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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
 「探偵夜話」の第6話。残念ながら後掲の底本にも初出誌のデーターがない。どなたかご存知の方はお教えいただけるとありがたいです。要調査、乞う。
 食事の前後にこの作品を読まれないことをお勧めします。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 蛔 虫  ――『探偵夜話』より

             岡 本 綺 堂
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 T君は語る。

「あの時は僕もすこし面食らったよ。」と、深田君がわたしに話した。深田君自身の説明によると、かれはその晩、地方から出京した親戚のむすめを連れて向島のある料理店兼旅館へ行って、芋と蜆汁を食っていたのだというのである。親戚の娘を妙なところへ連れ込んだものだと思うが、ともかくもその説明を正直にうけ取って、仮りに親戚の娘としておく。その娘は二十歳(はたち)ぐらいで、深田君の話ぶりによるとなかなか粋な女であるらしい。
 それは九月の彼岸前で、日の中は盛夏(まなつ)のようにまだ暑いが、暮れるとさすがに涼しい風がそよそよと流れて、縁の柱にはどこから飛んで来たか機織(はたおり)虫が一匹鳴いていた。深田君はその虫の音を感に堪えたように聞いていたが、やがて一人で庭に降りた。なにか少し面白くないことがあって、いわゆる親戚の娘を座敷に置き去りにして来たのである。
 今夜はどこの座敷もひっそりして、明かるい月の下に冷々とながれている隅田川の水を眺めているのは、この家(うち)じゆうで深田君一人かと思われるくらいであった。深田君は出来そこないの謡(うたい)か何かを小声で唸りながら、植え込みの間をぶらぶら歩いているうちに、かれはたちまち女の声におどろかされた。
「あら。」
 だしぬけに金切り声を叩き付けられて、深田君はびっくりして立ち停まった。親戚の娘がさき廻りをしていて、いたずらにおどしたのかとも思ったが、そうでないことはすぐに判った。深田君をおどろかした女はやはり二十歳ぐらいで、庇(ひさし)の大きい束髪に結っていたが、そのなまめかしい風俗がどうも堅気の人間とは受け取れなかった。女の方でも深田君の姿がだしぬけにあらわれたので、思わず驚きの声を立てたらしく、急に気が付いたように言葉をあらためて謝まった。
「どうも失礼。まことにすみません。」
「いや、どうしまして。」
 言いながらよく見ると、女は色の丸顔の小作りで、まぶしそうに月明かりから顔をそむけた睫毛(まつげ)には白い露が光っていた。女はこの木のかげに隠れて一人で泣いていたらしかった。そう思うと何だか気になるので、深田君はまた話しかけた。
「いい月ですね。」
「そうでございますね。」と、女はうるんだ声で答えた。
 それがいよいよ気にかかるので、深田君は判り切っているようなことを訊いた。
「あなたお一人ですか。」
「はあ。」
「お一人ですか。」と、深田君は不思議そうに念を押した。
「はあ。」
「あなたはこの土地の人ですか。」
「いいえ。」
 若い女がただ一人でここへ来て、木のかげに隠れて泣いている。深田君はいよいよ好奇心をそそられて、どうしてもこのままに別れることが出来なくなった。もう一つには、この女がどう見ても堅気の人間でないらしいことが、深田君の心を強くひき付けた。
「お一人で御退屈ならわたしの座敷へお遊びにいらっしゃい。あなたとお話の合いそうな女もおりますから。」 「ありがとうございます。」
 もうその以上には何とも話しかける手づるがないので、深田君は心を残してかの女に別れた。二、三間行きすぎて振り返ると、女は土にひざまずいて木の幹に顔を押し付けてまた泣いているらしかった。なにぶん見逃がすことが出来ないので、深田君はまたそっと引っ返して来て声をかけた。
「あなた、どうしたんです。心持でも悪いんですか。」
 女は返事もしないですすり泣きをしていた。
