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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。「蟹」は『青蛙堂鬼談』シリーズの第8作品です。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 蟹《かに》  ――『青蛙堂鬼談』より

             岡本綺堂
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         一

 第八の女は語る。

 これはわたくしの祖母から聴きましたお話でございます。わたくの郷里は越後の柏崎で、祖父の代までは穀屋《こくや》を商売にいたして居りましたが、父の代になりまして石油事業に関係して、店は他人に譲ってしまいました。それを譲り受けた人もまた代替りがしまして、今では別の商売になっていますが、それでも店の形だけは幾分か昔のすがたを残していまして、毎年の夏休みに帰省しますときには、いつも何だか懐かしいような心持で、その店をのぞいて通るのでございます。
 祖母は震災の前年に七十六歳で歿しましたが、嘉永《かえい》元年|申《さる》歳の生れで、それが十八の時のことだと申しますから、多分慶応初年のことでございましょう。祖母はお初と申しまして、お初の父――すなわちわたくしの曽祖父《ひいじじい》にあたる人は増右衛門、それがそのころの当主で、年は四十三四であったとか申します。先祖は出羽《でわ》の国から出て来たとかいうことで、家号は山形屋といっていました。土地では旧家の方でもあり、そのころは商売もかなり手広く遣っていましたので、店のことは番頭どもに大抵任せて置きまして、主人とは言いながら、曽祖父の増右衛門は自分の好きな俳諧をやったり、書画骨董などをいしくったりして、半分は遊びながらに世を送っていたらしいのです。そういう訳でしたから、書家とか画家とか俳諧師とかいう人達が北国の方へ旅まわりをして来ると、きっとわたくしの家へ草鞋《わらじ》をぬぐのが習で、中には二月も三月も逗留して行くのもあったといいます。
 このお話の時分にもやはり二人の客が逗留していました。ひとりは名古屋の俳諧師で野水《やすい》といい、一人は江戸の画家で文阿《ぶんあ》という人で、文阿の方が二十日《はつか》ほども先に来て、ひと月以上も逗留している。野水の方はおくれて来て、半月ばかりも逗留している。そこで、なんでも九月のはじめの晩のことだといいます。主人の増右衝門が自分の知人でやはり俳諧や骨董の趣味のあるもの四人をよびまして、それに、野水と文阿を加えて主人と客が七人、奥の広い座敷で酒宴を催すことになりました。  呼ばれた四人は近所の人たちで、暮六つ頃にみな集まって来ました。お膳を据える前に、先ずお茶やお菓子を出して、七人が色々の世間話などをしているところへ、ぶらりと尋ねて来たのは坂部与茂四郎《よもしろう》という浪人でした。浪人といっても、羊羹色の黒羽織などを着ているのではなく、なか/\立派な風をしていたそうです。
 御承知でもございましょうが、江戸時代にはそこらは桑名藩の飛地《とびち》であったそうで、町には藩の陣屋がありました。その陣屋に勤めている坂部与五郎という役人は、年こそ若いが大層評判がよい人であったそうで、与茂四郎という浪人はその兄《あに》さんに当るのですが、子供のときから何うもからだが丈夫でないので、こんにちでいえばまあ廃嫡というようなわけになって、次男の与五郎が家督を相続して、本国の桑名からここの陣屋詰めを申付かって来ている。
 兄さんの与茂四郎は早くから家を出て、京都へ上って或る人相見のお弟子になっていたのですが、それがだんだんに上達して、今では一本立の先生になって諸国をめぐりあるいている。人相を見るばかりでなく、占いも大層上手だということで、この時は年ごろ三十二三、やはり普通の侍のように刀をさしていて、服装《みなり》も立派、人柄も立派、なんにも知らない人には立派なお武家様とみえるような人物でしたから、なおさら諸人が尊敬したわけです。
