logoyomu.jpg

綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
探偵夜話シリーズのうちの1作。ある港町で起きた、剣魚にまつわる事件。「出来ている」なんていう表現を使ったんですね。この頃、そして、綺堂さんも……。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 剣 魚 (けんぎよ)  『探偵夜話』より
 
             岡 本 綺 堂 kido_in.jpg


      一

「ヘヘえ、お珍らしいステッキでございますねえ。」
 宿のお島さんが頓狂な声を出したので、僕もびっくりして振り向いた――と、F君が代って話し出した。それはF君が上総《かずさ》ももう房州近い小さい町の或る海水浴旅館に泊まったときの出来事である。この頃はどうだか知らないが、その当時は海水浴旅館といっても頗る不完全なもので、相当に開けた大きい町を近所に持っているだけに、すべての繁昌をそちらへ吸い寄せられて、ここの町はあまり振わないらしかった。F君はむしろその寂しいのをえらんで、ここの小さい不完全な宿にひと夏を過ごしたのであった。
 それでも宿には三人の女中がいた。いずれも土地の者で、あまり気のきいたのは少なかったが、その頭《かしら》に立っているお島さんは深川の生まれだというだけに、からだはいやにでぶでぶ肥っていたが、どこにか小粋なところがあって、人間もはきはきしていた。年はもう廿七八の世帯くずしらしい女で色のあさ黒い、眼つきのちょっと可愛らしい、まずここらの宿の女中頭としては申し分のない資格をそなえていた。
 こういうと、ひどくお島さんに肩を入れるようだが、実際、逗留中はお島さんの世話になったよ。なかなかよく気のつく人でね――と、F君は更に説明した。
 そのお島さんがだしぬけにステッキをほめたので、僕も振り返って、そのステッキとステッキの持ち主とをじろりとみると、ステッキの持ち主は三十ぐらいの紳士で、すこし痩せた蒼白い顔に金ぶちの眼鏡をかけていた。九月ももう末で、朝晩は少しひやひやする風が吹くので、この紳士はセル地の単衣《ひとえもの》に縮緬のへこおびを締めていた。さてその次は問題のステッキだ。なるほどお島さんが不思議がるのも無理はない、僕も実は初めて見た。長さは四尺ぐらいで、色のうす白い、丸い、細長い、動物の角《つの》か牙《きば》のようにも見えるものであった。
「なんでしょうねえ。なにかの角ですかしら。」と、お島さんはステッキをひねくって眺めていると、青年紳士はにやにや笑っていた。
「それはね、アメリカヘ行ったときに買って来たのだ。それでも、外国では風流な人が持つのだそうだ。」
「一体なんでございます。」
「なんということはない。まあ、こんなものさ。ははははは。」
 説明して聞かせても判るまいといったような顔をして、紳士は笑いながらそのステッキを振って、表へぶらぶら出て行ってしまった。お島さんはまだ気になると見えて、今度はそばに立っている僕の方へ話を向けた。
「ねえ、福原さん。あれは何でしょうね。」
「さあ、けものの角か、さかなの歯か、何かそんなものらしいね。」
「あんな長い歯や口ばしがあるでしょうか。」
「そりゃないとも限らない。ウニコールもあるからね。」
「ウニコールって何です。」
 僕も面倒に心なって来たので、かの紳士とおなじようにいいかげんな返事をして表へ出てしまった。お島さんにむかってウニコールの講釈をしているよりも、早く海岸へ出て夕方のすずしい空気を呼吸したいと思ったからであった。表へ出て、まだ一間とは歩き出さないうちに、うしろからお島さんが追いかけて来た。
「福原さん、これあなたのじゃありませんか。」
 入口の土間に落ちていたといって、お曇んは新しいハンカチーフをひろって来て見せた。
「僕のじゃない。」
「じゃあ、あの水沢さんのに違いない。あなたも海岸へ行くなら同じ道でしょう。途中で逢ったら届けてあげて下さいな。」
