inserted by FC2 system worklogo.jpg


岡本綺堂の日露戦争従軍



岡本綺堂の日露戦争従軍

日露戦争には、西南戦争(明治10年)や日清戦争(明治27年)のときもそうであったが、多くの記者が従軍した。その中には、文学者たちもいた。軍医として第2軍に参加したのは、森鴎外、同じく第二軍の従軍記者として、博文館の写真班に属したのは、田山花袋(明治4年生まれ、当時33歳)である。田山はこの戦争経験の後、いわゆる自然主義文学の旗手として活躍する。

樋口一葉が慕った、東京朝日新聞の記者である半井桃水も(おそらく第三軍乃木軍付の)従軍記者として参加している。この時、一葉はすでに病死している。

そして、若冠32歳のわが岡本綺堂も、第二軍付の従軍記者として遼東半島を這いずり回った。むろん、この他にも著名な記者もいるが、綺堂との関係では目下のところはこれらに人々に絞る。

      もくじ
      1.日露戦争と従軍記者
      2.田山花袋と森鴎外
      3.岡本綺堂の従軍記者
      4.旅順の半井桃水と新聞挿絵

    補遺.綺堂の日露戦争従軍 その2(関連画像が主)

1.日露戦争と従軍記者

司馬遼太郎・坂の上の雲、とくに3・4巻(文春文庫)は欠かせない。個人的には徹夜に近いほど熱中して読んだことを思い出す。

ryotopen0b.jpg<図>遼東半島地図 拡大図はここ(56KB)
左図中の数字は、以下の場所を示している(時計廻り)。
1.塩大澳(えんたいおう)、第二軍上陸地点
2.大連湾、青泥窪(ダルニ―、ロシア語読み)

3.旅順口

4.金州・南山付近

5.蓋平

6.大石橋

7.海城

8.遼陽


戦況
1904年(明治37年)の主要な動きを概観しておくと、

2月10日 対露宣戦布告
 23日  日韓議定書調印
 24日  第1回旅順口閉塞作戦

3月21日  第一軍、鎮南浦に上陸

5月1日  第一軍、九連城(朝鮮半島)を占領
 5日  第二軍、遼東半島上陸開始
 25日  金州・南山の戦い
 26日  第二軍、金州城を占領

6月20日  満州軍総司令部設置

7月26日  第三軍、旅順を攻撃開始

8月3日  第二軍、海城および牛荘城を占領
 10日  黄海海戦。露国旅順艦隊、旅順に遁走
 19日  第三軍、第一回旅順総攻撃開始(失敗)
 30日  第一軍・第二軍・第四軍、首山堡(遼陽の南)攻撃
30-31日  第一軍、太子河を渡河
9月1日  露軍、遼陽を退却
  4日  遼陽会戦(第一軍・第二軍・第四軍、遼陽を占領)
 19日  第三軍、第二回旅順総攻撃開始(失敗)
 21日  第三軍、二〇三高地で激戦(失敗)

10月9日  沙河会戦
  14日  沙河会戦終結(冬営準備開始)
  15日  バルチック艦隊、リバー港出発。

11月26日  第三軍、旅順総攻撃
      「白襷隊」(隊長中村覚)旅順総攻撃

12月5日  第三軍、二〇三高地占領



◇屍山血河

 従軍記者岡本綺堂と関連の深い二つの戦いについて少し見ておきたい。

●金州・南山の戦い

下記のように、従軍記者岡本綺堂の第1信が発せられ、東京日日新聞に掲載されたのは、この南山の戦いの戦後報告であった。

第二軍(奥保鞏(おく・やすかた)軍。奥は旧小倉藩の佐幕藩の出で、西南の役のときは官軍少佐)は、遼東半島への上陸後、金州・南山へ向かう。半島の突端に位置する旅順口と遼陽・奉天を分断するためである。5月26日に南山を攻撃開始。中央に第一師団(東京)、右翼に第四師団(大阪)、左翼に第三師団(名古屋)とした布陣である。左翼の第三師団に属する形で、秋山好古騎兵旅団がいる。
これに、海上から側面支援があった。金州湾から東郷艦隊が陸上に向けて砲撃を行ったのである。ほぼ1日膠着状態であったが、午後5時頃から、露軍の左翼線を集中攻撃して突破、これが露軍の全線に及んで、南山は陥落した。露軍は、混乱の中、南、つまり旅順へ退却を開始した。奥軍は、北進する。
 秋山騎兵旅団は孤軍、北進し、ロシアの騎兵団と曲家店で大規模な戦闘になった。前線で、敵弾が飛んでくる最中、民家の低い土塀の上で横になり、ブランデー杯を舐めていたという逸話がある。
<図、首山堡付近の民家の銃眼(77KB)>
秋山騎兵旅団長もこのような土塀に寝そべったかと思われる。

