失うばかりか、無事の野鳥も四方へ逃げ散る虞があるので、前以ってかれらを捕獲し、あるいは駆逐するのである。この時代のことであるから鷲撃ちの目的は前者よりもむしろ後者にあって、御鷹場あらしを防ぐということが第一義であったかも知れない。また一説によれば、それによって鉄砲の実地練習を試みるのであるともいう。いずれにしても、秋から冬にかけて、鉄砲方の面々は年々交代で羽田または洲崎の方面に出張し、鷲の飛んで来るのを待ち受けて、強薬《つよぐすり》で撃ち落すのである。  飛行機などのなかった時代の武士にとっては、この鷲撃ちの役目は敵の飛行機を待つと同様で、与力一騎に同心四人が附添い、それがひと組となって、鉄砲はもちろん遠眼鏡をも用意し、昼も夜も油断なく警戒しているのである。その警戒の方法は時代によって多少の相違があったらしいが、ともかくも普通の獣狩《けものがり》とは違って、相手が飛行自在の猛鳥であるから、ぎょうぎようしく立ち騒いで、かれらをおどろかすのは禁物である。かれらが油断して近寄るところを待受けて、ただ一発に撃ち落さなければならない。ついては、その本陣の詰所を土地の庄屋または大百姓の家に置き、当番の組々がひそかにめいめいの撤糠を固めることになっていた。官命とはいいながら、何分にも殺生《せつしよう》の仕事であるから、寺院を詰所に宛てるのを遠慮するのが例であった。  ことしも九月からの鷲撃ちが始められた。和田弥太郎は年番にあたったが、古参であるからまだ出ない。最初の九月は未熟の新参者が勤めることになっているのは、めったに鷲が姿を見せないからである。山々の木の葉がほんとうに落ちはじめて、鷲がいよいよその巣を離れて遠征をこころみる十月の頃になると、古参の腕利きが初めて出張《でば》るのである。  弥太郎も用意して出張《でばり》の日を待っているのであった。       二 「いかに和田でも、羽田の尾白は仕留められまい。――その噂を聞くたびに、わたしは冷々《ひやひや》します。」  お松は溜息まじりで言った。弥太郎の妻のお松と下男の久助は大師堂参詣をすませて、桜の木かげに待たせてある親子ふたりを連れて門前へ出ると、そこには大師詣での客を迎える休み茶屋が軒をならべて往来の人々を呼んでいた。最初は川崎の宿《しゆく》まで出て、万年屋で昼食《ちゆうじき》という予定であったが、思いがけない道連れが出来たので、宿まで戻るまでもなく、お松はかれらを案内して、門前の休み茶屋にはいることにしたのである。  休み茶屋といっても、店をゆき抜けると奥には座敷の設けがあって、ひと通りの昼食を済ませることも出来るようになっていた。久助は家来であり、かつは男であるから、遠慮して縁側に腰をかけていたが、親子ふたりづれの女は勧められるままに怖々《おずおず》と座敷へあがって、やはり縁側に近いところに座を占めていた。  四人は女中が運んで来た茶をのんで、軽い食事を注文した。その食事の膳が持出されるまでに、お松は小声できょうの参詣の事情を話し出したのである。 「尾白の鷲のことは、わたくしも聞いております。」と、娘の母もささやくように言った。「なんでもその鷲は去年も一昨年《おととし》も、羽田の沖からお江戸の方角へ飛んで参りましたそうでございます。そばへ寄って確かに見た者もございませんが、羽をひろげると八尺《しやく》以上はあるだろうという噂で……。それを二度ながら撃ち損じましたのは、まことに残念に存じます。」 「まったく残念だ。」と、久助は横合いから啄《くち》をいれた。「その尾白の奴めが……。いつでも旦那さまの御当番のときには姿を見せねえので困る。なにしろ年数を経た大物だから、並大抵の者にゃあ仕留められる筈がねえ。ことしこそは見付け次第にきっと仕留めてみせると、旦那さまも手ぐすね引いて待っていらっしゃるのだから、まあ大丈夫だろうよ。いや、きっと大丈夫に相違ねえから、おめえ達も安心しているがいいよ。」 「いくらお前が受合っても、相手は空飛ぶ鳥……。」と、お松は再び不安らしい溜息をついた。 「今もいう通り、組内でもいろいろの噂をしているので、もし仕損じるようなことがあったら、人に顔向けも出来ないので……。」  尾白の鷲は上総の山から海を越えて来るともいい、あるいは甲州の方角から来るともいう。いずれにしても、これほどの大きい鳥はかつて見たことがないと、羽田付近の者も不思議がっている位である。おととしは十月の二十日の暮れがたに姿をあらわしたのを、鉄砲方の岩下重兵衛が撃ち損じた。去年は十一月の八日の真昼に姿をあらわしたのを、鉄砲方の深谷源七が撃ち損じた。それから二時ほどの後に、鷲はふたたび海岸近く舞い下がって来たという注進を聞いて、鉄砲方の矢崎伝蔵が直ぐに駈けつけたが、弾《たま》は左の羽を掠めただけで、これも撃ち洩らしてしまった。  ことしの八月十五夜、組頭の屋敷で月見の宴を開いたときに、席上でかの尾白の鷲の噂が出て、おととし撃ち損じた岩下も、去年撃ち損じた深谷と矢崎も、いささか面目をうしなった形で、しきりに残念がっていると、その席に列《つら》なっていた和田弥太郎は、なんと思ったか声を立てて呵々《からから》と笑った。彼はただ笑ったばかりで別になんの説明も加えなかったが、場合が場合であるから、その笑い声は一座の興をさました。  岩下ら三人の未熟を笑ったのか、あるいは我れならばきっと仕留めてみせるという自信の笑いか、いずれその一つとは察せられたが、弥太郎は組内の古参といい、鉄砲にかけても老練の巧者であることを諸人もよく知っているので、さすがに正面から彼を詰問する者もなかったが、その不快が陰口《かげぐち》となって表われた。それは今もお松が言ったように――いかに和田でも、羽田の尾白は仕留められまい。もし仕損じたら笑い返してやれ――。  弥太郎は武士気質《かたぎ》の強い、正直律義《りちぎ》の人物であったが、酒の上がすこしよくないので、酔うと往々に喧嘩口論をする。みんなもその癖を知っているのではあるが、その夜の弥太郎の笑い声はどうも気に食わなかったのである。弥太郎も醒めてから後悔したが、今さら仕様もない。この上は問題の尾白を見つけ次第に、自分の筒先《つつさき》で撃ち留めるよりほかはなかった。自分の腕ならば、おそらく仕損じはあるまいという自信もあった。  しかしその家族らの胸の奥には一種の不安が忍んでいた。かれらは主人の腕前を信じていながらも、それが稀有《けう》の猛鳥であると聞くからは、どんな仕損じがないとはいえない。幸か不幸か、弥太郎は去年もおととしも年番ではなかったので、抜かぬ太刀の功名を誇っていられるが、ことしは年番で出張《でば》って、もし仕損じたという暁《あかつき》には、待ちかまえている人々が手を叩いて笑うであろう。実際、諸人の前で大口をあいて笑った以上、今度は自分が笑われても致し方がないのである。それを思うと、妻のお松も、せがれの又次郎も、家の面目、世間の手前、容易ならぬ大事であるように考えられた。薄々その事情を洩れ聞いている女中のお島もおみよも、同じく落着いてはいられなくなった。取分けてお島は気を痛めて、近所の白山権現へ夜まいりを始めた。  お松の主従が今日この大師堂で出逢ったのは、お島の母と妹である。お島は羽田村の漁師角蔵のむすめで、主人の弥太郎が羽田に出張《でば》る関係から、双方が自然知合いになって、お島は江戸の屋敷へ奉公することになったのである。父は角蔵、母はお豊、妹はお蝶、揃いも揃って正直者であった。その正直者の親子のところへ、江戸屋敷のお島から手紙が来て、ことしの鷲撃ちは旦那さまのお年番で、しかもお身の一大事であるというようなことを内々で知らせてよこしたので、親子三人もおどろいた。  さりとて、かれらの力でどうなる事でもないので、この上は神仏の力を頼むよりほかはない。母のお豊と妹のお蝶が連れだって、日ごろ信仰する川崎大師へ参詣に出て来たのも、それがためであった。お松と久助が遠い江戸からここへ参詣に来たのも、やはりそれがためであった。同じ縁日に、おなじ願いごとで参詣に来た親子と主従とがここで出逢ったのは、偶然に似て偶然でもなかった。  こうして落ち合って、話し合っていると、お松に溜息の出るのも無理はなかった。お豊はもう涙ぐんでいた。そうして、あたりを見まわしながら小声でこんなことを言い出した。 「今も久助さんの仰しゃる通り、旦那さまのお腕前では万に一つもお仕損じはないこととは存じますが……。それでも何かのはずみで、もしもの事でもございましたら、旦那さまは……。」  言いかけて、お豊は声を立てて泣き出した。娘のお島の手紙によると、もしその尾白に出逢って仕損じるようなことがあれば、旦那さまはふだんの御気性として、あるいは御切腹でもなさるかも知れないというのである。御新造さまの前で、まさかにそれを言い出すわけにもいかなかったが、その不安が胸を衝《つ》いて来て、お豊はとうとう泣き出したのである。お豊に泣かれてはお松の眼もうるんだ。お蝶もすすり泣きを始めた。  切腹――その不安は言わず語らずのあいだに、すべての人の魂をおびやかしているのである。そのなかで、唯ひとり冷やかに構えているのは久助で、彼は気の弱い女たちを歯がゆそうに眺めながら、しずかに煙草をのんでいたが、もう堪まらなくなったように笑い出した。 「おい、おい。おっかあや妹は何を泣くんだ。ことしは内の旦那さまがあの尾白を一発で撃ち落して、組じゅうの奴等に鼻を明かしてやるんだ。おっかあ、おめえ達もその時にゃ赤の飯《まんま》"でも炊いて祝いねえ。鯛は商売物だから、世話はねえ。」  主人の弥太郎は笑うまじき所で笑った為に、こうした不安の種を播《ま》いたのである。主《しゆう》を見習うわけでもあるまいが、その家来の彼もまた笑うまじき場合にげらげら笑っているのである。人のいいお豊も少しく腹立たしくなったらしく、眼をふきながら向き直った。「わたしらはなんにも判らない人間ですから、こういう時には人一倍に心配いたします。そうして、お前さんは旦那さまのお供をしなさるのかえ。」 「知れたことさ。」と、久助はまた笑った。「おっかあ、おめえは浅草の観音さまヘ行ったことがあるかえ。」  いよいよ馬鹿にされているような気がするので、お豊もあざ笑った。 「なんぼ私らのような田舎者でも、浅草の観音さまぐらいは知っていますのさ。」 「そんなら観音堂の額《がく》を見たろう。あのなかに源三位《げんさんみ》頼政の鵺《ぬえ》退治がある。頼政が鵺を射て落すと、家来の猪早太《いのはやた》が刀をぬいて刺し透すのだ。な、判ったか。旦那さまが頼政で、この久助が猪早太という役廻りだ。鷲撃ちの時にゃあ、おれもこんな犬おどしの木刀を差しちゃあ行かねえ。本身の脇指をぶっ込んで出かけるんだから、そう思ってくれ。あははははは。」  彼はそり返って又笑った。       三  十月朔日《ついたち》の明け六つに、和田弥太郎は身支度して白山前町の屋敷を出た。息子の又次郎と下男の久助もそのあとについて行った。又次郎はことし二十歳《はたち》であるが、父の弥太郎が立派にお役を勤めているので、彼は今もまだ無役の部屋住《ず》みである。しかも又次郎にかぎらず、たとい部屋住みでも十五歳以上の者は見習いとして、その父や兄に随行することを黙許されていた。  見習いというのであるから、役向きの人々の働きを見物しているだけで、自分が鉄砲を撃ち放すことを許されないのである。殊にその時代の鉄砲は頗る高価で、一挺十五両乃至《ないし》二十両というのであるから、いかに鉄砲組でも当主は格別、部屋住みの者などは本鉄砲を持っていないのが例であった。又次郎は幸いにその鉄砲を持っていたので、菰《こも》づつみにして携えて行くことにした。  きょうは朔日でもあり、殊に今年は鷲撃ちの年番にあたって出張るのである。いわば戦場へ出陣の朝も同様であるので、和田の屋敷では赤の飯を炊いて、主人の膳には頭《かしら》つきの魚が添えてあった。旧暦の十月であるから、この頃の朝は寒い。ゆうべは木枯しが吹きつづけたので、けさの庭には霜が白かった。  又次郎も身支度をして部屋を出ると、女中のお島が忍ぶように近寄って来た。 「若旦那さま、どうぞお気をお付け遊ばして……。」 「むむ。留守をたのむぞ。」  お島はまだ何か言いたいらしかった。又次郎もすこし躊躇していると、それを叱るような父の声が玄関からきこえた。 「又次郎。なにをしている。早く来い。」 「唯今……。」と、又次郎は若い女中を押しのけるようにして玄関ヘ出てゆくと、父はもう草鞋を穿いていた。  木枯しは暁《あ》け方から止んでいたが、針を含んでいるような朝の空気は身にしみて、又次郎は一種の武者ぶるいを感じた。どんな覚悟を持っているか知らないが、弥太郎は始終冷静の態度で、口もとには軽い笑みを含んでいるようにも見えた。それにもまして、久助は勇んでいた。 彼はあたかも主人の功名《こうみよう》を予覚しているように、大事のお鉄砲を肩にして大股に歩いて行った。お松もお島もおみよも門前まで出て見送った。  羽田村の百姓富右衛門の家が鉄砲方の詰所になっているので、弥太郎はまずそこに草鞋をぬいで、先月以来ここに詰めている先番の人々に挨拶した。 「うけたまわれば、鳥は一向に姿を見せぬそうでござるが……。」 「当年は時候があたたかいせいか、九月中は一羽も姿を見ませんでした。しかし二、三日このかた、急に冬らしくなって参りましたから、おいおいに寄って来ることと思われます。」と、先番の人々は答えた。  そのなかには弥太郎の仕損じを笑ってやろうと待ちかまえている者もあることを、又次郎も久助も知っていた。ここで一応の挨拶を終って、弥太郎は自分の座敷へ案内された。新参の若い与力や同心らは広い座敷にごたごたと合宿しているが、弥太郎は特に離れ座敷へ通されたのである。以前は当主の父の隠居所で、今は空家《あきや》になっているのを、鷲撃ちの時節には手入れや掃除をして、出張る役人に寝泊りさせるのを例としていた。  弥太郎は先年もこの隠居所に通されたことがあるので、家内の勝手をよく心得ていた。東南へ廻り縁になっているハ畳の座敷のほかに、六畳と三畳の二間が付いているので、座敷には弥太郎、六畳には又次郎、三畳には久助、皆それぞれの塒《ねぐら》を定めて、弥太郎の鉄砲は床《とこ》の間《ま》に飾った。又次郎の鉄砲は戸棚にしまいこんだ。それらが片付いて、まずひと息つくと、どこやらで鉄砲の音がきこえた。 「あ。」と、又次郎と久助は同時に叫んだ。 「見て来い。」と、弥太郎は奥から声をかけた。  久助はすぐに駈けだして母屋《おもや》へ行ったが、やがて引っ返してきて、一羽の鷲のすがたが沖の空に遠くみえたので、持場の者が筒を向けた。しかもあまりに急いで、弾《たま》の届くところまで近寄らないうちに火蓋を切ったので、鳥はそのまま飛び去ってしまった。ただしそれは尾白などというものではなく、鷹に少し大きいくらいの仔鷲《こわし》であったと報告した。 「未熟者はとかくに慌ててならぬ。戦場でもそうだが、敵を手もとまで引寄せて撃つ工夫が肝腎だぞ。」と、弥太郎はわが子に教えた。  その夜はまた木枯しが吹き出して、海の音がかなりに強かったので、又次郎はおちおち眠られなかった。あくる朝は晴れているので、又次郎はまず起きた。つづいて久助、弥太郎も起きた。あさ飯を食って、身を固めて、三人が草鞋の緒を結んでいるところへ、母屋から作男が何者をか案内してきた。 「旦那さま方にお目にかかりたいと申して参りましたが……。」 「誰が来た。」と、久助は訊いた。 「浜におります漁師の角蔵でござります。」 「むむ、角蔵か。」 「女房と二人づれで参りました。」  なんと返事をしたものかと、久助は無言で主人の顔色を窺うと、弥太郎は頭《かぷり》をふった。 「今は御用の出先だ。逢ってはいられない。又次郎、おまえが逢ってやれ。」  言いすてて弥太郎は陣笠をかぶって、すたすたと表へ出かかると、大きい椿のかげから四十五、六の小作りの男が赭黒い顔を出して、小腰をかがめながら丁寧に一礼した。そのあとに続くのはかのお豊で、これもうやうやしく頭をさげた。それを見返って、弥太郎はただひと言いった。 「みんな達者でいいな。」 「おめえ達は若旦那と話して行きねえ。」と、久助は言った。「旦那さまはこれからお出かけだ。」  挨拶はそれだけで、主従はそのまま足早に出て行った。弥太郎は遠眼鏡を持っていた。久助は鉄砲をかついでいた。そのうしろ姿を見送って、お豊の夫婦はさらに作男にも挨拶して、恐る恐るに座敷の縁先へ廻ってゆくと、それを待つように又次郎は縁に腰をかけていた。 「やあ、角蔵か。ひさし振りだな。お豊も来たか。」と、又次郎は笑いながら声をかけた。「さあ、遠慮はいらない。これへ掛けろ。」 「はい、はい。恐れいります。」  一応の辞儀をした上で、角蔵は少しく離れた縁のはしに腰をおろした。お豊はそのそばに立っていた。 「ゆうべは強い風だったな。江戸もこの頃は風が多いが、こっちもなかなか強い風が吹く。ここらは海にむかっているので、江戸よりは暖かそうに思われるが、けさなどは随分寒い。」と、又次郎は晴れた空をあおぎながら言った。 「昨年よりもお寒いようでございます。」と、角蔵も言った。「なにしろ木枯しとかいうのが毎日吹きますので……。」 「むむ。先年来たときよりも寒いようだ。このあいだはお母さまと久助が川崎でお豊に逢ったそうだな。」 「はい、はい。丁度に御新造さまにお目にかかりまして、いろいろ御馳走さまになりました。」  と、お豊はいかにも有難そうに答えた。  ゆうべの木枯しの名残りがまだ幾らか吹き続けているが、東向きの縁先には朝日の光りが流れ込んで、庭の冬木立ちに小鳥のさえずる声がきこえた。夫婦は顔を見合せて、何か言いたいような風情《ふぜいでまた躊躇していたが、やがて思い切ったように角蔵が言いだした。 「若旦那さまの前でこんなことを申上げましては……まことに恐れ入りますが……。実は先日、このお豊が川崎の大師さまへ御参詣をいたしまして、お神※[※]《みくじ》をいただきましたところが……凶と出まして……。お蝶も同じように凶と出ましたので……。」  主人の身の上を案じて、日ごろ信仰する大師さまのお神※[※]を頂いたところが、母にも娘にも凶というお告げがあったので、自分たちはひどく心配している。御新造さまも御心配の最中であるから、先日はそれをお耳にいれるのを遠慮したが、なにぶんにも気にかかってならないので、あなたにまで内々で申上げるというのである。年の若い侍は勿論それに耳を仮《か》さなかったが、元来が物やさしい生れの又次郎は、頭からそれを蹴散らそうともしなかった。彼はまじめにうなずいてみせた。 「いや、親切にありがとう。お父さまは勿論、わたしたちも随分気をつけることにしよう。」 「どうぞくれぐれもお気をおつけ遊ばして……。」  主人思いの角蔵夫婦もこの上には何とも言いようがなかった。又次郎もほかに返事のしようがなかった。それから続いて鷲撃ちの話が出て、ことしは九月以来、鷲が一羽も姿を見せなかったこと、ゆうべ初めて一羽の仔鷲を見つけたが、鉄砲方が不馴れのために撃ち損じたこと、それらを夫婦が代るがわるに話したが、いずれもすでに承知のことばかりで、特に又次郎は興味をそそるような新しい報告もなかった。  長居をしては悪いという遠慮から、夫婦はいいほどに話を打切って帰り支度にかかった。 「いずれ又うかがいます。旦那さまにもよろしく……。」 「むむ。逗留中は又来てくれ。」  たがいに挨拶して別れようとする時に、表はにわかに騒がしくなった。ここの家の者共も皆ばらばらと表へかけ出した。 「鷲だ、鷲だ、鷲が三羽来た……。」と、口々に叫んだ。 「なに、鷲が三羽……。」  又次郎もにわかに緊張した心持になって、角蔵夫婦もそのあとに続いた。空をあおぎながら表へ駈け出した。       四  表へ出ると、そこにもここにも土地の者、往来の者がたたずんで、青々と晴れ渡った海の空をながめていた。鉄砲方の者も奔走していた。  この混雑のなかを駈けぬけて、又次郎はまず海端《うみばた》の方角へ急いで行くと、途中で久助に逢った。 「どうした、鷲は……。」 「いけねえ。いけません。三羽ながらみんな逃げてしまいました。」 「また逃がしたのか。」と、又次郎は思わず歯を噛んだ。「して、お父さまは……。」 「さあ。わたくしも探しているので……。確かにこっちの方だと思ったが……。」  彼もよほど亢奮しているらしい。眼の前に立っている若旦那を置き去りにして、そのままどこへか駈けて行ってしまった。取残された又次郎は右へ行こうか、左にしようかと、立ち停まって少しく思案していると、路ばたの大きい欅《けやき》のかげから一人の若い女があらわれた。  ここらは田や畑で、右にも左にも人家はなかった。櫻の下には古い石地蔵が立っていて、その前には新しい線香の煙りが寒い朝風にうず巻いていた。若い女はこの地蔵へ参詣にでも来たのであろうと、又次郎はろくろくにその姿も見極めもせずに、ともかくも最初の考え通りに海端の方角へ急いで行こうとすると、若い女は声をかけた。 「もし、あなたは若旦那さまじゃあございませんか。あの、お江戸の和田さまの……。」  言う顔を見て、又次郎は思い出した。女は角蔵の娘-自分の屋敷に奉公しているお島の妹のお蝶であった。又次郎は父の供をして、先年もこの羽田へ来たことがあるので、お蝶の顔を見おぼえていた。 「お蝶か。お前の親父もおふくろも、たった今わたしの宿へたずねてきた。」 「そうでございましたか。」  ここまではひと通りの挨拶であったが、彼女《かれ》はたちまちに血相《けつそう》をかえて飛び付くように近寄って来て、主人の若旦那の左の腕をつかんだ。その大きい眼は火のように爛々《らんらん》と輝いていた。 「あなたのお父さまはわたしのかたきです。」 「かたき……。」  又次郎は烟《けむ》にまかれたようにその顔をながめていると、お蝶の声はいよいよ鋭くなった。 「わたしの親はあなたのお父さまに殺されるのです。」 「おまえの親……。角蔵夫婦じゃあないか。」 「いいえ、違います。今のふた親は仮りの親です。わたしの親はほかにあります。どうぞその親を殺さないで下さい。殺せばきっと崇《たた》ります。執り殺します。」 「角蔵夫婦は仮りの親か。」と、又次郎は不思議そうに訊き返した。「して、ほんとうの親はだれだ。」  お蝶は無言で又次郎の顔をみあげた。その大きい眼はいよいよ燃えかがやいて、ただの人間の眼とは見えないので、又次郎は言い知れない一種の恐怖を感じた。しかも彼は武士である。まさかにこの若い女におびやかされて、不覚をとるほどの臆病者でもなかった。 「おまえは乱心しているな。」  又次郎でなくとも、この場合、まずこう判断するのが正当であろう。こう言いながら、彼は掴まれた腕を振払おうとすると、お蝶の手は容易に放れなかった。その指先は猛鳥の爪のように、又次郎の腕の皮肉に鋭く食い入っているので、彼はまたぎょっとした。 「わたしの親を助けてください。」と、お蝶は又言った。 「その親はどこにいるのだ。」  お蝶は掴んでいた手を放して、海とは反対の空を指さした。それを見ているうちに、又次郎はふと考えた。かれの指さす空は武州か甲州の方角である。前にもいう通り、その眼はただの人間の眼ではない、鷲か鷹のごとき猛鳥の眼である。その上に、わたしの親はあなたのお父さまに殺されるという。それらを綜合して考えると、お蝶の親は鷲であるというような意味にもなる。――こう考えて、又次郎はまた思いなおした。世にそんな奇怪なことのあろう筈がない。お蝶は確かに角蔵夫婦の子で、お島の妹である。武州や甲州の山奥から飛んでくる鷲の子――それが人間の形となって自分の前に立っているなどということは、昔の小説や作り話にもめったにあるまい。  自分が夢をみているのか、お蝶が乱心しているのか、二つに一つのほかはない。勿論、後者であると又次郎は判断した。乱心ならば不憫な者である。なんとかなだめて親たちに引渡してやるのが、自分として採るべき道であろうと思ったので、彼はにわかに声をやわらげた。 「わかった、判った。おまえの親はあの方角から来るのだな。よし、判った。わたしからお父さまに頼んで、きっと殺さないようにしてやる。安心していろ。」 「きっと頼んでくれますか。」 「むむ、頼んでやる。して、おまえの親の名はなんというのだ。」 「世間では尾白といいます。」 「尾白……。」と、又次郎は再びぎょっとした。  それが男親であるか女親であるかを問いただそうかと思ったが、なんだか薄気味悪いのでやめた。その一刹那である。お蝶はにわかに何物にか驚かされたように、その燃えるような眼をいよいよ嶮《けわ》しくしたかと思うと、鳥のように身をひるがえして元の大樹のかげに隠れた。又次郎もそれに驚かされて見かえると、自分のうしろから父の弥太郎が足早に来かかった。弥太郎は鉄砲を持っていた。 「お父さま。」 「お前もここらに来ていたのか。」と、弥太郎は不興らしく言った。 「久助の話では三羽ともに取り逃がしたそうで……。」 「みんな逃げてしまった。」と、父は罵るように言った。「ゆうべに懲《こ》りて、けさはなるたけ近寄せようとしていると、土地の者どもが鷲が来た、鷲が来たと騒ぎ立てる。それに驚かされて、みんな引っ返してしまったのだ。我れわれは御用で来ているのに、係合いのない土地の奴らに面白半分に騒ぎ立てられては甚だ迷惑だ。村方一同には厳重に触れ渡して、今後は御用の邪魔をしないように、きっと言い聞かして置かなければならない。」 「鳥は大きいのですか。」と、又次郎は探るように訊いた。 「いや、みんな小さい。ゆうべのも仔鷲であったそうだが、けさのもみんな仔鷲だ。親鳥はまだ出て来ないとみえる。」  親鷲は来ないと聞いて、又次郎は安心したようにも感じた。 「お前もおぼえておけ。この頃の木枯しは海から吹くのではない、山から吹きおろして来るのだ。こういう風が幾日も吹きつづくと、その風に乗って武州甲州信州の山奥から大きい鳥が出て来る。安房上総は山が浅いから、向う地から海を渡ってくるのは親鳥にしてもみんな小さい。ほんとうの大きい鳥は海とは反対の方角から来るのだ。」  弥太郎は向き直って、西北の空を指さした。その指の先があたかもお蝶の教えた方角にあたるので、又次郎はまたなんだか嫌な心持になった。父はほほえんだ。 「けさの三羽を撃ち損じたのは残念だが、あんな小さな奴はまあどうでもいい。たとい仕留めたところで、たいした手柄にもならないのだ。」  おれは大鳥の尾白を撃つという意味が、言葉の裏に含まれているらしく思われるので、又次郎はいよいよ暗い心持になった。 「もう五つ(午前八時)だろうな。」 「そうでございましよう。」 「むむ。」と、弥太郎は再び空をみあげた。「あいつらもなかなか用心深いから、日が高くなっては姿をみせないものだ。大抵は朝か夕方に出て来るのだから、きょうもまず昼間は休みだ。おれはこれから庄屋の家へ寄って、御用の邪魔をしないように言い聞かせてくる。年々のことだから判り切っているはずだのに、どうも困ったものだ。」 「では、ここでお別れ申します。」 「まあ、宿へ帰って休息していろ。今も言う通り、どうせ昼のうちは休みだ。」  弥太郎は陣笠の緒を締めなおして、わが子に別れて立去った。又次郎はほっとした。平素から厳格な父ではあるが、けさは取分けてその前に立っているのが窮屈のような、怖ろしいような心持で、久しく向い合っているのに堪えられなかったのである。  父のうしろ姿の遠くなるのを見送って、又次郎は欅の大樹のかげを窺うと、そこにはもうお蝶の影はみえなかった。地蔵の前に線香も寒そうな灰になっていた。       五  お蝶は乱心しているのであると、又次郎は帰る途中でも考えた。和田の屋敷の近所に魚住良英という医者が住んでいる。本草学《ほんぞうがく》以外に蘭学をも研究しているので、医者というよりもむしろ学者として知られていて、毎月一度の講義の会には、医者でない者も聴きに行く。又次郎も友達に誘われて、その門を五、六回もくぐったことがあった。そのあいだに、良英はある日こんなことを話した。 「世にいう狐懸《つ》きのたぐいは、みな一種の乱心者である。狐は人に憑くものだとふだんから信じているから、乱心した場合に自分には狐が憑いているなどと口走るのである。したがって、乱心者のいうことも周囲の影響を受ける場合がしばしばある。たとえば、あるところで大蛇が殺されたとする。その大蛇はおそらく崇るであろうと考えていると、そのときにあたかも乱心した者は、おれは大蛇であるとか、おれには大蛇が乗り移っているとかいうようなことを口走る。そこで、周囲の者もそれを信じ、それを恐れて、大蛇を神に祭るなどということも出来《しゆつたい》するのである。」  又次郎は今その講義を思い出した。お蝶もそれと同様で、かれはこの頃にわかに乱心した。それがあたかも鷲撃ちの時節にあたって、周囲の者がしきりに鷲の噂をしている。一昨年以来撃ち洩らしている尾白の大鷲の噂も出たかも知れない。あれほどの大鷲は和田さんでなければ仕留められまいなどと言った者もあるかも知れない。ことにお蝶の姉は和田の屋敷に奉公している関係から、その両親はことしの鷲撃ちについて非常に心配している。どうぞ旦那さまに手柄をさせたいとか、尾白の鷲を旦那さまに撃たせたいとか、かれらは毎日言い暮らしているかも知れない。現に先月もそれがために、お蝶は母と共に川崎大師へ参詣したくらいである。その時のおみくじに凶が出たとかいうことも、お蝶に何かの刺戟をあたえたかも知れない。  こう考えると、別に不思議はない。お蝶がたとい何事を口走ろうとも、しょせんは周囲の影響をうけた結果に過ぎないのである。自分は臆病者でないと信じていながら、一時はなんとなく薄気味悪いようにも感じさせられたのは、われながら余りにも愚かであったと、又次郎は声をあげて笑いたくなった。 「それにしても、お蝶は可哀そうだ。」  世に乱心者ほど不幸な人間はあるまい。ましてそれが自分の屋敷の奉公人-今では単なる奉公人ではない関係になっているーお島の妹である。それを思うと、又次郎はふたたび暗い心持になった。彼はむやみに笑ってはいられなくなった。お蝶が乱心していることを、その両親の角蔵やお豊が知っているのであろうか。知っているならば、迂闊《うかつ》にひとり歩きをさせる筈もあるまい。あるいは両親がわたし達の宿へ挨拶にきた留守のあいだに抜け出したのか。 「なにしろ、たずねてみよう。」  お蝶が乱心者と決まった以上、いずれにしても相当の注意をあたえて置く必要があると思ったので、又次郎は草鞋の爪先《つまさき》をかえて、海ばたの漁師町ヘむかった。けさから一旦衰えかかった木枯しがまたはげしく吹きおろしてきて、馬の鬣髪《たてがみ》のような白い浪が青空の下に大きく跳《おど》り狂っていた。尾白の大鷲はこの風に乗って来るのではあるまいかと、又次郎はあるきながら幾たびか空を仰いだ。 「角蔵はいるか。」  表から声をかけると、粗朶《そだ》の垣のなかで何か張り物をしていたお豊は振りむいた。 「あれ、いらっしゃいまし。」  迎い入れられて、又次郎は竹縁に腰をおろした。 「風がすこし凪《な》いだので、角蔵は沖へ出ましたが、また吹出したようでございます。」と、お豊は言った。「いえ、もう、冬の海商売は半休みも同様でございます。」 「お蝶はどうした。」 「さっきお宿へ出ました留守のあいだに、どこへか出まして帰りません。」  果たして案《あん》の通りであると、又次郎は思った。 「お蝶はこのごろ達者かな。」と、彼はそれとなく探りを入れた。 「はい。おかげさまで達者でございます。」 「別に変ったこともないか。」 「はい。」  母はなんにも知らないらしいので、又次郎は困った。知らぬが仏とは、まったくこの事である。その仏のような母にむかって、おまえの娘は乱心していると明らさまに言い聞かせるのは、余り残酷のような気がしてきたので、彼はすこしく言いしぶった。お豊にたずねられるままに、彼は江戸の噂などをして、結局肝腎の問題には触れないで立ち帰ることになった。 「角蔵にもし用がなかったら、今夜たずねてくるように言ってくれ、少し話して置きたいことがあるから。」と、又次郎は立ちぎわに言った。 「かしこまりました。」 「忙がしいところを、邪魔をしたな。」  出て行こうとする又次郎を追いかけて、お豊はささやいた。 「さっきも申上げました通り、大師さまのおみくじには凶というお告げがございましたから……。どなたにもお気をお付け遊ばして……。」  おみくじに偽《いつわ》りがなくば、ひとの事よりわが身のことである。おまえは自分のむすめが乱心しているのを知らないかと、又次郎は口の先まで出かかったが、やはり躊躇した。彼はただうなずいて別れた。  老巧の弥太郎のいう通り、さすがの荒鷲も青天の白昼には余りに姿を見せないで、多くは早暁か夕暮れに飛んでくる。殊に雁《がん》や鴉《からす》とはちがって、いかにそれが江戸時代であっても、仮りにも鷲と名のつくほどのものが毎日ぞろぞろと繋《つな》がって来る筈がない。けさ三羽の仔鷲が相前後して飛んできたのは、一季に一度ぐらいの異例といってよい。それを撃ち洩らした以上、この後は三日目に一羽来るか、七日目に一羽来るか、あるいは十日も半月もまったく姿をみせないか、ほとんど予測しがたいのである。そうなると、ゆうべと今朝の失敗がいよいよ悔やまれるのであるが、多年の経験によって弥太郎は若侍らを励ますように言い聞かせた。 「ゆうべも一羽来た。けさは三羽来た。そういうふうにかれらが続けて来る年は、その後も続けて来るものだ。何かの事情で、かれらの棲んでいる深山に食物が著るしく欠乏した為に、二羽も三羽もつながって出て来たのであるから、まだ後からも続いて来るに相違ない。決して油断するな。ことしは案外獲物が多いかも知れないぞ。」  人々も成程とうなずいた。しかもその日は一羽の影を見ることもなくて暮れた。角蔵が来るかと又次郎は待っていたが、彼も姿をみせなかった。娘が乱心のことを女親のまえでは何分にも言い出しにくいので、父を呼んでひそかに言い聞かせようと待ち受けていたのであるが、角蔵はついに来なかった。  その後五日のあいだは毎日強い風が吹きつづけたが、荒鷲は風に乗って来なかった。ことしは獲物が多いという弥太郎の予言も、なんだか当てにならないようにも思われてきた。又次郎は久助を遣わして、角蔵一家の様子を窺わせると、角蔵はあの日に沖へ出て、寒い風に吹かれたせいか、夕方から大熱を発してその後はどっと寝付いている。お蝶は別に変ったこともなく、母と一緒に病人の介抱をしているという。角蔵の来ない子細はそれで判ったが、お蝶に変ったことのないというのが、少しく又次郎の腑に落ちなかった。  それから又三日を過ぎて、きょうは十月十一日である。二日以来、鷲はおろか、雁の影さえも砥々に見えないので、人々の緊張した気分もだんだんにゆるんできた。弥太郎の予言はいよいよ当てにならなくなって、蔭では何かの悪口をいう者さえ現われた。 「畜生。今にみろ。」と、主おもいの久助はひそかに憤慨していた。  このあいだから毎日吹きつづけた木枯しも、きのうの夕方から忘れたようにやんで、きょうは朝からうららかな小春日和《びより》になった。その日の夕方には、宿の主人から酒肴の饗応があった。 「どなた様も日々のお勤め御苦労に存じます。お骨休めに一杯召上がって下さいまし。」  一定の食膳以外に、酒肴の饗応にあずかっては相成らぬという捉《おきて》にはなっているが、詰所にあてられている宿許《やどもと》から折りおりの饗応を受けるのは、ほとんど年々の例になっているので、誰も怪しむ者もなかった。かような心配にあずかっては却って迷惑であるという一応の挨拶をした上で、めいめいに膳にむかった。もちろん、出役《しゆつやく》の武士ばかりではない。その家来も見習いの子弟もみな同様の饗応を受けるのであるから、中間どものなかには最初からそれを書き入れにしているのもあった。  又次郎も父とともに広い座敷へ出て、一同とならんで席についた。元来はあまり飲めぬ口であるが、今夜はめずらしく盃をかさねたので、次第に酔いが発してきた。彼は中途から座をはずして、人に覚《さと》られないように庭先へ出ると、十一日の月は物凄いほどに冴えていた。風がないせいか、今夜はさのみに寒くなかった。  御馳走酒に酔ったせいでもあるまいが、又次郎は近ごろに覚えないほどのいい心持になった。彼は暖かいような、薄ら眠いような、なんともいえない心持で、庭の冬木立ちのあいだをくぐりぬけて、ふらふらと表門の外へ出ると、月はいよいよ明るかった。まだ五つ(午後八時)を過ぎたくらいであろうと思われるのに、ここらは深夜のようにしずまって、田畑のあいだに遠く点在する人家の灯もみな消えている。  又次郎はどこをあてともなしに、明るい往来をさまよい歩いていたが、ふと気がつくと、自分のうしろから忍び足につけてくるような足音がきこえた。振り返ってみると、それは若い女であった。月が冴え渡っているので、女の顔はよくわかった。それはお蝶の姉のお島であった。  江戸の屋敷にいるはずのお島がどうしてここらを歩いているのか。それを考える隙《ひま》もなしに又次郎は引っ返して女のそばへ寄った。 「お島……。どうして来た。」  彼はなつかしそうに声をかけたが、お島はだまっていた。しかもその白い顔は正面から月のひかりを受けているので眉目明瞭、うたがいもない江戸屋敷のお島であった。 「むむ、わかった。」と、又次郎はうなずいた。「おやじの病気見舞にきたのか。」  お島はうなずいた。 「そうか。親孝行だな。江戸を出てから、まだ十日《とおか》ばかりだが、このごろはおまえが恋しくなって、ゆうべもお前の夢をみた。いや、嘘じゃあない。今夜も酒に酔って、いい心持になってここらをぶらついていると、急に江戸が恋しくなって……。お前が恋しくなって……。そこへ丁度にお前が来て……。いや、いや、こりゃあ油断ができない。こいつ、狐じゃあないか。おれが酔っていると思って馬鹿にするな。」  彼はよろけながら腰の脇指に手をかけたが、さすがに思い切って抜こうともしなかった。 「おい、焦《じ》らさないで正直に言ってくれ。おまえは狐で、おれを化かすのか。それとも本当のお島か。」 「島でございます。」 「お島か。」 「はい。」 「それで安心した。宿へ帰っては親父が面倒だ。おまえの家《うち》には病人がある。お前は土地の生れだから、いいところを知っているだろう。どこへでも連れて行ってくれ。」  若い男と女とは肩をならべて、冬の月の下をあるき出した。       六 「あ。」 和田弥太郎は持っている箸をおいて、天井をにらむように見上げた。  詰所の饗応の酒宴ももう終って、酒の盃を飯の茶碗にかえた時である。弥太郎が不意に声を出したので、一座の人々も同時に箸をおいた。 「あ、あれ。」と、弥太郎は熱心に耳をかたむけた。「あれは……。風の音でない。大きい鳥の羽搏《はばたき》の音だ。」  とは言ったが、どの人の耳にも鳥の羽音らしいものは聞えなかった。 「ほんとうに聞えますか。」と、ひとりが訊いた。 「むむ、きこえる。たしかに鳥の羽音だ。よほど大きい。」  彼は衝《つ》と起って、母屋から自分の離れ座敷へもどった。そうして、大きい声で久助を呼んだ。呼ばれて久助は駈けてきたが、彼はもう酔っていた。 「な、なんでございます。」 「鷲の羽音がきこえる。支度をしろ。」  主従二人は直ぐに身支度をして表へ駈けだした。こうなると、他の人々も落着いてはいられなくなった。いずれも半信半疑ながら、思い思いに身支度をした。中にはみ豪をくくって、着のみ着のままでひやかし半分に駈けだすのもあった。  出て見ると、それは弥太郎の空耳ではなかった。昼のように明るい冬の月がこうこうと高くかかって、碧落《へきらく》千里の果てまでも見渡されるかと思われる大空の西の方から、一つの黒い影がだんだんに近づいてきた。それは鳥である。鷲である。あの高い空の上を翔《かけ》りながら、あれほどの大きさに見えるからは、よほどの大鳥でなければならない。 「旦那さま。尾白でしょうか。」と、久助は勇んだ。 「まだ判らない。騒ぐな。静かにしろ。」  弥太郎は鉄砲を取直した。久助は固唾《かたず》をのんだ。鳥は次第に舞い下がってきて、静かな夜の空に一種の魔風を起すような大きい羽音は、だれの耳にも、もうはっきりと聞えるようになった。いかに明るいといっても、月のひかりだけでは果たして尾白であるかどうかは判らなかったが、それが稀有の大鳥であることは疑いもなかった。 「旦那さま……。」と、久助は待ちかねるように小声で呼んだ。 「また騒ぐ。待て、待て。」  物に慣れている弥太郎は、鳥の影がもう着弾距離に入ったと見ても、まだ容易に火蓋《ひぷた》を切らなかった。鳥は我れをうかがう二つの人影が地上に映っているのを知るや知らずや、人きい翼《つばさ》に嬬という音を立てて、弥太郎らのあたまの上を斜めに飛んでゆくのを、二人もつづいて追って行った。弥太郎がまだ火蓋を切らないのは、鳥がどこへか降り立つと見ているからであった。  果たして鳥の影はいよいよ低く大きくなって、欅《けやき》の大樹へ舞いさがろうとした。そのとたんに弥太郎の火蓋は切られた。鳥は一旦撃ち落されたように地に倒れたが、翼を激しく働かせて再び飛び立とうとするので、弥太郎はつづけて又撃った。それにもかかわらず、鳥は舞いあがった。そうして、風のような早さで大空高く飛び去った。 「ああ。」と、久助は思わず失望の声を洩らした。  鳥の影はまだ見えていながら、もう着弾距離の外にあることを知っている弥太郎は、いたずらに空を睨んでいるばかりであった。  この時、あなたの欅の大樹――あたかもかの大鷲の落ちた木かげで、奇怪な女の笑い声がきこえた。 「はは、かたきは殺された。ははははは。」 「なに、かたきが殺された……。久助、見て来い。」  久助は駈けて行ったが、やがて顔色をかえて戻って来た。彼は吃《ども》って、満足に口がきけなかった。 「旦那さま……。若旦那が……。」 「又次郎がどうした。」 「は、はやくお出でください。」  欅の大樹の前には石地蔵が倒れていた。大樹のかげには又次郎が倒れていた。そのそばに笑って立っているのは、お島の妹のお蝶であった。  第一発の弾で鷲の落ちたのは、弥太郎も久助も確かに認めた。第二発のゆくえは……。その問いに答えるべく、又次郎の死骸がそこに横たわっているのであった。弥太郎は無言でその死骸をながめていた。久助は泣き出した。お蝶はまた笑った。その笑い声の消えると共に、彼女《かれ》はばたりと地に倒れた。  おくれ馳せにかけつけた人々は、この意外の光景におどろかされた。どの人も酔いがさめてしまった。  又次郎は急病ということにして、その死骸を駕籠に乗せて、あくる朝のまだ明けきらないうちに江戸へ送った。駕籠の脇には久助が力なげに付添って行った。彼が大師の茶屋で広言を吐いた頼政の鵺退治も、こんな悲しい結果に終ったのである。お蝶の死骸はもちろんその両親のもとへ送られたが、身うちには何の疵《きず》の跡もないので、どうして死んだのか判らなかった。  そのなかでも特に不審を懐いているのは、かの久助であった。又次郎がどうして櫻のかげに忍んでいたのか、又そのそばにお蝶がどうして笑っていたのか。二人のあいだにどういう関係があるのか。彼は江戸から引っ返して来て、その詮議のために角蔵の家をたずねると、彼はおいおいに快方にむかって、床の上でもう起き直っていた。かれら夫婦は自分の娘の死を悲しむよりも、若旦那の死を深く悼《いた》んでいた。  久助の詮議に対して、角蔵はこんな秘密をあかした。今から十六年前の秋、彼は甲州の親類をたずねて帰る途中、笹子峠の麓の小さい宿屋に泊ると、となりの部屋に三十前後の上品な尼僧がおなじく泊り合せていた。尼僧は旅すがたで、当歳《とうさい》かと思われる赤児を抱いていた。その話によると、かれが信州と甲州の境の山中を通りかかると、どこかで赤児の泣く声がきこえる。不思議に思って見まわすと、年古る樟《くす》の大樹に鷲の巣があって、その巣のなかに赤児が泣いているのであった。あたかもそこへ来かかった木樵《きこり》にたのんで、赤児を木の上から取りおろしてもらって、ともかくもここまで抱いてきたが、長い旅をする尼僧の身で、乳飲み子をたずさえていては甚だ難儀である。なんとかしてお前の手で養育してくれまいかと、かれは角蔵に頼んだ。  その赤児は尼僧の私生児であろうと、角蔵は推量した。鷲の巣から救い出して来たなどというのは拵えごとで、尼僧が自分の私生児の処分に困って、その貰い手を探しているのであろうと推量したので、彼は気の毒にも思い、また一方には慾心を起して、もし相当の養育料をくれるならば引取ってもいいと答えると、尼僧は小判一両を出して渡した。角蔵はその金と赤児とを受取って別れた。その尼僧は何者であるか、それから何処へ行ったか、その消息はいっさい不明であった。  角蔵夫婦にはお島という娘がある。赤児も女であるので、その妹として養育した。甲州の親類からよんどころなく引取ってきたと世間には披露して、その名をお蝶と呼ばせていた。同情が半分、慾心が半分で貰ってきた子ではあるが、元来が正直者の角蔵は、わが子とおなじようにお蝶を可愛がって育てた。お蝶はもちろんその秘密を知らないので、夫婦を真実の親として慕っていた。 「今までは尼さんの作り話だと一途に思いつめていましたが、こうなるとお蝶が鷲の巣にいたというのも本当で、お蝶と鷲とのあいだに何かの因縁があるのかも知れません。」と、角蔵は不思議そうに言った。 「お蝶は乱心しているらしいと、若旦那さまは言っていたが……。そんな因縁付きの娘だということは、誰も知らなかった。」と、久助は言った。「なにしろ若旦那がこんなことになったので、お島さんも気ちがいのようになって泣いていたよ。」  若旦那とお島との秘密、それは角蔵夫婦も知らないのであった。  又次郎の変死は宿の者どもにも堅く口留めをして置いたのであったが、いつか世間に洩れきこえて狭い村じゅうの噂にのぼったので、父の弥太郎もおなじく病気と披露して江戸へ帰ることになった。  江戸へ帰って五日目に、弥太郎もまた急病死去という届け出でがあった。相続人の又次郎は父よりも先に死んでいるのみならず、別に急養子を迎えにくい事情もあるので、和田の家は断絶した。  弥太郎が撃ち洩らした鳥は、果たして尾白であったかどうだか判らなかったが、ともかくもその一季ちゅうに尾白の姿を認めた者はなかった。記録によると、その翌年、すなわち文政十二年の冬に、尾白の大鷲は鉄砲方の与力《よりき》池田貞五郎に撃ち留められたとある。                            昭和七年七月作「婦人公論」 底本:岡本綺堂読物選集5巻異妖編下巻 青蛙房 昭和四四年六月二〇日 入力:網迫=和井府清十郎 -------------------------------------------------------------------------------- 兜《かぶと》 岡本 綺堂       一  わたしはこれから邦原君の話を紹介したい。邦原君は東京の山の手に住んでいて、大正十二年の震災に居宅と家財全部を焼かれたのであるが、家に伝わっていた古い兜が不思議に唯ひとつ助かった。  それも邦原君自身や家族の者が取出したのではない。その一家はほとんど着のみ着のままで目白の方面へ避難したのであるが、なんでも九月なかばの雨の日に、ひとりの女がその避難先へたずねて来て、震災の当夜、お宅の門前にこんな物が落ちていましたからお届け申しますと言って、かの兜を置いて帰った。そのときあたかも邦原君らは不在であったので、避難先の家人はなんの気もつかずにそれを受取って、彼女の姓名をも聞き洩らしたというのである。何分にもあの混雑の際であるから、それもよんどころないことであるが、彼女は一体何者で、どうして邦原君の避難さきまでわざわざ届けに来てくれたのか、それらの事情は一切わからなかった。  いずれその内には判るだろうと、邦原君も深く気にも留めずにいたのであるが、その届け主《ぬし》は今に至るまでわからない。焼け跡の区画整理は片付いて邦原君一家は旧宅地へ立ち戻って来たので、知人や出入りの者などについて心あたりを一々聞きただしてみたが、誰も届けた者はないという。そこで更に考えられることは、平生ならともあれ、あの大混乱の最中に身元不明のかの女が、たとい邦原家の門前に落ちていたとしても、その兜をすぐに邦原家の品物と認めたというのが少しく不審である。第一、邦原家の一族は前にもいう通り、ほとんど着のみ着のままで立ち退いたのであるから、兜などを門前まで持出した覚えはないというのである。そうなると、その事情がいよいよ判らなくなる。まさかにその兜が口をきいて、おれを邦原家の避難先へ連れて行けと言ったわけでもあるまい。蘇鉄が妙国寺へ行こうといい、安宅丸が伊豆へ行こうといった昔話を、今さら引合いに出すわけにもゆくまい。  甚だよくない想像であるが、門前に落ちている筈のないかの兜が、果たして門前に落ちていたとすれば、当夜のどさくさに紛れて何者かが家の内から持出したものではないかと思われる。一旦持出しては見たものの兜などはどうにもなりそうもないので、何か他の金目のありそうな物だけを抱え去って、重い兜はそのまま門前に捨てて行ったのではあるまいか。それを彼女が拾って来てくれたのであろう。盗んだ本人がわざわざと届けに来るはずもあるまいから、それを盗んだ者と、それを届けてくれた者とは、別人でなければならない。盗んだ者を今さら詮議する必要もないが、届けてくれた者だけは、それが何人《なんぴと》であるかを知って置きたいような気がしてならない、と邦原君は言っている。 以下は邦原君の談話を紹介するのであるから、その兜について心あたりのある人は邦原君のところまで知らせてやってもらいたい。それによって、彼は今後その兜に対する取扱い方をすこしく変更することになるかも知れないのである。  まずその兜が邦原家に伝わった由来を語らなければならない。文久二年といえば、今から六十余年のむかしである。江戸の末期であるから、世の中はひどく騒々しい。将軍家のお膝元という江戸も頗る物騒で、押し込みの強盗や辻斬りが毎晩のように続く。その八月の十二日の宵である。この年は八月に閏があったそうで、ここにいう八月は閨の方であるから、平年ならばもう九月という時節で、朝晩はめっきりと冷えて来た。その冷たい夜露を踏んで、ひとりの男が湯島の切通しをぬけて、本郷の大通りヘ出て、かの加州の屋敷の門前にさしかかった。  前にもいう通り、今夜は八月十二日で、月のひかりは冴え渡っているので、その男の姿はあざやかに照らし出された。かれは単衣《ひとえ》の尻を端折った町人ていの男で、大きい風呂敷包みを抱えている。それだけならば別に不思議もないのであるが、彼はその頭に鉄の兜をいただいていた。兜には錣《しころ》も付いていた。たといそれが町人でなくても、単衣をきて兜をかぶった姿などというものは、虫ぼしの時か何かでなくてはちょっと見られない図であろう。そういう異形《いぎよう》の男が加州の屋敷の門前を足早に通り過ぎて、やがて追分に近づこうとするときに、どこから出て来たのか知らないが、不意につかつかと駆け寄って、うしろからその兜の天辺《てつぺん》へ斬りつけた者があった。 男はあっ[※「あっ」に傍点]と驚いたが、もう振り返ってみる余裕もないので、半分は夢中で半町あまりも逃げ延びて、路ばたの小さい屋敷へかけ込んだ。その屋敷は邦原家で、そのころ祖父の勘十郎は隠居して、父の勘次郎が家督を相続していたが、まだ若年《じやくねん》で去年ようよう番入りをしたばかりであるから、屋敷内のことはやはり祖父が支配していたのである。小身ではあるが、屋敷には中間《ちゆうげん》二人を召使っている。兜をかぶった男は、大きい銀杏《いちよう》の木を目あてに、その屋敷の門前へかけて来たが、夜はもう五つ(午後八時)を過ぎているので、門は締め切ってある。その門をむやみに叩いて、中間のひとりが明けてやるのを待ちかねたように、彼は息を切ってころげ込んで来て、中の口――すなわち内玄関の格子さきでぶっ倒れてしまった。  兜をかぶっているので、誰だかよく判らない。他の中間も出てきて、まずその兜を取ってみると、彼はこの屋敷へも出入りをする金兵衛という道具屋であった。金兵衛は白山前町《はくさんまえまち》に店を持っていて、道具屋といっても主《おも》に鎧兜や刀剣、槍、弓の武具を取扱っているので、邦原家へも出入りをしている。年は四十前後で、頗るのんきな面白い男であるので、さのみ近しく出入りをするという程でもないが、屋敷内の人々によく識られているので、今夜彼があわただしく駈け込んで来たについて、人々もおどろいて騒いだ。 「金兵衛。どうした。」 「やられました。」と、金兵衛は倒れたままで捻った。「あたまの天辺から割られました。」 「喧嘩か、辻斬りか。」と、ひとりの中間が訊いた。 「辻斬りです、辻斬りです。もういけません。水をください。」と、金兵衛はまた捻った。 水をのませて介抱して、だんだん検《あらた》めてみると、彼は今にも死にそうなことを言っているが、その頭は勿論、からだの内にも別に疵《きず》らしい跡は見いだされなかった。どこからも血などの流れている様子はなかった。 「おい、金兵衛。しっかりしろ。おまえは狐にでも化かされたのじゃあねえか。」と、中間らは笑い出した。 「いいえ、斬られました。確かに切られたんです。」と、金兵衛は自分の頭をおさえながら言った。「兜の天辺から梨子割りにされたんです。」 「馬鹿をいえ。おまえの頭はどうもなっていないじゃあねえか。」  押し問答の末に、更にその兜をあらためると、成程その天辺に薄い太刀疵のあとが残っているらしいが、鉢その物がよほど堅固に出来ていたのか、あるいは斬った者の腕が鈍《にぶ》かったのか、いずれにしても兜の鉢を撃ち割ることが出来ないで、金兵衛のあたまは無事であったという事がわかった。 「まったく一太刀でざくりとやられたものと思っていました。」と、金兵衛はほっとしたように言った。その口ぶりや顔付きがおかしいので、人々は又笑った。  それが奥にもきこえて、隠居の勘十郎も、主人の勘次郎も出て来た。  金兵衛はその日、下谷|御成道《おなりみち》の同商売の店から他の古道具類と一緒にかの兜を買取って来たのである。その店はあまり武具を扱わないので、兜は邪魔物のように店の隅に押込んであったのを、金兵衛がふと見付け出して、元値同様に引取ったが、他にもいろいろの荷物があって、その持ち抱えが不便であるので、彼は兜をかぶることにして、月の明るい夜道をたどって来ると、図らずもかの災難に出逢ったのであった。最初から辻斬りのつもりで通行の人を待っていたのか、あるいは一時の出来ごころか、いずれにしても彼が兜をかぶっていたのが禍いのもとで、斬る方からいえば兜の天辺から真っ二つに斬ってみたいという注文であったらしい。いくら夜道でも兜などをかぶってあるくから、そんな目にも逢うのだと、勘十郎は笑いながら叱った。  それでも彼は武士である。一面には金兵衛のばかばかしさを笑いながらも、勘十郎はその兜を見たくなった。斬った者の腕前は知らないが、ともかくも鉢の天辺から撃ちおろして、兜にも人にも恙《つつが》ないという以上、それは相当の胃師の作でなければならないと思ったので、勘十郎は金兵衛を内へ呼び入れて、燈火《あかり》の下でその兜をあらためた。  刀剣については相当の鑑定眼を持っている彼も、兜についてはなんにも判らなかったが、それが可なりに古い物で、鉢の雛えも決して悪くないということだけは容易に判断された。世のありさまが穏やかでなくなって、いずかたでも武具の用意や手入れに忙がしい時節であるので、勘十郎はその兜を買いたいと言い出すと、金兵衛は一も二もなく承知した。 「どうぞお買いください。これをかぶっていた為にあぶなく真っ二つにされるところでした。こんな縁喜の悪いものは早く手放してしまいとうございます。」  その代金は追って受取ることにして、彼はその兜を置いて帰った。       二  兜の価《あたい》は幾らであったか、それは別に伝わっていないが、その以来、兜は邦原家の床の間に飾られることになって、下谷の古道具屋の店にころがっているよりは少しく出世したのである。或る人に鑑定してもらうと、それは何代目かの明珍《みようちん》の作であろうというので、勘十郎は思いもよらない掘出し物をしたのを喜んだという話であるから、おそらく捨値同様に値切り倒して買入れたのであろう。  それはまずそれとして、その明くる朝、本郷の追分に近い路ばたに、ひとりの侍が腹を切って死んでいるのを発見した。年のころは三十五六で、見苦しからぬ扮装《いでたち》の人物であったが、どこの何者であるか、その身許を知り得《う》るような手がかりはなかった。その噂を聞いて、金兵衛は邦原家の中間らにささやいた。 「その侍はきっとわたしを斬った奴ですよ。場所がちょうど同じところだから、わたしを斬ったあとで自分も切腹したんでしょう。」 「お前のような唐茄子頭を二つや三つ斬ったところで、なにも切腹するにゃ及ぶめえ。」と、中間らは笑った。  金兵衛はしきりにその侍であることを主張していたが、彼もその相手の人相や風俗を見届けてはいないのであるから、しょせんは水かけ論に終るのほかはなかった。しかし彼の主張がまんざら根拠のないことでもないという証拠の一つとして、その侍の刀の刃がよほど零《こぼ》れていたという噂が伝えられた。彼は相手の兜を斬り得ないで、却って自分の刀の傷ついたのを恥じ悔んで、いさぎよくその場で自殺したのであろうと、金兵衛は主張するのであった。  どういう身分の人か知らないが、辻斬りでもするほどの男がまさかにそれだけのことで自殺しようとは思われないので、万一それが金兵衛の兜を斬った侍であったとしても、その自殺には他の事情がひそんでいなければならないと認められたが、その身許は結局不明に終ったということであった。  いずれにしても、それは邦原家に取って何のかかり合いもない出来事であったが、その兜について更に新しい出来事が起った。  それからふた月ほどを過ぎた十月のなかばに、兜が突然に紛失したのである。それは小春日和のうららかに晴れた日の午《ひる》すぎで、当主の勘次郎は出番の日に当っているので朝から留守であった。隠居の勘十郎も牛込辺の親類をたずねて行って留守であった。兜はそのあいだに紛失したのであるから、隠居と主人の留守を窺って、何者かが盗み出したのは明白であったが、座敷の縁側にも人の足跡らしいものなどは残されていなかった。ほかにはなんにも紛失ものはなかった。賊は白昼大胆に武家屋敷の座敷へ忍び込んで、床の間に飾ってある兜ひとつを盗み出したのである。その当時の邦原家は隠居とその妻のお国と、当主の勘次郎との三人で、勘次郎はまだ独身であった。ほかには中間二人と下女ひとりで、中間らはいずれも主人の供をして出ていたのであるから、家に残っているのはお国と下女だけで、かれらは台所で何か立ち働いていた為に、座敷の方にそんなことの起っているのを、ちっとも知らなかったというのである。  盗んだ者については、なんの手がかりもない。しいて疑えば、日ごろ邦原家へ出入りをして、その兜を見せられた者の一人が、羨ましさの余り、欲しさの余りに悪心を起したものかとも想像されないことはないので、あれかこれかと数えてゆくと、その嫌疑者が二、三人ぐらいは無いでもなかったが、別に取り留めた証拠もないのに、武士に対して盗人のうたがいなどを懸けるわけにはゆかない。邦原家では自分の不注意とあきらめて、何かの証拠を見いだすまでは泣き寝入りにして置くのほかはなかった。 「どうも普通の賊ではない。」と、勘十郎は言った。  床の間には箱入りの刀剣類も置いてあったのに、賊はそれらに眼をかけず、択《よ》りに択って古びた兜ひとつを抱え出したのを見ると、最初から兜を狙って来たものであろう。まさかにかの金兵衛が取返しに来たのでもあるまい。賊はこの屋敷に出入りする侍の一人に相違ないと、勘十郎は鑑定した。勘次郎もおなじ意見であった。  それにつけても、かの兜の出所をよく取ただして置く必要があると思ったので、邦原家では金兵衛をよび寄せて詮議すると、金兵衛もその紛失に驚いていた。実は自分もその出所を知っていないのであるから、早速下谷の道具屋へ行って聞き合せて来るといって帰ったが、その翌日の夕方に再び来て、次のようなことを報告した。 「けさ下谷へ行って聞きますと、あの兜はことしの五月、なんでも雨のびしょびしょ降る夕方に、二十七八の女が売りに来たんだそうです。わたしの店では武具を扱わないから、ほかの店へ持って行ってくれと一旦は断わったそうですが、幾らでもいいから引取ってくれと頻りに頼むので、こっちも気の毒になってとうとう買い込むことになったのだということです。その女は屋敷者らしい上品な人でしたが、身なりは余りよくない方で、破れた番傘をさしていて、九つか十歳《とお》ぐらいの女の子を連れていたそうで、まあ見たところでは浪人者か小身の御家人の御新造でもあろうかという風体《ふうてい》で、左の眼の下に小さい痣《あざ》があったそうです。」  それだけのことでは、その売り主についてもなんの手がかりを見いだすことも出来なかった。まあいい。そのうちには何か知れることもあるだろうと、邦原家でももう諦めてしまった。そうして、またふた月あまりも過ぎると、十二月の末の寒い日である。