 ハンカチーフを僕の手に押し付けて、お島さんは内へ引っ込んでしまった。夏の初めから三月あまりも逗留して、家の人達ともみんな心安くなっているので、お島さんも遠慮なしにこんな用を言い付けたのであろうが、言い付けられた僕はあまり有難くなかった。妬《や》くわけではないが、一週間前からここに泊まっているあの水沢という青年紳士に対して、お島さんがいやにちやほやするのが少し気にたった。お島さんが水沢をひどくもてなすのは、御祝儀をたんと貰ったという単純な理由以外に、なにかの秘密が忍んでいるらしくも思われるので、僕もなんだかおかしくもあった。
「へん、いい面《つら》の皮だ。」
 僕はそのハンカチーフをたもとへ押し込んで、町から海岸の方へ出ると、水沢のうしろ姿は一町ほど先きに見えた。息を切って追いかけて行くのもばかばかしいと思ったので、僕は相変わらずぶらぶら歩いて行くと、青空には秋の雲が白く流れて、頭の上はまだなかなか暮れそうもなかったが、水の上は磯ばたの砂の色とおなじように薄暗くにごって来た。沃度《ようど》を採るために海草を焚く白い煙りが海の方へ低くなびいていた。
 僕はだんだんに暗くなっていく海の色をしばらく眺めていた。頭の上の白い雲が雪のように溶けて消えるのをぼんやりと見あげていた。それから気がついてふと見ると、水沢は僕よりも半町ほども左に距《はな》れたばらばら松の下に立って、誰かと立ち話をしているらしかった。相手は誰だか判らない、男か女かもわからない。僕は一種の好奇心に誘われたのと、もう一つにはお島さんから頼まれたハンカチーフの使いを果たさなければならないと思ったので、足音のしないように砂浜を伝《つた》って、その松の立っている方へそろそろと歩いて行った。
 水沢と向かい合っているのは、確かに若い女であるらしかった。うす暗いのでその顔はよく見えなかったが、その背格好をうかがって僕はすぐに覚《さと》った。それは近所の大きい町から来た若い芸妓である。ゆうべ水沢は宿の奥二階で酒を飲んで、芸妓を呼んでくれと言い出した。お島さんはよほどそれに反対したらしかったが、なにをいうにも客の注文であるので、結局その命令通りに芸妓を呼ぶことになった。土地には芸妓というものは住んでいないので、そういう場合にはいつも隣りの町から呼び寄せるのが習いで、雛子とかいう若い芸妓が乗り込んで来た。僕は廊下ですれ違ったが、その雛子というのはまだ十八九で、色の白い、見るからおとなしそうな、お嬢さんのような女であった。
 紳士と芸妓との話はだいぶ持てたらしかった。お島さんの顔色は悪かった。なんだか泊まって行きたそうにぐずぐずしている芸妓を、お島さんは時間の制限を楯にして、無理無体に追い返してしまった。そうして、ここらの芸妓は風儀が悪くていけないと陰《かげ》でののしっていた。そのときは僕もまったくおかしかった。とにかくそういう事情があるので、今この松の蔭でささやいている水沢の相手の女は、きっとあの雛子に相違あるまいと僕は鑑定した。おそらく二人のあいだに何かの約束があって、そこで出逢うことになったのであろう。こういうところをお島さんに見せつけてやりたいと、僕は思った。
 そのうちに二人は松のかげを離れて、磯ばたの方へあるき出した。僕は呼びとめて彼《か》のハンカチーフを渡そうかと思ったが、ここで二人をおどろかすに忍びないような気がしたので、黙ってしばらくためらっていると、男は女の手をとって磯ばたにある小舟に乗り込んだ。そうして、櫂《かい》を操って沖の方へだんだんに漕いで行った。今夜は月夜の筈である。青年紳士と若い芸妓とは月の明かるい海の上に小舟をうかべて、心ゆくまでに恋を語るつもりかも知れない。僕もうらやましい心持で、その舟のゆくえをじっと見送っていたが、今夜の風は涼しいのを通り越して、なんだか薄ら寒くなって来たので、ややもすると風邪をひきやすい僕は早々にここを立ち去って、町の方へ引っ返して来た。
 宿へ帰って風呂にはいっていると、お島さんは風呂の入口から顔を出した。
「あのハンケチを届けて下すって……。」
「いや、追いつかないので止めたよ。」
「追いつかないので……。水沢さんはどこへ行ったんです。」
「海の方へ行ったよ。小舟に乗って……。」
「一人……。」
「むむ、一人で漕いで行ったよ。」
