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綺堂マップ




 岡本綺堂にゆかりの深い町や土地をシュミレーションしてみます。

1.少年時代から震災まで、& 大正13年から1933(昭和8)年5月まで: 麹町区元園町

 ・用いた地図は、明治19年に作成されたもの(原図1:10000)。
 ・参考にしたのは、『岡本綺堂日記』(青蛙房)および『綺堂むかし語り』(光文社)その他随筆記事などによる。
 ・なお誤りや正確でない所がありましたら、ご連絡頂ければ幸いです。

 1875(明治8)年、綺堂3歳のときの、秋、英国公使館が高輪から、ここ5番町に新築落成して移転したため、岡本家も麹町区元園町1丁目19番地に新築した。夜学や勤務の都合による下宿や関東大震災による被災のため、この地を一時離れることもあったが、1933(昭和8)年5月まで元園町1丁目界隈(19番地、27番地)で生活した。

 より正確にはつぎのような移転・転居があったらしい。父が死去した翌年の明治36年に、元園町1丁目19番地に二階建として新築した。オッペケぺー節で有名な川上音二郎が、脚本を依頼するために、汗を拭き拭き、訪問したのは明治41年7月6日で、「2階の書斎へと通すと……」とあるので、19番地の方の家である(岡本綺堂『明治の演劇』(1942年3月刊、大東出版社)171頁)。嫌いだった書生芝居の川上に口説き落とされて、そのとき書いた脚本が『維新前後』で、その後半の「白虎隊」の方が、川上音二郎の芝居で大当たりとなったという次第。川上によって綺堂は実質的にプロモーションされたと言ってよい。また、この作品には左団次が出演することが綺堂の条件だったので、この作品で左団次との以後の連携のきっかけも生まれた。

 ついで、明治44年7月に同町1丁目27番地に転居して、その家を取壊して、大正2年に新築した。この27番地の2階建ての家で震災に遭った。
 震災復興局の区画整理に伴う要請で、27番地の所有地が1尺ばかり削られ、その分道路が拡張されることになった。麻布宮村町や大久保への避難を経て、大正15年11月3日に、新築なったこの地へ転居した。この家も、綺堂自身の設計になるもので、敷地64坪、2階は4畳半(書斎)8畳(座敷)、1階は2畳(寄付)8畳(洋風応接間)4畳半(茶の間)8畳(座敷)6畳(納戸)3畳半(書生)4畳半(女中)の9室と便所二箇所、台所で、建坪56坪であったという(岡本経一「解説」『綺堂むかし語り』328頁)。
 また、作品でいうと「昔の小学生より」の頃が19番地、「ゆず湯」の頃が27番地であろう。綺堂作品の多くは震災前・後も含めて、27番地の方で書かれたといえよう。


明治19年頃の麹町付近  地図の中央右手が半蔵門、左手が四谷方向 拡大図(132 KB)

地図上の番号  説明
元園町1丁目19番地の自宅。元園とは、幕府の調練場や薬園などの園地があったためにこの名が付いたという。たしかに江戸時代の絵図では緑色に塗られている。そのころから、「おてつ牡丹餅」で有名な店が同じ1丁目19番地の角にあったという(明治19年頃まで、後に万屋という酒屋になる)。美人という噂だったおてつさんも、綺堂少年が見たときはおはぐろの40歳くらいだったという。同27番地は2ブロックほど西側になる
綺堂が通った平河小学校。ブランコがあったものの雨の日には水溜りがあって近づけなかった。
麹町女子小学校。綺堂が近いから通うべきか迷った?小学校。女子小学校とあるが、男女共学だったらしい。
平河神社、平河天神。妻のおえいさんと8月の縁日に行ったところ
父が36年勤め、自身も日本語教師となったことのある英国公使館。自宅(27番地)から国旗が揺れているのが見えた。
麹町4丁目の湯屋「荻巣の湯」。ここには二階があり、それが随筆にもなっている。ただ、何番地までは分からない。ここが休日のときは、山元町の湯まで出かけた。この麹町4丁目には、玉吉や小浪などがいた芸妓屋まであった。
5番町と元園町との境の横丁。麹町区役所があったところで、毎日遊んだところ。大きな樫の木があって、どんぐりでやじろべえを作った。
麹町3丁目ー靖国神社に至る大通り。正月に近所の子供たちが紙鳶(たこ)揚げをしたところ
麹町3丁目。この界隈で一番はやっていた、長唄の師匠の杵屋お路久とその美人の娘お花さんがいた。綺堂の姉さんもここへ稽古に通った。綺堂少年は、姉のお浚いに、母親に連れられて行ったことがある。

 補遺
  1.病気持ちだった綺堂が通った病院を挙げえなかったが、内科は紀尾井町の吉岡医院、耳鼻科は平河町の坂元医院、歯科は隼町の小田切歯科であった(岡本経一「解説」前掲328頁)。

