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綺堂作品紀聞 その2 綺堂作品とその実証

 綺堂さん自身から私が聞いたことをまとめたものが「紀聞」と思われてもいけないので、綺堂さんにまつわる話、とくにその作品に関するトピックスや記事を調べたものが「紀聞」の意味です。綺堂さんの話題をなるべくデーターで示して、作品の裏側や実際との関連を実証したいというのが意図です。

    もくじ

    綺堂作品紀聞 その1

    1.「黄ろい紙」は貼られたか
    2.綺堂の最初の著作の秘密
    3.『青蛙堂鬼談』のネタ本
    4.医学生は心中したか (※3と4を追録 12/12/2001)
    5.綺堂の新聞(劇評)第1作について(2001/12/20)

    綺堂作品紀聞 その2(ここです)

    6.ヘボン先生の字書(1/15/2002)
    7.お染風 (3/4/2002)
    8.岡本綺堂の新ペンネーム「狂綺園主人」を発見(6/30/2003)
    9.三崎町の小僧殺し事件(6/30/2003)
    10.相馬の金さん(予定)

6.ヘボン先生の字書―ヘボン、岸田吟香

 綺堂が、築地にある府立第一中学時代、厳しかったチャペル先生の英会話の勉強のためといって、親に2円50銭を出させて買ったのが、ヘボンの和英字書である。旧日報社の北隣に「めざまし」という汁粉屋があり、またその隣に古本屋があった。父に相談すると、日ごろ「お前は役に立たぬ書物を無闇に買ふので困る」と毎々両親から叱られてゐる矢先である」(岡本綺堂「ヘボン先生」『五色筆』218頁(南人社、大正6年11月25日)と書いている。綺堂少年、この当時から、本読みであったようだ。また、父純(きよし)も大分文筆に手を染めていたはずなのだが、息子が戯作本ばかり読んで勉強しないというつもりだったのだろうか。

ヘボン式ローマ字は知っているが、ヘボンに辞書があったとは、知らなかった。たまたま当時の新聞広告を見つけて、驚いてしまった。まず、ヘボンは「ヘップバーン」だった。というのは、“ヘボン”はつい昨日までHebbonぐらいに綴るのだと思い込んでいたが、実はJames Curtis Hepburn(1815‐1911)だったのだ。漢名を平文と書いたようだ。ギョエテといったゲーテの例が思い出される。もう一つの因果は、ヘボン=岸田吟香=東京日日新聞=岡本綺堂というつながりが、浮かんできたことだった。

伝記風に書くと、ヘップバーン(ヘボン)氏は、ペンシルヴェニア州出身でプリンストン大学およびペンシルヴェニア大学卒業後、医師となった。アジアでの伝道を志して中国厦門(アモイ)で働いていた。1859年北長老(プレズビテリアン)派ミッションの派遣で来日して、神奈川、横浜で施療所を開業した。誠実な人柄と優秀な治療で好評を受けた。要するに、アメリカの宣教医である。聖書翻訳を完成したことでも有名である。また、夫人が始めたヘボン塾は後の明治学院やフェリス女学院の前身であった。大村益次郎もこの塾に学びに来たようだ。ヘボンは明治学院初代総理(1889‐91)となった。92年帰国して、ニュージャージー州で死去した。

さらに、ヘボンつまりへップバーンは「和英語林集成(わえいごりんしゅうせい)」を1867(慶応3)年に刊行した。これが日本最初の和英辞典である。ヘボンはキリスト教禁制下にあって、将来の宣教事業に役立てる目的で編集したようだ。和文書名である「語林集成」の命名者がヘボンの5人目の日本語教師である岸田吟香である。第9版(1910)まで版を重ねたという。明治期の代表的な和英・英和辞典であった。第3版で使用された羅馬字会の方式が今日ヘボン式と呼ばれているものである。

hepburn0b.jpg<図> 右の新聞広告は「和英英和語林集成 第4版」 郵便報知新聞 明治21年4月19日付より

広告によると5月30日まで予約売価5円50銭、6月1日より正価7円50銭としている。中学生綺堂が古本屋で購入したのは、この版だったかも知れない。

ヘボンは、また歌舞伎界にも名を残している。明治初年頃の歌舞伎界にあって、人気の女形といえば、澤村田之助であった。菊五郎、左団次とほぼ同年代である。「最もすぐれた技能とそして最も惨(いた)ましい運命とを併せ有った天才は、実に彼の三代目澤村田之助でございました」(関根黙庵・明治劇壇50年史)。