「まあ、漕げるんでしょうか。」
「そうらしいね。」
 それっきりでお島さんは行ってしまった。僕はやがて風呂からあがって、自分の座敷へ戻ってくると、女中のお文さんが夕飯の膳を運んで来た。
「お島さんがあなたのことを嘘つきだと言っていましたよ。」と、お文さんは給仕をしながら笑っていた。
「なぜだろう。」と、僕も笑っていた。
「だって、ハンケチを水沢さんに届けてくれとあなたに頼んだら、舟に乗って行ってしまったなんていって、届けてくれなかったというじゃありませんか。」
「ほんとうに舟に乗って行ったんだよ。」
「ほんとうですか。」
「うそじゃない。帰って来たらきいて見たまえ、僕は確かに見たんだから。」
 飯を食いながら僕はお文さんに訊いてみた。
「お島さんはなぜ水沢さんのことばかり気にしているんだ。え、おかしいじゃないか。」
 お文さんは黙って笑っていた。
「え、お島さんは水沢さんにおぼしめしがあるんだろう。もう出来ているんじゃないか。」
「ほほ、まさか。」と、お文さんは笑い出した。
 しかしお島さんが特別に水沢さんをもてなしていることは、家じゅうの女中たちもみな認めているらしかった。しかしここの家は非常に物堅いから、客と女中とのあいだにそん間違いのあったためしは一度もないと、お文さんは保証するように言った。
「いくら主人が堅くっても当人同士の相対《あいたい》づくなら仕方がないじゃないか。」と、僕も笑って言った。
 ハンカチーフを届けてやらなかったということが、よほどお島さんの御機嫌を損じたらしく、今夜に限ってお島さんは一度も僕の座敷に顔を見せなかった。十時の時計を合図に、僕はお文さんに床を敷いてもらって、これから寝衣《ねまき》に着換えようとしていると、表の方が急に騒がしくなって、人の駈けて行く足音が乱れてきこえた。
「火事かしら。」
「ここらに火事なんかめったにありませんが……。」と、お文さんも不思議そうに耳を引き立てていた。
「それとも大漁かな。」
「そうかも知れません。」
 表はいよいよ騒がしくなったので、お文さんは降りて行った。

      二

「あなた、人が殺されたんだそうです。」
 お文さんはやがて引っ返して話した。
「人が殺された。喧嘩でもしたのか。」
「芸妓が舟のなかで殺されたんですって。」
 僕のあたまには、紳士と芸妓とを乗せた小舟の影がすぐに映った。
「なんという芸妓が誰に殺されたんだ。」
「そこまでは聞いて来ませんでしたが……。」
 じれったくなったので、僕は一旦ぬいだ着物を再び引っかけて、急ぎ足に二階を降りると、店の入口にお島さんが蒼《あお》い顔をして立っていた。お島さんは僕をみると、駈けて来て小声で訊いた。
「あなた、水沢さんはほんとうに舟に乗って行ったんですか。」
「ほんとうさ。」
「一人でしたか。」
 この場合、なまじっかに隠すのはよくないと思ったので、僕は正直のことを話すと、お島さんはいよいよ蒼くなった。
「あなた、浜へ見に行くんですか。」
「むむ、行って見る。」
「一緒に行きましょう。」
 お島さんはゆるんだ帯を引き上げながら、僕のあとから付いて来た。そこらの家からも男や女が駈け出して行った。ばらばら松の下では二ヵ所ばかりのかがり火を焚いて、大勢の人影が黒く動いていた。がやがや言いののしる人声が浪にひびいて聞こえた。お島さんはもう気が気でないらしい、僕を途中に置き去りにして、夏の虫のようにかがり火の影をしたって駈け出した。
 そこにはもう警官が出張していた。そうして、僕の想像通りに真っ白な雛子の顔がかがり火の下に仰向けになっていた。夜網の漁師たちが沖へ漕ぎ出すと、主《ぬし》のない一艘の小舟がゆらゆらと漂《ただよ》っているので、不思議に思って漕ぎよせて見ると、船の底には若い女が倒れていた。女は両手にしっかりと櫂をつかんでいた。よくみると、女は脇腹を深く貫かれて、腰から下は血だらけになっているので、漁師たちも驚いた。それから浜じゅうの騒ぎにたって、大勢があつまって来ると、磯ばたへ引きあげられた女の顔には見識り人があった。彼女は近所の町の雛子という若い芸妓であることが判った。しかし雛子がどうして海へ乗り出して、何者に殺されたのか、誰にも想像が付かなかった。かがり火の下の死骸を遠巻きにしている人達は思い思いの推量をくだして、がやがやと立ち騒いでいた。