ゆうべから吹きつづく空っ風に鼻先を赤くしながら、あの金兵衛がまた駈け込んで来た。 「御隠居さま、一大事でございます。」  茶の間の縁側に出て、鉢植えの梅をいじくっていた勘十郎は、内へ引っ返して火鉢の前に坐った。 「ひどく慌てているな。例の兜のゆくえでも知れたのか。」 「知れました。」と、金兵衛は息をはずませながら答えた。「どうも驚きました。まったく驚きました。あの兜には何か崇っているんですな。」 「崇っている……。」 「わたくしと同商売の善吉という奴が、ゆうべ下谷の坂本の通りでやられました。」と、金兵衛は顔をしかめながら話した。「善吉は下谷金杉に小さい店を持っているんですが、それが坂本二丁目の往来で斬られたんです。こいつはわたくしと違って、うしろ袈裟にばっさりやられてしまいました。」 「死んだのか。」と、勘十郎も顔をしかめた。 「死にました。なにしろ倒れているのを往来の者が見付けたんですから、どうして殺されたのか判りませんが、時節柄のことですからやっぱり辻斬りでしょう。ふだんから正直な奴でしたが、可哀そうなことをしましたよ。それはまあ災難としても、ここに不思議な事というのは、その善吉も兜をかかえて死んでいたんです。」 「おまえはその兜を見たか。」 「たしかに例の兜です。」と、金兵衛は一種の恐怖にとらわれているようにささやいた。「同商売ですから、わたくしも取りあえず悔みに行って、その兜というのを見せられて実にぎょっとしました。死人に口無しですから、一体その兜をどこから手に入れて、引っかかえて来たのか判らないというんですが、わたくしといい、善吉といい、その兜を持っている者が続いてやられるというのは、どうも不思議じゃあありませんか。考えてみると、わたくしなぞは運がよかったんですね。兜をかぶっていたのが仕合せで、善吉のように引っかかえていたら、やっぱり真っ二つにされてしまったかも知れないところでした。」  それが兜の崇りと言い得るかどうかは疑問であるが、ともかくも邦原家から盗み出されたかの兜がどこかを転々して善吉の手に渡って、それを持ち帰る途中で彼も何者にか斬られたというのは事実である。但しその兜を奪い取る目的で彼を殺したものならば、兜が彼の手に残っているはずはない。その兜と辻斬りとは別になんの係合いもないことで、単に偶然のまわり合せに過ぎないらしく思われるので、勘十郎はその理屈を説明して聞かせたが、金兵衛はまだほんとうに呑み込めないらしかった。その兜には何かの崇りがあって、それを持っている者はみな何かの禍いを受けるのであろうと、彼はあくまでも主張していた。 「それでは、最初お前にその兜を売った御成道の道具屋はどうした。」と、勘十郎はなじるように訊いた。 「それが今になると思い当ることがあるんです。御成道の道具屋の女房はこの七月に霍乱《かくらん》で死にました。」 「それは暑さに中《あた》ったのだろう。」 「暑さにあたって死ぬというのが、やっぱり何かの崇りですよ。」  金兵衛はなんでもそれを兜の崇りに故事《こじ》つけようとしているのであるが、勘十郎はさすがに大小を差している人間だけに、むやみに崇りとか因縁とかいうような奇怪な事実を信じる気にもなれなかった。 「そこで旦那。どうなさいます。その兜を又お引取りになりますか。むこうでは売るに相違ありませんが……。」と、金兵衛は訊いた。 「さあ。」と、勘十郎もかんがえていた。「まあ、よそうよ。」 「わたくしもそう思っていました。あんな兜はもうお引取りにならない方が無事でございますよ。第一、それを持って来る途中で、わたくしが又どんな目に逢うか判りませんからね。」  言うだけのことをいって、彼は早々に帰った。        三  下谷の坂本通りで善吉を斬ったのは何者であるか、このごろ流行る辻斬りであろうというだけのことで、遂にその手がかりを獲《え》ずに終った。主人をうしなった善吉の家族は、店をたたんで何処へか立退いてしまったので、兜のゆくえも判らなかった。おそらく他の諸道具と一緒に売払われたのであろうと、金兵衛は言っていた。  それから四年目の慶応二年に、隠居の勘十郎は世を去って、相続人の勘次郎が名実ともに邦原家の主人《あるじ》となった。かれはお町という妻を迎えて、慶応三年にはお峰という長女を生んだ。それが現代の邦原君の姉である。  その翌年は慶応四年すなわち明治元年で、勘次郎は二十三歳の春をむかえた。この春から夏へかけて、江戸に何事が起ったかは、改めて説明するまでもあるまい。勘次郎は老いたる母と若い妻と幼い娘とを知己《しるべ》のかたにあずけて、自分は上野の彰義隊に馳せ加わった。  五月十五日の午後、勘次郎は落武者の一人として、降りしきる五月雨のなかを根岸のかたへ急いでゆくと、下谷から根岸方面の人々は軍《いくさ》の難を逃がれようとして、思い思いに家財を取りまとめて立退いた後であるから、路ばたにはいろいろの物が落ち散っていて、さながら火事場のようである。そのあいだを踏みわけて、勘次郎はともかくも箕輪の方角へ落ちて行こうとすると、急ぐがままに何物にかつまずいて、危うく倒れかかった。踏みとまって見ると、それは一つの兜であった。しかも見おぼえのある兜であった。かれはそれを拾い取って小脇にかかえた。  持っている物でさえも、なるべくは打捨てて身軽になろうとする今の場合に、重い兜を拾ってどうする気であったか。後日《ごにち》になって考えると、彼自身にもその時の心持はよく判らないとの事であったが、勘次郎は唯なんとなく懐かしいように思って、その兜を拾いあげたのである。そうして、その邪魔物を大事そうに引っかかえて又走り出した。 箕輪のあたりまで落ちのびて、彼は又かんがえた。雨が降っているものの、夏の日はまだなかなか暮れない。千住の宿《しゆく》はおそらく官軍が屯《たむ》ろしているであろう。その警戒の眼をくぐり抜けるには、暗くなるのを待たなければならない。さりとて、往来にさまよっていては人目に立つと思ったので、彼は円通寺に近い一軒の茅葺《かやぷ》き家根をみつけて駈け込んだ。 「彰義隊の者だ。日の暮れるまで隠してくれ。」  この場合、忌《いや》といえばどんな乱暴をされるか判らないのと、ここらの者はみな彰義隊に同情を寄せているのとで、どこの家でも彰義隊の落武者を拒むものは無かった。ここの家でもこころよく承知して、勘次郎を庭口から奥へ案内した。百姓家とも付かず、店屋《てんや》とも付かない家《うち》で、表には腰高《こしだか》の障子をしめてあった。ここらの事であるから相当に広い庭を取って、若葉の茂っている下に池なども掘ってあった。しかしかなりに古い家で、家内は六畳二間しかないらしく、勘次郎は草鮭《わらじ》をぬいで、奥の六畳ヘ通されると、十六、七の娘が茶を持って来てくれた。その母らしい三十四、五の女も出て来て挨拶《あいさつ》した。身なりはよくないが、二人ともに上品な人柄であった。 「失礼ながらおひもじくはございませんか。」と、女は訊いた。  朝からのたたかいで勘次郎は腹がすいているので、その言うがままに飯を食わせてもらうことになった。 「ここの家《うち》に男はいないのか。」と、勘次郎は膳に向いながら訊いた。 「はい。娘と二人ぎりでございます。」と、女はつつましやかに答えた。その眼の下に小さい癒《あざ》のあるのを、勘次郎は初めて見た。 「なんの商売をしている。」 「ひと仕事などを致しております。」  飯を食うと、朝からの疲れが出て、勘次郎は思わずうとうとと眠ってしまった。やがて眼がさめると、日はもう暮れ切って、池の蛙《かわず》が騒々しく鳴いていた。 「もうよい時分だ。そろそろ出掛けよう。」  起きて身支度をすると、いつの間に用意してくれたのか、蓑笠のほかに新しい草鞋までも取揃えてあった。腰弁当の握り飯もこしらえてあった。勘次郎はその親切をよろこんで懐ろから一枚の小判を出した。 「これは少しだが、世話になった礼だ。受取ってくれ。」 「いえ、そんな御心配では恐れ入ります。」と、女はかたく辞退した。「いろいろ失礼なことを申上げるようでございますが、旦那さまはこれから御遠方へいらっしゃるのですから、一枚の小判でもお大切でございます。どうぞこれはお納めなすって下さいまし。」 「いや、そのほかにも多少の用意はあるから、心配しないで取ってくれ。」  彼は無理にその金を押付けようとすると、女はすこしく詞《ことば》をあらためて言った。 「それでは甚だ勝手がましゅうございますが、お金の代りにおねだり申したい物がございますが……。」 「大小は格別、そのほかの物ならばなんでも望め。」 「あのお兜をいただきたいのでございます。」  言われて、勘次郎は気がついた。彼は拾って来たかの兜を縁側に置いたままで、今まで忘れていたのであった。 「ああ、あれか。あれは途中で拾って来たのだ。」 「どこでお拾いなさいました。」 「根岸の路ばたに落ちていたのだ。どういう料簡で拾って来たのか、自分にもわからない。」  かれは正直にこう言ったが、落武者の身で拾い物をして来たなどとあっては、いかにも卑しい浅ましい料簡のように思われて、この親子にさげすまれるのも残念であると、彼はまた正直にその理由を説明した。 「その兜は一度わたしの家にあった物だ。それがどうしてか往来に落ちていたので、つい拾って来たのだが、あんなものを持ち歩いていられるものではない。欲しければ置いて行くぞ。」 「ありがとうございます。」  兜は兜、金は金であるから、ぜひ受取ってくれと、勘次郎はかの小判を押付けたが、親子はどうしても受取らないので、彼はとうとうその金を自分のふところに納めて出た。出るときにも親子はいろいろの世話をしてくれて、暗い表まで送って来て別れた。  上野の四方を取りまいた官軍は、三河島の口だけをあけて置いたので、彰義隊の大部分はその方面から落ちのびたが、三河島へゆくことを知らなかった者は、出口出口をふさがれて再び江戸へ引っ返すのほかはなかった。勘次郎も逃げ路をうしなって、さらに小塚原から浅草の方へ引っ返した。それからさらに本所へまわって、自分の菩提寺《ぼだいじ》にかくれた。その以後のことはこの物語に必要はない。かれは無事に明治時代の人となって、最初は小学校の教師を勤め、さらに或る会社に転じて晩年は相当の地位に昇った。  彼がまだ小学校に勤めている当時、箕輪の円通寺に参詣した。その寺に彰義隊の戦死者を葬ってあるのは、誰も知ることである。そのついでにかの親子をたずねて、先年の礼を述べようと思って、いささかの手土産をたずさえてゆくと、その家はもう空家になっているので、近所について聞合せると、その家にはお道おかねという親子が久しく住んでいたが、上野の戦いの翌年の夏、ふたりは奥の六畳の間で咽喉《のど》を突いて自殺した。勿論その子細はわからない。古びた机の上に兜をかざって線香をそなえ、ふたりはその前に死んでいたのである。  その話を聞かされて、勘次郎はぎょっとした。そうして、その兜はどうしたかと訊くと、かれらの家には別にこれぞという親類もないので、近所の者がその家財を売って葬式をすませた。兜もそのときに古道具屋に売り払われてしまったとの事であった。かれらの墓もやはり円通寺にあるので、勘次郎は彰義隊の墓と共に拝んで帰った。その以来、彼は彰義隊の墓へまいるときには、かならずかの親子の小さい墓へも香花《こうげ》をそなえるのを例としていた。  憲法発布の明治二十二年には、勘次郎ももう四十四歳になっていた。その当時かれは築地に住んでいたので、夏の宵に銀座通りを散歩すると、夜みせの古道具屋で一つの古い兜を発見した。彼は言い値でその兜を買って帰った。あまりにいろいろの因縁がからんでいるので、彼はそれを見すごすに忍びないような気がしたからであった。  かれはその兜を形見として明治の末年に世を去った。相続者たる邦原君もその来歴を知っているので、そのままに保存して置いたのである。勿論、その兜が邦原家に復帰して以来、別に変ったこともなかった。道具屋の金兵衛は明治以後どうしているか判らなかった。 ところが、先年の震災にあたって、前にいったような、やや不思議な事件が出来《しゆつたい》したのである。何者がその兜を邦原家の門前まで持出したか、また何者がそれを邦原君の避難先まで届けたか、それらの事情が判明すれば、別に不思議でもなんでもないことかも知れない。ああそうかと笑って済むことかも知れない。しかもその兜の歴史にはいろいろの因縁話が伴っているので、邦原君もなんだか気がかりのようでもあると言っている。したがってそれを届けてくれた女に逢わなかったのを甚だ残念がっているが、それを受取ったのは避難先の若い女中で、その話によると、かの女は三十四五の上品な人柄で、あの際のことであるから余り綺麗でもない白地の浴衣を着て、破れかかった番傘をさしていたというのであった。  もう一つ、かの女の特徴ともいうべきは、左の眼の下に小さい痣のあることで、女中は確かにそれを認めたというのである。邦原君の父が箕輪で宿をかりた家の母らしい女も、左の眼の下に小さい痣があった。しかしその女はもう五十年前に自殺してしまった筈で、たとい生きていたとしても非常の老人になっていなければならない。それとも一種の遺伝で、この兜に因縁のあるものは皆その眼の下に痣を持っているのかも知れない。  その以来、邦原君の細君はなんだか気味が悪いというので、その兜を自宅に置くことを嫌っているが、さりとてむざむざ手放すにも忍びないので、邦原君は今もそのままに保存している。そうして、往来をあるく時にも、電車に乗っている時にも、左の眼の下に小さい痣を持つ女に注意しているが、その後まだ一度もそれらしい女にめぐり逢わないそうである。 「万一かれが五十年前の人であるならば、僕は一生たずねても再び逢えないかも知れない。」  邦原君もこの頃はこんな怪談じみた事を言い出すようになった。どうかその届け主を早く見付け出して、彼の迷いをさましてやりたいものである。                           昭和三年七月作「週刊朝日」 底本:岡本綺堂読物選集5巻異妖編下巻 青蛙房 昭和四四年六月二〇日 入力:網迫=和井府清十郎 公開:2005年9月13日 -------------------------------------------------------------------------------- 鰻に呪われた男 岡本綺堂       一 「わたくしはこの温泉へ三十七年つづけて参ります。いろいろの都合で宿は二度ほど換えましたが、ともかくも毎年かならず一度はまいります。この宿へは震災前から十四年ほど続けて来ております。」  痩形で上品な田宮夫人はつつましやかに話し出した。田宮夫人がこの温泉宿の長い馴染客であることは、私もかねて知っていた。実は夫人の甥にあたる某大学生が日頃わたしの家へ出入りしている関係上、Uの温泉場では××屋という宿が閑静で、客あつかいも親切であるということを聞かされて、私も不図《ふと》ここヘ来る気になったのである。 来て見ると、私からは別に頼んだわけでもなかったが、その学生から前もって私の来ることを通知してあったとみえて、××屋では初対面のわたしを案外に丁寧に取扱って、奥まった二階の座敷へ案内してくれた。川の音がすこしお邪魔になるかも知れませんが、騒ぐようなお客さまはこちらへはご案内いたしませんから、お静かでございますと、番頭は言った。 「はい、田宮の奥さんには長いこと御贔屓《ごひいき》になっております。一年に二、三回、かならず一回はかかさずにお出でになります。まことにお静かな、よいお方で……。」と、番頭はさらに話して聞かせた。  どこの温泉場へ行っても、川の音は大抵付き物である。それさえ嫌わなければ、この座敷は番頭のいう通り、たしかに閑静であるに相違ないと私は思った。時は五月のはじめで、川をへだてた向う岸の山々は青葉に埋められていた。東京ではさほどにも思わない馬酔木の若葉の紅く美しいのが、わたしの目を喜ばせた。山の裾には胡蝶花《しゃが》が一面に咲きみだれて、その名のごとく胡蝶のむらがっているようにも見えた。川では蛙の声もきこえた。六月になると、河鹿《かじか》も啼くとのことであった。  私はここに三週間ほどを静かに愉快に送ったが、そういつまで遊んでもいられないので、二、三日の後には引揚げようかと思って、そろそろ帰り支度に取りかかっているところへ、田宮夫人が来た。夫人はいつも下座敷の奥へ通されることになっているそうで、二階のわたしとは縁の遠いところに荷物を持ち込んだ。  しかし私がここに滞在していることは、甥からも聞き、宿の番頭からも聞いたとみえて、着いて間もなく私の座敷へも挨拶にきた。男と女とはいいながら、どちらも老人同士であるから、さのみ遠慮するにも及ばないと思ったので、わたしもその座敷へ答礼に行って、二十分ほど話して帰った。  わたしが明日はいよいよ帰るという前日の夕方に、田宮夫人は再びわたしの座敷へ挨拶に来た。 「あすはお発ちになりますそうで……。」  それを口切りに、夫人は暫く話していた。入梅はまだ半月以上も間があるというのに、ここらの山の町はしめっぽい空気に閉じこめられて、昼でも山の色が陰《くも》ってみえるので、このごろの夏の日が秋のように早く暮れかかった。  田宮夫人はことし五十六七歳で、二十歳《はたち》の春に一度結婚したが、なにかの事情のために間もなくその夫に引きわかれて、その以来三十余年を独身で暮らしている。わたしの家へ出入りする学生は夫人の妹の次男で、ゆくゆくは田宮家の相続人となって、伯母の夫人を母と呼ぶことになるらしい。その学生がかつてこんなことを話した。 「伯母は結婚後一週間目とかに、夫が行くえ不明になってしまったのだそうで、それから何と感じたのか、二度の夫を持たないことに決めたのだということです。それについては深い秘密があるのでしょうが、伯母は決して口外したことはありません。僕の母は薄々その事情を知っているのでしょうが、これも僕たちに向ってはなんにも話したことはありませんから、一切《いつさい》わかりません。」  わたしは夫人の若いときを知らないが、今から察して、彼女の若盛りには人並以上の美貌の持主《もちぬし》であったことは容易に想像されるのである。その上に相当の教養もある、家庭も裕福であるらしい。その夫人が人生の春をすべてなげうち去って、こんにちまで悲しい独身生活を送って来たには、よほどの深い事情がひそんでいなければならない。今もそれを考えながら、わたしは夫人と向い合っていた。  絶え間なしにひびく水の音のあいだに、蛙の声もみだれて聞える。わたしは表をみかえりながら言った。 「蛙がよく啼きますね。」 「はあ。それでも以前から見ますと、よほど少なくなりました。以前はずいぶんそうぞうしくて、水の音よりも蛙の声の方が邪魔になるぐらいでございました。」 「そうですか。ここらも年々繁昌するにつれて、だんだんに開けてきたでしょうからな。」と、私はうなずいた。「この川の上《かみ》の方へ行きますと、岩の上で釣っている人を時々に見かけますが、山女《やまめ》を釣るんだそうですな。これも宿の人の話によると、以前はなかなかよく釣れたが、近年はだんだんに釣れなくなったということでした。」  なに心なくこう言った時に、夫人の顔色のすこしく動いたのが、薄暗いなかでも私の目についた。「まったく以前は山女がたくさんに棲んでいたようでしたが、川の両側へ人家が建ちつづいてきたので、このごろはさっぱり捕れなくなったそうです。」と、夫人はやがて静かに言い出した。「山女のほかに、大きい鰻もずいぶん捕れましたが、それもこのごろは捕れないそうです。」  こんな話はめずらしくない。どこの温泉場でも滞在客のあいだにしばしば繰返される。退屈しのぎの普通平凡の会話に過ぎないのであるが、その普通平凡の話が端緒となって、わたしは田宮夫人の口から決して平凡ならざる一種の昔話を聞かされることになったのである。  他人はもちろん、肉親の甥にすらもかつて洩らさなかった過去の秘密を、夫人はどうして私にのみ洩らしたのか。その事情を詳しくここで説明していると、この物語の前おきが余りに長くなるおそれがあるから、それらはいっさい省略して、すぐに本題に入ることにする。そのつもりで読んでもらいたい。  夫人の話はこうである。       二  わたくしは十九の春に女学校を卒業いたしました。それは明治二十七年─日清戦争の終った頃でございました。その年の五月に、わたくしは親戚の者に連れられて、初めてこのUの温泉場へまいりました。  ご承知でもございましょうが、この温泉が今日《こんにち》のように、世間に広く知られるようになりましたのは、日清戦争以後のことで、戦争の当時陸軍の負傷兵をここへ送って来ましたので、あの湯は切創その他に特効があるという噂がにわかに広まったのでございます。それと同時にその負傷兵を見舞の人たちも続々ここへ集まって来ましたので、いよいよ温泉の名が高くなりました。わたくしが初めてここへ参りましたのも、やはり負傷の軍人を見舞のためでした。  わたくしの家で平素から御懇意にしている、松島さんという家《うち》の息子さんが一年志願兵の少尉で出征しまして、負傷のために満洲の戦地から後送されて、ここの温泉で療養中でありましたので、わたくしの家からも誰か一度お見舞に行かなければならないというのでしたが、父は会社の用が忙がしく、あいにくに母は病気、ほかに行く者もありませんので、親戚の者が行くというのを幸いに、わたくしも一緒に付いて来ることになったのでございます。  人間の事というものは不思議なもので、その時にわたくしがここへ参りませんでしたら、わたくしの一生の運命もよほど変ったことになっていたであろうと思われます。勿論、その当時はそんなことを夢にも考えようはずもなく、殊に一種の戦争熱に浮かされて、女のわたくし共までが、やれ恤血とか慰問とか夢中になって騒ぎ立てている時節でしたから、負傷の軍人を見舞のためにUの温泉場へ出かけて行くなどということを、むしろ喜んでいたくらいでした。  今日と違いまして、その当時ここまで参りますのは、かなりに不便でございましたが、途中のことなど詳しく申上げる必要もございません。ここへ着いて、まず相当の宿を取りまして、その翌日に松島さんをお見舞に行きました。お菓子や煙草やハンカチーフなどをお土産に持って行きまして、松島さんばかりでなく、ほかの人たちにも分けてあげますと、どなたも大層嬉しがっておいででした。わたくし共はもうひと晩ここに泊って、あくる朝に帰る予定でしたから、その日は自分たちの宿屋へ引揚げて、風呂にはいって休息しましたが、初夏の日はなかなか長いので、夕方から連れの人たちと一緒に散歩に出ました。連れというのは、親戚の夫婦でございます。  三人は川伝いに、爪先《つまさき》あがりの狭い道をたどって行きました。町の様子はその後よほど変りましたが、山の色、水の音、それは今もむかしも余り変りません。さっきも申す通り、ただ騒々しいのは蛙の声でございました。わたくし共は何を見るともなしに、ぶらぶらと歩いて行くうちに、いつか人家のとぎれた川端へ出ました。岸には芒《すすき》や芦の葉が青く繁っていて、岩にせかれてむせび落ちる流れの音が、ここらはひとしお高くきこえます。ゆう日はもう山のかげに隠れていましたが、川の上はまだ明るいのです。その川のなかの大きい岩の上に、二人の男の影がみえました。それが負傷兵であることは、その白い服装をみてすぐに判りました。ふたりは釣竿を持っているのです。負傷もたいてい全快したので、このごろは外出を許されて、退屈しのぎに山女を釣りに出るという話を、松島さんから聞かされているので、この人たちもやはりそのお仲間であろうと想像しながら、わたくし共も暫く立ちどまって眺めていますと、やがてその一人が振り返って岸の方を見あげました。 「やあ。」  それは松島さんでした。 「釣れますか。」  こちらから声をかけると、松島さんは笑いながら首を振りました。 「釣れません。さかなの泳いでいるのは見えていながら、なかなか餌に食いつきませんよ。水があんまり澄んでいるせいですな。」  それでも全然釣れないのではない。さっきから二|尾《ひき》ほど釣ったといって、松島さんは岸の方へ引っ返して来て、ブリキの缶のなかから大小の魚をつかみ出して見せてくれたので、親戚の者もわたくしも覗いていました。  その時、わたくしは更に不思議なことを見ました。それがこのお話の眼目ですから、よくお聞きください。松島さんがわたくし共と話しているあいだに、もう一人の男の人、その人の針には頻りに魚がかかりまして、見ているうちに三尾ほど釣り上げたらしいのです。ただそれだけならば別に子細《しさい》はありませんが、わたくしが松島さんの缶をのぞいて、それからふと─まったく何ごころなしに川の方へ眼をやると、その男の人は一尾の蛇のような長い魚─おそらく鰻でしたろう。それを釣りあげて、手早く針からはずしたかと思うと、ちょっとあたりを見かえって、たちまちに生きたままでむしゃむしゃと食べてしまったのです。たとい鰻にしても、やがて一尺もあろうかと思われる魚を、生きたままで食べるとは……。わたくしはなんだかぞっとしました。  それを見付けたのは私だけで、松島さんも親戚の夫婦の話の方に気をとられていて、いっこうに覚《さと》らなかったらしいのです。鰻をたべた人は又つづけて釣針をおろしていました。それから松島さんとふた言三言お話をして、わたくしどもはそのまま別れて自分の宿へ帰りましたが、生きた鰻を食べた人のことを私は誰にも話しませんでした。その頃のわたくしは年も若いし、かなりにお転婆のおしゃべりの方でしたが、そんなことを口へ出すのも何だか気味が悪いような気がしましたので、ついそれきりにしてしまったのでございます。  あくる朝ここを発つときに、ふたたび松島さんのところへ尋ねてゆきますと、松島さんの部屋には同じ少尉の負傷者が同宿していました。きのうは外出でもしていたのか、その一人のすがたは見えなかったのですが、きょうは二人とも顔を揃えていて、しかもその一人はきのうの夕方松島さんと一緒に川のなかで釣っていた入、すなわち生きた鰻を食べた人であったので、わたくしは又ぎょっとしました。しかしよく見ると、この人もたぶん一年志願兵でしょう。松島さんも人品の悪くない方ですが、これは更に上品な風采をそなえた人で、色の浅黒い、眼つきの優しい、いわゆる貴公子然たる人柄で、はきはきした物言いのうちに一種の柔か味を含んでいて……。いえ、いい年をしてこんな事を申上げるのもお恥かしゅうございますから、まずいい加減にいたして置きますが、ともかくこの人が蛇のような鰻を生きたまま食べるなどとは、まったく思いも付かないことでございました。  先方ではわたくしに見られたことを覚らないらしく、平気で元気よく話していましたが、わたくしの方ではやはり何だか気味の悪いような心持でしたから、時々にその人の顔をぬすみ見るぐらいのことで、始終うつむき勝に黙っていました。  わたくし共はそれから無事に東京へ帰りました。両親や妹にむかって、松島さんのことやUの温泉場のことや、それらは随分くわしく話して聞かせましたが、生きた鰻を食べた人のことだけはやはり誰にも話しませんでした。おしゃべりの私がなぜそれを秘密にしていたのか、自分にもよく判りませんが、だんだん考えてみると、単に気味が悪いというばかりでなく、そんなことを無暗に吹聴《ふいちよう》するのは、その人の対して何だか気の毒なように思われたらしいのです。気の毒のように思うという事─それはもう一つ煎じ詰めると、どうも自分の口からはお話が致しにくい事になります。まず大抵はお察しください。  それからひと月ほど過ぎまして、六月はじめの朝でございました。ひとりの男がわたくしの家へたずねて来ました。その名刺に浅井秋夫とあるのを見て、わたくしは又はっとしました。Uの温泉場で松島さんに紹介されて、すでにその姓名を知っていたからです。  浅井さんはまずわたくしの父母に逢い、更にわたくしに逢って、先日見舞に来てくれた礼を述べました。 「松島君ももう全快したのですが、十日《とおか》ほど遅れて帰京することになります。ついては、君がひと足さきへ帰るならば、田宮さんを一度おたずね申して、先日のお礼をよくいって置いてくれと頼まれました。」 「それは御丁寧に恐れ入ります。」  父も喜んで挨拶していました。それから戦地の話などいろいろあって、浅井さんは一時間あまり後に帰りました。帰ったあとで、浅井さんの評判は悪くありませんでした。父はなかなかしっかりしている人物だと言っていました。母は人品のいい人だなと褒めていました。それにつけても、生きた鰻を食べたなどという話をして置かないでよかったと、わたくしは心のうちで思いました。  十日ほどの後に、松島さんは果たして帰って来ました。そんなことはくだくだしく申上げるまでもありませんが、それから又ふた月ほども過ぎた後に、松島さんがお母さん同道《どうどう》でたずねて来て、思いもよらない話を持出しました。浅井さんがわたくしと結婚したいというのでございます。今から思えば、わたくしの行く手に暗い影がだんだん拡がってくるのでした。       三  松島さんは、まだ年が若いので、自分ひとりで縁談の掛合いなどに来ては信用が薄いという懸念から、お母さん同道で来たらしいのです。そこで、お母さんの話によると、浅井さんの兄さんは帝大卒業の工学士で、ある会社で相当の地位を占めている。浅井さんは次男で、私立学校を卒業の後、これもある会社に勤めていたのですが、一年志願兵の少尉である関係上、今度の戦争に出征することになったのですから、帰京の後は元の会社へ再勤することは勿論で、現に先月から出勤しているというのです。  わたくしの家には男の児がなく、姉娘のわたくしと妹の伊佐子との二人きりでございますから、順序として妹が他に縁付き、姉のわたくしが婿をとらねばなりません。その事情は松島さんの方でもよく知っているので、浅井さんは幸い次男であるから、都合によっては養子に行ってもいいというのでした。すぐに返事の出来る問題ではありませんから、両親もいずれ改めて御返事をすると挨拶して、いったん松島さんの親子を帰しましたが、先日の初対面で評判のいい浅井さんから縁談を申込まれたのですから、父も母もよほど気乗りがしているようでした。  こうなると、結局はわたくしの料簡《りようけん》次第で、この問題が決着するわけでございます。母もわたくしに向って言いました。 「お前さえ承知ならば、わたし達には別に異存はありませんから、よく考えてごらんなさい。」 勿論、よく考えなければならない問題ですが、実を申すと、その当時のわたくしにはよく考える余裕もなく、すぐにも承知の返事をしたい位でございました。  生きた鰻を食った男─それをお前は忘れたかと、こう仰しゃる方もありましょう。わたくしも決して忘れてはいません。その証拠には、その晩こんな怪しい夢をみました。  場所はどこだか判りませんが、大きい俎板《まないた》の上にわたくしが身を横たえていました。わたくしは鰻になったのでございます。鰻屋の職人らしい、印半纏《しるしばんてん》を着た片眼の男が手に針か錐《きり》のようなものを持って、わたくしの眼を突き刺そうとしています。しょせん逃がれぬところと観念していますと、不意にその男を押しのけて、又ひとりの男があらわれました。それはまさしく浅井さんと見ましたから、わたしは思わず叫びました。 「浅井さん、助けてください。」  浅井さんは返事もしないで、いきなり私を引っ掴んで自分の口へ入れようとするのです。わたくしは再び悲鳴をあげました。 「浅井さん。助けてください。」  これで夢が醒めると、わたくしの枕はぬれる程に冷汗をかいていました。やはり例のうなぎの一件がわたくしの頭の奥に根強くきざみ付けられていて、今度の縁談を聞くと同時にこんな悪夢がわたくしをおびやかしたものと察せられます。それを思うと、浅井さんと結婚することが何だか不安のようにも感じられて来たので、わたくしは夜のあけるまで碌々眠らずに、いろいろのことを考えていました。  しかし夜が明けて、青々とした朝の空を仰ぎますと、ゆうべの不安はぬぐったように消えてしまいました。鰻のことなどを気にしているから、そんな忌《いや》な夢をみたので、ほかに子細も理屈もある筈がないと、私はさっぱり思い直して、努めて元気のいい顔をして両親の前に出ました。こう申せば、たいてい御推量になるでしょう。わたくしの縁談はそれからすべるように順調に進行したのでございます。  唯ひとつの故障は、乳罫から病身の母がその秋から再び病床につきましたのと、わたくしが今年は十九の厄年─その頃はまだそんなことをいう習慣が去りませんでしたので、かたがた来年の春まで延期ということになりまして、その翌年の四月の末にいよいよ結婚式を挙げることになりました。勿論、それまでには私の方でもよく先方の身許《みもと》を取調べまして、浅井の兄さんは夏夫といって某会社で相当の地位を占めていること、夏夫さんには奥さんも子供もあること、また本人の浅井秋夫も品行方正で、これまで悪い噂もなかったこと、それらは十分に念を入れて調査した上で、わたくしの家へ養子として迎い入れることに決定いたしたのでございます。  そこで、結婚式もとどこおりなく済まして、わたくしども夫婦は新婚旅行ということになりました。その行く先はどこがよかろうと評議の末に、やはり思い出の多いUの温泉場へゆくことに決めました。思い出の多い温泉場─このUの町はまったく私に取って思い出の多い土地になってしまいました。しかしその当時は新婚の楽しさが胸いっぱいで、なんにも考えているような余裕もなく、春風を追う蝶のような心持で、わたくしは夫と共にここへ飛んで参ったのでございます。そのときの宿はここではありません。もう少し川下《かわしも》の方の○○屋という旅館でございました。時候はやはり五月のはじめで、同じことを毎度申すようですが、川の岸では蛙がそうぞうしく啼いていました。  滞在は一週間の予定で、その三日目の午後、やはりきょうのように陰っている日でございました。午前中は近所を散歩しまして、午後は川にむかった二階座敷に閉じ篭って、水の音と蛙の声を聞きながら、新夫婦が仲よく話していました。そのうちにふと見ると、どこかの宿屋の印半纏を着た男が小さい叉手網《さであみ》を持って、川のなかの岩から岩ヘと渡りあるきながら、なにか魚《さかな》をすくっているらしいのです。 「なにか魚を捕っています。」と、わたくしは川を指して言いました。「やっぱり山女でしょうか。」 「そうだろうね。」と、夫は笑いながら答えました。「ここらの川には鮎《あゆ》もいない、鮠《はや》もいない。山女と鰻ぐらいのものだ。」  鰻─それがわたくしの頭にピンと響くようにきこえました。 「うなぎは大きいのがいますか。」と、わたくしは何げなく訊きました。 「あんまり大きいのもいないようだね。」 「あなたも去年お釣りになって……。」 「むむ。二、三度釣ったことがあるよ。」  ここで黙っていればよかったのでした。鰻のことなぞは永久に黙っていればよかったのですが、年の若いおしゃべりの私は、ついうっかりと飛んだことを口走ってしまいました。 「あなたその鰻をどうなすって……。」 「小さな鰻だもの、仕様がない。そのまま川へ抛《ほう》り込んでしまったのさ。」 「一ぴきぐらいは食べたでしょう。」 「いや、食わない。」 「いいえ、食べたでしょう。生きたままで……。」 「冗談いっちゃいけない。」  夫は聞き流すように笑っていましたが、その眼の異様に光ったのが私の注意をひきました。その一刹那に、ああ、悪いことを言ったなと、わたくしも急に気がつきました。結婚後まだ幾日も経たない夫にむかって、迂闊《うかつ》にこんなことを言い出したのは、確かにわたくしが悪かったのです。しかし私として見れば、去年以来この一件が絶えず疑問の種になっているのです。この機会にそれを言い出して、夫の口から相当の説明をきかして貰《もら》いたかったのでございます。  口では笑っていても、その眼色のよくないのを見て、夫が不機嫌であることを私も直ぐに察しましたので、鰻については再びなんにも言いませんでした。夫も別に弁解らしいことを言いませんでした。それからお茶をいれて、お菓子なぞを食べて、相変らず仲よく話しているうちに、夏の日もやがて暮れかかって、川向うの山々のわか葉も薄黒くなって来ました。それでも夕御飯までには間があるので、わたくしは二階を降りて風呂ヘ行きました。  そんな長湯をしたつもりでもなかったのですが、風呂の番頭さんに背中を流してもらったり、湯あがりのお化粧をしたりして、かれこれ三十分ほどの後に自分の座敷へ戻って来ますと、夫の姿はそこに見えません。女中にきくと、おひとりで散歩にお出かけになったようですという。私もそんなことだろうと思って、別に気にも留めずにいましたが、それから一時間も経って、女中が夕御飯のお膳を運んで来る時分になっても、夫はまだ帰って来ないのでございます。 「どこへ行くとも断わって出ませんでしたか。」 「いいえ、別に……。唯ステッキを持って、ふらりとお出かけになりました。」と、女中は答えました。  それでも帳場へは何か断わって行ったかも知れないというので、女中は念のために聞き合せに行ってくれましたが、帳場でもなんにも知らないというのです。それから一時間を過ぎ、二時間を過ぎ、やがて夜も九時に近い時刻になっても、夫はまだ戻って来ないのです。こうなると、いよいよ不安心になって来ましたので、わたくしは帳場へ行って相談しますと、帳場でも一緒になって心配してくれました。温泉宿に来ている男の客が散歩に出て、二時間や三時間帰らないからといって、さのみの大事件でもないのでしょうが、わたくしどもが新婚の夫婦連れであるらしいことは宿でも承知していますので、特別に同情してくれたのでしょう、宿の男ふたりに提灯を持たせて川の上下《かみしも》へ分かれて、探しに出ることになりました。わたくしも落着いてはいられませんので、ひとりの男と連れ立って川下の方へ出て行きました。  その晩の情景は今でもありありと覚えています。その頃はここらの土地もさびしいので、比較的に開けている川下の町家の灯も、黒い山々の裾に沈んで、その暗い底に水の音が物すごいように響いています。昼から曇っていた大空はいよいよ低くなって、霧のような細かい雨が降って来ました。  捜索は結局無効に終りました。川上へ探しに出た宿の男もむなしく帰って来ました。宿からは改めて土地の駐在所へも届けて出ました。夜はおいおいに更けて来ましたが、それでもまだ何処からか帰って来るかも知れないと、わたくしは女中の敷いてくれた寝床の上に坐って、肌寒い一夜を眠らずに明かしました。  散歩に出た途中で、偶然に知人に行き逢って、その宿屋へでも連れ込まれて、夜の更けるまで話してでもいるのかと、最初はよもや[#「よもや」に傍点]に引かされていたのですが、そんな事がそら頼みであるのはもう判りました。わたくしは途方に暮れてしまいまして、ともかくも電報で東京へ知らせてやりますと、父もおどろいて駈け付けました。兄の夏夫さんも松島さんも来てくれました。  それにしても、なにか心当りはないか。─これはどの人からも出る質問ですが、わたくしには何とも返事が出来ないのでございます。心当りのないことはありません。それは例のうなぎの一件で、わたくしがそれを迂闊に口走ったために、夫は姿をくらましたのであろうと想像されるのですが、二度とそれを口へ出すのは何分おそろしいような気がしますので、わたくしは決してそれを洩らしませんでした。東京から来た人たちもいろいろに手を尽くして捜索に努めてくれましたが、夫のゆくえは遂に知れませんでした。もしや夕闇に足を踏みはずして川のなかへ墜落したのではないかと、川の上下をくまなく捜索しましたが、どこにもその死骸は見当りませんでした。  わたくしは夢のような心持で東京へ帰りました。       四  生きた鰻をたべたという、その秘密を新婚の妻に覚られたとしたら、若い夫として恥かしいことであるかも知れません。それは無理もないとして、それがために自分のすがたを隠してしまうというのは、どうも判りかねます。殊にどちらかといえば快濶《かいかつ》な夫の性格として、そんな事はありそうに思えないのでございます。ましてその事情を夢にも知らない親類や両親たちが、ただ不思議がっているのも無理はありません。 「突然発狂したのではないか。」と、父は言っていました。  兄の夏夫さんも非常に心配してくれまして、その後も出来るかぎりの手段を尽くして捜索したのですが、やはり無効でございました。その当座はどの人にも未練があって、きょうは何処からか便りがあるか、あすはふらりと帰って来るかと、そんなことばかり言い暮らしていたのですが、それもふた月と過ぎ、三月と過ぎ、半年と過ぎてしまっては、諦められないながらも諦めるのほかはありません。その年も暮れて、わたくしが二十一の春四月、夫がゆくえ不明になってから丸一年になりますので、兄の方から改めて離縁の相談がありました。年の若いわたくしをいつまでもそのままにしておくのは気の毒だというのでございます。しかし、わたくしは断わりました。まあ、もう少し待ってくれといって──。待っていて、どうなるか判りませんが、本人の死んだのでない以上、いつかはその便りが知れるだろうと思ったからでございます。  それから又一年あまり経ちまして、果たして夫の便りが知れました。わたくしが二十二の年の十月末でございます。ある日の夕方、松島さんがあわただしく駈け込んで来まして、こんなことを話しました。 「秋夫君の居どころが知れましたよ。本人は名乗りませんけれども、確かにそれに相違ないと思うんです。」 「して、どこにいました。」と、わたくしも慌てて訊きました。 「実はきょうの午後に、よんどころない葬式があって北千住の寺まで出かけまして、その帰り途に三、四人連れで千住の通りを来かかると、路ばたの鰻屋の店先で鰻を割いている男がある。何ごころなくのぞいてみると、印半纏を着ているその職人が秋夫君なんです。もっとも、左の眼は潰れていましたが、その顔はたしかに秋夫君で、右の耳の下に小さい疵《きず》のあるのが証拠です。わたしは直ぐに店にはいって行って、不意に秋夫君と声をかけると、その男はびっくりしたように私の顔を眺めていましたが、やがてぶっきら棒に、そりゃあ人違いだ、わたしはそんな人じゃあないと言ったままで、すっと奥へはいってしまいました。何分ほかにも連れがあるので、一旦はそのまま帰って来ましたが、どう考えても秋夫君に相違ないと思われますから、取りあえずお知らせに来たんです。」  松島さんがそう言う以上、おそらく間違いはあるまい。殊にうなぎ屋の店で見付けたということが、わたくしの注意をひきました。もう日が暮れかかっているのですが、あしたまで待ってはいられません。わたくしは両親とも相談の上で、松島さんと二台の人車《くるま》をつらねて、すぐに北千住へ出向きました。途中で日が暮れてしまいまして、大橋を渡るころには木枯しとでもいいそうな寒い風が吹き出しました。松島さんに案内されて、その鰻屋へたずねて行きますと、その職人は新吉という男で五、六日前からこの店へ雇われて来たのだそうです。もう少し前に近所の湯屋へ出て行ったから、やがて帰って来るだろうと言いますので、暫くそこに待合せていましたが、なかなか帰って参りません。なんだか又不安になって来ましたので、出前持の小僧を頼んで湯屋へ見せにやりますと、今夜はまだ来ないというのでございます。 「逃げたな。」と、松島さんは舌打ちしました。わたくしも泣きたくなりました。  もう疑うまでもありません。松島さんに見付けられたので、すぐに姿を隠したに相違ありません。こうと知ったらば、さっき無理にも取押えるのであったものをと、松島さんは足摺りして悔みましたが、今更どうにもならないのです。  それにしても、ここの店の雇入である以上、主人はその身許を知っている筈でもあり、また相当の身許引受人もあるはずです。松島さんはまずそれを詮議しますと、鰻屋の亭主は頭をかいて、実はまだよくその身許を知らないというのです。今まで雇っていた職人は酒の上の悪い男で、五、六日前に何か主人と言い合った末に、無断でどこへか立去ってしまったのだそうです。すると、その翌日、片眼の男がふらりと尋ねて来て、こちらでは職人がいなくなったそうだが、その代りに私を雇ってくれないかという。こっちでも困っている所なので、ともかくも承知して使ってみるとなかなかよく働く。名は新吉という。何分にも目見得《めみえ》中の奉公人で、給金もまだ本当に取りきめていない位であるから、その身許などを詮議している暇もなかったというのです。それを聞いて、わたくしはがっかりしてしまいました。松島さんもいよいよ残念がりましたが、どうにもしようがありません。二人は寒い風に吹かれながらすごすごと帰って来ました。  しかし、これで浅井秋夫という人間がまだこの世に生きているということだけは確かめられましたので、わたくし共も少しく力を得たような心持にもなりました。生きている以上は、また逢われないこともない。いったんは姿をかくしても、ふたたび元の店へ立戻って来ないとも限らない。こう思って、その後も毎月一度ずつは北千住の鰻屋へ聞合せに行きましたが、片眼の職人は遂にその姿を見せませんでした。  こうして、半年も過ぎた後に、松島さんのところへ突然に一通の手紙がとどきました。それは秋夫の筆蹟で、自分は奇怪な因縁で鰻に呪われている。決して自分のゆくえを探してくれるな。真佐子さん(わたくしの名でございます)は更に新しい夫を迎えて幸福に暮らしてくれという意味を簡単にしたためてあるばかりで、現在の住所などはしるしてありません。あいにくに又そのスタンプがあいまいで、発信の郵便局もはっきりしないのです。勿論、その発信地へたずねて行ったところで、本人がそこにいる筈もありませんが──。  北千住を立去ってから半年過ぎた後に、なぜ突然にこんな手紙をよこしたのか、それも判りません。奇怪な因縁で鰻に呪われているという、その子細も勿論わかりません。なにか心当りはないかと、兄の夏夫さんに聞合せますと、兄もいろいろかんがえた挙げ句に、唯一つこんなことがあると言いました。 「わたし達の子供のときには、本郷の××町に住んでいて、すぐ近所に鰻屋がありました。店先に大きい樽《たる》があって、そのなかに大小のうなぎが飼ってある。なんでも秋夫が六つか七つの頃でしたろう、毎日その鰻屋の前へ行って遊んでいましたが、子供のいたずらから樽のなかの小さい鰻をつかみ出して逃げようとするのを、店の者に見つけられて追っかけられたので、その鰻を路ばたの溝《どぶ》のなかへほうり込んで逃げて来たそうです。それが両親に知れて、当人はきびしく叱られ、うなぎ屋へはいくらかの償いを出して済んだことがありましたが、その以外には別に思い当るような事もありません。」  単にそれだけのことでは、わたくしの夫と鰻とのあいだに奇怪な因縁が結び付けられていそうにも思われません。まだほかにも何かの秘密があるのを、兄が隠しているのではないかとも疑われましたが、どうも確かなことは判りません。そこでわたくしの身の処置でございますが、たとい新しい夫を迎えて幸福に暮らせと書いてありましても、初めの夫がどこにか生きている限りは、わたくしとして二度の夫を迎える気にはなれません。両親をはじめ、皆さんからしばしば再縁をすすめられましたが、私は堅く強情を張り通してしまいました。そのうちに、妹も年頃になって他へ縁付きました。両親ももう、この世にはおりません。三十幾年の月日は夢のように過ぎ去って、わたくしもこんなお婆さんになりました。  鰻に呪われた男──その後の消息はまったく絶えてしまいました。なにしろ長い月日のことですから、これももうこの世にはいないかも知れません。幸いに父が相当の財産を遺して行ってくれましたので、わたくしはどうにかこうにか生活にも不自由はいたしませず、毎年かならずこのU温泉へ来て、むかしの夢をくり返すのを唯ひとつの慰めといたしておりますような訳でございます。その後は鰻を食べないかと仰しゃるのですか──。いえ、喜んで頂きます。以前はそれほどに好物でもございませんでしたが、その後は好んで食べるようになりました。片眼の夫がどこかに忍んでいて、この鰻もその人の手で割《さ》かれたのではないか。その人の手で焼かれたのではないか。こう思うと、なんだか懐かしいような気がいたしまして、御飯もうまく頂けるのでございます。  しかしわたくしも今日《こんにち》の人間でございますから、こんな感傷的な事ばかり申してもいられません。自分の夫が鰻に呪われたというのは、一体どんなわけであるのか、自分でもいろいろに研究し、又それとなく専門家について聞合せてみましたが、人間には好んで壁土や泥などを食べる者、蛇や蚯蚓《みみず》などを食べる者があります。それは子供に多くございまして、俗に虫のせいだとか癇のせいだと申しておりますが、医学上では異嗜性《いしせい》とか申すそうで、その原因はまだはっきりとは判っていませんが、やはり神経性の病気であろうということでございます。それを子供の時代に矯正すれば格別、成人してしまうとなかなか鷹りかねるものだと申します。  それから考えますと、わたくしの夫などもやはりその異嗜性の一人であるらしく思われます。子供の時代からその習慣があって、鰻屋のうなぎを盗んだのもそれがためで、路ばたの溝へ捨てたと言いますけれども、実は生きたままで食べてしまったのではないかとも想像されます。大人になっても、その悪い習慣が去らないのを、誰も気がつかずにいたのでしょう。当人もよほど注意して、他人に覚られないように努めていたに相違ありません。勿論、止《や》めよう止めようとあせっていたのでしょうが、それをどうしても止められないので、当人から見れば鰻に呪われているとでも思われたかも知れません。  そこで、この温泉場へ来て松島さんと一緒に釣っているうちに、あいにくに鰻を釣りあげたのが因果で、例の癖がむらむらと発して、人の見ない隙《すき》をうかがってひと口に食べてしまうと、又あいにくに私がそれを見付けたので……。つまり双方の不幸とでもいうのでございましょう。よもやと思っていた自分の秘密を、妻のわたくしが知っていることを覚ったときに当人もひどく驚き、又ひどく恥じたのでしょう。いっそ正直に打ち明けてくれればよかったと思うのですが、当入としては恥かしいような、怖ろしいような、もう片時もわたくしとは一緒にいられないような苦しい心持になって、前後の考えもなしに宿屋をぬけ出してしまったものと察せられます。  それからどうしたか判りませんが、もうこうなっては東京へも帰られず、けっきょく自暴自棄になって、自分の好むがままに生活することに決心したのであろうと思われます。千住のうなぎ屋へ姿をあらわすまで丸二年半の間、どこを流れ渡っていたか知りませんが、自分の食慾を満足させるのに最も便利のいい職業をえらぶことにして、諸方の鰻屋に奉公していたのでしょう。片眼を潰したのは粗相でなく、自分の人相を変えるつもりであったろうと察せられます。おそらく鰻の眼を刺すように、自分の眼にも錐を突き立てたのでしょう。こうなると、まったく鰻に呪われていると言ってもいいくらいで、考えても怖ろしいことでございます。  片眼をつぶしても、やはり松島さんに見付けられたので、当人は又おそろしくなって何処へか姿を隠したのでしょうが、どういう動機で半年後に手紙をよこしたのか、それは判りません。その後のことも一切わかりませんが、多分それからそれヘと流れ渡って、自分の異嗜性を満足させながら一生を送ったものであろうと察せられます。  こう申上げてしまえば、別に奇談でもなく、怪談でもなく、単にわたくしがそういう変態の夫を持ったというに過ぎないことになるのでございますが、唯ひとつ、私としていまだに不思議に感じられますのは、前に申上げた通り、わたくしが初めて縁談の申込みを受けました当夜に、いやな夢をみましたことで……。こんなお話をいたしますと、どなたもお笑いになるかも知れません、わたくし自身もまじめになって申上げにくいのですが──わたくしが鰻になって俎板の上に横たわっていますと、印半纏を着た片眼の男が錐を持ってわたくしの眼を突き刺そうとしました。その時には何とも思いませんでしたが、後になって考えると、それが夫の将来の姿を暗示していたように思われます。秋夫は片眼になって、千住のうなぎ屋の職人になって、印半纏を着て働いていたというではありませんか。  夢の研究も近来はたいそう進んでいるそうでございますから、そのうちに専門家をおたずね申して、この疑問をも解決いたしたいと存じております。                         昭和六年十月作「オール読物」 底本:岡本綺堂読物選集5 異妖編下巻    昭和四四年六月二〇日刊 入力:網迫+和井府清十郎 公開:2005年10月24日 底本のつぎの2箇所を改めた: 川しも(底本) → 「川下」改めた 「抛り込んでしまったのさ」 → 「抛《ほう》り込んでしまったのさ」 -------------------------------------------------------------------------------- くろん坊 岡本綺堂       一  このごろ未刊随筆百種のうちの「享和雑記」を読むと、濃州徳山くろん坊の事という一項がある。何人から聞き伝えたのか知らないが、その附近の地理なども相当にくわしく調べて書いてあるのを見ると、全然架空の作り事でもないらしく思われる。元来ここらには黒ん坊の伝説があるらしく、わたしの叔父もこの黒ん坊について、かつて私に話してくれたことがある。若いときに聞かされた話で、年を経るままに忘れていたのであるが、「享和雑記」を読むにつけて、古い記憶が図らずもよみがえったので、それを機会に私もすこしく「黒ん坊」の怪談を語りたい。  江戸末期の文久二年の秋――わたしの叔父はその当時二十六歳であったが、江戸幕府の命令をうけて寿瀞の大垣へ出張することになった。大垣は戸田氏十万石の城下で、叔父は隠密の役目をうけたまわって 幕末における大垣藩の情勢を探るために遣わされたのである。隠密であるから、もちろん武士の姿で入り込むことは出来ない。叔父は小間物を売る旅商人《たびあきんど》に化けて城下へはいった。  ハ月から九月にかけてひと月あまりは、無事に城下や近在を徘徊して、商売《あきない》のかたわらに職務上の探索に努めていたのであるが、叔父の不注意か、但しは藩中の警戒が厳重であったのか、いずれにしても彼が普通の商人でないということを睨まれたらしいので、叔父の方でも大いに警戒しなければならなくなった。その時代の習いとして、どこの藩でも隠密が入り込んだと覚《さと》れば、彼を召捕るか、殺すか、二つに一つの手段をとるに決まっているのであるから、叔父は早々に身を隠して、その危難を逃がれるのほかはなかった。  しかし本街道をゆく時は、敵に追跡されるおそれがあるので、叔父は反対の方角にむかって、山越しに越前の国へ出ようと企てた。その途中の嶮しいのはもちろん覚悟の上である。およそ十里ほども北へたどると、外山《とやま》村に着く。そこまでは牛馬も通うのであるが、それからは山路がいよいよ瞼しくなって、糸貫川――土地ではイツヌキという。古歌にもいつぬき川と詠まれている。享和雑記には泉除川《いずのき》として一種の伝説を添えてある。その山川の流れにさかのぼって根尾村に着く。ここらは鮎が名物で、外山から西根尾まで三里のあいだに七ヵ所の簗《やな》をかけて、大きい鮎を捕るのである。根尾から大字小鹿、松田、下大須《しもおおす》、上大須を過ぎ、明神山か、屏風山を越えて、はじめて越前へ出るのであるが、そのあいだに上り下りの難所の多いことは言うまでもない。  叔父は足の達者な方であったが、なんといっても江戸育ちであるから、毎日の山道に疲れ切って、道中は一向にはかどらない。もう一里ばかりで下大須へたどり着くころに、九月の十七日は暮れかかって奥山のゆう風が身にしみて来た。糸貫川とは遠く離れてしまったのであるが、路の一方には底知れぬほどの深い大きい谷がつづいていて、夕霧《ゆうもや》の奥に水の音がかすかに聞える。あたりはだんだんに暗くなる、路はいよいよ迫って来る。誤ってひと足踏み損じたら、この絶壁から真っ逆さまに投げ込まれなければならないことを思うと、かねて覚悟はしていながらも、叔父はこんな難儀の道をえらんだことを今更に後悔して、いっそ運を天にまかせて本街道をたどった方がましであったかなどとも考えるようになった。さりとて元へ引っ返すわけにも行かないので、疲れた足をひきずりながら、心細くも進んでゆくと、ここらは霜が早いとみえて、路ばたのすすきも半分は枯れていた。その枯れすすきのなかに何だか細い路らしいものがあるので、何ごころなく透かしてみると、そこの一面に生い茂っているすすきの奥に五、六本の橡《とち》や栗の大木に取り囲まれた小屋のようなものが低くみえた。 「ともかくも行ってみよう。」  すすきをかき分けて踏み込んでみると、果たしてそれは一軒の人家で表の板戸はもう閉めてある。その板戸の隙き間からのぞくと、まだ三十を越えまいかと思われる一人の若い僧が仏前で経を読んでいるらしく、炉には消えかかった柴の火が弱く燃えていた。  戸をたたいて案内を乞うと、僧は出て来た。叔父は行き暮らした旅商人であることを告げて、ちっとの間ここに休ませてくれまいかと頼むと、僧はこころよく承知して内へ招じ入れた。彼は炉の火を焚きそえて、湯を沸かして飲ませてくれた。 「この通りの山奥で、朝夕はずいぶん冷えます。それでもまだこの頃はよろしいが、十一月十二月には雪がなかなか深くなって、土地なれぬ人にはとても歩かれぬようになります。」 「雪はどのくらい積もります。」 「年によると、一丈《じよう》も積もることがあります。」 「一丈……。」と、叔父もすこし驚かされた。まったく今頃だからいいが、冬にむかって迂闊《うかつ》にこんな山奥へ踏み込んだらば、飛んだ目に逢うところであったと、いよいよ自分の無謀を悔むような気になった。 「お前、ひもじゅうはござらぬか。」と、僧は言った。「なにしろ五穀の乏しい土地で、ここらでは麦を少しばかり食い、そのほかには蕎麦《そぱ》や木の実を食っておりますが、わたしの家には麦のたくわえはありませぬ。村の人に貰うた蕎麦もあいにくに尽きてしまいました。木の実でよろしくば進ぜましょう。」  彼は木の実を盆に盛って出した。それは橡《とち》の実で、そのままで食ってはすこぶるにがいが、灰汁《あく》にしばらく漬けておいて、さらにそれを清水にさらして食うのであると説明した。空腹の叔父はこころみに一つ二つを取って口に入れると、その味は甘く軽く、案外に風味のよいものであったので、これは結構と褒めた上で、遠慮なしにむさぼり食っているのを、僧はやさしい眼をして興あるように眺めていた。 「おまえはお江戸でござりますか。」と、僧は訊いた。 「さようでございます。」 「わたしもお江戸へは三度出たことがありましたが、実に繁昌の地でござりますな。」 「三度も江戸へお下りになったのでございますか。」 「はい、しばらく鎌倉におりましたので……。」と、僧はむかしを偲び顔に答えた。 「道理で、あなたのお言葉の様子がここらの人たちとは違っていると思いました。」と、叔父はうなずいた。 「そうかも知れませぬ。しかし、わたしはこの土地の生れでござります。しかもここの家で生れたのでござります。」  彼はうつむいて、そのやさしい眼を薄くとじた。その顔には一種の暗い影を宿しているようにも見られた。叔父は又訊いた。 「では、鎌倉ヘは御修業にお出でなされたのでございますか。」 「わたしが十一のときに、やはり大垣から越前を越えてゆくという旅の出家が一夜の宿をかりました。その出家がわたしの顔をつくづく見て、おまえも出家になるべき相《そう》がある。いや、どうしても出家にならなければならぬ運命があらわれている。わたしと一緒に鎌倉へ行って、仏門の修業をやる気はないかと言われたのでござります。わたしはまだ子供で世間の恋しい時でもあり、かねて名を聞いている鎌倉というところへ行ってみたさに、その出家に連れて行ってもらうことにしました。親たちもまたこんな山奥に一生を送らせるよりも、京鎌倉へ出してやった方が当人の行く末のためでもあろう。たとい氏素姓のない者でも、修業次第であっぱれな名僧智識にならぬとも限らぬと、そんな心から承知してわたしを手離すことになったのでした。あとで知ったのですが、その出家は鎌倉でも五山の一つという名高い寺のお住持で、京登りをした帰り路に、山越えをして北陸道を下らるる途中であったのです。お師匠さま――わたしはそのあくる日からお弟子になったのです――は私をつれて、越前から加賀、能登、越中、越後を経て、上州路からお江戸へ出まして……。いや、こんなことはくだくだしく申上げるまでもありませぬ。わたしはその時に初めてお江戸を見物しまして、七日あまり逗留の後に鎌倉ヘ帰り着きました。それからその寺で足掛け十六年、わたしが二十六の年まで修業を積みまして、生来鈍根の人間もまず一人並の出家になり済ましたのでござります。」  生来鈍根と卑下しているが、彼の人柄といい物の言い振りといい、決して愚かな人物とはみえない。