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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。つぎに説明がありますように『探偵夜話』は『青蛙堂鬼談』から発展したものです。これはその第一話です。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




火薬庫――『探偵夜話』より
             岡本綺堂
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      一

 例の青蛙堂《せいあどう》主人から再度の案内状が来た。それは四月の末で、わたしの庭の遅桜《おそざくら》も散りはじめた頃である。定刻の午後六時までに小石川《こいしかわ》の青蛙堂へ着到《ちやくとう》すると、今夜の顔ぶれはこの間の怪談会とはよほど変つてゐた。例に依《よつ》て夜食の御馳走《ごちそう》になつて、それから下《した》座敷の広間に案内されると、床の間には白い躑躅《つつじ》があつさりと生けてあるばかりで、彼《か》の三本足の蝦蟇《がま》将軍はどこへか影を潜《ひそ》めてゐた。紅茶一杯を啜《すす》り終つた後《のち》に、主人は一座にむかつて改めて挨拶《あいさつ》した。
「先月、第一回のお集りを願ひました節は、あいにくの雪でございましたが、今晩は幸ひに晴天でまことに結構でございました。今晩お越しを願ひました皆様のうちには、前回とおなじお方もあり、また違つたお顔も見えて居ります。そこで、かう申上げると、わたくしは甚《はなは》だ移り気な、倦《あき》つぽい人間のやうに思召《おぼしめ》されるかも知れませんが、わたくしは例の怪談研究の傍《かたわ》らに探偵《たんてい》方面にも興味を持ちまして、此頃《このごろ》はぼつ/\その方面の研究に取りかゝつて居ります。勿論《もちろん》、それも怪談に縁のないわけではなく、いはゆる怪談と怪奇探偵談とは、そのあひだに一種の聯絡《れんらく》があるやうにも思はれるのでございます。わたくしが探偵談に興味を持ち始めましたのも、つまりは怪談から誘ひ出されたやうな次第でありまして、あながちに本来の怪談を見捨てゝ、当世流行の探偵方面に早変りをしたと云ふわけでもございませんから、どうぞお含み置きを願ひたいと存じます。就《つ》きましては、今晩は前回と違ひまして、皆様から興味の深い探偵物語をうけたまはりたいと希望して居りますのでございますが、如何《いかが》でございませうか。」
 青蛙堂鬼談が今夜は青蛙堂探偵談に変らうといふのである。この註文《ちゆうもん》を突然に提出されて、一座十五六人はしばらく顔をみあはせてゐると、主人はかさねて云つた。
「勿論《もちろん》、こゝにお集まりの方々のうちに本職の人のゐないのは判《わか》つて居りますから、当節の詞《ことば》でいふ本格の探偵物語を伺《うかが》ひたいと申すのではございません。今晩は単に一種の探偵趣味の会合として、さういふ趣味に富んだお話を聴かして下されば宜《よろ》しいので、何も人殺しとか泥坊とかいふやうな警察事故に限つたことではないのでございます。そこで、どなたからと申すよりも、矢はり前回の先例に倣《なら》ひまして、今晩は先《ま》づ星崎さんから口切りを願ふわけには参りますまいか。」
 星崎さんは前回に「青蛙神《せいあじん》」の怪を語つた人である。名ざしで引出されて、頭をかきながら一と膝《ひざ》ゆすり出た。