 その人が諸国をめぐって信州から越後路へ這入って、自分の弟が柏崎の陣屋にいるのをたずねて来て、しばらくそこに足をとめている。曽祖父の増右衛門もふだんから与五郎という人とは懇意にしていましたので、その縁故から兄さんの与茂四郎とも自然懇意になりまして、時々はこちらの家へも遊びに来ることがありました。それで、今夜も突然にたずねて来たのです。こちらから案内したのではありませんが、丁度よいところへ来てくれたといって、増右衛門はよろこんで奥へ通しました。
「これはお客来の折柄、とんだ御邪魔をいたした。」と、与茂四郎は気の毒そうに座に着きました。
「いや、お気の毒どころではない、実はお招き申したい位であったが、御迷惑であろうと存じて差控えておりましたところヘ、折よくお越しくだされて有難いことでございます。」と、増右衛門は丁寧に挨拶して、一座の人々をも与茂四郎に紹介しました。勿論そのなかには、前々から顔なじみの人もありますので、一同うちとけて話しはじめました。
 よいところへ好い客が来てくれたと主人は喜んでいるのですが、不意に飛び入りのお客がひとり殖えたので、台所の方では少し慌てました。前に申上げた祖母のお初はまだ十八の娘で、今夜のお給仕役をつとめる筈になっているので、なにかの手落ちがあってはならないと台所の方へ見まわりに行きますと、お料理はお杉という老婢《ばあや》が受持ちで、ほかの男や女中達を指図して忙しそうに働いていましたが、祖母の顔をみると小声で言いました。
「お客様が急に殖えて困りました。」
「間に合わないのかえ。」と、祖母も眉をよせながら訊きました。
「いえ、ほかのお料理はどうにでもなりますが、たゞ困るのは蟹でございますよ。」
 増右衛門はふだんから蟹が大好きで、今夜の御馳走にも大きい蟹が出る筈になっているのですが、主人と客をあわせて七人前の積りですから、蟹は七匹しか用意してないところヘ、不意にひとりのお客が殖えたので何うすることも出来ない。
 出入りの魚屋《さかなや》へ聞きあわせにやったが、思うようなのがない。なにぶんにも物が物ですから、その大小が不揃いであると甚だ恰好が悪い。あとできっと旦那様に叱られる。台所の者もみな心配して、半兵衛という若い者がどこかで見付けて来るといってさっきから出て行ったが、それもまだ帰らない。その蟹の顔を見ないうちは迂闊《うかつ》にほかのお料理を運び出すことも出来ないので、まことに困っているとお杉は顔をしかめて話しました。
「まったく困るねえ。」と、祖母もいよいよ眉をよせました。ほかにも相当の料理が幾品も揃っているのですから、いっそ蟹だけを省いたら何うかとも思ったのですが、なにしろ父の増右衛門が大好きの物ですから、迂闊にはぶいたら機嫌を悪くするに決まっているので、祖母もしばらく考えていますと、奥の座敷で手を鳴らす声がきこえました。
 祖母は引返して奥へゆきますと、増右衛門は侍ちかねたように廊下へ出て来ました。
「おい、なにをしているのだ。早くお膳を出さないか。」
 催促されたのを幸いに、祖母は蟹の一件をそっと訴えますと、増右衛門はちっとも取合いませんでした。
「なに、一匹や二匹の蟹が間に合わないということがあるものか。町になければ浜じゅうをさがしてみろ。今夜はうまい蟹を御馳走いたしますと、お客様達にも吹聴《ふいちよう》してしまったのだ。蟹がなければ御馳走にならないぞ。」
