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江戸から明治の歌舞伎場


◆江戸三座制
 
 天保の改革によって、辺鄙な浅草猿若町へ移転させられた。以降、歌舞伎の開場は幕府の許可制が取られた。つぎが、江戸三座と呼ばれる。

 中村座(堺町から移転)、市村座(葺屋町から)、森田座(木挽町から)

 この区域は、芝居町とも呼ばれる。
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図の下方の青色は、大川、中央に待乳山聖天、上方北には浅草寺が存する (嘉永6年・1853年頃の地図)

 歌川広重が描いた猿若町の夜の風景(約204KB)の浮世絵(名所江戸百景・安政三年) 影があるのが珍しい

江戸三座制は、綺堂が生まれる1982(明治5)年まで続いた。
ただし、歌舞伎がこれらの三座のみで行われていたわけではない。このほかにも、市谷八幡、芝神明、湯島天神など寺社の境内や浅草・両国などにある宮地芝居や小規模の芝居小屋があった。

◆明治の歌舞伎場の変化

つぎは、綺堂の記録による、明治の歌舞伎場の変化である。

  明治26年1月22日 浅草・鳥越座 (旧中村座) 類焼
        河竹黙阿弥 歿
  同年3月28日 市村座(猿若町から下谷二長町へ移転) 類焼
 同年 明治座 開業(旧千歳座跡地)

この時期の歌舞伎場にはつぎのようなものがあった。
  大劇場――歌舞伎座、柳盛座(新富座が一時改称)、春木座(後の本郷座の前身)、明治座

  小劇場――真砂座、柳盛座、新市村座(演技座)、三崎座、新盛座、浅草座、吾妻座(宮戸座)、常盤座、藍染座
      ―岡本綺堂『ランプの下にて』「明治26、7年(上)」(岩波文庫)198頁

当時の芝居は、早朝から開演したらしい。
綺堂も未明に起きだして出かけるが、野犬に追われ、芝居見物に出かけたとある。

芝居の合間には、”かべす”が出された。かべすとは、菓子、弁当、鮨、の略である。
  ―同上39頁

 芝居を舞台にした綺堂の作品には、役者の贔屓同士のトラブルから、上野の彰義隊で討ち死にする悲劇を描いた「権十郎の芝居」『三浦老人昔話』などがある。上野・彰義隊を抜け出して、芝居見物に行っていたのは猿若町の市村座であった。


市村座
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のぼりが掛けられているし、電柱、人車(あるいは車?)も見える。綺堂も出かけた明治40年頃の市村座 (風俗画報明治41年6月20日号)


春木座(のち、本郷座)
 本郷の、春木町1丁目8番地から同13番地および金助町38−44番地までまたがっているところにあった。明治23年6月に類焼にて焼失するも翌年洋風館にて新築。しかし、明治31年に大火にて焼失した。明治34年に再築後の本郷座の写真。『風俗画報』358号(明治40年2月25日刊)による。
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関連URL:
服部幸雄「歌舞伎の構造に見る江戸東京」『江戸東京歌舞伎考 ―江戸東京自由大学』



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