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綺堂ディジタル・アーカイヴ




つぎは綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。 入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。



如皐と黙阿弥
           岡本綺堂
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 少し調べたいことがあって、古い歌舞伎新報を繰っているうちに、明治二十五年九月の部に行き当った。その時の歌舞伎座では新作の「仕立卸薩摩上布」(五大力の実録)と「世話情浮名横櫛《よわなさけうきなのよこぐし》」を上演していたのである。その薩摩上布については別に云うこともないが、今更の様に「浮名横櫛」の正本を繰返して読んでいるうちに――その時は源氏店《げんやだな》の一幕を演じただけで、歌舞伎新報のもその一幕の正本しか載っていなかった――自分が若い時に西田菫坡老人や条野採菊老人から聞かされた瀬川如皐《じよこう》の話を思い出した。
 「浮名横櫛」と「うはばみお由」と「佐倉宗吾」とが如皐一代の傑作であることは云うまでもない。併しこの劇通の諸老人の説によると、如皐はその当時、時代物の作者として知られていた人で、一口に一番目物は如皐、二番目物は新七(黙阿弥)と云われていた。その如皐が世話狂言を書いたと云うので、観客も少し不安に思っていると、それが案外の成功でびっくりさせられたという。  併しこの作の面白いのは、木更津の浜辺と源氏店の妾宅との二幕で、その他は唯、ゴタゴタするばかりで江戸前のすっきりした気分に乏しい嫌いがある。そのときに蝙蝠安《こうもりやす》を勤めた仲蔵の「手前味噌」にも、如皐は文車の講釈種に拠って書き下したのを、それでは面白くないと云って、与三郎を勤める八代目団十郎やお富を勤める梅幸等が相談の上で、しん生の人情話を基にして稽古の時に改作したと書いてある。生世話の狂言を人情話に拠らないで、講釈種に拠つたと云うのを見ても、如皐という人の作風が想像される。彼はどこまでも時代物式の重苦しい作風の人であった。
 その一例として、かの源氏店で有名な与三郎の台詞《せりふ》の中に「その白化か黒塀の、格子づくりの囲い者は、死んだと思ったお冨とは、お釈迦様でも御存じあるめえ。」とある。それを如皐は「格子づくりの囲い女は」と書いた。八代目がそれを見て、囲い女と云っては与三郎らしくないと云うと、如皐は五七の調子の都合でそう書いたと云う。八代目は笑って「師匠は江戸ッ子のようでもない。たとい囲い者はと書いてあっても、口で云うには囲いもなア[#「囲いもなア」に傍点]と詰めて云うに決まっているから、ちっとも五七の調子に差支えない。」と答えたと云う話が伝えられている。成ほど「囲い女」は面白くない。これを見ても如皐と云う人は飽までも一番目式の作者であったと云うことが判る。それと同時に、一言一句の事となおざリ雖も等閑《なおざり》にすべきものでないと云うことも身にしみて考えられる。
 「浮名横櫛」の正本全部を読んだ人は十分に気がつくであろうが、大体に於てそれが非常に長い、むしろ冗漫に傾いていると云う嫌いがある。この作に限らず、如皐という人は根気の好い綿密な作者で、どの作も皆な長いのを以て有名である。如皐さんのものは何うも長くて困ると、その当時でも、楽屋内一般の評であった。で、何の狂言の時であったか忘れてしまったが、小団次が彼の正本の長いのを恐れて、一つの狂言は横書(横綴にした脚本)七十丁を越ゆべからずという制限を加えた。その正本が脱稿して、いざ本読になると、やはり長い。どうも制限の七十丁を超過しているらしいので、本読が済んだ後に小団次は彼に向って「如皐さん、ちょいと正本《ほん》を見せて下さい。」と云うと、如皐は何か曖昧《あいまい》な挨拶をして、慌ててその正本を風呂敷に包んでしまおうとするので、此方はいよいよ怪しんで、無理にその正本をうけ取ってみると、成ほど約束通りの七十丁には出来あがっているが、紙を小さく剪って其処にも此処にも一面に貼り足してあって、その実際の分量は矢はり八九十枚に達していることが判ったので、小団次も思わず噴き出したという。あまり綿密なのがわずらいをなして、彼の書く芝居は、何時もこんなに長くなるのであった。
