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俄拵著作之綱引権利誉
 (にわかこしらへちよさくのあらそい けんりのほまれ)




明治は権利創生期でもあります。近代的な法体系が西欧からの“輸入”される形であれ、敷かれ、浸透あるいは反発されてゆく。その過程で、様々な争いやトラブルが発生する。ここでは、おもに歌舞伎とその戯曲に絡んで、「著作の権利」をめぐる事件やトラブルを取り上げて、明治期の社会や人々の欲望の一端を知ることにします。そこで、戯作を真似て、『俄拵著作之綱引権利誉』(にわかこしらへちよさくのあらそい けんりのほまれ)と題します。(拍子木)
 もっと著名な事件や取り上げるべき興味ぶかいエピソードもあるのでしょうが、そこは勉強不足として、今は綺堂がらみで、つぎのトピックスを挙げます。




人力車の発明   権利があるとないとでは

さて、明治になるとどうだったか。発明・特許・著作は金銭や富にも影響する。著作ではないが、この例を見ておきましょう。

明治、大正の乗り物といえば、人力車。道路が整備されていない時代で、どのような乗り心地だったか興味はあるが、福地桜痴が築地の自宅から銀座の東京日日新聞社に毎朝通うのはこの人力車だった。岡本綺堂が乗った人力車が、他の馬車との衝突を避けるために、三宅坂でひっくり返ったのも、この人力車であった。下で扱う、花井お梅が殺害直前に乗っていたのも人力車であった。

人力車そのものの発明は諸説あって明らかではないのだが、和泉要助、鈴木徳次郎、高山幸助の3人の共同事業だったらしい(石井研堂『明治事物起源』に依拠したものが多い)。明治3年3月「人力車」の製造と営業を東京府に願い出た。図1は、平出鏗二郎『東京風俗誌 中卷』による。同書も、この3人で明治3年としている。初めは、四柱を立て屋根を付けたもの (一番左)、布幌をつけたもの(中)、ゴム幌となり、車輪に泥除けを設備したり、車体に彩色絵を施したものから、たんに黒塗のものへ、変化したという。 人力といえば2輪が一般的だが、安定はよくない。つぎの図2は、三輪車の人力車である。

図1.平出・東京風俗誌より
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図2.
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明治4年5月には人力車は2万5千台、同年12月には4万台を超えたという。「人力車」の発明について権利、つまり今でいうところの特許権があったならば、和泉ら3人は、多くの富を築いていたに違いない。残念ながら、人力車に関しては、「企業家として成功を収めたのは秋葉大助であった。特許制度の不備が明暗を分けたのであった。」(野口孝一『銀座物語』(中公新書、1997年)217頁。本項は、同書によるところが大きい)。
秋葉大助は、後発の製造メーカーであったが、明治8年に、ほろや泥除けを考案したり、またスマートな形に改良したのは、その知恵と工夫であった。かくして、銀座の、現・和光の地にあった秋葉大助商店は、人力車製造業として有名であった。他方、和泉らは、不遇のうちに生涯を閉じたという。

資料 発明者の一人である出島屋要助商店の人力車の絵はこちら。
錦絵の中で描かれた「蒔絵人力車」(赤い部分が蒔絵)大阪錦絵新聞より

ちなみに専売特許条例が公布されたのは1885(明治18)年4月であった。特許権は著作権ではないが、両者は知的所有権の一つである。権利なき世の利害の悲喜こもごも、俄かに権利として登場したものをめぐる種々の争いや綱引きを、“著作の権理”を中心に観てゆきたい。明治の社会と人々の思惑、欲望と夢をわずかに垣間見たい。




三遊亭円朝の決心  オリジナル(創作)の追求

岡本綺堂は、まだ若い頃、麹町の寄席で行われた、三遊亭円朝の怪談牡丹燈籠を聴きにいって、話芸だけで鳥肌が立つような話し振りに感心したという思い出を書いている。

四谷怪談など怪談話で有名な落語家、三遊亭円朝が、自らの創作した噺しか寄席でやらなくなったのは、ある日の高座で、円朝が話そうと予定していた話を、師匠の三遊亭円生が先に話してしまって、円朝はその話ができなくなったからだという、有名な話がある。