しかも鎌倉の名刹《めいさつ》で十六年の修業を積みながら、たとい故郷とはいえ、若い身空でこんな山奥に引籠っているのは、何かの子細《しさい》がなくてはならないと叔父は想像した。 「それで、唯今ではここにお住居でございますか。再び鎌倉へお戻りにならないのでございますか。」 「当分は戻られますまい。」と、僧は答えた。「ここへ帰って来て丸三年になります。これから三年、五年、十年……。あるいは一生……。鎌倉はおろか、他国の土を踏むことも出来ぬかも知れませぬ。」 「御両親は……。」と、叔父は訊いた。 「父も母もこの世にはおりませぬ。ほかに一人の妹がありましたが、これも世を去りました。」と、僧は暗然として仏壇をみかえった。 「どなたもお留守のあいだに、お亡くなりになったのでございますか。」 「そうでござります。」と、僧は低い溜息をついた。「妹はわたしの二十四の年に歿しました。 その翌年に母が亡くなりました。又その翌年に父が死にました。」 「三年つづいて……。」と、叔父も思わず眉をよせた。 「はい、三年のうちに両親と妹がつづいて世を去ったのでござります。なにしろこんな辺鄙なところですから、鎌倉への交通などは容易に出来るものではなく、父からは何の便りもありませんので、妹のことも母の事もわたしはちっとも知らずにおりました。それでも父の死んだ時には村の人々から知らせてくれましたので、おどろいて早々に帰ってみますと、母も妹も、もうとうに死んでいるということが初めて判りました。わたしはいよいよ驚きました。」 「ごもっともで……。お察し申します。」と、叔父も同情するようにうなずいた。「それから引きつづいてここにおいでになるのでございますか。」 「両親はなし、妹はなし、こんなあばら家一軒、捨てて行っても惜しいことはないのですが……。ある物に引留められて、どうしてもここを立去ることが出来なくなりました。唯今も申す通り、三年、五年、十年……。あるいは一生でも……。その役目を果たさぬうちは、ここを動くことが出来なくなったのでござります。」  ある物に引留められて――その謎のような言葉の意味が叔父には判らなかった。あるいは両親や妹の墓を守るという事かとも思ったが、それならば当分といい、又は三年五年などという筈もあるまい。叔父はただ黙って聞いていると、僧もその以上の説明をつけ加えなかった。       二  叔父はその晩、そこに泊めてもらうことになった。初めにそれを言い出したときに、僧は迷惑そうな顔をして断わった。 「これから下大須までは一里余りで、そこまで行けば十五、六軒の人家もあります。旅の人のひとりや二人を泊めてくれるに不自由のない家もあります。お疲れでもあろうが、辛抱してそこまでお出でなされたがよろしゅうござります。」  しかし叔父は疲れ切っていた。殊に平地でもあることか、この瞼しい山坂をこれから一里あまりも登り降りするのは全く難儀であるので、叔父はその事情を訴えて、どんな隅でもいいから今夜だけはここの家根の下においてくれと頼んだ。 「何分にも土地不案内の夜道でございますから、ひと足踏みはずしたら、深い谷底へ真っ逆さまに転げ落ちるかも知れません。わたくしをお助け下さると思召して、どうぞ今夜だけは……。」と、叔父は繰返して言った。  深い谷底――その一句をきいたときに、僧の顔色は又曇った。彼はうつむいて少し思案しているようであったが、やがてしずかに言い出した。 「それほどに言われるものを無慈悲にお断わり申すわけには参りますまい。勿論、夜の物も満足に整うてはおりませぬが、それさえ御承知ならばお泊め申しましょう。」 「ありがとうございます。」と、叔父はほっとして頭を下げた。 「それからもう一つ御承知をねがっておきたいのは、たとい夜なかに何事があっても、かならずお気にかけられぬように……。しかし熊や狼のたぐいは滅多に人家へ襲って来るようなことはありませぬから、それは決して御心配なく……。」  叔父は承知して泊ることになった。寝るときに僧は雨戸をあけて表をうかがった。今夜は真っ暗で星ひとつ見えないと言った。こうした山奥にはありがちの風の音さえもきこえない夜で、ただ折りおりにきこえるのは、谷底に遠くむせぶ水の音と、名も知れない夜の鳥の怪しく暗き叫ぶ声が木霊《こだま》してひびくのみであった。更けるにつれて、霜をおびたような夜の寒さが身にしみて来た。 「おまえはお疲れであろう、早くお休みなさい。」  叔父には寝道具を出してくれて、僧はふたたび仏壇の前に向き直った。彼は低い声で経を読んでいるらしかった。叔父はふだんでもよく眠る方である。殊に今夜はひどく疲れているのであるが、なんだか眼がさえて寝つかれなかった。あるじの僧に悪気《わるぎ》のないのは判っている上に、熊や狼の獣《けもの》もめったに襲って来ないという。それでも叔父の胸の奥には言い知れない不安が忍んでいるのであった。  僧はある物に引留められて、ここに一生を送るかも知れないと言った。その「ある物」の意味を彼は考えさせられた。僧は又たとい何事があっても気にかけるなと言った。その「何事」の意味も彼は又かんがえた。所詮《しよせん》はこの二つが彼に一種の不安をあたえ、また一種の好奇心をそそって、今夜を安々と眠らせないのである。前者は僧の一身上に関することで、自分に係合いはないのであるが、後者は自分にも何かの係合いがあるらしい。それなればこそ僧も一応は念を押して、自分に注意をあたえてくれたのであろう。山奥や野中の一軒家などに宿りを求めて、種々の怪異に出逢ったというような話は、昔からしばしば伝えられているが、ここにも何かそんな秘密がひそんでいるのではあるまいか。  そう思えば、あるじの僧は見るところ柔和で賢《さか》しげであるが、その青ざめた顔になんとなく一種の暗い影をおびているようにも見られる。自分が一宿《いつしゆく》を頼んだときにも、彼は初めの親切にひきかえてすこぶる迷惑そうな顔をみせた。それにも何かの子細がありそうである。叔父は眠った振りをしながら、時どきに薄く眼をあいてうかがうと、僧はほとんど身動きもしないように正しく坐って、一心に読経を続けているらしかった。炉の火はだんだんに消えて、暗い家のなかにかすかに揺れているのは仏前の燈火《あかし》ばかりである。  時の鐘など聞えないので、今が何どきであるか剃らないが、もう真夜中であろうかと思われる頃に、僧はにわかに立上がって、叔父の寝息をうかがうようにちょっとのぞいて、やがて音のせぬように雨戸をそっと開けたらしい。叔父は表をうしろにして寝ていたので、その挙動を確かに見届けることは出来なかったが、彼は藁草履の音を忍ばせて、表ヘぬけ出して行くように思われた。風のない夜ではあるが、彼が雨戸をあけて又しめるあいだに、山気《さんき》というか、夜気というか、一種の寒い空気がたちまち水のように流れ込んで、叔父の掛け蒲団の上をひやりと撫《な》でて行ったかと思う間もなく、仏前の燈火は吹き消されたように暗くなってしまった。  掛け蒲団を押しのけて、叔父もそっと這い起きた。手探りながらに雨戸をほそ目にあけて窺うと、表は山霧に包まれたような一面の深い闇である。僧はすすきをかき分けて行くらしく、そのからだに触れるような葉摺れの音が時どきにかさかさと聞えた。と思う時、さらに一種異様の声が叔父の耳にひびいた。何物かが笑うような声である。  何とはなしにぞっとして、叔父はなおも耳をすましていると、それはどうしても笑うような声である。しかも生きた人間の声ではない。さりとて猿などの声でもないらしい。何か乾いた物と堅い物とが打合っているように、あるいはかちかちと響き、あるいはからからとも響くらしいが、又あるときには何物かが笑っているようにも聞えるのである。その笑い声――もしそれが笑い声であるとすれば、決して愉快や満足の笑い声ではない。冷笑とか嘲笑とかいうたぐいのいやな笑い声である。いかにも冷たいような、うす気味の悪い笑い声である。その声はさのみ高くもないのであるが、深夜の山中、あたりが物凄いほど寂寞としているので、その声が耳に近づいてからからと聞えるのである。それをじっと聞いているうちに、肉も血もおのずと凍るように感じられて、骨の髄までが寒くなって来たので、叔父は引っ返して蒲団の上に坐った。  僧が注意したのはこれであろう。僧はこの声を他人に聞かせたくなかったのであろうと、叔父は推量した。この声は一体なんであるか。僧はこの声に誘われて、表へ出て行ったらしく思われるが、この声と、かの僧とのあいだにどういう関係がつながっているのか、叔父には容易に想像がつかなかった。自分ばかりでなく、誰にもおそらく想像はつくまいと思われた。そんなことを考えている間にも、怪しい声はあるいは止み、あるいは聞えた。 「おれも武士だ。なにが怖い。」  いっそ思い切ってその正体を突き留めようと、叔父は蒲団の下に入れてある護身用の匕首《あいくち》をさぐり出して、身づくろいして立ちかけたが、又すこし躇躊《ちゆうちよ》した。前にもいう通り、この声と、かの僧との関係がはっきりしない以上、みだりに邪魔に出てよいか悪いか。自分が突然飛び出して行ったがために、僧が何かの迷惑を感じるようでも気の毒である。僧もそれを懸念して、あらかじめ自分に注意したらしいのであるから、自分も騒がず、人をも驚かさず、何事も知らぬ顔をして過すのが、一夜の恩に報いるゆえんではあるまいか。こう思い直して叔父はまた坐った。  僧はどこへ行って何をしているのか、いつまでも戻らなかった。怪しい声も時どきに聞えた。どう考えても、何かの怪物が歯をむき出して嘲《あざけ》り笑っているような、気味の悪い声である。もしや空耳ではないかと、叔父は自分の臆病を叱りながら幾たびか耳を引っ立てたが、聞けば聞くほど一種の鬼気が人を襲うように感じられて、しまいには聞くに堪えられないように恐ろしくなって来た。 「ええ、どうでも勝手にしろ。」  叔父は自棄《やけ》半分に度胸を据えて、ふたたび横になった。以前のように表をうしろにして、左の耳を木枕に当て、右の耳の上まで蒲団を引っかぶって、なるべくその声を聞かないように寝ころんでいると、さすがに一日の疲れが出て、いつかうとうとと眠ったかと思うと、このごろの長い夜ももう明けかかって、戸の隙間から暁のひかりが薄白く洩れていた。  僧は起きていた。あるいは朝まで眠らなかったのかも知れない。いつの間にか水を汲んで来て、湯を沸かす支度などをしていた。炉にも赤い火が燃えていた。 「お早うございます。つい寝すごしまして……。」と、叔父は挨拶した。 「いや、まだ早うございます。ゆるゆるとおやすみなさい。」と、僧は笑いながら会釈《えしやく》した。気のせいか、その顔色はゆうべよりも更に蒼ざめて、やさしい目の底に鋭いような光りがみえた。  家のうしろに筧《かけい》があると教えられて、叔父は顔を洗いに出た。ゆうべの声は表の方角にきこえたらしいので、すすきのあいだから伸びあがると、狭い山道のむこうは深い谷で、その谷を隔てた山々はまだ消えやらない霜《もや》のうちに隠されていた。教えられた通りに裏手へまわって、顔を洗って戻って来ると、僧は寝道具のたぐいを片付けて、炉のそばに客の座を設けて置いてくれた。叔父はけさも橡の実を食って湯を飲んだ。 「いろいろ御厄介になりました。」 「この通りの始末で、なんにもお構い申しませぬ。ゆうべはよく眠られましたか。」と、僧は炉の火を焚き添えながら訊いた。 「疲れ切っておりましたので、枕に頭をつけたが最後、朝までなんにも知らずに寝入ってしまいました。」と、叔父は何げなく笑いながら答えた。 「それはよろしゅうござりました。」と、僧も何げなく笑っていた。  そのあいだにも叔父は絶えず注意していたが、怪しい笑い声などはどこからも聞えなかった。       三  一宿の礼をあつく述べて叔父は草鞋《わらじ》の緒をむすぶと、僧はすすきを掻きわけて、道のあるところまで送って来た。そのころには夜もすっかり明け放れていたので、叔父は再び注意してあたりを見まわすと、道の一方につづいている谷は、きのうの夕方に見たよりも更に大きく深かった。岸は文字通りの断崖絶壁で、とても降《くだ》るべき足がかりもないが、その絶壁の中途からはいろいろの大木が斜めに突き出して、底の見えないように枝や葉を繁らせていた。  別れて十間ばかり行き過ぎて振り返ると、僧は朝霜の乾かない土の上にひざまずいて、谷にむかって合掌しているらしかった。怪しい笑い声は谷の方から聞えたのであろうと叔父は想像した。  下大須まで一里あまりということであったが、実際は一里半を越えているように思われた。登り降りの難所を幾たびか過ぎて、ようようにそこまで行き着くと、果たして十五、六軒の人家が一部落をなしていて、中には相当の大家内《おおやない》らしい住居も見えた。時刻がまだ早いとは思ったが、上大須まで一気にたどるわけにはいかないので、叔父はそのうちの大きそうな家に立寄って休ませてもらうと、ここらの純朴な人たちは見識らない旅人をいたわって、隔意なしにもてなしてくれた。近所の人々もめずらしそうに寄り集まって来た。 「ゆうべはどこにお泊りなされた。松田からでは少し早いようだが……。」と、そのうちの老人が訊いた。 「ここから一里半ほども手前に一軒家がありまして、そこに泊めてもらいました。」 「坊さまひとりで住んでいる家《うち》か。」  人々は顔をみあわせた。 「あの御出家はどういう人ですね。以前は鎌倉のお寺で修業したというお話でしたが……。」と、叔父も人々の顔を見まわしながら訊いた。 「鎌倉の大きいお寺で十六年も修業して、相当の一ヵ寺の住職にもなられるほどの人が、こんな山奥に引っ込んでしまって……。考えれば、お気の毒なことだ。」と、老人は心から同情するように溜め息をついた。「これも何かの因縁というのだろうな。」  ゆうべの疑いが叔父の胸にわだかまっていたので、彼は探るように言い出した。 「御出家はまことにいい人で、いろいろ御親切に世話をしてくださいましたが、ただ困ったことには、気味の悪い声が夜通しきこえるので……。」 「ああ、おまえもそれを聞きなすったか。」と、老人はまた嘆息した。 「あの声は、……。あのいやな声はいったいなんですね。」 「まったくいやな声だ。あの声のために親子三人が命を取られたのだからな。」 「では、両親も妹もあの声のために死んだのですか。」と、叔父は思わず目をかがやかした。 「妹のことも知っていなさるのか。では、坊さまは何もかも話したかな。」 「いいえ、ほかにはなんにも話しませんでしたが……。してみると、あの声には何か深い訳があるのですね。」 「まあ、まあ、そうだ。」 「そこで、その訳というのは……。」と、叔父は畳みかけて訊いた。 「さあ。そんなことをむやみに言っていいか悪いか。どうしたものだろうな。」  老人は相談するように周囲の人々をみかえった。  人々も目を見合せて返答に躊躇しているらしかったが、叔父が繰返してせがむので、結局この人はすでにあの声を聞いたのであるから、その疑いを解くために話して聞かせてもよかろうということになって、老人は南向きの縁に腰をかけると、女たちは聞くを厭《いと》うように立去ってしまって、男ばかりがあとに残った。 「お前はここらに黒ん坊という物の棲んでいることを知っているかな。」と、老人は言った。 「知りません。」 「その黒ん坊が話の種だ。」  老人はしずかに話し始めた。  ここらの山奥には昔から黒ん坊というものが棲んでいる。それは人でもなく、猿でもなく、からだに薄黒い毛が一面に生えているので、俗に黒ん坊と呼び慣わしているのであって、まずは人間と猿との合の子ともいうべき怪物である。しかもこの怪物は人間に対して危害を加えたという噂を聞かない。ただ時どきに山中の杣《そま》小屋などへ姿をあらわして、弁当の食い残りなどを貰って行くのである。時には人家のあるところへも出て来て、何かの食いものを貰って行くこともある。別に悪い事をするというわけでもないので、ここらの山家《やまが》の人々は馴れて怪しまず、彼がのそりとはいって来る姿をみれば、「それ、黒ん坊が来たぞ。」と言って、なにかの食い物を与えることにしている。ただし食い物をあたえる代りに、彼にも相当の仕事をさせるのであった。  黒ん坊は深山に生長しているので、嶮岨の道を越えるのは平気である。身も軽く、力も強く、重い物などを運ばせるには最も適当であるので、土地の人々は彼に食いものを与えて、何かの運搬の手伝いをさせるのであるが、彼は素直によく働く。もちろん、人間の言葉を話すことは出来ないのであるが、こちらが手真似をして言い聞かせれば、大抵のことは呑み込んで指図通りに働くのである。ある地方では山男といい、ある地方では山猿という、いずれも同じたぐいであろう。  その黒ん坊と特別に親《した》しくしていたのは、杣《そま》の源兵衛という男であった。源兵衛は女房お兼とのあいだに、源蔵とお杉という子供を持っていて、松田から下大須へ通う途中のやや平らなところに一つ家を構えていた。それは叔父がゆうべの宿である。源兵衛は仕事の都合で山奥にも杣《そま》小屋を作っていると、その小屋へかの黒ん坊が姿をあらわして、食いものをもらい、仕事の手伝いをする時には源兵衛の家へもたずねて来ることもあって、家内の人々とも親しくなった。総領の源蔵は鎌倉へ修業に出てしまったので、男手の少ない源兵衛の家ではこの黒ん坊を重宝《ちようほう》がって、ほとんど普通の人間のように取扱っていた。黒ん坊も馴れてよく働いた。  こうして幾年かを無事に送っているうちに、源兵衛はあるとき彼にむかって、冗談半分に言った。「源蔵は鎌倉へ行ってしまって、もうここへは戻って来ないだろう。娘が年頃になったらば、おまえを婿にしてやるから、そのつもりで働いてくれ。」  女房も娘も一緒になって笑った。お杉はそのとき十四の小娘であった。その以来、黒ん坊は毎日かかさずに杣小屋へも来る。源兵衛の家へも来る。小屋へ来れば材木の運搬を手伝い、家に来れば水汲みや柴刈りや掃除の手伝いをするというふうで、彼は実によく働くのであった。ここらは雪が深いので、今まで冬期にはめったに姿を見せないのであったが、その後はどんな烈しい吹雪の日でも、彼はかならず尋ねて来て何かの仕事を手伝っていた。  ここらは山国で水の清らかなせいであろう、すべての人が色白で肌目《きめ》が美しい。そのなかでもお杉は目立つような雪の肌を持っているのが、年頃になるにつれて諸人の注意をひいた。親たちもそれを自慢していると、お杉が十七の春に縁談を持ち込む者があって、松田の村から婿をもらうことになった。婿はここらでも旧家と呼ばれる家の次男で、家柄も身代も格外に相違するのであるが、お杉の容貌《きりよう》を望んで婿に来たいというのである。もちろん相当の金や畑地も持参するという条件付きであるから、源兵衛夫婦は喜んで承知した。お杉にも異存はなかった。  こうして、結納の取交しも済んだ三月なかばの或る日の夕暮れである。春といっても、ここらにはまだ雪が残っている。その寒い夕風に吹かれながら、お杉は裏手の筧の水を汲んでいると、突然にかの黒ん坊があらわれた。彼は無言でお杉の手をひいて行こうとするのであった。 「あれ、なにをするんだよ。」と、お杉はその手を振り払った。  多年馴れているので、衝如は別にこの怪物を恐れてもいなかったが、きょうはその様子がふだんと変っているのに気がついた。彼は一種兇暴の相《そう》をあらわして、その目は野獣の本性を露出したように凄まじく輝いていた。それでもお杉はまだ深く彼を恐れようともしないで、そのままに自分の仕事をつづけようとすると、黒ん坊は猛然として飛びかかった。彼はお杉の腰を引っかかえて、どこへか撰《さら》って行こうとするらしいので、かれも初めて驚いて叫んだ。 「あれ、お父《とつ》さん、おっ母さん……。早く来てください。」  その声を聞きつけて、源兵衛夫婦は内から飛んで出た。見るとこの始末で、黒ん坊はほの暗い夕闇のうちに火のような目をひからせながら、無理無体に娘を引っかかえて行こうとする。お杉は栗の大木にしがみ付いて離れまいとする。たがいに必死となって争っているのであった。 「こん畜生……。」  源兵衛はすぐに内へ引っ返して、土間にある大きい儒を持ち出して来たかと思うと、これも野獣のように跳《おど》り狂って、黒ん坊の前に立ちふさがった。まっこうを狙って撃ちおろした斧は外《そ》れて、相手の左の頸《くび》筋から胸へかけて斜めにざくりと打ち割ったので、彼は奇怪な悲鳴をあげながら娘をかかえたままで倒れた。それでもまだ娘を放そうとはしないので、源兵衛は踏み込んで又打つと、怪物の左の手は二の腕から斬り落された。お杉はようよう振り放して逃げかかると、彼は這いまわりながら又追おうとするので、源兵衛も焦《じ》れてあせって滅多《めつた》打ちに打ちつづけると、かれは更に腕を斬られ、足を打落されて、ただものすごい末期《まつご》の捻《うな》り声を上げるばかりであった。 「これだから畜生は油断がならねえ。」と、源兵衛は息をはずませながら罵《ののし》った。 「お杉をさらって行って、どうするつもりなんだろうねえ。」と、お兼は不思議そうに言った。  その一刹那《せつな》に謎は解けた。  黒ん坊が娘を奪って行こうとするのは、あながちに不思議とはいえないのである。夫婦はだまって顔をみあわせた。 「おっ母さん。怖いねえ。」と、お杉は母に取り縋ってふるえ出した。  あたかもそこへ杣仲間が二人来あわせたので、源兵衛はかれらに手伝ってもらって、黒ん坊の始末をすることになった。  彼はまだ死に切れずに捻っているので、源兵衛は研《と》ぎすました山刀を持って来てその喉笛を刺し、胸を突き透した。こうして息の絶えたのを見とどけて、三人は怪物の死骸を表へ引摺り出した。 「谷へほうり込んでしまえ。」  前には何十丈の深い谷があるので、死骸はそこへ投げ込まれてしまった。二人が帰ったあとで、女房は小声で言った。 「おまえさんがつまらない冗談をいったから悪いんだよ。」  源兵衛はなんにも答えなかった。       四  あくる朝、源兵衛は谷のほとりへ行ってみると、黒ん坊の死骸は目の下にかかっていた。二丈余りの下には松の大木が枝を突き出していた。死骸はあたかもその上に投げ落されたのである。勿論、谷底へ投げ込むつもりであったが、ゆう闇のために見当がちがって、死骸は中途にかかっていることを今朝になって発見したのである。二丈あまりではあるが、そこは足がかりもない断崖で、下は目もくらむほどの深い谷であるから、その死骸には手を着けることが出来なかった。 「畜生……。」と、源兵衛は舌打ちした。お兼もお杉も覗きに来て、互いにいやな顔をしていた。  それはまずそれとして、さらにこの一家の心を暗くしたのは、かの縁談の一条であった。黒ん坊のことが杣仲間の口から世間にひろまると、婿の方では二の足を踏《ふ》むようになった。源兵衛が黒ん坊にむかって冗談の約束をしたことなどは誰も知らないのであるが、なにしろ黒ん坊のような怪物に魅《みこ》まれた女と同棲するのは不安であった。その執念がどんな崇りをなさないとも限らない。又その同類に付け狙われて、どんな仕返しをされないとも限らない。婿自身ばかりでなく、その両親や親類たちも同じような不安にとらわれて、結納までも済ませた婚礼を何のかのと言い延ばしているうちに、黒ん坊の噂はそれからそれヘと伝わったので、婿の家でもいよいよ忌気がさして、その年の盂蘭盆前に断然破談ということになってしまった。  さてその黒ん坊の死骸はどうなったかというと、むろん日を経るにしたがって、その肉は腐れただれて行った。毛の生えている皮膚も他の獣《けもの》の皮とは違っているとみえて、鴉や他の鳥類についばまれた跡が次第に破れて腐れて、今はほとんど骨ばかりとなった。その骸骨も風にあおられ、雨に打たれて、ばらばらにくずれ落ちてしまったが、ただひとつ残っているのはその首の骨である。不思議といおうか、偶然といおうか、さきに木の上に投げ落されたときに、その片目を大きい枝の折れて尖っているところに貫かれたので、そればかりは骨となっても元のところにかかっているのであった。  自分の家の前であるから、その死骸の成行きは源兵衛も朝晩にながめていた。女房や娘は毎日のぞきに行った。そうして、死骸のだんだん消えてゆくのを安心したように眺めていたが、最後の髑髏《どくろ》のみはどうしても消え失せそうもないのを見て、またなんだか忌な心持になった。何とかしてそれを打落そうとして、源兵衛は幾たびか石を投げたり枝を投げたりしたが、不思議に一度も当らないので、とうとう根負けがしてやめてしまった。婿の家からいよいよ正式に破談の通知があった夜に、その髑髏はさながら嘲り笑うようにからからと鳴った。  今までは不安ながらも一縷《いちる》の望みをつないでいたのであるが、その縁談がいよいよ破裂と定まって源兵衛夫婦の失望はいうまでもなかった。お杉は一日泣いていた。その夜、髑髏が笑い出すと共に、お杉も家をぬけ出した。そのうしろ姿を見つけて母が追って出る間もなく、若い娘は深い谷底へ飛び込んでしまって、その亡骸《なきがら》を引揚げるすべさえもないのであった。  その以来、木の枝にかかっている髑髏は夜ごとにからからと笑うのである。笑うのではない、乾いた髑髏が山風に煽《あお》られて木の枝を打つのであると源兵衛は説明したが、女房は承知しなかった。髑髏が我れわれの不幸を嘲り笑うのであると、かれは一途《いちず》に信じていた。黒ん坊の髑髏が何かの崇りでもするかのように、土地の人たちも言い囃した。  実際、髑髏はその秋から冬にかけて、さらに来年の春から夏にかけて、夜ごとに怪しい笑い声をつづけていた。それに悩まされて、お兼はおちおち眠られなかった。不眠と不安とが長くつづいて、かれは半気違いのようになってしまったので、源兵衛も内々注意していると、七月の孟蘭盆前、あたかもお杉が一周忌の当日に、かれは激しく狂い出した。 「黒ん坊。娘のかたきを取ってやるから、覚えていろ。」  お兼は大きい斧を持って表へ飛び出した。それはさきに源兵衛が黒ん坊を虐殺した斧であった。 「まあ、待て。どこへ行く。」  源兵衛はおどろいて引留めようとすると、お兼は鬼女のように障《たけ》って、自分の夫に打ってかかった。 「この黒ん坊め。」 大きい斧を真っこうに振りかざして来たので、源兵衛もうろたえて逃げまわった。  その隙をみて、かれは斧をかかえたままで、身を逆さまに谷底へ跳り込んだ。半狂乱の母は哀れなる娘のあとを追ったのである。  こうして、この一つ家には父ひとりが取残された。  しかし源兵衛は生れ付き剛気の男であった。打ちつづく不幸は彼に対する大打撃であったには相違ないが、それでも表面は変ることもなしに、今まで通りの仕事をつづけていた。この山奥に住む黒ん坊はただ一匹に限られたわけでもないのであるが、その一匹が源兵衛の斧に屠《ほふ》られて以来、すべてその影を見せなくなって、かれらの形見は木の枝にかかる髑髏一つとなった。その髑髏は源兵衛一家のほろび行く運命を嘲るように、夜毎にからからという音を立てていた。「ええ、泣くとも笑うとも勝手にしろ。」と、源兵衛はもう相手にもならなかった。  その翌年の孟蘭盆前である。きょうは娘の二回忌、女房の一周忌に相当するので、源兵衛は下大須にあるただ一軒の寺へ墓参にゆくと、その帰り道で彼は三人の杣仲間と一人の村人に出会った。 「おお、いいところで逢った。おれの家までみんな来てくれ。」  源兵衛は四人を連れて帰って、かねて用意してあったらしい太い藤蔓を取出した。 「おれはこの蔓を腰に巻き付けるから、お前たちは上から吊りおろしてくれ。」 「どこへ降りるのだ。」 「谷へ降りて、あの骸骨めを叩き落してしまうのだ。」 「あぶないから止せよ。木の枝が折れたら大変だぞ。」 「なに、大丈夫だ。女房の仇、娘のかたきだ。あの骸骨をあのままにして置く事はならねえ。」  何分にも屏風のように切っ立ての崖であるから、目の下にみえながら降りることが出来ない。源兵衛は自分のからだを藤蔓でくくり付けて、二丈ほどの下にある大木の幹に吊りおろされ、それから枝を伝って行って、かの髑髏を叩き落そうというのである。こうした危険な離れわざには、みな相当に馴れているのではあるが、底の知れない谷の上であるだけに、どの人もみな危ぶまずにはいられなかった。  源兵衛も今まではさすがに躊躇していたのであるが、きょうはなんと思ったか、遮二無二にその冒険を実行しようと主張して、とうとう自分のからだに藤蔓を巻いた。四人は太い蔓の端から端まで吟味して、間違いのないことを確かめた上で、岸から彼を吊り降ろすことになった。  薄く曇った日の午《ひる》過ぎで、そこらの草の葉を吹き分ける風はもう初秋の涼しさを送っていた。髑髏も昼は黙っているのである。  その髑髏のかかっている大木の上へ吊りおろされた源兵衛のからだは、もう四、五尺で幹に届くかと思うとき、太い蔓はたちまちにぶつりと切れて、木の上にどさりと落ちかかった。上の人々はあっと叫んで見おろすと、彼は落ちると同時に一つの枝に取付いたのである。しかもそれが比較的に細い枝であったので、彼が取付く途端に強くたわんで、そのからだは宙にぶら下がってしまった。 「源兵衛、しっかりしろ。その手を放すな。」と、四人は口々に叫んだ。  しかし、どうして彼を救いあげようという手だてもなかった。この場合、畚《ふご》をおろすよりほかに方法はなさそうであったが、その畚も近所には見当らないので、四人はいたずらに上から声をかけて彼に力を添えるにすぎなかった。  源兵衛は両手を枝にかけたままで、奴凧のように宙にゆらめいているのである。その隣りの枝にはかの髑髏がかかっているので、源兵衛の枝がゆれるに誘われて、その枝もおのずと揺れると、黄いろい髑髏はからからと笑った。  細い枝は源兵衛の体量をささえかねて、次第に折れそうにたわんでゆくので、上で見ている人々は手に汗を握った。源兵衛の額にも脂汗が流れた。彼は目をとじ歯を食いしばって、一生懸命にぶら下がっているばかりで、何とも声を出すことも出来なかった。こうなっては、枝が折れるか、彼の力が尽きるか、自然の運命に任せるのほかはない。上からは無益《むやく》に藤蔓を投げてみたが、彼はそれに取りすがることも出来ないのであった。  そのうちに枝は中途から折れた。残った枝の強くはねかえる勢いで、となりの枝も強く揺れて、髑髏はからからからからと続けて高く笑った。源兵衛のすがたは谷底の霧にかくれて見えなくなった。上の四人は息を呑んで突っ立っていた。  源兵衛の一家はこうして全く亡び尽くした。娘の死んだとき、女房の死んだとき、源兵衛はそれを鎌倉へ通知してやらなかったらしいが、こうして一家が全滅してしまった以上、無沙汰にして置くのはよろしくあるまいというので、村の人々から初めて鎌倉へ知らせてやると、せがれの源蔵は早々に戻って来た。  源蔵も今は源光《げんこう》といって、立派な僧侶となっているのであった。棄恩入無為《きおんじゆむい》といいながら、源光はおのが身の修業にのみ魂を打込んで、一度も故郷へ帰らなかったことを深く悔んだ。  「あの髑髏がおのずと朽ちて落ちるまでは、決してここを離れませぬ。」と、彼は誓った。  両親や妹の菩提を弔うだけならば、必ずしもここに留まるにも及ばないが、悲しむべく怖るべきはかの髑髏である。  如是畜生発菩提心《によぜちくしようほつぼだいしん》の善果をみるまでは、自分はここを去るまいと決心して、彼はこの空家に踏みとどまることにした。そうして、丸三年の今日まで読経《どきよう》に余念もないのであるが、髑髏はまだ朽ちない、髑髏はまだ落ちない、髑髏はまだ笑っているのである。彼が三年、五年、十年、あるいは一生ここにとどまるかも知れないと覚悟しているのも、それがためであろう。  この長物語を終って、老人はまた嘆息した。  「あまりお気の毒だから、いっそ畚をおろして何とか骸骨を取りのけてしまおうと言い出した者もあるのだが、息子の坊さまは承知しないで、まあ自分にまかせて置いてくれというので、そのままにしてあるのだ。」  叔父も溜息をついて別れた。  その晩は上大須の村に泊ると、夜中から山も震うような大あらしになった。  この風雨がかの枝を吹き折るか、かの髑髏を吹き落すか。かの僧は風雨にむかって読経をつづけているか。叔父は寝もやらずに考え明かしたそうである。                           昭和四年作文芸倶楽部 底本:岡本綺堂読物選集5巻 異妖編 下巻    昭和44年6月30日発行 青蛙房 入力:和井府 清十郎 公開:2006.4.03 表記のおことわり:つぎの語にルビを付けた  山気《さんき》 -------------------------------------------------------------------------------- 海亀 岡本綺堂      一 「かぞえると三十年以上の昔になる。僕がまだ学生服を着て、東京の学校にかよっていた頃だから……。それは明治三十何年の八月、君たちがまだ生まれない前のことだ。」  鬢鬚のやや白くなった実業家の浅岡氏は、二、三人の若い会社員を前にして、秋雨のふる宵にこんな話をはじめた。  そのころ、僕は妹の美智子と一緒に、本郷の親戚の家(うち)に寄留して、僕はMの学校、妹はA女学校にかよっていた。僕は二十二、妹は十八――断って置くが、その時代の若い者は今の人たちよりも、よっぽど優(ま)せていたよ。  七月の夏休みになって、妹の美智子は郷里へ帰省する。僕の郷里は山陰道で、日本海に面しているHという小都会だ。僕は毎年おなじ郷里へ帰るのもおもしろくないので、親しい友人と二人づれで日光の中禅寺湖畔でひと夏を送ることにした。美智子は僕よりもひと足さきに、忘れもしない七月の十二日に東京を出発したので、僕は新橋駅まで送って行ってやった。  言うまでもなく、その日は盆の十二日だから草市(くさいち)の晩だ。銀座通りの西側にも草市の店がならんでいた。僕は美智子の革包(かばん)をさげ、妹は小さいバスケットを持って、その草市の混雑のあいだを抜けて行くと、美智子は僕をみかえって言った。 「ねえ、兄(にい)さん。こんな人込みの賑やかな中でも、盆燈籠はなんだか寂しいもんですね。」 「そうだなあ。」と僕は軽く答えた。  あとになってみると、そんなことでも一種の予覚というような事が考えられる。美智子はやがて盆燈籠を供えられる人になってしまって、彼女と僕とは永久の別れを告げることになったのだ。  妹が出発してから一週間ほどの後に、僕も友人と共に日光の山へ登って――最初は涼しいところで勉強するなどと大いに意気込んでいたのだが、実際はあまり勉強もしなかった。湖水で泳いだり、戦場ヶ原のあたりまで散歩に行ったりして、文字通りにぶらぶらしていると、妹が帰郷してから一カ月あまりの後、八月十九日の夜に、僕は本郷の親戚から電報を受取った。帰省(きせい)ちゅうの美智子が死んだから直ぐに帰れというのだ。僕もおどろいた。  なにしろそのままには捨て置かれないと思ったので、僕は友人を残して翌日の早朝に山をおりた。東京へ帰って聞きただすと、本郷の親戚でも単に死亡の電報を受取っただけで詳しいことは判らないが、おそらく急病であろうというのだ。誰でもそう思うのほかはない。残暑の最中であるから、コレラというほどではなくても、急性の胃腸加答児(かたる)のような病気に襲われたのでないかという噂もあった。ともかくも僕はすぐに帰郷することにして東京を出発した。ひと月前に妹を新橋駅に送った兄が、ひと月後にはその死を弔らうべく同じ汽車に乗るのだ。草市のこと、盆燈籠のこと、それらが今さら思い出されて、僕も感傷的の人とならざるを得なかった。  帰郷の途中はただ暑かったというだけで、別に話すほどのこともなかったが、その途中で僕が考えたのは「清(きよし)がさぞおどろいて失望しているだろう。」ということだ。僕の実家は海産物の問屋で、まず相当に暮らしている。そのとなりの浜崎という家(うち)もやはり同商売で、これもまあ相当に店を張っている。浜崎と僕の家とは親戚関係になっていて、浜崎の息子と僕たちとは従弟(いとこ)同士になっているのだ。  浜崎のひとり息子の清というのは大阪の或る学校を卒業して、今は自分の家の商売をしている。清と美智子とは従弟同士の許婚(いいなずけ)といったようなわけで、美智子がAの女学校を卒業すると、浜崎の家へ嫁入りする筈になっているのは、すべての人が承認しているのだ。今度も新橋でわかれる時に、「清君によろしく。」と言ったら、美智子は少し紅い顔をしていた。美智子は帰郷して清に逢ったに相違ない。となり同士だからきっと逢っているに決まっている。その美智子が突然に死んだのだから、清はどんなに驚いているか、どんなに悲しんでいるか、それを思うと僕の頭はいよいよ暗くなった。  もちろん葬式の間に合わないのは僕も覚悟していたが、殊に暑い時季であったために、葬式はもうおとといの夕方に執行されたということを、僕は実家の閾(しきい)をまたぐと直ぐに聞いた。 「じゃあ、早く墓参りに行って来ましょう。」 「ああ、そうしておくれ。美智子も待っているだろう。」と、母は眼をうるませて言った。  旅装のままで――といったところで、白飛白(しろがすり)の単衣(ひとえもの)に小倉の袴をはいただけの僕は、麦わら帽に夕日をよけながら、菩提寺(ぼだいじ)へいそいで行った。地方のことだから、寺は近い。それでも町から三町あまりも引っ込んだところで、桐の大木の多い寺だ。寺の門をくぐって、先祖代々の墓地へゆきかかると、その桐の木にひぐらしがさびしく鳴いていた。  見ると、妹の墓地の前――新ぼとけをまつる卒塔婆(そとば)や、白張(しらはり)提灯や、樒(しきみ)や、それらが型のごとくに供えられている前に、ひとりの男がうつむいて拝(おが)んでいた。そのうしろ姿をみて、僕はすぐに覚った。彼はとなりの息子の清に相違ない。顔を合せたらまず何と言ったものか、そんなことを考えながらしずかに歩みよると、彼は人の近寄るのを知らないように暫く合掌していた。それを妨げるに忍びないので、僕は黙って立っていた。  やがて彼は力なげに立上がって、はじめて僕と顔を見合せると、なんにも言わずに僕の両腕をつかんだ。そうして、子供のように泣きだした。清は僕よりも年上の二十四だ。大の男がその泣き顔は何事だと言いたいところだが、この場合、僕もむやみに悲しくなって、二人は無言でしばらく泣いていた。いや、お話にならない始末だ。  それから僕は墓前に参拝して、まだ名残り惜しそうに立っている清をうながすようにして、寺を出た。そこで僕は初めて口を開いた。「どうも突然でおどろいたよ。」 「君もおどろいたろう。」と、清は俄かに昂奮するように言った。「話を聞いただけでもおどろくに相違ない。いや、誰だっておどろく……。ましてそれを目撃した僕は……僕は……。」 「目撃した……、君は妹の臨終に立会ってくれたのかね。」 「君は美智子さんが、どうして死んだのか……。それをまだ知らないのか。」 「実はいま着いたばかりで、まだなんにも知らないのだ。」と、僕は言った。 「いったい、妹はどうして死んだのだ。」 「君はなんにも知らない……。」と、彼はちょっと不思議そうな顔をしたが、やが て又、投げ出すように言った。「いや、知らない方がいいかも知れない。」 「じゃあ、美智子は普通の病気じゃあなかったのか。」 「勿論だ。普通の病気なら、僕はどんな方法をめぐらしても、きっと全快させて見せる。君の家だって出来るかぎりの手段を講じたに相違ない。しかも相手は怪物だ、海の怪物だ。それが突然に襲って来たのだから、どうにも仕様がない。」と、彼は拳(こぶし)を握りしめながら罵るように叫んだ。 「君、まあ落ちついて話してくれたまえ。それじゃあ美智子はなにか変った死に方をして、君もその場に一緒に居合せたのだね。」 「むむ、一緒にいた。最後まで美智子さんと一緒にいたのだ。いっそ僕も一緒に死にたかったのだが……。どうして僕だけが生きたのだろう。」と、彼はいよいよ昂奮した。「君はおそらく迷信家じゃああるまい。僕も迷信は断じて排斥する人間だ。その僕が迷信家に屈伏するようになったのだ。僕は今でも迷信に反対しているのだが、それでも周囲のものどもは、僕が屈伏したように認めているのだ。」  彼は一体なにを言っているのか、僕には想像が付かなかった。      二 「まあ、聞いてくれたまえ。」と、清はあるきながら話し出した。「君も知っているだろうが、ここらじゃあ旧暦の盂蘭盆(うらぼん)には海へ出ないことになっている。出るとかならず災難に遭うというのだ。一体どういうわけで、昔からそんなことを言い伝えているのか知らないが、おそらく盆中は内にいて、漁などの殺生(せっしょう)を休めという意味で、誰かがそんなことを言いだしたのだろう。僕はそう思って、今まで別に気にも留めていなかった。ところで、美智子さんがこの夏ここへ帰って来てから、夜も昼も一緒に小舟に乗って、二人はたびたび海へ遊びに出ていたのだ。ねえ、君。別に珍らしいことはないだろう。」 「むむ。」と、僕はうなずいた。夏休みで帰郷した美智子は、さだめて清と舟遊びでもしているだろうと、僕はかねて想像していたのであるから、この話を聞いても別に怪しみもしなかった。 「そのうちに、今月の十七日が来た。十七日は旧暦の盂蘭盆に当るので、ここらでは商売を休んでいる家(うち)も随分あった。浜では盆踊りも流行(はや)っていた。その日は残暑の強い日だったが、日が暮れてから涼しい風がそよそよ吹いて来た。昼間から約束してあったので、夕飯をすませてから僕は美智子さんを誘い出して、いつものとおり小舟に乗って海へ出ようとすると、僕のうちの番頭――あの禿(はげ)あたまの万兵衛が変な顔をして、今夜は盆(ぼん)の十五日だから海へ出るのはお止しなさいと言うのだ。  盂蘭盆がなんだ、盂蘭盆の晩でも、大阪商船会社の船は出たり這入ったりしているじゃあないかと、僕は腹のなかで笑いながら、そしらぬ顔で表へ出ると、万兵衛は強情に追っかけてきて、漁師の舟さえ今夜は休んでいるんだから、遊びの舟なぞはなおさら遠慮しろというのだ。勿論、僕がそんなことを取合う筈もない。あたまから叱りつけて出ようとすると、美智子さんは女だから、万兵衛にむかって、すぐ帰って来るから安心してくれとなだめるように言い聞かせて、二人はまあ浜辺へ出たのだ。」  こう言いながら、清は路ばたに咲いている桔梗のひと枝を切り取った。どこやらでひぐらしの声がまたきこえた。  彼は薄むらさきの花をながめながら又話し出した。 「君も知っている通り、浜辺の砂地には僕の家(うち)の小舟が引揚げてある。それをおろして、僕は美智子さんと一緒に乗込んだ。今に始まったことじゃあないから、そんなことは詳しく説明するまでもあるまい。僕が櫂(かい)をとって海へ漕ぎだすと、今夜は空が晴れている。星がでる、月がでる。浪はおだやかで、風は涼しい。これまで美智子さんと幾たびか海へ出たが、こんなにいい晩は一度もなかった。二人は非常に愉快になって、舟舷(ふなばた)をたたきながら声をそろえて歌った。振り返ってみると、浜辺の町の灯は低く沈んで、水にひびく盆踊りの歌ごえも微かになって、自分たちの舟がもう余程遠く来ているのに気がついたが、それでも僕は頓着なしに漕いで行った。子供の時からここに育って、海には馴れているからね。そのうちに美智子さんはこんなことを言い出した。『一体、盂蘭盆の晩に舟を出しては悪いなんて、誰が言いはじめたんでしょうねえ。』僕はそれに答えて、前にいった通り『おそらく盂蘭盆の晩にはみんな内にいて、殺生の漁を休めというのでしょう。』と言うと、美智子さんは急に沈んだように溜息をついて『そんなことならようござんすけれど、番頭さんの言うとおり今夜海へ出るのは悪いんじゃないでしょうか。伝説だの、迷信だのといいますけれど、昔から悪いということは多年の経験から出ているんでしょうから……。』と、こう言うのだ。  ねえ、君。美智子さんは迷信家でもなければ、気の弱い人でもない、ふだんから理智的な、活溌な女性だ。それが禿あたまの番頭の口真似をするように、なんだか変なことを言い出したので、僕は少し不思議になった。今まで元気よく歌っていた人が急に溜息をついて憂鬱になって来たのだから、どうもおかしい。」  彼はこう言いかけて、自分も低い溜息をつきながら手に持っている桔梗の花を軽く投げ捨てた。 「それからどうしたね。」と、僕は催促するように訊いた。 「それから……。僕はこう言った。『多年の経験というけれども、多年のあいだには盂蘭盆の晩に海へ出て、一度や二度は偶然に何かの災難に遭った者がなかったとも限らない。その偶然の出来事を証拠にして、いつでもきっと有るように考えるのは間違いですよ。』――けれども、美智子さんは承知しないで、更にこんなことを言い出したんだ。『たとい偶然にしても、その偶然の出来事に今夜も出逢わないとは限りますまい。』――そういえばそんなものだが、なにしろ美智子さんがこんなことを言い出すのは、ふだんに似合わないことだ。しかし、いつまで議論をしても果てしがないから、僕はさからわずに舟を戻すことにした。  その時だ。櫂(かい)を把っている僕の手を美智子さんはしっかり掴んで『あれ、あれ……人魚が……人魚が。』と言う。なんだろうと思って見かえると、なんにも見えない。月は皎々(こうこう)と明るく、海の上は一面に光っている。それでも僕の眼にはなんにも見えないのだ。美智子さんはさっきから変なことばかり言うから、これも何かの幻覚か錯覚だろうと思って、深くは気にも留めずにともかくも漕ぎ戻すことにすると、美智子さんはなんだか物にでも憑(つ)かれたように、発作的に気でも狂ったように、いつまでも僕の手を強く掴んで放さないで『あれ又……。あれ、人魚が……。』と繰返して言う。なにしろ僕の手を掴んでいられては、櫂を漕ぐことができない。舟は一つところに漂っているばかりだ。さあ、その時……。僕も見た……。僕も見た。」  清は僕の腕をつかんで強く小突くのだ。ちょうど美智子が彼の手を掴んだように……。僕は小突かれながらも慌てて訊いた。 「君も見た……。なにを見たのだ。」 「月に光っている海の上に……。」と、清はその時のさまを思い出したように息をはずませた。「海の上に……。人の顔……人の顔が見えたのだ。浪のあいだから頭をあらわして……。」 「たしかに人の顔に見えたのか。」 「むむ。人の顔……。美智子さんのいう通りだ。」 「海亀だろう。」と、僕は言った。  海亀――いわゆる正覚坊(しょうがくぼう)には青と赤の二種がある。青い海亀はもっぱら小笠原島附近で捕獲されるが、日本海方面に棲息するのは赤海亀の種類だ。赤といっても赤褐色だが、時にはずいぶん巨大なのを発見することがある。清の話を聴きながら、僕はすぐに赤海亀を思い出した。彼も美智子も一種の錯覚か妄覚にかかって、浪のあいだから首を出した大きい海亀を見あやまって、人の顔だとか人魚だとか騒いだのだろうと想像した。果して彼はうなずいた。 「むむ、海亀……。そう気がつくまでは、美智子さんばかりでなく、僕も人の顔だと思ったのだ。君だってその場にいたら、きっと人の顔……すなわち人魚があらわれたと思うに相違ないよ。美智子さんは人魚だ人魚だと言う。僕も一旦そう信じて、驚異の眼をみはって見つめていると、人の顔はやがて浪に沈んだかと思うと、また浮き出した。さあ、大変……。僕の驚異はにわかに恐怖に変ったのだ。多年ここらの海に出ているものでも、おそらく僕たちのような怖ろしい目に出逢ったものはあるまい。」  彼は戦慄に堪えないように身をふるわせた。      三  今までは清も僕もしずかにあるきながら話して来たのだが、話がここまで進んで来ると、彼はもう歩かれなくなったらしい。路ばたに立ちどまって話しつづけた。「君は海亀だろうと無雑作(むぞうさ)にいうが、その海亀がおそろしい。僕も一時の錯覚から眼が醒めて、人魚の正体は海亀であることを発見したが、美智子さんはやはり人魚だというのだ。まあそれはそれとして、僕に異常の恐怖をあたえたのは、その海亀が浪のあいだから最初は一匹、つづいて二匹、三匹……。五匹……。十匹……。だんだんに現われて来て、僕たちの舟を取囲んでしまったのだ。海はおだやかで、波はほとんど動かない。その渺茫(びょうぼう)たる海の上で、美智子さんと僕のふたりは海亀の群れに包囲されて、どうしていいかわからなくなった。  一体かれらは僕たちの舟を囲んでどうするつもりかと見ていると、小さい海亀がまた続々あらわれて来て、僕たちの舟へ這いあがって来るのだ。平生ならば、小さな海亀などは別に問題にもならないのだが、美智子さんは無暗に怖がる、僕もなんだか不安に堪えられなくなって、手あたり次第にその亀を引っ掴んで、海のなかへ投げこんだ。ただ投げ込むばかりでなく、それを礫(つぶて)にして大きい奴にたたきつけて、一方の血路をひらこうと考えたのだ。それは相当に成功したらしいが、何をいうにも敵は大勢だ。小さい舟の右から左から、艫(とも)からも舳(みよし)からも、大小の海亀がぞろぞろ這いこんで来る。かれらは僕たちを啖(くら)うつもりだろうか。ここらの海亀は蝦や蟹を啖うが、人間を啖ったという話をきかない。しかしこんなに多数の海亀に襲われると、僕たちも危険を感ぜずにはいられなくなった。僕もしまいには闘い疲れてしまった。美智子さんはもう死んだようになっている。かれらはほとんど無数というほどに増加して、舟の周囲に一面の甲羅をならべたのが月の光りにかがやいて見える……。君がこういう奇異に遭遇したらどうするか。僕は疲労と恐怖で身動きも出来なくなった。」  成程これは困ったに相違ないと、僕も同情した。同情を通り越して、僕もなんだが体の血が冷たくなったように感じられて来た。おそらく顔の色も幾分か変ったかも知れない。 「その場合、君にしても櫂を取って防ぐくらいの知恵しか出ないだろう。」と、清はあざわらうように言った。「そんな常識的な防禦法で、この怪物……人魚以上の怪物が撃退されると思うか。駄目だ、駄目だ。精神的にも肉体的にも戦闘能力を全然奪われてしまって、僕は敗軍の兵卒のようにただ茫然としているあいだに、無数の敵は四方から僕の舟に乗込んで来た。どういうふうに攀(よ)じのぼって来たのか、僕もよく知らないが、ともかくも続々乗込んで来たのだ。こうなると、誰にでも考えられることは海亀の重量だ。大きい海亀は何貫目の重量があるか、君も知っているだろう。それが無数に乗込んで来て、しかも一匹の甲羅の上に他の一匹が乗る、又その上に一匹が乗るという始末で、かさなりあって乗るのだから堪(たま)らない。大石を積んだ小舟とおなじように、僕たちの舟はだんだんに沈んで行くのほかはない。無益とは知りながら、僕は血の出るような声を振りしぼって救いを呼びつづけたが、なにぶんにも岸は遠い。僕が必死の叫び声も、いたずらに水にひびいて消えてゆくばかりだ。これが平生の夜ならば、沖に相当の漁船も出ているのだが、いかんせん今夜は例の迷信で、広い海に一艘の舟も見えない。浜の者どもは盆踊りで夢中になっているらしい。僕たちが必死に苦しみもがいているのを、黙って眺めているのは今夜の月と星ばかりだ。僕たちの無抵抗をあざけるように、敵はいよいよ乗込んで来る。舟は重くなる。舟舷(ふなべり)から潮水がだんだんに流れ込んで来る。最後の運命はもう判り切っているので、僕は観念の眼をとじて美智子さんを両手にしっかりと抱いた。子供の時からこの海岸に育った僕だ。これが僕一個であったらば、たとい岸が遠いにもしろ、この場合、運命を賭して泳ぐということもあるが、美智子さんを捨ててゆくことはできない。二人が抱き合ったままで、舟と共に沈もうと決心して……。これも一種の心中だと思って……。それからさきは夢うつつで……。」 「そうすると、結局は舟が沈んで……。君だけが助かって、妹は死んだというわけだね。」 「残念ながら事実はそうだ。」と、清は苦しそうな息をついた。「おそろしい悪夢からさめた時には、僕たちふたりは浜辺に引揚げられていた。あとで聞くと、僕たちの帰りの遅いのを心配して、番頭の万兵衛がまず騒ぎだして、捜索の舟を出してくれたので、海のなかに浮きつ沈みつ漂っている僕たちが救われたというわけだ。なんといっても僕は水ごころがあるから、たくさんの水を飲まなかったので容易に恢復したが、美智子さんはだめだった。いろいろ手を尽くしたが、どうしても息が出ないのだ。こんなことになるなら、僕もいっそ恢復しない方がましだったのだ。なまじい助けられたのが残念でならない。僕たちの小舟はあくる朝、遠い沖で発見されたが、海亀はどうしてしまったか一匹も見えなかったそうだ。」 「死んだものは、まあ仕方がないとして、君のからだはその後どうなのだ。もう出歩いてもいいのか。」と、僕は慰めるように訊いた。 「僕はその翌日寝ただけで、もう心配するようなことはない。美智子さんの葬式にもぜひ参列したいと思ったのだが、みんなに止められて拠(よ)んどころなく見合せたので、きょうは思い切って墓参りに出て来たのだ。幾度いっても同じことだが、僕は生きたのが幸か不幸かわからない。僕は昔からの迷信を裏書きするために、美智子さんを犠牲にしたようなものだ。」  彼の蒼白い頬には涙がながれていた。 「僕も迷信者になりたくない。それは美智子の言った通り、君たちが不幸にして偶然の出来事に出逢ったのだ。」と、僕はふたたび慰めるように言った。  この話はこれぎりだ。盂蘭盆の晩に舟を出すとか出さないとかいうのは、もちろん迷信に相違ないが、海亀の群れがなぜその舟を沈めに来たのか、それは判らない。かれらは時々に水を出て甲をほす習慣があるから、そんなつもりで舟へ這いあがったのかとも思われるが、正覚坊(しょうがくぼう)[#「正覚坊」は底本では「正坊覚」]に舟を沈められたというような話はかつて聞いたことがないと、土地の故老が言っていた。更にかんがえると、普通の亀ならば格別、海亀が船中に這い込んだというのは僕の腑に落ちかねるが、なにぶん現場を目撃したのでないから、ともかくも本人の直話を信用するのほかはなかった。 ------------------------------------------------------------------------ 底本:「異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二」原書房    1999(平成11)年7月2日第1刷 初出:「日の出」    1934(昭和9)年8月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振り につくっています。 入力:網迫、土屋隆 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http: //www.aozora.gr.jp/) で作られました。入力、校 正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ---------------------------------------------------------------------- 妖婆 岡本綺堂 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)諺《ことわざ》 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)御|奇特《きとく》 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)あっ[#「あっ」に傍点]と -------------------------------------------------------      一 「番町の番町知らず」という諺《ことわざ》さえある位であるから、番町の地理を説明するのはむずかしい。江戸時代と東京時代とは町の名称がよほど変っている。それが又、震災後の区劃整理によってさらに変更されるはずであるから、現代の読者に対して江戸時代の番町の説明をするなどは、いたずらに人をまご付かせるに過ぎないことになるかも知れない。  その理由で、わたしはここで番町という土地の変遷などについて、くだくだしく説明することを避けるつもりであるが、ただこの物語の必要上、今日《こんにち》の一番町は江戸時代の新道五番町(略して新五番町ともいう)と二番町、濠端一番町を含み、上二番町と下二番町は裏二番町通り、麹町谷町北側、表二番町通り南側を含み、五番町は濠端一番町の一部と五番町を合せているのである事だけを断って置きたい。そうして、この辺はほとんどみな大名屋敷か旗本屋敷、ことに旗本屋敷の多かったことをも断って置かなければならない。なぜならば、この物語は江戸時代の嘉永四年正月に始まるからである。  この年の正月は十四日から十七日まで四日間の雪を見た。勿論、そのあいだに多少の休みはあったが、ともかく四日も降りつづいたのは珍らしいといわれて、故老の話し草にも残っている。その二日目の十五日の夜に、麹町谷町の北側、すなわち今日の下二番町の高原織衛という旗本の屋敷で、歌留多《カルタ》の会が催された。あつまって来た若侍は二十人余りであったが、そのなかで八番目に来た堀口弥三郎は、自分よりもひと足さきに来ている神南佐太郎に訊いた。 「おい、神南。貴公は鬼ばばで何か見なかったか。」 「鬼ばばで……。」と、神南は少し考えていたが、やがてうなずいた。「うむ、道ばたに婆が坐っていたようだったが……。」 「それからどうした。」 「どえするものか、黙って通って来た。」と、神南は事もなげに答えた。  十三番目に森積嘉兵衛が来た。その顔をみると堀口はまた訊いた。 「貴公は鬼ばばで何か見なかったか。」 「あの横町に婆が坐っていた。」 「それからどうした。」 「乞食だか何だか知らないが、この雪の降る中に坐っているのは可哀そうだったから、小銭を投げてやって来た。」と、森積は答えた。 「それは貴公にはめずらしい御|奇特《きとく》のことだな。」と、神南は笑った。「しかし考えてみると不思議だな。この雪のふる晩に、あんな人通りの少ないところに、なんだって坐っているのだろう。頭から雪だらけになっていたようだ。」 「むむ、不思議だ。それだから貴公たちに訊いているのだ。」と、堀口は子細らしく考えていた。 「堀口はしきりに気にしているようだが、一体その婆がどうしたというのだ。」と、主人の織衛も啄《くち》をいれた。 「いや、御主人。実はこういうわけです。」と、堀口は向き直って説明した。「ただいま御当家へまいる途中で、あの鬼婆横町を通りぬけると、丁度まんなか頃の大溝《おおどぶ》のふちに一人の婆が坐っているのです。なにしろ頭から一面の雪になっているので、着物などは何を着ているのか判らない。唯からだじゅうが真っ白に見えるばかりですから、わたしも最初は雪|達磨《だるま》が出来ているのかと思ったくらいでしたが、近寄ってよく見ると、確かに生きている人間で、雪の中に坐ったままで微かに息をついているのです。」 「病気で動かれなくなったのではないかな。」と、織衛は言った。 「わたしもそう思ったので、立ちどまって声をかけて、おい、どうしたのかと言うと、その婆のすがたは消えるように見えなくなってしまったのです。なにしろ薄暗いなかで、雪明かりを頼りにぼんやり見たのですから自分にも確かなことは判りません。もしや自分の空目《そらめ》かと思ったのですが、どうもそうばかりではないらしく、一人の婆が真っ白な姿で路ばたに坐っていたのは本当のように思われてならないのです。それで、あとから来たものを一々詮議しているのですが、神南も見たと言い、森積も見たと言うのですから、もう疑うことはありません。やはりその婆が坐っていたのです。」[#「です。」」は底本では「です」]  堀口が不思議そうに説明するのを聞いて、織衛も眉をよせた。 「その婆が坐っていたのはいいとして、貴公が近寄ると消えてしまったというのは少しおかしいな。森積、貴公が銭をなげてやったらその婆はどうした。」  その問いに対して、森積嘉兵衛ははっきりと答えることが出来なかった。彼は雪中に坐っている老婆に幾らかの小銭を投げ与えたままで、ろくろくに見返りもせずに通り過ぎてしまったのであるから、老婆が喜んだか怒ったか、あるいは銭を投げられると共に消え失せてしまったか、それらの事は見届けなかったと彼は言った。  堀口が声をかけて立寄ると、老婆のすがたは消え失せた。最初の神南は係り合わずに通り過ぎた。十三番目の森積は銭をなげて通った。いずれにしても、この雪のふる宵に、ひとりの老婆が路ばたに坐っていたのは事実である。それが第一におかしいではないかと、一座の人々も言い出した。織衛のせがれ余一郎は念のために見届けに行って来ようかと起ちかかるのを、父は制した。 「まあ、待て。わざわざ見届けに行くほどのこともあるまい。まだ後から誰か来るだろう。」  高原の屋敷へ来る者はかならずその道を通るとは限らない。前にいった新五番町や濠端一番町方面に住んでいる者が、近道を取るために通りぬけるのであるから、神南、堀口、森積の三人以外に、誰がその道を通るかと数えると、同じ方向から来る者のうちに石川房之丞があった。 「石川もやがて来るだろうから、その話を聞いた上のことだ。」と、織衛は言った。  そのうちに他の人々もおいおいに集まって来たが、石川はまだ見えなかった。