 江戸時代の狂言作者といえば、すぐに放縦懶惰な生活を連想させるが、江戸末期の二大作者であった如皐も黙阿弥もみな小心な謹直家であった。かの鍋島の猫騒動は如皐の書下しである。これを書くにあたって、如皐はその妖猫の崇りをひどく恐れたが、座元から強いられて余儀なく筆を執った。その初日の幕間に、如皐が土間に来ている知人のところへ挨拶にゆくと、誰が投げたのか一つの猪口《ちよこ》が飛んで来て、彼の顔に中《あた》って少しばかり血が滲んだので、彼はおどろいた。その晩に家へ帰ると、留守の間に女房が気絶したというのである。夕方の薄暗がりに女房が台所の引窓をあけると、上から大きい猫が口をあいて睨んでいたので、びっくりして気を失ったと云うのである。その話を聴いて、如皐はいよいよ顫《ふる》えあがって、それから気病みで床について、化猫の狂言興行中は劇場へ立入らなかったと云う。この時代の劇場関係者に通有の迷信も手伝っているには相違ないが、いかに彼が小心の神経家であったかと云うことが知られるではないか。
 これに似寄った話は黙阿弥にもある。四谷怪談と小幡小平次とを兄妹に仕組んだ「雨夜鐘四谷怪談」という草双紙を柳下亭種員が書いて大層売れた。ところが、これを書くと何かの崇りがあるという伝説に脅かされて、種員は二編まで書くと病気になった。そのあとを頼まれて、黙阿弥が書きつづけることになると、これも忽ち病気に罹《かか》ったので、黙阿弥はおどろいて直ぐに断わってしまった。結局そのお鉢が仮名垣魯文に廻ったが、魯文は物に頓着しない男であったから、何の祟りもなしに書きつづつけた。
 話にだんだんと枝が咲いて来たが、そのついでに黙阿弥のことに就いて、あまり世に伝わらないことを少しばかり書いてみたい。これは条野採菊老人の話であるが、黙阿弥は河竹新七と改名して立作者の地位に昇ったものの、河原崎座の座元たる河原崎権之助は新作を好まなかった。今日でも然う云う議論を唱える人が無いでもないが、彼の議論として、昔から在来りの狂言は必ず何処かに面白いところがあればこそ今日まで寿命を保っているのである。それに比較すると、海の物か山の物か判らない新狂言は甚だ危険である。何でも在来りの物さえしていれば間違いはないと云うので、彼はひどく新作を嫌った。それが為に約十年間、黙阿弥は何の仕出《しでか》すことも無しに楽屋の飯を食っていなければならなかった。本人も無論残念であったが、親類や友達からもいろいろの苦情を云い出た。甚だしいのになると、折角狂言作者になりながら芝居やを書くことが出来ない位ならいっそ作者を罷《や》めてしまえと云った。本人が書けないのではない。座元が採用してくれないのであるが、しろうと それ等の事情が局外の素人《しろうと》にはよく呑込めないで、所詮は彼に新狂言を書くだけの力が無いものと見縊《みくび》られたらしく、蔭へ廻って悪口を云う者もあり、面と向って責めた者もあった。
 黙阿弥も終にはその圧迫に堪えられなくなって来た。ある暗い夜に両国橋を渡って、薄明るい水の光を眺めた時に、人間は斯ういう時に身でも投げる料簡《りょうけん》になるのであろうと、しばらく立停ってつくづく考えた。翁はそれを後に採菊老人に語って「併し私は意気地が無いから、思い切ってとび込む気にはなれませんでした。」と云ったそうである。私はその話を更に採菊老人から聴かされた時に思わずひやりとした。意気地が無くて結構であったと思った。いや、意気地があったから飛び込まなかったのかも知れないと思った。
 白浪作者の名を謳《うた》われた黙阿弥も固より泥坊に知己のあろう筈はない。謹直な彼は博奕《ばくち》打や遊人のたぐいとは決して交際しなかった。それで何うして彼等の生活状態や彼等社会の術語などを譜《そらん》じていたかと云うと、その頃の講釈師に琴鶯というのがあった。それが博奕打のあがりで、それ等の消息を詳しく心得ていたので、黙阿弥は専ら彼に因って其材料を得たのであると云う。これも採菊老人の話である。



底本:岡本綺堂集 現代国民文学全集 角川書店版 373―374頁(昭和33年)

入力:和井府 清十郎
公開:2000年11月24日




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