 こう言われると、もう取付く島もないので、祖母もよんどころなしに台所へまた引返して来ると、台所の者はいよいよ心配して、彼の半兵衛が帰って来るのを今か今かと首をのばして待っているうちに、時刻はだんだん過ぎてゆく。奥では焦《じ》れて催促する。  誰も彼も気が気でなく、唯うろうろしているところへ、半兵衛が息を切って帰って来ました。それ帰ったというので、みんながあわてて駈け出してみると、半兵衛はひとりの見馴れない小僧を連れていました。小僧は十五六で、膝っきりの短い汚れた筒柚を着て、古い魚籠《さかなかご》をかかえていました。それをみて皆なも先ずほっとしたそうです。
 その魚駕籠のなかには、三匹の蟹が入れてあったので、こっちに準備してある七匹の蟹と引きあわせて、それに似寄りの大きさを一匹買おうとしたところが、その小僧は遠いところからわざわざ連れて来られたのだから、三匹をみんな買ってくれというのです。  何分こっちも急いでいる場合、かれこれと押問答をしてもいられないので、その言う通りに皆な買って遣ることにして、値段もその言う通りに渡してやると、小僧は空の籠をかかえてどこかへか立去ってしまいました。「先ずこれでいい。」皆なも急に元気ガ出て、すぐにその蟹を茹《ゆ》ではじめました。

      二

 お酒が出る、お料理がだんだんに出る。主人も客もうちくつろいで、いい心持そうに飲んでいるうちに、彼の蟹が大きい皿の上に盛られて、めいめいの前に運び出されました。
「先刻も申上げた通り、今夜の御馳走はこれだけです。どうぞ召上ってください。」
 こう言って、増右衛門は一座の人達にすすめました。わたくしの郷里の方で普通に取れます蟹は、俗にいばら[#「いばら」に傍点]蟹といいまして、甲の形がやや三角形になっていて、その甲や足に茨《いばら》のような棘《とげ》がたくさん生えているのでございますが、今晩のは俗にかざみ[#「かざみ」に傍点]といいまして、甲の形がやや菱形になっていて、その色は赤黒い上に白い斑《ふ》のようなものがあります。海の蟹ではこれが一等旨いのだと申しますが、わたくしは一向存じません。
 なにしろ今夜はこの蟹を御馳走するのが主人側の自慢なのですから、増右衛門は人にもすすめ自分も箸を着けようとしますと、上座に控えていた彼の坂部与茂四郎という人が急に声をかけました。
「御主人、しばらく。」
 その声がいかにも仔細ありげにきこえましたので、増右衝門も思わず箸をやめて、声をかけた人の方をみかえると、与茂四郎は額に皺をよせて先ず主人の顔をじっと見つめました。それから片手に燭台をとって、一座の人たちの顔を順々に照らしてみた後に、ふところから小さい鏡をとり出して自分の顔をも照らして見ました。そうして、しばらく溜息をついて考えていましたが、やがてこんなことを言い出しました。
「はて、不思議なことがござる。この座にある人々のうちで、その顔に死相のあらわれている人がある。」
 一座の人たちは蒼《あお》くなりました。人相見や占いが上手であるという此人の目から、まじめにこう言い出されたのですから驚かずにはいられません。どの人もただ黙って与茂四郎の暗い顔からだを眺めているばかりでした。お給仕に出ていた祖母も身体中が氷のようになったそうです。
 すると、与茂四郎は急に気がついたように祖母の方へ向き直りました。この人は今まで主人と客との顔だけを見まわして、この席でたった一人の若い女の顔を見落していたのです。それに気がついて、さらに燭台をその祖母の顔の方へ差向けられたときには、祖母はまったく死んだような心持であったそうです。それでも祖母には別に変ったこともないらしく、与茂四郎もだまってうなずきました。そうして、またしずかに言いました。
「折角の御馳走であるが、この蟹にはどなたも箸をお着けにならぬ方が宜しかろう。そのままでお下げください。」
 してみると、この蟹に仔細があるに相違ありません、死相のあらわれている人は誰であるか。あらわにその名は指しませんけれども、主人の増右衛門らしく思われます。殊に祖母には思いあたることがあります。というのは、前から準備してあった七匹の蟹は七人の客の前に出して、あとから買った一種を主入の膳に付けたのですから、その蟹に何かの毒でもあるのではないかとは、誰でも考え付くことです。