「では、今夜もまた前座を勤めますかな。何分《なにぶん》突然のことで、面白いお話も思ひ出せないのですが……。わたしの友人に佐山君といふのがあります。現在は××会社の支店長になつて上海《シヤンハイ》に勤めてゐますが、このお話――明治三十七年の九月、日露戦争の最中で、遼陽《りようよう》陥落の公報が出てから一週間ほど過ぎた後《のち》のことです。――この当時はまだ二十四五の青年で、北の地方の某師団所在地にある同じ会社の支店詰めであつたさうで、勿論《もちろん》その地位もまだ低い、単に一個の若い店員に過ぎなかつたのです。××会社はその頃、その師団の御用をうけたまはつて、何かの軍需品を納めてゐたので、戦争中は非常に忙がしかつたさうです。佐山君は学校を出たばかりで、すぐにこの支店に廻されて、あまりに忙がしいので一時は面喰《めんくら》つてしまつたが、それもだん/\に馴《な》れて来て、やう/\一人前の役目が先《ま》づとゞこほりなく勤められるやうになつた頃に、この不思議な事件が出来《しゆつたい》したのですから、その積りでお聴きください。」
 かういふ前置きをして、彼は彼《か》の佐山君と火薬庫と狐《きつね》とに関する一場《いちじよう》の奇怪な物語を説き出した。
      一

 遼陽陥落の報知は無論に歓喜の声を以て日本中に迎へられたが、殊《こと》に師団の所在地であるだけに、こゝの気分は更に一層の歓喜と誇《ほこり》とを以て満たされた。盛大な提灯《ちようちん》行列が三日にわたつて行はれて、佐山君の店の人達も疲れ切つてしまふほどに毎晩提灯をふつて歩きつゞけた。声のかれるほどに万歳《ばんざい》を叫びつゞけた。そのおびたゞしい疲労の中にも、会社の仕事はます/\繁劇を加へるばかりで、佐山君等《ら》は殆《ほとん》ど不眠不休といふありさまで働かされた。
 けふも朝から軍需品の材料をあつめるために、町から四里ほども距《はな》れてゐる近在を自転車で駈摺《かけず》りまはつて、日の暮れる頃に帰つて来ると、もう半道《はんみち》ばかりで町の入口にゆき着くといふところで、自転車に故障が出来た。田舎道《いなかみち》を無暗《むやみ》に駈《か》け通したせゐであらうと思つたが、途中に修繕を加へる所はないので、佐山君はよんどころ無しにその自転車を引摺《ひきず》りながら歩き出した。この頃の朝夕はめつきりと秋らしくなつて、佐山君が草臥足《くたびれあし》をひきながら辿《たど》つて来る川縁《かわべり》には、ほの白い蘆《あし》の穂が夕風になびいてゐた。佐山君は柳の立木《たちぎ》に自転車を倚《よ》せかけて、巻莨《まきたばこ》をすひ付けた。
「そんなに急いで帰るにも及ぶまい。おれは今日だけでも他の人達の三倍ぐらゐも働いたのだ。」
 こんな自分勝手の理窟《りくつ》を考へながら、佐山君は川柳の根方《ねがた》に腰をおろして、鼠色《ねずみいろ》の夕靄《ゆうもや》がだんだんに浮き出してくる川下の方をゆつくり[#「ゆつくり」に傍点]と眺めてゐた。川の向うには雑木林《ぞうきばやし》が深くつゝまれた小高い丘が黒く横《よこた》はつて、その丘には師団の火薬庫のあることを佐山君は知つてゐた。さうして、その火薬庫附近の木立《こだち》や草叢《くさむら》の奥には、昼間でも狐《きつね》や狸《たぬき》が時々に姿をあらはすと云ふことを聞いてゐた。
 莨好《たばこず》きの佐山君は一本の莨を喫《す》つてしまつて、更に第二本目のマッチを摺り付けた時に、釣竿《つりざお》を持つた一人の男が蘆の葉をさや[#「さや」に傍点]/\とかき分けて出て来た。ふと見るとそれは向田大尉であつた。佐山君は殆ど毎日のやうに師団司令部に出入《しゆつにゆう》するので、監理部の向田大尉の顔をよく見識つてゐた。 「今晩は……」と佐山君は起立して、うや/\しく敬礼した。