この1日の戦いで、死傷4300余りを出し、この数は日清戦争での全死傷者数に匹敵した。砲弾をほとんど打ち尽くして、在庫がなかったらしい。また、ロシア軍には機関銃があり、陸軍にはこれがなかったことが損傷を大きくしたようだ。露軍は近代陣地を構築しており、これにてこずった。砲塁を築き、これに覆う掩蔽部を設け、その先には地雷源を配置し、さらに鉄条網を張り巡らしていた。  絵をご覧いただくと分かるように、ほとんど樹木のない、見とおしのよい丘の、頂上付近に陣地を持つ方が、下から攻めるよりも、明らかに有利である。夜陰に紛れるか、狂気的な勇気が要る。その結果は、屍山血河であった。

●遼陽の会戦

ryoyo02.jpg<図、遼陽付近包囲図。 青が日本軍、赤が露軍の移動を示す。拡大図はここ(179KB)>

遼陽は、遼の古都でもあったが、南満州で、北の奉天に次ぐ大都会で、当時3万戸あったという。ここには、ロシア軍、クロパトキンの総司令部が置かれており、その数23万の兵力であった。遼陽市の南には太子河が流れており、自然の要塞になっている。

日本軍は14万人である。中央軍は第四軍(野津道貫)、右翼・東部戦線は第一軍(黒木為もと軍。薩摩藩出身)、左翼を第二軍(奥軍)である。第二軍は、さらに中央に第6師団(熊本)、その右に第四師団(大阪)、左翼に第三師団(名古屋)、この最左翼に秋山騎馬旅団が先行している、という布陣である。因縁のコサック騎馬兵団である、ミシチェンコ騎馬兵団と対峙することになる。

shuzanpo0a.jpg
右図は、首山堡の第6師団司令部、遠方は遼陽を望む

8月30日、第一軍・第二軍・第四軍は、首山堡(遼陽の南)の攻撃にかかる。ここが遼陽に出る砦のようになっているためと思われる。天候悪く、数日来の雨のために、雨と泥濘の中を難渋しながら行軍した。秋山騎馬砲隊の活躍があるが、橘中佐が戦死している。肉弾戦が、至るところで展開されたという。
30日から31日にかけて、奇襲作戦が展開される。右翼・東部戦線にあった第一軍約6万人が太子河を渡河する作戦に出たのであった。近衛師団、仙台師団(第二師団)、小倉師団(第十二師団)、近衛後備混成旅団という構成である。これに動揺して、9月1日、露軍クロパトキンは、遼陽を退却した。同4日、遼陽陥落。日本軍の死傷者は2万3千余名といわれた。

黒木・第一軍が、遼陽会戦の勝利をもたらしたといって良いが、しかし、東京の大本営・陸軍省では、黒木・第一軍の評判は悪かったようだ。露軍を追撃しなかったからだという。したくても、砲弾も撃ち尽してなかったためである。

<第二軍奥軍の幕僚たちの記念写真(179KB)>
前から2列目、中央に大山巌元帥(満州軍総司令官、白っぽい服)、左隣に奥第二軍大将、大山元帥より右へ5人目(二列目右より3人目)が森林太郎(鴎外)軍医監(鼻髯で黒軍服、サーベル持つ)。撮影明治38年9月23日とあるも、場所は不明




◇従軍記者の派遣

西南戦争や日清戦争を契機に新聞の発行は延びている。それほど当時の人々の耳目を集めた。新聞社・出版社としてもこの大事件を見逃すわけには行かない。

日清戦争の時には、制限がなかったようだが、一社一人が割り当てられて認められた。一人ではどうしても足りないから、地方や小さな新聞社などの名義を借りて、送り込んだもののようだ。