創作落語は作者があるから別としても、古典落語の噺に著作権があるかどうか、あるとすれば誰に?という問題もあるが、するはずの噺をわざわざしかも師匠が先にとって話すというのも、なんだが不注意か意地悪か、という気がするが、円朝は師匠の円生とはあまり馬が合わなかったらしい。その辺のいきさつは、矢野誠一『三遊亭円朝の明治』(文春新書、1999年)に譲る。

それならばと、円朝のオリジナルへの執心はすさまじい。そのすさまじさが、名噺家としての名声を高めることになった。條野採菊や河竹黙阿弥らは、円朝とのいわば仲間でもあり、彼をサポートしたと言われている。また、岡本綺堂は、円朝には小説家としての才能があり、十分やって行けたのではないかということを言っている。




寄席と黙阿弥   プロの意地と模倣

さて、その同じ落語がらみで、岡本綺堂が紹介しているつぎのエピソードは、著作権の争いそのものとは言えないが、落語と歌舞伎のプロ同志の意地と争いの例でもある。

河竹其水(のちの黙阿弥)と仮名垣魯文が葺屋町の寄席に出かけた。玉屋栄次が高座に上がって、
    「……今晩も狂言作者で名高い河竹其水(黙阿弥の俳名)さん、戯作で売出しの鈍亭魯文先生なぞがお見えになっております。この先生方もわたくし共の話を聴いて御商売の種になさいますので……」
と言った。これに対して、魯文はニヤニヤ笑っていたが、黙阿弥は、むっとして席を立って帰ったという。

それぞれの反応を見ていると、それぞれの人物が見えるようで面白い。綺堂は、「その当時の戯作者や狂言作者が寄席の高座から種々の材料を摂取していたのは、争いがたい事実であった」(明治の演劇284頁)と書いている。むろん、その逆もあったらしい。

では黙阿弥はこれに懲りて、それ以降、落語や講談のネタから拝借することを止めたわけではない。実際、黙阿弥の場合は、約300本の脚本のうち77本が講談や人情噺と関係があり、しかもその大半が代表作という研究がある(梅崎史子「黙阿弥作品と講談」『世話講談―黙阿弥物の展開』)。たとえば、落語からの翻案で、黙阿弥の世話物作品の代表作とされ、今日でも上演されるのは、「髪結新三」(『梅雨小袖昔八丈』(つゆこそでむかしはちじょう)、明治6年作、同年4月中村座初演)である。

講談や落語をそのまま戯作に転用すれば問題はあろう。とくに講談や落語にそのオリジナルがある場合はとくにそうである。この場合、いかに創意を加えているかがポイントとなる。綺堂は、黙阿弥などの作には自己の創意が多量に加わっているのが多い、とも注記している。ならば、ネタは落語や講談でも、脚色などに著作物としての創意があるといえようか。

時間的には前の話になるが、黙阿弥の作品で『梅雨小袖昔八丈』という歌舞伎がある。世話物として評判の高いもので、今日でも演じられているようだ。先ほども挙げた「髪結新三」だが、実は落語で評判だったものを芝居に書きなおしたものに他ならない。




桃中軒雲右衛門   浪花節は音楽ではない?!