「え、どうしたんです。訳をお話しなさい。あなたは一体どうして一人でここへ来ているんです。」と、深田君は無遠慮に切り込んで訊いた。「だしぬけにこんなことを言っちゃあ失礼ですけれども、一応その訳をうかがった上で、またなんとか御相談にも乗ろうじゃありませんか。あなたは一体なにを泣いているんです。」
 女は容易にすすり泣きを止めないのを、いろいろになだめてすかして詮議すると、女は上州前橋の好子(よしこ)という若い芸妓であった。土地の糸商の上原という客に連れられて、きのうの夕方東京に着いて、ゆうべは上野近所の宿屋に泊まって、きょうは浅草から向島の方面を見物して、午後三時頃にこの料理店にはいった。風呂をすませて、夕飯を食って、今夜はここに泊まるはずであったが、上原はちょっとそこまで行ってくるといって、好子を残して出たままで今に帰って来ないのをみると、自分はきっと置き去りにされたに相違ない。ここの家の勘定もまだ払っていない。自分は旅費も持っていない。どうしていいかと途方に暮れて、いっそこの川へ身でも投げてしまおうかと、さっきから庭に出て泣いていたのであると判った。
「そこで、その上原という人は何時頃に出て行ったんです。」
「五時過ぎでしたろう。」
 今夜はまだ八時を過ぎたばかりで、五時から数えてもまだ三時間を多く越えない。それですぐに置き去りと決めてしまうのは、あまりに早まっているように深田君は思った。用向きの都合では二時間や三時間を費すこともないとはいえない。その理屈をいって聞かせても、好子はなかなか承知しなかった。上原は自分を振り捨ててどこへか姿を隠したに相違ないと、泣きながら強情を張った。これには何か子細があると見て、深田君は無理に彼女をなだめて、ともかくも自分の座敷へ連れて行くと、親戚の娘も気の毒がって親切にいたわってやった。それからまただんだん問いつめて行くと、上原という男はことし卅一で、女房もあれば子供もある。ことに養子の身分で、家には養父も養母も達者である。そういう窮屈な身分で土地の芸妓と深い馴染みをかさねたのであるから、なんらかの形式で一種の悲劇が生み出されずにはすまない。家庭にはいろいろの葛藤がもつれにもつれて、結局自棄(やけ)になった彼は女を連れて養家を飛び出した。男も女も再び前橋へは帰らない覚悟であった。男は二百円ほどの金を持っていて、その金の尽きた時が二人の命の終りであるということも、お互いのあいだに堅く約束されていた。
「上原さんはきっと急に気が変わって、あたしを置き去りにして逃げたに相違ありません。」と、好子はくやしそうに泣いて訴えた。
 この場合、そうした偏僻(ひがみ)や邪推の出るのも無理はなかった。知らない東京のまんなかへ突き出されて、一緒に死のうとまで思いつめている男に振り捨てられたとなれば、定めて悲しくもあろう。口惜しくもあろう。深田君もひどく彼女の身の上に同情したが、その男が果たして変心したのかどうか、実はまだ確かに判らないのである。もし変心しないとすれば、かれらは早晩死の手につかまれなければならない。変心したとすれば、女は一人で捨てられなければならない。いずれにしても、不運は好子という女の上に付きまとっているのである。深田君はなんとかしてかの女を救ってやりたいと思った。
 男が無事に帰って来たらば、その突きつめた無分別をさとしてやろう。男が果たして帰らなかったらば、女に旅費を持たせて前橋へ送り返してやろう。深田君は二つに一つの料簡をきめて、親戚の娘と共に好子をしきりになだめていると、それから一時間ほども経つた頃に、家の女中たちが庭をさがし歩いているような声がきこえた。
「なんでも庭の方を歩いていらしったようですが……。」
「庭に出ていましたか。」と、男の不安らしい声もきこえた。
 それが好子の連れの男であることは直ぐに想像されたので、深田君は早く行けとうながしたが、好子はなぜか容易に起とうともしなかった。庭の方ではしきりに探しているらしいので、深田君は気の毒になって声をかけた。
「もし、もし、お連れの御婦人ならばここにおいでですよ。」