規則
陸軍および海軍の両「従軍記者心得」(陸軍省告示、海軍省告示)なる規則なるものまでが、この日露戦争の時には作られている。軍の方でもそれだけ準備が整ってきたというわけである。たとえば、陸軍の心得には、

「第十一條 従軍者の通信書(通信文私書電信等を総称す)高等司令部において指示せる将校の検閲を経たるのちに非ずんば之を発送することを得ず通信書には総て暗号又は符号を用ゆることを許さず」
という一文がある。
交通
 遼東半島までは船で出かけるが、その後は原則として徒歩よりほかはない。遼東半島には鉄道があったが、ロシア軍が退却するときに、機関車など主要なところは破壊して行ったらしいので、貨車を尽力で手押しして走らせるのがやっとだったらしい。一般道路や山道はむろん、徒歩か、荷物があるときは現地の苦力(クーリー)や驢馬などをチャーターしたらしい。

食事
 原則として、従軍記者には軍の管理部から米ほかが支給されたようだ。田山花袋は写真班で比較的荷物を持ってゆけるグループであるから、綺堂らとは違ったかもしれないが、米の飯に、牛缶と福神漬けの漬物が毎度の食事であったようだ。誰も、飯盒の米の半煮えには閉口したが、日常的だったらしい。また日常的には支那焼酎、黄酒(フアンチュー)、一月に一度くらいに日本の清酒などを飲んだらしい。

風呂
これには兵士も記者も困ったようだ。宿舎となったところになければ、野外戦地ではほとんど池や湧き水、川などを利用するほかはない。

携行品
下記の綺堂のところで触れる。

筆記具
記者に筆記具は欠かせない。しかし、まだ万年筆は誰も持っていなかったと、綺堂は書いている。鉛筆は心がすぐ折れて使えない。そこで、小さい毛筆をもっていき、記事も巻紙に書き付けたという。机などはないから、床や草地に腹ばいになって書き付けたようだ。

軍の全体としての従軍記者の扱いはどうかとなると、日本人記者といえども「軍夫のようなあつかいをうけた」ようだ。参謀たちは、内外の記者団をうるさがり、追い払ったという。この点、ロシア側の方が巧みであり、日本の総司令部でも数行の文章を読み上げるだけだったという。日本の戦時の公債が売れない理由となった。詳しくは、司馬遼太郎・坂の上の雲(4)151頁以下(1978、文春文庫)をご覧いただきたい。



2.田山花袋と森鴎外

田山花袋は、博文館(当時出版界や雑誌などでは一流)派遣の写真班の記者として、第二軍付きの従軍記者となった。この当時、作家としては花袋はほぼ無名である。

従軍記者田山花袋の日程とルートを手短に掲げると、3月23日東京出発、4月21日宇品出発、5月7日遼東半島の塩大澳(えんたいおう)上陸(軍の記録では5月5日とあるので、田山の班の上陸は遅れたようだ)。金洲、南山、得利寺、蓋平、大石橋の戦闘を観戦。8月20日腸チフスの疑いで海城兵站病院に入院、9月6日陥落した遼陽着。途中負傷し、9月13日大連出港、16日宇品着、9月19日新橋着。約6ヶ月にもおよぶ従軍記者(写真班)生活である。

花袋が軍医の鴎外と会うのは、宇品で出港の待機中に初対面、また遼東半島に向かう艦船中に鴎外の船室を来訪、上陸後、さらに、高熱を発し腸チフスの疑いで入院した8月20日前後に軍医・鴎外の世話を受けている。ほとんどは文学者としての誼、といっても鴎外は著名であり、花袋は作家としては当時ほぼ無名に近い。腸チフス事件は、どちらかといえば医者と患者としてである。

鴎外に会ったときに、他に誰か文学者は従軍しているかねと聞かれて、知らないと答えているので、同じ第2軍の従軍記者であって、後発組の岡本綺堂を知らなかったのは無理もない。また、その後、戦地で記者同士出会うということもなかったようだ。

田山花袋「第二軍従征記 −西南の役に戦死せる父君の霊前に献ず」(明治38年、博文館)とあり、序文の代わりに森鴎外が寄せた歌一首が掲げられている。つぎの引用はこの紀行文からのものである。