浪曲でも有名だが、法律の世界でも有名になったのは、桃中軒雲右衛門である。これに因んで「桃中軒雲右衛門事件」と呼ばれもする。夏目漱石は、桃中軒雲右衛門の浪曲はあまり好きではなかったことを書いている。

桃中軒雲右衛門事件の最上級審判決は、大審院判決大正3年7月4日、刑事判決録20輯1360頁にある。これはもともとは、刑事裁判の付帯私訴であるが、これによると、桃中軒雲右衛門という有名な浪曲師が吹き込んだレコード(平蝋盤といっている)の製造販売権を持っていた者が原告となって、その許諾なしにレコードを製造販売した者を被告として、著作権侵害を理由に不法行為による損害賠償を求めた事件である。つまり、海賊盤を作って売っている者を相手に、著作権侵害で損害の賠償請求をしたという、今でもありえるケースである。

大審院(1947年以前の最上級の裁判所)は、
    「浪花節ノ……演奏者ハ多クハ演奏ノ都度多少其音階曲節二変化ヲ与へ……瞬間創作ヲナスヲ常トシ……斯ル瞬間創作二対シ一一著作権ヲ認ムルが如キハ断ジテ著作権法ノ精神ナリトスルヲ得ズ」
とした。西洋音楽のように音符に標記できず、また、いわゆる節回しが演者の個人や個性によって微妙に変化し、それが瞬間的であるから、このような浪花節には著作権を認めることができないとした。原告に著作権が認められない以上、いわゆるレコード(平蝋盤)を複製した(著作権が認められると“海賊盤”を作った)被告の責任を問うことはできないとされたのである。

つまり、本件大審院判決は、海賊版の製造販売が「正義二反スルハ論ヲ侯(ま)タザル所ナリト雖(いえど)モ」、「之(これ)二関スル取締法ノ設ケナキ今日二在テハ之ヲ不問二付スル外他二途ナシトス」と言うが、いささか苦しい(注・原文にはないが、( )の中は読みを付した)。なお、現行著作権法96条以下では、「レコード制作者の権利」が認められるから、雲右衛門の浪花節の著作権はむろん肯定され、保護される。

この判決以後、不法行為による損害賠償責任が問題になるときに、明文で所有権などのように「○○権」と認められているものだけが、保護されるかどうかこの後、大きな議論になった。世間の常識と離れていたから、逆にこの判決は有名になったといえるだろう。




綺堂、右往左往   桜痴居士の著作権と東京日日の編集著作権?

明治24年に東京日日新聞社の経営者が交代し、関直彦から伊東巳代治に移った。このため編集方針も変った。明治25年になって、(福地)桜痴居士が東京日日新聞に連載した小説『山形大貮』を作者自身が、「同社には無断」で春陽堂から出版させた。「日日新聞は一旦その紙上に掲載した以上、自分の方に権利があると云った」のに対して、桜痴居士は、「頑として、その権利は著作者にあると主張した」岡本綺堂『明治の演劇』128頁(大東選書)。

まだ日日新聞社入社2−3年目の記者である綺堂は、桜痴居士との間に立って交渉することになったが、築地(桜痴の自宅がある)に行けば高飛車で叱られ、右往左往したという。同社の記者で先輩の塚原渋柿園も口を利いたらしいが、この事件はうやむやに納まったという。この明治25年頃には社主・編集長も関直彦から伊東巳代治に替わり、社の方針も変化したという社内事情もありえよう。結局、どのように決着が付いたかは判らない。それ以来、桜痴居士は東京日日新聞上に筆を執ることはなくなった。

桜痴としては、かつて自分が主筆として編集を預かっていて、自分の新聞社のようなものであったが、恩を仇で返されたという感じだったろう。むろん、初掲誌は日日新聞であっても、著作権は著作者にあるのだから、別個に出版するのは著作者の権利である。その辺りがまだ未確立の時期であったのだろう。

綺堂は「今では問題とならないが……」と前置きをして、上のような話を書残している。ということは、書いている時点では、すでに作者に転載の権利があるということが確立している、ということになる。




黙阿弥の、死者の名誉毀損事件   モデル戯曲に政治の威嚇(をどし)

この項は渡辺保『黙阿弥の明治維新』(1997、新潮社)に負うところが大きい。

モデル小説は、明治期も多い。徳富蘆花の『不如帰』、夏目漱石『坊ちゃん』などが代表例といえよう。黙阿弥が名誉毀損しかも死者の名誉毀損事件に巻き込まれたのは、つぎの2つの事件である。一つは、『黄門記童幼講釈(こうもんきおさなごうしやく)』と、もう一つは、『夢物語生盧容画(ゆめものがたりろせいのすがたえ)』である。