 雛子がどうして海へ出たのか。何者に殺されたのか──その秘密を知っている者はおそらく僕一人かも知れない。そのほかには、僕の話を聞いているお島さんだけであろう。二人が口を結んでいれば、この秘密は容易に知れそうもなかった。僕がかがり火のそばへ近づいた時に、お島さんは又こからか現われて来て、僕にからだを摺り付けるようにして立っていた。火に照らされたお島さんの顔は緊張していた。そうして、いつもの可愛らしい眼をけわしくして、ときどき僕の顔色を横眼に睨んでいるのは、僕の口からいつその秘密があばかれるかも知れないという大いなる恐れを懐いているらしかった。僕もしばらく黙って見ていると、お島さんはやがて僕のたもとを強くひいた。
「福原さん。もう行きましょうよ。」
 僕はやはり黙って見物の群れから出た。かがり火の影からだんだんに遠くたると、お島さんは暗いなかで僕にささやいた。
「あの芸妓はどうして殺されたんでしょう。」
「さあ。」
「あたた、後生《ごしよう》ですから誰にもなんにも言わずに下さいな。」と、お島さんは訴えるように言った。
「なにを黙っているんだ。」
「水沢さんと一緒に舟に乗ったことを……。」
「言っちゃ悪いか。」
「おがみますから、言わないでください。」
「お島さんは水沢さんとどういう関係があるんだ。」と、僕は意地わるく訊いてみた。
「別になんにも関係はありませんけれど……。」
「ただ、水沢さんが可愛いからか。」
「察してください。」
なんでもない人に、それほど実を尽くすのか。」「それがあたしの性分ですから。それがために東京にもいられないくなって、上総《かずさ》三界までうろ付いているんですから。」
 僕はなんだかお島さんが可哀そうになって来たので、今夜のことは誰にも言うまいと、とうとう約束してしまった。
「それにしても水沢さんはどうしたろう。」
「どうしたでしょうか。」とお島さんは溜め息をついた。「海へ飛び込んで逃げたんじゃありませんかしら。」
「そうかも知れない。それにしても、あのステッキはどうしたろう。」。
「あなた、見ませんでしたか。巡査があのステッキの折れたのを持っていたのを……。船の中に落ちていたんですって……。何でもところどころに血が付いていたそうですよ。」
「そうすると、芸妓の方では櫂を持って、二人で叩き合ったんだね。」
「そうかも知れませんねえ。」
 二人は宿へ帰った。僕は素知らぬ顔をして自分の座敷へはいって、寝床のなかへもぐりこみ込んだが、今夜は眼が冴えて寝つかれなかった。水沢はなぜあの芸妓を殺したのであろう。他愛もない痴話喧嘩の果てに、思いもつかない殺人罪を犯したので、かれもおどろいて入水《じゅすい》したのではあるまいか。泳いで逃げたか、覚悟の身投げか、あれかこれかと考えていると、夜は十二時を過ぎた頃であろう、障子の外から低い声がきこえた。
「福原さん。もうおやすみですか。」
「お島さんか。」と、僕は枕をあげた。
 返事の声を聞いて、お島さんはそっと障子をあけた。そうして、僕の枕もとへいざり寄って来た。
「あの、水沢さんが帰って来ましたよ。」
「帰って来た。どんな様子で……。」
「帳場はもう寝てしまったんですけど、あたしは何だか気になりますから、始終表に気をつけていると、誰か表のところへ来てばったり倒れた人があるらしいんです。それからそっと出てみると、水沢さんはびしょ濡れになって倒れていましたから、介抱して座敷へ連れ込んだのですが、なんだかきょときょとしているばかりで砥に口もきかないんです。どうしたんでしょう。」
「まあ、そっと寝かして置くより仕方がない。ここで騒ぐと藪蛇だよ。あしたになったら気が確かになるだろう。」
「そうでしょうか。」
お島さんは不安心らしい顔をして、またそっと出て行った。ともかく水沢が無事に帰っ来たというのを聞いて、僕もすこし気がゆるんだとみえて、お島さんが出て行くと間もなく、うとうと睡りついて、眼が醒めると家じゅうがすっかり明かるくなっていた。時計を見るともう九時を過ぎていた。あわてて飛び起きて顔を洗って来ると、お文さんが朝飯の膳を持って来た。
