もくじ ・『電報をかける』表現の変遷はいつか? ・『歌舞伎では拍手しなかった』 ・江戸・明治の湯屋・風呂 ――石榴口 ・「彼=彼女」表現について (このページ) もくじ ・「彼=彼女」表現について ・明治初中期文学に見る彼(かれ)、彼の女、彼女(かれ)表現の変遷について ・岡本綺堂における彼・彼女(かれ)表現について ・半七捕物帳「帯取の池」の怪 ◆「彼=彼女(かれ/かのをんな)」表現について 「彼(あ)の娘はどこへいった」 (例1) 「ねえ、そこの彼女! お茶しない?」 (例2) 彼女は、いつから“かのじょ”だったか? わたしたちは、西洋言語のおかげ(?)で、she her her hers に当たる「彼女(の)」を使うようになって、もともと日本語に存在していたような意識である。でも、明治初・中期の作品や文章を読むと、意外に「彼女」は使われていないのである。 しかし、変遷も著しい。上の例2は三人称がついに、二人称として、呼びかけにも使われるという次第。そして、小指と同じ意味の、恋人・愛人を意味することもある。 言語学者ではないので、分からないし、不確かだが、「彼女(かのじょ)」と今日私たちが使っているのは、三人称の人称代名詞で、あの女を指す。これは、西洋語とくに英語あたりの、she/her あたりから、日本語へなだれ込んできた、つまり移入された可能性が強い。 それにも段階があって、西洋語の女性にかかわる三人称人称代名詞を、初期の段階では「彼の女(かのおんな)」と言っていた時期があり、ついで、次第に「彼女(かのじょ)」と音読みにして用いることが一般的になっていったのではないか、と思われる。ささやかな実証と例証は、下記に示す。 (○ご注意! 以下のコラムは、駄じゃれですので、本筋へまっすぐ行きたい方は飛ばしてください。切に過去への愛惜モードで書いております。笑) ミニドラマ 「彼女!」 こんなことを調べたって何になるかって? 自分でもときどき自分を省みてそう思う。体(てい)のいい時間(ひま)つぶしではないかと。人生なんてたいていそんなものさ。しかし、もっとはたらきなさいよ、という細君の声も響いてきそうである。ねぇ、彼女! で、ときどきある僕んちの会話をつぎに示して幾ばくかの、心の煩悶ロンダリング(浄化?)をしたい。 「言語学者や学者さんだって、こんなことをしているんだよ」と僕。 「あなたねぇ」と反論始まる。あぁ、ひよどり越え!怒涛の進撃がなだれをうって開始された…。もう僕は海の藻屑、になる。 「あの人たちはそれでお金になるのよ。業績になるの。あなたは趣味でしょ、趣味ーっ!」 「だって、人はパンのみにて生くるにあらず、とも言うだろ。この表現がいつ頃から用いられ始めたか分かったらさぁ、明治の初期の芝居やドラマで“彼女”は用いられないだろ。」 「それは三谷さんに任せておけばいいじゃない。そこの彼、ちったぁ、お皿くらい洗ったらどう!」 僕は、仕方なくパソコンの電源を切り、夕食後の台所へ向かった。あとちょっとで原稿は完成するところだったのに。汚れた茶碗に皿。苦しみは駆け足でやってくる、なんて。調味料に使って、絞りきったハウスの新鮮組が転がっていた。わさび風に緑色だけど、この中身、たいていはホースラディッシュが混じっているんだぜ。赤いローストビーフに白いホースラディッシュの辛味、ちょっといいんだ。三谷幸喜さんは「新撰組!」のハンサム隊士沖田総司に「彼女」なんて言わせないでほしいな。 彼女というと落ち着いた気分になれない。