その1.『黄門記童幼講釈(こうもんきおさなごうしやく)』

黙阿弥の、明治10年の作である。これは、1684年、大老堀田正俊(劇中では、左団次演じる「織田越後の守」と変名)が千代田城中にて若年寄の稲葉石見守正休に刺殺された事件を芝居にしたものであった。ストーリーは、織田越後守が現将軍をなき者として、5代将軍として綱吉擁立をして、天下を横領しようと企てたというものであった。
かりに、黙阿弥のストーリーが真実ではないとすれば、今日から見れば、死者の名誉毀損に関する事件ということになる。

 これに対して、堀田正俊の子孫の、旧下総佐倉藩主堀田正倫伯爵が、祖先の功績を汚すというので怒った。このため、堀田家の用人依田八郎右衛門貞則の孫で、慶応三年には佐倉藩江戸留守居役を勤め、明治維新後には第一回地方官会議の書記官となり、修史局に勤務する官吏である依田学海が、まず、団十郎に抗議の手紙を書き送った。つまり、主家の危難を用人が交渉に当るという図式である。この依田学海とは、後に市川団十郎と連携する、漢学者で劇作家の依田学海その人である。彼は、団十郎のファンであったらしい。

抗議は、念入りに、取締りから世論対策まで何度もなされている。12月8日には、学海の兄で、依田家の家督を継いだ依田柴浦が警視庁に、再三上演の中止・禁止を求めて、抗議をした。さらに、12月19・20日には、学海が検事局に抗議を申し入れている。結局、警視庁は取り合わなかった。さらに、彼は、以前に新聞記者だったこともあって、『黄門記』に好意的な劇評を書いた新聞各誌に抗議文を送った。このために、新聞各誌は弁明し、黙阿弥の歴史的事実に対する無知を攻撃する態度に変化し、12月から翌3月までその攻撃は続いたという。参考・倉田喜弘「依田学海の演劇観」『学海日録』月報9

黙阿弥が、これらの抗議や圧力に対して、心中穏やかでなかったろうことは推測できる。対策としては、抗議を受け入れて、当該個所の部分を書き改めるという方向であったろう。しかし、興行主の守田勘弥は、大ヒットしているこの作品の興行をあきらめるわけにはいかなかった。そこで収拾に乗り出す。明治11年正月から、題名を『稚児模様曽我館染(ちごもやうそがのごしよそめ)』と改め、件の織田の部分を削除して、上演に及んだ。また、依田学海と歌舞伎との接近を図るようになる。守田は学海をとり込もうという訳である。ただ、守田勘弥の政治家その他との接近はその後も形を変え、拡大して行く。これで依田らの抗議運動もなんとか終息したようである。

この経緯があるがために、官僚・漢学者であった学海が、この後、団十郎と手を組んで、歌舞伎作者となる道を開いたなどというのは、あまりいかさないが……。学海の劇作は、史実に重点をおいたもので延々と続く歴史の記述や解説のようなものであり、人気はなかった。またその演劇改良はかなり過激であったらしく受け入れられなかった。

この事件の教えるところは、劇作家にとっては重大な、致命的な教訓を含んでいる。歴史的な事件の評価は後世においてさえ定まりにくい。ある立場や見解に立って作品を書けば、それは遺族などからクレームや名誉毀損だと糾弾される糸口を与える。これでは、(劇)作家は歴史もの(歴史劇)を書けなくなる。肝心なところで曖昧にして収まりを付ければ、芝居としては失敗か不満足になる可能性もある。法律的には、表現の自由か名誉毀損かの問題に突き当たる。