「あなた、御存じですか。水沢さんがけさ警察へ連れて行かれたのを……。」
「そうかとい。と思わず眼をみはった。お島さんがいくら僕の口止めをしても、よそから証拠があがったとみえる。お島さんはさぞ失望したろうと思いやられた。
「なんだって警察へ連れて行かれたんだ。」と、僕は空とぽけて訊いた。
「あなたもご存でしよう。ゆうべ芸妓が舟のなかで殺されていたというので大騒ぎでしたろう。その芸妓を……。」と、言いかけてお文さんも息をのみ込んだ。
「水沢さんが殺したというのかい。」
「なんだか知りませんけれど、けさ早く巡査が来て、水沢さんの寝ているとこころをす芝拘引して行ったんです。水沢さんはゆうべいつごろ帰って来たのか、わたくし共はちっとも知りませんでしたが、なんでも夜なかにそっと帰って来たのを、お島さんが戸をあけて入れてやったらしいんです。」
「お島さんはどうしている。」
「お島さんも調べられていました。」
「調べられただけで、やっぱり家にいるのか。」
「ええ。家にいますけれど、旦那もたいへんに心配して、お島さんを奥へ呼んで何か又しきりに調べているようです。」と、お文さんは顔をしかめながら話した。
「しかし、お島さんは何にも知らないんだろう」と、僕はまた空とぼけた。お客が夜遅く帰って来たから戸をあけてやっただけのことだろう。」
「どうもそうじゃないらしいんですよ。だって、水沢さんはびしょ濡れになって帰って来て、おまけに何だかぼうとしているのを誰にも知らせないで、そっと連れ込んで寝かしてやったんですもの。
 お文さんは更にこんなことを話した。水沢さんはここへ来る前に、ひと月ほど近所の町に逗留していて、殺された芸妓とは深い馴染みになっていたらしい。そうして、両方が心中でも仕かねないほどに登りつめて来たので、芸妓の抱え主の方でもだんだん警戒するようになった。それらの事情から水沢はそこを立ち退いてこの町へ来て、おとといの晩もわざわざ雛子を呼びよせたのである。その晩は抱え主の家へ一旦帰ったが、きのう午《ひる》に又ふらりと家を出たままで、夜になっても帰らないので、抱え主も心配して心あたりを探していたところであった。
「そういうわけがあるんですもの、まず第一に水沢さんに疑いのかかるのも無理はありませんね。おまけに水沢さんはその時刻に丁度どこへか行っていたんですもの。」
「なるほど、そうだ。」
僕もお文さんに合いづちを打つよりほかはなかった。

      三

 僕は毎朝海岸を一度ずつ散歩するのを日課のようにしていたが、けさに限って外へ出る気になれなかった。袂をさぐると、きのうお島さんから頼まれた白いハンカチーフが出た。僕はそれを眺めてなんだか暗い心持になった。
 注意していると、下へは警官がたびたび出入りをしているらしかった。番頭に案内させて、警官は奥二階の水沢の座敷へもふみ込んで、なにか捜索しているらしかった。由来、この宿の午飯《ひるめし》は少し早目なので、けさのように朝寝をした場合には、あさ飯が済むと、やがて追いかけて午飯を食うようになるので、午飯前にどうしても一度は散歩に出なければならないと思い直して、僕はなんだか気の進まないのをはげまして表へ出ようとすると、階子《はしご》のあがり口でお島さんに出逢った。お島さんはけさも蒼い顔をしていた。
「福原さん。お出かけですか。」
「少し歩いて来ようかと思っている。」と、言いかけて僕は声を忍ばせた。「水沢さんはとうとう連れて行かれたというじゃないか。」
「その事なんです。あなた、まあ聞いてください。」
 お島さんに押し戻されて、僕もふたたび自分の座敷へ帰った。
「水沢さんがまったく芸妓を殺したに相違ありませんよ。」と、お島さんは言った。「あたしちっとも知りませんでしたけれど、もう前からの深い馴染みだというんですもの。おとといの晩呼んだときも名指しなんです。あたしも何だかおかしいとは思っていましたけれど、まさかにそれほどの関係じゃあるまいと油断していたんですが、二人はもう死ぬほどに惚れ合っているんですって、あきれるじゃありませんか。」