 大尉はたしか此方《こつち》をじろり[#「じろり」に傍点]と見返つたらしかつたが、そのまゝ会釈《えしやく》もしないで行つてしまつた。佐山君は自分に答礼されなかつたといふ不愉快よりも、更に一種の不思議を感じた。この戦時の忙がしい最中に、大尉が悠々と釣《つり》などしてゐるのも可怪《おかし》い。ことに大尉は軍人にはめづらしいくらゐの愛想《あいそ》のよい人で、出入りの商人などに対してもいつも丁寧に応対するといふので、誰にも彼にも非常に評判のよい人である。その大尉殿が毎日のやうに顔を見あはせてゐる自分に対して、なんの挨拶《あいさつ》もせずに行き過ぎてしまつたのは、どうも可怪い。うす暗いので、もしや人違ひをしたのかとも思つたが、マッチの火に映つた男の顔はたしかに向田大尉に相違ないと、佐山君は認めた。
「わざと知らぬ顔をしてゐたのかも知れない。」
 大尉は忙がしい暇をぬすんで、自分の好きな魚釣《うおつり》に出て来た。そこを自分に認められた。この軍国多事の際に、軍人が悠長らしく釣竿《つりざお》などを持出してゐるところを、人に見つけられては工合《ぐあい》が悪いので、彼はわざと知らぬ顔をして行き過ぎてしまつた。――そんなことは実際無いとも云へない。佐山君は大尉が無愛想《ぶあいそ》の理由を先《ま》づかう解釈して、そのまゝに自分の店へ帰つた。ゆふ飯《めし》を食《く》うときに、佐山君は故参《こさん》の朋輩《ほうばい》に訊《き》いた。
「向田大尉は釣が好きですか。」
「釣……」と、彼はすこし考へてゐた。「そんな話は聞かないね。向田大尉は非常な勉強家で、暇さへあれば家《うち》で書物と首つ引ださうだ。」
 川端で先刻《せんこく》出逢《であ》つた話をすると、かれは急に笑ひ出した。
「そりや屹《きつ》と人違ひだよ。大尉はこの頃非常に忙がしいんだから悠々と釣なんぞしてゐる暇があるものか、夜更けに家《うち》へ帰つて寝るのが関の山だよ。第一、あの川で何が釣れるものか。ずつと下《しも》の方へ行かなければなんにも引つかゝらないことは、長くこゝにゐる大尉がよく知つてゐる筈《はず》だ。あすこらで釣竿ふり廻してゐるのは、ほんの子供さ。大人がばか/\しい、あんなところへ行つて暢気《のんき》に餌《えさ》をおろしてゐられるものか。」
 さう聞くと、どうも人違ひでもあるらしい。うす暗い川端で自分は誰かを見あやまつたのであらう。彼が挨拶なしに行き過ぎてしまつたの無理はなかつた。勤勉の大尉殿がこの際に、見す/\釣れさうもない所で悠々と糸を垂れてゐる筈がない。かう思ひながらも、佐山君の胸にはまだ幾分の疑ひが残つてゐて、蘆《あし》のあひだから釣竿を持つて出て来た人は、どうも向田大尉に相違ないらしく思はれてならなかつた。併《しか》しどちらにしたところで、それが差したる大問題でもないので、佐山君もその以上に深くかんがへて見ようともしなかつた。
「それとも、君は狐《きつね》に化かされたのかも知れないよ。」と、朋輩は戯《からか》ふやうに又笑つた。「君も知つてゐるだらうが、あの火薬庫の近所には狐や狸《たぬき》がたび/\出て来るんだらね。この頃は滅多《めつた》にそんな話を聞かないが、以前はよくあの辺で狐に化かされた者があつたさうだ。」
「さうかも知れない。」
 佐山君も笑つた。しかし内心はあまり面白くなかつた。どう考へても、彼《か》の男は向田大尉に相違ないやうに思はれた。なんとかして大尉が確かにあすこで魚釣《うおつり》をしてゐたといふ証拠をつかまへて、自分を嘲《あざけ》つてゐる朋輩《ほうばい》どもを降参させて遣《や》りたいやうにも思つたが、この上にそんなことを考へるべく彼はあまりに疲れてゐた。十時頃に店の用を片附けて、佐山君は自分の下宿先へ帰つた。