これが常の場合ならば、遅参の一人や二人は除《の》け者にして、すぐに歌留多に取りかかるのであるが、今夜にかぎってどの人も石川の来るのが待たれるような心持で、彼の顔を見ないうちは誰も歌留多を始めようと言い出した者もなかった。歌留多の会が百物語の会にでも変ったように、一種の暗い空気がこの一座を押し包んで、誰も彼もみな黙っていた。十畳と八畳の二間をぶち抜いた座敷の真ん中に、三つの大きい燭台の灯が気のせいかぼんやりと曇って、庭先の八つ手の葉にさらさらと舞い落ちる雪の音が静かにきこえた。  日の暮れた後、ひとりの老婆が雪の降る路ばたに坐っていたというのは、なるほど不思議といえば不思議であるが、さらに人々を不思議がらせたのは、その場所が鬼婆横町であるということであった。横町は新五番町の一部で、普通の江戸絵図には現われていないほどの狭い路で、俗にいう三町目谷の坂下から東へ入るのである。ここらの坂下は谷と呼ばれるほどの低地で、遠い昔には柳川という川が流れていたとか伝えられ、その川の名残りかとも思われる大溝が、狭く長い横町の北側を流れて、千鳥ヶ淵の方向へ注ぎ入ることになっている。その横町を江戸時代には俗に鬼婆横町と呼び慣わしていた。  鬼婆という怖ろしい名がどうして起ったかと聞くと、いつの頃のことか知らないが、麹町通りの或る酒屋へ毎夕ひとりの老婆が一合の酒を買いに来る。時刻は暮れ六つの鐘のきこえるのを合図に、雨の夕も風の日もかならず欠かさずに買いに来るので、店の者も自然に懇意になって、老婆を相手に何かの世間話などをするようになったが、かれはこの近所の者であるというばかりで、決して自分の住所を明かさなかった。幾たび訊いても老婆はいつもあいまいな返事をくり返しているので、店の者共もすこしく不審に思って、事を好む一人が或るとき見え隠れにそのあとを付けて行くと、かれは三町目谷の坂下から東へ切れて、かの横町へはいったかと思うと忽ちに姿を消してしまったので、あとをつけて行った者は驚いて帰った。  その報告を聞いた酒屋ではいよいよ不審をいだいて、老婆が重ねて来たらば更に尾行してその正体を突きとめる手筈をきめていると、かれはその翌日から酒屋の店先にその姿をみせなくなった。その後、三日経っても、五日経っても、老婆は酒を買いに来なかった。かれは自分のあとを付けられたことを覚ったらしく、永久にその酒屋に近づかなくなったのである。  そういうわけで、かれの身許は勿論わからないが、かの横町へはいってその姿が消えたというので、かれは唯の人間でないという噂が伝えられて、その横町に鬼婆の名がかぶせられたのである。江戸が東京とかわった後、その大溝はよほど狭められ、さらに震災後の区劃整理によって、溝は暗渠に作りかえられ、路幅も在来の三倍以上の広い明るい道路に生れ変って、まったく昔の姿を失ってしまったが、明治の末頃までは鬼婆横町の俗称が古老の口に残っていて、我れわれが子供の時代にはその物凄い名に小さい魂をおびやかされたものであった。  大田蜀山人の「一話一言」にもおなじような怪談が伝えられている。天明五年の頃、麹町に十兵衛という飴屋があって、平素から正直者として知られていたが、ある日の夕方に見馴れない男の子が来て店先に遊んでいるので、十兵衛は商売物の飴をやると彼はよろこんで帰った。その以来、夕方になると彼は飴を貰いに来た。それが幾日も続くばかりか、かつてここらに見かけない子供であるので、十兵衛もすこしく不審をいだいて、ある日ひそかにその後を付けてゆくと、彼は半蔵門の堤《どて》づたいに歩み去って、濠の中へはいってしまったので、さてはお濠に棲む河童《かっぱ》であろうと思った。男の子はその後しばらく姿を見せなかったが、ある日又たずねて来て、さきごろの飴の礼だといって、一枚の銭を呉れて行った。銭は表に馬の形があらわれていて、裏には十二支と東西南北の文字が彫られてあったということである。こうした類の怪談は江戸時代の山の手には多く伝えられていたらしい。  そこで、今夜かの三人の若侍が見たという怪しい老婆も、その場所が鬼婆横町であるだけに、もしやかの伝説の鬼婆ではないかという疑いが諸人の胸にわだかまって、歌留多はそっちのけに、専らその妖婆の問題を研究するようになったのである。 「石川は遅いな。」と、言い合せたように二、三人の口から出た。  その時である、用人の鳥羽田重助があわただしくこの座敷へはいって来た。 「石川さんが御門前に坐っているそうでございます。」 「石川が坐っている……。どうした、どうした。」  待ち兼ねている人々はばらばらと座を起った。      二  石川房之丞が高原の屋敷の門前に坐っていたというのは、門番の報告である。門前が何か物騒がしいように思ったので、彼は窓から表を覗くと、一人の侍が傘をなげ捨てて刀をぬいて、そこらを無暗に斬り払っているようであったが、やがて刀を持ったままで雪のなかに坐り込んでしまった。  酔っているのかどうかしたのかと、門番は潜《くぐ》り門をあけて出ると、それはかの石川房之丞であることが判った。石川はよほど疲れたように、肩で大きい息をしながら空《くう》を睨んでいるので、ともかくも介抱して玄関へ連れ込んで、その次第を用人の鳥羽田に訴えると、鳥羽田もすぐ出て行って、女中たちに指図してまず石川のからだの雪を払わせ、水など飲ませて置いて奥へ知らせに来たのであった。 「さあ、しっかりしろ、しっかりしろ。」  大勢に取巻かれながら、石川は座敷へはいって来た。石川はことし二十歳《はたち》で、去年から番入りをしている。彼の父は小笠原流の弓術を学んで、かつて太郎射手《たろういて》を勤めたこともあるというほどの達人であるから、その子の石川も弓をよく引いた。やや小兵《こひょう》ではあるが、色のあさ黒い、引緊った顔の持主で、同じ年ごろの友達仲間にも元気のよい若者として知られていた。その石川の顔が今夜はひどく蒼ざめているのが人々の注意をひいて、主人の織衛は笑いながら訊いた。 「石川、どうした。気でも違ったか。」 「いや、気が違ったとも思いませんが……。」と、石川は俯向きながら答えた。「しかしまあ気が違ったようなものかも知れません。考えると、どうも不思議です。」  不思議という言葉に、人々は耳を引立てた。一座の瞳《ひとみ》は一度に彼の上にあつまると、石川もだんだんに気が落ちついて来たらしく、主人の方に正しくむかって、いつものようにはきはきと語りつづけた。 「出先によんどころない用が出来て、時刻がすこし遅くなったので、急いで家を出て、鬼ばば横町にさしかかると、横町の中ほどの大溝のきわに、ひとりの真っ白な婆が坐っているのです。」 「やっぱり坐っていたか。」と、堀口は思わず喙《くち》をいれた。 「むむ、坐っていた。」と、石川はうなずいた。「おかしいと思って近寄ると、その婆のすがたは見えなくなった。いや、見えなくなったのではない。いつの間にか二、三間さきへ引っ越しているのだ。いよいよおかしいと思って又近寄ると、婆のすがたは又二、三間さきに見える。なんだか焦《じ》らされているようで、おれも癪に障ったから、穿いている足駄をぬいで叩きつけると、婆の姿は消えてしまって、足駄は大溝のなかへ飛び込んだ。」 「やれ、やれ。」堀口は舌打ちした。 「仕方がないから、おれも思い切って跣足《はだし》になって、横町を足早に通りぬけると、それぎりで婆の姿は見えなくなった。これは自分の眼のせいかしらと思いながら、ここの屋敷の門前まで来ると、婆はもう先廻りをして雪の降る往来なかに坐っているのだ。貴様はなんだと声をかけても返事をしない。おれももう我慢が出来なくなったから、傘をほうり出して刀をぬいて、真っ向から斬り付けたが手応《てごた》えがない。と思うと、婆はいつの間におれのうしろに坐っている。こん畜生と思って又斬ると、やっぱり何の手応えはなくって、今度はおれの右の方に坐っている。不思議なことには決して立たない、いつでも雪の上に坐っているのだ。  こうなると、おれも少しのぼせて来て、すぐに右の方へ斬り付けると、婆め今度は左に廻っている。左を斬ると、前に廻っている。前を斬ると、うしろに廻っている。なにしろ雪の激しく降るなかで、白い影のような奴がふわりふわりと動いているのだから、始末に負えない。おれもしまいには夢中になって、滅多なぐりに斬り散らしているうちに、息が切れ、からだが疲れて、そこにどっかりと坐り込んでしまったのだ。」 「婆はどうした。」と、神南が訊いた。 「どうしたか判らない。」と、石川は溜息をついた。「門番の眼にはなんにも見えなかったそうだ。」 「なんだろう。それが雪女郎というものかな。」と、他の一人が言った。 「それとも、やっぱり例の鬼婆かな。」と、又ひとりが言った。 「むむ。」と、主人の織衛はかんがえていた。「越後には雪女郎というものがあると聞いているが、それも嘘だか本当だか判らない。北国でいう雪志巻《ゆきしまき》のたぐいで、激しい雪が強い風に吹き巻かれて女のような形を見せるのだという者もある。鬼ばば横町の鬼婆だっていつの昔のことか判らない。もし果してそんな婆が棲んでいるならば、今までにも誰か出逢った者がありそうなものだが、ついぞそんな噂を聴いたこともないからな。」  石川ひとりの出来事ならば、心の迷いとか眼のせいとかいうことになるのであるが、神南といい、堀口といい、森積といい、ほかにも三人の証人があるのであるから、織衛も一方に否認説を唱えながらも、さすがにそれを力強く主張するほどの自信もなかった。さっきから待ちかねていた伜の余一郎は思い切って起ち上がった。 「お父さん、やっぱり私が行って見て来ましょう。」 「では、おれが案内する。」と、神南と堀口も起った。  まだほかにも五、六人起ちかかったが、夜中に大勢がどやどやと押出すのは、世間騒がせであるという主人の意見から、余一郎と神南と堀口の三人だけが出てゆくことになった。  むかしの俳句に「綱が立って綱が噂の雨夜哉」というのがある。渡辺綱が羅生門と行きむかったあとで、綱は今頃どうしているだろうという噂の出るのは当然である。この席でもやはり、三人の噂をしているうちに、雪の夜はおいおいに更けた。余一郎らは張合い抜けのしたような顔をして引揚げて来て、屋敷から横町までの間には何物もみえなかった、横町は念のために二度も往復したが、そこにも犬ころ一匹の影さえ見いだされなかったと報告した。 「そうだろうな。」と、織衛はうなずいた。  そんなことに邪魔をされて、今夜の歌留多会はとうとうお流れになってしまった。夕方から用意してあった五目鮨がそこに持ち出され、人々は鮨を食って茶を飲んで、四つ頃(午後十時)まで雑談に耽っていたが、そのあいだにも石川はいつもほどの元気がなかった。それは武士たるものがかの妖婆に悩まされたということが、なにぶん面目ないのであろうと一座の者にも察せられた。  果して彼はひと足さきへ帰ると言い出した。 「御主人、今晩はいろいろ御厄介になりました。」  挨拶して起とうとする彼を、堀口はひき止めた。 「まあ、待てよ。どうせ同じ道じゃないか。一緒に帰るからもう少し話して行けよ。」 「いや、帰る。なんだか、風邪でも引いたようでぞくぞくするから。」 「ひとりで帰ると、又鬼婆にいじめられるぞ。」と、堀口は笑った。  石川は無言で袂を払って起った。      三  一座の話は四つ半頃(午後十一時)まで続いた。歌留多会は近日さらに催すということにして、二十人余りの若侍は主人に暇を告げて、どやどやと表へ出ると、更けるに連れて、雪はいよいよ激しくなった。思いのほかに風はなくて、細かい雪が静かに降りしきっているのであった。 「こりゃ、積もるぞ。あしたは止んでくれればいいが……。」  こんなことを言いながら、人々は門前で思い思いに別れた。神南佐太郎、堀口弥三郎、森積嘉兵衛、この三人はおなじ方角へ帰るのであるから、連れ立って鬼婆横町を通り抜けることになると、西から東へ抜ける狭い横町は北風をさえぎって、ここらの雪は音もなしに降っていた。南側の小屋敷の板塀や生垣はすべて白いなかに沈んで、北側の大溝も流れをせかれたように白く埋められていた。三人がつづいて横町へはいると、路ばたの大きい椎の木のこずえから、鴉らしい一羽の鳥がおどろかされたように飛び起った。  神南と堀口は先刻探険に来て、妖婆の姿がもう見えないことを承知していたが、それでもこの横町へ踏み込むと、幾分か緊張した気分にならないわけにはいかなかった。森積も同様であった。隙間もなく降る雪のあいだから、行く手に眼を配りながらたどって行くと、二番目に歩いている堀口が、何物にかつまずいた。それは足駄の片方であるらしかった。 「これは石川がさっき脱いだのかも知れないぞ。」  言うときに真っ先に進んでいる神南は、小声であっ[#「あっ」に傍点]と叫んだ。 「あ。又あすこに婆らしいものがいるぞ。」  横町の中ほどの溝のふちには、さっきと同じように真っ白な物が坐っているらしかった。それはもう二間ほどの前であるので、三人は思わず立ちどまって透かし視ようとする間もなく、かの白い影は忽ちすっくと起ちあがった。  こちらの三人は、路が狭いのと、傘をさしているのとで、自由に身をかわすことが出来なかった。白い物はさきに立っている神南の傘の下を掻いくぐって、二番目に立っている堀口に飛びかかった。 「さっきの一言おぼえているか。」  それが石川の声であると覚った時には、堀口は傘越しに肩さきを斬られて雪のなかに倒れていた。神南も森積もおどろいて前後から支えようとすると、石川は身をひるがえして大溝へ飛び込んで、川獺《かわうそ》のように素ばやく西のかたへ逃げ去った。あっけに取られたのは神南ら二人である。かれらは石川を追うよりもまず堀口を抱え起して介抱すると、疵は左の肩先を深く斬り下げられていた。幸いに堀口の屋敷は近所であるので、神南は残って彼を介抱し、森積はその次第を注進に駈けて行った。  堀口の屋敷から迎いの者が来て、手負いを連れて戻ったが、なにぶんにも疵が重いので治療が届かなかった。あくる朝、その知らせに驚かされて、高原の屋敷から余一郎が見舞にかけ付けた時には、堀口はもうこの世の人ではなかった。家内の人々の話によると、彼は苦しい息のあいだに、白い婆が枕もとに来ていると、幾たびか繰返して言ったそうである。それを聞いて余一郎はいよいよ顔色を暗くした。  下手人の石川の詮議は厳重になった。彼が堀口に斬りかかる時に「さっきの一言」と言ったのから想像すると、高原の屋敷で「一人で帰ると、また鬼婆にいじめられるぞ」と堀口にからかわれたのを根に持ったものらしい。それだけの意趣《いしゅ》で竹馬の友ともいうべき堀口を殺害するとは、何分にも解し難いことであるという説もあったが、それを除いては他に子細がありそうにも思えなかった。殊に本人の口から「さっきの一言」と叫んだのであるから、それを証拠とするほかはなかった。それらの事情も本人を取押えれば明白になるのであるが、石川はその場から姿を消してしまって、自分の屋敷へも戻らなかった。  あくる十六日も雪は降りつづいた。堀口の屋敷では、今夜が通夜であるというので、高原の余一郎や、神南や森積は勿論、かるた会の仲間たちも昼間からみな寄り集まっていた。高原織衛も平生からの知合いといい、殊に自分の屋敷の歌留多会から起ったことであるので、伜ばかりを名代に差出しても置かれまいと思って、日が暮れてから中間《ちゅうげん》ひとりに提灯を持たせて、自分も堀口の屋敷へ悔みに[#「悔みに」は底本では「侮みに」]ゆくことにした。灯ともし頃から小降りにはなったが、それでも細かい雪がしずかに降っていた。今夜も風のない夜であった。  三町目谷の坂下へ来かかると、麹町通りの方から雪を蹴るようにして足早に降りて来る人々があった。かれらは無提灯であったが、近寄るにしたがって織衛の提灯の火に照らし出されたのは、石川房之丞の父の房八郎と、その弟子の矢上鉄之助であった。二人ともに合羽をきて、袴の股立《ももだ》ちを取って、草鞋をはいていた。房八郎は去年から伜に番入りをさせて、自分は隠居の身となったが、ふだんから丈夫な質《たち》であるので、今でも大勢の若い者を集めて弓術の指南をしている。ゆうべの一条について、彼は自分の責任としても伜のゆくえを早く探し出さなければならないというので、弟子の矢上を連れて早朝から心当りを隈なく尋ねて歩いたが、どこにも房之丞の立廻ったらしい形跡を見いだすことが出来ないで、唯今むなしく帰って来たところであった。 「卑怯な伜め。未練に逃げ隠れて親の顔にも泥を塗る、にくい奴でござる。」と、房八郎は嘆息した。  かれは見あたり次第に伜を引っ捕えて、詰腹を切らせる覚悟であったらしい。彼が平生の気性を知っている織衛は、それを察して気の毒にも思ったが、今更なんと言って慰める言葉もなかった。房八郎の師弟と織衛の主従とは相前後して鬼婆横町にはいると、その中程まで来かかった時に、織衛の中間は立ちどまって提灯をむこうへ差向けて、「あれ、あすこに……。」と、ややおびえたような声でささやいた。  大溝のふちには白い物が坐っていた。それが問題の妖婆かと、織衛がきっと見定めるひまもなく、房八郎は弟子に声をかけた。 「矢上、それ。」  師匠と弟子は走りかかって、左右からかの怪物を取押えると、怪物はのめるようにぐたりと前に倒れた。倒れると共に、それを埋めている雪の衣は崩れ落ちて、提灯の火の前にその正体をあらわした。彼は石川房之丞で、見ごとに腹をかき切っていた。ゆうべから何処に忍んでいて、いつこのところへ立戻って来たのか知らないが、彼はあたかもかの妖婆が坐っていたらしい所をえらんで、おなじように坐って、同じように雪に埋められて、真っ白になって死んでいたのであった。  四人は黙って顔をみあわせていた。  この事件あって以来、鬼婆横町の名がさらに世間に広まったが、雪中の妖婆は何の怪物であるか判らなかった。それが伝説の鬼婆であるとしても、なぜ或る時にかぎってその姿をあらわしたのか、そんな子細はもとより判ろう筈はなかった。かの妖婆をみたという四人の若侍のうちで、堀口は石川に殺され、石川は自殺した。なんにも係合いなしに通り過ぎた神南は、無事であった。かれに銭をあたえて通ったという森積は、その翌年の正月に抜擢されて破格の立身をした。  その後、この横町で、ふたたび鬼婆のすがたを認めたという者はなかった。 底本:「異妖の怪談集 岡本綺堂伝奇小説集 其ノ二」原書房    1999(平成11)年7月2日第1刷 初出:「文藝倶樂部」    1928(昭和3)年4月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。 ※「啄《くち》」と「喙《くち》」、「古老」と「故老」の混在は底本の通りとしました。 入力:網迫、土屋隆 校正:門田裕志、小林繁雄 2005年6月26日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 -------------------------------------------------------------------------------- 怪獣 岡本綺堂 「やあ、あなたも……。」と、藤木博士。 「やあ、あなたも……。」と、私。  これは脚本風に書くと、時は明治の末年、秋の宵。場所は広島停車場前の旅館。登場人物は藤木理学博士、四十七、八歳。私、新聞記者、三十二歳。  わたしは社用で九州へ出張する途中、この広島の支局に打合せをする事があって下車したのである。支局では大手町の旅館へ案内してくれたが、その本店には多数の軍人が泊り合せていたので、さらに停車場前の支店へ送り込まれた。どこの土地へ行っても、停車場前の旅館はとかくにざわざわして落着きのないものであるが、ここは旧大手前の姿をそのままに、昔ながらの大きい松並木が長く続いて、その松の青い影を前に見ながら、旅館や商家が軒をつらねているので、他の停車場前に見られないような暢《のび》やかな気分を感じさせるのが嬉しかった。  風呂にはいって、ゆう飯を済ませて、これから川端でも散歩してみようかなどと思いながら、二階の廊下へ出て往来をながめている時、不意にわたしの肩を叩いて「やあ。」と声をかけた人がある。振返ると、それは東京の藤木博士であった。  私は社用で博士の自宅を二、三回訪問したことがある。博士の講演もしばしば聴いている。そんなわけで博士とはお馴染であるが、思いも寄らないところで顔を見合せてちょっとおどろかされた。「これからどちらへ……。」と、わたしは訊いた。博士は某官庁の嘱託になっているから、何かの用件で地方へ出張するのであろうと想像したのであった。 「いや、まっすぐに東京へ帰るのです。」と、博士は答えた。  博士の郷里は九州の福岡で、その実家にいる弟の結婚式に立会うために、先日から帰郷していたのであるが、式もめでたく終って東京へ帰るという。  九州から東京へ帰る博士と、東京から九州へゆく私と、あたかも摺れ違いに、この宿の二階で落合ったのである。機会がなければ、同じ旅館に泊り合せても、たがいに知らず識らずに別れてしまうこともある。一夜の宿で知人に出逢うのは、ほかの場所で出逢った時よりも、特別に懐かしく感じられるのが人情であろう。博士はふだんよりも打解けて言った。 「どうです。用がなければ、私の座敷へ遊びに来ませんか。」 「はあ。お邪魔に出ます。」  川ばたの散歩はやめにして、わたしは直ぐに博士のあとに付いてゆくと、廊下を二度ほど曲った所にある八畳の座敷で、障子の前の縁先には中庭の松の大樹が眼隠しのように高く聳えていた。女中を呼んで茶を入れ換えさせ、ここの名物柿羊羹の菓子皿をチャブ台に載せて、博士は私と差向いになった。今晩は急に冷えてまいりましたと、女中も言っていたが、日が暮れてから俄かに薄ら寒くなった。その頃わたしはちっとばかり俳句をひねくっていたので、夜寒《よさむ》の一句あるべきところなどとも思った。 「九州はどっちの方へ行くのですか。」 「九州は博多……久留米……熊本……鹿児島……。」と、わたしは答えた。「まだ其他にも四、五ヵ所ばかり途中下車の予定です。」 「ははあ。では、鹿児島本線視察というような訳ですな。」 「まあまあ、そんなわけです。」 「九州は初めてですか。」 「博多までは知っていますが、それから先は初旅です。」 「それでは面白いでしょう。」と、博士は微笑した。「私は九州の生れではあり、殊に旅行は好きの方であるから、学生時代にも随分あるき廻りました。その後も郷里へ帰省するたびに、時間の許すかぎりは方々を旅行したので、九州の主なる土地には靴の跡を留《とど》めているというわけです。あなたは今度の旅行は本線だけで、佐賀や長崎の方へお廻りになりませんか。」 「時間があれば、そっちへも廻りたいと思っています。それに、Mの町には私の友人が旅館を営んでいるので、ついでに尋ねて見たいとも考えているのですが……。」 「Mの町の旅館……。なんという旅館ですか。」と、博士は何げないように訊《き》いたが、その眼は少しく光っているようにも見られた。 「Sという旅館です。停車場からは少し遠い町はずれにあるが、土地では旧家だということで……。その次男は東京に出ていて、わたしと同じ学校にいたのです。」 「その次男という人は国へ帰っているのですか。」 「わたしと同時に卒業して、東京の雑誌社などに勤めていたのですが、家庭の事情で帰郷することになって、今では家の商売の手伝いをしています。」 「いつごろ帰郷したのですか。」  それからそれへと追窮するような博士の態度を、わたしは少しく怪しみながら答えた。 「五年ほど前です。」 「五年ほど前……。」と、博士は過去を追想するように言った。「わたしが泊まったのは七年前だから、その頃にはまだ帰っていなかったのですね。」 「じゃあ、あなたもその旅館にお泊りになった事があるんですか。」 「あります。」と、博士はうなずいた。「その土地に流行する一種の害虫を調査するために、一ヵ月ほどもMの町に滞在していました。そのあいだに近所の町村へ出張したこともありましたが、大抵はS旅館を本陣にしていました。あなたの言う通り、土地では屈指の旧家であるだけに、旅館とはいいながら大きい屋敷にでも住んでいるような感じで、まことに落ちついた居心地のいい家でした。老主人夫婦も若主人夫婦も正直な好人物で、親切に出這入りの世話をしてくれましたが……。」  言いかけて、博士は表に耳を傾けた。 「雨の音ですね。」 「降って来たようです。」と、わたしも耳を傾けながら言った。「さっきまで晴れていたんですが……。」 「秋の癖ですね。」  ふたりは暫く黙って雨の音を聴いていたが、やがて博士は又しずかに言い出した。 「あなたはS旅館の次男という人から何か聴いたことがありますか、あの旅館にからんだ不思議な話を……。」 「聴きません。S旅館の次男‐名は芳雄といって、私とは非常に親しくしていましたが、自分の家について不思議な話なぞをかつて聴かせたことはありませんでした。一体それはどういう話です。」 「わたしも科学者の一人でありながら、真面目でこんなことを話すのもいささかお恥かしい次第であるが、とにかくこれは嘘偽りでない、わたしが眼《ま》のあたりに見た不思議の話です。S旅館も客商売であるから、こんなことが世間に伝わっては定めて迷惑するだろうと思って、これまで誰にも話したことは無かったのですが、あなたがその次男の親友とあれば、お話をしても差支えは無かろうかと思います。今もいう通り、それは不思議の話‐まあ、一種の怪談といってもいいでしょう。お聴きになりますか。」 「どうぞ聴かせて下さい。」と、わたしは好奇の眼をかがやかしながら、問い迫るように相手の顔をみつめた。  話の邪魔をすまいとするのか、表の雨の音はやんだらしい。ただ時どきに軒を落ちる雨だれが、何かをかぞえるように寂しくきこえた。博士は座敷の天井をみあげて少しく考えているらしかったが、下座敷の方で若い女が何か大きい声で笑い出したのを合図のように、居ずまいを直して語り出した。       二  わたしがMの町へ入り込んで、S旅館−仮に曽田屋《そだや》といって置こう。−の客となったのは七年前の八月、残暑のまだ強い頃であった。大抵の地方はそうであるが、ここらも町は新暦、近在は旧暦を用いているので、その頃はちょうど旧盆に相当して、近在は盆踊りで毎晩賑わっていた。わたしはその土地特有の害虫を調査研究するために、町役場や警察署などを訪問して、最初の一週間ほどは毎日忙がしく暮らしていたが、それも先ず一と通りは片付いて、二、三日休養することになった。そのあいだに旅館の人たちとも懇意になって、だんだんに家内の様子をみると、老主人は六十前後、長男の若主人は三十前後、どちらも夫婦揃って健康らしい体格の所有者で、正直で親切な好人物、番頭や店の者や女中たちもみな行儀の好い、客扱いの行届いた者ばかりで、まことに好い宿を取当てたと、わたしも内心満足していたが、唯ひとつ私の眉をひそめさせたのは、ここの家の娘達の淫《みだ》らな姿であった。  姉はお政といって二十二、妹はお時といって十九、容貌《きりよう》は可もなく、不可もなく、まず普通という程度であるが、髪の結い方、着物の好みが余りに派手やかで、紅白粉を毒々しいほどに塗り立てた化粧の仕方が、どうしても唯の女とは見えない。勿論、旅館も客商売であるから、その娘たちが相当に作り飾っているのは当然でもあろうが、この姉妹《きようだい》の派手作りは余りに度を越えている。旧家を誇り、手堅いのを自慢にしている此の旅館の娘たちとはどうしても受け取れない。そこらの曖昧茶屋に巣くっている酌婦のたぐいよりも醜い。天草《あまくさ》あたりから外国へ出稼ぎする女たちよりも更に醜い。くどくも言う通り、主人も奉公人もみな正直で行儀のいい此の一家内に、どうしてこんなだらしの無い、見るから淫蕩らしい娘たちが住んでいるのかと、わたしは不思議に思った位であった。  残暑の強い時節といい、旧盆に相当しているせいか、ここらの旅館に泊り客は少なく、最初の二、三日は私ひとりであったが、その後に又ひとりの客が来た。それは大阪辺のある保険会社の外交員で、時どきにここらへ出張して来るらしく、旅館の人たちとも心安そうに話していた。年のころは廿七八で、色の白い、身なりの小綺麗な、いかにも外交員タイプの如才のない男で、おそらく宿帳でも繰って私の姓名や身分を知ったのであろう、朝晩に廊下などで顔を見合せると、「先生、先生。」と、馴れなれしく話し掛けたりした。彼は氷垣明吉という名刺をくれた。  ある日の宵に、わたしは町へ散歩に出た。うす暗い地方の町にこれぞという見る物もないので、わたしは中途から引っ返して、町はずれから近在の方ヘ出ようとすると、二人の男に挨拶された。月あかりで透かして視ると、かれらはこのごろ顔なじみになった町役場の書記と小使で、これから近所の川へ夜釣りに行くというのであった。 「ここらの川では何が釣れます。」  そんな話をしながら、わたしも二人とならんで歩いた。一町あまりも町を離れて、小さい土橋にさしかかると、むこうから男と女の二人連れが来て、私たちと摺れ違って通った。男はわたしを見て俄かに顔をそむけたが、女は平気で何か笑いながら行き過ぎた。 「曽田屋の気違いめ、又あの保険屋とふざけ散らしているな。」と、若い書記は二人のうしろ姿を見送って、幾分の嫉妬もまじっているように罵った。  男は保険会社の社員の氷垣で、女は曽田屋の妹娘のお時であることを、わたしも知っていた。しかも「気違い」という言葉が私の注意をひいた。 「気違いですか、あの娘は……。」 「まあ、気違いというのでしょうな。」と、老いたる小使は苦笑いをしながら答えた。「東京の先生は御存じありますまいが、曽田屋のむすめ姉妹といえば、ここらでは評判の色気違いで……。今夜もあの通り保険屋の若い男と狂い廻っている始末……。親達や兄《あに》さんはまったく気の毒ですよ。」  私もまったく気の毒だと思った。揃いも揃って娘二人があの体《てい》たらくでは、親や兄は定めて困っているに相違ない。普通の人は単に、色気違いとして嘲り笑っているに過ぎないらしいが、わたしから観ると、かの娘らは一種の精神病者か、あるいはヒステリー患者のたぐいであった。みだりに嘲り笑うよりも、むしろ気の毒な痛ましい人々ではあるまいかと思われた。わたしは更に小使にむかって訊いた。 「あの姉妹はいつ頃からあんな風になったのですか。」 「二、三年前……。おととし頃からかな。」と、小使は書記をみかえった。 「そうだ。おととしの夏ごろからだ。」と、書記は冷やかに言った。「あの家《うち》の普請が出来あがった頃からだろう。」 「あの家で普請をした事があるのですか。」 「表の方は元のままですが……。」と、小使は説明した。「なにしろ古い家で、奥の方はだいぶ傷《いた》んでいるところへ、一昨々年《さきおととし》の秋の大風雨《おおあらし》に出逢ったので、どうしても大手入れをしなければならない。それならばいっそ取り毀して建て換えろというので、その翌年の春、職人を入れてすっかり取り毀させて、新しく建て直したのですよ。」  今度初めて投宿した私は、広い旅館の全部を知らないのであるが、小使らの説明によると、曽田屋の家族の住居は、長い廊下つづきで店の方につながっているが、その建物は別棟になっていて、大小五間《いつま》ほどある。おととし改築したというのは其の一と棟で、さすがは大家《たいけ》だけに、なかなか念入りに出来ているという。それだけの話ならば別に子細《しさい》もないが、その住居の別棟が落成した頃から、娘ふたりが今までとは生れ変ったような人間になって、眼にあまる淫蕩の醜態を世間に暴露するに至ったのは、少しく不思議である。 「親たちはそれを打っちゃって置くのですか。」 「いえ、親たちも兄さん夫婦もひどく心配して、初めのうちは叱ったり諭《さと》したりしていたのですが、姉も妹も肯《き》かないのです。なにしろ人間がまるで変ってしまったのですから……。」と、小使は嘆息するように言った。「あれだけの大きい店でもあり、旧家でもあり、お父さんは町長を勤めたこともある位ですから、その家の娘たちが色気違いのようになってしまっては、世間へ対しても顔向けが出来ません。曽田屋でも困り抜いた挙げ句に、姉は小倉にいる親類に預け、妹は久留米の親類にあずける事にしたのですが、それが又いけない。行く先ざきで男をこしらえて……。それも決まった相手があるならまだしもですけれど、学生だろうが、出前持だろうが、新聞売子だろうが、誰でも構わない。手あたり次第に関係を付けて、人の見る眼も憚《はぱか》らずにふざけ散らすというのですから、とてもお話になりません。預けられた家でも呆れてしまって、どこでも断わって返して来る。そうかといって、ほかには変ったことも無いので、気違い扱いにして、病院へ入れるわけにもいかず、座敷牢ヘ押しこめて置くわけにもいかず、困りながらも其のままにして置くと、いつの間にか泊り客と関係する。旅芸人と駈落ちをして又戻って来る。親泣かせというのは全くあの娘たちのことで、どうしてあんな人間になったのか判りませんよ。」 「普請の出来あがる前までは、ちっともおかしなことは無かったのですな。」 「御承知の通り、あすこの兄さんは手堅い一方のいい人です。娘たちもそれと同じように、子供の時からおとなしい、行儀のいい生れ付きであったのですから、本来ならば姉妹ともに今頃は相当のところへ縁付いて、立派なお嫁さんでいられる筈なのですが……。貧乏人の娘なら、いっそ酌婦にでも出してしまうでしょうが、あれだけの家では世間の手前、まさかにそんな事も出来ず、もちろん嫁に貰う人もなし、あんなことをしていて今にどうなるのか。考えれば考えるほど気の毒です。昔から魔がさすというのは、あの娘たちのようなのを言うのでしょうよ。」  現にこの盂蘭盆にも、姉妹そろって踊りの群れにはいって、夜の更けるまで踊っていたばかりか、村の誰れかれと連れ立って、そこらの森の中へ忍び込んだとか、堤の下に転げていたという噂もある。その噂のまだ消えないうちに、妹娘は又もや保険会社の若い男と浮かれている。あの氷垣という男は毎年一度ずつはここらへ廻って来て、曽田屋を定宿《じようやど》としているので、姉とも妹とも関係しているらしいという噂を立てられている。なんにしても困ったものだ、親たちは気の毒だと、老いたる小使は繰り返して言った。  今夜の釣り場は町からよほど距《はな》れていると見えて、これだけの話を聴き終るまでに其処《そこ》らしい場所へは行き着かなかった。人家のまばらな田舎道のところどころに、大きい櫨《はぜ》の木が月のひかりを浴びて自く立っているばかりで、川らしい水明かりは見当らなかった。  どこまでも此の人たちと連立って行くことは出来ない。私はもうここらで引っ返そうと思いながら、やはり一種の好奇心に引摺られて歩きつづけた。 「その普請の前後に、なにか変ったことはなかったのですか。」と、わたしはまた訊いた。今までおとなしかった娘たちの性行が、普請以後俄に一変したというのは、何かの子細ありげにも思われたからであった。 「普請の前後に……。」と、小使は少し考えていたが、別に思い出すようなこともなかったらしい。 「普請中にも変ったことはなかったようだ。まあ、あの一件ぐらいだな。」と、書記は笑いながら言った。 「なんだ、あんなこと……。あははははは」と、小使も笑い出した。 「あの一件とは……。どんな事です。」と、わたしは重ねて訊いた。 「なに、詰まらない事ですよ。」と、若い書記はまた笑った。「曽田屋の別棟は五間《いつま》ぐらいですが、ほかにも手入れをする所が相当にあるので、七、八人の大工が絶えず入り込んで、材木の切り組から出来《しゆつたい》までには三月以上、やがて四月くらいはかかりましたろう。それは一昨年《おととし》の三月頃から五、六月頃にかけてのことで、その仕事に来た大工はみな泊り込みで働いていたんです。そのなかに西山-名は何というのか知りませんが、とにかく西山という若い大工がまじっていました。年はまだ十九とか二十歳《はたち》とかいうんですが、小僧あがりに似合わず仕事の腕はたいへんに優れていて、一人前の職人もかなわない位であったそうです。それが西山という姓を名乗ってはいますが、実は朝鮮人だともいい、又は琉球人の子で鹿児島で育ったのだともいう噂があって、当人に訊いてもはっきりした返事をしないので、まあどっちかだろう、ということになっていました。見たところは内地人にちっとも変らず、言葉は純粋の鹿児島弁でした。色の蒼白い、痩形の、神経質らしい男でしたが、なにしろ素直でよく働き、おまけに腕が優れているというんですから、親方にも仲間にも可愛がられていました。曽田屋の人たちも可愛がっていたそうです。  すると、あしかけ三月目の五月頃のことでした。さっきから問題になっている曽田屋の娘、お政とお時の姉妹が寺参りに行くとかいうので、髪を結い、着物を着かえて、よそ行きの姿で普請場へ行ったんです。母の身支度の出来るのを待っている間に、なに心なく普請場を覗きに行ったんでしょう。その時はちょうど午《ひる》休みで大工も左官もどこへか行っていて、あの西山がたった一人、何か削り物をしていたんです。姉妹もふだんから西山を可愛がっているので、傍へ寄って何か話しているうちに、どういう切っ掛けで何を言い出したのか知りませんが、要するに西山がふたりの娘にむかって、突然に淫《みだ》らなことを言い出したんです。いや、言い出したばかりでなく、何か怪《け》しからん行動に出《い》でたらしいんです。そこへ親方と他の大工が帰って来て、親方はすぐ西山をなぐり付けました。他の職人にも殴られたそうです。  勿論、親方はたいへんに怒って、出入り場のお嬢さん達に不埒《ふらち》を働くとは何事だ。貴様のような奴は何処へでも行ってしまえと呶鳴《どな》る。娘たちは泣き顔になって奥へ逃げ込む。それが老主人夫婦の耳にもはいったんですが、夫婦ともに好い人ですから、怒っている親方をなだめて無事に済ませたんです。怒る筈の主人が却って仲裁役になったんですから、親方も勘弁するのほかはありません。親方は西山を老主人夫婦、若主人夫婦、娘ふたりの前へ引摺って行って、さんざんあやまらせたんです。親方というのは暴《あら》っぽい男で、まかり間違えばぶち殺し兼ねないので、西山も真っ蒼になってしまったそうですよ。はははははは。」 「あの親方に取っ捉まっちゃあ、どんな人間だって堪まるまいよ。あははははは。」  小使も声を揃えて笑った。       三  若い職人が出入り場の娘を口説いて失敗した。単にそれだけの事ならば、世間にありふれた一場の笑い話に過ぎないかも知れない。しかし私は深入りして訊いた。 「その後、その西山という大工は相変らず働いていたのですか。」 「働いていました。」と、書記は答えた。「なんでも其の晩はどこへか出て行って、二時間も三時間も帰って来ないので、あいつ、極まりが悪いので夜逃げでもしたのじゃあないかと言っていると、夜が更けてこっそり帰って来たそうです。そんなことが三晩ばかり続いて、その後は一度も外出せず、いよいよ落成の日までおとなしく熱心に働いていたといいます。」 「西山というのは此の土地の職人ですか。」 「鹿児島から出て来て、一年ほど前から親方の厄介になっていたんですが、曽田屋の普請が済むと、親方にも無断でふらりと立去ってしまって、それぎり音も沙汰もないそうです。たぶん鹿児島へでも帰ったんでしょう。」 「朝鮮だとか琉球だとかいうには、何か確かな証拠でもあるのですか。」 「さあ。証拠があるか無いか知りませんが、職人仲間ではみんなそう言っていたそうですから、何か訳があるんだろうと思います。」  釣り場はいよいよ眼の前にあらわれて、そこにはかなりに広い川が流れていた。書記と小使はわたしに会釈《えしやく》して、すすきの多い堤《どて》を降りて行った。わたしは月を踏んで町の方角へ引っ返した。  どう考えても、曽田屋の一家は気の毒である。殊に本人の娘たちは可哀そうである。前にもいう通り、かの姉妹は色情狂というよりも、おそらく一種のヒステリー患者であろう。書記や小使は格別の注意を払っていないらしいが、姉妹に対する若い大工の恋愛事件、それが何かの強い衝撃を彼女らに与えたのではあるまいか。大工は姉妹にむかって何事を言ったのか、何事を仕掛けたのか、その現場に立会っていた者でない限りは、大方こんな事であったろうと想像するにとどまって、その真相を明らかに知り得ないのである。大工は親方に殴られて、曽田屋の人々に謝罪して、その後はおとなしく熱心に働いていたというが、果たして其の通りであったか。その後にも親方らの眼をぬすんで、若い女たちをおびやかすような言動を示さなかったか。それ等の事情が判明しない以上、この問題を明らかに解決することは不可能である。  しかもあの姉妹が果たしてヒステリー患者であるとすれば、それを救う方法が無いではない。曽田屋の父兄らに注意をあたえて、適当の治療法を講ずればよい。だが困るのは、その問題が問題であるだけに、父兄の方から言い出せば格別、わたしの方から父兄にむかって、ここの家の普請中にこんな出来事があったか、又その後に娘たちがどうして淫蕩の女になったか、それらの秘密を露骨に質問するわけにはゆかない。殊に今度初めて投宿した家で、双方の馴染みが浅いだけに猶更工合が悪い。さりとてこのままに見過すのも気が筈《とが》める。せめては番頭にでも内々で注意して置こうかなどと考えながら、もと来た道をぶらぶらと歩いて来ると、月の明かるい宵であるにも拘らず、どこからどうして出て来たのか判らなかったが、おそらく路ばたの櫨の木の蔭からでも飛び出して来たのであろう、ひとりの男の姿が突然にわたしの行く手にあらわれた。と思う間もなく、つづいて又ひとりの女があらわれた。  その男と女が氷垣とお時であることを私はすぐに覚った。お時は何か小さい刃物を持っているらしく、それを月の光りにひらめかしながら、男に追い迫って来るように見られるので、私もおどろいて遮った。私という加勢を得たので、氷垣も気が強くなったらしく、引っ返して女を取り鎮めようとした。お時は見掛けによらない強い力で暴れ狂ったが、なんといっても相手は男二人であるから、遂にその場に押しすくめられてしまった。彼女はなんにも言わずにあえいでいた。 「君。早く刃物を取りあげたまえ。」と、わたしは氷垣に注意して、お時の手から剃刀を奪わせた。  半狂乱のような女を押さえは押さえたものの、さてどうしていいか、二人はその始末に困っていると、いい塩梅《あんばい》に二人の男が通りかかった。それは氷垣も私も識らない人たちであったが、曽田屋へ出入りの商人であるらしく、彼らはお時をよく知っているので、私たちと一緒に彼女を護衛しながら、無事に町まで送って来てくれた。  暮れても暑い上に、突然こんな事件に出逢ったので、涼みながらの散歩が却って汗を沸かせる種となった。わたしは曽田屋へ帰って、二階の座敷の欄干に倚りかかって、暫く息を休めていると、かの氷垣が挨拶に来た。 「先生。とんだ御迷惑をかけまして、なんとも申し訳がありません。」  彼はひどく恐縮していた。そうして、何か頻りに言訳らしいことを繰返していたが、わたしは別に彼を咎めもしなかった。氷垣の説明によると、今夜はあまり暑いので、自分ひとりで散歩に出ると、あとからお時が追って来て一緒に行こうという。それから連立って村の方へ出ると、お時は更に自分にむかって何処へか連れて逃げてくれという。そんなことは出来ないと断わっても、お時は肯かない。無理になだめて引っ返して来ると、お時は帯のあいだから剃刀を取出して、わたしを連れて逃げるのが忌《いや》ならば一緒に死んでくれという。いよいよ持て余して、しまいには怖くなって逃げ出すところへ、あなたがちょうどに来合せたので、まずは無事に済んだのである。さもなければどういうことになったか判らないと、彼は汗を拭きながら語った。  しかし彼はお時と自分との関係に就いては、なんだか曖昧《あいまい》なことを言っていた。わたしはたって他人の秘密を探り出す必要もなかったが、この際なにかの参考にしたいという考えから、冗談まじりにいろいろ穿索《せんさく》すると、氷垣も結局降参して、実は姉娘のお政とは秘密の関係が無いでもないが、妹のお時とは何の関係もないと白状した。この白状も果たして嘘か本当か判らなかったが、わたしはその以上に追窮することを敢てしなかった。 氷垣が立去ると、入れ代って旅館の番頭が来た。これは氷垣とは違って、見るからに老実そうな五十余歳の男であったが、その来意は氷垣と同様で、家の娘が途中で種々の御迷惑をかけて相済まないという挨拶であった。彼もひどく恐縮していた。氷垣の恐縮はそれに一種の愛矯も含まれていたが、この老番頭の恐縮は痛々しいほどに真面目なものであった。私はいよいよ気の毒に思うと同時に、番頭がここへ来てくれたのは好都合であるとも思った。 「ここの家《うち》の娘さん達は何か病気でもしているのかね。」と、わたしは何げなく訊いた。 「まことにお恥かしい次第でございます。」と、番頭は泣くように言った。「別に病気というわけでもございませんが……。」 「わたしは医者でないから確かなことは言えないが、素人が見て病気でないと思うような人間でも、専門の医者が見ると立派な病人であるという例もしばしばあるから、主人とも相談して念のために医者によく診察して貰ったらいいだろうと思うが……。」 「はい。」  とは言ったが、番頭は難渋らしい顔色をみせた。さしあたり娘たちのからだに異状があるわけでもないのであるから、医者に診て貰えといっても、おそらく当人たちが承知すまい。もう一つには主人らは非常に外聞を恥じ恐れているのであるから、この問題については、娘たちを医者に診察させるなどということには、おそらく同意しないであろうと、彼は言った。  外聞を恐れるというのも一応無理ではないが、これはもう世間に知れ渡っている事実であるから、今さら秘密を守るよりも、進んで医師の診察を求めた方が優《ま》しであると思われたが、何分にも馴染みの浅いわたしとして、あまりに立ち入ってかれこれ云うわけにも行かないので、そのままに黙ってしまった。       四  藤木博士がここまで話して来た時に、夜の雨がまたおとずれて来た。博士はひと息ついて、わたしの顔を暫く眺めていた。 「どうです。これだけの話では格別おもしろくもないでしょう。S旅館の娘ふたりが淫蕩の事実を詳しくお話しすると、確かに一編の小説になると思うのですが……。いや、わたしが聴いただけのことでも、それを正直に書いたら発売禁止は請け合いです。いずれにしても、今までの話だけでは、単にその娘たちが放縦淫蕩の女であったというにとどまって、奇談とかいうほどの価値はないのですが、肝腎の話はこれからですよ。あなたは新聞記者で第六感が働くでしょうが、かの娘たちが俄かに淫蕩な女に生れ変った原因はどこにあると思います。」  こんな問題について第六感を働かせろというのは無理である。私はだまって微笑していると、博士はまた語りつづけた。 「判りませんか。わたしにも判らなかった。実は今でもはっきりと判らないのですが……。私はその後も旅館に三週間ほど滞在していました。そのあいだにもいろいろの事件がありますが、それを一々話していると、どうしても発売禁止の問題に触れますから、一足飛びに最後の事件に到着させましょう。わたしは自分の仕事を終って、いよいよ四、五日中には東京ヘ引揚げよう。その途中、郷里へもちょっと立寄ろうなどと思って、そろそろ帰り支度をしていると、九月のはじめ、例の二百二十日の少し前でした。二日ふた晩もつづいた大風雨《おおあらし》……。一昨々年《さきおととし》の風雨もひどかったが、今度のは更にひどい。こんな大暴れは三十年振りだとかいうくらいで、町も近村もおびただしい被害でした。S旅館もかなりの損害で、庭木はみんな根こぎにされる、塀を吹き倒される、家根《やね》を吹きめくられるという始末。それでも、表の店の方は、建物が古いだけに破損が少ない。こういうときには昔の建物が堅牢であるということを、今更のように感じました。それと反対に奥の別棟、すなわち家族の住居の方は、おととしの新築というにも拘らず、実に惨憺たるありさまで、家根瓦はほとんど完全に吹き飛ばされ、天井板も吹きめくられてしまいました。  風雨が鎮まると、南国の空は高く晴れて、俄かに秋らしい日和《ひより》になりました。旅館では早速に職人をあつめて、被害の修繕に取りかかったのですが、新築の別棟は半分ほども取り毀して、さらに改築しなければならないということでした。あしかけ四年のあいだに二度のあらしを食ったのだから、どこの家も気の毒です。そこで、まず別棟の取り毀しに着手して、天井板をはずしていると、六畳の間の天井裏から不思議な物が発見されたのです。」  博士はなかなか話し上手である。ここで聴き手を焦《じ》らすようにまた一と息ついた。その手に乗せられるとは知りながら、私もあとを追わずにはいられなかった。 「その天井裏から何が出たんです。」 「一対《つい》の人形……木彫りの小さい人形ですよ。」と、博士は言った。「小さいといっても、六、七寸ぐらいで、すこぶる精巧に出来ているのです。わたしも見せて貰いましたが、まったく好く出来ているように思われました。職人たちも感心していました。木地は桂だろうということでした。」 「二つの人形は何を彫ったのですか。」 「それがまた怪奇なもので、どちらも若い女と怪獣の姿です。」 「怪獣……。」 「怪獣……。むかしの神話にも見当らないような怪獣……。むしろ妖怪といった方が、いいかも知れません。その怪獣と若い女……。こんな彫刻を写真に撮って、あなたの新聞にでも掲載してごらんなさい。たちまち叱られます。それで大抵はお察しくださいと言うのほかはありません。実に奇怪を極めたものです。そこで当然の問題は、いったい誰がこんな怪しからん物をこしらえて、この天井裏に隠して置いたかということですが……。あなたは誰の仕業《しわざ》だと鑑定します。」 「朝鮮だとか琉球だとかいう若い大工でしょう。」と、私はすぐに答えた。 「誰の考えも同じことですね。」と、博士はうなずいた。「あなたの鑑定通り、それは西山という若い大工の仕業に相違ないと、諸人の意見が一致しました。娘たちに挑《いど》んで、親方に殴られて、それから三晩ほどは外出して、いつも夜が更けて帰って来たという。おそらく何処へか行って、秘密にかの人形を彫刻していたのであろうと察せられます。そうして、誰にも覚《さと》られないように、その二つの人形を天井裏に忍ばせて置いたのでしょう。六畳の部屋は娘たちの居間です。彼はかねてそれを知っていて、その天井裏に不可解な人形を秘めて置いたのは、娘たちに対する一種の呪《のろ》いと認められます。職人たちの話を聴きますと、自分らの大工のあいだには、そんな奇怪な伝説はないといいます。してみると、彼が他国人であるとかいうのも、まんざら嘘でもないように思われます。彼は親方の家を立去った後、鹿児島ヘ帰った様子もなく、その消息は不明だそうです。あるいは自分の呪いを成就させるために、どこかで自殺したのではないかという説もありますが、確かなことは判りません。」 「そうすると、その人形があった為に、S旅館の娘ふたりは俄かに淫蕩な女に変じたという訳ですね。」と、私はまだ幾分の疑いを抱きながら言った。「そこで、その娘たちはどうしました。」 「娘たちには隠して置こうとしたのですが、何分にも大勢が不思議がって騒ぎ立てるので、とうとう娘たちにも知れました。しかしその話を聴いただけで、別にその人形を見せてくれとも言わず、急に気分が悪いと言い出して、寝込んでしまいました。ふだんならば格別、あらしの被害で大手入れの最中、ふたりの病人が枕をならべて寝ていては困るので、ひとまず町の病院へ入れることにしましたが、姉妹ともに素直に送られて行きました。番頭や女中たちの話によると、半分眠っているようであったといいます。」 「その人形はどう処分しました。」 「家でも人形の処分に困って、いろいろ相談の結果、町はずれの菩提寺へ持って行って、僧侶にお経を読んでもらった上で、寺の庭先で焼いてしまうことにしたのです。それは娘たちが入院してから三日目のことで、この日も初秋らしい風が吹いて空は青々と晴れていました。読経《どきよう》が型の如くに済んで、一対の人形がようやく灰になった時に、病院から使いがあわただしく駈けて来て、姉妹は眠るように息を引取ったと言いました。」 「先生……。」 「いや、まだお話がある。」と、博士は畳みかけて言った。「姉に関係があり、妹に関係があったらしい氷垣という外交員……。彼は先夜の一件以来、旅館にも居にくいようになったと見えて、早々にここを立去って、三里あまりも離れた隣りの町へ引移って、相変らず外交の仕事に歩き廻っていたのですが、例の大風雨の後、近所の川の渡し船が増水のために転覆して、船頭だけは幸いに助かったが、七人の乗客は全部溺死を遂げた。土地の新聞はそれを大々的に報道していましたが、その溺死者の一人に氷垣明吉の名を発見した時、わたしは何だかぞっとしました。但し、それは人形を焼いた当日でなく、その翌日の午前中の出来事でした。」  わたしは息を嚥《の》んで聴いていた。わたしの友人に二人の妹があって、それが流行病で同時に仆《たお》れたという話はかつて聴かされたが、その死に就いてこんな秘密がひそんでいることを、今夜初めて知ったのである。それは流行病以上の怖ろしい最期であった。 「その当時、わたしはコダックを携帯していたので、その怪獣を撮影して置きたいと思ったのですが、遺族の手前、まさかにそんな事も出来ないので、そのままにしてしまいました。」と、博士は言った。                       昭和九年七月作「オール読物」 底本:岡本綺堂読物選集5巻 異妖編 下巻    昭和44年6月30日発行 青蛙房 入力:和井府 清十郎 公開:2006.3. おことわり:つぎの読み仮名を付加しました  不埒《ふらち》  呶鳴《どな》る  筈《とが》める  忌《いや》ならば  焦《じ》らす  覚《さと》られない -------------------------------------------------------------------------------- 鼠《ねずみ》 岡本綺堂      一  大田蜀山人の「壬戌《じんじゆつ》紀行」に木曾街道の奈良井の宿のありさまを叙して「奈良井の駅舎を見わたせば梅、桜、彼岸ざくら、李《すもも》の花、枝をまじえて、春のなかばの心地せらる。駅亭に小道具をひさぐもの多し。膳、椀、弁当箱、杯、曲物《まげもの》など皆この辺の細工なり。駅舎もまた賑わえり。」云々とある。この以上にわたしのくだくだしい説明を加えないでも、江戸時代における木曾路のすがたは大抵想像されるであろう。  蜀山人がここを過ぎたのは、享和二年の四月朔日《ついたち》であるが、この物語はその翌年の三月二十七日に始まると記憶しておいてもらいたい。この年は信州の雪も例年より早く解けて、旧暦三月末の木曾路はすっかり春めいていた。  その春風に吹かれながら、江戸へむかう旅人上下三人が今や鳥居峠をくだって、三軒屋の立場《たてば》に休んでいた。かれらは江戸の四谷忍町《おしまち》の質屋渡世、近江屋七兵衛とその甥の梅次郎、手代の義助であった。 「おまえ様がたはお江戸の衆でござりますな。」と、立場茶屋の婆さんは茶をすすめながら言った。 「はい。江戸でございます。」と、七兵衛は答えた。「若いときから一度はお伊勢さまへお参りをしたいと思っていましたが、その念が叶ってこの春ようようお参りをして来ました。」 「それはよいことをなされました。」と、婆さんはうなずいた。「お参りのついでにどこへかお回《まわ》りになりましたか。」 「お察しの通り、帰りには奈良から京大阪を見物して来ました。こんな長い旅はめったに出来ないので、東海道、帰りには中仙道を回ることにして、無事ここまで帰って来ました。」 「それではお宿へのおみやげ話もたくさん出来ましたろう。」 「風邪《かぜ》も引かず、水中《あた》りもせず、名所も見物し、名物も食べて、こうして帰って来られたのは、まったくお伊勢さまのお蔭でございます。」  年ごろの念願もかない、愉快な旅をつづけて来て、七兵衛はいかにものびやかな顔をして、温かい茶をのみながらあたりの春景色を眺めていると、さっきから婆さんと客の話の途切れるのを待っていたらしく、店さきの山桜の大樹のかげから、ひとりの男が姿をあらわした。かれは六十前後、見るから山国育ちの頑丈そうな大男で、小脇には二、三枚の毛皮をかかえていた。 「もし、お江戸のお客さま。熊の皮を買って下さらんかな。」と、彼は見掛けによらない優しい声で言った。  熊の皮、熊の胆《い》を売るのは、そのころの木曾路の習いで、この一行はここまで来るあいだにも、たびたびこの毛皮売に付きまとわれているので、手代の義助はまたかという顔をして無愛想に断った。 「いや、熊の皮なんぞはいらない、いらない。おれ達は江戸へ帰れば、虎の皮をふんどしにしているのだ。」 「はは、鬼じゃあるまいに……。」と、男は笑った。「そんな冗談を言わないで、一枚おみやげに買ってください。だんだん暖かくなると毛皮も売れなくなる。今のうち廉《やす》く売ります。」 「廉くっても高くっても断る。」と、梅次郎も口を出した。「わたしらは町人だ。熊の皮の敷皮にも坐れまいじゃないか。そんな物はお武家を見かけて売ることだ。」  揃いも揃って剣もほろろに断られたが、そんなことには慣れているらしい男は、やはりにやにやと笑っていた。 「それじゃあ仕方がない。熊の皮が御不用ならぱ、熊の胆《い》を買ってください。これは薬だから、どなたにもお役に立ちます。道中の邪魔にもならない。どうぞ買ってください。」 「道中でうっかり熊の胆などを買うと、偽物《にせもの》をつかまされるということだ。そんな物もまあ御免だ。」と、義助はまた断った。 「偽物を売るような私じゃあない。それはここの婆さんも証人だ。まあ、見てください。」  男はうしろを見かえると、桜のかげからまたひとりが出て来た。それは年ごろ十七八の色白の娘で、手には小さい箱のようなものを抱えていた。身なりはもちろん粗末であったが、その顔立ちといい姿といい、この毛皮売の老人の道連れにはなにぷん不似合いに見えたので、三人の目は一度にかれの上にそそがれた。 「江戸のお客さまを相手にするには、おれよりもお前のほうがいいようだ。」と、男は笑った。「さあ、おまえからお願い申せよ。」  娘は恥かしそうに笑いながら進み出た。 「今も申す通り、偽物などを売るような私らではございません。そんなことをしましたら、福島のお代官所で縛られます。安心してお求めください。」  梅次郎も義助も若い者である。目のまえに突然にあらわれて来た色白の若い女に対しては、今までのような暴《あら》っぽい態度を執るわけにもいかなくなった。 「姐《ねえ》さんがそう言うのだから偽物でもあるまいが、熊の胆はもう前の宿《しゆく》で買わされたのでな。」と、義助は言った。  これはどの客からも聞かされる紋切型の嘘である。この道中で商売をしている以上、それで素直に引下がる筈のないのは判り切っていた。娘は押返して、買ってくれと言った。梅次郎と義助は買うような、買わないような、取留めのないことを言って、娘にからかっていた。梅次郎は、ことし廿一で、本来はおとなしい、きまじめな男であったが、長い道中のあいだに宿屋の女中や茶屋の女に親しみが出来て、この頃では若い女に冗談の一つも言ってからかうようになったのである。義助は二つ違いの廿三であった。  七兵衛はさっきから黙って聞いていたが、その顔色が次第に緊張して来て、微笑を含んでいるそのくちびるが固く結ばれた。彼は手に持つ煙管《きせる》の火の消えるのも知らずに、熊の胆の押売りをする娘の白い顔をじっと眺めていたが、やがて突然に声をかけた。 「もし、おじいさん。その子はおまえの娘かえ、孫かえ。」 「いえ……。」と、毛皮売の男はあいまいに答えた。 「おまえの身寄りじゃあないのかえ。」と、七兵衛はまた訊いた。 「はい」  七兵衛は無言で娘を招くと、娘はすこし躊躇しながら、その人が腰をかけている床几《しようぎ》の前に進み寄った。七兵衛はやはり無言で、娘の右の耳の下にある一つの黒子《ほくろ》を見つめながら、探るようにまた訊いた。 「おまえの左の二の腕に小さい青い癒《あざ》がありはしないかね。」  娘は意外の問いを受けたように相手の顔をみあげた。 「あるかえ。」と、七兵衛は少しせいた。 「はい。」と、娘は小声で答えた。 「店のさきじゃあ話は出来ない。」と、七兵衛は立ちあがった。「ちょいと奥へ来てくれ。おじいさん、おまえも来てくれ。」  その様子がただならず見えたので、男も娘もまた躊躇していたが、七兵衛にせき立てられて不安らしく続いて行った。娘はよろめいて店の柱に突き当った。 「旦那はどうしたのでしょうな。」と、義助も不安らしく三人のうしろ姿をながめていた。 「さあ。」  梅次郎も不思議そうに考えていたが、俄に思い当ったように何事かささやくと、義助もおどろいたように目をみはった。二人は無言でしばらく顔を見あわせていたが、義助は茶屋の婆さんに向って小声で訊いた。 「あの毛皮売のじいさんは何という男だね。」 「その奈良井の宿《しゆく》はずれに住んでいる男で、伊平と申します。」 