 何もあきれることもあるまいと思ったが、僕は謹んで聞いていると、お島さんはいよいよ口惜《くや》しそうに言った。
「二人はその晩に心中の相談をしたらしいんです。そうして、きのうの夕方、あなたが浜辺で見つけたという時に、二人はそこに落ち合って、それから小舟に乗って沖へ出たんです。いいえ、確かにそうなんです。さっきも警察の人が来て、水沢さんの座敷を調べたら、あの芸妓からよこした手紙が見付かったんです。そりゃ何でもだらしのないことがたくさん書いてあって、つまり一緒に死ぬとか生きるとかいう……。なにしろそういう証拠があるんですから仕様がありませんわ。水沢さんは心中するつもりで、最初に女を殺したんでしょうけれど、急に怖くなって海へ飛び込んで、泳いで逃げて来たに相違ないんです。」
「それにしては、女がどうして櫂を両手に持っていたんだろう。」
「水沢さんが刀でもぬくあいだ、女が手代りに櫂を持っていたのかも知れません。なにしろ心中には相違ないんですよ。それにあのステッキの一件、あれが動かない証拠で、警察でも水沢さんに眼をつけているんです。けさもステッキの折れたのを持って来て、これに見覚えがあるかといって帳場の人に訊いていましたから、あたしがそばから啄《くち》を出して、たしかに見覚えがある、それは水沢さんのステッキに相違ないと言ってやりました。」
 僕もすこし驚いた。ゆうべは誰にも言ってくれるなと堅く頼んで置きながら、けさは自分の方からその秘密をあばくようなことをする。お島さんの料簡がどうして急激に変化したのか、僕には想像が付かなかった。
「黙っていればいいのに、なぜそんなことを言ったんだろう。そりゃどうせ知れるには相違なかろうが、お島さんの口から可愛い人の罪をあばくのはちっと酷《むご》いじゃあないか。」と、僕は皮肉らしく言った。
「酷いことがあるもんですか。あんな人、ちっとも可愛くはありませんわ。」と、お島さんはののしるように言った。「あたし、あの人に愛想がつきてしまいましたわ。」
「なぜさ。」
「なぜって……。ともかくも女と心中する約束をして置きながら、女の死んだのを見て急に気が変わるなんて、あんまり薄情じゃありませんか。あたし、あんな人大嫌いですわ。ちっともかばってやろうなんて思やしません。ですから、福原さん、あなたお願いですからこれから警察へ行って、ゆうべあの二人が舟に乗って出たところを確かにみたと言ってください。そうすれば、水沢さんだって、もう一言もないでしょう。」
 僕はいよいよ驚いた。しかしお島さんのような感情一辺の女としては、それも無理ではないかも知れない。お島さんは確かに水沢さんに思召《おぼしめし》があった。そうして、盲目的に水沢の犯罪を隠そうと試みたのであるが、その水沢はあの芸妓と心中するほどの深い約束があったことを発見して、お島さんの情熱はにわかに冷《さ》めた。それと同時に、心中の相手を見殺しにして逃げたという水沢の不人情が急に憎らしくなった。お島さんはあくまでも水沢を追いつめて、かれを死地におとしいれなければ堪忍が出来ないように思われて来たに相違ない。お島さんはそれで気が済むかも知れないが、善いにつけ、悪いにつけて、そのあやつり人形に扱われている僕は甚だ迷惑であるといわなければならない。僕はすぐに断わった。
「いや、僕は御免こうむる。水沢さんがすでに警察にあげられた以上は、警察の方で何とかするだろう。僕が横合いから出て行って余計なおしゃべりをする必要はないよ。心中の手紙もあり、ステッキの折れたのもあるんだから、証拠はもうそろっている。別に証人を探すことはないよ。」
「そうでしょうかねえ。」
 お島さんはしぶしぶ出て行ったので、僕はそのあとから続いて階子を降りた。そうして、いつものようにぶらぶらと海の方へあるいて行った。きょうはぬぐったように晴れた日で、海の上は鰹《かつお》の腹のように美しく光っていた。
「もしあの二人が心中のつもりで海へ乗り出したのならば、芸妓がなぜ両手にしっかりと櫂をつかんでいたのだろう。水沢のステッキがなぜ折れたのだろう。どう考えても、二人が舟のなかで叩き合って、水沢のステッキが折れたらしく思われる。心中するほどの二人がなぜ俄かにそんな叩き合いの喧嘩を始めたのだろう。やっばり痴話喧嘩が昂じたのかな。」