当たり前だろうけど、長く生きれば恥ばかり多くなる。 それにしても、○△子ちゃん、今もどこかで元気だろうか。あの輝ける瞳、くちびる。やさしき指。よみがえる青春。あのとき彼女に、勇気をもってああ言い、彼女がええと答えたもうておれば、このような姿はなかったろうに!反実仮想。 あぁ、彼女は彼(かれ)の女になっていた。スッカタなかんべ。 「ねぇ、明日の夕ご飯、何にする?」 「え…?」 さっき今日の夕食食べたばかりでしょ。そんな先のことは分からないな…。この油のついたフライパン洗うの好きじゃない。 「久しぶりに、カレーでどう?」 「う、ぅん。彼女のかれー、というわけだ! うまく落ちがついたね。」 「何か、云った?!」 「いや、何も。」 「ほら、タイガース、1点入れられたわよ。」 GS(ガソリンスタンドじゃぁなくて…グループ・サウンズ)の時から、タイガーズはタイガースだったものな。ジュリーが来るって言うんで、補導と警察の目を掻い潜って公演会場の△×体育館に出かけた、前の(あまた)前…の彼女の行動ときたら。僕たち、つまり僕と彼女の、二人だけの世界がまずあって、それ以外にはあの時にはなかったと前提されていたはずなんだ。確かに。改札を通る濃紺のセーラー服、白いソックス、朝の空気に揺れる黒髪が、赤い定期入れを胸のポケットにしまう。ホームに近づいてくる通勤列車に線路際のコスモスが揺れていた。けれども別の世界(コスモス)があり、そこにいる男が僕より優先するなんて、ちょっと、しっと、だったな。バイバイ、あの頃……。こすもす、彼女、自同律。 ◆明治初中期文学に見る彼(かれ)、彼の女、彼女(かれ)表現の変遷について やや伝統的というか日本文学風の作家の場合には、三人称で女性を表現することはごく少ないといえる。尾崎紅葉、幸田露伴などはそうである。伝統的な日本語の用法には「彼女」表現は無かったのである。 明治期の、西洋言語に明るい作家においてすら、「彼女」表現は少ない。むろん時代が下がってくれば別であるが。とくに、森鴎外、夏目漱石の場合はこのことがいえる。森鴎外は「彼女」ではなく、「彼を以て彼女を指す」時代の中にある。 この点で、二葉亭四迷は露語の翻訳などでも知られるので彼女表現を用いていてもよさそうなのだが、作品全部を調べたわけではないが、二葉亭・長谷川があまり「彼女」表現を用いていないのは、やはり驚きである。 やや時代が下がる、泉鏡花の作品には、すべてを調べたわけではないものの、まず「彼女」という表現は出て来ない。日本の伝統の中での描写には、「彼女」は埒外だったわけであろう。 「彼女を彼とする」表現は、伊藤左千夫の次の作品にも現われている。 ○伊藤左千夫 「奈々子」 1909年・明治42年「アララギ」に発表(同9月)
といいつついきなり父に取りつく。奈々子が菓子ほしい時に、父は必ずだっこしろ、だっこすれば菓子やるというために、菓子のほしい時彼はあっこあっこと叫んで父の膝に乗るのである。」 ○尾崎紅葉 金色夜叉 前編(1897・明治35年―1902年作) 格子を明けているのは女性で、紳士がそれを待って入ろうとしているところである。
ただ、「彼女(かのをんな)」(ルビ付)表現も見られるのである。
○森鴎外 舞姫 (1890・明治23年作) 翻訳家でもあって、西洋言語にはちとうるさい、観潮楼主人こと鴎外先生の表現を見てみよう。独逸語に倣って、彼、彼女くらい使っていそうなものだが。しかし、代表的いくつかの作品中には「彼女」の表現は見当たらなかった。 エリス、マイらぶ!