慶応元年3月、黙阿弥作の「紅皿欠皿」の所演のとき、松の木に吊るされて継母に責められる場面で、綱が切れて落下し、舞台で足を痛めた。これがもとで、脱疽に罹り、ヘボン医師の診察・治療を受けたが、両足切断さらに両手切断したが、舞台を勤めたという。明治11年発狂して、34歳で死亡した。

さて、もう一つの線、岸田吟香(1833‐1905(天保4‐明治38))は、岡山の生れで、本名は銀次という。江戸の藤森天山について漢学を修めたが、水戸派の天山の高弟であったため幕府の追及を受け潜伏生活を送った。雅号の吟香はこのときの銀公をもじったものである。

岸田は、目を悪くして、ヘボン氏の診察を仰いだらしい。それが縁でヘボンのところに住み込んで、日本語教師の役を務めたようだ。また、アメリカ帰りの浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ、日系アメリカ人第1号)の影響で新聞に興味をもち、横浜で浜田の「海外新聞」発行に協力した。67(慶応3)年には回船商社を設立、汽船を購入して江戸・横浜間の運送に従事した。1868年にはアメリカ人バン・リード(Eugene M. Van Reed)と共同で「横浜新報もしほ草」を創刊、また独力で「金川日誌」を発行した。1873(明治6)年には《東京日日新聞》に招かれて主筆として活躍し、同紙の評判を高めた。1874年の台湾出兵の際には、日本で最初の従軍記者として戦況報道に活躍している。「和英語林集成」は吟香がネーミングしたものという。

ginko.jpg右図は東京日日新聞736号

吟香は巨漢だったらしく、台湾で土地の人に背負われている錦絵が出ている。この記事によると、渓流を渉ろうとすると、土地の人の申し出で、背負ってやろうと言われて、一応断ったがなおもというので、背負われたところ、あまりの重さに3歩歩まず……!で、結局辞めになったという。同僚記者、転々堂藍泉が記したものだが、23貫目といっているので、1貫目=3.75キログラムとして約87キロだったということになる。現在だとこの程度の目方の人はたくさん居ますね。絵は、創立者の一人、落合芳幾である。

seikisui.jpg吟香は、ヘボンに伝授された目薬の「精リ(せいき)水」(「き」の漢字=「金偏+奇」)を銀座の、東京日日新聞の隣である楽善堂で製造・販売した。日中貿易の促進や日中友好に貢献、盲唖学校の先駆である訓盲院の設立(1876)など多様な業績を残すなど、新聞記者・ジャーナリストに止まらない企業家の面を持つ明治人と言えるだろう。画家の岸田劉生(りゅうせい)はその四男である。
(上図は朝野新聞明治9年9月23日の「広告」(このとき朝野新聞では「報告」欄での扱いである.このほか「売家広告」という案内もある)より.「美国(アメリカ)の大医平文先生より直伝の名方にして……」とある。東京銀座2丁目1番地が所在地. 岸田の出身である岡山の方のHPには、看板や薬壜の変遷などの紹介がある。)


7.お染風

綺堂は、「お染風」『綺堂むかし語り』20頁(1995、光文社)において、春2月、向島の三囲(みめぐり)神社辺り(正確には梅屋敷)を叔父(たぶん武田悌吾ですね)と訪れたときに、付近の農家の十七、八歳くらいの白手ぬぐいを被った娘(最近はとんと見かけませんね)が、出かけるときに、戸口に「久松留守」という女文字の紙を貼り付けているのを目撃したと書いている。「久松留守」というのは「お染風」避けのまじないである。綺堂のこの随筆の真髄は、向島へ来てインフルエンザにまでも「お染」という女名を付けるという、そういう優雅なことが行われていた江戸気分というものを呼び起こすところにあろうかと思う。

お染久松といえば、近松の作品であるから、本場は大阪である。明治23・4年頃、東京でも近松作「お染久松」の芝居も巷間に有名だったのだと思っていたが、実はその江戸版の歌舞伎があったのである。鶴屋南北作の「道行浮塒鴎(みちゆきうきねのともどり)」(お染)で、三囲神社鳥居前が舞台である。日本橋の油屋の一人娘お染は、親の決めた祝言を嫌って家を飛び出し、後を追いかけて来た丁稚で恋人の久松はお染との間の子を抱いているが、ともに大川へ飛び込んでしまう。おそらく綺堂は、お染といい、三囲神社付近といい、作品との面白い因縁を感じたことであろう。