 そんなことを考えながら、夢のように砂地をたどって行くと、かのばらばら松から一町ほどもはなれた磯ばたに出た。
「やあい、みんな来いよう。」
 だしぬけに大きい声がきこえたので、僕は夢から醒めたようにその声のする方へ眼をやると、そこには五、六人の漁師があつまっていた。子供達もまじって珍らしそうに立ち騒いでいた。なにか大きい魚でも寄ったのであろうかと、僕も少し早足にそこへ行って見ると、なるほどみんなの騒ぐのも無理はなかった。僕も生まれてから一度も見たことのない不思議な魚が、うす黒い砂の上に大きい腹を横たえていた。
 魚は鮪にやや似たもので、長さは二間以上もあろう。背ひれは剣《つるぎ》のようにとがって、見るから獰悪《どうあく》の相をそなえた魚である。その著るしい特徴は、象牙のように長いくちばしをもっていることで、そのくちばしは中途から折れていた。左の眼は突き破られていた。
「なんという魚です。」と、僕は訊いた。
「さあ、鮪でねえ、鮫でもねえ。まあ刺魚《とげうお》の仲間かも知れませんよ。」
 漁師たちにもこの奇怪な魚の正体が判らないらしかった。この噂を聞きつけて、大勢の人達がゆうべのように駈け集まって来たが、誰もこの魚の名を知っている者はなかった。そのうちに僕はふと思い付いたことがあった。それはこの奇怪な大きい魚のくちばしがあの水沢のステッキによく似ていることで、アメリカから持って来たというあの珍らしいステッキは、この魚のくちばしで作ったものではあるまいか。
 そうすると、ここに又一つの問題が起こって来る。あの小舟のなかに残っていたというステッキの折れは、果たして水沢のステッキか、あるいはこの魚のくちばしか。現にこの魚のくちばしも中途から折れているではないか。死んだ芸妓が両手に櫂を持っていたのをみると、或いはこの奇怪な魚が不意に突進して来たので、一生懸命に櫂を振りあげて、そのくちばしを叩き折ったのではあるまいか。水沢はおどろいて海へ飛び込んだのかも知れない。しかしそうすると、心中の問題はどう解決する。芸妓はどうして死んだのであろう。僕は自分の頭のなかでいろいろの理屈を組み立てながら、それから半時間の後に宿へ帰った。
 その日の午後にお島さんは警察署へ呼び出されて長時間の取り調べを受けた。夕方になって帰って来て、僕にこんなことを話した。
「水沢さんという人もずいぶん卑怯じゃありませんか。どうしても芸妓を殺した覚えはないと強情を張っているんですもの。」
「水沢さんは気が碓かになったのか。」
「ええ、もう落ち着いたようですよ。あんな嘘がつけるくらいなら大丈夫ですわ。」と、お島さんはあざけるように言った。
「どんな嘘をついたの。」
「だって、こんなことを言うんですもの。二人が舟に乗って沖へ出ると、急に浪があらくなって、なんだか得体《えたい》の知れない怖ろしい魚が不意に出て来て、舟を目がけて飛びあがって、剣のようなくちばしで芸妓の横腹を突いたんですって……。あんまり嘘らしいじゃありませんか。」
「それからどうした。」
「水沢さんはびっくりして、あわてて海のなかへ飛び込んで、夢中で泳いで逃げたんですって。」
「そうかも知れない。警察ではその申し立てを信用したのかね。」
「そんなことを言ったって、むやみに信用するもんですか。けれども、丁度に変な魚が流れ付いたもんですから、警察の方でも少し迷っているらしいんです。なんでも東京から博士を呼んで、その魚をしらべて貰うんだとか言っていました。あなたはその魚を御覧でしたか。」
「むむ、見た。水沢さんのステッキは確かにあの魚のくちばしだよ。」
「そのくちばしを、取り返しに来たんでしょうか。」
「まさかそうでもあるまいが、とにかく水沢さんの申し立てはほんとうらしいよ。僕はどうもほんとうだろうと思う。不思議な物に突然襲われてあんまりびっくりしたので、一時はぼんやりしてしまったが、だんだん気が落ち着くにしたがって、その怖ろしい出来事の記憶が呼び起こされたのだろう。その魚が飛んで来て、芸妓の横っ腹を突いたもんだから、芸妓もきっと死に物狂いになって、そこにある櫂を取って無茶苦茶に相手を撲ったに相違ない。そこで、魚はくちばしを叩き折られる。眼だまを突きつぶされる。そうしてとうとう死んでしまったんだろう。つまり芸妓とその魚と相討ちになったわけだね。」