 その声を聞きつけて、男の方はすぐに駈けて来た。それが上原というのであろう。顔の青白い、眼の色のにぶい、なんだか病身らしい痩形の男で、深田君に丁寧に挨拶して好子を連れて行こうとすると、好子は狂女(きちがい)のように飛びかかって男の腕を強くつかんだ。
「薄情、不人情、嘘つき……。人をだまして、置き去りにして……。」
 力任せに小突きまわして、好子は噛み付きそうに男の薄情を責めた。それがヒステリーの女であることを深田君はさとった。上原という男も人の見る前、すこぶるその処置に困ったらしく、いろいろにすかして連れて行こうとしたが、好子はなかなか肯かないで、大きい庇髪(ひさしがみ)をふりくずしながら、自分の泣き顔を男の胸にひしと押し付けて、声をあげて狂いわめいた。深田君も見ていられないので、親戚の娘と一緒にそれをなだめて、どうにかこうにか座敷の外へ送り出すと、上原は詫びやら礼やらを取りまぜて、すみまぜんすみませんと繰り返して言いながら、無理に好子を引き摺るようにして、自分の座敷へ連れて行った。
「気が狂ったんでしょうか。」と、親戚の娘はほっとしたように言った。
「ヒステリーだろう。」
「だって、男が帰って来たらいいじゃありませんか。」
「そこが病気だよ。理屈には合わない。お前だって時々そんなことがあるぜ。」と、深田君は笑った。
 男が帰って来たらばその無分別を戒しめてやろうと待ちかまえていた深田君も、この騒ぎに少し気をくじかれて、今すぐに何を言っても仕方がない。男もこっちの意見を聞いている余裕はあるまい。ともかくも女のちっと落ちつくのを待って、それからおもむろに言うだけのことを言って聞かそうと思い直して、かれは良い月を見ながら酒を飲んでいた。
「あなたもあたしを置き去りにして行くと、あたしヒステリーになってよ。」と、親戚の娘は酌をしながら言った。  こっちにも少し悶着が起こっていたのであるが、よその騒ぎでうやむやのうちに納まってしまって、深田君はいい心持に酔いが廻った。青白い顔の男もヒステリーの女も、かれの記憶からだんだんに遠ざかって、とうとうそこにごろりと寝ころんでしまった。

「あなた、お起きなさいよ。大変よ。」
 親戚の娘にゆり起こされて、深田君は寝ぼけ眼(まなこ)をこすりながら顔をあげると、かれはいつの間にか蚊帳のなかに寝かされていた。枕もとの懐中時計を見ると、もう午前一時を過ぎていた。
「あなた、さっきの人が死んだんですとさ。」
「男か女か。」と、深田君はぎょっとして起き直った。
「男の人ですって……。警察から来るやら、大騒ぎですわ。」
 深田君は蚊帳を這い出して、すぐに上原の座敷へ行ってみると、座敷のなかには警部らしい人の剣の音がかっかっと鳴っていた。刑事巡査らしい平服の男も立っていた。蚊帳はもうはずしてあった。二つならべてある一方の蒲団の上には、寝みだれ姿の好子が真っ蒼な顔をして坐っていた。深田君は廊下からそっと覗いているのであるから、その以上のありさまはうかがい知ることが出来なかった。死人の姿は見えなかった。
 家の女中達もみな起きて来て、遠くから怖そうにうかがっていた。その中に深田君の座敷を受持ちの女中もいたので、一体どうしたのかと訊いてみると、今から小一時間も前に、この座敷でけたたましい叫び声がきこえた。不寝番がおどろいて駈け付けると、男は蒲団から転げ出して死んでいた。女は魂のぬけたような顔をしてその死骸をぼんやりと見つめていた。女のいうところによると、二人ともに眼が冴えて寝付かれないので、夜のふけるまで起き直って話していると、男は突然に空をつかんでばったり倒れてしまった。事実は単にそれだけで、彼女は出張の警官に対してそう申し立てたのである。しかしそこには何か不審の点があるらしく、女はなお引きつづいて警官の取り調べを受けているのであった。
 その話を聞いているうちに、刑事巡査らしい平服の男が廊下へ出て来て、深田君のたもとを軽くひいた。
「あなた、ちょいと顔を貸してくれませんか。」
「はい。」
 かれに誘われて、深田君は庭に出ると、明かるい月は霜をふらしたような白い影を地に敷いて、四つ目垣に押っかぶさっている萩や芒(すすき)の裾から、いろいろの虫の声が湧き出すようにきこえた。その葉末の冷たい露に袖や裾をひたしながら、二人はならび合って立った。