彼とはエリスでなければならぬ・・・。 だから、つぎの「彼」を男性代名詞と考えて読むと、大変な?ことになる。
ここでも彼とはエリスである。でも、たはむれに彼を男として読むと、別の味わいが出てくるねぇ! 男とおとこ! 英語の権威でもある、夏目漱石 「 坊っちゃん」(○年)を調べてみたら、なんと「彼」は2箇所のみで、「彼女」表現はまったくない。たしかマドンナとか清ばあさん、とかでてくるけど、彼女(かのじょ)という表現は使わなかった。 ○夏目漱石「三四郎」 明治41・1908年作 「彼女」表現は、「かのおんな」という読みかな付きで、つぎの一箇所にしか登場しない。では、「彼女(かのじょ)」を表現するとき、夏目やその時代にはどうしていたか?が疑問となる。
「そういうこともある。しかしよくわかったとして、君、あの女の夫(ハスバンド)になれるか」 三四郎はいまだかつてこの問題を考えたことがなかった。美禰子に愛せられるという事実そのものが、彼女(かのおんな)の夫(ハスバンド)たる唯一(ゆいいつ)の資格のような気がしていた。言われてみると、なるほど疑問である。三四郎は首を傾けた。 「野々宮さんならなれる」と与次郎が言った。 「野々宮さんと、あの人とは何か今までに関係があるのか」 このあたりから、「彼の女」の始まりだろうか。彼(かれ)の女ではなく、彼(か)の女である。 ○漱石 草枕 1906・明治39年 つぎの1個所にのみ「彼女」あり。 「山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。 智(ち)に働けば角(かど)が立つ。情(じょう)に棹(さお)させば流される。」 熊本・小天温泉での例の池のシーンである。
「彼女」の例 ○有島武郎 「或る女 前編」 1911−13(明治44−大正2)年作
○堺枯川利彦 「獄中生活」 () 堺は、九州福岡の出身で、東京で新聞記者や、平民新聞、社会主義で有名である。綺堂と時代的にはほぼ重なり合う。
六月二十日午前五時、秋水のいわゆる「鬼が島の城門のような」巣鴨監獄の大鉄門は、儼然として、その鉄扉を開き、身長わずかに五尺一寸の予を物々しげにこの社会に吐き出した。 あああ、これで久しぶり天下晴れて話ができる。(中略) 間もなく杉村縦横君が自転車を走らせて来てくれた。つづいては筒袖の木下君、大光頭の斎藤君などを初めとして、平民社の諸君、社会主義協会の諸君などが二十人あまり押寄せた。最後に予の女児真柄が、一年五個月の覚束なき足取にて、隣家のおばさんなる福田英子氏と、親戚のおじさんなる小林助市氏とに、両手をひかれながらやって来た。予は初めて彼が地上を歩むを見た。そして彼はすでに全く予を見忘れていた。」 娘と再会するシーンだが、娘は「彼」と表現されている。 まとめ: ・伝統的には、日本語に彼女(かのじょ)という表現はなかった。 ・彼(か)、彼(か)の女、から、次第に音読みの「彼女(かのじょ)」へ、転変してきた。 ・また、その時期は、明治30-40年頃であると推測される。 上で検索したファイルは、いずれも青空文庫で公開されている作品である。デジタル化されて、このあたりが大変便利になった。利用させていただいたフリーライダーとして、ここに記して感謝申し上げます。 ◆岡本綺堂における彼・彼女(かれ)表現について −とくに「半七捕物帳」(大正5年―)「帯取の池」を中心として 岡本綺堂は、一貫して「彼女(かのじょ)」を用いていない、「彼(か)の女」「彼(かれ)」(女性を指す)派である。と、私は浅い読書歴から思い込んでいて、三人称女性を「かれ」と表現する時代(と、綺堂における仮説として)をいつか調べてみようと思っていた。それで、上のようなことまでしたわけである。 ところが、今日一般的な文庫版の「半七捕物帳」を取り出して読み直していると「彼女」表現が結構出てきているではないか。びっくりしてしまった。ただし、ルビは振っていない。現代の本で彼女に「かのじょ」とルビを振るのは、小学生向けなど特別の必要がある場合だけであろう。つまり、私たちは、「彼女=かのじょ」の世界にいるのである。 シリーズ第8作目は「帯取(おびとり)の池」である。光文社時代文庫の「半七捕物帳(一)」(1985、初版)の199頁(二の少し前である)では、