 疲れてゐる彼は、寝床へ潜《もぐ》り込むとすぐにぐつすり[#「ぐつすり」に傍点]と寝入つてしまつた。さうしてこの一夜の中《うち》に、どこでどんなことが起つてゐたかをなんにも知らなかつた。夜があけて、いつもの通りに出勤すると、どこで聞き出して来たのか、店員達の間にはこんな奇怪な噂《うわさ》が伝へられた。
「向田大尉がゆうべ火薬庫のそばで殺されたさうだ。」
「いや、大尉ぢやない。狐ださうだ。」
 きのふの夕方の一条があるので、この話は人一倍に佐山君の耳に強くひゞいた。彼はその事件の真相を確めたいのと、ほかにも店の用事があるのとで、かた/″\例《いつも》よりは早く司令部へ出張すると、司令部の正門から恰《あたか》も向田大尉の出て来るのに出逢《であ》つた。大尉はふだんよりも少し蒼《あお》ざめた顔をしてゐたが、佐山君に対しては矢はり丁寧に挨拶《あいさつ》して行き過ぎた。呼び止めて、きのふの釣のことを訊《き》いてみようかとも思つたが、場合が場合であるので、佐山君は遠慮しなければならなかつた。
 いづれにしても、向田大尉が健在であることは疑ふまでもない。大尉が殺されたのではない、狐が殺されたのかもしれない。大尉と狐と、その間にどうい関係があるのか。佐山君はいよく好奇心に唆《そそ》られて、足早《あしばや》に司令部の門をくゞつた。店の用向を先《ま》づ済せてしまつて、それからだんだん訊いてみると、大尉殿の噂は皆知つてゐた。時節柄そんな噂を伝へると、それから又色々の間違ひを生ずるといふので、司令部では固く秘密を守るやうに云ひ渡したのであるが、問題が問題であるだけにその秘密が完全に防ぎ切れないらしく、将校達は流石《さずが》に口を噤《つぐ》んでゐても、兵卒等《ら》は佐山君にみな打明けて話した。 「狐が向田大尉どのに化けたのを、哨兵《しようへい》に殺されたのさ。」
佐山君は呆気《あつけ》に取られた。

      二

 司令部の門を出ると、佐山君と相前後して戸塚特務曹長《とくむそうちやう》が出て行つた。特務曹長とも平素から懇意にしてゐるので、佐山君は一緒にあるきながら又訊いた。
「ほんたうですか。火薬庫の一件は……。」
「ほんたうです。」と、特務曹長は真面目《まじめ》にうなづいた。「わたしは大尉殿に化けてゐるところも見ました。」 「狐が大尉殿に化けたのですか。」
「さうであります。司令部にかつぎ込んだ時には、たしかに大尉殿であつたのです。それがいつの間にか狐に変つてしまつたのです。」
「たしかに大尉殿であつたのですか。」と、佐山君は念を押した。
「さうであります。わたしも確かに見ました。」
 一方の大尉が無事である以上、殺された大尉殿は狐でなければならない。併《しか》しそれがどうしても佐山君には信じられなかつた。昔話ならば格別、実際に於てそんな事実が決してあり得べき筈《はず》がないと彼は思つた。戸塚特務曹長はこれからその件に就《つ》いて火薬庫までゆくと云ふので、佐山君も彼と一緒に行つて現場の様子を見とゞけ、あはせて昨夜の出来事の真相を知りたいと思つて、彼《か》の川縁《かわべり》の丘の方へ肩をならべて歩き出した。
「で、一体ゆうべの事件といふのはどうしたのですか。狐が大尉どのに化けて、なにか悪戯《いたづら》でもしたのですか。」