 主人もそれを聴いて、すぐにその蟹を下げるように言い付けましたので、祖母も心得てその皿をのせたお膳を片付けはじめると、与茂四郎はまた注意しました。
「その蟹は台所の人たちにも食わせてはならぬ。みなお取捨てなさい。」
「かしこまりました。」
 祖母は台所へ行ってその話をしますと、そこにいる者もみな顔の色を変えました。とりわけて半兵衛は、その蟹を自分が探して来たのですから、いよいよ驚きました。そこで念のために家の飼犬を呼んで来て、主人の前に持出した蟹を食わせてみると、たちまちに苦しんで死んでしまったので、みんなもぞっとしました。それから近所の犬を連れて来て、試しにほかの蟹を食わせてみると、これはみな別条がない。こうなると、もう疑うまでもありません。あとから買った一匹の蟹に毒があって、それを食おうとした主人の顔に死相があらわれたのです。
 与茂四郎という人のおかげで、主人は危いところを助かって、こんな目出たいことはないのですが、なにしろこういうことがあったので一座もなんとなく白けてしまって、酒も興も醒めたという形、折角の御馳走もさんざんになって、どの人もそこそこに座を起《た》って帰りました。
 お客に対して気の毒は勿論ですが、怪しい蟹を食わされて、あぶなく命を取られようとした主人のおどろきと怒りは一通りでありません。台所の者一同はすぐに呼び付けられて、きびしい詮議をうけることになりましたが、前に言ったようなわけですから誰も彼もただ不思議に思うばかりです。ともかくも半兵衛は当の責任者ですから、あしたは早朝からその怪しい小僧を探しあるいて、一体その蟹をどこから捕って来たかということを詮議するはずで、その晩はそのまま寝てしまいました。
 小僧は三匹の蟹を無理に売り付けて行ったのですから、まだ二匹は残っています。これにも毒があるか無いかを試してみなければならないのですが、もう夜もふけたので、それも明日のことにしようといって、台所の土間の隅にほうり出しておきますと、夜の明けないうちに二匹ながら姿を隠してしまいました。死んでいると思っていた蟹が実はまだ生きていて、いつの間にか這い出したのか、それとも犬か猫がくわえ出したのか、それも結局わかりませんでした。
 一体、蝦《えび》や蟹のたぐいにはどうかすると中毒することがあります。したがって、その蟹に毒があったからといって、さのみ不思議がるにも及ばないのかも知れませんが、この時には主人をはじめ、家《うち》じゅうの者がみな不思議がって騒ぎ立っているところヘ、残った二匹もゆくえ知れずになっだというので、いよいよその騒ぎが大きくなりまして、半兵衝は伊助という若い者と一緒に早朝からかの小僧のありかを探しに出ました。
 半兵衛は勿論、台所に居あわせた者のうちで誰もその小僧の顔を見知っている者がないのです。浜の漁師の子供ならば、誰かがその顔を見しっていそうなはずであるから、あるいはほかの土地から来た者ではないかともいうのです。こんな事があろうとは思いもよらず、暗い時ではあり、こっちも無暗に急いでいたので、実はその小僧の人相や風体を確に見とどけてはいないのですから、こうなると探し出すのが余ほどの難儀です。
 その難儀を覚悟で、ふたりは早々に出てゆくと、そのあとで主人の増右衛門は陣屋へ行って、坂部与五郎という人の屋敷をたずねました。兄さんの与茂四郎に逢って、ゆうべはお蔭さまで命拾いをしたという礼をあつく述ぺますと、与茂四郎は更にこう言ったそうです。
「まずまず御無事で重畳《ちようじよう》でござった。但し手前の見るところでは、まだまだほんとうに、禍《わざわい》が去ったとは存じられぬ。近いうちには、御家内に何かの禍がないとも限らぬ。せいぜい御用心が大切でござるぞ。」
 増右衛門はまたぎょっとしました。なんとかしてその禍を攘《はら》う法はあるまいかと相談しましたが、与茂四郎は別にその方法を教えてくれなかったそうです。ただこの後は決して蟹を食うなと戒めただけでした。