「あの娘の名は。」 「お糸といいます。」  それからだんだん詮議すると、お糸は伊平の娘でも孫でもなく、去年の秋ももう寒くなりかかった夕ぐれに、ひとりの若い娘が落葉を浴びながら伊平の門口《かどぐち》に立って、今夜泊めてくれと頼んだ。 ひとり旅の女を泊めるのは迷惑だとも思ったが、その頼りない姿が不憫でもあるので、伊平は宿《しゆく》の役人に届けた上で、娘に一夜のやどりを許すことになると、その夜なかに伊平は俄に発熱して苦しみ出した。  伊平は独り者で、病気は風邪をこじらせたのであったが、幸いに娘が泊り合せていたので、彼は親切な介抱をうけた。独り身の病人を見捨てては出られないので、娘はその次の日も留まって看病していたが伊平は容易に起きられなかった。そして、三日過ぎ、五日を送って、伊平が元のからだになるまでには小半月を過ぎてしまった。そのあいだ、かの娘は他人とは思えない程にかいがいしく立ち働いて、伊平を感謝させた。近所の人達からも褒められた。  娘は江戸の生れであるが、七つの時に京へ移って、それから諸国を流浪して、しかも、継母《ままはは》にいじめられて、言いつくされない苦労をした末に、半分は乞食同様のありさまで、江戸の身寄りをたずねて下る途中であるが、長いあいだ音信不通であったので、その身寄りも今はどこに住んでいるか、よくは判らないというのである。  そういう身の上ならば、的《あて》もなしに江戸へ行くよりも、いっそここに足を留めてはどうだと、伊平は言った。近所の人たちも勧めた。娘もそうして下されば仕合せであると答えた。その以来、お糸という娘は養女でもなく、奉公人でもなく、差しあたりは何ということもなしに伊平の家に入り込んで、この頃では商売の手伝いまでもするようになった。お糸は色白の上に容貌《ぎりよう》も悪くない。小さいときから苦労をして来たというだけに、人付合いも悪くない。それやこれやで近所の評判もよく、伊平さんはよい娘を拾い当てたと噂されている。  婆さんの口からこんな話を聞かされているうちに、七兵衛ら三人は奥から出て来た。七兵衛の顔には抑え切れない喜びの色がかがやいていた。      二  近江屋七兵衛がよろこぶのも無理はなかった。彼はこの木曾の奈良井の宿で、一旦失った手のうちの珠《たま》を偶然に発見したのである。  七兵衛は四谷の忍町に五代つづきの質屋を営んでいて、女房お此《この》と番頭庄右衛門のほかに、手代三人、小僧二人、女中二人、仲働き一人の十一人家内で、おもに近所の旗本や御家人《ごけにん》を得意にして、手堅い商売をしていた。ほかに地所家作《かさく》なども持っていて、町内でも物持ちの一人にかぞえられ、何の不足もない身の上であったが、ただひとつの不足――というよりも、一つの大きい悲しみは娘お元のゆくえ不明の一件であった。  今から十一年前、寛政四年の暮春のゆうがたに、ことし七つのひとり娘お元が突然そのゆくえを晦《くら》ました。最初は表へ出て遊んでいるものと思って、誰も気に留めずにいたのであるが、夕飯頃になっても戻らないばかりか、近所にもその姿が見えないというので、家内は俄にさわぎ出した。七兵衛夫婦は気ちがいのようになって、それぞれに手分けをして探させたが、お元のゆくえは遂にわからなかった。  この時代には神隠しということが信じられた。人櫻《ひとさら》いということもしばしば行われた。お元は色白の女の子であるから、悪者の手にかどわかされたのかも知れないという説が多かった。いずれにしても、ひとり娘を失った七兵衛夫婦の悲しみは、ここに説明するまでもない。お此はその後三月ほどもぶらぶら病いで床についたほどであった。七兵衛も費用を惜しまずに、出来るかぎりの手段をめぐらして、娘のゆくえを探り求めたが、飛び去った雛鳥はふたたび元の篭《かご》に帰らなかった。  そのうちに、一年過ぎ、二年を過ぎて、近江屋の夫婦は諦められないながらに諦めるのほかはなかった。それでも何時《いつ》どこから戻って来るかも知れないという空頼みから、近江屋ではその後にも養子を貰おうとはしなかった。お元が無事であれぱ、ことしは十八の春を迎えることになる。ゆくえの知れない子供の年をかぞえて、お此は正月早々から涙をこぼした。  七兵衛が今度の伊勢まいりは四十二の厄除《やくよけ》というのであるが、そのついでに伊勢から奈良、京大阪を見物してあるく間に、もしやわが子にめぐり逢うことがないともいえない。そんな果敢《はか》ない望みも手伝って、長い道中をつづけて来たのであるが、ゆく先々でそれらしい便りも聞かず、望みの綱もだんだんに切れかかって、もう五、六日の後には江戸入りということになった。その木曾街道で測らずも熊の胆を売る娘に出逢ったのである。七つのときに別れたのであるが、その幼な顔が残っている。年ごろも丁度同様である。気をつけて見ると、右の耳の下に証拠の黒子《ほくろ》がある。さらに念のために詮議すると、左の二の腕に青い癒があるという。もう疑うまでもない、この娘はわが子であると、七兵衛は思った。彼は喜んで涙を流した。  正直な伊平は思いもよらぬ親子のめぐり逢いに驚いて、異議なくかれを実の親に引渡すことになったので、七兵衛は多分の礼金を彼にあたえて別れた。お糸という名は誰に付けられたのか好く判らないが、娘はむかしのお元にかえって、十一年目に再会した父と共に奈良井の宿を立去った。甥の梅次郎も手代の義助も、不思議の対面におどろきながら、これも喜び勇んで付いて行った。  江戸を出るときには男三人であったこの一行に、若い女ひとりが加わって帰ったのを見た時に、近江屋の家は引っくり返るような騒ぎであった。女房も番頭も嬉し泣きに泣いた。近江屋からは町《ちよう》役人にも届け出て、お元は再びこの家の娘となった。この話もこれで納まれぱ、筆者もめでたく筆をおくことが出来るのであるが、事実はそれを許さないで、さらに暗い方面へ筆者を引摺って行くのであった。  お元が無事に戻って来たのを聞き、親類たちもみんな喜んで駈けつけた。町内の人々も祝いに来た。その喜ばしさと忙しさに取りまぎれて、当座はただ夢のような日を送るうちに、四月も過ぎて五月もやがて半ぱとなった。このごろは家内もおちついて、毎日ふり続くさみだれの音も耳に付くようになった。その五月末の夕がたに、お元が仲働きのお国と共に近所の湯屋へ行った留守をうかがって、お此は夫にささやいた。 「おまえさんはお元について、なにか気が付いたことはありませんかえ。」 「気が付いたこと……。どんなことだ。」と、七兵衛は少しく眉をよせた。女房の口ぷりが何やら子細ありげにも聞えたからである。 「実はお国が妙なことを言い出したのですが……。」と、お此はまたささやいた。「お元には鼠が付いていると言うのです。」 「なんでそんなことを言うのだ。」 「お国の言うには、お元さんのそばには小さい鼠がいる。始終は見えないが、時々にその姿を見ることがある。お元さんが縁側なぞを歩いていると、そのうしろからちょろちょろと付いて行く……。」 「ほんとうか。」と、七兵衛はそれを信じないようにほほえんだ。 「まったく本当だそうで……。お国だって、まさかそんな出たらめを言やあしますまいと思いますが……。」 「それもそうだが……。若い女なぞというものは、飛んでもないことを言い出すからな。そんな鼠が付いているならばお国ばかりでなく、ほかにも誰か見た者がありそうなものだが::-。」  自分たち夫婦は別としても、ほかに番頭もいる、手代もいる、小僧もいる、女中もいる。それらが誰も知らない秘密を、お国ひとりが知っているのは不審である。奉公人どもについて、それとなく詮議してみろと、七兵衛は言った。しかし多年他国を流浪して来たのであるから、人はとかくにつまらない噂を立てたがるものである。迂闊なことをして、大事の娘に暇《ぎず》を付けてはならない。お前もそのつもりで秘密に詮議しろと、彼は女房に言い含めた。  それから三、四日の後に、甥の梅次郎がたずねて来た。梅次郎は七兵衛の姉の次男で、やはり四谷の坂町に、越前屋という質屋を開いている。万一お元のゆくえがどうしても知れない暁には、この梅次郎を養子にしようかと、七兵衛夫婦も内々相談したことがある。お元が今度発見されると、その相談がいよいよ実現されて、梅次郎をお元の婿に貰おうということになった。勿論それは七兵衛夫婦の内相談だけで、まだ誰にも口外したわけではなかったが、お此のほうにはその下ごころがあるので、きょう尋ねて来た甥を愛想よく迎えた。  梅次郎は奥へ通されて、庭の若葉を眺めながら言った。 「よく降りますね。叔父さんは……。」 「叔父さんは商売の用で、新宿のお屋敷まで……。」 「お元ッちゃんは……。」 「お国を連れて赤坂まで……。」と、言いかけてお此は声をひくめた。「ねえ、梅ちゃん。すこしお前に訊きたいことがあるのだが……。お前、木曾街道からお元と一緒に帰って来る途中で、なにか変ったことでもなかったかえ。」 「いいえ。」  それぎりで、話はすこし途切れたが、やがて梅次郎のほうから探るように訊きかえした。 「叔母さん、なにか見ましたか。」  お此はぎょっとした。それでもかれは素知らぬ顔で答えた。 「いいえ。」  話はまた途切れた。庭の若葉にそそぐ雨の音もひとしきり止んだ。この時、梅次郎は何を見たか、小声に力をこめてお此を呼んだ。 「叔母さん。あ、あれ……。」  彼が指さす縁側には、一匹の灰色の小鼠が迷うように走り廻っていたが、忽ち庭さきに飛びおりて姿を消した。叔母も甥も息をつめて眺めていた。  叔母が言おうとすること、甥が言おうとすること、それが皆この一匹の鼠によつて説明されたようにも思われた。しばらくして、二人はほうっと溜息をついた。お此の顔は青ざめていた。 「お前、誰に聞いたの、そんなことを……。」と、かれは摺り寄って訊いた。 「実は、お国さんに……。」と、梅次郎はどもりながら答えた。  堅く口留めをして置いたにも拘らず、お国は鼠の一件を梅次郎にも洩らしたとみえる。お此はそのおしゃべりを憎むよりも、その報告の嘘でないのに驚かされた。考えようによっては、鼠が縁側に上がるぐらいのことは別に珍しくもない。縁の下から出て来て、縁側へ飛びあがって、再び縁の下へ逃げ込む。それは鼠として普通のことであるかも知れない。それをお元に結びつけて考えるのは間違っているかも知れない。しかもこの場合、お此も梅次郎もかの鼠に何かの子細があるらしく思われてならなかった。 「ほんとうに江戸へ来る途中には、なんにも変ったことはなかったのかねえ。」と、お此はかさねて訊いた。 「まったく変ったことはありませんでした。ただ……。」と梅次郎は蹟躇しながら言った。「あの義助と大変に仲がよかったようで……。」 「まあ。」  お此はあきれたように、再び溜息をついた。それを笑うように、どこかで枝蛙のからから[※「からから」に傍点]と鳴く声がきこえた。      三  きょうの鼠の一件がお此の口から夫に訴えられたのは言うまでもない。しかも七兵衛は半信半疑であった。一家の主人で分別盛りの七兵衛は、単にそれだけの出来事で、その怪談を一途《いちず》に信じるわけにいかなかった。  お此はその以来、お元の行動に注意するは勿論、お国にもひそかに言い含めて、絶えず探索の目をそそがせていたが、店の奉公人や女中たちのあいだには、別に怪しい噂も伝わっていないらしかった。 「義助さんと仲よくしているような様子もありません。」と、お国は言った。  七兵衛にとっては、このほうが大問題であった。梅次郎を婿にと思い設けている矢先に、娘と店の者とが何かの関係を生じては、その始末に困るのは見え透いている。さりとて取留めた証拠もなしに、多年無事に勤めている奉公人、殊に先ごろは自分の供をして長い道中をつづけて来た義助を無造作に放逐することも出来ないので、ただ無言のうちにかれらを監視するのほかはなかった。  うしなった娘を連れ戻って、一旦は俄に明るくなった近江屋の一家内には、またもや暗い影がさして、主人夫婦はとかくに内所話をする日が多くなった。この年は梅雨《つゆ》が長くつづいて、六月の初めになっても毎日じめじめしているのも、近江屋夫婦の心をいよいよ暗くした。  その六月はじめの或る夜である。奥の八畳に寝ていたお此がふと目をさますと、衾《よぎ》の襟のあたりに何か歩いているように感じられた。枕もとの有明行燈《ありあけあんどう》は消えているので、その物のすがたは見えなかったが、お此は咄嵯のあいだに覚った。 「あ、鼠……。」  息を殺してうかがっていると、それは確かに小鼠で、お此の衾の襟から裾のあたりをちょろちょろと駈けめぐっているのである。お此は俄にぞっとして少しくわが身を起しながら、隣りの寝床にいる七兵衛の今衣の袖をつかんで、小声で呼び起した。 「おまえさん……。起きてくださいよ。」  目ざとい七兵衛はすぐに起きた。 「なんだ、何だ。」 「あの、鼠が……。」  言ううちに、鼠はお此の衾の上を飛びおりて、蚊帳の外へ素早く逃げ去った。暗いなかではあるが畳を走る足音を聞いて、それが鼠であるらしいことを七兵衛も察した。 「おまえさん。確かに鼠ですよ。」と、お此は気味悪そうにささやいた。 「むむ。そうらしい。」  それぎりで夫婦は再び枕につくと、やがてお此は再び夫をゆり起して、今度は鼠が自分の顔や頭の上をかけ廻るというのである。それが夢でもないことは、今度も七兵衛の耳に鼠の足音を聞いたのである。もう打捨てては置かれないので、七兵衛は床の上に起き直って枕もとの燧石《ひうちいし》を擦った。有明行燈の火に照らされた蚊帳の中には、鼠らしい物の姿も見いだされなかった。念のために今衣や蒲団を振ってみたが、いたずら者はどこにも忍んでいなかった。 「行燈を消さずに置いてください。」  言い知れない恐怖に襲われたお此は、夜の明けるまで、一睡も出来なかった。七兵衛もそのお相伴《しようばん》で、おちおち眠られなかった。この頃の夜は短いので、わびしい雨戸の隙間が薄明るくなったかと思うと、ぬき足をして縁側の障子の外へ忍び寄る者があった。お此ははっとして耳を傾けると、外からそっと呼びかけた。 「おかみさん。お目ざめですか。」  それはお国の声であったので、お此は安心したように答えた。 「あい。起きています。なにか用かえ。」 「はいってもよろしゅうございますか。」 「おはいり。」  許しを受けて、お国は又そっと障子をあけた。かれは寝まきのままで、蚊帳の外へ這い寄った。 「おかみさん。ちょいとおいで下さいませんか。」 「どこへ行くの。」 「お元さんのお部屋へ……。」  お此は又はっとしたが、一種の好奇心もまじって、これも寝まきのままで蚊帳から抜け出した。お元の部屋は土蔵前の四畳半で、北向きに一間の肱かけ窓が付いていた。その窓の戸を洩れる朝のひかりをたよりに、お此は廊下の障子を細目にあけて窺うと、部屋いっぱいに吊られた蚊帳のなかに、お元は東枕に眠っている。その枕もとに一匹の灰色の小鼠が、あたかもその夢を守るようにうずくまっていた。 「御覧になりましたか。」と、お国は小声で言った。  お此はもう返事が出来なかった。かれは半分夢中でお国の手をつかんで、ふるえる足を踏みしめながら自分の八畳の間へ戻って来ると、七兵衛も待ちかねたように声をかけた。 「おい、どうした。」  鼠の話を聞かされて、七兵衛は起きあがった。彼もぬき足をして、お元の寝床を覗きにゆくと、その枕もとに鼠らしい物のすがたは見えなかった。お国も鼠を見たと言い、お此も確かに見たと言うのであるが、自分の目で見届けない以上、七兵衛はやはり半信半疑であるので、むやみに騒いではならないと女達を戒めて、お国を自分の部屋へさがらせた。  夫婦はいつもの時刻に寝床を出て、なにげない顔をして、朝食の膳にむかったが、お此の顔は青かった。お元もけさは気分が悪いと言って、ろくろくに朝飯を食わなかった。その顔色も母とおなじように青ざめているのが、七兵衛の注意をひいた。  その日も降り通して薄暗い日であった。午《ひる》過ぎにお元は茶の間へしょんぼりとはいって来て、両親の前に両手をついた。 「まことに申訳がございません。どうぞ御勘弁をねがいます。」  だしぬけに謝られて、夫婦も煙《けむ》にまかれた。それでも七兵衛はしずかに訊いた。 「申訳がない……。お前は何か悪いことでもしたのか。」 「恐れ入りました。」 「恐れ入ったとは、どういうわけだ。」 「わたくしは……。お家《うち》の娘ではございません。」と、お元は声を沈ませて言った。  夫婦は顔を見あわせた。取分けて七兵衛は自分の耳を疑うほどに驚かされた。 「家の娘ではない……。どうしてそんなことを言うのだ。」 「わたくしは江戸の本所で生れまして、小さい時から両親と一緒に近在の祭や縁日をまわっておりました。お糸というのがやはり私の本名でございます。わたくし共の一座には蛇つかいもおりました。鶏娘という因果物もおりました。わたくしは鼠を使うのでございました。芝居でする金閣寺の雪姫、あの芝居の真似事をいたしまして、わたくしがお姫様の姿で桜の木にくくり付けられて、足の爪先《つまさぎ》で鼠をかきますと、たくさんの鼠がぞろぞろと出て来て、わたくしの縄を食い切るのでございます。芝居ならばそれだけですが、鼠を使うのが見世物の山ですから、その鼠がわたくしの頭へのぼったり、襟首へはいったり、ふところへ飛び込んだりして、見物にはらはらさせるのを芸当としていたのでございます。」  お元と鼠との因縁はまずこれで説明された。かれはさらに語りつづけた。 「そうしておりますうちに、江戸ばかりでも面白くないというので、両親はわたくし共を連れて旅かせぎに出ました。まず振出しに八王子から甲府へ出まして、諏訪から松本、善光寺、上田などを打って廻り、それから北国へはいって、越後路から金沢、富山などを廻って岐阜へまいりました。ひと口に申せばそうですが、そのあいだに、足掛け三年の月日が経ちまして、旅先ではいろいろの苦労をいたしました。そうして、去年の秋の初めに岐阜まで参りますと、そこには悪い疫病が流行っていまして、一座のうちで半分ほどばたばたと死んでしまいました。わたくしの両親もおなじ日に死にました。もうどうすることも出来ないので、残る一座の者は散りぢりばらばらになりましたが、そのなかにお角という三味線ひきの悪い奴がありまして、わたくしをだまして、どこへか売ろうと企んでいるらしいので、うかうかしていると大変だと思いまして、着のみ着のままでそっと逃げ出しました。東海道を下ると追っ掛けられるかも知れないので、中仙道を取って木曾路へさしかかった頃には、わずかの貯えもなくなってしまって、もうこの上は、乞食でもするよりほかはないと思っていますと、運よく伊平さんの家に引取られて、まあ何ということなしに半年余りを暮していたのでございます。」  お元は怪しい女でなく、不幸の女である。その悲しい身の上ばなしを聞かされて、気の弱いお此は涙ぐまれて来た。       四  これからがお元の懺悔である。 「まったく申訳のないことを致しました。この三月の二十七日に、伊平さんの商売の手伝いをして三軒屋の立場茶屋へ熊の皮や熊の胆を売りに行きますと、あなた方にお目にかかりました。その時に旦那さまが子細ありそうに、私の顔をじっと眺めておいでなさるので、なんだか、おかしいと思っておりますと、やがてわたくしを傍へ呼んで、おまえの左の二の腕に青い痣《あざ》はないかとお訊きになりました。さてはこの人は娘か妹か、なにかの女をさがしているに相違ないと思う途端に、ふっと悪い料簡が起りました。こんな木曾の山の中に、いつまで暮していても仕様がない。ここで何とかごまかして……。こう思ったのがわたくしの誤りでございました。奥へ連れて行かれる時に、店の柱へ二の腕をそっと強く打ちつけて、急ごしらえの痣をこしらえまして……。わたくしはまた何という大胆な女でございましょう。旦那さまの口占《くちうら》を引きながら、いい加減の嘘八百をならべ立てて、表に遊んでいるところを見識らない女に連れて行かれたの、それから京へ行って育てられたの、継母《ままはは》にいじめられたのと、まことしやかな作りごとをして、旦那さまをはじめ皆さんをいいように欺してしまって、とうとうこの家へ乗り込んだのでございます。思えば、一から十までわたくしが悪かったのでございます。どうぞ御勘弁をねがいます。」と、かれは前髪を畳にすり付けながら泣いた。  ここらでも人に知られた近江屋七兵衛、四十二歳の分別盛りの男が、いかにわが子恋しさに目が眩《くら》んだとはいいながら、十七八の小女にまんまと一杯食わされたかと思うと、七兵衛も我ながら腹が立つやら、馬鹿馬鹿しいやらで、しばらくは開《あ》いた口が塞がらなかった。それでもまだ賄に落ちないことがあるので、彼は気を取直して訊いた。 「そこで、鼠はどうしたのだ。おまえが持って来たのか。」 「それが不思議でございます。」と、お元はうるんだ目をかがやかしながら答えた。「岐阜の宿をぬけ出す時に、商売道具は勿論、鼠もみんな置き去りにして来たのでございますが、途中まで出て気がつきますと、一匹の小鼠がわたくしの袂にはいっていたのでございます。どうして紛れ込んでいたのか、それともわたくしを慕って来たのか、なにしろ捨てるのも可哀そうだと思いまして、懐に忍ばせたり、袂に入れたりして、木曾路までは一緒に連れて来ましたが、伊平さんの家に落ちつくようになりました時に、因果をふくめて放してやりました。鼠はそれぎり姿を見せませんので、どこかの縁の下へでも巣を食ってしまったものと思っていますと、旦那さまと御一緒に江戸へ帰る途中、碓氷峠をくだって坂本の宿に泊りますと、その晩、どこから付いて来たのか、その鼠がわたくしの袂のなかにはいっているのを見つけて、実にびっくり致しました。それほど自分に馴染んでいて、こうしてここまで付いて来たかと思うと、どうも捨てる気にならないので、そっと袂に入れて来ました。それを梅次郎さんや義助さんに見付けられて、ずいぷん困ったこともありましたが……。まあ、旦那さまには隠して置いてもらうことにして、無事に江戸まで帰ってまいりますと、この頃になってまたどこからか出て来まして、時々にわたくしの部屋へも姿をみせます。しかも、ゆうべはわたくしの夢に、その鼠が枕もとへ忍んで来まして、袖をくわえてどこへか引っ張っていこうとするらしいのです。こっちが行くまいとしても、相手は無理にくわえていこうとする。同じような夢を幾たびも繰返して、わたくしもがっかりしてしまいました。そのせいか、今朝はあたまが重くって、何をたべる気もなしにぼんやりしていますと、仲働きと女中の話し声がきこえまして……。」  あまりに気分が悪いので、お元は台所へ水を飲みにゆくと、女中部屋で仲働きのお国が女中お芳に何か小声で話しかけている。鼠という言葉が耳について、お元はそっと立聞きすると、ゆうべはあの鼠がおかみさんの蚊帳のなかへはいり込んだこと、お元の枕もとにも坐っていたこと、それらをお国が不思議そうにささやいているのであった。  もう仕方がないとお元も覚悟した。娘に化けて近江屋の家督を相続する――その大願成就はおぼつかない。うかうかしていると化けの皮を剥がれて、騙《かた》りの罪に問われるかも知れない。いっそ今のうちにも何もかも白状して、七兵衛夫婦に自分の罪を詫びて、早々にここを立去るのほかはないと、かれは思い切りよく覚悟したのである。 「重々憎い奴と、定めしお腹も立ちましょうが、どうぞ御勘弁くださいまして、きょうお暇をいただきとうございます。」と、お元はまた泣いた。  その話を聞いているあいだに、七兵衛もいろいろ考えた。憎いとはいうものの、欺されたのは自分の不覚である。当人の望み通りに、早々追い出してしまえば子細はないのであるが、親類の手前、世間の手前、奉公人の手前、それを何と披露していいか。正直にいえば、まったくお笑い草である。近江屋七兵衛はよくよくの馬鹿者であると、自分の恥を内外にさらさなければならない。その恥がそれからそれへと広まると、近江屋の暖簾《のれん》にも瑕が付く。それらのことを考えると、七兵衛も思案にあぐんだ。  女房のお此も夫とおなじように考えた。殊にお此は女であるだけに、自分の前に泣いて詫びているお元のすがたを見ると、またなんだか可哀そうにもなって来た。たとい偽者であるにもせよ、けさまでわが子と思っていたお元を、このまま直ぐに追い出すに忍びないような弱い気にもなった。 「まあ、お待ちなさいよ。」と、お此はお元をなだめるように言った。「そう事が判れば、わたし達のほうにも又なんとか考えようがある。ともかくも今すぐに出て行くのはよくない。もうちっとの間、知らん顔をしていておくれよ。」 「それがいい。」と、七兵衛も言った。「いずれ何とか処置を付けるから、もうちっと落ちついていてくれ。私のほうでも自分の暖簾にかかわることだから、決してこれを表沙汰にして、おまえを騙《かた》りの罪に落すようなことはしない。まあ安心して待っていてくれ。」  夫婦からいろいろに説得されて、お元もおとなしく承知した。 「それでは何分よろしく願います。」  自分の部屋へ立去るお元のうしろ姿を見送って、深い溜息が夫婦の口を洩れた。いかにお此が弱い気になったからといって、すでに偽者の正体があらわれた以上、それをわが子として養って置くことは出来ない。さりとて、その事実をありのままに世間へ発表することも出来ない。しょせんはお元に相当の手切金をあたえて、人知れずにこの家を立ちのかせ、表向きは家出と披露するのが一番無事であるらしい。勿論それも外聞にかかわることではあるが、偽者と知らずに連れ込んだというよりはましである。一旦かどわかされた娘をようよう連れ戻して来たところ、その悪者どもが付けて来て、再びかどわかして行ったのであろうということにすれば、こちらに油断の落度があったにもせよ、世間からは気の毒だと思われないこともない。ともかくも大きな恥をさらさないで済みそうである。夫婦の相談はまずそれに一致した。 「それにしても、梅ちゃんも義助もあんまりじゃありませんか。」と、お此は腹立たしそうに言った。「江戸へ帰る途中で、お元の袂に鼠を見付けたことがあるなら、誰かがそっと知らせてくれてもいいじゃありませんか。お国が話してくれなけれぱ、わたし達はいつまでも知らずにいるのでした。このあいだも梅ちゃんにきいたら、途中ではなんにも変ったことはなかった、なぞと白ばっくれているんですもの。」 「まあ、仕方がない。梅次郎や義助を恨まないがいい。誰よりも彼よりも、わたしが一番悪いのだ。私が馬鹿であったのだ。」と、七兵衛は諦めたように言った。「そんな者にだまされたのが重々の不覚で、今さら人を答めることはない。みんな私が悪いのだ。」  さすがは大家の主人だけに、七兵衛はいっさいの罪を自分にひき受けて、余人を責めようとはしなかった。  それから二日目の夜の更けた頃に、お元は身持えをして七兵衛夫婦の寝間へ忍び寄ると、それを待っていた七兵衛は路用として十両の金をわたした。彼は小声で言い聞かせた。 「江戸にいると面倒だ。どこか遠いところへ行くがいい。」 「かしこまりました。おかみさんにもいろいろ御心配をかけました。」と、お元は蚊帳の外に手をついた。 「気をつけておいでなさいよ。」  お此の声も曇っていた。それをうしろに聞きながら、お元は折からの小雨のなかを庭さきへ抜け出した。横手の木戸を内からあけて、かれのすがたは闇に消えた。  あくる朝の近江屋はお元の家出におどろき騒いだ。主人夫婦も表面《うわべ》は驚いた顔をして、人々と共に立ち騒いでいた。  その予定の筋書以外に、かれら夫婦を本当におどろかしたのは、四谷からさのみ遠くない青山の権太原の夏草を枕にして、二人の若い男が倒れているという知らせであった。男のひとりは近江屋の手代義助で、他のひとりは越前屋の梅次郎である。義助は咽喉を絞められていた。梅次郎は短刀で脇腹を刺されていた。その短刀は近江屋の土蔵にある質物《しちもつ》を義助が持ち出したのである。死人に口なしで勿論たしかなことは判らないが、検視の役人らの鑑定によれば、かれらはこの草原で格闘をはじめて、梅次郎が相手を捻じ伏せてその咽喉を絞め付けると、義助も短刀をぬいて敵の脇腹を刺し、双方が必死に絞めつけ突き刺して、ついに相討ちになったのであろうという。  お元の家出と二人の横死と、そのあいだに何かの関係があるかないか、それも判らなかった。もし関係があるとすれば、お元と義助と諜《しめ》しあわせて家出をしたのを、梅次郎があとから追い着いて格闘を演ずることになったのか。あるいはそれと反対に、お元と梅次郎とが家出したのを、義助が追って行ったのか。かれらは何がゆえに闘ったのか、お元はどうしたのか。それらの秘密は誰にも判らなかった。  お元が江戸へ帰る途中、その袂に忍ばせている鼠を梅次郎と義助に見付けられて、ずいぶん困ったこともあったというから、あるいはその秘密を守る約束のもとに、二人の若い男はお元に一種の報酬を求めたかも知れない。その情交のもつれがお元の家出にむすび付いて、こんな悲劇を生み出したのではないかと、七兵衛夫婦はひそかに想像したが、もとより他人《ひと》に言うべきことではなかった。  ふたりの死骸を初めて発見したのは、そこへ通りかかった青山百人組の同心で、死骸のまわりを一匹の灰色の小鼠が駈けめぐっていたとのことであるが、それはそこらの野鼠が血の匂いをかいで来たので、お元の鼠とは別種のものであろう。  お元の消息はわからなかった。                        昭和七年十一月作「サンデー毎日」 底本:岡本綺堂読物選集5 異妖編下巻    昭和四四年六月二〇日刊 入力:和井府清十郎 -------------------------------------------------------------------------------- 恨みの蠑螺 岡本綺堂      一  文政四年の四月は相州(そうしゅう)江の島弁財天の開帳(かいちょう)で、島は勿論、藤沢から片瀬にかよう路々もおびただしい繁昌を見せていた。  その藤沢の宿(しゅく)の南側、ここから街道を切れて、石亀川の渡しを越えて片瀬へ出るのが、その当時の江の島参詣の路順であるので、その途中には開帳を当て込みの休み茶屋が幾軒も店をならべていた。もとより臨時の掛茶屋であるから、葭簀(よしず)がこいの粗末な店ばかりで、ほんの一時の足休めに過ぎないのであるが、若い女たちが白い手拭を姐(あね)さんかぶりにして、さざえを店先で焼いている姿は、いかにもここらの開帳にふさわしいような風情を写し出していた。その一軒の茶屋の前に二挺の駕籠をおろして、上下三人の客が休んでいた。  三人はみな江戸者で、江の島参詣とひと目に知れるような旅拵えをしていた。ここで判り易いように彼らの人別(にんべつ)帳をしるせば、主人の男は京橋木挽町(こびきちょう)五丁目の小泉という菓子屋の当主で、名は四郎兵衛、二十六歳。女はその母のお杉、四十四歳。供の男は店の奉公人の義助、二十三歳である。この一行は四月二十三日の朝に江戸を発って、その夜は神奈川で一泊、あくる二十四日は程ヶ谷、戸越を越して、四つ(午前十時)を過ぎる頃にこの藤沢へ行き着いて、この掛茶屋にひと休みしているのであった。 「なんだか空合いがおかしくなって来たな。」と、四郎兵衛は空を仰ぎながら言った。 「そうねえ。」と、お杉も覚束なそうに空をみあげた。「渡しへかかったころに降り出されると困るねえ。」 「このごろの天気癖で、時どきに曇りますが、降るほどの事もございますまい。」と、茶屋の女房は言った。 「きのう江戸を出るときはいい天気で、道中はもう暑かろうなどと言っていたのだが、けさは曇って薄ら寒い。」と、義助は草鞋の緒をむすび直しながら言った。  こんな問答をぬすみ聞くように、さっきからこの店を覗いている一人の女があった。女は隣りの休み茶屋の前に立って、往来の客を呼んでいたのであるが、四郎兵衛らが駕籠をおろして隣りの店へはいるのを見ると、俄かに顔の色を変えた。かれは年のころ二十二、三の、目鼻立ちの涼しい女で、土地の者ではないらしい風俗であった。  四郎兵衛の一行は茶代を置いて店を出た。供の義助は徒歩(かち)で、四郎兵衛とお杉が駕籠に乗ろうとする時、隣りの店の女はつかつかと寄って来て、今や駕籠に半身入れかかった四郎兵衛の胸ぐらをとった。 「畜生、人でなし……。」  かれは激しく罵りながら力まかせに小突(こづ)きまわすと、四郎兵衛はからだを支えかねて、乗りかけた駕籠からころげ落ちた。それを見て駕籠屋もおどろいた。 「おい、姐(ねえ)さん。どうしたのだ。」 「どうするものかね。」と、女はあざやかな江戸弁で答えた。「こん畜生のおかげで、あたしは一生を棒に振ってしまったのだ。こいつ、唯は置くものか。おぼえていろ。」  言うかと思うと、かれは相手をいったん突き放して自分の店へ駈け込んだ。店の入口にはさざえの殻がたくさんに積んである。かれはその貝殻を両手に掴んで来て、四郎兵衛を目がけて続け撃ちに叩きつけた。その行動があまりに素捷(すばや)いのと事があまりに意外であるのとで、周囲の人びとも呆気(あっけ)に取られて眺めているばかりであった。供の義助がようよう気がついて彼女を抱き留めた時、四郎兵衛はもう二つ三つの貝殻に顔をぶたれて、眉のはずれや下唇から生血(なまち)が流れ出していた。  この騒ぎに、この一行が今まで休んでいた店を始め、近所の店から大勢が駈け出して来た。往来の人も立ちどまった。 「まあ、どうぞこちらへ……。」と、人びとにたすけられて四郎兵衛は元の店へはいった。 「ええ、お放しよ。放さないか。」  かれは義助を突きのけて、四郎兵衛のあとを追おうとするのを、駕籠屋四人もさえぎった。大勢に邪魔されて、じれに焦れたかれは、わが手に残っている貝殻を四郎兵衛のうしろから投げ付けると、狙いは狂ってそのそばにうろうろしているお杉の右の頬にあたった。*あっ*といって顔を押える母の眼の下からも血がにじみ出した。 「お安さん。気でも違ったのじゃないか。」と、そこらの女たちは騒いだ。子細の知れないこの乱暴狼藉については、お安という女が突然発狂したとでも思うほかはなかった。  その噂が耳にはいったとみえて、お安は店の奥を睨みながら怒鳴った。 「あたしは気違いでも何でもない。あいつに恨みがあるから仇討をしただけの事だ。さあ、あたしの顔を覚えているだろう。表へ出て来い。」  言いながら奥へ跳り込もうとするのを、義助はまた押えた。 「まあ、静かにしても判るだろう。」 「ええ、判らないからこうするのだ。ええ、うるさい。お放しというのに……。」  かれの手にはまだ一つの貝殻が残っている。これをつかんだままで強く払いのけると、その貝殻が顔にあたって目をぶたれたか、鼻をぶたれたか、義助も顔をおさえて立ちすくんでしまった。こうなっては容赦はできない。駕籠屋四人は腕ずくでお安を取押えて、無理にとなりの店へ引摺って行った。  義助も右の頬を傷つけられたのである。気違いのような女に襲われて、四郎兵衛は二カ所、お杉と義助は一ヵ所、いずれもその顔をさざえの殻に撃たれて、たとい深手(ふかで)でないにしても、流れる生血(なまち)を鼻紙に染めることになったので、茶屋の女房は近所の薬屋へ血止めの薬を買いに行った。人違いか気違いか、なにしろ飛んだ災難に逢ったとお杉は嘆いた。年の若い義助は激昂して、あの女をここへ引摺って来てあやまらせなければ料簡(りょうけん)が出来ないといきまいた。 「おっ母さんの言う通り、これも災難だ。神まいりの途中で、事を荒立てるのはよくない。あの女は気違いだ。あやまらせたとて仕方がない。」と、四郎兵衛は人々をなだめるように言った。  彼は最初に目指されただけに、傷は二ヵ所で、又その撲(う)ちどころも悪かったので、まぶたも唇も腫れあがっていた。  主人が災難とあきらめているので、義助もよんどころなく我慢したが、主従三人が揃いも揃ってこんな目に逢うのは、あまりに忌々(いまいま)しいと思った。  店の女たちにきいてみると、あのお安という気違いじみた女は、藤沢在に住んでいる伝八という百姓のうちに寄留して、近所の子供や若い衆に浄瑠璃などを教えている、伝八の女房の姪(めい)だということで、以前は江戸に住んでいたが、去年の春ごろからここへ引っ込んで来たのである。ことしのお開帳を当て込みに、自分が心棒になって休み茶屋をはじめ、近所の娘を手伝いに頼んでいるが、主人が江戸者で客あつかいに馴れているので、なかなか繁昌するという。お安が雇い人であれば、その主人に掛合うというすべもあるが、本人が主人では苦情を持ち込む相手がない。義助もまったく諦めるのほかはなかった。  ここまで来た以上、もちろん引っ返すわけにもいかないので、茶屋の女房が買って来てくれた血止めの薬で手当てをして、四郎兵衛とお杉はふたたび駕籠に乗って、石亀川の渡しまで急がせた。お安もさすがに追って来なかった。  江の島の宿屋へ行き着いて、ここで午飯(ひるめし)をすませて弁天のやしろに参詣した。今度の開帳は下の宮である。各地の講中(こうちゅう)や土地の参詣人で狭い島のなかは押合うほどに混雑していた。四郎兵衛の一行三人はいずれも顔を傷つけているので、その混雑の人びとに見送られるのが恥かしかった。  若葉どきの慣いで、きょうは朝から曇って薄ら寒いように思われたが、島へ着く頃から空の色はいよいよ怪しくなって、細かい雨がさらさらと降り出して来た。三人はその雨に濡れながら宿へ帰った。 「今夜は泊るとして、あしたはどうしようかね。」と、お杉は言った。  今夜は江の島に泊って、あしたは足ついでに鎌倉見物の予定であったが、出先の災難に気をくさらせたお杉は、早く江戸へ帰りたいような気にもなった。自分と義助は差したることもないが、四郎兵衛の顔の腫れているのも何だか不安であった。一日も早く江戸へ帰って療治をしなければなるまいかとも思った。 「また来るといっても、めったに出られるものじゃあない、折角来たのだから、やっぱり鎌倉へ廻りましょうよ。」と、四郎兵衛は言った。 「でも、おまえの怪我はどうだえ。痛むだろう。」 「なに、大したこともありません。多寡(たか)が打傷(うちきず)ですから。」 「じゃあ、まあ、あしたになっての様子にしよう。なにしろお前は少し横になっていたらいいだろう。」  宿の女中に枕を借りて、四郎兵衛を暫く寝かして置くことにした。平生は軽口で冗談などをいう義助も、唯ぼんやりと黙っていた。雨はだんだん強くなって、二階の縁側から見晴らす海も潮けむりに暗かった。 「あいにく降り出しまして、御退屈でございましょう。」と、宿の女中が縁側から顔を出した。 「お江戸の松沢さんと仰しゃる方がたずねてお出(い)でになりましたが、お通し申してよろしゅうございましょうか。」      二  やがてこの座敷へ通されて来た三十前後の町人風の男は、京橋の中橋(なかばし)広小路に同商売の菓子屋を営んでいる松沢という店の主人庄五郎であった。 「おや、お珍しいところで……。お前さんも御参詣でしたか。」と、お杉は笑って迎えた。 「わたしは講中の人たちと一緒にきのう来ました。」と、庄五郎も笑いながら[#「笑いながら」は底本では「笑いなから」]言った。「さっきこの宿へはいるうしろ姿が、どうもお前さん方らしいので、尋ねて来てみたらやっぱりそうでした。」 「わたし達は神奈川をけさ発って、お午(ひる)ごろに参りました。」 「それじゃあ誘い合せて来ればよかった。」と、言いながら庄五郎は少し眉を皺めた。「おかみさんといい、義助さんといい、みんな揃って怪我をしていなさるようだが、途中でどうかしなすったか。」  藤沢の宿(しゅく)で飛んだ災難に出逢ったことを、お杉と義助から代るがわるに聞かされて、庄五郎はいよいよ顔色を暗くした。彼は低い溜息を洩らしながら、座敷の片隅に寝ころんでいる四郎兵衛の顔を覗いた。四郎兵衛は熱でも出たように、うとうとと眠っていた。  あしたは鎌倉へ廻ろうか、それとも真っ直ぐに江戸へ帰ろうかというお杉の相談に対して、庄五郎は思案しながら言った。 「真っ直ぐに江戸へ帰るとすれば、もう一度その茶屋の前を通らなければならない。また何事かあると面倒だから、鎌倉をまわって帰る方がいいでしょうよ。」 「それもそうですねえ。」と、お杉はうなずいた。  庄五郎の宿は近所の恵比寿屋であるというので、帰るときに義助は傘をさして送って出た。今までの混雑に引換えて、雨の降りしきる往来に人通りは少なかった。義助はあるきながらそっと訊いた。 「藤沢の女はまったく気違いでしょうか。それとも何か子細があるのでしょうか。」  さっきから庄五郎の顔色と口振りとを窺って、義助は彼が何かの子細を知っているのではないかと疑ったからである。果して庄五郎は小声で言った。 「おまえは知らないか。その女は三十間堀(けんぼり)の喜多屋という船宿に奉公していた女に相違ない。目と鼻のあいだに住んでいながら、おまえは一度も見たことがないのか。」  そう言われて、義助も気がついた。お安に似たような女が近所の河岸の船宿の前に立っていたり、表を掃いていたりしたのを見たような記憶もある。但しそれは四、五年も前のことで、近来はそんな女のすがたを見かけなかった。それが突然に藤沢の宿にあらわれて、自分の主人に乱暴狼藉を働いたのは、一体どういう子細があるのか。義助はそれを知りたかった。 「あの女はお前の主人を仇だと言ったそうだが……。」と。庄五郎は意味ありげに言った。「四郎兵衛さんにも何か怨まれる訳があるのだろう。ともかくも再び藤沢を通らない方が無事だ。」 「お前さんはいつお帰りです。」と、義助は訊いた。 「わたし達はあした帰る。お前たちも一緒に連れて行ってやりたいが、藤沢の一件があるから道連れは困る。又ぞろ何かの間違いがあると、わたしばかりでなく、講中一同が迷惑する。お前たちは鎌倉をまわって帰りなさい。」  繰返して言い聞かせて、庄五郎は恵比寿屋の門口(かどぐち)で義助に別れた。その意味ありげな言葉によって想像すると、お安という女が四郎兵衛を悩ましたのは、気違いでなく、人違いでなく、何か相当の子細があるに相違ないと義助は思った。  小泉の店は旧家で、大名屋敷や旗本屋敷へも出入りをしている。菓子商売のほかに地所や家作(かさく)を持っていて、身上(しんしょう)もいい。主人はまだ若い。四年前に嫁を貰って無事に暮らしているが、独り者の頃には多少の道楽もしたように聞いている。世間によくあるためしで、主人は船宿の女と夫婦(みょうと)約束でもして置きながら、それを反古(ほご)にして他から嫁を貰った。お安という女はそれを怨んでいて、ここで測らずも出会ったのを幸いに、さざえのつぶての仇討となったかも知れない。果してそうであれば、傍杖(そばづえ)を食ったおかみさんと自分はともあれ、主人が痛い目をみるのは是非ない事かとも思われた。いずれにしても元来た道を引っ返すのは危険である。庄五郎の忠告にしたがって、鎌倉をまわって帰るのが無事あろうと、義助は宿へ帰ると直ぐにお杉を別座敷へ呼んだ。  義助の話を聞いて、お杉も眉を皺めた。誰の考えも同じことで、かのお安がそういう素姓の女であれば、おそらく何かの約束を破って自分を振り捨てたという怨みであろうと、お杉も想像した。しかも今更そんな論議をしても仕方がない。差しあたりは危険を避けて鎌倉へまわるに如(し)くはないと、かれも義助の意見に同意することになった。  雨は降りつづけている。この頃の長い日も早く暮れて、宿の女中が燭台を運んで来た。海の音もだんだんに高くなった。 「お江戸の小泉さんの旦那にお目にかかりたいと申して、女の人が見えました。」  女中の取次を聞いて、お杉と義助は顔を見合せた。殊にそれが女であるというので、二人は何だかぎょっとした。 「どんな女です。」と、お杉は念のために訊いた。 「二十二、三の人で、藤沢から来たといえば判るということでございました。この雨のなかをびしょ濡れになって……。」  二人はいよいよ薄気味悪くなった。この雨のなかをびしょ濡れになって藤沢から追って来た以上、なにかの覚悟があるに相違ない。今度はさざえの殻ぐらいでなく、短刀か匕首(あいくち)でも忍ばせて来たかも知れない。それを思うと、二人は魔物に魅(みこ)まれたように怖ろしくなって来た。 「どうしたもんだろう。」と、お杉は途方に暮れたようにささやいた。 「そうですねえ。」  義助も返事に困ったが、この場合、家来の身として主人の矢おもてに立つのほかはないと決心した。 「よろしゅうございます。わたくしが行って、どんな用か聞いてみましょう。」 「お前、気をおつけよ。」と、お杉は不安らしく言った。  思い切って起(た)ち上がろうとする義助を、四郎兵衛は呼びとめた。彼はいつのまにか目を醒ましていたのである。 「義助、お待ち……。藤沢から来た女はわたしが会おう。」 「いいかえ。お前が会っても……。」と、お杉はいよいよ不安らしく言った。 「義助はなんにも知らないのですから、会ったところでどうにもなりません。わたしが会います。」  四郎兵衛は直ぐに起きあがって、女中と共に梯子を降りて行った。お杉と義助は又もや顔を見合せた。どう考えても不安である。  そこへ又、女中が引っ返して来た。 「あの、旦那さまが仰しゃいましたが、どなたも決して下へお出でにならないように……。」 「承知しました。」と言って、女中を去らせたあとで、お杉は義助に又ささやいた。「して見ると、やっぱり覚えがあるのだね。出先で多分の用意もないが、金で済むことなら何とでも話を付けるか……。」 「旦那も大かたそのつもりでしょう。」 「そうだろうねえ。」  四郎兵衛は容易に戻って来なかった。それが円満に解決した為か、それとも談判がむずかしい為かと、二人は息をつめてその成行きを案じていると、やがて、遠い下座敷で立ち騒ぐような物音がきこえた。人の叫ぶような声も洩れた。 「おまえ、行って御覧よ。」と、お杉はあわてて言った。  もう堪(たま)らなくなって、義助は梯子を駈けおりて行くと、一人の女が宿屋の若い者らに押しすくめられて、表へ突き出されているのであった。距離が遠いので確かには判らなかったが、その女のうしろ姿は藤沢のお安らしかった。かれは表へ突き出されて、降りしきる雨のなかに姿を消した。  四郎兵衛は腫れあがった顔を蒼くして、二階座敷へ戻って来た。  夕飯の膳が運び出されたが、彼は碌ろくに箸を執らなかった。何をきいても確かな返事をしなかった。 「子細はあとで話します。」  開帳の賑わいで、どこの宿屋も混雑している。この一行の座敷は海にむかった角(かど)にあるが、それでも一方の隣り座敷には三、四人の客が泊り合せていて、昼から騒々しく話したり笑ったりしている。それらの聞く耳を憚って、四郎兵衛は迂濶にその秘密を明かさないらしかったが、となりの人たちはしゃべり疲れて、宵から早く床に就いたので、その寝鎮まるのを待って、彼は小声で話し出した。 「今までおっかさんにも黙っていました。義助はもちろん知るまい。どうも困った事があるのです。」 「お前はあの女に係合いであったのかえ。」と、お杉は待ちかねたように訊いた。 「いえ、そういう事なら又何とかなりますが……。」  四郎兵衛の低い溜息の声を打消すように、夜の海の音はごうごうと高くきこえた。      三  前にもいう通り、小泉は暖簾のふるい菓子屋で、大名屋敷や旗本屋敷に幾軒の出入り先を持っていた。殊に大名屋敷に出入りしているのは、店の名誉でもあり、利益でもあるから、大切に御用を勤めること勿論である。中国筋の某藩の江戸屋敷に香川甚五郎という留守居役があって、平素から四郎兵衛を贔屓(ひいき)にしていた。  その甚五郎があるとき四郎兵衛にささやいた。 「四郎兵衛、気の毒だが、おまえに一つ働いてもらいたいことがある。肯(き) いてくれるか。」 「代々のお出入り、殊にあなた様のお頼みでござりますなら、何なりとも御用を勤めましょう。」と、四郎兵衛は即座に請合った。それは今から四年前のことで、かれが二十二歳の春であった。 「おまえはちっと道楽をするそうだが、近所の三十間堀の喜多屋という船宿を知っているだろう。」 「存じております。」 「おれも知っている。あすこにお安という小綺麗な女がいる……。いや、早合点するな。おれに取持ってくれというのではない。あの女のからだを借りたいのだ。」  甚五郎の説明によると、そのお安という女を写生したいというのである。顔は勿論、全身を赤はだかにして、手足から乳のたぐいに至るまでいっさいを写生する――今日のモデルとは意味が違って、いわば一種の春画である。それは幕府の役人に贈る秘密の賄賂で、金銭は珍しくない、普通の書画骨董類ももう古い。なにか新奇の工夫をと案じた末に、思い付いたのが裸体美人の写生画で、それを立派に表装して箱入りの贈り物にする。箱をあけて見て、これは妙案と感心させる趣向である。しかもその女が芸者や遊女では面白くない。さりとて堅気の娘がそんな注文に応ずる筈がない。結局、商売人と素人との中を取って、茶屋女のような種類に目をつけたのであるが、それとても選択がむずかしい。容貌(きりょう)がいいだけでもいけない。容貌もよし、姿も整って、年も若く、なるべく男を知らない女などという種々の注文をならべ立てると、その候補者はなかなか見いだせない。たとい見いだされたとしても、本人が不承知であればどうにもならない。  その選択に行き悩んで、白羽(しらは)の矢を立てたのが喜多屋のお安であった。お安はそのころ十九の若い女で、すぐれた美人というのではないが、目鼻立ちの整った清らかな顔の持主で、背格好も肉付きもまず普通であった。船宿などに奉公する女であるから、どこか小粋(こいき)でありながら、下卑ていない。身持もよくて、これまでに浮いた噂もないという。それらの条件に合格したのが、お安の幸か不幸か判らなかったが、ともかくも甚五郎はかれに目を付けた。  しかし問題が問題であるだけに、甚五郎はお安にむかって直接談判を開くことを躊躇した。彼は四郎兵衛をたのんで、その口からお安を口説き落させようと考えたのである。 「喜多屋の女房に頼んでもいいが、あいつは少し質(たち)のよくない奴だ。そんなことを根にして後(あと)ねだりなどをされるとうるさい。又その噂が世間へ洩れても困る。これはお安ひとりを相手の相談にしなければならない。他人にはいっさい秘密だ。」  難儀の役目を言い付けられて、四郎兵衛も困った。しかも代々の出入り屋敷といい、平素から世話になっている留守居役が折り入って頼むのを、すげなく断るわけにもいかないので、彼はとうとうこの難役を引受けた。そして、どうにかこうにか本人のお安を説き伏せて、二十両の裸代を支払うことに取決めた。  甚五郎も満足して万事の手筈を定め、お安は藤沢の叔母が病気だという口実で、主人の喜多屋から幾日かの暇を貰って、浅草辺の或る浮世絵師の家に泊り込むことになった。その絵師のことは四郎兵衛もよく知らないが、おそらく甚五郎から高い画料を受取ったのであろう。絵はとどこおりなく描きあがって、その出来栄えのいいのに甚五郎はいよいよ満足した。約束の二十両は四郎兵衛の手を経てお安に渡された。  これでこの一件は無事に済んだ筈であるが、それから半年ほどの後に、お安はなんと思ったか、四郎兵衛にむかって、二十両の金を返すからあの裸体画を取戻してくれと言い出した。その絵はどこへ行ったか知らないが、甚五郎の手許に残っていないことは判っているので、四郎兵衛はそのわけを言って聞かせたが、お安はどうしても承知しない。自分のあられもない姿が世に残っているかと思うと、恥かしいと情けないとで、居ても立ってもいられないような気がする。是非ともあの裸体画を取戻して焼き捨ててしまわなければ、自分の気が済まないというのである。勿論お安が最初から素直に承知したのではない、忌(いや)がるものを無理に納得させたのであるが、ともかくも承知して万事を済ませた後、今更そんなことを言い出されては困る。それを甚五郎に取次いだところで、どうにもならない事は判り切っている。あるいは後(あと)ねだりをするのかと思って、四郎兵衛はさらに十両か十五両の金をやるといったが、お安は肯かない。自分の方から二十両の金を突きつけて、どうしても返してくれと迫るのであった。  それは無理だといろいろに賺(すか)しても宥(なだ)めても、お安は肯かない。かれは顔色を変えて、さながら駄駄ッ子か気違いのように迫るのである。四郎兵衛も年が若いので、しまいには我慢が出来なくなった。 「これほど言って聞かせても判らなければ、勝手にしろ。」 「勝手にします。あたしは死にます。」  二人は睨み合って別れた。それから幾日かの後に、お安は喜多屋から突然に姿を消した。まさかに死んだのではあるまいと思いながらも、四郎兵衛はあまりいい心持がしなかった。その後に甚五郎に会った時に、彼はお安に手古摺(てこず)った話をすると、甚五郎は笑った。 「それは困ったろう。あの絵は偉い人のところに納まっているのだから、取返せるものではない。しかし不思議なことがある。あれを描いた絵師はこのあいだ頓死をしたよ。お安に執殺(とりころ)されたのかな。」  絵師の死はお安が喜多屋を立去ったのちの出来事であるのを知って、四郎兵衛は又もや忌(いや)な心持になった。 「今度はお互いの番だ。気をつけなければなるまいよ。」と、甚五郎はまた笑った。四郎兵衛は笑ってもいられなかった。  しかもその後に何事も起らず、四郎兵衛はお夏という娘を貰って無事に暮らしていた。お安の消息は知れなかった。それが足掛け五年目のきょう、思いも寄らない所でめぐり逢って、四郎兵衛は幽霊に出逢ったように驚かされたのである。お安のかたき討はさざえのつぶてで済んだのではなかった。かれは江の島の宿まで執念ぶかく追って来たのである。その話によると、自分の恥かしい絵姿が江戸のうちの何処にか残っていると思うと、どうしても江戸にはいたたまれないので、喜多屋から無理に暇を取って京大坂を流れあるいて、去年から藤沢の叔母のもとへ帰って来たというのである。  それはともかくも、お安は相変らず四郎兵衛にむかって、かの裸体画を返せと迫るのであった。  その当時でさえも返せなかったものを、今となって返せるわけがないと、四郎兵衛は繰返して説明したが、お安は肯かない。ここで逢ったのを幸いに、江戸へ一緒に連れて行って、あの絵を戻せと言い張るので、四郎兵衛もほとほと持て余した。旅先で十分の用意もないから、せめてこれを小遣いにしろといって、彼は五両の金を差出したが、お安は金を貰いに来たのではないといって、その金を投げ返した。  どうにもこうにも手がつけられないので、結局は又もや喧嘩となった。  それを聞き付けた宿の者どもが寄って来て、たけり狂うお安を取押えて無理に表へ突き出してしまった。 「考えてみれば可哀そうなようでもありますが、何をいうにも半気違いのようになっていて、人の言うことが判らないので困ります。」と、四郎兵衛は話し終って又もや溜息をついた。 「それじゃあ、あしたも又来やあしないかね。」と、お杉も溜息まじりに言った。 「来るかも知れません。」 「こうと知ったら江の島なんぞへ来るのじゃあなかったねえ。」 「お安の叔母が藤沢にいるとは聞いてもいましたが、今じゃあすっかり忘れてしまって、うっかり来たのが間違いでした。」 「あしたは早朝にここを発って[#「発って」は底本では「発つて」]、鎌倉をまわって帰ろうよ。」 「それに限ります。」と、義助も言った。 「早く夜が明ければいいねえ。」と、お杉は言った。  雨天ならばあしたも逗留という予定を変更して、雨が降ろうが、風が吹こうが、あしたは早々に出発と相談を決めて、三人はともかくも枕に就いたが、雨の音、海の音、さなきだに不安の夢にしばしば驚かされた。      四  あしたは晴れるようにと、お杉が碌ろく寝もやらず弁財天を念じ明かした奇特(きどく)か、雨は暁け方からやんで、二十五日の朝は快晴となった。その朝日のひかりを海の上に拝んで、お杉は思わず手をあわせた。きょうの晴れは自分たちの救われる兆(しるし)であるようにも思われた。  三人は早々に朝飯の箸をおいて、出がけに再び下の宮に参詣した。四郎兵衛とお杉は草履、義助は草鞋、皆それぞれに足拵えをして宿の者に教えられた通りに、鎌倉から金沢へ出て、それから四里あまりの路をたどって程ヶ谷へ着くという予定である。  四郎兵衛の顔の傷も思いのほかに軽かったとみえて、今朝は腫れもひいて痛みも薄らいだ。天気もうららかに晴れているので、三人は徒歩(かち)で鎌倉まで行くことにした。ほかにもそういう考えの人たちがあるので、道連れではないが、あとさきになって同じ路をゆく群れが多かった。その人びとの苦労のない高話や笑い声を聴きながら歩いていると、三人の気分も次第に晴れやかになった。まさかにお安もここまでは付いて来ないだろうと幾分の安心も出て、四郎兵衛もゆるやかに煙草などをすいながら歩いた。  無事に鎌倉に行き着いて、型のごとくに名所古蹟を見物した。ゆうべまでは鎌倉を通りぬけて、真っ直ぐに江戸へ帰るつもりであったが、さてここまで無事に来て見ると、そんなに慌てて逃げ帰るには及ぶまいという油断が出たのと、めったに再び来ることも出来ないというので、三人は他の人たちと同じように見てあるいた。八幡の本社はこの二月の火事に類焼して、雪の下の町もまだ焼け跡の整理が届かないのであるが、江の島開帳を当て込みに仮普請のままで商売を始めている店も多かった。  しかも仇を持っているような三人は、さすがに悠々とここに一泊する気にはなれなかった。今夜は金沢で泊ることにして、見物はまずいい加減に切上げて、鎌倉のお名残りに由比ヶ浜へ出て、貝をあさる女子供の群れをながめながら、稲村ヶ崎の茶屋に休んでいると、五十前後の男が牛を牽(ひ)いて来た。 「牛に乗ってくだせえましよ。」  ここらの百姓が農事のひまに牛を牽いて来て、旅の人たちに乗れと勧めるのは多年の慣いである。牛に乗ると長生きをするなどというので、おもしろ半分に乗る人がある。鎌倉へ来た以上、話のたねに牛に乗って行こうという人もある。それらの客を目当てに牛を牽いた百姓らがそこらに徘徊しているのも、鎌倉名物の一つであった。 「その牛はおとなしいかえ。」と、お杉は訊いた。 「みんな牝牛(めうし)だからねえ。おとなしいこと請合いですよ。馬や駕籠に乗るよりも、どんなに楽だか知れやあしねえ。」と、百姓は言った。 「ほかの牛も直ぐに呼んで来ますから、三人乗っておくんなせえ。」 「いや、お前だけでいい。男はあるいていく。」と、四郎兵衛は言った。  金沢までの相談が決まって、足弱のお杉だけが、話の種に乗ることになった。男ふたりは附添って歩いた。牛を追ってゆくのは五十前後の正直そうな男であった。初めて牛に乗ったお杉は、案外に乗り心地のよいのを喜んでいた。 「落されるような事はあるまいね。」と、お杉は牛の背に横乗りをしていながら言った。 「馬から落ちたという事はあるが、牛から落ちたという話は聞かねえ。」と、男は笑った。「牛はおとなしいから、背中で踊ったって大丈夫ですよ。」  この頃は日は長い。鎌倉山の若葉をながめながら、牛の背にゆられて行くのは、いかにも初夏の旅らしい気分であった。小(こ)一里も行き過ぎてからお杉は四郎兵衛に声をかけた。 「お前さん、わたしと代って乗って御覧よ。ほんとうにいい心持だよ。」 「じゃあ、少し代らせてもらいましょうか。」  おもしろ半分が手伝って、四郎兵衛は母と入れかわって牛の背にまたがった。やがて朝夷(あさひな)の切通しに近いという頃に、むこうから同じく牛を牽いた男が来るのに出逢った。 「おお、お前は金沢か。」と、彼はこちらの男に大きい声で呼びかけた。「おらも金沢へ送って来た戻り路だよ。」 「ゆうべの雨で路はどうだ。」 「雨が強かったせいか、路は悪かあねえ。」 「それじゃあ牛も大助かりだ。」 「助かるといえば、お前のところのお安はどうした。」と、彼は立ちどまって訊いた。 「どうもよくねえ。」と、こちらの男は答えた。「医者さまは風邪を引いたのだというが、熱がひどいので傷寒(しょうかん)にでもならにゃあいいがと心配しているのだ。どこへ行ったのだか知らねえが、きのうの夕方、店をしめると直ぐにどっかへ出て行って、びしょ濡れになって雨のなかを夜ふけに帰って来たが、それで風邪を引いたに相違ねえ。おらは商売を休むわけにもいかねえから、嬶(かか)に看病させて、こうして出て来ているのだが、なんだか気がかりでならねえ。」 「そりゃ困ったな。あの雨のふるのにどこへ行ったのだろう。」 「それを詮議しても素直に言わねえ。江戸の客を追っかけて江の島へ行ったらしいのだが……。」 「なにしろ大事にしろよ。」 「おお。」  二人は挨拶して別れた。牛の上でそれを聞いていた四郎兵衛は、自分の顔の傷を隠したくなった。お杉も義助も逃げ出したいような心持になった。 「おまえの家(うち)に何か病人があるのかね。」と、四郎兵衛は探るように訊いた。 「はあ、わたしの女房の姪(めい)ですよ。」と、男は牛をひきながら答えた。 「今もいう通りだ。ゆうべから急に風邪を引いて、熱が出て、なんだか死にそうで、困っていますよ。」 「おまえの家はどこだ。」 「藤沢ですよ。少し遠いが、商売だから仕方がねえ。朝早くから牛を牽いて、鎌倉まで出て来ましたのさ。」 「おまえの姪は茶店でも出しているのかえ。」 「そうですよ。よく知っていなさるね。」  男は思わず振返って、牛の上をみあげると、その途端に、牛は高く吼(ほ)えた。