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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
 末尾に「大正十三年二月作「新小説」」とあるのは、岡本綺堂日記の記述に基づいているからである。おそらく、岡本経一さんが調べられたのだと思うが、『岡本綺堂日記』大正13年2月29日にその記述がある。毎月の末には、自分が月内にした仕事を書き留めているのである。したがって、本当に「新小説」の「大正13年○月号○頁」に掲載されたのかどうかの書誌データーはまだ完結していないのである。要調査、乞う。
 大正13年2月末といえば、岡本綺堂は、震災で追われて、麻布十番にほど近い借家にいた。翌3月19日に大久保百人町へ引越しとなるわけである。
 本編は比較的短いものであるが、日記の記載からは、どうやら2月28日午後にとりかかり、よく29日の午前中には脱稿した模様のようだ(『岡本綺堂日記』134頁)。
 ちなみに、余震と借家住まいという悪条件にもかかわらず、大正13年2月の仕事量は、小説ほか随想など合わせて全12本で、254枚である。400字詰め原稿であると仮定すると約10万1000字強である。一日平均85枚……ムム。みならわなくちゃ……ね!
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ 百年前(ひやくねんぜん)の黒手組(くろてぐみ)  ――『探偵夜話』より

             岡 本 綺 堂
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 E君は語る。

 僕は古い話で御免を蒙ろう。
 文政五年十二月なかばのことである。芝神明前の地本問屋和泉屋市兵衛の宅では、女房の難産で混雑していた。女房は日の暮れる頃から産気づいたのであるが、腹の子は容易にこの世に出て来ない。結局は死産であったが、母だけは幸いに命をとりとめた。その混雑の最中である。夜の五つ時(午後八時)にひとりの男が封書を持って来て、これは注文状であるから主人に渡してくれといって、店さきへ投げ込んで早々に立ち去った。
 前にいったようなわけで、主人の市兵衛は宵から店に出ていない。そこに居あわせた手代どもがその封書の上書(うわが)きをみると、和泉屋市兵衛様、弥左衛門としるしてあった。聞き知らない名前ではあるが、注文状であるというのでともかくも封をひらいて読むと、それは商売物の書籍類の注文ではなくて、ある浪人から無心合力(ごうりよく)の手紙であった。なんでこんな手紙をよこしたのかと評議しているうちに、奥の産婦もひとまず落ちついたので、主人の市兵衛も店へ出て来た。
 手代どもからその話を聞かされて、市兵衛は眉をよせながらまずその書状の文面をよむと、大略左のようなことが書いてあった。   

    拙者事、四五年以前まで御隣町にまかりあり、御世話にあづかり居り候処、その後いよいよ不如意にまかり成り候て、当時は必至と難儀いたし候、もっとも在所表は身分相応の者どもに候間、右国許へまかり越し、金子才覚いたし度候へども、なにぶん路用に差支へ候、近ごろ無心の至りに候へども、金子二分借用いたし度候、もっとも当大晦日までには相違なく返済いたすべく候、右の趣、御承知くだされ候はば、二分なりとも小粒なりとも、この袋に入れ、御見世の仲柱へ地より三尺ほど上げて御張りおき下さるべく候、今晩深更におよび、猶又まかり越し候て、受納いたすべく候
    さて又拙者事、なにがしが門人にて、年来剣術柔術等修行いたし、松浦流と申す一流をたて候へども、諺にいふ生兵法大疵のもとにて、先年修行のために諸国を経めぐり候節、信州に於て思はずも不覚をとり候ことなど有之候、さりながら右体の御恩にあづかり候儀に候へば、謝礼の為に素人衆にても時の間にあひ、災難をのがれ候こころ得を伝授いたすべく候、別紙をつねづねよく御覧なされ候て、御工夫なされ候へば、夜中往来などの時、災難をのがれ易く候、云々(しかじか)