誰も自分の祖先が悪者であるとか犯罪者であるとか、歴史的に見て明らかでないことをある特定の考え方や立場に立って、断定的に言われるのは、好まないだろう。吉良上野介などそうであろう。それをまた、面白おかしく、かつ影響力の強い、芝居や歌舞伎という形で広められるのも腹立たしいといえるだろう。それは判るが、堀田家や依田家のクレームは、過去の歴史的事実に関する一見解(解釈)に過ぎない。作者・黙阿弥としては、当時流布している見解(これも、数は多いといえるだろうが、同じように一見解であるし、一解釈に過ぎない)に依拠して、戯作を書いたのである。つまり、遺族側の見解(解釈)や希望(名声・名誉)の方が優先されるべきであるとも言えないのである。

歴史的事件や事実がその時代によって180度も違う評価を与えられる可能性がたえずあるとすれば、私たちはそれを時間に委ねておくほかはなかろう。ビートルズ風にいえば、Let it be !(そのままにしておいて、時間に委ねよ) の知恵や含意と同じことだろう。つまり、思想や考えの自由な市場に委ねておくことしか出来ないのではなかろうか。ちょうど科学的発見のように、真実かどうかは市場によって明らかになると言うべきだろう。誰かが自然の事象からある法則(この段階では仮説)を発見・思いつく。それをいろいろな条件に変えて、実験・検証(テスト)する。他方、誰かが、その仮説の曖昧さや欠陥などを見つけて反論する。それに対して、再反論や再検証が繰り返されてゆく……というべきあろう。

歴史的事実の扱いに、故人やその遺族や家系の者に対するよほどの悪意や重大な過失がある場合以外は、表現の自由を認めるべきではなかろうか。それでないと、そうではないという反対の事実の発見や反論も生まれてこない。依田学海から抗議を受けたからといって、手のひらを返すようにすぐに新聞各紙が正反対の立場をとるのは、やや拙速・短慮に過ぎるようだ。旧劇の「総大将」としての河竹黙阿弥批判が背景にあるのかもしれない。

その2.黙阿弥のモデル戯曲  『夢物語盧生容画(ゆめものがたりろせいのすがたゑ)』

河竹黙阿弥も、多作であるだけに災難続きだ。つぎは、明治19年5月(新富座)の『夢物語盧生容画(ゆめものがたりろせいのすがたえ)』で渡辺崋山と高野長英をモデルにしたものである。

画家でもある渡辺崋山と高野長英の話を扱った歴史(時代)物だが、崋山が洋書を読んで海防を論じ(『慎機論』)、また長英が蘭書を翻訳したり、意見を発表するなど(『夢物語』)して、幕府の政策を批判したとして弾圧を受け、鳥居耀蔵らに捕われて、崋山は蟄居の後、切腹して果てるが、他方、長英も投獄された。これが、1839年の弾圧事件である蛮社の獄である。しかし、高野長英は、牢屋火災のため解き放たれた(牢払い)機会に、逃亡する。これらのいきさつを描いた作品である。

ところが、高野長英の側(子孫)からクレームがついた。逃亡中の高野長英が新宿の宿場女郎から25両の金をもらうとされたことと、伝馬町の火事のために解き放ちになった長英が荒川段斎を脅して金を出させるところ、である。遺族側の主張は、長英が遊女から金を貰うような、また、他人から金を脅し取るような人物ではなかったという点にあった。荒川段斎が劇中で滑稽に描かれていることに対して遺族の側からも抗議があったという。しかも、この荒川家の側は、明治のこの当時の医学界の重鎮であり、政治家の後藤新平を動かしての抗議であったという(渡辺保・前掲書308頁)。

 これらの抗議に対して、黙阿弥は蒼くなって震えて、興行主である守田「勘弥に対(むか)つて一日も早く芝居を中止して貰いたい」とまで申し込んだという。河竹繁俊「河竹黙阿弥」『黙阿弥全集 首巻』308頁(春陽堂、大正14年7月)。

田原町の博物館 渡辺崋山コーナー

高野長英記念館(岩手県水沢市) 『夢物語』が読めます。



毒婦報道と訴訟  「浮いた浮いたと浜町河岸に」おぼろ月夜の上演・報道の中止!