とある。光文社文庫が参考もしくは底本にしたと思われる、旺文社文庫版(一)193頁(1977)も、これとまったく同じである。岡本綺堂集(現代国民文学全集22)(角川書店)252頁、筑摩書房版半七捕物帳巻の一(今井金吾註解、1998.6)と手当たり次第に見てみても、まったく同じ文章となっている。 私の仮説はもろくも崩れたわけであった。ところが、幸いなことに、初出誌の『文芸倶楽部』(24巻1号40−65頁)のコピーを持っていたことを思い出した。コピーをひっくり返して、上の箇所を見ると、つぎのようにあった。
と総ルビであった。明らかに「彼女」は「かれ」であった。綺堂の場合は、ルビはたいてい本人が付けていたらしいから、綺堂もそのように読んだのであると思われる。 表現は「彼女」なのだが、まだ「かれ」と読んでいるわけである。今日の文庫版にはルビはないから、現代の読者は「かのじょ」と頭の中で読んでいるのである。ただし、筑摩書房版半七捕物帳巻の一(今井金吾註解、1998.6)221頁と春陽堂文庫版半七捕物帳(三)は「彼女」に「かれ」とルビを振っていた。目に付いたところではこれだけである。 綺堂は、彼女と書いてはいるが、私たちが今日読むように「かのじょ」と読むのではなく、「かれ」と読んでいたのである。 そこで、このような表現が当時一般的だったかどうかが気になるところである。少し調べて傍証をえた。須藤南翠の新聞小説「闇のうつゝ」(東京朝日新聞明治39年10月22日分より)である。 全編を通して読んだ訳ではないので不案内だが、東京にいる男(芳樹)には好きあっている女(操子(みさこ))がいるが、郷里にはまた継母が世話する許婚の女性がいるという話のようで、近いうちに男が郷里へ一時帰省するという、二人にははたまらい状況のようである。操子は芳樹にその愛の確かさを確認する……。
「其の通りぢやありませんか、貴下(あなた)こそ人の心を弄(もてあそ)ばうとなさるのだわ」 「ま、ま、少し聴いて頂きたい、少し」と甚(ひど)く咳き込むで「園子は継母の姪です。僕は彼(かれ)に対して少しの愛も持たんです」 「どういふものですかねえ」 南翠先生は、歌舞伎芝居で同席する新聞記者仲間で、綺堂からみると新聞社は違うものの大先輩である。新聞小説家でもあった。芳樹は郷里の許嫁の園子のことを「彼」と三人称で呼んでいるのである。そして、愛を持つ・・・と表現している。「僕は彼女(かのじょ)を少しも愛しとらんです」というだろう、今では。 ついでながら、彼は、芳樹に婚姻についてつぎのように言わせている。明治中期当時の若者の気分というものを感じることが出来るかもしれない。
◆半七捕物帳「帯取の池」の怪 偶然とは恐ろしいもので、半七捕物帳シリーズでの「彼女」を表現を調べていたら、「帯取の池」作品で奇妙なことに出くわした。文章がない!のである。先に引用した「彼女をまず絞め殺して置いて、それからその死体を…」には主語がない。もしくは省略されている。あるとすれば、「犯人は…」くらいであろうか。 現在の文庫版や筑摩書房版半七捕物帳巻の一(今井金吾註解、1998.6)221頁にも主語はなかった。これくらいなくても文意は通じる。むろん、そうかもしれない。ちなみに、問題の文章を含む段落はつぎのようになっている。