  2.三崎町の原・練兵場(80KB、地図は)
 綺堂少年、14―17歳(明治18−21年)の4年間、毎月一回、本郷・春木座(のち、本郷座)へ通うためこの三崎町3丁目の練兵場を、午前4時過ぎに単身、横切った。当時は、首くくりの松があり、追剥が出没し、掛取りの小僧さんが絞め殺され、野犬が襲ってくる……そんな場所だったそうである。劇作家にかける綺堂少年の意気込みと勇気が知れますね。元園町から大使館を過ぎ、富士見町を歩き、この原を抜けて、水道橋を渡り、さらに堀の向こうの本郷春木町まで、まだかなりあり、なかなかの健脚である。このあたりは、随筆「三崎町の原」に詳しい。




2.銀座・三十間堀

 明治25年から28年まで満3年間、京橋区三十間掘1丁目3番地、いわゆる銀座東中通り、に住んでいた(「銀座」『思い出草』168頁、初出、「銀座の新年」中央公論)。東京日日新聞社に勤務していた、まだ駆け出しの記者の頃である。綺堂自身は示唆するようなことは書いてはいないが、自宅のある麹町・元園町から銀座まで堀端を歩いて通勤するのが遠くて不便だったことや、速記や会計などの夜学へ通うことにしたためではなかろうか。





3.1923(大正12)年10月から1924年3月
        ―麻布区宮村町十番地―麻布十番


 関東大震災に遭った綺堂一家は、被災のため転々とする。この辺りの事情は、随筆にも詳しい。震災前後からすこし拾ってみる。

1923(大正12)年
 9月1日 午前11時58分烈震
   2日午前1時頃、市谷方面からの火の手、元園町へ
     親類の小林蹴月宅(麹町区紀尾井町9番地、現・千代田区)へ避難
   2日 筆頭弟子である額田六福氏来訪。午後5時半、額田宅(市外高田町大原1526番地、現、豊島区目白2丁目13番地あたり)へ徒歩にて避難。妻おえい、女中おふみさんともども。

10月9日
 新聞(日記には時事新報とある)の貸家記事で探したり、知人からの情報で方々を探したが、結局、「光隆寺という赤い門の、日蓮宗の寺の筋向いである。」に決まった。綺堂の友人の知合いの弁護士が住んでいて転居後すぐに賃借りして、入居の手続きとなった。2畳3畳4畳半6畳2間の5間。
10月10日
 プラトン社の川口松太郎が小山内薫の紹介状を持参して来訪。大阪の同社では既刊の「女性」のほかに、「高等通俗雑誌」を発行することになったので、連載小説を依頼する。当初は半七シリーズを所望されたらしいが、綺堂は書きすぎたとして、今度は『三浦老人昔話』シリーズを書くことになる。おそらくこのときの新刊予定の雑誌は「苦楽」(大正13年1月刊行・プラトン社)である。

 麻布での生活で目立つのは、罹災後の生活の準備、買物、方々への返礼、来客の接待、散歩、原稿書きなどである。引越の後、数日を経ず執筆しているのには感心する。また、自著作も含め多数の蔵書を失っているので、自分の戯曲集や資料となる古書などを古本屋を巡って買い集めたりしているのが目立つ。
 つぎの地図は、やや時代とそぐわないが、明治19年作成のものを使用。



1(地図上の番号、以下同じ).10月12日 宮村町十番地へ転居
 くもりと細雨のなか、9時頃から馬車で荷物の積み出し、綺堂、細君、おふみさんらは電車を乗り継いで、宮村十番地の借家へ(現、港区元麻布3丁目9番地)。正午に荷馬車到着。光隆寺という赤い門の寺の筋向いで、庭は高い崖に面している。
2.越の湯 入浴したところ
    この他、日の出湯
3.麻布郵便局
4.武蔵屋(呉服) おえいさんと冬物の羽織地と衣服地を購入
5.武蔵屋(中央・雑式通り、文具武蔵ヤ) ここで原稿用紙や文具を買った
6.三河屋 サンドイッチを食した店
7.末広座、のち明治座と改め(右手に末広社)
  左団次一座で自作の芝居(信長記、鳥辺山心中、番町皿屋敷など)を妻おえいさん、おふみさんの一家で見物した。「綺堂復興劇とでも云ひさう」と自讃。
この末広社(芝居神社)の、道路を挟んだ北側には、(寄席)福槌亭があり、姉とおえいさん、おふみさんが出かけた。上の地図では、宮下町13番地とあるあたり。
        * * *

 幸いにも、大正12年頃の麻布十番の商店街の地図が残されているので、これをご覧いただく方がより詳しい。


4.大久保百人町時代 (5/07/2002 作成)


5.上目黒
(作成中)


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