著作権そのものが侵害されたケースというわけではないが、著作権そのものが成りたたない場合がある。国や法律によって、書くことや演じること、また発売そのものが禁止されることがある。今日では、猥褻や残酷など公序良俗に反する場合に限定されている。さらに、その限定そのものにも批判があることは、映画や雑誌の上演・発売禁止などの事例で知るところだろう。いずれにせよ、これらの重大性は、表現行為そのものを制限することにある。

『月梅薫朧夜(つきとうめかおるおぼろよ)』花井お梅事件と歌舞伎
明治21年、黙阿弥が73才の時の作品である。

これはいわゆる毒婦ものを脚本にしたものである。私なぞが知っているのは、「浮いた浮いたと浜町河岸に……」の歌の方であり、山田五十鈴などが演じた新派の悲劇『明治一代女』(川口松太郎作)の方が有名かもしれない。

待合茶屋酔月楼の女将の花井お梅は、明治20年6月の夜、浜町の旧細川藩邸脇の路上で、雇人の峰吉を背後から出刃包丁で刺し、殺害した。直後に久松警察署に自首した。お梅は、旧士族の娘で、柳橋、新橋の芸者あがりで、実父の名で同楼を経営していたが、経営上ごたごたが続いていたらしい。峰吉はお梅の芸者時代の箱屋であった。お梅が峰吉を殺すに到る事情は複雑だが、殺人罪として重罪裁判所へ移管された。その後、同年11月21日、お梅側が上告し、翌明治21年2月28日には、当時の最上級審である大審院法廷が開かれた。尾上菊五郎は傍聴に出かけたという。

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 図は、国周によるもので、尾上菊五郎扮する花井お梅。被疑者として笠がかぶせられている?

訴訟の系属中ゆえに、上演も延期された。これは、当時の新聞紙条例第33条に「重罪・軽罪ノ予審ハ、公判ニ付セザル以前ニ之ヲ記載スルコトヲ得ズ」という規定があり、これに違反するのを恐れたためであった。4月10日に上告棄却となったので、やっと4月28日になって、黙阿弥作『月梅薫朧夜(つきとうめかおるおぼろよ)』が、中村座で尾上菊五郎などによって初日になったという。(この項、東京大学総合研究博物館目次のうち「ニュースという物語」、渡辺保・黙阿弥の明治301頁以下に負うところが大きい)

前記の新聞紙條例によって刑事事件の訴訟が係属中は、芝居も上演できないが、新聞記事も書けなくなってしまう。たとえば、「梅雨衣酔月情話」はやはりお梅事件に関するもので、『東京絵入新聞』明治20(1887)年7月8日の記事である。しかし、連載の第30回で中断した。むろん、前述の新聞紙条例第33条に違反することを恐れたためであった。なぜこのような規定が設けられたのか。裁判中の事件を、マスコミがうるさく騒ぎ立てるのを防ぐためだったのだろうか。あるいは、巷談や噂が、裁判官などに広まって、それがために予断を与えることになるからであろうか。

いずれにしても、言論の自由が原則である今日には通用しない規定といえよう。だが、残忍な事件の報道や少年事件では正面きってではないにせよ少年の人権保護に名を変えながらも、そういった規制への動きも事実的に見られる。また、形を変えては、選挙の投票日の数日前からは、新聞やTVの投票結果の予測を出してはいけないとするような風潮(フランスには、実際そういう法律がある)や政界からの圧力がわが国でも近頃あるように聞くが、マスコミのそういう自主規制は感心しない。作為的な無知のベールで視聴者・国民を覆っておくことは、静か(クール)で、公正・中立的な(投票)判断を生み出す前提にはならないし、それ(覆われていること)を知った有権者は、投票所へ行くことにますます興ざめを感じるだろうし、かえって政治離れを進めてしまう結果となるだろう。それが狙いだとしたら……。