はたして、お染風と呼び習わされていたのだろうか。寡聞ながら、他の作品や文章などでは聞いたことがない。そこで、さても新聞から裏をとることになる。調べてみて驚いたのは、明治23−4年の当時にすでに「インフルエンザ」の語が新聞で用いられていることである。むろん「流行感冒(はやりかぜ)」などの表現も見られる。

このインフルエンザをお染風邪と呼んでいる、などという直截な証拠は見つけきらなかったが、どうやらそう呼び習わされていたらしいという記事を見つけたので紹介する。

三遊亭圓遊の高座での逸話である。私は知らなかったのだが、圓遊といえば、あの三遊亭圓朝の高弟であった。しかも圓遊は寄席四天王と呼ばれた噺家らしい。大きな鼻が売物でもあったようで「鼻の圓遊」とか呼ばれもし、またあの「ステテコ」の由来となったステテコ踊でも有名であった。珍芸で売る圓遊の芸風は、師匠の三遊亭圓朝とは大分違っていたようだ。

寄席といえば、私にとっては漱石なのだが、夏目漱石が「三四郎」のなかで3代目柳家小さんを天才と言わしめているが、また三遊亭圓遊ファンでもあったようだ。やはり明治24年7月に歌舞伎座で圓遊の高座を見に出かけていて、両者の顔に残っているあばたで共通項を見出しもしたようだ(矢野誠一「三遊亭圓朝の明治」(1999、文春新書)168頁)。圓遊は1850年生まれというから、明治24年には42歳の頃である。

さて、そのお染風邪の方である。東京朝日新聞明治24年2月7日(四)の「圓遊の頓智」という雑報記事がある。どこの寄席かは書いていないが、高座で圓遊が話していると、客席から、

「ヲイ圓遊さん、お染風久松風といふ名は如何(でう)いふ処から云出したんだエ」
「エゝ、それハ何ですテ夫れハソノ……」
とはじまって、

「或るドクトルの説に」よれば、今度のインフルエンザは、最初に早く罹った方が(病状が)軽くて済む、遅くに罹った方がどうも重症となるようだ。このため「おそめハ怖いお染は怖いというのでこれ即ちおそめ風」といったという。また、健康自慢でまだ僕の家にへはまだ来ないよとわざわざ不養生不衛生などをして「久しく待てゐる」ような方には遠慮会釈もなくたちまち感染する、「これ即ち久しく待つで久松風だ」と承っている、と圓遊が返した。
お後がよろしいようで……。質問した客は圓遊の頓智に感心して、新橋でご馳走したという。

「お染風」といわれていたことはこれでも分かるかと思う。

さて、この時に猛威を奮ったインフルエンザ話題をあと少しばかり。

薮入りの延期

1月16日といえば、薮入りで、奉公している人達の楽しみの一つというか、少ない休日の1日である。このインフルエンザのためにこの薮入りを延期した店もあったようだ。それでも、薮入りとあって、上野浅草芝公園もなかなかの賑わいだったと書いている。東京朝日新聞明治24年1月17日(四)「十六日」。

「ミ、トゥー(Me、too.)」 お染風邪に効く温泉

ある省での逸話。上司がインフルエンザで休んでいるので、部下の官吏(下谷池の端茅町在の東田某)がこれ幸いに、梅見にでもでかけようと、これまた2・3日インフルエンザを理由に役所へ出勤しなかった。友人に誘われて鶯谷の温泉(以前、あるいは今日もあったのですか?)へ出かけたところ、風呂場でばったり、上司の課長と出くわしたという、ありそうな話しです。課長は、牛込の唄い女を引率して、同宿の2階に来ていた。

「イヤこれハ東田さんインフルエンザにハ至極此の湯が効能(きく)さうですな」
「ヘイ私も其の通り試みに参りました」
と返答しましたとさ。東京朝日新聞明治24年1月18日

よし原の芸妓も寝込んで二重高鉢巻

1月早々、インフルエンザで寝込んでしまって、稼ぎ時の一月を棒に振りそうだし、懐や米櫃の都合も危ういというので、よし町の芸妓、寝れるに寝られずまた気が重くなってもう一つ鉢巻をせねばならぬという、かわいそうなお話(東京朝日新聞明治24年1月29日。)。芝居などでは、殿様とかが病気のときに頭の横で結んでいるあの紫色の鉢巻のことでしょうかね。紫色は頭の熱を奪う、つまり熱を下げると考えられていたと聞いたことがありンス。