「それはかういふ訳です。」と、特務曹長は薄い口髭《くちひげ》をひねりながら、重い口でぽつりぽつり[#「ぽつりぽつり」に傍点]と話し出した。「昨夜、いや今朝の一時頃です。あの火薬庫の草叢《くさむら》の中にぼんやりと灯のかげが見えたのです。あの辺は灌木《かんぼく》や薄《すすき》が一面に生《お》ひ茂つてゐる処《ところ》で、その中から灯が見えたかと思ふうちに、ひとりの人間が提灯《ちやうちん》を持つて火薬庫の前へ近寄つて来ました。哨兵《しようへい》がよく見ると、それは向田大尉殿でありました。哨兵は無論に大尉殿の顔を識つてゐます。殊《こと》に大尉殿は軍服を着て、司令部の提灯を持つてるるのですから、なんにも疑ふ処はないのであるが、軍隊の規律としてたゞ見逃すわけには行かないので、哨兵は銃剣をかまへて『誰かツ』と声をかけたのです。けれども相手はなんにも返事をしない。哨兵は再び声をかけて『停まれツ』と云つたのですが、やはり停まらない。三度目に声をかけても、矢はり黙つてゐるので、哨兵はもう猶予《ゆうよ》するわけには行かなくなつたのです。」
「でも、見す見す向田大尉殿だつたのでせう。」と。佐山君は遮《さえぎ》るやうに云つた。
「軍隊の規律ですから已《や》むを得ません。」と、特務曹長は厳《おごそ》かに答へた。「ことに火薬庫の歩哨は重大の勤務であります。三度まで声をかけても答へない以上、それが見す見す向田大尉殿であつても打捨《うつちや》つては置かれません。哨兵は駈《か》け寄つて、その銃剣で一突きに突き殺してしまつたのです。さうして、その次第を報告すると、司令部の方でも大騒ぎになつて、当直の将校達もすぐに駈け付けてみると、死んでゐるのは確かに向田大尉殿でありました。」
「あなたも現場へ出向かれたのですか。」と、佐山君は喙《くち》を容《い》れた。
「いや、わたしは行きませんでした。併しその死体を運び込んで来るのは見ました。大尉殿は軍服を着て、顔の上に軍帽が乗せてありました。そこで、先《ま》づ大尉殿の自宅へ通知すると、大尉どのはちやん[#「ちやん」に傍点]と自宅に寝てゐるのです。大尉殿が無事に生きてゐるといふのを聞いて、みんなも又驚いて、再びその死体をあらためると、それはどうしても大尉殿に相違ないのです。さうして、たしかに大尉殿の軍服と軍帽を着けてゐるのです。唯《ただ》、帯剣《たいけん》だけは無かつたのです。そのうちに、ほんたうの大尉どのが司令部に出て来て、自分でも呆《あき》れてゐる始末です。」
 この奇怪な出来事の説明を聴かされながら、佐山君はあかるい秋の日の下をあるいてゐるのであつた。大空は青々と澄み切つて、火薬庫の秘密をつゝんだ雑木林《ぞうきばやし》の丘は、砂のやうに白く流れてゆく雲の下に青黒く沈んでゐた。特務曹長は一息ついて又語り出した。
「なにしろ、大尉の服装をした人間が火薬庫の附近を徘徊《はいかい》してゐたのは事実で、しかも今は戦時であるから、問題はいよ/\重大になつたのであります。で、その怪しい死体を一室にかつぎ込んで、今井副官殿と、安村中尉殿と、本人の向田大尉殿とが厳重に張番《はりばん》して、兎《と》もかくも夜の明けるのを待つてるたのです。すると、不思議なことには、夜がだん/\に白《しら》んで来ると、その死体がいつの間にか狐《きつね》に変つてしまつたのです。軍服は矢はりそのまゝで、軍帽を乗せられてゐ人間の顔が狐になつてゐるのです。靴はどうなつたのか判りません。彼が持つてゐたといふ司令部の提灯《ちようちん》も、普通の白張《しらはり》の提灯に変つてゐるのです。これにはみんなも又おどろかされて、大勢の人達を呼びあつめて立会《たちあい》の上でよく検査すると、彼はどうしても人間でない、たしかに古狐であるといふことが判《わか》つたのです。その狐はわたしも見ました。由来、火薬庫の附近には古狐が沢山《たくさん》棲《す》んでゐると伝へられてゐるのですが、その狐が何かの悪戯《いたずら》をするつもりで、却《かえ》つて哨兵《しようへい》に突き殺されたのだらうといふのです。余り奇怪な話で、われ/\には殆《ほとん》ど信じられないことですが、何をいふにも論より証拠で、そこに一匹の狐の死体が横《よこた》はつてゐるのであるから仕方がない。どう考へても不思議なことであります。」