 その文言(もんごん)は非常に丁寧にしたためてあって、別紙には十箇条ほどの「やわら伝授の目録」というものが添えてあった。その伝授は、たとえば往来で喧嘩をしかけられ、又は酔狂人などに出逢って、よんどころない羽目に陥ったときに、こうこうして相手の腕を取れとか、こうこうして相手の肩をうてば気絶するとかいうようなことを多く書きあつめて、素人にもわかり易く、いかにも柔術免許のような書きぶりで、奥には和泉屋市兵衛殿と記(しる)し、松浦弥左衛門という我が名を大きく書いて、書判(かきはん)も据えてあった。その手蹟も拙(つた)なからず、武士らしい手筋とみえた。本文の書状のうちには、二分判一つを入れるほどの小さい袋もまき込んであるなど、なかなかよく行きとどいていた。なお本文の末にこういう意味のことが書き添えてあった。
  

    もしこの無心聞き済み無く候はば、別封にいたし置候一通を披見なさるべく候、御聞きとどけ下され候はば、右の別封は御開封におよばず、そのまま御返し下さるべく候

 開封に及ばずとあれば、あけて見たいのが人情である。市兵衛はその別封をあけて見ろというと、手代共も一種の興味をそそられて、すぐに封をあけた。主人も奉公人も店の灯の下に顔をつきよせて、その別封の文面をよんでみると、これは本文の丁寧なのに引きかえて、穏かならざる文言が列べ立ててあった。万一この無心を聞きとらない時は、屹(きつ)と思い知らせるから覚悟しろ。あるじは勿論、家内の小者にいたるまで、日が暮れてから外へ出たらば命はないものと思え。それを恐れて夜中外出しなければ、さらに火を放って焼き払うぞというような、おそろしい文句のかずかずが列べてあるので、人びとも顔のいろを変えた。それでも主人の市兵衛は他の人びとほどには驚かず、なにしろこの取り込みの最中にどうもなるわけのものでない。まずそのままに捨てて置け。但し後日証拠ともなるものであるから、その書状は大切にしまって置けと言い付けて、再び産婦の方へ行ってしまった。
 主人は落ち着いているものの、店の者どもは少なからぬ恐怖を感じた。もしこの文面の通りであれば、日が暮れてから近所の銭湯へも迂潤にいくことは出来ない。どうしたらよかろうと、いろいろに評議していると、そのなかに親類のなにがしという男があった。この男もやはり芝に住んでいて、宵から産婦の見舞いに来ていたのであるが、しばらく思案して、こう言い出した。
「たとい捨てたとしても、わずかに二分のことだ。もしその無心を聞いてやらないで、とんでもない意趣がえしをされてはつまらないから、ともかくも二分判一つをその袋に入れて、表へ出して置くがよかろうではないか。」
 手代共もすぐに同意して、その袋に金を入れ、かれの指定通りに表へ貼りつけて置いた。
 夜があけて、主人が店へ出て来たので、手代共はゆうべのことを話して、親類の御意見で、先方の注文通りに取り計らったと報告すると、市兵衛は再び眉をよせた。
「そうして、その金はどうなった。」
「いつもの通り、四つ(午後十時)に大戸をおろしましたが、けさ起きて見ると、袋も金もなくなっておりました。」
「そうか。」と、市兵衛はうなずいた。「世にはめずらしい押し借りもあるものだ。こういうことは名主、家主にも届けて置かなければならない。」
 そうは言いながらも、産婦のことや店のことに取りまぎれて、朝の四つ(午前十時)頃までそのままになっていると、同町内の絵草紙屋若狭屋の主人が町代(ちょうだい)の男と一緒にあわただしく和泉屋の店へ来て、ゆうべこちらの店にこうこうのことはなかったかという。その通りだと答えると、若狭屋は息を切りながら言った。
「実はゆうべわたしの店にも同じ筋のことがありました。ところが、けさ早くに八町堀の御定廻(ごじようまわ)りからお呼び出しがあったので、とりあえずお役宅へ出てみると、和泉屋も一緒に来たかというお尋ね。まだまいりませんと申し上げると、早く帰って和泉屋も呼んで来いということだから、いそ心で引っ返して呼びに来ました。早くお訴えをして置かないと、後日にどんなお誉めをうけるかも知れない。すぐに支度しておいでなさい。」