 大好きの蟹を封じられて、増右衛門もすこし困ったのですが、この場合、とてもそんな事をいってはいられないので、蟹はもう一生たべませんと、与茂四郎の前で誓って帰ったのですが、どうも安心が出来ません。といって、どうすればよいということも判らないのですから、家内の者に向ってどういう注意をあたえることも出来ない。それでも祖母だけには与茂四郎から注意されたことをささやいて、当分は万事に気をつけろといい聞かせたそうです。
 一方の半兵衛と伊助は早朝に出て行ったままで、午頃《ひるごろ》になっても帰らないので、これもどうしたかと案じていると、九つ半――今の午後一時頃だそうでございます――頃になって、伊助ひとりが青くなって掃って来ました。半兵衛はどうしたと訊いても、容易に返事が出来ないのです。その顔色といい、その様子をみて、みんなはまたぎょっとしました。

      三

 ぼんやりしている伊助を取りまいて、大勢がだんだん詮議すると、出先でこういう事件が出来《しゆつたい》していることが判りました。
 半兵衛はゆうべ家をかけ出して、ふだんから懇意にしている漁師の家をたずねたのですが、どこの家にも蟹がない。いばら[#「いばら」に傍点]蟹や高足蟹があっても、かざみ[#「かざみ」に傍点]が無い。それからそれへと聞きあるいて、だんだんに北の方へ行って、路ぱたに立っている彼の小僧を見つけたのでした。
 それですから、きょうも伊助と二人連れで、ともかくも北の方角――出雲崎の方角でございます――を指して尋ねて行きましたが、ゆうべの小僧らしい者の姿を見ない。知らず識らずに進んで鯖石川《さばいしがわ》の岸の辺まで来ますと、御承知かも知れませんが、この川は海へ注《そそ》いで居ります。その海寄りの岸のところに突っ立って水をながめている小僧、そのうしろ姿が何うもそれらしく思われるので、半兵衛があわてて追っかけました。
 一方は海、一方は川ですから、ほかに逃げ道もないと多寡《たか》をくくって、伊助はあとからぷらぶら行きますと、真先にかけて行った半兵衛はその小僧をうしろから掴まえて、なにかひと言ふた言いっていたかと思ううちに、どうしたのかよく判りませんが、半兵衛はその小僧にひき摺られたように水のなかへ這入ってしまったのです。
 それをみて、伊助もびっくりして、これも慌ててその場へ駈け付けましたが、半兵衛も小僧も水に呑まれたらしく、もうその姿がみえないのです。いよいよ驚いてうろたえて、近所の漁師の家へかけ込んで、こういうわけで山形屋の店の者が沈んだから早くひき揚げてくれと頼みますと、わたくしの店の名はここらでも皆知っていますので、すぐに七八人の者をよび集めて、水のなかを探してくれたのですが、二人ともに見つからない。なにしろ川の落ち口で流れの早いところですから、あるいは海の方へ押やられてしまったかも知れないというので、伊助も途方に暮れてしまいましたが、今更どうすることも出来ません。ともかくも出来るだけは探してくれと頼んで置いて、そのことを注進するために引返して来たというわけです。
 家の者もそれを聴いて驚きました。取分けて主人の増右衛門は彼の与茂四郎から注意されたこともありますのでいよいよ胸を痛めて、早速ひとりの番頭に店の者五六人を付けて、伊助と一緒に出して遣りました。画家の文阿も出て行きました。
 前にも申上げた通り、わたくしの家には俳諧師の野水と画家の文阿が逗留していまして、野水はそのとき近所へ出ていて留守でした。文阿は自分の座敷にあてられた八畳の間で絵をかいていました。文阿は文晃《ぶんちよう》の又弟子とかにあたる人で、年は若いが江戸でも相当に名を知られている画家だそうです。
 主人は蟹が好きなので、逗留中に百蟹の図をかいてくれと頼んだところが、文阿は自分の未熟の腕前ではどうも百蟹はおぼつかない。せめて十蟹の図をかいてみましょうというので、このあいだからその座敷に閉じ籠って、色々の蟹を標本にして一心にかいているのでした。その九匹はもう出来あがって、残りの一匹をかいている最中にこの事件が出来《しゆつたい》したので、文阿は絵筆をおいて起《た》ちました。