四郎兵衛は物におびえたように身をふるわせて、牛の背から突然にころげ落ちた。牛から落ちた話を聞かないと男は言ったが、それを裏切るように、彼は真っ逆さまにころげ落ちたのである。馬とは違って、牛の背は低い。それから地上に落ちたところで、さしたる事もあるまいと思われるが、四郎兵衛はそのまま気絶してしまった。  牛方の男もおどろいたが、お杉と義助はさらに驚かされた。男は近所から清水を汲んで来て、四郎兵衛にふくませた。三人の介抱で、四郎兵衛はようように息を吹きかえしたが、夢みる人のようにぼんやりしていた。  折りよくそこへ一挺の駕籠が通り合せたので、お杉と義助は四郎兵衛を駕籠に乗せかえた。牛方の男には金沢までの駄賃を払って、ここから帰してやることにした。男はひどく気の毒がって、幾たびか詫びと礼を言った。 「わたしの牛は今まで一度もお客を落したことはねえのに、どうしてこんな粗相(そそう)を仕出かしたのか。まあ、どうぞ勘弁しておくんなせえ。」  お杉は罪ほろぼしのような心持で、この男の姪に幾らかの療治代でも恵んでやりたかったが、迂濶なことをして覚えられては悪いと思い直して、それはやめた。なんにも知らないらしいかの男は、詫びと礼とを繰返して言った。  牛と別れて、二人はほっとした。傷寒で死にかかっているというお安の魂が、かの牛に乗りうつって来たかとも思われたからである。二人は再び不安に襲われながら、四郎兵衛の駕籠を護って金沢へ急いだ。  金沢の宿(しゅく)に着いても、四郎兵衛はまだぼんやりしていた。ここでは思うような療治も出来ないというので、翌日の早朝に、この一行は三挺の駕籠をつらねて江戸へ帰ったが、江戸の医者たちにもその容態が判らなかった。ある者は牛から落ちた時に頭を強く撲(う)ったのであろうと言い、ある者はさざえの殻でぶたれた傷から破傷風になったのであろうと言い、その診断がまちまちであった。四郎兵衛は高熱のために、五、六日の後に死んだ。彼は死ぬまで一と言もいわなかった。  お安の裸体画をかいた絵師は頓死したといい、その周旋をした四郎兵衛はこの始末である。義助はある時それを香川甚五郎にささやくと、甚五郎はまだ笑っていた。 「今度はいよいよおれの番かな。」  果して彼の番になった。それから一年ほどの後に、甚五郎は身持放埒(ほうらつ)の廉(かど)を以って留守居役を免ぜられ、国許逼塞(くにもとひっそく)を申付けられた。  さてその本人のお安という女は、病気のために死んだかどうだか、その後の消息は判らなかった。その時代のことであるから、江戸から藤沢までわざわざ取調べにも行かれないので、小泉の店でもそのままにしてしまった。 -------------------------------------------------------------------------------- 底本:「蜘蛛の夢」光文社文庫、光文社    1990(平成2)年4月20日初版1刷発行 初出:「富士」    1934(昭和9)年10月 ※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振り につくっています。 入力:門田裕志、小林繁雄 校正:花田泰治郎 2006年5月7日作成 青空文庫作成ファイル: このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http: //www.aozora.gr.jp/) で作られました。入力、校 正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。 ------------------------------------------------------------------------ 深見夫人《ふかみふじん》の死《し》 岡本綺堂       一  実業家深見家の夫人多代子が一月下旬のある夜に、熱海の海岸から投身自殺を遂げたという新聞記事が世間を騒がした。  多代子はことし三十七歳であるが、実際の年よりも余ほど若くみえるといわれるほどの美しい婦人で、種々の婦人事業や貧民救済事業にもほとんど献身的に働いていることは何人《なんぴと》も知っている。その主人公の深見氏もまた実業界において稀に見るの人格者として知られていて、財産もあり、男女二人の子供もあり、家庭もきわめて円満である。彼女になんの不足があって、あるいは又なんの事情があって、突然にかかる横死を遂げたのか、それが一種不可解の謎として世間をおどろかしたのであった。したがって、それに就いて種々の臆説が伝えられたが、いずれも文字通りの臆説であって、ほとんど信をおくに足るようなものはなかった。自殺と見せかけて、実は他殺ではないかという疑いもあったが、前後の状況に因って、それが他殺でないことだけは確かめられた。  その新聞記事があらわれてから半月あまりの後に、わたしは某所で西島君に逢った。彼は若いときから某物産会社の門司支店や大連支店に勤めていて、震災以後東京へ帰って来たのである。その西島君が今度の深見夫人の一件について、こんな怪談めいたことを話した。  あれは日露戦争の前年と覚えている。その頃わたしは門司支店に勤めていて、八月下旬の暑い日の午前に、神戸行きの上り列車に乗っていた。社用でゆうべは広島に一泊して、きょうは早朝に広島駅を出発したのである。ことわって置くが、その頃のわたしはまだ学校を出たばかりの新参者で、二等のお客さまとして堂々と旅行する程の資格をあたえられず、三等列車に乗込んでいたのであった。  鉄道がまだ国有にならない時代で、神戸-下関間は山陽鉄道会社の経営に属していた。この鉄道は乗客の待遇に最も注意を払っているというのをもって知られていたので、三等室でも決して乗り心《ごころ》は悪くない。殊に三十五銭の上等弁当のごときは、我れわれのような学生あがりの安月給取りには贅沢過ぎるほどの副食物をもって満たされているので、わたしはこの鉄道に乗って往来するごとに、上等弁当を買って食うのを一つの楽しみにしている位であった。そういうわけであるから、三等のお客さまたるをもって満足して、やがて旨《うま》い弁当が食えることを期待しながら揺られてゆくと、ゆうべ遅く寝たのと今日の暑さとで、なんだか薄ら眠くなって来た。  わたしは我れ知らずに小《こ》一時間も眠ったらしい。なにか騒がしいような人声におどろかされて眼をさますと、わたしの車内には一つの事件が出来《しゆつたい》していた。車掌が一人の乗客を捉えて何か談判しているのである。他の乗客もみな其の方に眼をあつめていた。中には起《た》ちあがって覗《のぞ》いているのもあった。女客などは蒼い顔をして身をすくめていた。  唯ならぬ車内の様子にいよいよ驚かされて、だんだんその子細《しさい》を聞きただすと、列車はもうFの駅に近づいたので、三、四人の乗客はそろそろと下車の支度をはじめて、その一人が頭の上の網棚から自分の荷物をおろそうとする時に、汽車にゆられて手をはずして、半分おろしかけていた風呂敷包みをほうり出してしまった。幸いに他の乗客にはあたらなかったが、その風呂敷包みが床にどさりと投げ落されたはずみに、結び目がゆるんだとみえて、中の品物がころげ出した。それは何かの缶詰が三つ四つと、大きい唐蜀黍《とうもろこし》五、六本であった。単にそれだけならば別に子細もないのであるが、その唐蜀黍のあいだから一匹の青い蛇が鎌首をもたげたので、他の乗客はおどろいて飛びあがった。女たちは悲鳴をあげて騒いだ。  その騒ぎに車掌もかけ付けて、汽車中ヘ生き物――殊に蛇などを持ち込んで来た、かの乗客に対して詮議をはじめたのである。その乗客が農家の人であることは其の服装をみて大抵想像された。彼は四十五、六歳の、いかにも質朴らしい男で、日に焼けている頬をいよいよ赧らめながら、この不慮の出来事に就いて自分はまったくなんにも知らないと吶《ども》りながらに釈明した。 「乗車券をみせて下さい。」と、車掌は奪うように彼の手から切符を受取って見た。「Kの駅から乗ったのですね。」 「はい。」と、男はひどく恐縮したような態度で答えた。  彼はKの町の近在に住む者で、Fの町から一里ほど距《はな》れたところに親戚があるので、自分の畑から唐蜀黍を取り、Kの町へ出て来て蟹《かに》の缶詰を買い、それらを土産にしてこれから親戚をたずねようとするのであった。勿論、蛇などを持って来る筈《はず》がない。こんな小さな蛇は親戚の村にもたくさんに棲んでいると、彼は言った。農村の者が農村の親戚を訪問するのに、こんな蛇などをわざわざ手みやげに持って行く筈がない。一尺ぐらいに過ぎない蛇であるから、おそらくその唐蜀黍と一緒にまぎれ込んで来たものであろうとは、誰にも想像されるところである。殊に飛んでもない人騒がせをしたことを、非常に恐縮しているらしい彼のおとなしい態度が諸人の感情をやわらげた。 「そうすると、畑からまぎれ込んだのを、あなたも知らなかったのですね。では、まあ、仕方がない。早く外へ捨てて下さい。」 「はい、はい。」と、男はあやまるように頭を下げた。 「早くして下さい。もう直ぐに停車場へ着きますから。」と、車掌は催促した。  男は農家の人だけに、こんな蛇をなんとも思っていないらしく、無雑作《むぞうさ》にその尾をつかんで窓の外へ投げ出すと、車内の人々は安心したように息をついた。 「どうもまことに相済みません。」と、男は人々にむかって又もや頭を下げた。「どうしてあんな物が這《は》い込んだのか、実に不思議でございます。これからは気をつけます。どうかまあ御勘弁を願います。」  言ううちに、列車はもうFの駅に着いたので、男は又くり返して詫びながら早々に降りてゆくと、それと入れちがいに、この車内へ乗込んで来たのは学生らしい若い男と娘の二人連れで、わたしの向うの空席に腰をおろした。わたしはここで例の弁当を買おうかと思ったが、岡山駅まで待つことにしていると、列車はやがてゆるぎ出した。 「いや、どうも飛んだお茶番でしたね。」と、東京の商人らしい乗客の一人が笑いながら言った。 「蛇となると、小さいのでも気味の好くないもんですよ。」と、隣りにいる一人が答えた。 「まったくあの風呂敷包みがころげ落ちて、唐蜀黍のあいだから蛇の出た時にはぞっとしました。」と、その前にいる女も言った。  蛇の噂《うわさ》が一としきり車内を賑わした。あの男は実際なんにも知らないらしい。あの男があんまり恐れ入ってあやまるので、しまいには気の毒になって来たなどという者もあった。新しく乗込んで来た男と娘は、熱心にその話に耳をかたむけているらしかったが、やがて男は小声でわたしに訊《き》いた。 「蛇がどうしたのですか。」  ここでこの男と娘に就いて、すこしく説明して置く必要がある。男は十九か二十歳ぐらいで、高等学校の制帽と制服をつけていた。娘は十五、六の女学生らしい風俗で蝦色の袴を穿いていた。その服装と持ち物とを見れば、彼らは暑中休暇で郷里に帰省していて、さらに再び上京するものであることは一と目に覚られた。かれらが兄妹《きようだい》であるらしいことも、その顔立ちをみて直ぐに知られたが、取分けて妹は色の白い、眉《まゆ》の優しい、歯並の揃った美しい娘であるのが 私の注意をひいた。  問われるままに、わたしはかの青い蛇の一件を物語ると、兄も妹も顔の色を動かした。 「そうして、その蛇はどうしました。」 「駅へ着く前に窓から捨てました。」 「駅へ着く前……。よほど前でしたか。」と、兄はかさねて訊いた。 「いや、捨てると直ぐに駅へ着きました。」  兄は黙って聴いていた。妹の顔色はいよいよ蒼ざめた。若い娘の前で蛇の話などを詳しくしゃべって聞かせたのは、わたしの不注意であったかも知れないと気がついて、もういい加減にその話を打切ろうとすると、兄は執拗《しつこ》く又訊いた。 「その蛇は青いのでしたね。よほど大きいのでしたか。」 「いや、一尺ぐらいでしたろう。」と、わたしは軽く答えた。そうして、その話を避けるように窓の外へ眼をそらした。  わたしが傍を向いていたのは、せいぜい二分か三分に過ぎなかったが、そのあいだに兄と妹はどう相談をしたのか、網棚の上にあげてある行李《こうり》をおろし始めた。なんだか下車の支度でもするらしいので、私はすこしく不思議に思っていると、やがて列車は次の駅に着いた。その前から二人は席を起って、停車を待ちかねているような風であったが、停まると直ぐに兄はわたしに会釈《えしやく》した。 「どうも失礼をいたしました。」  妹も無言で会釈して、二人は忙がしそうに下車した。その余りに慌てたような態度が又もやわたしの注意をひいて、窓からかれらの行くえを見送ると、ここは小さい駅であるから乗降りの客も少なく、兄妹《きようだい》がほとんど駈足で改札口を出てゆく後ろ姿がはっきりと見えた。勿論、なにかの都合で途中下車をしないとも限らないのであるが、くどくも言う通り、余りにもあわただしい二人の様子が何か子細ありげにも思われた。そうして、それがあの蛇の話に何かの関係があるのではないかとも疑われた。それは私ばかりでなく他の乗客にも怪しまれたと見えて、東京の商人は笑いながら私に言った。 「あの娘さんはよっぼど蛇が嫌いらしい。あなたに蛇の話を聞かされて、真っ蒼になってしまいましたね。なんでも兄さんを無理に勧めて、急に降りることになったようです。」 「それで降りたんでしょうか。」 「この箱には蛇が乗っていたというので、急に忌《いや》になったのでしょう。嫌いな人はそんなものですよ。」  それならば他の車室へ引移れば済むことで、わざわざ下車するにも及ぶまいと思いながら、わたしは再び車外へ眼をやると、若い兄妹の姿はもうそこらに見えないで、駅の前の大きい桜に油蝉が暑そうに暗き続けているばかりであった。  列車がまた進行をはじめると、さっきの車掌がふたたび廻って来た。かの商人は話し好きとみえて車掌の顔をみると直ぐに又話しかけた。 「どうもさっきは驚かされたね、汽車のなかでにょろにょろ這い出されちゃ堪まらないよ。」 「まったく困ります。しかし考えると、少し不思議でもありますよ。」 「なにが不思議で……。」  残暑の強い時節であるのと、帰省の学生らが再び上京するには小一週間ほど早いのとで、列車のなかはさのみ混雑していなかった。現にあの兄妹の起ったあとは空席になっていたので、車掌はそこへ腰をおろした。 「なにが不思議といって……。わたしは一昨年《おととし》の春からこの鉄道にあしかけ三年勤めていますがね、毎年夏になると、蛇の騒ぎが二、三回、多いときには四、五回もあるのです。」 「ここらには蛇が多いのかね。」と、商人は訊いた。 「特に多いという話も聞かないのですが……。」と、車掌はすこし首をかしげながら言った。 「それが又不思議で……。その蛇の騒ぎはいつでも広島とFの駅とのあいだに起るのです。そうして、きょうと同じように、乗客自身はなんにも気がつかないでいると、蛇がいつの間にかその荷物のなかに這入り込んでいるのです。ことしももうこれで五回目になるでしょう。わたしも職務ですから、一応はあの人を詮議しましたけれど、肚《はら》の中では又かと思っていました。」 「ふうむ。そりゃあ不思議だ、まったく不思議だ。」と、商人は仰山《ぎようさん》らしく顔をしかめて、その首を大きく振った。「そうすると、何か子細がありそうだな。広島とFの町とのあいだに限っているのは不思議だ。」 「まだ不思議なことは、それがいつでも上り列車に限っているのです。」 「いよいよ不思議だ。ねえ、そうじゃありませんか。」と、商人はわたしを見返った。 「不思議ですね。上り列車に限るとは……。」と、私もうなずいた。 「いや、まだあります。」と、車掌も調子に乗ったように説明した。「その蛇を持って来る人は、いつでもKの駅から乗込むのです。そうして、Fの駅ヘ近づいた時に発見されるのです。きょうもきっとそうだろうと思いながら、その乗車券をあらためて見ると、果たしてKの駅から乗った人でした。」  商人とわたしとは黙って顔を見合せていると、車掌は又言った。 「きょうのように偶然の事故から発見されることもありますが、多くのなかには発見されないで済むこともあるだろうと思われます。そうすると、たくさんの蛇がKの町から来る乗客に付きまとって、Fの町へ乗込むことになるわけです。」 「そう、そう。」と、商人はやや気味悪そうにうなずいた。「どうも判らない。なにか因縁があるのかな。」 「どうも変ですよ。」と、車掌も子細ありげに言った。「なにしろ蛇の騒ぎを起すのは、Kの町から来る人に限るのですからな。」 「その蛇はどこへ行くつもりかな。」と、商人はかんがえた。 「そりゃ判りませんね。」 「判らないのが本当だろうが、なにかFの町の方へ行って崇るつもりらしい。」と、商人は何もかも見透しているように言った。「きっとFの町の誰かに恨みがあって、ぞろぞろ繋がって乗込むに相違ない。怪談、怪談、どうも気味がよくないな。」  さっきの兄妹の顔がわたしの眼に浮かんだ。  商人もそれに気がついたように又言い出した。 「そうすると、あの兄妹が蛇の話を聞いて顔の色を変えたのが少しおかしいぞ、あの二人はFの駅から乗ったんだから……。」 「どんな人たちでした。」と、車掌は訊いた。  商人は二人の人相や風俗を説明して、彼らが途中から俄に下車したことを話すと、車掌も耳をすまして聴いていたが、さてそれが何者であるかを覚《さと》り得ないらしく、やがて私たちに会釈して立去った。 二  予定の通りに、わたしは岡山で弁当を買って食った。そうして、その日の夕方に神戸に着いた。そこで社用を済ませて、その晩は一泊して、あくる日の午前の汽車に乗込んで広島まで引っ返した。商売上のことはここで説明する必要もないが、私はその商売の都合で再び神戸へ行かなければならない事になったので、広島に暑苦しい一夜をすごして、その明くる日の午前には又もや神戸行きの列車に乗込んだ。残暑のきびしい折柄、同じところを往ったり来たりするのは可なりに難儀であったが、どうも致し方がない。しかもこの上り列車に乗ることに就いて、わたしは一種の興味を持たないでもなかった。  それは今度の列車にも、Kの町から乗り込む人があって、その人が又もや蛇を伴っているかも知れないということであったが、その期待はまったく外《はず》れてしまった。Kの町から乗った人もあり、Fの町で降りた人もあったが、いずれも平穏無事で、なんの人騒がせをも仕出来《しでか》さずに終ったので、わたしはひそかに失望しながら車外をぼんやり眺めていると、Fの駅の改札口をぬけて、十四、五人の乗客がつづいて出て来た。そのなかにあの学生の兄妹の顔を見いだした時に、わたしは俄かに胸のおどるのをおぼえた。そうして、かれらがきょうも私の車室へ乗込むことを願っていると、二人はあたかも絲にひかれるように、わたしの車室ヘ入り込んで来たので、占めたと思って見ていると、あいにく車内には空席が多かったので、かれらはわたしよりも遠く離れた隅の方の席に腰をおろした。  それでも二人はわたしを見付けて、遠方から黙礼した。わたしも黙礼した。さりとて馴《な》れなれしく其の近所へ席を移すわけにも行かないので、わたしは残念ながら遠目に眺めているほかはなかった。  かれらが今日もここから乗込んだのを見ると、おとといは次の駅でいったん下車して、さらに下り列車に乗りかえてFの町へ引っ返し、きのう一日は自宅にとどまって、きょうの午前に再び出て来たものらしく思われた。かれらの服装も行李もすべて先日の通りであった。私はなお注意して窺うと、兄も妹もその顔色が先日よりも更によくない。殊に妹の顔は著るしく蒼ざめているように見えた。かれらはKの町から続々乗込んで来る蛇の群れに悩まされているのではないかなどと、私はいろいろの空想をめぐらしながらひそかにその行動を監視していたが、かれらの上に怪しいような点も見いだされなかった。妹は黙って俯向《うつむ》いていた。兄も黙って車外をながめていた。  岡山でわたしは例のごとくに弁当を買った。かの兄妹も買った。その以外に、かれらの行動について私の記憶に残っているようなことはなかった。私はきょうも神戸で降りた。兄妹も下車した。かれらはおそらく新橋行きの列車に乗換えたのであろう。その後のことは勿論わたしに判ろう筈もなかった。  その翌年には日露戦争が始まって、わたしの勤めている門司支店は非常に忙がしかった。それが済むと、すばらしい好景気の時代が来た。明治四十年の四月、わたしは社用を帯びて上京して、約三ヵ月ばかりは東京の本社の方に詰めていることになった。  なにしろ久し振りで東京へ帰って来たのである。時は四月の花盛りで、上野には内国勧業博覧会が開かれている。地方からも見物の団体が続々上京する。天下の春はほとんど東京にあつまっているかと思われるような賑わいのなかに、わたしも愉快な日を送っていた。  しかし遊んでばかりはいられない。わたしは毎日一度はかならず出社する以外に、東京にある親戚や先輩や友人をたずねて、平素の無沙汰ほどきをしなければならないので、働くと遊ぶの暇をみて諸方へ顔出しをすることも怠らなかった。そのあいだに、わたしは江波先生をしばしば訪ねた。  先生は法学博士で、わたしが大学に在学中はいろいろのお世話になったことがある。その住宅は本郷の根津権現に近いところに在って、門を掩うている桜の大樹が昔ながらに白く咲き乱れているのも嬉しかった。第一回の訪問は四月の第一日曜日であったと記憶しているが、先生も奥さんもみな壮健で、二階の十畳の応接室ヘ通された。そこは日本の畳の上に絨毯《じゆうたん》を敷いて、椅子やテーブルを列《なら》べてあるのであった。  やがて若い女が茶を運んで来た。奥さんが自身に菓子鉢を持って来た。若い女はすぐに立去ったが、奥さんは先生とわたしに茶をついでくれた。 「あの方はお家《うち》のお嬢さんじゃありませんな。」と、わたしは訊いた。 「娘じゃありません。」と、奥さんは笑いながら答えた。「娘は少し風邪を引いて二、三日前から寝ています。あの人は多代子さんといって、よそから預かっているのです。」 「多代子さん……。もしやあの方は広島県の人じゃありませんか。Fの町の……。」 「ええ。」と、奥さんは先生と顔を見合せた。「よく御存じですね。」 「じゃあ、やっぱりそうでしたか。どうも見たことがあるように思っていました。」 「どこかでお逢いなすったことがあるのですか。」と、奥さんは再び笑いながら訊いた。 「はあ。山陽線の汽車のなかで……。そのときは兄さんらしい人と一緒でした。」  わたしは先年のことを簡単に話した。しかしどんな当り障りがあるかも知れないと思ったので、蛇の一件だけは遠慮してなんにも言わなかった。 「むむ、多代子さんは兄さんと一緒に相違あるまいが……。」と、先生は重い口で私にからかった。「君は誰と一緒に乗っていたかな。多代子さんに賄賂でも使って置かないと、飛んでもないことを素っ破抜かれるぜ。」  奥さんも私も笑い出した。多代子はFの町の近在の三好という豪農のむすめで、兄の透《とおる》という青年と一緒に上京して、ある女学校に通っている。先生は三好の家と特別の関係があるわけでもないが、ある知人から頼まれて、多代子だけを預かって監督している。先生の家にも多代子と同年の娘があって、おなじ女学校に通っているので、かたがたその世話をしてやることになったのである。兄の透はこの近所の植木屋の座敷を借りて、そこから通学している。これだけのことは奥さんの説明によって会得《えとく》することが出来た。多代子はことし十九で、容貌《きりよう》は見る通りに美しく、性質も温順で、 学業の成績もよいので、まことに世話甲斐があると先生夫婦も楽しんでいるらしい口ぶりであった。  奥さんが降りて行った後に、先生とわたしは差向いで二時間ほども話した。先生は午飯《ひるめし》を食ってゆけと言われたが、わたしは他に廻るところがあるので、又お邪魔に出ますと言って二階を降りると、奥さんは多代子を連れて出て来た。 「もうお帰りですか。では、ここで改めて多代子さんを御紹介しましょう。」  彼女は果たしてわたしの顔を記憶していたかどうか知らないが、ともかくも型のごとくに挨拶《あいさつ》して別れた。先年はまだ少女といってもよかった多代子が、今は年ごろの娘に成長して、さらにその美を増したように見えた。その白い艶《あで》やかな顔には、先年見たような暗い蒼ざめた色を染め出していなかった。春風の吹く往来へ出て、わたしもなんだか一種の愉快を感じながら歩いた。  二回目に先生を訪問したのは四月の末で、その日は平日《へいじつ》であったので通学中の多代子さんは見えなかった。先生のお嬢さんも病気が全快して一緒に学校へ出て行ったとの事であった。第三回の訪問は五月のなかばの日曜日で、わたしは午後七時ごろに上野行きの電車を降りると、博覧会は夜間開場をおこなっているので、広小路付近はイルミネーションや花瓦斯で昼のように明るかった。そこらは自由に往来が出来ないように混雑していた。  わたしはその賑わいを後ろにして湖の端から根津の方角へ急いだ。その頃はまだ動坂行きの電車が開通していなかったので、根津の通りも暗い寂しい町であった。路ばたには広い空地などもあって、家々のまばらな灯のかげは本郷台の裾に低く沈んでいた。わずかの距離で、上野と此処《ここ》とはこんなにも違うものかと思いながら、わたしは宵闇の路をたどってゆくと、やがて団子坂の下へ曲ろうとする路ばたの暗いなかで、突然にきやつ[※「きやつ」に傍点]という女の悲鳴が聞えたので、わたしは持っているステッキを把《と》り直して、その声をしるべに駈け出すと、出逢いがしらに駈けて来る一人の男があった。あぶなく突き当ろうとするのを摺りぬけて、彼はどこへか姿を隠してしまった。月はないが、星は明るい。少しく距《はな》れたところには煙草屋の軒ランプがぼんやりと点《とも》っている。その光りをたよりに透かしてみると、草原つづきの空地を横にした路ばたに、二人の女の影が見いだされた。 「どうかなすったんですか。」と、わたしは声をかけたが、女たちはすぐに答えなかった。  かれらの悲鳴を聞いて駈け付けたらしい、わたしに続いて巡査の角燈《かくとう》の光りがここへ近寄った。女は先生のお嬢さんと多代子の二人で、多代子はぐったりと倒れかかるのを、お嬢さんがしっかりと抱えているのである。それを見てわたしは又驚いた。  巡査の取調べに対して、お嬢さんは答えた。二人は根津の通りへ買物に出て、帰り路にここまで来かかると、空地の暗いなかから一人の男があらわれて、多代子の頸へ何かを投げつけたというのである。巡査は更に訊いた。 「なにを投げ付けたのですか。」 「蛇です。」と、多代子は低い声で答えた。  蛇と聞いて、巡査もお嬢さんも顔をしかめたが、わたしは更に強い衝動を感じた。多代子と蛇と――先年の汽車中の光景が忽《たちま》ちわたしの眼の先に浮かび出したのである。巡査は角燈を照らしてあたりを見廻すと、草のなかに果たして一匹の青い蛇が白っぼい腹を出して横たわっていた。 「むむ、蛇だ。」  巡査は子細にあらためて、また俄かに笑い出した。 「はは、これは玩具《おもちや》だ。拵《こしら》え物だ。」 「ほんとうの蛇じゃありませんか。」  のぞき込む私の眼の前へ、巡査は笑いながらかの蛇をとって突き出した。なるほど精巧には出来てはいるが、それは確かに拵え物の青大将であるので、わたしも思わず笑い出した。 「はは、玩具だ。多代子さん、驚くことはありません。こりゃ玩具の蛇ですよ。」  このごろは博覧会の夜間開場が始まったので、夜ふけて帰る女たちを暗いところに待ち受けて、悪いたずらをする奴がしばしばある。これもそのたぐいであろうと巡査は言った。そう判ってみれば、さしたる問題でもないので、わたし達は挨拶して巡査に別れた。わたしはどうせ先生の家へゆく途中であるから、女ふたりを送りながら一緒に付いて行ったが、先生の門をくぐるまでの間、多代子は一言も口をきかなかった。 「近所ではあり、まだ宵だからと油断して、若い者ばかりを出してやったのが間違いでした。」と、奥さんは悔んでいた。  たとい玩具にもしろ、何者かのいたずらにもしろ、二人ならんでいる女のうちで、多代子を目ざして蛇を投げ付けたのは、故意か偶然かと私はかんがえた。二人のうちで、多代子の方が一段美しいためであったかとも考えられた。その形のみえない暗いなかで、多代子が十分にそれを蛇と直覚したのは少しく変だとも言えないことはない。しかもその晩は何事もなく、わたしは先生と一時間あまり話して帰った。  第四回の訪問は六月はじめの午前で、先生の門をくぐると、大きい桜の葉から毛虫が二、三匹落ちて来た。例のごとく二階へ通されたが、奥さんの話によると、お嬢さんは学校へ出て行ったが、多代子は病気で寝ている、それに就いて、先生は警察ヘ行っているとの事であった。 「なにしに警察へ行かれたのですか。」 「こういうわけなのです。」と、奥さんは顔を曇らせながら説明した。「御存じの通り、先月なかばに多代子さんと娘が根津へ買物に出て、その帰りに多代子さんが蛇をほうり付けられたことがあるでしょう。それは玩具《おもちや》の蛇でしたが、今度はほんとうの蛇をほうり込んだ奴があるのです。先月の末に、下の八畳で多代子さんと娘が机にむかって勉強していると、肱《ひじ》かけ窓から一匹の青大将を多代子さんの顔へ……きやつという騒ぎのうちに、相手は逃げてしまったのですが、なんでも横手の生垣を破って忍び込んだらしいのです。娘の話では、そのうしろ姿が若い学生らしかったということです。まだそれだけなら好いのですけれど、その後にたびたび多代子さんのところへ脅迫状をよこして、午後八時ごろまでに根津権現の表門前まで来てくれ、さもなければ、いつまでも蛇をもってお前を苦しめるからそう思え、というようなことが書いてあるのです。一度や二度は打っちゃって置きましたけれど余りたびたび重なるので、一応は警察へ届けて置く方がよかろうといって、良人《うち》はさっきから警察へ行っているのです。いずれ不良青年の仕業でしょうけれど、困ってしまいますよ。」 「怪《け》しからんことですな。それで多代子さんは寝ているんですか。」 「なんだか気分が悪いといって、二、三日前から学校を休んでいるのです。」  勿論、不良青年の仕業であろうが、その青年がもしや広島県のKの町の人間ではないかと、わたしは考えた。そうして、思わず口をすべらせた。 「多代子さんには蛇が崇っているようですな。」 「なぜです。」  奥さんにだんだん問い詰められて、私はとうとうあの汽車の一件を打明けると、奥さんはいよいよ顔の色を暗くした。 「まあ、そんな事があったのですか。なにかの心得になるかも知れませんから、良人にも一と通り話して置いて下さいよ。」 「いや、先生に話すと笑われます。」  そこへあたかも先生が帰って来て、その不良青年については警察でも、たいてい心当りがあるとの事であった。奥さんが頻りに催促するので、しょせん無駄だとは思いながら、わたしは再び先生の前で汽車中の一件を報告すると、果たして先生はただ冷やかに笑っていた。「それは僕に話してもしようがない。小説家のところへでも行って話して聞かせる方が、よさそうだね。」  奥さんもわたしも、重ねていう術《すべ》がなかった。      三  それから五、六日経つと、多代子さんにいたずらをした不良青年が捕われたという新聞記事が見えたので、わたしはその晩すぐに先生の家を訪問すると、先生は誰かの洋行送別会に出席したといって留守であった。奥さんに会って、わたしは新聞記事の詳細を聞きただすと、奥さんはまず第一にこんなことを言い出した。 「どうもわたしは驚きましたよ。多代子さんを付け狙った不良青年は、やっぱり広島県のKの町の生れだったそうです。」 「そうですか。」と、わたしも眼をかがやかした。「じゃあ、多代子さんの身許を知っていたんでしょうか。」 「それは知らないのだそうですがね。そんな事を常習的にやっているので、警察からも眼をつけられている不良青年で、多代子さんがFの町の人だか、三好という家の娘だか、そんなことはなんにも知らないで、ただその容貌《きりよう》の好いのを見て付け狙ったというだけの事らしいのです。しかし、それがちょうどにKの町の人間だというのが不思議じゃありませんか。」と、奥さんは眉をよせた。 「不思議ですね。」と、私もなんだか不思議のように思われてならなかった。 「ねえ、そうでしょう。」と、奥さんは重ねて言った。「良人《うち》はあんな人ですから、何を言っても取合ってはくれませんけれど、わたしはなんだか気になるので、多代子さんにいろいろ訊いてみましたが、本人はなんにも心当りがないと言うのです。けれども、あなたのお話によると、多代子さんの兄妹は汽車のなかで蛇の話を聞いて、途中で急に下車して家に引っ返したらしいというじゃありませんか。してみると、やっぱり何か思い当ることがあるに相違ないと思われるのですが……。」  当人が隠しているものを無理に詮議するのも好くないから、まず其のままにして置いたが、その以来、自分の家に多代子さんを預かっているのが何だか不安になって来たと、奥さんは小声で話した。奥さんの鑑定通り、多代子は何かの秘密を知っていながら、あくまでも知らないと言い張っているらしく思われたが、さてそれがどんな秘密であるかは、所詮われわれの想像の及ばないことであった。 「多代子さんの兄さんが来たときに訊いてみようかとも思うのですが、それもなんだか変ですからねえ。」と、奥さんは考えていた。 「それはお止しになった方がいいでしょう。」と、わたしは注意した。「そのうちには自然に判ることがあるかも知れません。」 「そうですねえ。多代子さんと違って、透さんにうっかりそんなことを訊いて、それが良人《うち》の耳にでもはいると、わたしが又叱られますから。」  多代子の話はそれで打切りになった。先生の帰りは遅くなりそうだというので、わたしは奥さんと三十分ほど話して帰った。社の用件も片付いて、わたしも七月の初めには再び門司の支店へ帰ることになったので、先生のところへ暇乞いにゆくと、あいにくに今夜も先生は留守であった。梅雨《つゆ》のまだ明け切らない曇った宵である。こんな晩に先生はどこへ行かれたかと訊《たず》ねると、奥さんは小声で答えた。 「桐沢さんのところへ呼ばれて行ったのです。」 「桐沢さん……。」 「あなたも御存じでしょう。」 「お名前だけは承知しています。」と、わたしは言った。桐沢氏は知名の実業家で、その次男は大学の文科に籍を置いている。それが将来は先生のお嬢さんの婿になるという内約のあるらしいことは、わたしも薄々知っていた。そういう事情から、桐沢氏は多代子のような若い娘を自分の家にあずかって置くのは、先生夫婦の思惑もいかがという遠慮から、わざと自宅に寄宿させることを避けて、反対に彼女を先生のところへ預けることになったらしい。それは私も薄々察していたが、その桐沢という人にも、又その次男という人にも、これまで懸け違って一度も出逢ったことはなかったのである。  そういう訳であるから、外出嫌いの先生が今夜のような晩に桐沢氏を訪問したのも、別に怪しむにも足らないのであった。しかし、それを話す奥さんの顔色は余り晴れやかでなかった。 「なんだか変なことですね。」 「どういう事です。何か事件が出来《しゆつたい》したんですか。」 「ええ。」と、奥さんはうなずいた。「また例の多代子さんのことで……。」 「また蛇でもぶつけられたんですか。」 「いいえ、そうじゃないのですが……。学校もやがて夏休みになるので、兄さんの透さんも帰省する。多代子さんも毎年一緒に帰るのですが、この夏に限って帰らないと言い出して、熱海か房州か、どこかの海岸ヘ行きたいと言うのです。郷里でも両親が待っているから、まあ帰れと兄さんが勧めるのですけれど、本人はどうしても忌《いや》だと言うのです。」 「なぜでしょう。」 「それはよく判りません。」と、奥さんは言った。「いくら本人が行きたいと言ったところで、若い娘たちをむやみに海岸の避暑地なぞへ出してやられるものではありません。誰か相当の者が付いて行かなければならないでしょう。兄さんでも一緒に行ってくれれば格別ですが、兄さんはどうしても帰省するという。妹は忌だという。といって、わたし達が付いて行くというわけにも行かず、まことに困ってしまうので、良人《うち》はその相談ながらに、今夜桐沢さんのところへ出かけて行ったのですが、どういうことに決まりますかねえ。」  多代子が帰省を嫌うのは、山陽線の列車の中で又もや何かの蛇さわぎに出逢うのを恐れているのではないかと、私はふと思い浮かんだので、それを奥さんにささやくと、奥さんも同感であるらしかった。 「実はわたしも、もしやと思って、それとなく多代子さんに訊いて見たのですが、本人は一向にそんなことを言わないのです。もっとも隠しているのかも知れませんが……。あなたもそういうお考えならば、もう一度、良人に話してみましょうか。」 「およしなさい。」と、わたしは遮《さえぎ》った。「そんなことを言っても駄目ですよ。先生はとても受付ける筈はありませんよ。現にこのあいだもあの通りでしたから。」 「それもそうですが……。」と、奥さんも思い煩うように見えた。「なにしろ本人がどうしても忌だというものを、無理に帰してやるわけにも行きますまいからねえ。」 「多代子さんはどうしているんです。」 「やはり下の八畳に……。娘と一緒に机を列《なら》べているのです。」 「別に変った様子も見えませんか。」 「ほかには別に変ったことも……。」  奥さんがこう言いかけた時に、階子《はじご》をあがって来る足音がひびいた。と思う間もなく、襖の外から若い男の声がきこえた。 「奥さん、御来客中をまことに失礼ですが……。」 「あ、透さん。いつお出でなすったの。」と、奥さんは見返った。「構いません。おはいりなさい。」  襖をあけて、電燈の下に蒼白い顔をあらわしたのは、学生風の青年であった。私はその青年をひと目見て、彼が多代子の兄の三好透であることを直ぐに覚ったが、相手の方ではもう私を見忘れているらしかった。殊に今夜の彼はひどく昂奮しているらしく、私に向ってはなんの会釈もせずに、突っ立ったままで奥さんに話しかけた。 「奥さん。妹はあしたの朝の汽車で連れて帰ります。」 「あしたの朝……。多代子さんも承知したのですか。」 「承知しても、しないでも、直ぐに連れて帰ります。」と、彼は奥さんに食ってかかるように声をとがらせた。 「まあ、おかけなさい。」と、奥さんは逆らわずに椅子をすすめた。「どうしてそんなに急に帰ることになったのです。実はそのことで、良人《うち》は今夜桐沢さんのところへ行っているのですが……。」 「先生がなんと仰しやっても、桐沢さんがなんと言っても、多代子は連れて帰ります。」と、彼はきっぱりと言い切った。その顔色のいよいよ蒼ざめて来たのが、わたしの注意をひいた。 「それにしても、まあ少しお待ちなさい。もうやがて良人も帰って来ましょうから。」と、奥さんはなだめるように言った。そうして、その話題を転ずるように、改めて私を彼に紹介したが、彼はやはり私を記憶していないらしかった。  わたしは笑いながら言い出した。 「あなたにはお目にかかった事がありますよ。山陽線の汽車の中で……。」 「山陽線の汽車の中で……。」 「蛇の騒ぎがあった時に……。」  こう言って、わたしはその顔色を窺うと、彼も睨むように私の顔をじっと見つめていたが、やがて漸く思い出したように、少しくその顔色をやわらげた。 「いや判りました。その節はどうも失礼をいたしました。あなたもここの先生の家へお出入りをなさる方とはちっとも知りませんでした。いや、今夜も少し気がせいていましたので、どうも失礼をいたしました。」  彼は繰返して失礼を謝していた。わたしも若いが、彼はさらに若い。一時の昂奮から、なんとなく穏やかならぬ気色《けしき》をみせているが、しょせんは愛すべき一個の青年であることを、私は認めた。彼もわたしには遠慮したのか、あるいはだんだんに神経も鎮まって来たのか、やや落着いたような態度で椅子に腰をおろした。  奥さんが茶を入れかえに立った後で、私はしずかに彼に訊いた。 「唯今伺ったところでは、妹さんを連れてお帰りになるのですか。」 「まあ、そうです。」と、彼はハンカチーフで額の汗を軽く拭きながら答えた。「どうも困りました。」  彼はその以上に何事をも語らないので、なじみの薄いわたしが更に踏み込んで其の秘密を探り出すわけにも行かなかった。それと同時に、私がここに長居することは、彼と奥さんとの用談を妨げる虞《おそ》れがあるらしいので、彼ひとりをそこに残して、わたしは二階を降りて来ると、階段の下で奥さんに逢った。 「今晩はこれでお暇《いとま》します。」 「そうですか。」と、奥さんは気の毒そうな顔をしていた。 「いえ、まだ二、三日はこっちに居りますから、また出直して伺います。」 「では、是非もう一度……。」  奥さんに送られて、わたしが玄関で靴を穿いているときにお嬢さんも出て来たが、多代子は姿を見せなかった。門《かど》を出ると、細かい雨が又しとしとと降っていた。前にもいう通り、その頃の根津権現付近は静かであった。殊に梅雨の暗い夜にはほとんど人通りも絶えている位で、権現の池のあたりで蛙の鳴く声がさびしく聞えた。  その暗い寂しいなかを五、六間ばかり歩き出すと、塀の蔭から一人の男が現われて私のそばへ近寄って来た。 「あなたは今、江波さんの家から出て来ましたね。」  暗いので、その人相も風体も判らなかったが、今頃こんな所に忍んでいるのは例の不良青年ではないかという懸念があるので、わたしも油断せずに答えた。 「そうです。なにか御用ですか。」 「もう少し前に、若い男が一人はいって行きましたろう。」  それは透のことであろうと私は察したので、いかにも其の通りだと答えると、男はわたしを路ばたの或る家の軒のランプの下へ連れて行って、一枚の名刺をとり出して見せた。彼は××警察署の刑事巡査であった。 「あの若い男は三好透という学生でしょう。」と、刑事は小声で言った。 「そうです。」 「江波博士とどういう関係があるのでしょう。」  相手が警察の人間であるので、わたしは自分の知っているだけの事を正直に話して聞かせると、刑事は少しく考えていた。 「そうすると、透という学生は三好多代子の実の兄ですね。それはおかしい。実はあの学生は不良性を帯びているので、今夜も膨術して来たのですが……。このあいだ江波さんの窓から蛇を投込んだのは、どうもあの男の仕業らしいのです……。」 「それは違います。」と、わたしは思わず声をあげた。「あの時には多代子さんの顔へ蛇を投げ付けたというじゃありませんか。いくら不良性を帯びているといっても、現在の妹に対してそんないたずらをする筈はないでしょう。現にその犯人は、もう警察へ挙げられたと聞いていますが……。」 「いや、それがね。」と、刑事はしずかに言った。「さきごろ、警察へ挙げられた犯人――それは佐倉という者で、この五月に根津の往来で多代子さんに玩具《おもちや》の蛇を投げたことがある。それだけは本人も自白したのですが、江波さんの窓から生きた蛇を投げ込んだ者は確かに判っていないのです。前の一件があるので、警察の方でも一時は彼の仕業と認定してしまったのですが、本人はどうしても後《あと》の一件を自白しない。だんだん調べてみると、まったく彼の仕業ではなく、そのほかにも同じような鷺齪者があるらしいのです。その証拠には、佐倉の拘留中にも往来の婦人にむかって、やはり蛇を投げ付けた者があるのですから……。」 「それが三好透だと言われるのですね。」 「どうもそうらしいのですが……。しかし、あなたの言われた通り、他人は格別、実の妹にもそんな悪戯をするのは……。ちっとおかしいように思われますね。」  刑事は考えていた。わたしも考えさせられた。二人は暫く黙って雨のなかに立っていた。       四  そのうちに、私はふと思い出したことがあった。 「しかし、あなたも御承知でしょうが、多代子さんの所へしばしば手紙をよこして、根津権現の門前まで出て来い、さもなければ、いつまでも蛇をもっておまえを苦しめると脅迫した者があるそうです。それもやはり兄の仕業でしょうか。三好透という男は、なんの必要があって自分の妹をそんなに脅迫するのでしょうか。また、自分の兄の筆蹟ならば、多代子さんは無論見知っているでしょうし、江波博士の家の人たちも、大抵は知っている筈でしょうに……。」 「それはね。」と、刑事は打消した。「三好透がなんのために妹を脅迫するのか判りませんけれど、手紙ぐらいは誰かに代筆を頼んだかも知れませんよ。若い友達などの中には、面白半分にそんなことを引き受ける者も随分ありますからね。ただ、肝腎の問題は、三好透がなぜ妹をそんなに脅迫するかということです。あなたにはなんにもお心当りはありませんか。」  わたしにも勿論、こころ当たりはなかった。しかも刑事に対して何かのヒントを与える材料にもなろうかと思って、わたしは今夜の一条を話した。多代子がこの夏休みに帰省を忌《いや》がること、兄の透が無理に明朝の列車で連れて帰ろうとすること、それらを逐一聴き終って刑事はまた考えていた。 「いや、いろいろありがとうございました。では、まあ、今夜はこのままにして置いて、もう一度よく考えてみましょう。」  相手が実の妹であると知って、刑事も探偵的興味を殺《そ》がれたらしく、丁寧に挨拶して別れて行った。透と多代子とが兄妹であることを、警察が今まで知らなかったのは少しく迂潤《うかつ》ではないかと私は思った。  なにしろこうなった以上は、事件が又どんな風にもつれて来て、先生の迷惑になるようなことが無いとも限らない。わたしは翌朝、会社の方へちょっと顔出しをして、すぐに根津へ廻ろうと思っていたのであるが、会社へ出るとやはり何かの用に捉えられて、午前十一時頃にようよう自由の身になった。きょうは何だか気が急くので、わたしは人車《くるま》に乗って根津へ駈けつけると、先生はもう学校へ出た留守であった。それは最初から予想していたので、わたしは二階へ通されて奥さんに会った。 「ゆうべはあれからどうなりました。」と、わたしはまず訊いた。 「あなたが帰ってから三十分ほどして、良人《うち》は帰って来ました。」 「透君はそれまで待っていたんですか。」 「待っていました。」と、奥さんはうなずいた。「それがおかしいのですよ。あなたも御承知の通り、透さんは大変な権幕で、あしたにも多代子さんを引き摺って帰るような勢いでしたろう。ところが、良人が帰って来て、桐沢さんとこういう相談を決めて来たから、そう思いたまえ。もし不服ならば、桐沢さんのところへ行って何とでも言い給えと言って聞かせると、透さんは急におとなしくなって、別に苦情らしいことも言わないで、そのまま無事に帰ってしまったのです。」  奥さんが更に説明するところによると、先生は桐沢氏と相談の結果、この夏休みに多代子は帰省するのを見合せて、先生のお嬢さんと一緒に、桐沢氏の鎌倉の別荘へ転地することになったというのである。それはまことに穏当の解決であるが、あれほどに息込んでいた兄の透がそれに対してなんの苦情も言わず、そのまま素直に承諾したのは、わたしにも少しく不思議に思われた。 「そこで、透君はどうするんです。」 「透さんは自分ひとりで帰るそうです。」と、奥さんは言った。「多分けさの汽車に乗ったでしょうよ。」  わたしは奥さんにむかって、ゆうべの出来事を詳しく話して、多代子に生きた蛇を投げ付けたのも、多代子に脅迫状を送ったのも、兄の透の仕業であるらしいということを報告すると、奥さんは顔色を暗くした。 「ああ、そうですか。そんな事がないとも言えませんね。」  定めて驚くかと思いのほか、奥さんもその事実をやや是認《ぜにん》しているらしい口ぶりであるので、わたしは意外に感じながら、黙ってその顔をながめていると、奥さんは溜息まじりで言い出した。 「こうなればお話をしますがね。あの透さんという人は、人間はまじめですし、勉強家ですし、学校の成績もよし、なんにも申分のない人なのですが、どういうわけだか自分の妹をひどく憎《にく》がるのです。」 「腹ちがいですか。」と、わたしは訊いた。 「いいえ、同じ阿母《おつか》さんで、ほんとうの兄妹なのですが……。その癖、ふだんは仲好しで、妹をずいぶん可愛がっているようですが、時々に――まあ、発作的とでもいうのでしょうかね、無暗に妹が憎くなって、別になんという子細もないのに、多代子さんの髪の毛をつかんで引摺り廻したり、打《ぶ》ったり蹴《け》ったりするのです。自分でもたびたび後悔するそうですが、さあ憎くなったが最後どうしても我慢が出来なくなって、半分は夢中で乱暴をするのだそうです。それですから、わたしの家でも注意して、透さんが妹をたずねて来た時には、内々警戒しているくらいです。けれども、まさかに蛇を投込むなどとは思いも付きませんし、脅迫の手紙の筆蹟もまるで違っていましたから、他人の仕業だと思って警察へも届けたような訳ですが……。刑事がそう言うくらいでは、やっぱり透さんの仕業だったかも知れません。なにしろ一緒に帰さないで好うござんした。よもやとは思いますけれど、汽車のなかで不意に乱暴を始められたりしたら、大変ですからね。透さんも初めのうちはそれほどでもなかったのですが、一年増しに悪い癖が募って来るので、今に多代子さんは兄さんに殺されやしないかと、家の娘などは心配しているのです。」  わたしにも訳が判らなくなった。わたしは医者でもなし、心理学者でもないから、三好透という青年の奇怪なる精神状態について、なんとも鑑定を下《くだ》すことは出来なかった。刑事の話によると、彼は他の婦人に対しても生きた蛇を投げ付けたことがあるらしい。勿論、確かに彼の仕業であるや否やは判らないが、もし果たしてそうであるとすれば、彼はおそらく一種の乱心《マニア》であろう。もし又、他人に対してはなんらの危害を加えず、単に妹に対してのみ乱暴や脅迫を加えるということであれば、それはやはり普通の乱心として解釈すべきものであるかどうかは、わたしにも見当が付かなかった。 「そうすると、透君がたびたび脅迫状をよこして、妹を根津権現前へよび出して、一体どうするつもりなんでしょう。」 「さあ。」と、奥さんも考えていた。「多代子さんがうっかり出て行ったら、おそらく何かの言いがかりでもして、往来なかでひどい目にでも逢わせるつもりでしたろう。今もいう通り、ふだんは仲好しの兄妹でありながら、時どきに妹が憎くなるというのはどういうわけでしょうかねえ。そんなことを言うと変ですけれど、あの人たちには何かの呪詛《のろい》が付きまとってでもいるのじゃあないでしょうか。汽車の中のお話を聞いて、わたしには何だかそう思われてならないのですよ。」  奥さんはまじめに言った。何かの呪誼、何かの崇り――それを笑うことも出来ないほどに、その当時の私は一種の暗い気分にとざされていた。二人のあいだには怖ろしいような沈黙が暫くつづいた。 「先生はそれをどうお考えになっているのでしょう。」  理性一点張りの先生がそんなことを問題にしないのは判り切っていたが、それでもこの場合、わたしは念のために訊いてみると、奥さんは寂しくほほえんだ。 「良人《うち》は御存じの通りですから……。」  先生はゆうべ桐沢氏を訪問して、両者のあいだにどんな相談があったのか、わたしはそれを窺い知りたいと思ったが、それに就いては奥さんも詳しく知らないと言った。先生は元来が寡言《むくち》の方で、ふだんでも家庭上必要の用件以外には、あまり多く奥さんやお嬢さんと談話をまじえない習慣であるので、今度の問題についても深く語らないであろうことは、わたしにも大抵想像された。  しかし、あれほどに昂奮していた透が、もし不服があるならば桐沢氏に言えという先生の一言のもとに、素直に屈服してしまったのを見ると、かれら兄妹にまつわる何かの秘密を、桐沢氏に知られているので、彼も桐沢氏に対しては頭が上がらない事情があるらしい。奥さんもそんなような意見を洩らしていた。要するに、ここに何かの秘密があって、それを知っているものは兄の透と妹の多代子と、桐沢氏――と、まだほかにもあるかも知れないが、少なくともこの三人はその秘密を知っているに相違ない。それを問題にすると否とは別として、先生もおそらく知っているのであろう。この際、先生の口から聞き出すのが一番近道であるが、前に言ったようなわけで、それは所詮むずかしい。 「それでも無事に済んで、まあ結構でした。」  わたしは差しあたりそんなことを言うのほかはなかった。奥さんはうなずいた。 「ええ、そうですよ。鎌倉の別荘ならば、桐沢さんの家の人たちもみんな行くのですから、多代子さんをやって置いても心配はありません。」  奥さんは午飯《ひるめし》を食って行けと勧めたが、わたしは出発前で忙がしいからと断わって帰った。 その後、もう一度たずねたいと思いながら、いろいろの都合で私はとうとう先生に逢わずに東京を去ることになった。勿論、その事情を手紙にかいて先生宛に発送して置いたが、先生には当分逢われないかと思うと、なんだか名残り惜しくもあった。  わたしは二、三人の友達に送られて新橋駅を出発した。言うまでもなく、その頃はまだ東京駅などはなかったのである。汽車ちゅうには別に語ることもなく、わたしは神戸にいったん下車して、会社の支店に立寄った。そうして、その翌朝の七時ごろに神戸駅から山陽線に乗換えた。例によって三等の客車である。  わたしは少しく朝寝をしたので、発車まぎわに駈けつけて、ころげるように車内へ飛び込むと、乗客はかなりに混雑している。それでも隅の方に空席があるのを見つけて、私はあわててそこに腰をおろすと、隣りの乗客はふとその顔をあげて見返った。その刹那に、わたしはなんとも言えない一種の戦慄を感じたことを白状しなければならない。その乗客はかの三好透であった。  奥さんの話によれば、彼はすでに二、三日前に乗車した筈であるのに、何かの都合で遅れたのか、あるいは途中のどこかで下車したのか、いずれにしても、ここで偶然に私と席をならべることになったのである。 「やあ。あなたもお乗りでしたか。」  わたしは少しく吃《ども》りながら挨拶すると、彼も笑いながら会釈した。その顔は先夜と打って変って頗《すこぶ》る晴れやかに見えた。 「急に暑くなりました。」と、彼は馴れなれしく言った。 「そうです。俄か天気で暑くなりました。しかし梅雨《つゆ》もこれで晴れるでしょう。」と、わたしもだんだんに落着いて話し始めた。  彼はやはり二、三日前に東京を去ったのであるが、京都の親戚をたずねるために途中下車したと言って、京都見物の話などをして聞かせた。元来が温順の性質らしいが、さりとて寡言《むくち》というでもなく、陰欝というでもなく、いかにも若々しいような調子で笑いながら話しつづけた。どう見ても、彼は一個の愛すべき青年である。これが一種の乱心であるとか、何かの崇り呪詛《のろい》を受けている人間であるとかいうような事はどうしても私には考えられなかった。「妹さんはどうなさいました。」と、私はなんにも知らない顔で訊いた。 「妹は東京に残って、鎌倉へ行くことになりました。」と、彼は答えた。  彼は自分のうしろに、刑事の黒い影が付いていた事などを知らないであろう。わたしは更に進んで、かれらと桐沢氏との関係などを問いきわめようと試みたが、それは不成功に終った。それらの問いに対しては、彼は努めて明快の返答をあたえることを避けているらしく見えた。それが又大いにわたしの猟奇心をそそったのでもあるが、何分にも混雑の列車内といい、かつは三時間ばかりの短時間であるので、わたしは結局その目的を達し得なかった。十時過ぎるころにFの駅に到着して、彼はわたしに別れを告げて去った。  改札口を出てゆく其のうしろ姿を見送ると、そこには農家の雇人らしい若者が待ち受けていて、彼の革包《かぱん》などを受取って、一緒に連れ立って行った。勿論、そこらに蛇らしい物の姿などは見いだされなかった。  のちに思えば、三好透という青年と私とは、これが永久の別れであった。 それから七年の月日が流れた。そのあいだに、わたしは門司の支店を去って、さらに大連の支店へ転勤することになった。又そのあいだに私は結婚をする。子供が出来る。社用が忙がしい。何やかやに取りまぎれて、先生のところへもとかく御無沙汰がちになっていたが、大正三年の十一月、社用で神戸へ戻って来たので、そのついでに上京して、久しぶりで先生の家の門をくぐった。  先生の家は依然として其の形式を改めなかったが、いつの間にか根津の大通りには電車が開通して、周囲の姿はまったく変ってしまった。それだけに、先生の家の古ぼけているのがいよいよ眼に立って、むかしなじみの桜は折りからの木枯しに枯葉をふるい落していた。その落葉の雨を払いながら玄関に立つと、見識らない女中が取次ぎに出て来たが、わたしの名を聞いて奥さんが直ぐに出て来た。つづいてお嬢さんも出て来た。 「あら、まあ、おめずらしい。」  なつかしそうに迎えられて、わたしは例のごとくに二階ヘ通された。  桐沢氏の次男がお嬢さんの婿になって、若夫婦のあいだにはすでに男の児が儲けられていることを、わたしもかねて知っていた。遅蒔きながら其の御祝儀を述べるやら、御無沙汰のお詫びをするやら、話はなかなか尽きなかったが、なんにしても先生も無事、奥さんも無事、それを実際に確かめることが出来て、わたしもまず安心した。  もう一時間ほど経つと、先生は学校から帰って来るから、きょうは是非待っていろと奥さんは言う。わたしも勿論そのつもりであるので、そこに居据わっていろいろの話をはじめた。日露戦争後の満洲の噂も出た。そのうちに、奥さんはこんなことを言い出した。 「満洲と台湾とは、まるで土地も気候も違うでしょうけれど、知らない国へ行くと思いも付かないことに出逢うものですね。あなたも御存じでしょう、三好透さん……。あの人は飛んだことになりましてね。」  旧い記憶が俄かにわたしの胸によみがえった。 「三好透……。あの多代子さんの兄さんでしょう。あの人がどうかしたんですか。」 「大学を卒業してから、台湾ヘ赴任したのですが、去年の六月、急に亡くなりました。」 「マラリアにでも罹かったんですか。」 「いいえ。毒蛇のハブに咬まれて……。」 「ハブに咬まれて……。」  わたしは物に魘《おそ》われたような心持で、奥さんの顔を見つめた。それを一種の不運とか奇禍とか言ってしまえばそれ迄であるが、マラリアに罹かったとか、蕃人に狙撃されたとか、水牛に襲われたとかいうのではなくして、彼が毒蛇のために生命を奪われたということが、何かの因縁であるように私の魂をおびやかした。青い蛇の旧い記憶が又呼び起された。 「あの人は学生時代に、警察から尾行されていたようでしたが、その方はどうなったんです。」 「蛇をほうったという一件でしょう。」と、奥さんは言った。「あれは其のまま有耶無耶《うやむや》になってしまったようでした。」 「多代子さんばかりでなく、ほかの婦人にも投げ付けたというじゃありませんか。」 「それも透さんの仕業だかどうだか、確かな証拠も挙がらないので、警察でも手を着けることが出来なかったらしいのです。そんなわけで、無事に学校を出たのですけれど、台湾へ行くと直ぐにそんな事になってしまって……。まるで、台湾へ死にに行ったようなものでした。」  世のなかに驚くべき暗合がしばしばあることは、私もよく知っている。三好透が台湾で毒蛇に咬まれたのも、しょせんは偶然の出来事で、一種の暗合であるかも知れない。したがって三好の兄妹と蛇とーそれを結び付けて考えるのは、わたしの迷いであるかも知れない。しかもその迷いは私ばかりでなく奥さんの胸にも巣喰っているらしく、奥さんはやがてこう言い出した。 「いつかもお話し申した通り、三好さんの家には何かの呪詛《のろい》があるらしく思われてならないのです。透さんが台湾へ行って蛇に殺されるというのは……。学校を出たときに、北海道と台湾とに奉職口があって、桐沢さんは北海道の方へ行ったら好かろうと勧めたのだそうですが、本人はどうしても台湾へ行くと言って出かけたので……。もし北海道へ行っていれば、そんな事にもならなかったのでしょうに……。どう考えても、なにかの因縁がありそうですね。」 「そう言えば、まったくそうです。」と、わたしも溜息まじりに答えた。「そうして、多代子さんの方はどうしました。」 「多代子さんは無事です。あの人は幸福でしょう。」  奥さんの話によると、多代子は学校を出ると間もなく、桐沢氏の媒酌で、現在の夫の深見氏方へ縁付いたのである。深見氏は養子で、その実家が広島県のKの町にあることは世間でも知っているのであるから、関係者一同が知らない筈はない。Kの町の蛇がFの町へゆく――その汽車ちゅうの出来事をわたしから聞かされているので、深見氏がKの町の出身であるということに就いて、奥さんは何だか気が進まないように思ったそうであるが、先生は頭からそんなことを問題にしなかった。三好家にも異存はなかった。兄の透も反対しなかった。それでも、奥さんは多代子にむかって暗に注意をあたえた。 「ほかの事とは違いますから、あなたの気に済まないような事があるならぱ、遠慮なくお言いなさいよ。」 「いいえ、皆さんが好いと思召《おぼしめ》すなら、わたしも参りたいと思います。」  むしろ本人も気乗りがしているような風で、この縁談は故障なく進行したのであった。