「実に不思議です。」と、佐山君も溜息《ためいき》をついた。ゆうべ出逢《であ》つた魚釣《うおつり》の人も矢はりその狐ではなかつたかとも思はれた。
 戸塚特務曹長が平素から非常に真面目《まじめ》な人物であることを佐山君はよく知つてゐた。口では信じられないと云ひながらも、特務曹長は眼《ま》のあたりに見せ付けられたこの不思議を飽《あく》までも不思議の出来事として素直に承認するより外《ほか》はないらしかつた。話はこれで一先《ひとま》づ途《と》ぎれて、二人は黙つて丘の裾《すそ》まで行き着いた。薄《すすき》や茅《かや》が一面に生《お》ひしげつてゐる中に、たゞ一筋《ひとすじ》の細い路《みち》が蛇《へび》のやうに蜿《うね》つてゐるのを、二人はやはり黙つて登つて行つた。頭の上から枯れた木葉《このは》がひら[#「ひら」に傍点]/\と落ちて来た。
「大尉殿に化けた狐が殺されたのは、この辺ださうです。」
 特務曹長は指さして教へた。それは火薬庫の門前で、枯れた薄が大勢の足あとに踏みにじられて倒れてゐるほかには、なんにも新しい発見はなさゝうであつた。

      三

 特務曹長に別れて帰る途中も、佐山君はこの奇怪な事件の解決に苦しんでみた。どう考へても、そんな不思議がこの世の中にあるべき筈《はず》がなかつた。しかし何処《どこ》の国でも戦争などの際には兎《と》かく色々の不思議が伝へられるもので、現に戦死者の魂がわが家《や》に戻つて来たといふやうな話が、この町でも幾度《いくたび》か伝へられてゐる。かうした場合には狐《きつね》が人間に化けたといふやうな信憑《しんぴよう》しがたい話も、案外何等《なんら》の故障無しに諸人《しよにん》に受け入れられるものである。佐山君が店へ帰つてそれを報告すると、平素はなにかにつけて小理窟《こりくつ》を云ひたがる人達までがたゞ不思議さうにその話を聴いてゐるばかりで、正面からそれを云ひ破らうとする者もなかつた。
 いかに秘密を守らうとしても、かう云ふことは自然に洩《も》れ易《やす》いもので、火薬庫の門前に起つた奇怪の出来事の噂《うわさ》はそれからそれへと町中《まちじゆう》に拡がつた。それには又いろ/\の尾鰭《おひれ》をそへて云ひ触らすものもあるので、師団の方では、この際あらぬ噂を伝へられて、いよく諸人の疑惑を深くするのを懸念したのであらう、町の新聞記者等《ら》をよび集めて、その事件の顛末《てんまつ》を一切発表した。それは佐山君が戸塚特務曹長から聞かされたものと殆《ほとん》ど大同小異であつた。諸新聞はその記事を大きく書いて、大尉に化けたといふその狐の写真までも掲載したので、その噂に再び花が咲いた。  それと同時に、また一種の噂が伝へられた。向田大尉はほんたうに死んだらしいと云ふのである。狐が殺されたのではなく、向田大尉が殺されたのである。現にその事件の翌夜、大尉の自宅から白木《しらき》の棺《かん》をこつそり[#「こつそり」に傍点]と運び出したのを見た者があると云ふのである。しかし佐山君はすぐにその噂を否認した。狐が殺されたといふ翌朝、自分は司令部の門前で確かに向田大尉と顔を見あはせて、いつもの通りに挨拶《あいさつ》までも交換したのであるから、大尉が死んでしまつた筈《はず》は断じてないと、佐山君は飽《あく》までも主張してゐると、恰《あたか》もそれを裏書きするやうに、また新しい噂がきこえた。大尉の家《うち》から出たのは人間の葬式ではない、彼《か》の古狐の死骸《しがい》を葬《ほうむ》つたのである。畜生《ちくしよう》とはいへ、仮にも自分の形を見せたもの、死骸を野に晒《さら》すに忍びないといふので、向田大尉はその狐の死骸をひき取つて来て、近所の寺に葬つたと云ふのであつた。