「先生もお出《い》でになるのですか。」と、増右衛門は止めるように言いました。
「はあ。どうも気になりますから。」
 そう言い捨てて、文阿は大勢と一緒に出て行って仕舞ました。しいて止めるにも及ばないので、そのまま出して遣りますと、それを聞き伝えて近所からもまた大勢の人がどやどやと付いてゆく。漁師町からも加勢の者が出てゆく。どうも大変な騒ぎになりましたが、主人はまさかに出てゆくわけにも参りません、家にいてただ心配しているばかりです。
 祖母をはじめ、ほかの者はみな店の先に出て、そのたよりを待ちわびていますと、そこへ彼の坂部与茂四郎という人が来ました。途中でその噂を聴いたとみえまして、半兵衛の一件をもう知っているらしいのです。
「どうも飛んだことでござった。御主人はお出かけになりはしまいな。」
「はい、父は宅に居ります。」と、祖母は答えた。それで先ず安心したというような顔をして、与茂四郎は祖母の案内で奥へ通されました。
「どうも飛んだことで……。」と、与茂四郎はかさねて言いました。「しかし、たといどんなことがあろうとも、御主人はお出かけになってはなりませぬぞ。」
「かしこまりました。」と、増右衛門は謹んで答えました。「家内に何かの禍があるというお諭《さと》しでござりましたが、まったく其通りで驚き入りました。」
「お店からはどなたがお出《い》でになりましたな。」
「番頭の久右衛門に店の者五六人を付けて出しました。」
「ほかには誰もまいりませぬな。」と、与茂四郎は念を押すようにまた訊きました。
「ほかには絵かきの文阿先生が……。」
「あ。」と、与茂四郎は小声で叫びました。「誰かを走らせて、あの人だけはすぐに呼び戻すがよろしい。」
「はい、はい。」
 おびえ切っている増右衛門はあわてて店へ飛んで出て、すぐに文阿先生をよび戻して来い、早く連れて来いと言い付けているところへ、店の者のひとりが顔の色をかえて駈けて掃りました。
「文阿先生が……。」
「え、文阿先生が……。」
 あとを聴かないで、増右衛門はそのまま気が遠くなってしまいました。今日でいえば脳貧血でしょう。蒼くなって卒倒したのですから、ここにまたひと騒動おこりました。すぐに医師をよんで手当をして、幸いに正気は付いたのですが、しばらくはそつと寝かしておけということで、奥の一間へかつぎ入れて寝かせました。内と外とに騒動が出来《しゆつたい》したのですから、実に大変です。
 そこで、一方の文阿先生はどうしたのかというと、大勢と一緒に鯖石川の岸へ行って、漁師たちが死体捜索に働いているのを見ているうちに、どうしたはずみか、自分の足もとの土がにわかに崩れ落ちて、あっという間も無しに、文阿は水のなかへ転げ込んでしまったのです。
 ここでもまたひと騒ぎ出来《しゆつたい》して、漁師たちはすぐにそれを引き揚げようとしたのですが、もうその形が見えなくなりました。半兵衛のときはともかくも、今度はそこに大勢の漁節や船頭も働いていたのですが、文阿はどこに沈んだか、どこへ流されたか、どうしてもその形を見つけることが出来ないので、大勢も不思議がっているばかりでした。その報告をきいて、与茂四郎は深い溜息をつきました。
「ああ、手前がもう少し早く参ればよかった。それでも御主人の出向かれなかったのが、せめてもの仕合せであった。」
 そう言ったぎりで、与茂四郎は帰ってしまいました。主人の方はそれから一刻《いつとき》ほどして起きられるようになりましたが、文阿と半兵衛の姿はどうしても見付かりません。そのうちに秋の日も暮れて来たので、もう仕方がないとあきらめて、店の者も漁師達も残念ながら一と先《ま》ず引揚げることになりました。それらが帰って来たので、店先はごたごたしている。祖母も店へ出て大勢の話を聴いていますと、奥から俳諧飾の野水が駈け出して来まして、誰か早く来てくれというのです。