結婚後の多代子は幸福であるらしく、精神的にも物質的にも彼女は大いに恵まれているらしいので、奥さんもまず安心しているとの事であった。  その話を聞かされて、わたしの胸も又すこし明るくなった。 「そうすると、何かの呪誼――もし果たして何かの呪詛があったとすれば、それは透君ひとりにとどまっていることで、多代子さんはその傍杖《そばづえ》を食っていたのかも知れませんね。」と、わたしは笑った。 「そうかも知れません。」と、奥さんもほほえんだ。「それにしても、こんなお話があるのですよ。大正の世のなかに、こんなことを言ったらお笑いになるかも知れませんけど……。」  奥さんは又話し出した。桐沢氏と三好家とは昔からの知合いで、われわれが想像している通り、桐沢氏は三好家の秘密を薄々承知していながら、今日まで誰にも洩らさなかったのである。ところが、その次男の次郎君が大学卒業の文学士となり、さらに先生のお嬢さんの婿となり、この江波家の人となるに及んで、その秘密が次郎君の口から奥さんに洩らされた。  次郎君も勿論くわしいことは知らないのであるが、足利時代の遠い昔、三好家はその土地における豪族であって、なにかの事情からKの土地に住む豪族の森戸家へ夜討ちをかけて、その一家を攻めほろぼした。その後、森戸家の遺族とか残党とかいう者どもが手をかえ、品をかえて、徳川の初期に至るまで約五十年の間、根《こん》よく復讐を企てたが、用心のいい三好家では一々それを返り討にして、結局かれらを根絶やしにしてしまった。女子供までも亡ぼし尽くした。その以来、一種の怪しい呪詛が三好家に付きまとって、代々の家族が蛇に崇られるというのである。  三好家は関ケ原の合戦以後、武士をやめ普通の農家となったが、その崇りはやはり消え去らないので、元禄時代の当主がその地所内に一つの祠《ほこら》を作って、呪詛の蛇を祀ることにした。森戸家のほろびたのは三月二十日であるので、毎月の二十日には供物《くもつ》をささげ、家族一同がその祠に参拝するのを例としていた。そのためか、家にまつわる怪しい呪誼も久しく其の跡を断ったのであるが、明治の後はそんな迷信《だは》も打破されてしまった。古い祠も先代の主人のために取り毀された。  次郎君の知っているのは、それだけの伝説に過ぎないのであって、まだ其他にも何かの事情があるのかも知れない。いずれにしても、そんな迷信じみた伝説がほとんど何人《なんぴと》にも忘れられてしまった明治時代の末期から、前に言ったような種々の不思議(?)が再び現われて来たのである。三好家では勿論かくしているが、しばしば怪しい蛇に見舞われて、何かの迷惑と恐怖とを感ずることがあるらしい。それに対して、桐沢氏も最初は一笑に付していたが、近頃では「どうも不思議だ。」などと首をかしげている事もあるという。したがって、桐沢氏がKの町出身の深見氏のところへ多代子を媒灼することになったのは、故意か偶然か判らない。次郎君は「親父は何かの罪亡ぼしのつもりかも知れない。」と笑っているそうであるが、さてその深見氏が、かの森戸家の後裔《こうえい》であるかどうか、そんなことは勿論わからない。  以上の物語が終ったころに、先生の人車《くるま》が門前に停まったらしいので、私たちは急いで出迎えに行った。  それから又、十年の月日が夢のように過ぎた。いわゆる十年ひと昔で、そのあいだには世間の上にも、一身の上にも、種々の変遷を経て来たが、就中《なかんずく》わたしに取って最も悲しい記憶は、大正十一年の秋に江波先生を失ったことであった。酒を飲まない先生が脳溢血のために、書斎で突然什《たお》れたのである。わたしは大連でその電報を受取ったが、何分にも遠く懸け離れているので、単に弔電を発したにとどまって、その葬儀にもつらなることが出来なかった。  次はその翌年九月の関東大震災である。わたしの知人でその災厄に罹かった者も多かった。東京の本社も焼かれた。その際にもまず気配《きづか》われたのは、亡き先生一家の消息であったが、根津の辺はすべて無事ということを知り、さらに奥さんもお嬢さん夫婦もみな無事という便りを得て、まず安堵の胸を撫《な》でおろしたのであった。  しかし、かの桐沢氏は、その当時あたかも鎌倉の別荘に在った為に、無残の圧死を遂げたという。わたしは桐沢氏と直接の交渉もなく、従来一面識もないのであるが、次郎君がお嬢さんと結婚しているばかりか、かの三好家の一件についてしばしばその名を聞き慣れているので、その死に対してやはり一種の衝動《シヨツク》を感ぜずにはいられなかった。  震災の翌年、すなわち大正十三年の夏から、わたしは東京の本社詰めとなって大連を引き揚げて来た。そうして、根津とは余り遠くない本郷台に住居を定めたので、先生の旧宅へも毎月一回ぐらいは欠かさずに訪問して、奥さんの昔話の相手になることが出来るようになった。  深見夫人多代子の亡骸《なきがら》が熱海の海岸に発見されたのは、その翌年の一月である。前にもいう通り、家庭も極めて円満で、精神的にも物質的にも大いに恵まれていたらしく思われた多代子が、突然にこうした悲劇の女主人公となってしまったのは、実に意外というのほかはない。それに就いて種々の臆説が生み出されるのは無理もなかった。  あるいは発狂ではあるまいかという噂もあったが、奥さんは私にむかってそれを否定していた。 「多代子さんは一月の十日、自動車に乗って御年始に来てくれました。その時に、この二十日ごろから熱海へ行くという話があって、今度は長く滞在することになるかも知れないから、当分はお目にかかれまいと言って帰りました。あとで考えると、よそながら暇乞いに来たらしい。それを思うと、突然の発狂などではなくて、前々から覚悟していたのでしょう。その日はあいにくに、次郎も娘も留守だったものですから、皆さんにお目にかかれないのが残念だなどとも言っていました。」  奥さんは更にこんなことを私に洩らした。 「あなただからお話を申しますけれど、多代子さんの死骸が海から引揚げられた時に、警察で検視をすると、左の二の腕に小さい蛇の刺青《ほりもの》があったので、みんなも不思議に思ったそうです。立派な実業家の奥さんの腕に刺青があったのですから、誰でも意外に思う筈です。勿論、深見さんの方から警察へ頼んだので、刺青のことなぞは一切《いつさい》発表されませんでしたから、その秘密を知っているのは私たちぐらいでしょう。新聞社でもさすがに気がつかないようでした。」 「多代子さんはいつそんな刺青をしたんでしょう。」と、わたしも意外に思いながら訊いた。 「それは判りません。」と、奥さんは答えた。「わたしの家にいるときに、そんな刺青のなかったのは確かですから、深見さんへ縁付いてからのことに相違ありませんが、それを深見さんが彫らせたのか、自分が内証で彫ったのか、それは一切秘密です。深見さんもそれに就いては何も言いません。なにしろ深見さんはK町の出身で、それと結婚した多代子さんが訳のわからない死に方をして、その腕に蛇の刺青が発見されたというのですから、いろいろのことが又思い出されます。多代子さんの郷里の実家は両親ともに死んでしまって、総領の息子さんが――台湾で死んだ透さんの兄です。――相続しているのですが、こちらから多代子さんの死んだことを電報で知らせてやると、都合があって上京できないから、万事よろしく頼むという返事をよこしました。」                         昭和五年十月作「日曜報知」 底本:岡本綺堂読物選集5 異妖編下巻    昭和四四年六月二〇日刊 入力:和井府清十郎 行李《こうり》 俯向《うつむ》く かくしている →隠している 忽《たちま》ち -------------------------------------------------------------------------------- 怪奇小説 経帷子《きようかたびら》の秘密《ひみつ》 岡本綺堂       一         吉田君は語る。  万延元年――かの井伊大老の桜田事変の年である。――九月二十四日の夕七つ半頃(午後五時)に、二挺の駕籠《かご》が東海道の大森を出て、江戸の方角にむかって来た。  その当時、横浜見物ということが一種の流行であった。去年の安政六年に横浜の港が開かれて、いわゆる異人館が続々建築されることになった。それに伴って新しい町は開かれる、遊廓も作られる、宿屋も出来るというわけで、今までは葦芦《よしあし》の茂っていた漁村が、わずかに一年余りのあいだに、眼をおどろかすような繁華の土地に変ってしまった。それが江戸から七里、さのみ遠い所でもないので、東海道を往来の旅びとばかりでなく、江戸からわざ/\わざ見物にゆく者がだん/\に多くなった。いつの代《よ》も流行は同じことで、横浜を知らないでは何だか恥かしいようにも思われて来たのである。  今この駕籠に乗っている客も、やはり流行の横浜見物に行った帰り道であった。かれらは芝の田町《たまち》の近江屋という質屋の家族で、女房のお峰はことし四十歳、娘のお妻《つま》は十九歳である。近江屋は土地でも古い店で、お妻は人並に育てられ、容貌《きりよう》は人並以上であったが、この時代の娘としては縁遠い方で、ことし十九になるまで相当の縁談がなかった。家には由三郎という弟があるので、お妻はどうでも他家へ縁付かなければならない身の上であるが、今もなお親の手もとに養われていた。  近江屋の親類でこの春から横浜に酒屋をはじめた者がある。それから横浜見物に来いとたびたび誘われるので、女房のお峰は思い切って出かけることになった。由三郎はまだ十六でもあり、殊に男のことであるから、この後に出かける機会はいくらもある。お妻は女の身で、他家へいったん縁付いてしまえば、めったに旅立ちなどは出来ないのであるから、今度の見物には姉のお妻を連れて行くことにして、ほかに文次郎という若い者が附添って、一昨日《おととい》の朝早く田町の店を出た。  お妻は十九の厄年《やくどし》であるというので、その途中でまず川崎の厄除け大師《だいし》に参詣した。それから横浜の親類の酒屋をたずねて、所々の見物にきのう一日を暮した。横浜に二晩泊って、三日目に江戸へ帰るというのが最初からの予定であるので、きょうは朝のうちに見残した所を一と廻り[めぐり]して、神奈川の宿《しゆく》まで親類の者に送られて、お峰とお妻の親子は駕籠に乗った。文次郎は足拵えをして徒歩《かち》で附いて来た。  川崎の宿《しゆく》で駕籠をかえて、大森へさしかゝった時に、お峰は近所の子供へ土産をやるのだといって名物の麦わら細工などを買った。そんなことで暇取って大森を出た二挺の駕籠が今や鈴が森に近くなった頃には、旧暦の九月の日は早くも暮れかゝって、海辺のゆう風が薄寒く身にしみた。 「お婆さん。お前さんはどこまで行くのだ。」と、文次郎は見かえって訊《き》いた。文次郎は十一の春から近江屋に奉公して、ことし二十三の立派な若い者である。  一行の駕籠が大森を出る頃から、年ごろは六十あまり、やがては七十にも近いかと思われる老婆が杖をも[も]持たずに歩いて来る。それだけならば別に仔細《しさい》もないのであるが、その老婆は乗物におくれまいとするように急いで来るのである。駕籠は男ふたりが担いでいるのである。附添いの文次郎も血気の若者である。それらが足を早めてゆく跡から、七十に近い老婆がおくれまいと附いて来るのは無理であるように思われた。実際、杖も持たない彼女《かのじょ》は、腰をかゞめて、息をはずませて、危く倒れそうによろめきながら、歩きつゞけているのであった。  文次郎の眼にはそれが気の毒にも思われた。また一面には、それが不思議のようにも感じられた。日が暮れかかって、独り歩きの不安から、この婆さんは自分達のあとに附いて来るのであろうかとも考えたので、彼は見返ってその行く先をきいたのである。 「はい。鮫洲までまいります。」 「鮫洲か。じゃあ、もう直ぐそこだ。」 「それでも年を取っておりますので……。」と、老婆は息を切りながら答えた。 「杖はないのだね。」 「包みを抱えておりますので、杖は邪魔だと思いまして……。」  彼女[かれ]は浅黄色の小さい風呂敷包みを持っていた。この問答のうちに、夕暮れの色はいよ/\迫って来たので、駕籠屋は途中で駕籠を立てゝ、提灯に蝋燭《ろうそく》の灯を入れることになった。それを待つあいだに、文次郎はまた訊いた。 「それにしても、なぜ私たちのあとを追っかけて来るのだ。ひとりでは寂しいのかえ。」 「はい。日が暮れると、こゝらは不用心でございます。わたくしは少々大事な物をかかえておりますので……。」 「よっぽど大事な物かえ。」と、文次郎は浅黄色の風呂敷包みに目をつけた。 「はい。」  駕籠屋の灯に照らし出された老婆は、その若い時を忍ばせるような、色の白い、人品のよい女であった。木綿物ではあるが、見苦しくない扮装《いでたち》をしていた。 「しかし年寄りの足で私たちの駕籠に附いて来ようとするのは無理だね。転《ころ》ぶとあぶないぜ。」  言ううちに、駕籠は再びあるき出したので、文次郎も共にあるき出した。老婆もやはり続いて来た。鈴が森の町ももう半分ほど行き過ぎたと思うころに、老婆はつまずいて、よろけて、包みを抱えたまゝばったり[※「ばったり」に傍点]倒れた。 「それ、見なさい、言わないことじゃあない。それだから危ないというのだ。」  文次郎は引返して老婆を扶《たす》け起そうとすると、彼女は返事もせずに喘《あえ》いでいた。疲れて倒れて、もう起きあがる気力もないらしいのである。 「困ったな。」と、文次郎は舌打ちした。  さっきから駕籠のうちで、お峰の親子はこの問答を聴いていたのであるが、もうこうなっては聴き捨てに「も」ならないので、お峰は駕籠を停めさせて垂簾《たれ》をあげた。 「そのお婆さんは起きられないのかえ。」 「息が切れて、もう起きられないようです。」と、文次郎は答えた。  お妻も駕籠の垂簾をあげて覗《のぞ》いた。 「鮫洲まで行くのだということだね。それじゃあ其処まで私の駕籠に乗せて行って遣ったらどうだろう。」 「そうして遣ればいゝけれど……。」と、お峰も言った。「それじゃあ私が降りましょう。」 「いゝえ、おっ母さん。わたしが降りますよ。わたしはちっと歩きたいのですから。」  旅馴《な》れない者が駕籠に長く乗通しているのは楽でない。年のわかいお妻が少し歩きたいというのも無理ではないと思ったので、母も強《し》いては止めなかった。お妻が草履《ぞうり》をはいて出ると、それと入れ代りに、老婆が文次郎と駕籠屋に扶けられて乗った。お妻を歩かせる以上、駕籠を早めるわけにもいかないので、鮫洲の宿に着いた頃には、その日もまったく暮れ果てていた。 「ありがとうございました。お蔭さまで大助かりを致しました。」  駕籠を出た老婆は繰返して礼を述べて、近江屋の一行に別れて行った。年寄りをいたわってやって、よい功徳《くどく》をしたようにお峰親子は思った。しかもそれは束《つか》の間《ま》で、老婆と入れ代って駕籠に乗ったお妻は忽《たちま》ちに叫んだ。 「あれ、忘れ物をして……。」  老婆は大事の物という風呂敷包みを置き忘れて行ったのである。文次郎も駕籠屋らもあわてて見まわしたが、彼女の姿はもう其処らあたりに見出されなかった。当てもなしにお婆さんお婆さんと呼んでみたが、どこからも返事の声は聞かれなかった。 「あれほど大事そうに言っていながら、年寄りのくせに粗相《そそ》っかしいな。」  口小言《くちこごと》を言いながら、文次郎は駕籠屋の提灯を借りて、その風呂敷をあけてみた。一種の好奇心もまじって、お妻も覗いた。お峰も垂簾《たれ》をあげた。 「あっ。」  驚きと恐れと一つにしたような異様の叫び声が、人々の口を衝《つ》いて出た。風呂敷につゝまれた大事の物というのは、白い新しい経帷子《きようかたびら》であった。       二  彼の老婆がなぜこんな物を抱え歩いていたのか。考えようによっては、さのみ怪しむべきことでもないかも知れない。自分の親戚あるいは知人の家に不幸があって、かれは経帷子を持参する途中であったかも知れない。かれは年寄りのくせに路を急いだのも、それが為であったのかも知れない。心せくまゝに、かれはそれを駕籠のなかに置き忘れて去ったのかも知れない。  もしそうならば、彼女[かれ]もおどろいて引っ返して来るであろう。近江屋は芝の田町で、高輪《たかなわ》に近いところであるから、ここからも遠くはない。そこで文次郎は迷惑な忘れ物をかかえて、暫くここに待合せていることにして、お峰親子の駕籠はまっすぐに江戸へ帰った。  自分の店へ帰り着いて親子はまずほっ[※「ほっ」に傍点]とした。隠して置くべきことでもないので、お峰は彼の老婆と経帷子の一条を夫にささやくと、亭主の由兵衛も眉《まゆ》をよせた。それに対する由兵衛の判断も、大抵は前に言ったような想像に過ぎなかったが、何分にもそれが普通の品物と違うので、人々の胸に一種の暗い影を投げか掛けた。殊にその時代の人々は、そんなことを忌み嫌うの念が強かったので、縁喜[起]が悪いと皆思った。そうして、それが何かの不吉の前兆であるかのようにも恐れられた。  夜がふけて文次郎が帰って来た。彼は鮫洲の宿《しゆく》をうろ付いて、一|※[※日偏+向]《とき》ほども待っていたが、老婆は遂に引返して来ないので、よんどころなくかの風呂敷包みをかかえて戻ったというのである。 「こんなことが近所に聞えると、何かの噂がうるさい。知れないように捨てゝ来い。」と、由兵衛は言った。  文次郎は再びその包みを抱え出して、夜ふけを幸いに、高輪の海へ投げ込んでしまった。それを知っているのは、由兵衛夫婦とお妻だけで、伜《せがれ》の由三郎も他の奉公人らもそんな秘密をいっさい知らなかった。  横浜見物のみやげ話も何となく浮き立たないで、お峰親子は暗い心持のうちに幾日を送った。取分けて、お妻はかの怪しい老婆から不吉な贈りものを受けたようにも思われて、横浜行きが今更のように悔まれた。厄除け大師を恨むようにもなった。なまじいの情けをかけずに、いっそ彼の老婆を見捨てて来ればよかったとも思った。女房や娘の浮かない顔色をみて、由兵衛は叱るように言い聞かせた。 「もう済んでしまったことを、いつまで気にかけているものじゃあない。物事は逆《さか》さまというから、却って目出[めで]たいことが来るかも知れない。刃物で斬られた夢を見れば、金が身に入るといって祝うじゃあないか。」  由兵衛はそれを本気で言ったのか、あるいは一時の気休めに言ったのか知らないが、不思議にもそれが適中して、果たして目出たいことが来た。それから十日も経たないうちに、今まで縁遠かったお妻に対して結構な縁談を申込まれたのである。  淀橋の柏木成子町に井戸屋という古い店がある。井戸屋といっても井戸掘りではなく、酒屋である。先祖は小田原北条の浪人井戸なにがしで、こゝに二百四、五十年を経る旧家と誇っているだけに、店も大きく、商売も手広く、ほかに広大の土地や田畑も所有して、淀橋界隈では一二を争う大身代《おおしんだい》と謳われている。その井戸屋へ嫁入りの相談を突然に申込まれて、近江屋でも少しく意外に思ったくらいであった。しかもその媒酌《なこうど》に立ったのは、お峰の伯父にあたる四谷大木戸前の万屋《よろずや》という酒屋の亭主で、世間に有り触れた不誠意の媒酌口ではないと思われるので、近江屋の夫婦も心が動いた。十九になるまで身の納まりの付かなかった娘が、そんな大家《たいけ》の嫁になることが出来れば、実に過分の仕合せであるとも思った。勿論《もちろん》、お妻にも異存はなかった。  十月はじめに、双方の見合《みあい》も型のごとく済んで、この縁談はめでたく纏《まと》まった。但しお妻は十九の厄年であるので、輿入《こしい》れは来年の春として、年内に結納の取交《とりかわ》せをすませることになった。近江屋も相当の身代ではあるが、井戸屋とは比較にならない。井戸屋の名は下町《したまち》でも知っているものが多いので、お妻はその幸運を羨《うらや》まれた。 「どうだ。経帷子が嫁入り衣裳に化けたのだ。物事は逆さまといったのに嘘はあるまい。」と、由兵衛は誇るように笑った。  まったく逆さまである。怪しい老婆に経帷子を残されたのは、こういう目出たいことの前兆であったのかと、お峰もお妻も今更のように不思議に思ったが、いずれにしても意外の幸運に見舞われて、近江屋の一家は時ならぬ春が来たように賑《にぎ》わった。相手が大家であるので、お妻の嫁入り支度もひと通りでは済まない。それも万々《ばんばん》承知の上で、由兵衛夫婦は何や彼やの支度に、この頃の短い冬の日を忙がしく送っていた。  十一月になって、結納の取交せも済んで、輿入れはいよ/\来年正月の二十日過ぎと決められた。その十二月の十八日である。由兵衛は例年のごとく、浅草観音の歳市《としのいち》へ出てゆくと、その留守に三之助が歳暮の礼に来た。三之助は由兵衛の弟で、代々木町の三河屋という同商売の家へ婿に行ったのである。兄は留守でも奥の座敷へ通されて、三之助はお峰にさゝやいた。 「姉さん。このお目出たい矢先に、こんなことを申上げるのも如何かと思いますけれど、少し変なことを聞き込みましたので……。」 「変な事とは……。」 「あの井戸屋さんのことに就いて……。」と、三之助はいよ/\声を低めた。「あの家には変な噂があるそうで……。何代前のことだか知りませんが、井戸屋に奉公している一人の小僧のゆくえが知れなくなったのです。人にでも殺されたのか、自分で死んだのか、それとも駆落《かけおち》でもしたのか、そんなことはいっさい判らないのですが、その小僧の祖母《ばあ》さんという人が井戸屋へ押掛けて来て、自分の大事の孫を返してくれという。井戸屋では知らないという。又その祖母さんが強引に毎日押掛けて来て、どうしても孫を返せという。井戸屋でもしまいには持て余して、奉公人どもに言いつけて腕ずくで表へ突き出すと、そのばあさんが井戸屋の店を睨《にら》んで、覚えていろ、こゝの家はきっと二代は続かせないから……。そう言って帰ったぎりで、もう二度とは来なかったそうです。」 「それはいつごろの事なの。」と、お峰は不安らしく訊いた。経帷子の老婆のすがたが彼女の目先に浮かんだからである。 「今も言う通り、何代前のことか知りませんが、よっぽど遠い昔のことで、それから六、七代も過ぎているそうです。」 「それじゃあ、二代は続かせないと言ったのは、嘘なのね。」と、お峰はやや安心したように言った。 「ところが、まったく二代は続いていないのです。井戸屋の家には子育てがない。子供が生れてもみんな死んでしまうので、いつも養子に継がせているそうです。それですから、井戸屋の家はあの通り立派に続いているけれども、代々の相続人はみな他人で、おなじ血筋が二代続いていないのです。」 「そんなら身内から養子を貰《もら》えばいいじゃありませんか。そうすれば、血筋が断える筈《はず》は(が)ないのに……。」 「それがやっぱりいけないのです。」と、三之助はさらに説明した。「身内から貰った養子は自分の実子と同じように、みんな死んでしまうので、どうしても縁のない他人に継がせる事になるのだそうです。」 「変だねえ。」 「変ですよ。」 「そのばあさんというのが崇《たた》っているのかしら。」 「まあ、そういう噂ですがね。」  こんなことを言うと、折角の縁談に水をさすようにも聞えるので、いっそ黙っていようかと思ったが、知っていながら素知らぬ顔をしているのもよくないと思い直して、ともかくもこれだけのことをお耳に入れて置くのであるから、かならず悪く思って下さるなと、三之助は云い訳をして帰った。  それと入れ違いに由兵衛が帰って来たので、お峰は早速にその話をすると、由兵衛も眉をよせた。淀橋と芝と遠く離れているので、井戸屋にそんな秘密のあることを由兵衛夫婦はちっとも知らなかったのである。三之助の話を聞いただけでは、その祖母《ばあ》さんが一図に井戸屋を恨むのは無理のようにも思われるが、今更そんなことを論じても仕様がない。ともかくそんな呪《のろ》いのある家に、可愛い娘を遣るか遣らないかが、差当っての緊急問題であった。 「万屋の伯父さんはそんな事を知らないのでしょうかねえ。」と、お峰は疑うように云い出した。 「と云って、三之助もまさか出鱈目を云いはすまい。ほかの事とは違うからな。」と、由兵衛も半信半疑であった。  万屋はお峰の伯父である。三之助は由兵衛の弟である。お峰としては伯父を信じ、由兵衛としては弟を信じたいのが自然の人情で、夫婦のあいだに食い違ったような心持が醸されたが、それで気まずくなるほどの夫婦でもなかった。まずその疑いを解くために、由兵衛は弟をたずねて再び詳しい話を聞き、お峰は伯父をたずねて真偽を確かめることにして、その翌日の早朝に夫婦は山の手へ上《のぼ》った。  二人は途中で引分かれて、由兵衛は代々木の三河屋へ行った。お峰は大木戸前の万屋をたずねた。万屋の伯父はお峰の詰問を受けて、ひどく難渋の顔色を見せたが、結局ため息まじりでこんな事を云い出した。 「おまえ達がそれを知った以上は、もう隠しても仕方がない。実は井戸屋にはそんな噂がある。と云ったら、なぜそんな家へ媒酌《なこうど》をしたと恨まれるかも知れないが、それには苦しい訳がある。」  伯父は商売の手違いから、二三年来その家運がおとろえて、同商売の井戸屋には少なからぬ借財が出来ている。現にこの歳の暮れにも、井戸屋から相当の助力をして貰わなければ、無事に歳を越すことも出来ない始末である。万一この縁談が破れたなら、わたしは井戸屋に顔向けが出来ないばかりでない。こゝで井戸屋に見放されたら、この年の瀬を越し兼ねて数代つゞいた万屋の店を閉めなければならない事にもなる。そこを察して勘弁してくれと、伯父は老いの眼に涙をうかべて口説いた。  これでいっさいの事情は判明した。忌《いや》な噂が聞えているために、大家《たいけ》の井戸屋にも嫁に来る者がない。そこへ自分の姪の娘を縁付けて、借財の始末や商売上の便利を図ろうとするのが、万屋の伯父の本心であった。つまりは近江屋の娘を生贄《いけにえ》にして、自分の都合の好いことを(たくら)巧《たく》んだのである。 それを知って、お峰は腹立たしくなった。あまりに酷い仕方であると伯父を憎んだ。しかもこの縁談を打破れば万屋の店は潰れるというのである。伯父ばかりでなく、伯母までが言葉を添えて、涙ながらに頼むのである。こうなると、女の心弱さに、お峰は伯父を憎んでばかりいられなくなった。結局は亭主とも相談の上ということで、彼女(かれ)は帰って来た。やがて由兵衛も帰って来て、三之助の話は本当であるらしいと云った。  嘘も本当もない、いっさいは伯父が白状しているのである。そこで夫婦は額をあつめて、密々の相談に時を移したが、こゝで自分たちが強情を張り通して、見す/\万屋の店を潰してしまうのは、親類一門として忍びないことである。それがこの時代の人々の弱い人情であった。さらに困るのは、お妻が嫁入りのことを町内中でもすでに知っているのである。それを今更破談にするのは世間の聞こえが好くない。あるいはそれが色々の邪魔になって、さなきだに縁遠い娘を一生の瑕物《きずもの》にして仕舞う虞れがないとも云えない。 「もうこの上は仕方がない。そのわけをお妻によく言い聞かせて、当人の料簡《りようけん》次第にしたら何《ど》うだ。当人が承知なら決める、いやならば断わる。それよりほかない。」と、由兵衛は言った。  お峰もそれに同意して、早速お妻を呼んで相談すると、かれは案外素直に承知した。 「横浜から帰るときに、あのお婆さんが経帷子を置いて行ったのも、所詮こうなる因縁でしょう。まして見合も済み、結納も済んだのですから、わたしも思い切って井戸屋へ参ります。」       三         当人が潔よく決心している以上、両親ももう彼れ是れ言う術《すべ》はなかった。むしろ我子に励まされたような形にもなって、躊躇《ちゅうちょ》せずに縁談を進行することにした。万屋の伯父夫婦は再び涙をながして喜んだ。  待つような、待たないような年は早く明けて、正月二十二日は来た。この年は初春早々から雨が多くて、寒い日がつづいた。なんといっても、近江屋は土地の旧家であるから、同業者は勿論、町内の人々も祝いに来て、二、三日前から混雑していた。いよいよ輿入れという日の前夜に、お妻は文次郎を呼んでささやいた。 「去年あの経帷子を流したのは、海辺のどこらあたりか、お前はおぼえているだろう。今夜そっと私を連れて行ってくれないか。」  文次郎は何だか不安を感じたので、その場はいったん承知して置きながら、お峰にそれを密告したので、彼女も一種の不安を感じた。よもやとは思うものゝ、いよ/\明日という今夜に迫って、万一身投げでもされたら大変であると恐れた。 「おまえは海辺へ何しに行くのだえ。」と、お峰は娘をなじるように訊いた。 「唯ちょいと行ってみたいのです。決して御心配をかけるような事はありません。」 「それじゃあわたしも一緒に行くが、いいかえ。」  その日も朝から細雨《こさめ》が降っていたが、暮六つ頃から歇《や》んだ。店口は人出入りが多いので、お峰親子は裏木戸から抜け出すと、文次郎は露地口に待合せていて、二人の先に立って行った。高輪の海岸は目の先である。  時刻はやがて五つ(午後八時)に近い頃で、雲切れのした大空には金色の星がまばらに光っていた。海辺の茶屋は疾《と》うに店を締めてしまった。この頃は世の中が物騒になって、辻斬《つじぎ》りがはやるという噂があるので、まだ宵ながらここらの海岸に人通りも少なかった。品川がよいのそゝり節《ぶし》も聞えなかった。  三人は海岸に立って暗い海をながめた。文次郎も確かには憶えていないが、大方ここらであったろうと、提灯をかざして教えると、お妻はひざまずくように身を屈《かが》めて、両手をあわせた。彼女は海にむかって、何事かを祈っているらしかった。お峰も文次郎も目を放さずに、その行動を油断なく窺っていると、お妻は暫くのあいだ身動きもしなかった。寒い夜風が三人の鬢《びん》を吹いて通った。  闇を揺《うご》かす海の音は、凄まじいようにどう/\[※「どうどう」に傍点]と響いて、足もとの石垣に砕けて散る浪の飛沫《しぶき》は夜目にも仄白くみえた。その浪を見つめるように、お妻は頭をあげたかと思うと、たちまちに小声で叫んだ。 「あれ、そこに……。」  文次郎は思わず提灯をさし付けた。お峰も覗いた。灯のひかりと潮のひかりとに薄あかるい浪の上に、白いような物が漂っているのを見つけて、二人はぎょっ[※「ぎょっ」に傍点]とした。それが彼の経帷子であるらしく思われたからである。お峰は言い知れない恐怖を感じて、無言で文次郎の袖をひくと、彼もその正体を見届けようとして、幾たびか提灯を振り照らしたが、白い物の影はもう浮かび出さなかった。  お妻は海にむかって再び手を合せた。  その翌日、お妻はめでたく井戸屋へ送り込まれた。井戸屋の若主人は果たして養子で、その名を平蔵といった。先代の主人夫婦は、二三年前に引きつゞいて世を去ったので、新嫁《にいよめ》に何の気苦労はなかった。夫婦の仲も睦まじかった。 「これで何事もなければ、申分はないのですがねえ。」と、お峰は夫に囁《ささや》いた。  由兵衛もひそかに無事を祈っていた。この年の二月に、年号は文久と改まったのである。去年の桜田事変以来、世の中はます/\おだやかならぬ形勢を見せて来たが、近江屋一家には別条なく、井戸屋にも何の障りもなく、こゝに一年の月日を送って、その年の暮れにお妻は懐妊した。  本来ならば、めでたいと祝うのが当然でありながら、それを聞いて近江屋の夫婦は一種の不安に襲われた。不吉の予覚《よかく》が彼等のこゝろを暗くした。お峰は世間の母親のように、初孫《ういまご》の顔を見るのを楽しみに安閑とその日を送ってはいられなかった。彼女は日ごろ信心する神社や仏寺に参詣して、娘の無事出産を祈るのは勿論、まだ見ぬ孫の息災延命をひたすらに願った。  明くれば文久二年、その九月はお妻の臨月にあたるので、お峰は神仏に日参《につさん》をはじめた。由兵衛も釣込まれて神まいりを始めた。井戸屋の主人も神仏の信心を怠らず、わざわざ下総《しもうさ》の成田山に参詣して護摩《ごま》を焚いてもらった。ありがたい守符《まもりふだ》のたぐいが神棚や仏壇に積み重ねられた。  九月二十三日に淀橋からお妻の使が来て、おっ母さんに鳥渡《ちょっと》会いたいから直ぐにお出でくださいと云うので、もしや産気でも付いたのかと、お峰はすぐに駕籠を飛ばせてゆくと、お妻の様子は常に変らなかった。悪阻《つわり》の軽かった彼女は、ほとんど臨月の妊婦とは見えないほどに健やかであった。その顔色も艶々《つやつや》しかった。 「どうだえ、もう生まれそうかえ。」と、お峰はまず訊いた。 「お医者も、取揚げのお婆さんも、今月の末頃だろうと云っているのですけれど、わたしはきっと明日頃だろうと思います。」と、お妻は信ずる所があるように言った。 「だって、お医者も取揚げ婆さんもそう言うのに、おまえ一人がどうして明日と決めているの。」 「ええ、あしたです。きっとあしたの日暮れ方です。」 「あしたの日暮れ方……。」 「おっ母さんはおととしの事を忘れましたか。あしたは九月の二十四日ですよ。」  九月二十四日――横浜見物の帰り道に、二挺の駕籠が鈴が森を通りかゝったのは、その日の暮れ方であった。それを言い出されて、お峰は忌《いや》な心持になった。 「けれども、おっ母さん安心していて下さい。男の児にしろ、女の児にしろ、わたしの生んだ児はわたしがきっと守ります。」と、お妻はいよいよ自信がありそうに言った。  妊婦を相手に彼れ是れ言い合うのもよくないと思ったので、お峰は黙って聞いていた。しかし何だか気がかりでもあるので、婿の平蔵に窃《そっ》と耳打ちすると、平蔵も不安らしく首肯《うなず》いた。 「実は私にも同じことを云いました。医者も取揚げ婆さんも今月の末頃だというのに、当人はどうしても、あしたの日暮れ方だと言い張っているのは、何だか可怪《おか》しいように思われますが……。」 「そうですねえ。」  九月二十四日の一件が胸の奥にわだかまっているので、その晩はお峰も井戸屋に泊り込んで、あしたの夕方を待つことにした。明くる二十四日は朝から朗らかに晴れて、秋風が高い空を吹いていた。渡り鳥の声もきこえた。  お妻も昼のあいだは別に変ったこともなかったが、いわゆる釣瓶落としの日が暮れて、広い家内に灯をともす頃、彼女は俄《にわ》かに産気づいて、安らかに男の児を生み落した。その予言が見事に適中して人々を驚かせた。  その知らせに驚いて駈けつけて来た産婆にむかって、お妻は訊いた。 「男ですか、女ですか。」 「坊ちゃんでございますよ。」と、産婆は誇るように言った。 「そうですか。」と、お妻はほほえんだ。「早くあっちへ連れて行ってください。おっ母さんもあっちへ行って……。」  男の児の誕生に、一家内が浮かれ立っている隙《すき》をみて、お妻はこの世に別れを告げた。いつの間に用意してあったのか知らないが、彼女は聖柄《ひじりづか》の短刀で左の乳の下を深く突き刺していた。もう一つ、人々に奇異の感を懐かせたのは、これもいつの間にか拵えてあったと見えて、彼女は新しい経帷子を膝の下に敷いていたので、その鮮血《なまち》が白い衣《きぬ》を真っ紅に染めていた。  その秘密を知っている者は、母のお峰だけであった。 「その時に生れた男の児が私の伯父で、今も達者でいます。」と、吉田君は言った。「そのお妻という女――すなわち私の曾祖母《ひいばあ》さんに当る人が、子供を生むと同時に自殺したので、井戸屋の家にまつわる一種の呪いが消滅したとでもいうのでしょうか。前にもお話し申す通り、今まで決して実子の育たなかった家に、お妻の生んだ子だけは無事に生長したのです。それが嫁を貰って、男の児ふたりと女の児ひとりを儲け、これもみな恙なく成人しました。次男がわたしの父で、親戚の吉田という家を相続することになったので、わたしも吉田の姓を継いでいるわけです。本家は井戸の姓を名乗って、その子孫もみな繁昌しています。今日の我々から観ると、単に奇怪な伝説としか思われませんが、私の祖父などは昔の人間ですから、井戸の家の血統が今なお連綿としているのは、自害した阿母《おつか》さんのお蔭だといって、その命日には欠かさずに墓参りをしています。」 (をはり) 底本:冨士9巻2号(昭和9年9月1日号)318−333頁 (初出誌) 入力:網迫+和井府清十郎 公開:2005年12月28日 表記のおことわり: 旧字旧かなを新字新かなに改めた 底本の総ルビを省略し、一部を残した /\、ゝ、ゞの記号は残した -------------------------------------------------------------------------------- 五色蟹《ごしきがに》 岡本綺堂       一  わたしはさきに「山椒の魚」という短い探偵物語を紹介した。すると、読者の一人だというT君から手紙をよこして、自分もかつて旅行中にそれにやや似た事件に遭遇した経験をもっているから、何かの御参考までにその事実をありのままに御報告するといって、原稿紙約六十枚にわたる長い記事を送ってくれた。  T君の手紙には又こんなことが書き添えてあった。――わたしはまだ一度もあなたにお目にかかったことがありません。したがって何かよい加減のでたらめを書いて来たのではないかという御疑念があるかも知れません。この記事に何んのいつわりもないことはわたしが、誓って保証します。わたしは唯あなたに対して、現在の世の中にもこんな奇怪な事実があるということを御報告すればよろしいのです。万一それを発表なさるようでしたら、どうかその場所の名や、関係者の名だけは、然るべき変名をお用いくださるようにお駅い申して置きます。  あながち材料に窮しているためでもないが、この不思議な物語をわたしひとりの懐中《ふところ》にあたためて置くのに堪えられなくなって、わたしはその原稿に多少の添削を加えて、すぐに世の読者の前に発表することにした。但しT君の注文にしたがって、関係者の姓名だけは特に書き改めたことをはじめに断わっておく。場所は単に伊豆地方としておいた。伊豆の国には伊東、修善寺、熱海、伊豆山をはしめとして、名高い温泉場がたくさんあるから、そのうちの何処かであろうとよろしく御想像を願いたい。T君の名も仮りに遠泉君として置く。  遠泉君は八月中旬のある夜、伊豆の温泉場の××館に泊まった。彼には二人の連れがあった。いずれも学校を出てまだ間もない青年の会社員で、一人は本多、もう一人は田宮、三人のうちでは田宮が最も若い廿四歳であった。  遠泉君の一行がここに着いたのはまだ明るいうちで、三人は風呂にはいって宿屋の浴衣に着かえると、すぐに近所の海岸へ散歩に出た。大きい浪のくずれて打ち寄せる崖のふちをたどっているうちに、本多が石のあいだで美しい蟹を見つけた。蟹の甲には紅やむらさきや青や浅黄の線が流れていて、それが潮水にぬれて光って、一種の錦のように美しく出えたので、かれらは立ち止まってめずらしそうに眺めた。五色蟹だの、錦蟹だのと勝手な名をつけて、しばらく眺めていた末に、本多はその一匹をつかまえて自分のマッチの箱に入れた。蟹は非常に小さいので大きいマッチの箱におとなしくはいってしまった。 「つかまえてどうするんだ。」と、ほかの二人は訊いた。 「なに、宿へ持って帰って、これはなんという蟹だか訊いて見るんだ。」  マッチの箱をハンカチーフにつつんで、本多は自分のふところに押し込んで、それから五、六町ばかり散歩して帰った。宿へ帰って、本多はそのマッチの節をチャブ台の下に置いたままで、やがて女中が運び出して来た夕飯の膳にむかった。そのうちに海の空ももう暮れ切って、涼しい風がそよそよと流れ込んで釆た。三人は少しばかり飲んだビールの酔いが出て、みな仰向けに行儀わるくごろごろと寝転んでしまった。汽車の疲れと、ビールの酔いとで、半分は夢のようにうとうとしていると、となりの座敷で俄かにきゃっきゃっと叫ぶ声がするので、三人はうたた寝の夢から驚いて起きた。  となり座敷には四人連れの若い女が泊まりあわせていた。みな十九か二十歳《はたち》ぐらいで東京の女学生らしいと、こちらの三人も昼間からその噂をしていたのであった。遠泉君の註によると、この宿は土地でも第一流の旅館でない。どこもことごとく満員であるというので、よんどころなしに第二流の宿にはいって、しかも薄暗い下座敷へ押し込まれたのであるが、その代りに隣り座敷には若い女の群れが泊まりあわせている。これで幾らか差引きが付いたと、本多は用もないのに時々縁側に出て、障子をあけ放した隣り座敷を覗いていたこともあった.  その隣り座敷で俄かに騒ぎ始めたので、三人はそっと縁側へ出て窺うと、湯あがりの若い女達もやはり行儀をくずして何か夢中になってしゃべっていたらしい。その一人の白い脛《はぎ》へ蟹が突然に這いあがったので、みな飛び起きて騒ぎ出したのであった。もしやと思って、こっちのチャブ台の下をあらためると、本多のマッチの箱は空《から》になっていた。彼はその箱をハンカチーフと一緒に押し込んで置いて、ついそのままに忘れていると、蟹は箱の中からどうしてか抜け出して、おそらく縁伝いに隣りへ這い込んだのであろう。そう判ってみると、本多はひどく恐縮して、もう一つにはそれを機会に隣りの女達と心安くなろうという目的もまじっていたらしく、彼はすぐに隣り座敷へ顔を出して、正直にその事情をうち明けて、自分たちの不注意を謝まった。その事情が判って、女達もみな笑い出した。  それが縁になって、臆面のない本多はとなりの女連れの身許や姓名などをだんだんに聞き出した。かれらは古屋為子、鮎沢元子、臼井柳子、児島亀江という東京の某女学校の生徒で、暑中休暇を利用してこの温泉場に来て、四人が六畳と四畳半の二間を借りて殆んど自炊同様の生活をしているのであった。 「あなた方は当分御滞在でございますか。」と、その中で年長《としかさ》らしい為子が訊いた。 「さあ。まだどうなるか判りません。」と、本多は答えた。「しかし今頃はどこへ行っても混雑するでしょうから、まあ、ここに落ち着いていようかとも思っています。われわれはどの道、一週間ぐらいしか遊んでいることは出来ないんですから。」 「さようでございますか。」と、為子はほかの三人と頼を見あわせながら言った。「わたくし共も二週間ほど前からここへ来ているのでございますが、御覧の通り、この座敷ほなんだか不用心でして、夜なんかは怖いようでございます。」  いくら第二流の温泉宿でも、座敷代と米代と炭代と電燈代と夜具代だけを支払って、一種の自炊生活をしている女学生らに対して、この真夏にいい座敷を貸してくれる筈はなかった。かれらの占領している二間は下座敷のどん詰まりで、横手の空地《あきち》には型ばかりの粗い竹垣を低く結いまわして、その裾には芒《すすき》や葉鶏頭が少しばかり伸びていた。かれらが忌《いや》がっているのは、その竹垣の外に細い路があって、それが斜《はす》にうねって登って、本街道の往還へ出る坂路につながっていることであった。もし何者かがその坂路を降りて来て、さらに細い路を斜めにたどって来ると、あたかもかの竹垣の外へゆき着いて、さらに又ひと跨ぎすれば安々とこの座敷に入り込むことが出来る。田舎のことであるから大丈夫とは思うものの、不用心といえばたしかに不用心であった。ことに若い女ばかりが滞在しているのであるから、昼間はともかくも夜がふけては少し気味が悪いかも知れないと思いやられた。  その隣りへ、こっちの三人が今夜泊まりあわせたので、かれらは余ほど気丈夫になったらしく見えた。そうなると、こちらもなんだか気の毒にもなったのと、相手が若い女達であるのとで、むしろここで一週間を送ろうということになった。 「それがいい。どこへ行っても同じことだよ。」と、本多は真っ先にそれを主張した。  あくる朝、三人が海岸へ散歩に出ると、となりの四人連れもやはりそこらをあるいていて、一緒になって崖の上の或る社《やしろ》に参詣した。四人の女のうちでは、児島亀江というのが一番つつましやかで、顔容《かおかたち》もすぐれていた。三人の男とならんでゆく間も、彼女は殆んど一度も口を利かないのを、遠泉君たちはなんだか物足らないように思った。こっちの三人の中では、田宮が一番おとなしかった。  昼のうちは別に何事もなかった。ただ午後になって、本多が果物をたくさんに注文して、遠慮している隣りの四人を無理に自分の座敷へよび込んで、その果物をかれらに馳走して、何かつまらない冗談話などをしたに過ぎなかった。日が暮れてから男の三人は再び散歩に出たが、女達はもう出て来なかった。 「田宮君、君はけしからんよ。」と、本多は途中でだしぬけに言い出した。「君はあの児島亀江という女と何か黙契があるらしいぞ。」 「児島というのはあの中で一番の美人だろう。」と、遠泉君は言った。「あれが田宮君と何か怪しい形跡があるのか。ゆうべの今日じやあ、あんまり早いじゃないか。」 「馬鹿を言いたまえ。」  田宮はただ苦笑いをしていたが、やがて又小声で言い出した。 「どうもあの女はおかしい。僕には判らないことがある。」 「何が判らない」と、本多は潮の光りで彼の白い横顔をのぞきながら訊いた。 「何がって……。どうも判らない。」  田宮はくり返して言った。      二  日が暮れてまだ間もないので、方々の旅館の客が涼みに出てて来て、海岸もひとしきり賑わっていた。その混雑の中をぬけて、三人がけさ参詣した古杜の前に登りついた呼、田宮はあとさきを見かえりながら話し出した。 「僕はいったい臆病な人間だが、ゆうべは実におそろしかったよ。君たちにはまだ話さなかったが、僕はゆうべの夜半《よなか》、かれこれもう二時ごろだったろう。なんだか忌な夢を見て、眼が醒めると汗をびっしょりかいている。あんまり心持が悪いからひと風呂はいって来ようと思って、そっと蚊帳を這い出して風呂場へ行った。君たちも知っている通り、ここらは温泉の量が豊富だとみえて、風呂場はなかなか大きい。入口の戸をあけてはいると、中には湯気がもやもやと籠っていて、電燈のひかりも陰っている。なにしろ午前二時という頃だから、おそらく誰もはいっている気遣いはないと思って、僕は浴衣をぬいで湯風呂の前へすたすたと歩いて行くと、大きい風呂のまん中に真っ白な女の首がぼんやりと浮いてみえた。今頃はいっている人があるのかと思いながらよく見定めると、それは児島亀江の顔に相違ないので、僕も少し躊躇したが、もう素っはだかになってしまったもんだから、御免なさいと挨拶しながら遠慮なしに熱い湯の中へずっとはいると、どういうものか僕は急にぞっと寒くなった。と思うと、今まで湯の中に浮いていた女の首が俄かに見えなくなってしまった。ねえ、僕でなくっても驚くだろう。僕は思わずきゃっと[※「きゃっ」に傍点]声をあげそうになったのをやっとこらえて、すぐに湯から飛び出して、碌々にぬれた身体も拭かずに逃げて来たんだが、どう考えてもそれが判らない。けさになって見ると、児島亀江という女は平気であさ飯を食っている。いや、僕の見違いでない、たしかにあの女だ。たといあの女ではないとしても、とにかく人間の首が湯の中にふわふわと浮いていて、それが忽ちに消えてしまうという理屈がない。いくら考えても、僕にはその理屈が判らないんだ。」 「君は馬鹿だね。」と、本多は笑い出した。「君は何か忌な夢を見たというじゃあないか。その怖いこわいという料簡があるもんだから、湯気のなかに何か変なものが見えたのさ。海のなかの霧が海坊主に見えるのと同じ理屈だよ。さもなければ、君があの女のことばかり考えつめていたもんだから、その顔が不意と見えたのさ。もしそれを疑うならば、直接にあの女に訊いてみればいい。ゆうべの夜なかに風呂へ行っていたかどうだか、訊いて見ればすぐ判ることじゃないか。」 「いや。訊くまでもない。実際、風呂にはいっていたならば、突然に消えてしまう筈がないじゃないか。」と、遠泉君は傍から啄《くち》を出した。「結局は夢まばろしという訳だね。おい、田宮君。まだそれでも不得心ならば今夜も試しに行って見たまえ。」 「いや、もう御免だ。」  田宮が身をすくめているらしいのは、暗いなかでも想像されたので、二人は声をあげて笑った。暗い石段を降りて、もとの海岸づたいに宿へ帰ると、となりの座敷では女たちの話し声がきこえた。 「おい、田宮君。ゆうべのことを訊いてやろうか。」と、本多はささやいた。 「よしてくれたまえ。いけない、いけない。」と、田宮は一生懸命に制していた。  表二階はどの座敷も満員で、夜のふけるまで笑い声が賑かにきこえていたが、下座敷のどん詰まりにあるこの二組の座敷には、わざわざたずねて来る人のほかには誰も近寄らなかった。廊下をかよう女中の草履の音も響かなかった。かの竹垣の裾からは虫の声が涼しく湧き出して、青もなしに軽くなびいている己の菓に夜の露がしっとりと降りているらしいのが、座敷を洩れる電燈のひかりに白くかがやいて見えた。三人は寝転んでしゃべっていたが、その話のちょっと途切れた時に、田宮は吸いかけの巻きたばこを煙草盆の灰に突き刺しながら、俄かに半身を起こした。 「あ、あれを見たまえ。」  二人はその指さす方角に限をやると、縁側の上に、一匹の小さな蟹が這っていた。それは、ゆうべの蟹とおなじように、五色にひかった美しい甲を持っていた。田宮は物にうなされたように、浴衣の襟をかきあわせながら起き直った。 「どうしてあの蟹がまた出たろう。」 「ゆうべの蟹は一体どうしたろう。」と、遠泉封は言った。 「なんでも隣りの連中が庭へ捨ててしまったらしい。」と、本多は深く気にも留めないように言った。 「それがそこらにうろ付いていて、夜になって又這い込んで来たんだろう。」 「あれ、見たまえ。又となりの方へ這って行くっ」と、田宮は団扇でまた指さした。 「はは、蟹もこっちへは来ないで隣りへ行く。」と、本多は笑った。「やっばり女のいるところの方がいいと見えるね。」  遠泉君も一緒になって笑ったが、田宮はあくまでも真面目であった。彼は眼を据えて蟹のゆくえを見つめているうちに、美しい甲の持ち主はもう隣り座敷の方へ行き過ぎてしまった。きっとまた女たちが騒ぎ出すだろうと、こっちでは耳を引き立てて窺っていたが、隣りではなんにも気がつかないらしく、やはり何かべちゃべちゃと話しつづけていた。 「御用心、御用心。」と、本多はとなりへ声をかけた。「蟹がまた這い込みましたよ。」  となりでは急に話し声をやめて、そこらを探し廻っていたらしいが、やがて一度にどっと笑い出した。かれらは蟹を発見し得ないので、本多にかつがれたのだと思っていたらしかった。本多は起きて縁側に出て行った。そうして、たしかに蟹がはいり込んだことを説明したので、四人の女たちはまた起ちあがって座敷の隅々を詮索すると、蟹は果たして発見された。かれは床の間の上に這いあがって、女学生の化粧道具を入れた小さいオペラバックの上にうずくまっていた。そのバックは児島亀江のものであった。蟹は本多の手につかまって、低い垣の外へ投げ出された。  蟹の始末もまず片付いて、当二人は十時ごろに蚊帳にはいった。となり座敷もほとんど同時に寝鎮まった。宵のうちは涼しかったが、夜のふけるに連れてだんだんに蒸し暑くなって来たので、遠泉君はひと寝入りしたかと思うと眼がさめた。襟ににじむ汗を拭いて蒲団の上に腹這いながら煙草を吸っていると、となりに寝ていた本多も眼をあいた。 「いやに暑い晩だね。」と、彼は蚊帳越しに天井を仰ぎながら言った。「もう何時だろう。」  枕もとの懐中時計を見ると、今夜ももう午前二時に近かった。いよいよ蒸して来たので、遠泉君は手をのばして団扇を取ろうとする時に、となり座敷の障子がしずかにあいて、二人の女がそっと廊下へ出てゆくらしかった。遠泉君も本多も田宮の話をふと思い出して、たがいに眼を見あわせた。 「風呂へ行くんじゃあないかしら。」と、本多は小声で言った。 「そうかも知れない。」 「丁度ゆうべの時刻だぜ。田宮が湯のなかで女の首を見たというのは……。」 「して見ると、となりの連中は混みあうのを嫌って、毎晩夜なかに風呂へ行くんだ。」と、遠泉君は言った。「田宮はゆうべも丁度そこへ行き合わせたんだ。湯のなかに女の首なんぞが浮き出して堪まるものか。」 「田宮を起こして、今夜も嚇かしてやろうじやないか。」 「よせ、よせ。可哀そうによく寝ているようだ。」  二人は団扇をつかいながら煙草をまた一本吸った。一つ蚊帳のなかに寝ている田宮が急にうなり出した。 「おい、どうした。何を魘《うな》されているんだ。」  言いながら本多は彼の苦しそうな寝顔をのぞくと、田宮は暑いので掻巻きを跳ねのけていた。仰向けに寝て行儀悪くはだけている浴衣の胸の上に小さい何物かを発見したときに、本多は思わず声をあげた。 「あ、蟹だ。さっきの蟹が田宮の胸に乗っている。」  これと殆んど同時に、風呂場の方角でけたたましい女の叫び声が起こった。家内が寝鎮まっているだけに、その声があたりにひびき渡って、二人の耳を貫くようにきこえた。 「風呂場のようだね。」  風呂場には隣りの女ふたりがはいっていることを知っているので、一種の不安を感じた遠泉君はすぐに飛び起きて蚊帳を出た。本多もつづいて出た。二人はまず風呂場の方へ駈けてゆくと、一人の女が風呂のあがり場に倒れていた。風呂の中にはなんにも見えなかった。ともかくも水を飲ませてその女を介抱しているうちに、その声を聞きつけて宿の男や女もここへ駈け付けて来た。  女は表二階に滞在している某官吏の細君であった。この人も混雑を嫌って、正午ごろに一度、夜なかに一度、他の浴客の少ない時刻を出はからって入浴するのを例としていた。今夜はいつもよりも少しおくれて丁度二時を聞いたころに風呂場へ来ると、湯のなかに二人の若い女の首が浮いていた。自分と同じように夜ふけに入浴している人達だと思って、別に怪しみもしないで彼女も浴衣をぬいだ。そうして、湯風呂の前に進み寄った一刹那に、二つの首は突然消えてしまったので、彼女は気を失う程におどろいて倒れた。  ゆうべの田宮の話が思い出されて、遠泉君はなんだか忌な心持になった。しかし本多はそれが迷信でも化け物でもない、自分のとなり座敷の女ふたりが確かに入浴していたに相違ないと言った。それにしても人間ふたりが突然に消え失せる筈はないので、風呂番や宿の男どもが大きい湯風呂のなかへ飛び込んで隅々を探してみると、若い女ふたりが湯の底に沈んでいるのを発見した。女ふたりは確かに入浴していて、あたかもかの細君がはいって来た途端に、どうかしたはずみで湯の底に沈んだらしい。二つの首が突然に消え失せたように見えたのは、それがためであった。すぐに医師を呼んでいろいろと手当てを加えた結果、ひとりの女は幸いに息を吹き返したが、ひとりはどうしても生きなかった。  生きた女は古屋為子であった。死んだ女は児島亀江であった。為子の話によると、ふたりが湯風呂の中にゆっくり浸っていると、なんだか薄ら眠いような心持になった。と思う時に、入口の戸をあけて誰かはいって来たらしいので、湯気の中から顔をあげてその人を窺おうとする一刹那、自分と列んでいる亀江が突然に湯の底へ沈んでしまった。あっ[※「あっ」に傍点]と思うと、自分も何物にか曳かれたように、同じくずるずると沈んで行った。それから後は勿論なんにも知らないというのであった。       三  亀江の検死は済んで、死体は連れの三人に引き渡された。三人はすぐに東京へ電報を打って、その実家から引取り人の来るのを待っていた。為子は幸いに生き返ったものの、あくる日も床を離れないで、医帥の治療を受けていた。遠泉君の一行も案外の椿事におどろかされて、となり座敷の女たちのために出来るだけの手伝いをしてやった。田宮は気分が悪いといって、朝飯も碌々に食わなかった。 「あの、まことに恐れ入りますが、どなたかちょっと帳場まで……。」と、女中がこっちの座敷へよびに来た。  遠泉君はすぐに起って、旅館の入口ヘ出てゆくと、駐在所の巡査がそこに腰をかけて番頭と何か話していた。 「なにか御用ですか。」 「いや、早速ですが、少しあなた方におたずね申したいことがあります。」と、巡査は声を低めた。 「御承知の通り、あなた方の隣り座敷の女学生が湯風呂のなかで変死した事件ですが、どうしてあの女学生が突然に湯の中へ沈んでしまったのか、医者にもその理由が判らないというんです。どうも急病でもないらしい。といって、滑って転ぶというのも少しおかしい。そこで、あなたのお考えはどうでしょうか。あの児島亀江という女学生は、同宿の他の三人と折合いの悪かったような形跡は見えなかったでしょうか。それとも何かほかにもお心当たりのことはなかったでしょうか。」  四人のうちでは一番の年長で、容貌もまた一番よくない古屋為子が、最も年若で最も容貌の美しい児島亀江と、一緒に湯風呂のなかに沈んだのは、一種の嫉妬か或いは同性の愛か、そういう点について警察でも疑いを挟んでいるらしかった。しかし遠泉君は実際なんにも知らなかった。 「さあ、それはなんとも御返事が出来ませんね。隣り合っているとはいうものの、なにしろおとといの晩から初めて懇意になったんですから、あの人達の身の上にどんな秘密があるのか、まるで知りません。」 「そうですか。」と、巡査は失望したようにうなずいた。「しかし警察の方では偶然の出来事や過失とは認めていないのです。もしこの後にも何かお心付きのことがありましたら御報告を願います。」 「承知しました。」  巡査に別れて、遠泉君は自分の座敷へ戻ったが、児島亀江の死――それは確かに一種の疑問であった。相手が若い女達であるだけに、それからそれへといろいろの想像が湧いて出た。田宮がその前夜に見たという女の首のことがまた思い出された。  四人連れのひとりは死ぬ、ひとりはどっと寝ているので、あとに残った元子と柳子とのふたりは途方に暮れたような蒼い顔をして涙ぐんでいるのも惨《いじ》らしかった。さすがの本多もきょうはおとなしく黙っていた。田宮は半病人のような顔をしてぼんやりしていた。夕方になって、警官がふたたび帳場へ来て、なにか頻りに取り調べているらしかった。警察の側では女学生の死について、何かの秘密をさぐり出そうと努めているのであろう。それを思うにつけても、遠泉君は一種の好奇心も手伝って、なんとかしてその真相を確かめたいと、自分も少しくあせり気味になって来た。  その晩は元子と柳子と遠泉君と本多と、宿の女房と娘とが、亀江の枕もとに坐って通夜をした。田宮は一時間ばかり坐っていたが、気分が悪いといって自分の座敷へ帰ってしまった。元子と椰子とは唖《おし》のように黙って、唯しょんぼりと仰向いているので、遠泉君はかれらの口からなんの手がかりも訊き出すたよりがなかった。こうして淋しい一夜は明けたが、東京からの引取り人はまだ来なかった。  徹夜のために、頭がひどく重くなったので、遠泉君はあさ飯の箸をおくと、ひとりで海岸へ散歩に出て行った。女学生の死はこの狭い土地に知れ渡っているとみえて、往来の人達もその噂をして通った。遠泉君は海岸の石に腰をかけて、沖の方から白馬の鬣毛《たてがみ》のようにもつれて跳って来る浪の光りをながめているうちに、ふと自分の足もとへ限をやると、かの五色の美しい蟹が岩の間をちょろちょろと這っていた。田宮の胸の上にこの蟹が登っていたことを思い出して、遠泉君はまたいやな心持になった。彼はそこらにある小石を拾って、蟹の甲を眼がけて投げ付けようとすると、その手は何者にか掴まれた。 「あ、およしなさい。祟りがある。」  おどろいて振り返ると、自分のそばには六十ばかりの漁師らしい老人が立っていた。 「あの蟹はなんというんですか。」と、遠泉君は訊いた。 「あばた蟹といいますよ。」  美しい蟹に痘痕《あばた》の名はふさわしくないと遠泉君は思っていると、老いたる漁師はその蟹の由来を説明した。  今から千年ほども前の話である。ここらに大あばたの非常に醜《みにく》い女があった。あばたの女は若い男に恋して捨てられたので、かれは自分の醜いのをひどく怨んで、来世は美しい女に生まれ代って来るといって、この海岸から身を投げて死んだ。かれは果たして美しく生まれかわったが、人間にはなり得ないで蟹となった。あばた蟹の名はそれから起こったのである。そうして、この蟹に手を触れたものには崇りがあると言い伝えられて、いたずらの子供ですらも捕えるのを恐れていた。殊に嫁入り前の若い女がこの蟹を見ると、一生縁遠いか、あるいはその恋に破れるか、必ず何かの禍いをうけると恐れられていた。  明治以後になって、この奇怪な伝説もだんだんに消えていった。あばた蟹を恐れるものも少なくなった。ところが、十年ほど前に東京の某銀行家の令嬢がこの温泉に滞在しているうちに、ふとこの蟹を海岸で見付けて、あまり綺麗だというので、その一匹をつかまえて、なんの気もなしに自分の宿へ持って帰った。宿の女中も明治生まれの人間であるので、その伝説を知りながら黙っていると、その明くる晩、令嬢は湯風呂のなかに沈んでしまった。その以来、あばた蟹の伝説がふたたび諸人の記憶によみがえったが、それでも多数の人はやはりそれを否認して、令嬢の変死とあばた蟹とを結び付けて考えようとはしなかった。 「そんなことを言うと、土地の繁昌にけち[※「けち」に傍点]を付けるようでいけねえが、その後にもそれに似寄ったことが二度ばかりありましたよ。」と、彼は付け加えた。  八月のあさ日に夏帽の庇《ひさし》を照らされながら、遠泉君は薄ら寒いような心持でその話を聴いていた。  