「あなたは今夜あの女にお逢いだったそうですね。」と、男は言った。「あなたはお一人ですか。」
 いわゆる親戚の娘を連れているだけに、こういう取り調べを受けるのは深田君に取ってすこぶる迷惑であったが、よんどころなしに何もかも正直に申し立てると、男は一々うなずいて聞いていた。
「すると、あの男と女は心中でもしそうな関係になっているんですね。」
「まあ、そうらしいんです。わたくしも意見してやろうと思っているうちに、つい酔つ払って寝込んでしまって……。」
「そうでしょう。お連れがありますから。」と、男はひやかすように言った。「男の死体は医師が一応調べたんですが、脳貧血、脳溢血、心臓麻癖、そんな形跡は少しも見えないで、どうも窒息して死んだらしいという診断です。男の喉のあたりには薄い爪の痕が二、三カ所残っています。そうすると、どうしても女に疑いがかかる訳ですが、女はなんにも知らないとばかりで、ちっとも口を明かないんです。一体あの女は気が少しおかしいんじゃありませんかしら。」
「御鑑定の通りです。あの女はどうもヒステリー患者だろうと思われます。」
「そうでしょう。」
 男はしばらく黙って考えていた。深田君も黙っていた。さっきのありさまから想像すると、女はあくまでも自分を置き去りにしたように男を怨んで、ヒステリー的の激しい発作(ほつさ)から突然に男の喉を絞めたのではあるまいか。男の喉に爪のあとが残っているというのが疑いもない証拠である。それでも深田君は念のために訊いた。 「で、なにか紛失品はなかったんですか。」
「それも一応取り調べたんですが、別に紛失したらしい物品もないようです。あの二人は小さい信玄袋のほかにはなんにも持っていないんですから。」と、男は説明した。「いや、あなたのお話でもう大抵判りました。ついては幾度もお気の毒ですが、あの座敷の方へもう一度行ってくれませんか。」
 重々迷惑だとは思ったが、深田君はそのいうがままに再びもとの座敷へ引っ返して来ると、好子はやはりおとなしく坐っていた。なにを訊いても固く唇を結んでいるので、警部も持て余しているらしかった。刑事巡査らしい男は深田君を案内して、好子の眼の前へ連れ出した。
「おい。いつまで世話を焼かせるんだ。」と、彼はさとすように好子に言い聞かせた。「おまえはこの人を知っているだろう。お前はゆうべこの人の見ている前で、上原という男にむしり付いたというじゃないか。」
「人を置き去りにしようとしたからです。」と、好子はほろほろと涙を流した。
「それが嵩じて、ここでも上原に武者ぶり付いたんだろう。もとより殺す気じゃなかったんだろうが、夢中で絞め付けるはずみに相手の息を止めてしまったんだろう。え、そうだろう。正直に言わないじゃいけない。」
「そんなことはありません。」
「だって、ほかに誰もいない以上は、お前が手を出したと認めるよりほかはない。お前はどうしても知らないと強情を張るのか。」
「知りません。」
 男は深田君の方を見返って、なにか言ってくれと眼で知らせるらしいので、深田君はいよいよ迷惑した。しかしどう考えても、好子がその加害者であるらしいので、かれも一応の理解を加えてやろうと思った。
「好子さん。さっきは失礼しました。上原さんというかたはどうも飛んだことでしたね。一体どうしてこんなことになったんでしょう。あなたが傍にいてなんにも知らないはずはないでしょう。上原さんの喉には爪のあとが付いていたというじゃありませんか。」
「どうだか知りません。」と、好子はまた泣いた。
 男をうしなった悲しみの涙か、男を殺した悔みの涙か、その白いしずくの色を見ただけでは深田君には判断が付かなかった。
「今もいう通り、あなたが上原さんを殺す気でないことは判っています。」と、深田君はまた言った。
「勿論、あなたが上原さんを殺すはずがありません。しかし物事には時のはずみということがあります。時のはずみで心にもない事件が出来(しゆつたい)する例はたくさんあります。あなたが腹立ちまぎれに上原さんの胸倉でもつかんで、それがなにかのはずみで……。ねえ、そんなことじゃないんですか。それならば早く正直に言った方があなたのためです。もともと殺す料簡でしたことではない、あなたと上原さんとはまた特別の関係にもなっているんですから、別に重い罪にもなるまいと思われますが……。」