インフルエンザの妙薬

この手の薬には事欠かないが、効き目の程はいかならむ。本郷の薬屋の発売した「発汗新剤」が前年流行の折効能著しかったので今度も信用を得て、売上高を増した、と報じている。東京朝日新聞明治24年1月29日。

記事の日付を見ただけでも、いかにお染(風邪)が久松探しに飛び回っているか分かりますよね。ちなみに、明治23年11月、12月の記事も大急ぎで繰っては見たのですが、インフルエンザに関する記事はあまりなかったようです。

もう一つ、本当に東京庶民の間で「久松留守」の張り紙が戸口へ張られていたかどうかは、未確認です。


8.岡本綺堂の新ペンネーム「狂綺園主人」、を発見

著作リストには「狂綺堂主人」とありましたので、初めから堂の付くものと思っていて、そうなのかとまったく疑わなかったのですが、実は短い時期ですが、「狂綺園主人」と名乗っていた時期があります。このため、著作リストの方も訂正する必要があるようです。

園系のネームである「狂綺園主人」のネームは、日日新聞入社の1−2年という新米記者のときのです。おそらく、先輩の塚原渋柿園が名づけたか、あるいは彼に因んだものだったのでしょう。

私が現認した限りでは、「狂綺園主人」を使った最初(の方)は、東京日日新聞明治24年5月13日の「新富座漫評」と思われます(下の左図参照)。
明治24年9月23日の東京日日新聞の記事「色男の試験 上」までは「狂綺園主人」を使うのですが(中図参照)、なぜか連載の途中で、「狂綺堂主人」と改号しています。色男の試験(きもだめし) 中」東京日日新聞明治24年9月25日がそれです(右図参照)。この後には、園系ネームは使っていないようなので、9月23日分がその最後となります。
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左図 「新富座漫評」 東京日日新聞明治24年5月13日
中図 「色男の試験(きもだめし) 上」 東京日日新聞明治24年9月23日
右図 「色男の試験(きもだめし) 中」 東京日日新聞明治24年9月25日

このように、「狂綺園主人」のペンネームは長くは用いなかったらしく、約5ヶ月の後には、狂綺堂主人に変えています。今度は堂系に転じたわけです。このあと、さらに「狂綺堂」から「綺堂」へと変化を遂げます。


9.三崎町の小僧殺し事件

岡本綺堂は、歌舞伎・芝居の修業のため、春木座、のちの本郷座、に出かけたて勉強したわけですが、麹町・半蔵門から本郷までは徒歩でした。しかもまだ薄暗いというか、夜の4時頃だったようです。握り飯か、パンを齧って出かけたのでした。さて、そのときに三崎町を通らなければ、本郷へ通じる水道橋に出られません。当時、三崎町はまだ草原でした。しかも、野犬が何匹もいて、綺堂少年は棒か竹で、追い払わねばならなかったのです。また、闇の中です。
 さて、綺堂は思い出をつづった「三崎町の原」の中で、この三崎の原っぱで人殺し事件があったと書いています。果たして、どんな事件だったのでしょう。私が新聞をめくっていて、見つけたのはつぎの記事でした。

「三崎町の子僧殺し」(東京朝日新聞明治23年3月29日(六))
 本郷4丁目の卵子商の、17歳の雇い人は、同年2月28日神田三崎町の練兵場において殺害された。犯人は富士見町の地卵子商の田中某(26歳)、同妻(21歳)、杉某(同居人、29歳)らが、内金5円あまりを17歳の雇い人に支払った後、所持していた掛金70円あまりを奪った、とある。

 おそらく若い掛金取りが来て、方々を集金して小金を持っているのを知り、上記3名らが三崎町の原でこれを襲って、強盗殺人したというもののようだ。17歳とは同年代でもあり、しかも人気(ひとけ)がなく、原っぱの夜道を歩かねばならない綺堂としては、決して他人事ではなかったのでしょう。
 この事件以外にもあるのかもしれませんが、まず綺堂が書いた事件は、時期的に見てたぶんこの事件だったと思われます。三崎町は、江戸から明治になっても練兵場であったようで、さらに民間に払い下げられたように聞いています。河上音二郎が最初の持座となる三崎座を作ったのも、ここで、明治30年代のことです。

10.相馬の金さん

(この項、続く予定)




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