近所の人達もおどろいて駈け付けると、娘のおみよは奥の六畳間に仰向けさまに倒れていた。それを聞いて家主も駈け付けた。やがて医師も来た。医師の診断によると、おみよは何者かに紋め殺されたのであった。更に不思議なことは、おみよは阿母と一緒に家を出た時と同じ服装《みなり》をしているにも拘らず、その麻の葉の帯が見えなかった。彼女をまず絞め殺して置いて、それからその死体を適当の位置に据え直して行ったことは、その死にざまのちっとも取り乱していないのを見てもさとられた。」 おみよは畳の上に仰向けに倒れて横たわっていた。医師は絞め殺されたと診断した。出かける時に絞めていた、麻の葉の帯がなくなっていた、のである。ここまでだと、いわゆる着衣に乱れがあるぐらいの状況かなと思ってしまう。ところが、次の文章では、おみよの死にざまはちっとも取り乱していない、といっているのである。これはなんだか変である。文章の流れ・描写としては乱れがある様に書いて乱れがないといっているので、ちと短兵急過ぎるのである。 この印象が何処から来るかが分かった。一文章がない、のである。初出誌の『文芸倶楽部』24巻1号46頁では、つぎのようになっている。
赤い色で示した上の文章が欠落しているのである。念のため、左の画像も参照してください。該当する同誌46頁の上段の一部である。 なるほど、これなら前後の事情が飲み込める気がする。 念のため「白博多の細い平ぐけ」とは、白博多織の、帯心を入れずに平たくくけた幅の狭い帯のことだそうだ。 さて、なぜこの文章が抜けた、あるいは削除されたかだが、可能性としては、 (1)校正段階で脱落した (2)作者綺堂自身が(単行本や文庫化に際して)削除した あたりが考えられる。 (1)は、文庫本でも多い。綺堂のほかの作品でも一文がなかったり、語法・用法が変られていたりするのは、わずかな経験から言ってもザラ(よくあるの)である。たとえば、上の例でも
解決策としては、文庫本の底本(参考にした原典)が何か・どれか、を明らかにすることであろう。現在出されている多くの文庫本には、残念ながら依拠した本の表記がない。文庫本の出版社には、この辺の改善をお願いしたい。それがせめてもの、著作権の切れた作家の作品を出版する上での礼儀だろうと思われる。 つぎに、(2)については、綺堂さん本人が編集・校正した時期の本を探して、照合することである。旺文社文庫版に書かれている解説は岡本経一さんによるものだが、半七の初期7編を最初に出したのは、平和出版社(大正6年)であるようだ(旺文社文庫版半七捕物帳(一)368頁)。ただ、「帯取の池」は8作目なので、これには収録されていない。ついで、「半七聞書帳」として隆文館が出している。春陽堂は、半七捕物帳前期45編を上下巻で昭和4年に出しているので、このあたりが参考になろう。 なお、綺堂自身による「半七捕物帳」全編にわたる大改定がなされたのが、昭和3年である。これは春陽堂の出版のためであるので、このあたりが大いに参考になろう。初出誌の文芸倶楽部では時代が「文久元年の三月初旬」となっていた(41頁)が、このときの改訂によって「安政六年の三月はじめ」となった。 どれに依拠したらよいのか。初出誌のオリジナルか、はたまた改訂後のものか、気になるところである。わずかな違いをさも針小棒大のように、あるいは鬼の首でもを取ったかのように、あげつらって言っていると思われてもつまらないので、どなたか上の版をお持ちの方は、「帯取の池」だけでもお調べいただいて、お教えくださるとありがたいです。 とくに出版社・編集者の方への要望 1.上に触れたものの他に、題名の「帯取りの池」はいけない。オリジナルでは「帯取の池」である。帯取は、市ヶ谷の月桂寺の西、旧尾州家中屋敷の下にある池を指しているので、固有名詞であるから、送りかなの「り」は不要だろう。「鳥取り」とするだろうか。旺文社、光文社の文庫本は訂正が必要だと思う。 2.文庫本などにするときに現代表記に直されるのは、現代の読者への配慮してのことだと思われるが、オリジナルや底本をどのように改めたのか分かるように、後記にでも記してほしい。最低、岩波文庫がやっているような、方針と注意書きが必要と思われる。 なお、「帯取の池」全編にわたって照合してみたわけではありません。上に触れた点についてのみです。まだ相違は出てくるかもしれませんね。 |