金洲陥落の直後、5月27日

「金洲の南門を右に見て十町も進むと、もう味方の死屍が路傍に転がったまゝ収容されずに残されてあるのが幾つとなく顕はれ出して、其処にも一個、彼処(かしこ)にも一個と数へて行くと、実に際限が無い。」

「一間二間と隔てず、数多の死屍(しがい)は或は伏し或いは仰向けになりつゝ横つて居るのを見ては、戦争其のものゝの罪悪を認識せずには何(ど)うしても居られぬ。殊に、砲弾に斃(たほ)れたるものゝ惨状は一層見るに忍びんので、或は頭脳骨を粉砕せられ、或は頷骨(くわんこつ)を奪ひ去られ、或は腸(はらわた)を潰裂(くわいれつ)せしめ、或は胸部を貫通する等、一つとして悲惨の極を呈して居らぬは無い。」

また、大連、青泥窪(ダルニ―)に行って束の間の休息と食事をしたときの記述(7月30日)は色彩豊かである。


3.綺堂の従軍記者

明治36年6−7月頃

従軍前の写真を見ていただくとわかるように、左腕の腕章には「東京通信社」とある。この時期、綺堂は東京日日新聞の記者であるので、これは不思議だが、一社一人の記者が原則だったためであるらしい。つまり、東日はすでに、黒田甲子郎を第一軍付の記者として派遣しており(3月17日付「特派員派遣征途に上る」の社告があるようだ)、綺堂は別の新聞社の割り当て分を借用・もらったわけである。どの社も一人では足りないから、地方の小さな新聞の名義を借りたものらしい。旅順の第三軍もあるし、東日もむろん、この2人だけの派遣ではない。同社の塚原渋柿園は、議員や外国武官らとともに戦地視察団に加わり、戦地を一周しているようだ。

担当していた東日の劇評は、三木竹二に代わりを依頼したとある。三木(木3つですね)は、森鴎外の実弟である。この関係で、第二軍の森軍医がいることも聞いてはいたと思われる。

「第二軍従軍記」を全部は読んでいないので判らないが、また、田山花袋のように詳細な日記・日誌が綺堂にはないようなので(かりに日記をつけていたとしても、大震災で焼失した恐れもある)、作品の中に登場する地名を拾い上げて、主に追ってみた。

同軍記第1信は、東京日日新聞明治36年8月14日に掲載されている。「8月1日金州に於いて」とある。
1pou.jpg
それによると、従軍記者一行30名は同年7月24日午後、宇品港を出港して遼東某地沖に幾日か海上停泊した後、上陸している。上陸地点は、管制のために明らかにしていない。田山の場合と同じような経路で、海上での数日の停泊も同じ措置だったと思われる。記事の日付から見て、7月末の上陸であった可能性が高い。

この時期、戦線は北上しており、金州の戦闘はすでに5月26日にもっとも激しかった。いわば戦後の南山を訪れる記事が、この第1信の中心である。なお、田山花袋の方は、その当時、金州盆地に突き出ている肖金山という標高100メートルばかりの丘にて終日この激戦を観戦していた。

「峰の最も高くして左に金州湾を瞰(み)、右に大連湾を望める処に白木の墓標高く立ちて此に「大日本帝国第二軍忠勇将校下士卒○骨(えいこつ)之処」と筆太に認め其の前には戦友の涙を露と手向けたる野菊桔梗の花の幾束を供へてあり其の傍らには銃を肩にしたる兵士三名立ちたり、兵士は語らず花は動かず唯真白なる蝶一羽ひら/\と右に左に飛迷ひしが軅(やが)て飛疲れて草に落ちたるは又一層(ひとしお)あはれを添えて見えにき……」

「……この辺は第一師団若しくは第四師団の兵が傷口の血を啜(すす)りて突撃を試みたる所なるべく今日こそ清げなる斯(こ)の池水も其日の夕には韓紅(からくれない)を流せしにいやと思ひ遣られ、手巾(ハンカチーフ)洗うべき手を控えぬ……」
(総ルビを外し、現代漢字に改めた個所がある)

夏草茂る、戦場を訪れたのであるから、誰しも感傷的な記事にならざるを得ないが、そのような部分を記事から拾ってみた。戦記文にありがちな表現も見られるが、色彩、皮膚感覚、季節感など手にとるように分かる表現となっているのではなかろうか。ただ、この時期は、東京日日の他の記事もまだ、「けり」とか「ありける」などの擬古文風であるので、綺堂のスタイルもそれに習っているようである。