 野水という人はもう少し前に帰って来て、自分の留守のあいだに色々の事件が出来しているのに驚かされて、その見舞ながら奥へ行って主人の増右衛門と何か話していたのです。それがあわただしく駈け出して来たので、大勢はまたびっくりしてその子細を聞きますと、唯今御主人と奥座敷で話しているうちに、何か庭先でがさがさというような音がきこえたので、なに心なく覗いてみると、二匹の大きい蟹が縁の下から這い出して、こっちへ向って鋏をあげた。それを一目みると、御主人は気をうしなって倒れたというのです。  それは大変だと騒ぎ出して、またもや医師を呼びにやる。それからそれへと色々の騒動が降って湧くので、どの人の魂も不安と恐怖とに強くおびやかされて、なんだか生きている空もないようになってしまいました。それは薄ら寒い秋の宵で、その時のことを考えると今でもぞっとすると、祖母は常々言っていました。
 まったくそうだったろうと思いやられます。増右衛門は医師の手当で再び正気に戻りましたが、一日のうちに二度も卒倒したのですから、医者はあとの養生が大切だと言い、本人も気分が悪いと言って、その後は半月ほども床に就いていました。
 二匹の蟹はほんとうに姿をあらわしたのか、それとも増右衛門のおびえている眼に一種の幻影をみたのか、それは判りません。しかし本人ばかりでなく、野水も確かに見たというのです。ゆうべから行方不明になっている二匹の蟹があるいは縁の下に隠れていたのではないかと、大勢が手分けをして詮索しましたが、庭の内にはそれらしい姿を見いだしませんでした。家が大きいので、縁の下はとても探し切れませんでしたから、あるいは奥の方へ逃げ込んでしまったのかも知れません。
 今日の我々から考えますと、どうもそれは主人と野水との幻覚らしく思われるのですが、一概にそうとも断定のできないのは、ここにまた一つの事件があるのです。前にも申した通り、文阿は十蟹の図をかきかけて出て行ったので、その座敷はそのままになっていたのですが、あとであらためてみると、絵具皿は片端から引っくり返されて、九匹の蟹をかいてある大幅の上には、墨や朱や雌黄《しおう》やいろいろの絵具を散らして、蟹が横這いをしたらしい足跡が幾つも残っていました。してみると、彼の二匹の蟹が文阿のあき巣へ忍び込んで、その十蟹の絵絹の上を踏み荒したようにも思われます。
 それから一週間ほど過ぎて、文阿と半兵衛の死骸が浮ぎあがりました。ふたりともに顔や身体の肉を何かに啖《く》い取られて、手足や肋《あばら》の骨があらわれて、実にふた目とは見られない酷《むご》たらしい姿になっていたそうです。漁節達の話では、おそらく蟹に啖われたのであろうということでした。
 これでともかくも二人の死骸は見付かりましたが、かの小僧だけは遂にゆくえが判りません。誰に訊いても、ここらでそんな小僧の姿を見た者はないから、多分ほかの士地の者であろうというのです。大方そんなことかも知れません。まさかに川や海の中から出て来たわけでもありますまい。
 増右衛門はその以来、決して蟹を食わないばかりか、掛軸でも屏風でも、床の間の置物でも、莨《たばこ》入れの金物でも、すべて蟹にちなんだようなものは一切取捨ててしまいました。それでも薄暗い時などは、二匹の蟹が庭先へ這い出して来たなどと騒ぎ立てることがあったそうです。海の蟹が縁の下などに長く棲んでいられるはずはありませんから、これは勿論、一種の幻覚でしょう。

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底本:岡本綺堂 影を踏まれた女 光文社文庫 昭和63年十月二十日初版
入力:清十郎

公開:2001年9月10日




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