「さうだ。屹《きつ》とさうだ。」と、佐山君は云つた。
 併《しか》しこゝに一つの不審は、その後に司令部に出入《しゆつにゆう》する者が曾《かつ》て向田大尉の姿を見かけないことであつた。大尉は病気で引籠《ひきこも》つてゐるのだと、司令部の人達は説明してゐたが、なにぶんにも本人の姿がみえないと云ふことが諸人の疑ひの種になつて、大尉の葬式か、狐の葬式か、その疑問は容易に解決しなかつた。ある時、佐山君が支店長にむかつて、向田大尉殿はたしかに生きてゐると主張すると、支店長は意味ありげに苦笑《にがわら》ひをしてゐた。さうして、こんなことを云つた。
「狐の葬式はどうだか知らないが、向田大尉は生きてゐるよ。」
 その中《うち》に、十月ももう半ばになつて、沙河《さが》会戦の新しい公報が発表された。町の人達の注意は皆その方に集められて、狐の噂などは自然に消えてしまつた。こゝは冬が早いので、火薬庫附近の草叢《くさむら》もだん/\に枯れ尽した。沙河会戦の続報も大抵発表されてしまつて、世間では更に新しい戦報を待ちうけてゐる頃に、向田大尉は突然この師団を立去るといふ噂がまた聞えた。これで大尉が無事に生きてゐる証拠は挙《あが》つたが、他に転任するとも云ひ、あるひは戦地に出征するとも云ひ、その噂が区々《まちまち》であつた。佐山君の支店ではこれまで商売上のことで、向田大尉には特別の世話になつてゐた。殊《こと》に平素から評判のよかつた人だけに、突然こゝを立去ると聞いて、誰も彼も今更《いまさら》名残り惜《おし》いやうにも思つた。
 支店長は相当の餞別《せんべつ》を持つて、向田大尉の自宅をたづねた。さうして、無論に司令部からも手伝ひの者が来るであらうが、出発前に何かの用事があれば遠慮なく云ひ付けてくれと云ひ置いて帰つた。その翌日、支店長の命令で、佐山君とほかに一人の店員が大尉の家《うち》へ顔を出すと、家中《うちじゆう》は殆《ほとん》どもう綺麗《きれい》に片附いてゐた。大尉は細君《さいくん》と女中との三人暮しで、別に大した荷物もないらしかつた。
「やあ、わざ/\御苦労。なに、こんな小さな家《うち》だから、なんにも片附けるほどの家財もない。」
 大尉は笑ひながら二人を茶の間に通した。全体が五間《いつま》ばかりで、家中が殆ど見通しといふ狭い家《うち》の座敷には、それでも菰包《こもづつ》みの荷物や、大きい革包《かばん》や、軍用行李《こうり》などが一杯に置き列《なら》べてあつた。 「皆さんにも折角《せつかく》お馴染《なじみ》になりましたのに、急にこんなことになりまして……。」と、細君は自分で茶や菓子などを運んで来た。
 細君の暗い顔が佐山君の注意をひいた。もう一つ、彼の眼《め》についたのは、茶の間の仏壇に新しい白木《しらき》の位牌《いはい》の見えたことであつた。仏壇の戸は開かれて線香の匂《にお》ひが微《かすか》に流れてゐた。
 どこへ転任するのか、或《あるい》は戦地へ出征するのか、それに就《つ》いては大尉も細君も一切語らなかつた。佐山君達も遠慮してなんにも訊《き》かなかつた。混雑の際に邪魔をするのも悪いと思つて、二人は早々に暇乞《いとまご》ひをした。
「さうしますと。別に御用はございませんかしら。」
「無い、無い。」と大尉は笑ひながら首を掉《ふ》つた。「支店長にもどうぞよろしく。」
「はい。いづれ御見送りに出ます。」