漁師に別れて宿へ帰る途中で、遠泉君は考えた。おとといその蟹をつかまえたのは本多である。しかも現在のところでは、本多にはなんの崇りもないらしく、蟹はかえって隣り座敷へ移って行った。一旦投げ捨てたのが又這いあがって来て、かの児島亀江のオペラバックの上に登った。彼女はこの時にもう呪われたのであろう。彼女が湯風呂の底に沈んだのは、為子の嫉妬でもなく、同性の愛でもなく、あばた蟹の崇りであるかも知れない。それにしても、四人の女の中でなぜ彼女が特に呪われたか、彼女が最も美しい顔を持っていた為であろうか。それともまだ他に子細があるのであろうか。  遠泉君は更に彼女と田宮との関係を考えなければならなかった。おとといの晩、田宮が風呂場で見たという女の首はなんであろうか、それが果たして亀江であったろうか。ゆうべも本多が短の外へ投げ出した蟹が、ふたたび這い戻って来て田宮の胸にのばると、彼は非常に魘された。かの蟹と田宮と亀江と、この間にどういう糸が繋がれているのであろうか。遠災君は宮田を詮議してその秘密の鍵を握ろうと決心した。  宿の前まで来ると、かれは再びきのうの巡査に逢った。 「やっばりなんにもお心付きはありませんか。」と、巡査は訊いた。 「どうもありません。」と、遠泉君は冷やかに答えた。 「古屋為子がもう少しこころよくなったら、警察へ召喚して取り調べようと思っています。」と、巡査はまた言った。  警察はあくまでも為子を疑って、いろいろに探偵しているらしく、東京へも電報で照会して、かの女学生たちの身許や素行の調査を依頼したとのことであった。遠泉君は漁師から聞いたあばた蟹の話をすると、巡査はただ笑っていた。 「ははあ、わたしは近ごろ転任して来たので、一向に知りませんがねえ。」 「御参考までに申し上げて置くのです。」 「いや、判りました。」  巡査はやはり笑いながらうなずいていた。彼が全然それを問題にしていないのは、幾分の嘲笑を帯びた眼の色でも想像されるので、遠泉君は早々に別れて帰った。  午後になって、東京から亀江の親戚がその屍体を引き取りに来た。屍体はすぐに火葬に付して、遺髪と遺骨とを持って帰るとのことであった。その翌口、元子は遺骨を送って東京へ帰った。柳子はあとに残って為子の看護をすることになった。柳子は警察へ一度よばれて、何かの取り調べをうけた。警察ではあくまでも犯罪者を探り出そうとしているのを、遠泉君は無用の努力であるらしく考えた。  田宮はその以来ひどく元気をうしなって、半病人のようにぼんやりしているのが、連れの者に取っては甚だ不安の種であった。為子はだんだんに回復して、遠泉君らが出発する前日に、とうとう警察へ召喚されたが、そのまま無事に戻された。出発の朝、三人は海岸へ散歩に出ると、かのあばた蟹は一匹も形を見せなかった。  東京へ帰ってからも、田宮はひと月以上もぼんやりしていた。彼は病気の届けを出して、自分の会社へも出勤しなかったが、九月の未になって世間に秋風が立った頃に、久し振りで遠泉君のところへ訪ねて来た。この頃ようよう気力を回復して二、三日前から会社へ出勤するようになったと言った。 「君はあの児島亀江という女学生と何か関係があったのか。」と、遠泉君は訊いた。 「実はかつて一度、帝劇の廊下で見かけたことがある。それが偶然に伊豆でめぐり逢ったんだ。」 「そこで、君はあの女をなんとか思っていたのか。」  田宮は黙って溜め息をついていた。 底本:岡本綺堂読物選集5巻 異妖編 下巻    昭和44年6月30日発行 青蛙房 入力:和井府 清十郎 公開:2006.7.20 -------------------------------------------------------------------------------- 廿九日《にち》の牡丹餅《ぼたもち》 岡本綺堂       一  六月末の新聞にこんな記事が発見された。今年は暑気が強く、悪疫が流行する。これを予防するには、家ごとに赤飯を炊いて食えと言い出した者がある。それが相当に行われて、俄かに赤飯を炊いて疫病《やくびよう》よけをする家が少くないという。今日《こんにち》でも東京のまん中で、こんな非科学的のお呪禁《まじない》めいたことが流行するかと思うと、頗る不思議にも感じられるのであるが、文明国と称する欧米諸国にも迷信はある。いかに科学思想が発達しても、人間の迷信は根絶することは許されないのかも知れない。  それに就いて、わたしはかつて故老から聞かされた江戸末期のむかし話を思い出した。  それは安政元年七月のことである。この年には閏《うるう》があって、七月がふた月つづくことになる。それから言い出されたのであろうかとも思われるが、六月から七月にかけて、江戸市中に流言が行われた。ことしは残暑が長く、殊に閏の七月は残暑が例外に強い。その暑気をふせぐには、七月二十九日に黄粉《きなこ》の牡丹餅をこしらえて食うがよい。しかしそれを他家ヘ配ってはならない、家内親類奉公人などが残らず食いつくすに限る。そうすれば決して暑気あたりの患《わずら》いはないというのである。  勿論その時代とても、すべての人がそれを信用するわけではなく、心ある者は一笑に付《ふ》して顧みなかったのであるが、そういうたぐいの流言は今日より多く行われ、多く信じられた。しかもその日は二十九日と限られ、江戸じゅうの家々が一度に牡丹餅をこしらえる事になったので、米屋では濡米《もちごめ》が品切れになり、粉屋では黄粉を売切ってしまった。自分の家でこしらえる事の出来ないものは、牡丹餅屋へ買いに行くので、その店もまた大繁昌であった。 「困ったね。どうしたらよかろう。」  女にしては力《りき》んだ眉をひそめて、団扇を片手に低い溜息をついたのは、浅草金龍山下に清元の師匠の御神燈をかけている清元|延津弥《のぶつや》であった。延津弥はことし二十七であるが、こういう稼業にありがちの女世帯で、お熊という小女と二人暮しであるために、二十九日の朝になっても、かの牡丹餅をこしらえるすべがない。あいにく近所に牡丹餅屋もない。  こうと知ったら、きのうのうちに三町ほど先の牡丹餅屋にあつらえて置けばよかったが、まさかに売切れることもあるまいと多寡をくくっていたのが今更に悔まれた。遊芸の師匠であるから、世間の人よりも起きるのがおそい。お熊が朝の仕事を片付けて、それから牡丹餅を買いに出ると、店は案外の混雑で、もう売切れであると断られた。お熊は手をむなしくして帰って来ると、延津弥は顔をしかめた。こうなると自然の人情で、どうしても牡丹餅を食わなければならないように思われて来た。世間の人たちがそれほど競って食うなかで、自分ひとりが食わなかったならば、どんな禍いを受けるかも知れないと恐れられた。 「ほかにどこか売っている家はないかねえ。」  金龍山の牡丹餅は有名であるが、ここは所詮駄目であろうと、かれらも最初から諦めていたのである。しかもこの上はともかくも金龍山へ行ってみて、そこでお断りを食ったらば、広小路の方へ行って探してみたらよかろうということになった。 「暑いのにお気の毒だが、急いで行って来ておくれよ。また売切れてしまうと困るから……。」と、延津弥は頼むように言った。 「はい。行ってまいります。」  お熊は直ぐに出て行った。けさももう五つ半(午前九時)過ぎで、聖天《しようでん》の森では蝉の声が暑そうにきこえた。正直な小女は日傘もささずに、金龍山下瓦町の家をかけ出して、浅草観音堂の方角へ花川戸の通りを急いで来ると、日よけの扇を額にかざした若い男に出逢った。男は笑いながらお熊に声をかけた。 「暑いのに大急ぎで……。お使かえ。」 「おはぎを買いに……。」と、お熊は会釈《えしやく》しながら答えた。 「ああ、そうか。」と、男はまた笑った。「わたしも家で食べて来た。まだ口の轍に黄粉が付いているかも知れねえ。」  手の甲で口のまわりを撫でながら、男はやはりにやにや笑っていた。田原町の蛇骨《じやこつ》長屋のそばに千鳥という小料理屋がある。彼はその独り息子の長之助で、本来ならば父のない後の帳場に坐っているべきであるが、母親の甘いのを幸いに、肩揚げのおりないうちから浄瑠璃や踊りの稽古所ばいりを始めて、道楽の果てが寄席の高坐にあがるようになった。彼は落語家《はなしか》の円生の弟子になって千生《せんしよう》という芸名を貰っていたのである。実家が相当の店を張っていて、金づかいも悪くないお蔭に、千生の長之助は前坐の苦を早く抜け出し、芸は未熟ながらも寄席芸人の一人として、どうにか世間を押廻しているのであった。  千生はことし廿三で、男振りもまず中くらいであるが、磨いた顔を忌《いや》にてかてかと光らせて、眉毛を細く剃りつけ、見るから芸人を看板にかけているような気障《きざ》な人体《じんてい》であったが、工面が悪くないので透綾《すきや》の帷子《かたびら》に博多の帯、顔ばかりでなしに身装《みなり》も光っていた。 「もう遅いぜ。内でこしらえた人は格別、店で買おうという人は、みんな七つ起きをして押掛けているくらいだ。今から行ったって間に合うめえ。お気の毒だがお熊ちゃん、遅かりし由良之助だぜ。」 「そうでしょうねえ。」と、お熊はまじめでうなずいた。「実は今戸の方へ行って断られたんですよ。」 「そうだろう。今頃どこへ行っても売切れさ。いずこも同じ秋のゆうぐれで仕方がないね。」 「でも、まあ、念のために行ってみましょう。」  別れて行こうとするお熊を、千生は又よび留めた。 「いや、お若けえの、待って下せえやし。と、長兵衛を極《き》めるほどの事でもねえが、見すみす無駄と知りながら、汗をたらして韋駄天《いだてん》は気の毒だ。ここに一つの思案あり。まあ聞きたまえ。」と、彼は芝居気取りでお熊の耳にささやいた。  と、いっても、それは差したる秘密でもなく、これから方々の菓子屋や餅屋をさがして歩くまでもなく、わたしの家へ行って訊いてみろ。まだ食い残りがある筈であるから、そのわけを話して師匠とおまえの二人分を貰って来いというのであった。  前にもいう通り、千生の家は小料理屋で母のお兼のほかに料理番や女中をあわせて六、七人の家内であるから、きょうの牡丹餅も相当にたくさんこしらえたのである。千生はそのお初を食って直ぐに出たのであるから、早く行けば幾らか分けてもらえるに相違ない。急げ、急げと千生は再び芝居がかりで指図した。 「ありがとうございます。では、そうしましょう。」  お熊はよろこんで駈けて行った。千生は一体どこへ行くつもりであったのか知らないが、俄かに思い付いたようにほほえみながら、金龍山下の方角へ足をむけた。彼は延津弥の家の前に立停まって馴れなれしく声をかけた。 「師匠、内ですかえ。」  広くもない家であるから、案内の声はすぐに奥にきこえて、延津弥は入口の葭戸《よしど》をあけた。 「あら、千生さん。」 「お邪魔じゃありませんか。」 「いいえ、どうぞお上がんなさい。」  かねて識っている仲であるので、千生はずっと通って何かの世間話をはじめた。千生の肚《はら》では、こうして話し込んでいるうちにお熊が帰って来て、このおはぎは千生さんの家から貰ったと言えば、延津弥もよろこぶに相違ない。自分の顔もよくなるわけである。恩を売るというほどの深い底意はなくとも、師匠の口から礼の一つも言われたさに、彼はわざわざここへ訪ねて来たのであった。途中でお熊に出逢ったことを彼はわざと黙っていた。  やがてお熊が帰って来たので、延津弥は待ちかねたように訊いた。 「お前、あったかえ。」 「どこも売切れだというので、千生さんの家へ行って貰って来ました。」 「千生さんの家……。千鳥さんへ行って、お貰い申して来たの。あら、まあ、どうも済みません。」  と、延津弥は繰返して礼を言った。  我が思う壼にはまったので、千生は内心得意であった。       二  千生はそれから小半時ほども話して帰ると、入れちがいに今戸の中田屋という質屋の亭主金助が来た。金助は晦日《みそか》前で、蔵前辺に何かの商売用があって出て来たついでに、延津弥の家へちょっと立寄ったのである。表向きは独り者といっても、延津弥がこうした旦那の世話になっているのは、その当時において珍しいことでもなかった。  金助は二階の六畳へ通された。きょうは晦日のお手当を持って来たのであるから、延津弥は取分けて愛想よく彼を迎えた。かれはお熊に言い付けてかの牡丹餅を持ち出させた。 「ああ、ここにも牡丹餅があるね。きょうは内でも食わされた。」と、金助は笑った。 「まあ、ここのも一つ食べてください。まさかに毒もはいっていませんから。」  女にすすめられて、金助はその牡丹餅を一つ食った。延津弥も食った。晦日まえで忙しいというので、金助は長居もせずに帰った。事件はこれから出来《しゆつたい》したのである。  金助はそれから二、三ヵ所の用達しを済ませて、その日の七つ(午後四時)ごろに今戸の店へ帰ったが、途中から胸が苦しくなって、わが家へころげ込むと共に倒れた。家内の者もおどろき騒いで、すぐに近所の医者を呼びにやると、医者は暑気あたりの霍乱であろうと診察した。そういうことのない呪禁《まじない》に、きょうは黄粉の牡丹餅を食ったのであるが、その効のなかったのを人びとは嘆いた。医者もいろいろの手当てを加えたが、金助は明くる晦日の夜明け前にとうとう息を引取った。  最初は霍乱と診立《みた》てた医者も、後には普通の暑気あたりではないらしいと言い出した。何かの食い物の中毒ではないかというのである。二十九日の出先は判っているので、中田屋ではそれぞれに問い合せの使を出したが、残暑の強い折柄であるから、どこでも茶のほかには何も出さなかった。但し午飯《ひるめし》はどこで食ったか判らなかった。延津弥のことは本人も秘密にしていたので、家族も知らなかった。  閏七月二日の朝五つ時(午前八時)に金助の葬儀は小梅の菩提寺で営まれた。その会葬者のうちに延津弥との関係を知っている者があって、中田屋の大将が死んでは師匠も困るだろう、お前さんがその後釜を引受けてはどうだなどと、冗談まじりに話していたのが、ふと町方《まちかた》の耳にはいった。  それからだんだん探索すると、延津弥の一件が明白になったばかりでなく、金助が当日金龍山下をたずねた事も判った。まだその上に延津弥もその晩から暑気あたりで寝ているというのである。但し延津弥の病気は差したる重態でもなく、二、三日の後は起きられるであろうとの事であった。  女中のお熊も調べられた。金助と延津弥が同時に発病したのを見ると、あるいはかの牡丹餅に何かの子細があるのではないかと疑われた。お熊もその残りを食ったのであるが、これには別条もなかった。ともかくもその牡丹餅は田原町の千鳥から貰って来たものであるというので、千鳥の女房お兼をはじめ、家内の者一同も代るがわるに取調べを受けた。当日の牡丹餅は他へ分配はしてはならないということになっているので、お熊が貰いに来た時に、お兼はいったん断ろうと思ったのであるが、千生さんのお指図によって来ましたというので、かれも辞《いな》みかねて十一ばかりの牡丹餅を持たせてやった。それから飛んだ引合いを食って、千鳥の店ではひどく迷惑した。もちろん千鳥の店の者は何の障りもなかったのである。  殊におどろいたのは千生の長之助で、自分もどんな巻添いを受けるかも知れないという恐怖から、七月二日以来、どこかへ身を隠してしまった。  七月六日の暗い宵に、千鳥のお兼がそっと金龍山下の師匠をたずねた。お兼は四十三で、年よりも若いといわれていたのであるが、今度の一件と、それから惹《ひ》いて大事のひとり息子の家出の苦労で、わずか四、五日のうちにめっきり老《ふ》けて見えた。  お熊は近所の湯屋へ行って留守であった。延津弥はきのうから起きたが、髪はまだ櫛巻きにして、顔の色も蒼ざめていた。知合いの仲であるから、お兼はすぐに通されたが、今夜の対面は双方とも余り快くなかった。お兼の方からまず口を切った。 「今度はおたがいさまに、飛んだ迷惑で困りました。そこで早速ですが、せがれの長之助はその後にこちらへ参りましたろうか。」 「いいえ。」と、延津弥は情《すげ》なく答えた。「二十九日から一度も見えませんよ。」 「ほんとうに参りませんか。」 「見えませんよ。千生さんだって、うっかりここの家へ顔出しも出来ないでしょうから。」と、延津弥は皮肉らしく言った。 「そうですか。」と、お兼はさらに声をひくめた。「世間というのは途方もないことを言い触らすもので……。内の長之助がおまえさんと肚《はら》を合せて、中田屋の旦那を毒害したなんて言う者がありますそうで……。」 「まあ。」と、延津弥は呆れたようにお兼の顔をながめた。 「よもやそんな事があろうとは思いませんけれども。」 「あたりまえですよ。」と、延津弥は蒼ざめた顔をいよいよ蒼くして、罵るように言った。「なんであたしが千生さんと肚を合せて……。お熊に訊いて御覧なさい。こっちが頼みもしないのに、千生さんの方から知恵を貸して、おまえさんの家からおはぎを貰わして……。千生さんにどんな巧みがあったか知りませんけれど、あたしはなんにも知りませんよ。もしあのおはぎに毒がはいっていて、中田屋の旦那は死に、あたしもこんな病気になったのなら、千生さんは人殺しの下手人ですよ……。」 「そりゃそうですが、世間では……。」 「世間がどういうんですよ。」 「今もお話し申した通り、おまえさんと肚をあわせて……。」 「なぜ肚を合せるんですよ。肚を合せて、ど、どうするというんですよ。」  言いかけて、延津弥は何か思い付いたように又罵った。 「まあ、ばかばかしい。それじゃあ、あたしが旦那の眼をぬすんで千生さんと……。まあ、途方もない。馬鹿もいい加減にするがいいわ。あたしも芸人だから、千生さんとひと通りのお附合いはしているけれど、何が口惜《くや》しくって、あんな寄席の前坐なんぞと……。お前さんもまた、そんな噂を真《ま》に受けて、あたしの所へ何の掛合いに来たんですよ。」 「別に掛合いに来たというわけじゃあないので……。」と、お兼の声もやや尖ってきこえた。 「もしやここへ来やあしないかと思って……。」 「来ませんよ。来られた義理じゃあありませんよ。毒を入れたか入れないか知らないけれども、なにしろあのおはぎを食べたせいで、あたし達はあんな目に逢ったんですから……。つまり、千生さんはあたし達の仇じゃあありませんか。」 「そう言われると、お話は出来ませんけれど、あんな人間でも長之助はわたしの独り息子ですから……。」と、お兼は俄かに声を湿《うる》ませた。「どうしても身を隠さなければならない訳があるなら……。まあ当分はどこに忍んでいるにしても、先立つものは金ですから、ともかくも当座の入用にと思って、実はここに十両のお金を持って来たのですが……。」  延津弥は黙って聴いていた。お熊はまだ帰らなかった。 「ねえ、お師匠さん。おまえさん、ほんとうに長之助の居どころを御存じないのでしょうか。」と、お兼はまた訊いた。  延津弥はやはり黙っていた。小さい庭にむかった檐《のき》さきの風鈴が夜風に音を立てているばかりで、二人の沈黙は暫くつづいた。       三  閏七月は誰かの予言どおり、かなり強い残暑に苦しめられたが、二十九日の牡丹餅が効を奏したのか、江戸にはさまでの病人もなく、まず目出たいといううちに、八月にはいって陽気もめっきりと涼しくなった。往来を飛びかう赤とんぼうの羽《はね》の光りにも、秋らしい日の色が見えるようになった。それからそれへと新しい噂に追われて、物忘れの早い江戸の人たちは、先々月の末に汗を拭きながら牡丹餅をこしらえたり、買い歩いたりした事を、遠い昔のように思いなして、もうその噂をする者もなかった。  その八月の二十一日の夜である。小梅の通源寺という寺のそばで、ひとりの女の死骸が発見された。女は千鳥の女房お兼で、手拭で絞め殺されていたのである。お兼がなんのために夜中こんな寂しい所へ来て、何者に殺されたのか、その子細はわからなかった。  千鳥の店の話によると、お兼はせがれ長之助のゆくえ不明を苦に病んで、この頃は浅草の観音へ夜詣《よまい》りをする。観音堂は眼と鼻のあいだの近い処であるが、時にはいっ刻《とき》ぐらいを過ぎて帰ることもある。当人は占い者へ廻ったとか、菩提寺の和尚さまに相談に行ったとか言っていたそうである。但しかの通源寺はお兼の菩提寺ではなかった。お兼の頸にまかれていたのは、有り触れた瓶《かめ》のぞきの買い手拭で、別に手がかりとなるべき物ではなかった。  せがれの居どころは判らず、女あるじは急死したのであるから、千鳥の奉公人らも途方にくれた。お兼の兄の小兵衛は千住の宿《しゆく》で同商売をしているので、それが駈け付けて来て万事の世話をすることになった。もちろん町内の人びとも手伝って、まずはこの店相当の葬式を出したのは、二十四日の九つ(正午十二時)であった。その葬式がやがて出ようとする時、長之助の千生が蒼い顔をしてふらりと帰って来た。 「やあ、いいところへ息子が帰った。」  人びとはよろこんで、早速かれを施哉に立たせようとしたが、それは許されなかった。店先にあつまる会葬者の群れの中に、手先の一人もとうから入り込んでいて、千生はすぐに引っ立てられて行った。まさかに親殺しではあるまいが、今戸の中田屋の一件がまだ解決していないので、あるいはその係り合いではないかという噂であった。  番屋へ牽かれた千生は、根が度胸のない人間であるから手先に嚇されて何もかも正直に申立てたので、捕《と》り方は直ぐに金龍山下へむかったが、清元の師匠はもう影を隠して、小女ひとりがぼんやりと留守番をしていた。お熊の申立てによると、延津弥も千鳥の葬式にゆくと言って、身支度をして出たままで帰らないという。おそらく田原町まで行く途中、長之助が挙げられた噂を聞いて、千鳥へも行かず、自宅へも帰らず、どこかへ逃亡したのであろうと察せられた。  それから三日目の夜である。橋場の渡し番庄作のせがれ庄吉が近所へ遊びに行って、四つ(午後十時)に近い頃に帰って来ると、渡し小屋から少し距れた川端に誰かの話し声がきこえた。暗いので顔は見えないが、その声が男と女であることは直ぐに判ったので、年のわかい庄吉は一種の好奇心から足音を忍ばせて近寄った。彼は柳のかげに隠れて窺っていると、男は小声に力をこめて言った。 「じゃあ、どうしても帰らねえというのか。」 「帰らないよ。誰が帰るものか。」と、女は吐き出すように言った。 「じゃあ、どうするんだ。」 「死ぬのさ。」 「死ぬ……。」と、男は冷笑《あざわら》った。「きまり文句で嚇かすなよ。死ぬなら俺が一緒に心中してやらあ。」 「まっぴらだよ。誰がお前なんぞと……。あたしは一人で死ぬから邪魔をしておくれでないよ。」 「駄々をこねずに、まあ帰れよ。おたがいに考え直して、いい相談をしようじゃあねえか。」 「ふん、なにがいい相談だ。あたしは三日前にここから身を投げるつもりのところを、お前のようなゲジゲジ虫に取っ捉まって……。」 「そのゲジゲジが留めなけりゃあ、おめえはドブンを極めたところだったじゃねえか。」 「だからさ。いっそ一と思いにドブンを極めようとしたところを、飛んだ奴に邪魔されて ……。」と、女は激しく罵った。「いい相談があると瞞《だま》されて、掃き溜めのような穢い長屋の奥ヘ引っ張り込まれて、三日のあいだ、腹さんざん慰み物にされて、身ぐるみ剥がれて古浴衣一枚にされて……。揚句の果てに宿場女郎にでも売り飛ばそうとする、おまえの相談は聞かずとも判っているんだ。どうせ死ぬと決めた体だから、どうなってもいいようなものだが、あたしはお前のような男に骨までしゃぶられるような罪は作らないよ。」 「なに、罪は作らねえ……。女のくせに人殺しまでして、罪を作らねえが聞いて呆れらあ。よく考えて物をいえ。」 「人殺しはお前じゃあないか。」  その声が高くなったので、男は暗いなかにあたりを揮《はぱか》るように言った。 「おれはおめえを救ってやったのだ。」 「救ってくれたら、それでいいのさ。いつまで恩に着せることはないじゃないか。文句があるなら、千鳥へ行ってお言いよ。」 「べらぼうめ。うかうか千鳥なんぞへ面《つら》を出して、馬鹿息子と一緒に番屋へしょびかれて堪るものか。」  さっきからの押問答をぬすみ聴いて、庄吉は男が何者であるかを覚った。男は近所の裏長屋に住む虎七という独り者で、表向きは瓦屋の職人であるが、商売はそっちのけで、ぐれ歩いている札付きのならずものである。女は何者であるか判らないが、ともかくもその事件が人殺しに関係しているらしいので、庄吉はおどろいた。殊に千鳥という名が彼の注意をひいた。こうなっては聞き捨てにならないと思ったので、彼は早々に引っ返して親父の庄作に注進した。  かれらの家は渡し場の近所で、庄作は今や一合《ごう》の寝酒を楽しんでいるところであったが、それを聞いて眉をよせた。 「そりゃあ大変だ。なにしろ俺も行って様子を見届けよう。」  庄吉に案内させて庄作も川端へ忍んで行くと、二つの黒い影はもうそこに見いだされなかった。  暗いなかで聞こえるのは、岸に触れる水の音のみである。女は死ぬと言っていたから、庄吉の立去ったあとに身でも投げたか、それとも男に引摺られて帰ったか、それらはいっさい不明であった。 「お父っさん、どうしよう。」 「さあ。」と、庄作も考えた。「ほか場所ならばともかくも、渡し場近所で何事かあった.のを素《そ》知らん顔をしていては、後日に何かの迷惑にならねえとも限らねえ。念のために届けて置くがよかろう。」  親子は一応その次第を自身番へ届けて出た。  しかもその男も女もすでにどこへか立去ってしまったというのでは、別に詮議の仕様もないので、自身番でもそのままに捨てて置いた。       四  こんにちと違って、その当時の橋場あたりの裏長屋は狭い。殊に虎七の住み家はその露地の奥の奥で、四畳半一間《ひとま》に型ばかりの台所が付いているだけである。そこへ町方《まちかた》の手先がむかったのは明くる日の午《ひる》頃であった。  庄作親子の届け出でを聞いて、自身番でもその夜はそのままに捨てて置いたが、仮りにもそれが千鳥の女房殺しに関係があるらしいというのでは、もちろん聞き流しには出来ないので、明くる朝になって町《ちよう》役人にも申立て、さらに町方にも通じたので、ともかくも虎七を詮議しろということになって、町方の手先は直ぐに召捕りに行きむかうと、虎七の家の雨戸は閉め切ってあった。こんな奴等は盗人《ぬすつと》も同様、あさ寝も昼寝もめずらしくないので、手先は雨戸をこじ明けて踏み込むと、虎七は煎餅蒲団の上に大きい口をあいて蹈《ふ》んぞり返っていた。寝ているのではない、頸を絞められているのであった。  川端の闇で虎七と争っていた女が清元延津弥であるらしいことは、読者もおそらく想像したであろう。捕り方もその判断の付かない筈はなかった。延津弥は一旦ここへ引戻されて、虎七の酔って眠った隙をみて、かれを絞め殺して逃げたに相違ない。四畳半の隅には徳利や茶碗などもころがっていた。  隣りは空家、又その隣りは吉原へ通い勤めの独り者であるので、この二、三日来、虎七の家にどんなことが起っていたか近所でも知る者はなかった。しかも前後の事情は庄吉の聴かされた通りで、彼は延津弥を脅迫して、結局その手に殺されたのは明白であった。捕り方はさらに金龍山下にむかったが、延津弥の姿はやはり見いだされなかった。  中田屋の亭主の死は果して牡丹餅の中毒であるかどうか、それは解き難い疑問であるが、少くもそれから糸を引いて、千鳥の女房お兼と破落戸漢《ならずもの》の虎七とが変死を遂げたのは事実であった。二十九日の牡丹餅が怖るべき結果を生み出したのである。  長之助の千生の申立てはこうであった。 「わたくしの店から持って行った牡丹餅を食って、中田屋の旦那は死んでしまい、延津弥の師匠も患《わずら》って、その詮議がむずかしくなったと聞いて、わたくしは急に怖くなって家を逃げ出しました。師匠の円生のところへ行って相談いたしますと、ここで逃げ隠れをするのはよくない。自分におぼえのないことならば、当分は家にじっとしていて、なにかのお調べがあったらば正直に申立てろと教えられましたので、その気になって引っ返しましたが、どうも不安心でならないので、途中から又逃げました。今更おもえば重々の心得ちがいで、それがためにおふくろが殺されるようにもなったのでございます。  どう考えても、わたくしは馬鹿でございました。師匠の意見に従って、自分の家にじっとしていればよかったのですが、いったん姿をかくした以上、なおさら自分に疑いがかかったような気がしまして、七月から八月にかけて五十日ほどの間は所々方々をうろ付いていました。まず小田原まで踏み出しましたが、箱根のお関所がありますので、熱海の方角へ道を換えて、この湯治場に半月ほども隠れていました。それから引っ返して江の島、鎌倉……。こう申すと、なんだか遊山旅のようでございますが、ほかに行く所もなかったからでございます。  それから又、相模路から八王子の方へ出まして、そこに遠縁の者がありますので、脚気《かつけ》の療治に来たのだと嘘をついて、暫くそこの厄介になっていましたが、その化けの皮もだんだん剥げかかって来たので、そこにも居たたまれなくなって……。まあ、半分は追い出されたような形で、幾らかの路用を貰って江戸へ帰って参りました。  故郷の浅草へ帰りましたのは、八月十六日の晩で、それから真っ直ぐに家へ帰ればよかったのですが、なんだか閾《しきい》が高いので、ともかくもその後の様子を訊いてみようと思いまして、金龍山下の延津弥の家へこっそり尋ねて行きますと、師匠はよく帰って来てくれたと喜んで、すぐに二階へあげて泊めてくれました。そうして、四、五日厄介になっているうちに、延津弥が申しますには、わたしも中田屋の旦那に死に別れて心細い。どうぞこれからは力になってくれと口説かれまして……。まあ、夫婦のような事になってしまいましたが、延津弥はわたくしを家へ帰しません。  そのうちに判りましたのは、延津弥がわたくしのお袋をだまして、三十両ほどの金を巻き上げている事で……。延津弥はおふくろにむかって、こんなことを言っていたそうでございます。中田屋の旦那を毒害したなぞは、まったく覚えのないことだが、実は千生さんと私とは前々から深く言いかわしている。中田屋の一件とは別口《べつくち》で、千生さんは少し筋の悪いことがあって、当分は身を隠していなければならない。その隠れ家は知れているが、今すぐに逢わせるわけには行かない。千生さんも小遣いに不自由しているようだから、金はわたしから届けてあげる。こう言って最初におふくろから十両の金を受取りまして、それから五十日のあいだに三両五両と四、五たびも引出しましたそうで……。それは延津弥が自分の口から話したのですから嘘ではございますまい。  わたくしもそれを知って、どうもひどい事をすると思いましたが、なにしろ延津弥とは夫婦同様になってしまったのですから、今さら開き直って女を責めるわけにも参りません。八月二十一日の晩に延津弥は日本橋の方へ行くといって家を出まして、四つを過ぎても帰りません。どうしたのかと案じていますと、九つ(十二時)を過ぎてようよう帰って来ました。わたくしは外へ出ませんので、世間の噂を聞きませんでしたが、おふくろはその晩、小梅で殺されたのでした。わたくしが初めてそれを知ったのは二十三日の午頃で、その翌日が千鳥から葬式の出る日でございます。延津弥はわたくしに向って、もう隠れている場合ではない、早く帰ってお葬式の施主に立てと申しますので、わたくしも思い切って帰りますと、直ぐに御用になったのでございます。何事もわたくしの不届きで、重々恐れ入りました。」  これに因って察せられる通り、千生はよくよく意気地《いくじ》のない、だらしのない人間で、最初は身に覚えのない罪を恐れ、後には女にあやつられて、魂のない木偶《でく》の坊のように踊らされていたのである。  事件の輪郭はこれで判った。その以上の秘密は延津弥の自白に侯《ま》つのほかはない。しかも延津弥はその後の消息不明であった。きびしい町方の眼をくぐって、遠いところへ落ち延びてしまったのか、あるいは自分でいう通り、隅田川に身を沈めて、その亡骸《なきがら》は海へ押流されてしまったのか。それは永久の謎として残されていた。  前後の事情によって想像すると、延津弥は千生の母に対して最初は反感を懐いていたが、十両の金を持って来たというのを聞いて、俄かに悪心をきざして、それを巻き上げることを案出したのであろう。それは殆ど明白であるが、千生の母をなぜ殺したかということに就いては、明白の回答は与えられていない。  最初のうちは千生の母もだまされて、三両五両を延津弥の言うがままに引出されていたが、後にはそれを疑って是非とも我が子に逢わせてくれと言い、その捫着《もんちやく》から延津弥が殺意を生じたのであろうと解釈する者もある。しかしハ月二十一日の頃には千生を自分の家に隠まっていたのであるから、どうしても逢わされないという事もない筈である。あるいは母を殺して千生に家督を相続させ、自分も千鳥のおかみさんとして乗込むつもりであったろうという。その方がやや当っているらしいが、それにしても母を殺すのは余りに残忍であるように思われる。  次は延津弥と虎七との関係である。小梅の寺のそばで、延津弥とお兼とが何か争っているところへ、虎七が偶然に通りあわせて、延津弥を助けてお兼を絞め殺し、それを種にして延津弥をいろいろ脅迫していたらしい。生きていれば死罪又は獄門の罪人であるから、女の手に葬られたのは未だしもの仕合せであるかも知れない。  千生は自分の不心得から母が殺されるようになったので、重き罪科にも行わるべきところ、格別のお慈悲を以って追放を命ぜられた。  七月二十九日の牡丹餅を食った者は江戸中にたくさんあったが、これほどの悲劇を生み出したものは、この物語の登場人物に限られていた。                           昭和十一年七月作「冨士」 底本:岡本綺堂読物選集5巻 異妖編 下巻    昭和44年6月30日発行 青蛙房 入力:和井府 清十郎 公開:2006.2.27 注意:つぎの語にルビを付けた  蹈《ふ》んぞり -------------------------------------------------------------------------------- 真鬼偽鬼《しんきぎき》 岡本綺堂       一  文政四年の江戸には雨が少なかった。記録によると、正月から七月までの半年間にわずかに一度しか降雨をみなかったという事である。七月のたなばたの夜に久しぶりで雨があった。つづいて翌八日の夜にも大雨があった。それを口切りに、だんだん雨が多くなった。  こういう年は、いわゆる片降り片照りで、秋口になって雨が多いであろうという、老人たちの予言がまず当った方で、八月から九月にかけて、とかくに曇った日がつづいた。その九月の末である。京橋八丁堀の玉子屋新道《じんみち》に住む南町奉行所の与力《よりき》秋山嘉平次が新川《しんかわ》の酒問屋の隠居をたずねた。  隠居は自分の店の裏通りに小さい隠居所をかまえていて、秋山とは年来の碁がたきであった。秋山もきょうは非番であったので、ひる過ぎからその隠居所をたずねて、例のごとく烏鷺《うろ》の勝負を争っているうちに、秋の日もいつか暮れて、細かい雨がしとしとと降り出した。秋山は石を置きながら、表の雨の音に耳をかたむけた。 「また降って来ましたな。」 「秋になってから、とかくに雨が多くなりました。」と、隠居も言った。「しかしこういう時には、少し降った方が気がおちついて好うござります。」  ここで夕飯の馳走になって、二人は好きな勝負に時の移るのを忘れていた。秋山の屋敷ではその出先を知っているので、どうで今夜は遅かろうと予期していたが、やがて四つ(午後十時)に近くなって、雨はいよいよ降りしきって来たので、中間《ちゆうげん》の仙助に雨具を持たせて主人を迎えにやった。 「明日のお勤めもござります。もうそろそろお帰りになりましてはいかが。」  迎えの口上を聞いて、秋山も夜のふけたのに気がついた。今夜のかたき討は又近日と約束して、仙助と一緒にここを出ると、秋の夜の寒さが俄かに身にしみるように覚えた。仙助の話では、さっきよりも小降りになったとの事であったが、それでも雨の音が明らかにきこえて、いくらか西風もまじっているようであった。そこらの町家はみな表の戸を締切って、暗い往来にほとんど灯のかげは見えなかったが、その時代の人は暗い夜道に馴れているので、中間の持っている提灯一つの光りをたよりに、秋山は富島町と川口町とのあいだを通りぬけて、亀島橋にさしかかった。  橋の上は風も強い。秋山は傘を傾けて渡りかかると、うしろから不意に声をかけた者があった。 「旦那の御吟味は違っております。これではわたくしが浮かばれません。」  それは此の世の人とも思われないような、低い、悲しい声であった。秋山は思わずぞっとして振り返ると、暗い雨のなかに其の声のぬしのすがたは見えなかった。 「仙助。あかりを見せろ。」  中間に提灯をかざさせて、彼はそこらを見廻したが、橋の上にも、橋の挟にも、人らしい者の影は見いだされなかった。 「おまえは今、なにか聞いたか。」と、秋山は念のために中間に聞いてみた。 「いいえ。」と、仙助はなにも知らないように答えた。  秋山は不思議に思った。極めて細い、微かな声ではあったが、雨の音にまじって確かに自分の耳にひびいたのである。それとも自分の空耳で、あるいは雨か風か水の音を聞きあやまったのかも知れないと、彼は半信半疑で又あるき出した。八丁堀へゆき着いて、玉子屋新道にはいろうとすると、新道の北側の角には玉円寺という寺がある。  その寺の門前で犬の激しく吠える声がきこえた。 「黒め、なにを吠えていやがる。」と、仙助は提灯をさし付けた。  その途端に、秋山のうしろから又もや怪しい声がきこえた。 「旦那の御吟味は違っております。」 「なにが違っている。」と、秋山はすぐ訊きかえした。「貴様はだれだ。」 「伊兵衛でござります。」 「なに、伊兵衛……。貴様は一体どこにいるのだ。おれの前へ出て来い。」  それには何の答えもなかった。ただ聞えるものは雨の音と、寺の塀から往来へ掩いかかっている大きい桐の葉にざわめく風の音のみであった。犬は暗いなかでなお吠えつづけていた。 「仙助、お前は何か聞いたか。」 「いいえ。」と、仙助はやはり何にも知らないように答えた。 「それでも、おれの言う声はきこえたろう。」 「旦那さまの仰しゃったことはよく存じております。初めに誰だといって、それから又、伊兵衛と仰しゃりました。」 「むむ。」  言いかけて、秋山はなにか急に思い付いたことがあるらしく、それぎり黙って足早にあるき出して自分の屋敷の門をくぐった。家内の者をみな寝かせてしまって、秋山は庭にむかった四畳半の小座敷にはいって、小さい机の前に坐った。御用の書類などを調べる時には、いつもこの四畳半に閉じこもるのが例であった。  秋の夜はいよいよ更けて、雨の音はまだ止まない。秋山は御用箱の蓋《ふた》をあけて、ひと束の書類を取出した。彼は吟味与力の一人であるから、自分の係りの裁判が十数件も畳まっている。そのなかで、あしたの白洲《しらす》へ呼出して吟味する筈の事件が二つ三つあるが、秋山はその下調べをあと廻しにして、他の一件書類を机の上に置きならべた。それは本所柳島村の伊兵衛殺しの一件であった。  この月の三日の宵に、柳島の町と村との境を流れる小川のほとりで、村の百姓助蔵のせがれ伊兵衛という者が殺されていた。伊兵衛はことし廿二で、農家の子ではあるが瓦《かわら》焼きの職人となって、中の郷の瓦屋に毎日通っていると、それが何者にか鎌で斬り殺されて、路ばたに倒れていたのである。下手人はまだ確かには判らないが、村の百姓甚右衛門のせがれ甚吉というのが先ず第一の嫌疑者として召捕られた。  甚吉が疑いを受けたのは、こういう事情に拠るのであった。同じ百姓とはいいながら、甚吉と伊兵衛とは家柄も身代もまったく相違して、甚吉の家はここらでも指折りの大百姓であったが、二人は子供のときに同じ手習師匠に通っていたという関係から、生長の後にも心安く付き合っていた。伊兵衛は職人だけに道楽をおぼえて、天神橋の近所にある小料理屋などへ入り込むうちに、かの甚吉をも誘い出して、このごろは一緒に飲みにゆくことが多かった。  同年の友達ではあるが、甚吉は比較的に初心《うぶ》である上に双方の身代がまるで違っているので、甚吉は旦那、伊兵衛はお供という形で、料理屋の勘定などはいつも甚吉が払わせられていた。そのうちに伊兵衛の取持ちで、甚吉は亀屋という店に奉公しているお園という女と深い馴染みになって、少なからぬ金をつぎ込んでいると、それを気の毒に思って、ひそかに彼に注意をあたえる者があった。お園と伊兵衛とはその以前から特別の関係が成立っていて、かれらは共謀して甚吉を籠絡《ろうらく》し、その懐ろの銭を搾り取って、蔭では舌を出して笑っているというのである。それが果してほんとうであるかないか、甚吉もまだ確かな証拠を見届けたわけではないが、そんな噂を聞いただけでも彼は内心甚だ面白くなかった。  その以上のことは、吟味がまだ行き届いていないのであるが、これらの事情から推察すると、三日の宵に伊兵衛が瓦屋から帰って来る途中で、偶然甚吉に出逢ったか、あるいは甚吉がそこに待ち受けていたか、ともかくも何かの口論の末に、甚吉が彼を殺して逃げ去ったものであろうと認められたのも、一応は無理もなかった。兇器の鎌はあたかもそこらに有り合わせたのか、あるいは甚吉が持ち出して来たのか、それは判らなかった。  しかし甚吉は亀屋のお園のことや、又それに就いて、このごろかの伊兵衛に悪感情を抱いている事などは、すべて正直に申立てたが、伊兵衛を殺害した事件については、一切なんにも知らないと言い張っているので、その吟味は容易に落着《らくぢやく》しなかった。彼は入牢《じゆろう》のままで、裁判の日を待っているのであった。その係りの吟味方は秋山嘉平次である。  その秋山の耳に、今夜怪しい声が聞えたのである。――旦那の御吟味は違っております。――それを誰が訴えたか。この暗い雨の夜に、しかも往来で誰がそれを訴えたのか。  訴えた者は、伊兵衛でござります。と自分で名乗った。殺された伊兵衛の魂が迷って来て、ほんとうの下手人をさがし出して、自分のかたきを討ってくれと訴えたのであろうか。それならば単に吟味が違っていると言わないで、本当の下手人は誰であるという事をなぜ明らさまに訴えないのか。秋山は机にむかって暫く考えていたが、やがて俄かに笑い出した。 「畜生。今どきそんな古手を食うものか。」  甚吉の家は物持ちである。その独り息子が人殺しの罪に問われるのを恐れて、かれの家族が何者をか買収して、伊兵衛の幽霊をこしらえたのであろう。そうして、自分の外出するのを窺って、怪談めいた狂言を試みたのであろうと秋山は判断した。 「よし、その狂言の裏をかいて、甚吉めを小っぴどく引っぱたいてやろう。」  甚吉の罪業については、秋山も実はまだ半信半疑であったが、今夜の幽霊に出逢ってから、その疑いがいよいよ深くなった。かれがもし潔白の人間であるならば、その家族どもがこんな狂言を試みる筈がないと思った。      二  あくる朝、秋山嘉平次は同心の奥野久平を呼んで、柳島の伊兵衛殺しの一件について特別の探索方を命令した。 「人を馬鹿にしていやあがる。眼のさめるように退治つけてやれ。」と、秋山は言った。  奥野も笑いながら出て行った。  その日の町奉行所に甚吉の吟味はなかった。秋山は他の事件の調べを終って、いつもの通りに帰って来ると、夜になって奥野が彼の四畳半に顔をみせた。彼はひとりの手先を連れて、柳島方面へ探索に行って来たのである。秋山は待ちかねたように訊いた。 「やあ、御苦労。どうだ、なにか面白い種が挙がったかな。」 「まず伊兵衛の家へ行って、おやじの助蔵を調べてみました。」と、奥野は答えた。「すると、どうです。助蔵の家《うち》へも幽霊のようなものが出て、――勿論その姿は見えないのですが、やはり伊兵衛の声で、下手人の甚吉は人違いだというような事を言ったそうです。」 「仕様のねえ奴だな。」と、秋山は舌打ちした。「どこまで人を馬鹿にしやがるのだ。それで、助蔵の家の奴らはどうした。」 「あいつらのことですから、勿論ほんとうに思っているようです。いや、助蔵の家ばかりでなく、往来でもその声を聞いた者があるそうです。あの辺の町家の女がひとり、百姓の女が一人、日が暮れてから町境いの川のふち――伊兵衛が殺されていた所です。――そこを通りかかると、暗い中から伊兵衛の声で……。女共はきゃつといって逃げ出したそうです。そんなわけで、あの辺では幽霊の噂が一面にひろがって、誰でも知らない者はないくらいです。」 「そこで、貴公の鑑定はどうだ。そんな芝居をするのは、甚吉の家の奴らか、伊兵衛の家の奴らか。」と、秋山は訊いた。 「そこです。」と、奥野は一と膝すすめた。「あなたの鑑定通り、どうでその幽霊は偽者に相違ありませんが、わたくしも最初は甚吉の家の奴らだろうと思っていました。甚吉の家は物持ちですから、金をやって誰かを抱き込んで、こんな芝居をさせていることと睨んだのですが、だんだん詮議してみると、どうも助蔵の方が怪しいようです。」 「それは少しあべこべのようだが、そんなことが無いともいえねえ。いったいその助蔵というのはどんな奴だ。」 「助蔵は生れ付きの百姓で、薄ぼんやりしたような奴ですが、女房のおきよというのはなかなかのしっかり者で、十八の年に助蔵のところヘ嫁に来て、そのあくる年に伊兵衛を生んで、今年ちょうど四十になるそうです。ところで、御承知かも知れませんが、伊兵衛は総領で、その下に伊八という弟があります。伊八は兄貴と二つ違いで、ことし二十歳《はたち》になります。」 「むむ。」  秋山はうなずいた。兄弟であれば、声も似ている。弟の伊八が作り声をして、兄の幽霊に化けているということはもう判り過ぎるほどに判ってしまった。気の短い秋山はすぐに伊八を引挙げて、手ひどく嚇《おど》しつけてやりたいようにも思ったが、彼はもう四十を越している。多年の経験上急《せ》いては事を仕損じるの実例をもたくさんに知っているので、しばらく黙って奥野の報告を聴いていると、相手はつづけて語り出した。 「おふくろのおきよは、今もいう通りのしたたか者ですから、今さら甚吉を下手人にして見たところで、死んだ伜が生き返るわけでもないので、慾にころんで仇の味方になって、甚吉は人違いであるということを世間へ吹聴《ふいちよう》すれば、それが自然に上《かみ》の耳にもはいると思って、偽幽霊の狂言をかいたらしいのです。無論それには甚吉の親たちから纒まった物を受取ったに相違ありますまい。弟の伊八という奴も、兄貴と同じような道楽者で、小博奕《こばくち》なども打つといいますから、兄貴の死んだのを幸いに、おふくろと一緒になってどんな芝居でもやりかねません。近所の者の話によると、伊兵衛と伊八は兄弟だけに顔付きも声柄もよく似ているということです。」 「それからお園という女も調べたか。」 「天神橋の亀屋へ行って、お園のことを訊いてみると、お園は伊兵衛が殺されても、甚吉が挙げられても、一向平気ではしゃいでいるそうです。もちろん一応は取調べてみましたが、今度の一件に就いてはまったく何にも知らないらしく、甚吉も伊兵衛も座敷だけの顔馴染みで、ほかに係り合いはないと澄ましていましたが、それは嘘で、どっちにも係り合いのあったことは、亀屋の家も、みんな知っていました。一体だらしのない女で、ほかにもまだ係り合いの客があるとかいう噂です。年は二十二だといいますから、甚吉や伊兵衛と同い年で、容貌《きりよう》はまんざらでもない女でした。」 「それだけで伊八とおきよを引挙げては、まだ早いかな。」と、秋山はかんがえながら言った。「そうですね。」と、奥野も首をかしげた。「もう大抵は判っているようなものですが、何分にも確かな証拠が挙がっていませんから、下手なことをしてしまうと、あとの調べが面倒でしょう。」  こっちに確かな証拠を掴んでいないと、相手が強情者である場合には、その詮議がなかなか面倒であることを秋山もよく知っていた。 「そこで、あとのことは藤次郎にあずけて来ましたが、どうでしょう。」と、奥野は秋山の顔色をうかがいながら言った。 「それでよかろう。」  手先の藤次郎は初めからこの事件に係り合っている上に、平生から相当の腕利きとして役人たちの信用もあるので、秋山も彼にあずけて置けば大丈夫であろうと思った。そこで今後の処置は藤次郎の探索の結果を待つことにして、奥野はひとまず別れて帰った。  ゆうべの雨は暁け方からやんだが、きょうも一日曇り通して薄ら寒い湿っぽい夜であった。奥野が帰ったあとで、秋山は又もや机にむかって、あしたの吟味の調べ物をしていると、屋根の上を五位鷺が鳴いて通った。かれは自分がいま調べている仕事よりも、伊兵衛殺しの一件の方が気になってならなかった。事件そのものが重大であるというよりも、幽霊の仮装を使って自分をだまそうとした彼らの所業が忌《いまいま》々しくてならないのである。土地の奴等をだますのはともあれ、自分までも一緒にだまそうというのは、あまりに上《かみ》役人を侮った仕方である。一日も早く彼らの正体を見あらわして、ぐうの音も出ないように退治付けてやらなければ、自分の胸が納まらないのであった。 「おれはひどく燥《あせ》っているな。」  かれは自ら嘲るように笑った。いかなる場合にも冷静である筈の自分が、今度の事件にかぎって燥り過ぎるのはどういうわけであるか。忌々しいからといって無暗にあせるのは、あまりに素人じみているのではないか。こんなことで八丁堀に住んでいられるかと、秋山は努めてかの一件を忘れるようにして、他の調べ物に取掛ったが、やはりどうも気が落ちつかなかった。そうして、今にも藤次郎が表の門をたたいて、何事をか報告して来るように思われてならないので、今夜も家内の者を先へ寝かして、秋山は夜のふけるまで机の前に坐り込んでいた。寝床にはいったところで、どうで安々と眠られまいと思ったからである。  そのうちに載禄ち曝っの九つ(午後十二時)の鐘の音が沈んできこえた。五位鷺がまた鳴いて通った。  秋の夜が長いといっても、もう夜半《よなか》である。少しは寝ておかなければ、あしたの御用に差支えると思って、秋山も無理に寝支度にかかり始めると、表で犬の吠える声がきこえた。つづいて門をたたく者があった。秋山は待ちかねたように飛んで出て、中間や下女を呼び起すまでもなく、自分で門を明けにゆくと、細かい雨がはらはら顔を撲《う》った。暗い門の外には奥野と藤次郎が立っていた。  藤次郎はまず奥野の門をたたいて、それから二人で連れ立って来たものらしい。秋山はすぐに彼らを奥へ通すと、奥野は急いで口を切った。 「どうも案外な事件が起りました。」 「どうした。やっぱり柳島の一件か。」と、秋山もすこしく胸を跳らせながら訊いた。 「そうでございます。」と、藤次郎が入れ代って答えた。「奥野の旦那がお引揚げになってから、わたくしは亀屋のそばの柳屋という家に張込んでいました、伊八の奴はそこへたびたび飲みに行くことを聞いたからです。おとといもきのうも来なかったから、今夜あたりは来るだろうというので、わたくしも客のつもりで小座敷に飲んでいました。亀屋は二階屋ですが、柳屋は平屋《ひらや》ですから、表の見えるところに陣取っていると、もう五つ(午後八時)頃でしたろうか、頬かむりをした一人の男が柳屋の店の方へぶらぶらやって来ました。どうも伊八らしいと思って家の女中にきいて見ると、たしかにそうだと言うので、油断なく見張っていると、伊八は柳屋の前まで来たかと思うと、又ふらふらと引っ返して行きます。こいつおれの張込んでいるのを覚ったのかと、わたくしも直ぐに起《た》ち上がって表をのぞくと、近所の亀屋の店口からも一人の女が出て来ました。その女はお園らしいと見ていると、伊八とその女は黙って歩き出しました。」  言いかけて、彼は頭をかいた。 「旦那方の前ですが、ここでわたくしは飛んだドジを組んでしまって、まことに面目次第もございません。それから私が直ぐに跡をつけて行けばよかったのですが、柳屋は今夜が初めてで、わたくしの顔を識らねえ家ですから、むやみに飛び出して食い逃げだと思われるのも癩にさわるから、急いで勘定を払って出ると、あいにく又、日和下駄《ひよりげた》の鼻緒が切れてしまいました。」  秋山は笑いもしないで聴いていると、藤次郎はいよいよ極りが悪そうに言った。 「さあ、困った。仕方がねえから柳屋へまた引っ返して、草履を貸してくれというと、むこうでは気を利かしたつもりで日和下駄を出してくれる。いや、雨あがりでも草履の方がいいという。そんな押問答に暇をつぶして、いよいよ草履を突っかけて出ると、これがまた鼻緒がゆるんでいて、馬鹿に歩きにくい。それでもまあ我慢して、路の悪いところを飛びとびに……。」 「まったくあの辺は路が悪いな。」と、奥野は彼を取りなすように言った。 「御存じの通りですから、実に歩かれません。」と、藤次郎も言訳らしく言った。「おまけに真っ暗と来ているので、今の二人はどっちの方角へ行ったのか判らなくなってしまいました。それでもいい加減に見当をつけて、川岸づたいに歩いて行くと、あすこに長徳院という寺があります。その寺門前の川端をならんで行くのが、どうも伊八とお園のうしろ姿らしいのです。」 「暗やみで能くそれが判ったな。」と、秋山はなじるように訊いた。 「あとで考えると、それがまったく不思議です。そのときには男と女のうしろ姿が暗いなかにぼんやりと浮き出したように見えたのです。」 「ほんとうに見えたのか。」 「たしかに見えました。」  藤次郎は小声に力をこめて答えたが、その額には不安らしい小皺が見えた。       三 「それじゃあ仕方がねえ。その暗いなかで二人の人間の姿がみえたとして、それからどうした。」と、秋山は催促するように又訊いた。 「わたくしは占めたと思って、そのあとを付けて行きました。」と、藤次郎は答えた。「伊八とお園は長徳院の前から脇坂の下《しも》屋敷の前を通って柳島橋の方へ行く。川岸づたいの一本道ですから見はぐる気づかいはありません。あいつら一体どこへ行くのか、妙見さまへ夜詣りでもあるめえと思いながら、まあどこまでも追って行くと……。それがどうも不思議で、いつの間にか二人の姿が消えてしまいました。」 「馬鹿野郎。狐にでも化かされたな。」と、秋山は叱った。 「そういわれると、一言もないのですが、まさかにわたくしが……。」 「貴様は酒に酔っていたので、狐にやられたのだ。江戸っ子が柳島まで行って、狐に化かされりゃあ世話はねえ。あきれ返った間抜け野郎だ。ざまあ見ろ。」  秋山は腹立ちまぎれに、頭からこき下ろした。  その権幕が激しいので、奥野も取りなす術《すべ》もなしに黙っていると、藤次郎はいよいよ恐縮しながら言った。 「まあ、旦那。お聴きください。今もいう通り、よくよく考えてみると、暗いなかで見えたのが不思議で、見えない方が本当なのですから、わたくしも今さら変な心持になりました。ひょっとすると、畜生めらにやられたのじゃあないかと、眉毛を濡らしながらそこらを見まわしても、あたりは唯まっくらで、なんにも見えません。」 「あたりめえよ。」と、秋山は又叱った。 「仕方がなしにすごすご引揚げて、もとの長徳院のあたりまで帰って来ると、なにかそこらがそうぞうしくって、大勢が駈けて行くようですから、ボヤでも出しゃあがったかと思って、通りがかりの者に訊いてみると、いやどうも驚きました。町と村との境いにある小川のふちに、助蔵のせがれの伊八が斬られて死んでいるというのです。わたくしも呆気《あつけ》に取られながら、すぐに其の場へ飛んで行くと、伊八はまったく死んでいました。近所の者が集まってわやわや言っているのを掻き分けて、その死骸をあらためてみると、伊八は鎌のようなもので頸筋を斬られているのです。兄貴も鎌で殺され、弟も同じような刃物で斬られている。しかもその死んでいる場所が、兄貴の殺されたのと同じ所だというので、みんなも不思議がっているのです。その知らせに驚いて、助蔵の夫婦もかけつけて来ましたから、わたくしは其の女房のおきよを取っ捉まえて、本人の家へ引摺って行ってきびしく取調べると、幾らかしっかり者でもさすがに気が顛倒しているとみえて、案外にすらすらと白状してしまいました。  やっぱり旦那方の御鑑定通り、伊兵衛を殺したのは甚吉の仕業と判っているのですが、今さら甚吉を科人《とがにん》にしたところで、死んだ我が子が生き返るわけでもないから、いっそ慾にころんだ方が優《ま》しだと考えて、甚吉の家から三百両の金を貰って、弟の伊八を幽霊に仕立てたのだそうです。それでまず幽霊の正体はわかったが、さて今度は伊八の下手人です。」 「甚吉の家の奴らだろうな。」と、秋山は啄《くち》をいれた。 「誰もそう考えそうなことで、現におきよもそう言っていました。」と、藤次郎は答えた。「おきよはその三百両のうちから五十両だけを伊八に渡して、あとは裏手の空地に埋めてしまったそうです。伊八は又、その五十両を女と博奕でたちまち摺ってしまって、残りの金をわたしてくれと強請《ゆす》っても、おふくろは気が強いからなかなか受付けない。そこで、伊八は甚吉の家の方へねだりに行く。それが二度も三度もつづくので、甚吉の家でもうるさくなって、秘密を知っている伊八を生かして置いては一生涯の累《わずら》いだから、いっそ亡き者にしてしまえと、誰かに頼んで殺させたに相違ないと、おきよは泣いて訴えるのです。わたくしも先ずそうだろうと思いましたが、ただ少し不思議なことは……。そういうと又叱られるかも知れませんが、伊八とお園は川岸づたいに妙見さまの方へ行ったらしいのに、そのお園はいつの間にか見えなくなって、伊八だけがここへ来て死んでいる。勿論、わたくしが狐に化かされたとすれば仕方もありませんが、そこが何だか腑に落ちないので、念のために亀屋の方を調べてみると、お園は日が暮れてから髪なぞを綺麗にかき上げて、いつもよりも念入りにお化粧をしていたかと思うと、ふらりとどこへか出て行ったままで、いまだに帰って来ないというのです。そうなると、わたくしがお園の姿を見たというのも、まんざら狐でもないようで……。」  彼はやわらかに一種の反駁を試みた。秋山の権幕があまりに激しいので、彼は一段と恐縮したように見せながら、徐々に備えを立て直して、江戸の手先がむやみに狐なんぞに化かされて堪るものかという意味をほのめかしたのである。  秋山はだまって聴いていた。  あくる朝、奥野は藤次郎をつれて再び柳島ヘ出張すると、さらに新しい事実が発見された。お園の死骸が柳島橋の下に浮かんでいたのである。橋の袂には血に染みた鎌が捨ててあったばかりでなく、お園の袷と襦袢の袖にも血のあとがにじんでいるのを見ると、かれはまず伊八を殺害し、それからここへ来て入水《じゆすい》したものと察せられた。 「こうなると、わたくしの見たのもいよいよ嘘じゃありませんよ。」と、藤次郎は言った。 「それにしても、道連れの男は誰だ、伊八じゃあるめえ。」と、奥野は首をかしげた。 「さあ、それが判りませんね。」  伊八によく似た男といえば、兄の伊兵衛でなければならない。伊兵衛の魂がお園を誘い出して、まず伊八を殺させて、それからかれを水のなかへ導いて行ったのであろうか。藤次郎が伊八と思って尾行したのは、実は伊兵衛の亡霊の影を追っていたのであろうか。それは容易に解き難い謎である。  甚吉の家族はみんな厳重に取調べられて、父の甚右衛門は一切の秘密を白状した。それはおきよの申し口を符合していたが、伊八殺しの一件について彼はあくまでも知らないと主張していた。伊八を殺したのはお園の仕業と認めるのほかはなかった。それにしても、お園がなぜ伊八を殺したか。伊八が兄のかたきを討とうともしないで、却って仇の味方になって働いているのを、お園が憎んで殺したとも思われるが、その平生から考えると、お園の胸にそれほどの熱情を忍ばせていようとは思われなかった。藤次郎の眼に映った幻影がもし伊兵衛の姿であるとすれば、その魂が情婦の力をかりて、憎むべき弟をほろぼしたとも見られる。果してそうならば、お園は男のたましいに導かれて、一種の魔術にかかった者のように、ほとんど無意識に伊八を殺したのであろう。同じ場所に於いて、おなじ刃物を以って……。  最初の幽霊が果して偽者であったことは、おきよと甚右衛門の白状によって確かめられたが、後の幽霊が果して真者《ほんもの》であるかないかを、確かめ得るものはなかった。こういうたぐいの怪談を信じまいとする秋山も、それに対して正当の解釈をあたえることが出来ないのを残念に思った。  もう一つ、秋山を沈黙せしめたのは、伝馬町の牢屋につながれている下手人の甚吉が頓死したことである。それはあたかも、かの伊八が殺されたと同時刻であった。                          昭和三年六月作「朝日グラフ」 底本:岡本綺堂読物選集5巻 異妖編下巻 昭和44年6月24日 青蛙房刊 入力:網迫+和井府清十郎 公開:2006年1月 おことわり: 「小博奕《こばくち》」に読み仮名を付した。 -----------------------------------------end------------------------------------