毒婦事件としては、花井お梅事件の前に、やはり高橋お伝事件もあり、こちらも芝居や劇化されたものがある。どうして女性(美貌の?と修飾すべきか)による夫や愛人殺しが「毒婦」と呼び習わされて、当時のマスコミはじめ報道や芝居(化)は過熱するのだろうか。今の世も同じことではあるが。逆の場合には「毒夫」とはいわないから、女性に対する差別意識の現れとする見方にも十分の理由はある。

また、明治の人も、他人の栄華と転落を事件の中に見て、他山の石としてわが身の振り方に生かしたかったのかもしれない。貧乏人の苦労話にはだれも見向きもしないが、貧困から身を起こして出世する話は巷間の噂となり、富める者の没落話は耳目を引くのである。

なお、事件の経緯や当時の新聞記事など詳しい、読売新聞のトッピックスのうち 「続「作られた毒婦」花井お梅」

平田由美「"毒婦"の誕生」 東京大学総合研究博物館「ニュースという物語」シリーズの1つ

紀田順一郎「苦物峯雨酔月真説明治一代女」「残酷物語女囚『明治一代女』」『明治風俗故事物語』河出文庫、1985)
 事件の経緯はじめ、無期徒刑のお梅は特赦により15年間の、女牢名主・監獄制度などとの戦いもまたすさまじい。




岡本綺堂、怒る   無断興行

岡本綺堂はなかなか抑制のとれていた人らしく、感情を露にするなどということはほとんどなかったようだ。が、……。

ある朝、綺堂が、新聞を読んでいると、広告欄に○△座で、自分の戯曲を演題に挙げている。これに承諾を与えた覚えがないので、さっそく抗議文を一筆したためて、その座へ速達で送った。2−3日すると返書があり、その座は松竹系列で、松竹そのものに承諾が与えれているものと勘違いして、演ることにしたらしい。

戯曲や小説からの戯曲・脚本化も、著作者本人の承諾・許可をとるというのが一般的である。




岡本綺堂、訴訟鑑定人となる

テイチク(帝国蓄音器商会)が瀬川如皐(おそらく4世と思われる)作の「高山彦九郎」を無断でレコードに作って、著作権を侵害したという訴訟事件である。綺堂は、この事件の鑑定人に指定されたと書いている。大正13年10月3日付、『綺堂日記』240頁。  そして、その後の日記では、やはりこの事件に関して訴訟とは時間の掛かるものであるという慨嘆を記してもいる。


【追記 7/14/2003】 niti2-s021110.gif

どのようにこの訴訟が帰趨したか気になっていたところだが、どうやら訴訟は、原告の瀬川如皐氏の勝訴に帰したようだ。つぎの東京日日新聞昭和2(1937)年11月10日の記事は、それを報道している。
これによると、瀬川氏の戯曲である「高山彦九郎」を帝国蓄音器商会(のち、合同蓄音器商会)が、原作者の瀬川氏に無断で、沢村訥子ならびに高崎筑風氏をしてレコードに吹き込ませて、発売したいわゆる著作権侵害事件である。大正12年に提訴して、岡本綺堂や小山内薫などの鑑定人(瀬川・原告側)が登場したものである。記事によると、瀬川原告は1000円の賠償を勝ち取っている。
綺堂が、この勝訴判決を日記に書くのは、昭和2年12月15日付けである。瀬川如皐が挨拶に来て、鑑定料50円を東京地方裁判所宛へ請求してくれという話であった(『続岡本綺堂日記』155頁)。

なお、瀬川「高山彦九郎」は、東京放送局が昭和2年10月に高崎筑風の琵琶で放送された事件についても、瀬川氏は訴訟を再び提起したと、この記事にある。著作者もうかうかしていられない。東京放送局(たぶん、JOAKのあの、NHKの前身ですね)も訴訟渦中の高崎氏をして、あえて(?)放送に挑むなど、著作権に対して敏感でないのが、この当時の特徴というべきか。 【追記・おわり】





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