 二人は店へ帰つてその通りを報告すると、支店長は黙つて首肯《うなず》いてゐた。しかし彼の顔色もなんだか陰《くも》つてゐるやうに見えた。向田大尉がこゝを立去るのは余り好い意味ではないらしいと、佐山君はひそか想像してゐた。それから三日目の夜汽車で向田大尉の一家族はいよ/\こゝを出発することになつた。大尉は出発の時刻を秘密にしてゐたのであるが、どこで聞き伝へたのか、見送人はなか/\多かつた。その汽車の出てゆくの見送つて、支店長は思はず嘆息《ためいき》をついた。
「いゝ人だつけがなあ。」
 それから半月ほど経《た》つて、向田大尉から支店長にあてた郵便が到着した。状袋《じようぶくろ》には単に向田とばかりで、その住所《ところ》番地は書いてなかつたが、消印が東京であることだけは確かに判つた。佐山君はその郵便物を支店長の室《へや》へ持つてゆくと、彼は待兼《まちか》ねたやうにそれを受取つた。
「向田大尉殿は東京へ行つたのですか。」と、佐山君は訊いた。「さうだ。」と、支店長は気の毒さうに云つた。「今だから云ふが、あの人は罷《や》めたんだよ。」
「なぜです。」
「悪い弟を持つたんでね。」
 支店長はいよ/\気の毒さうな顔をしてゐたが、その以上の説明はなんに与へてくれなかつた。向田大尉――あの勤勉な向田大尉は、軍国多事の際に職を罷めたのである。佐山君もなんだか暗い心持になつて、黙つて支店長の前を退《しりぞ》いた。

「お話は先《ま》づこれぎりです。」と、星崎さんは云つた。「佐山君もその以上のことは実際なんにも知らないさうです、併《しか》し支店長の唯《ただ》一句――悪い弟を持つた――それからだん/\推測すると、この事件の秘密もおぼろげながら判つて来るやうにも思はれます。向田大尉には弟がある。それが不良《よくな》い人間で、どこからか大尉のところへふらり[#「ふらり」に傍点]と訪ねて来た。佐山君が川縁で夕方出逢《であ》つた男は、おそらく本人の大尉でなく、その弟であつたらうと思はれます。兄弟であるから顔付もよく肖《に》てゐる。殊《こと》に夕方のことですから、佐山君が見違へたのかも知れません。いや、佐山君ばかりでなく、火薬庫の哨兵《しようへい》も司令部の人達も、一旦《いつたん》は見あやまつたのでせう。して見ると、狐《きつね》が大尉に化けたのではなく、弟が大尉に化けたのらしい。その弟がなぜ又夜ふけに火薬庫の附近を徘徊《はいかい》してゐたのか、それはよく判りません。それが戦争中であるのと、本人がよくない人間であるのと、この二つを結びあはせて考へれば、大抵は想像が付くやうにも思はれます。弟が突き殺されてしまつたところへ、兄の大尉が駈付《かけつ》けて来て、一切の事情が明白になつた結果、大尉の同情者の計《はから》ひで、その死体がいつの間にか狐《きつね》に変つて、何事も狐の仕業といふことになつたらしい。大尉の家《うち》からこつそり[#「こつそり」に傍点]運び出された白木《しらき》の棺《かん》も、仏壇に祀《まつ》られてゐた新しい位牌《いはい》も、すべてその秘密を語つてゐるのではありますまいか。かうして先《ま》づ世間を繕《つくろ》つて置いて、大尉も弟の罪をひき受けて職を抛《なげう》つた――。いや、これはみんな私の想像ですから、嘘かほんたうか勿論《もちろん》保証は出来ません、向田大尉の名誉のためには、矢はり狐が化けたことにして置いた方がいゝかも知れません。狐が化けたのなら議論はない、人間が化けたとなると色々面倒になりますからね。」

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底本:日本幻想文学集成 23 岡本綺堂 猿の眼 種村季弘 編著 国書刊行会 1993年9月10日 初版第1刷発行
入力:和井府 清十郎
公開:3月26日




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