「あの芸妓にそんな怖ろしい魚が殺せるでしょうか。」
「今もいう通り、こっちも死に物狂いだもの、眼だまか何かの急所をひどく突かれたので、さすがに魚も参ってしまったんだろう。そんなことがないとも言えない。」 「なんだか嘘のようですねえ。」
 お島さんはなかなか得心しそうもなかった。彼女はあくまでも水沢さんが芸妓を殺したものと信じているのであった。お島さんばかりでなく、宿の者もみんなそう思っているらしかった。僕は一種の興味をもって、この事件の成り行きをうかがっていると、それから四、五日の間は、この町と近所の町とへかけて警察の探偵が大いに活動したらしかったが、どうも取り留めた材料を見付け出さないらしかった。そのうちに東京から高名の理学博士が出張して来た。
 博士の鑑定によると、かの奇怪な魚は原名をジビアスといって、これを直訳すると剣魚とでもいうべきものである。その特徴は二尺乃至《ないし》四尺の長いくちばしをもっていることで、太平洋や太西洋に多く棲息している。やはりカジキの種族で、その大きいものは三間ほどもある。かれらは常に鱶《ふか》や鮫《さめ》のような檸猛の性質を発揮して、かの象牙のような鋭いくちばしで鱈《たら》や鯖《さば》のたぐいを唯ひと突きに突き殺すばかりでなく、ある時は大きい鯨さえも襲うことがある。汽船がかれに襲われて船腹を突かれたこともある。こういう奇怪な魚だけに、外国ではそのくちばしを珍重して、完全な長いものは往々ステッキに用いられている。
 これで事実の真相は判明した。水沢がそのステッキを米国から買って来たというのは嘘で、実は横浜の米国人から貰ったのであるが、どっちにしてもそれが剣魚のくちばしであることは事実であった。かれはそのステッキを持ったままで芸妓と一緒に沖へ乗り出すと、ほん物の剣魚が突然に襲って来て、そのくちばしで芸妓の脇腹を突き透したので、かれは異常の恐怖に打たれて、前後の考えもなしに海へ飛び込んで逃げた。そのときに彼のステッキは海に沈んでしまって。[※「、」《読点》の誤りか]、船中に残ったのは新しく打ち折られた剣魚のくちばしであった。剣魚がどうしてくちばしを折られたか、どうして眼だまを突き破られたか、それは死んだ芸妓の手に持っていた櫂によって判断するよりほかはない。
 水沢は無事に放還された。大体の事実は僕の想像通りであった。水沢は絶対に心中を否認して、なるほど女の方からはそんな手紙を受け取ったこともあるが、自分はどうしてもそれに応じなかったと言っていたそうだ。何分にも相手が死んでしまったので、その辺の消息はよく判らない。或いはほんとうに心中するつもりで沖へ出たところへ突然に剣魚の邪魔がはいって、女だけ殺してしまったのかも知れない。この事件が解決すると同時に、水沢は早々に横浜へ帰ったので、僕はお島さんから預かっていたハンカチーフを返してやる機会を失ってしまった。
 翌月のなかばに僕も東京へ帰った。宿を発つときにお島さんは停車場まで送って来て、自分も今月かぎりで暇を取って房州の方へ奉公替えをするつもりだと言った。そうして、まだ疑うようにこんなことを言っていた。
「芸妓はまったくあの魚に殺されたんでしょうか。」
「そりゃ確かにそうだよ。水沢さんが殺したんじゃない。」と、僕は言い切った。
「でも、その魚さえ流れ着かなければ、水沢さんが殺したことになってしまったんでしょうね。」
「そうかも知れない。」
「そうでしょうねえ。」
 お島さんはなんだか残念そうな顔をしていた。僕は又、なんだか怖ろしいような、一種のいやな心持でお島さんに別れた。


底本:岡本綺堂読物選集 第6 探偵編 1969、青蛙房
入力:和井府 清十郎
公開:2004年2月04日





綺堂事物ホームへ

(c) 2004. Waifu Seijyuro. All Rights Reserved.
inserted by FC2 system