 噛んでふくめるように言って聞かせても、好子はどうしても白状しなかった。しまいには声をあげて泣くばかりであった。もう仕方がないので、警官は彼女を警察へ引致(いんち)しようとすると、好子は気違いのようにまた叫んだ。
「どうしてもあたしを人殺しだというんですか。あたしがなんで、上原さんを……。あたしはそんな女じゃありません。上原さん、上原さん。あなた後生(ごしよう)ですから、もう一度生き返って来て、あたしのあかしを立ててください。それでなければいっそあたしを殺してください。上原さん、上原さん。あなたとうとうあたしを置き去りにして行ったんですね。置き去りにした上に、あたしをこんな目に逢わせるんですか、上原さん……。」
 好子は声のつづく限り、悲しげな叫びをあげながら曳かれて行った。

 好子が出て行ったあとで、深田君も悲しい暗い心持になった。宵に自分が他愛なく酔い倒れてしまわなければ、このわざわいを未然に防ぎ止めることが出来たかも知れない。自分の不用意のために、見す見すかの男と女とを暗いところへ追いやってしまったのである。そうした悔恨に責められながら彼はぼんやり起ち上がろうとすると、どうしたはずみか彼は一方の蒲団の端につまずいて、足の爪さきに蛇のようなぬらぬらしたものを踏みつけた。時が時だけに彼はひやりとして、あわてて電灯の光りに透かしてみると、それはみみずの太いようなものであった。上原の死体はさきに警察に運び去られていたが、その敷き蒲団の下にこんな薄気味のわるい虫がひそんでいたことを誰も発見しなかったのであろう。深田君は身をかがめてよく見ると、虫はもう死んでいた。それは一尺ほどの蛔虫であった。
 深田君も子供の時にたびたび蛔虫に悩まされた経験があるので、ひと目見てそれが蛔虫であることをすぐに覚った。ここに一匹の蛔虫が横たわっている以上、それが人間の口から吐き出されたに相違ないと思った。上原の病身らしい顔付きから想像して、彼が蛔虫の持ち主であることも考えられた。
「いいものを見付けた。なにかの証拠になるかも知れない。」
 かれはその蛔虫をハンカチーフに包んで、すぐに警察へ持って行った。

「話はこれっきりだ。」と、深田君は言った。「この蛔虫一匹で万事が解決してしまったんだよ。好子は結局無関係とわかって放還された。」
「じゃあ、上原という男はどうして死んだのだ。蛔虫に殺されたのか。」と、わたしは訊いた。
「まさにそうだ。僕も毎々経験したことがあるが、蛔虫という奴は肛門から出るばかりじゃない、喉の方からも出ることがある。僕も叔母の家へ遊びに行っている時に、口から大きい奴を吐き出して、みんなを驚かしたことがあった。上原もその蛔虫に苦しめられていて、その晩も口から一匹吐き出した。つづいてもう一匹出ようとする奴を、女の手前無理にのみ込もうとしたらしい。一旦出かかった虫は度を失って、もとの食道へは帰らずに気管の方へ飛び込んで、それから肺へ潜(もぐ)り込んで、かれを窒息させてしまったのだ。こんな例はまあ珍らしい。最初に一匹吐き出したのを、女が早く見つけていたら、飛んだ冤罪を受けずとも済んだかも知れなかったが、男がそっと隠してしまったのでちっとも気が付かなかったらしい。僕が提出した蛔虫が証拠となって、結局その死体を解剖すると、気管の奥からも大きい蛔虫が発見されて、ここに一切の疑問が解決されることになったのだ。上原の喉の傷は、その前に好子に引っ掻かれたのか、あるいは本人が蛔虫を吐き出す苦しまぎれに自分で掻きむしったのか、どっちにしても死因がすでに判明した以上は深く穿索すべき問題でもあるまい。上原という男は可愛い女を置き去りにして、蛔虫と一緒に死のうとは、その一刹那まで夢にも思っていなかったろう。一寸さきは闇の世の中……むかしの人は巧いことを言ったよ。」
 深田君は今更らしい嘆息をした。




底本:岡本綺堂読物選集第6巻 探偵編
昭和44年10月10日発行 青蛙房
入力:和井府 清十郎
公開:2002年12月9日





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