「昔の従軍記者」『思ひ出草』(昭和12、相模書房)によると、従軍記者は大尉相当の待遇であったようだ。腰にピストル携行が認められ、雨具や雑嚢(背嚢)飯盒、水筒、望遠鏡、小さい毛筆、巻紙などを持っていたようだ。

戦地の記事を送信する方法
戦争記事は、新鮮さが命である。どこよりも先に記事にして販売しなければならない。そのためには、現地の記者の見聞した原稿をいち早く、内地の社まで送らなければならない。明治の36年頃の時期にどうやって迅速に送ったか。

第一の方法は、内地へ戻る御用船で軍事郵便として託す方法があった。しかし、荷揚げに荷卸しの期間があり、遅く、また確実に社に届くかどうかも分からない。第2は、従軍記者自らが戦地を離れ、御用船に便乗して下関まで引き返し、そこから電報または郵便による方法がある。これは、確実な通信方法ではあるが、戦線を空白にし、時間の掛かるメリットがある。第3の方法は、平壌経由で京城から電信を利用するものであるが、京城での電信が混雑していて、また検閲が厳重で使えなかったようだ。

さらに、下関から大阪までは電報によるほかなかった。長距離電話は岡山以西はまだ開通していなかったのである。そんなわけで、下関で受け取り、そこから電信を利用するというのが最も早い通信手段であったようだ。ただし、下関郵便局の電信は検閲のため遅くなり、このため岡山まで列車で出かけてそこから長距離電話で送ったというのがある。電話電報など通信料としてときに当時数万円におよぶ費用で東京の本社へ記事を送ったのだという。

◇綺堂の従軍ルート

つぎに、綺堂の作品(随筆や読物など)から、彼がいったと思われるルートを、考えられる日付にしたがって辿ってみよう。

8月初旬
「満州の夏」『猫やなぎ』

得利寺の池
蓋平
普蘭点
 吹き出し井戸の水
海城の北門外
 10日ほど滞在した。老子廟の隣が宿舎であったようだ。ここで、蛇人(蛇使い)の兄弟の少年を目撃している。この時の体験は、後に「」という作品の中で使われたもののようだ。ただし、少年兄弟ではなく、姉妹に変えてある。

遼陽の城外
 東京陵という、遼、契丹の陵墓がある。石馬、石羊の像がある。ここで不思議な伝説を宿の主人から聞いている。月夜や雨の夜には、官女が笛を吹いて現れるのだという。

8月末
「苦力と支那兵」『猫やなぎ』(初出は「苦力の話」文芸春秋昭和7年8月1日号5頁)によると、遼陽攻撃戦の半月ほど前というから8月末頃かと思われるが、鞍山店という所に居た。従軍記者一行は7名で、3人の苦力(クーリー)を荷物運搬などの雑役に雇っていた。食物その他は軍の管理部で支給されたようだ。このときに吸っていた煙草は、「朝日」ではなく「菊世界」という品柄であった。コーヒーに砂糖を入れて、飲んでいる。

  「この戦争(注・遼陽会戦)が始まると、雨は毎日降りつゞいた。満洲の秋は寒い。八月の末でも、夜は焚火がほしい位である。その寒い雨に夜も昼も湿れてゐた為に、一行のうちに風邪をひく者が多かった。」

 綺堂は、ここで9度2分の熱を出している。どうも風邪のようだが、一行から一人離れて、苦力一人とともに、またみんなの荷物を預かって、民家で休んで別行動である。目を覚ますと苦力がいない。荷物を盗み出し、逃げ出したのかと疑い、また不安に思っていると、とくに夜は寒いので管理部まで出かけて毛布を都合して来てくれたのだった。これに感謝、安堵したという話が書かれている。

 「私は感謝を通り越して、なんだか悲しいやうな心持になつた。……私たちは兎角に苦力等を侮蔑する心持がある。……自分はそんなに卑しい、浅はかな心の所有者であるかと思ふと、私は涙ぐましくなつた。」

