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綺堂ディジタル・コレクション





つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル 化したものです。
 なお、入力者(和井府)自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆  11 小 梅 と 由 兵 衛   『創作の思ひ出』より

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 梅の由兵衛といへば、芝居や浄瑠璃の方では頗る有名になつてゐるが、その實録はかうである。
 大阪聚楽町に梅渋の吉兵衛といふ悪党があつた。かれは渋染屋のせがれであつたので、梅渋と呼ばれてゐた。その女房は小梅といつて、女のくせに博奕が上手といふ代物である。吉兵衛は種種の悪事を働いてゐたが、その中でも往来の人に胡椒の粉を投げつけて眼つぶしを食はせ、その際をみて懐中物や持物を攫つてゆくこと、もう一つは両替屋へ丁銀板を持つて行つて子銀にかへて貰ふ時、巧みに丁銀をすりかへて贋銀を渡すこと、この二つが有名になつて胡椒頭巾の吉兵衛、板換への吉兵衛などといふ異名を呼ばれるやうになつたのである。
 吉兵衛は捕はれて入牢してゐたが、元禄二年四月十九日、大赦に逢つて出獄して聚楽町のわが家へ帰ると、それから満一ケ月後の五月十九日に長吉殺しの重罪を犯したのである。天王寺九右衛門方の丁稚長音が金百両を両換へにゆく途中を待ち受けて、あざむいて自宅に連れ込み、女房の小海が不意に長吉のうしろから蒲団をかぶせ掛け、吉兵衛が脇指で刺し殺した。さうして、その死骸を小橋(をばせ)の野中の井戸へ投げ込んでしまつた。
 夫婦はその金で新地に茶屋を始めるつもりで、一軒の家を借り受け、開業の準備にとりかゝつてゐると、その罪状が発覚した。小梅には三右衛門といふ弟があつて、それが何かの事情で女房を離別したので、離別された女房はその復讐のために天王寺屋の前に落し文をして、長吉を殺して百両の金を奪つたのは、吉兵衛夫婦と三右衛門の仕事であると書いたのである。その落し文に依つて天王寺屋は町奉行所に訴へ出で、六月十九日に関係者一同はみな召捕られた。
 吉兵衛は磔刑(はりつけ)に処せられた、小梅と三右衛門夫婦は大阪追放を申渡された。吉兵衛が長屋の家主與次右衛門は、その事實を知つてゐながら何故か隠蔽してゐたといふので死罪に処せられた。小梅も当然重罪たるべきのを、巧みに云ひぬけて追放の軽い刑罰で済んだが、後に貰ひ子殺しの罪状で死罪となつた。よく/\根強い悪婆とみえる。
 事実は先づかういふのであるが、それを初めて操りの浄瑠璃に脚色したのは、それから足かけ五十年目の元文三年、豊竹座十月興行で、作者は彼の並木宗輔である。外題は「黄染野中隠井戸」で、丁稚の長吉を小梅の弟にこしらへ、吉兵衛を由兵衛とあらためて、夫婦ともに善人に仕立てたのである。この浄瑠璃が好評を博してから、小梅と由兵衛と長吉の名は浄瑠璃にも歌舞伎にも有名となつた。殊に歌舞伎の方で有名になつたのは、並木五瓶作の「隅田春妓女容性(すみだのはるげいしやかたぎ)」に始まる。隅田春の戯曲は寛政八年、江戸の桐座の初演で、並木五瓶が澤村宗十郎のために書きおろしたものである。江戸の舞台に上せるのであるから、大阪の世界をすべて江戸にひき直して、梅渋の由兵衛を梅堀の由兵衛とし、由兵衛が大川端で長吉を殺すことに改作した。それがまた好評を博して、梅の由兵衛といへば誰でも知つてゐるやうになつた。今日でも折々に上演される「梅の由兵衛」はそれである。この戯曲が出来て以来、「野中隠井戸」の浄瑠璃の方は歌舞伎の舞台にあらはれないが、義太夫の語りものとしては今でも廣く行はれてゐて、小梅のクドキの「そなたもわしも難苦行」などは恐らく知らぬ人はあるまい。近来では大阪のぼりの嵐吉三郎が明治座で上演して、秀調が小梅、小太夫が長吉を勤めてゐた。
 わたしが書いた「小梅と由兵衛」ニ幕は、在来の「隠井戸」や「隅田春」を全く離れて、殆ど實録の通りに劇化したのである。したがつて、由兵衛夫婦は善人ではない。忠義のために長吉を殺して金を取るなどといふのではない。自分たちの慾のために可憐の少年を殺すのである。かれらは長吉を殺した後、一種の暗い影におびえながら、やはり弟やその情婦を苦しめたりして、わが身を破滅に導いてゆく。その径路を書いたものであるから、在来の由兵衛や小梅を見馴れてゐる観客には少しく勝手ちがひに感じられるかも知れない。由兵衛らの悪事を隠蔽した為に我身をほろぼした家主も、書きやうに因つては面白くなると思つたのであるが、事件があまり複雑になるのを避けて省くことにした。前にも云ふ通り主人公の本名は吉兵衛であるが、普通は由兵衛として知られてゐるので、わたしの作でもやはり由兵衛といふ名を用ゐることにした。その他のことは舞台の上で見て頂くの外はない。                     (大正一四・一〇・)


底本:岡本綺堂 「甲字楼夜話」綺堂劇談338−341頁
  青蛙房 昭和31年2月10日
入力:和井府 清十郎
公開日:2008年8月15日

おことわり: 一部旧漢字になっていない箇所があります





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