苦力やその祖国に対する、彼らの優秀さと誠実さへの感謝・同情と将来への配慮が浮かび上がってくる文面である。

海城の北方、李家屯
城外の劉家に滞在した。

明治37年8月29日
「窯変」は、「青蛙堂鬼談」(大正14年からのシリーズで12篇)の中の一話であるが、自分の従軍経験を元にしたような展開になっている。時は、明治37年8月29日で、楊家店に居た。まだ、第2軍は遼陽攻撃の最中で、首山堡はまだ陥ちない、と本文にもある。

首山堡は、遼陽から約6キロくらいのところに位置する丘である。これを陥して、遼陽を陥落させようという戦術である。この丘を巡って9月6日に激戦があった。この戦いの後、田山は病み上がりで、海城の病舎を退院して、先行の班にここで追いつこうとしていた。

綺堂も、花袋も、ここの遼陽城の城門を見上げたことと思う。

明治37年9月8、9日
「雷雨」『綺堂むかし語り』
明治37年9月8、9日、遼陽陥落の後、南門外の迎陽子という村落という村に半月ほど滞在した。ここで激しい雷雨に出会っている。

従軍記者といえども、つねに安全な場所にいるわけではない。ある記者は撃たれて死亡し、綺堂も帽子を撃ち抜かれたと書いている。 また、綺堂が森鴎外を訪ねた、あるいは出会ったという記録はないようだ。さらに、ある本では遼陽の会戦の後の、沙河会戦までいたようにも書いているので、いつ頃まで従軍していたかは正確には分からない。




4.旅順の半井桃水と新聞挿絵

ryojyun01.jpg
半井桃水も朝日新聞社の従軍記者であった。桃水が、戦地から書きおくった絵が東京朝日新聞に何枚か掲載されている。右の絵がその内の1枚である。東京朝日新聞明治37年12月14日付。左側に立っているのが桃水自身のようである。旅順方面の絵や記事であるから、第三軍乃木軍の従軍であったと思われる。桃水が戦地でお汁粉を自ら料理しているという絵もあったが、別の記者の手になるものなので残念ながら省略する。

これより10年ほど前、樋口一葉が、麹町平河町の桃水の家を訪ねて来たときも、隣家のおかみさんから鍋を借りて、冷やかされながら、しる粉を作って一葉に振舞ったことがあった。桃水が、遥か遼東半島の地で、湯気の立つ鍋をかき混ぜながら亡き一葉を思い出したかどうか。

  もう一つの桃水の絵 (54KB) 東京朝日新聞明治37年12月12日付「死別か生別か(続)」(執筆は「11月25日夜半」とある)の記事がある

絵として掲載されたのは、写真技術によるものであろう。乾板を使っているから、割れないように運ばねばならず、その費用も高価でもあり、時間がかかるため時事性は薄れる。このために、自筆の絵を書いて、新聞社に送ったものであろう。私も、桃水の絵を見ようとは思わなかった。新聞の日付から見ると、桃水の滞在はおそく12月までにも及んでいるようだ。




◇帰路
 岡本綺堂は、7月から約4−5ヶ月におよぶ遼東半島での従軍記者生活を終える。
 九月半ば、軍の管理部に綺堂あての新聞や手紙を取に行って、8月8日付の新聞の記事にて市川左団次の死を知る。
  「左団次もとうとう死んだか。」
    ―岡本綺堂・明治劇談 ランプの下にて316頁(岩波文庫)

 日露戦争中および後、奇しくも、鴎外が賞賛したという綺堂の「天目山」と、鴎外の「日蓮上人辻説法」の脚本が、素人芝居で上演され(ていた)ることになる。彼らは、団菊左のいない歌舞伎・演劇界に帰ってゆく。



参考までに、従軍の様子や生活を扱ったものに、
森鴎外・うた日記(明治40年9月)
田山花袋「第二軍従征日記」(博文館、明治28年1月刊、菊版450頁)
同「一兵卒」(早稲田文学明治41年1月)ほか

平岡敏夫・日露戦後文学の研究上・下(1985)
写真は、
日露戰役回顧寫眞帖 : 三十周年記念 / 軍人會館事業部編 東京日日新聞社(大阪毎日新聞社、1935.3)
大本営寫真班撮影版 陸地測量部藏版・日露戦争寫真帖(小川一真出版部、1904)



綺堂事物ホームへ

(c) 2000-2001 All rights reserved. Waifu Seijyuro

inserted by FC2 system