 市兵衛は今更にあわてて、すぐに連れだって八町堀の役宅へ出ていくと、定廻りの同心は、かれを呼び込んで、ゆうべお前の家にこうこういうことがあったかと訊問した。市兵衛はありのままを正直に申し立てると、同心は笑いながら言った。
「その騙(かた)りめはもう御用になっている。よく面(つら)を見ておけ。」
 指さす方をみかえると、そこには一人のわかい男が厳重にくくられていた。浪人者の、やわら取りのというからは、どんな逞ましい強そうな男かと思えば、それはまだ廿二三歳の町人風で、色の小白い痩せぎすの、小二才とか青二才とかいいそうな、薄っぺらな男であったので、市兵衛も案に相違して、しばらく呆れてその顔をながめていた。
 それから一旦引き退がって、市兵衛は若狭屋と一緒に正式の訴状を出した。和泉屋からはかの書状をも添えて差し出した。若狭屋からはかの書状のほかに、金を入れた袋をも差し出した。どちらの書状もその文言は一字も違っていなかった。和泉屋では金を取られたが、若狭屋では金を取られなかったのである。若狭屋ではかの手紙をなげ込まれて、いろいろ評議の末に、まずそれを家主に告げ、さらに名主に告げ、その処置について相談したが、それはおまえの料簡次第で、こちらからその金をやれともやるなとも指図は出来にくいことであると、名主はいった。それらのことで、夜もだんだんに更けてくるので、わずか二分の金を惜しんで万一の間違いがあってはならないと、誰の考えもおなじことで、若狭屋でも相手の注文通りに金の袋を出しておいたが、それは夜のあけるまでそのままになっていた。
 賊はまず和泉屋の表へ忍び寄って、金の袋をぬすみ取り、それから若狭屋へ向かったが、ここでは前にいう通り、家主に届け、名主に相談して、なにやかやと暇取っていたために、賊が忍んで来た頃には、まだその袋が出してなかったので、幸いに難を逃がれたのであった。和泉屋に成功し、若狭屋に失敗した賊は、さらに転じて近所の宇田川町桐山という薬種屋へ向かうと、ここには落とし穴が設けられていた。
 桐山でもおなじ書状を投げ込まれたのであるが、主人は度胸がすわっているので、その脅迫状をみて驚くよりもむしろ怒った。これは一種の強盗である。こんな奴をゆるして置いては諸人の難儀になるというので、家主や町代とも相談の上で、かれは生け捕る手段をめぐらした。出入りの鳶の者に腕自慢の男がいるので、それを語らって軒下の物かげに伏せておくと、賊は果たして夜ふけに忍んで来た。表の柱には金を入れた袋が出ているので、賊はその柱に手をかけようとする途端に、隠れていた鳶の者は飛び出して一うしろから彼に組みついた。不意に組まれて、彼もうろたえたらしかったが、ふところに持っていた一本の?(さし)(銭四百文)をとり出して、それを得物にして相手の眉間(みけん)を強く撲(う)った。撲たれて皮肉を破られて、血汐が目にしみるほどであったが、鳶はすこぶる剛気の男で組みついた手をゆるめず、泥坊をつかまえたぞと呶鳴り立てたので、待ち設けていた桐山の店の者どもはもちろん一筋向こうの自身番からも近所となりからも大勢の人びとが落ち合って、手取り足取り捻じ倒して、その賊をぐるぐる巻きにした上で、定廻りに訴え出た。ただし途中捕りということにして頂きたいという願いで、表向きは桐山の名を出さないことにした。それは後日の引きあいの面倒を恐れたからである。途中捕りというのは、捕り方がむかって来たときに桐山の方では一旦その縄をといて往来へ突き放すと、捕り方が更に引っとらえて、縄をうつのである。こういうわけで、彼はその夜のうちに召し捕られてしまった。賊は浅草観音のそばに住んでいる錺(かざ)り職人で、家には母もあり、妻子もある。貧の出来心から松浦弥左衛門という偽手紙をこしらえて、方々の店へなげこみ、おどして合力を求めただけのことで、ほかに旧悪はないと申し立てた。しかし手紙の文句といい、筆蹟といい、どうも彼のごとき職人のひとり仕事とは思われないので、ほかに同類か教唆者があろうと厳しく吟味されたが、かれは固く口をとじて容易に白状しなかった。かれは一個の職人で、もちろん剣術も柔術も知っているものではなかったが、その手紙に自分は浪人であるといい、やわら伝授の目録などを添えて置いたのは、腕に覚えがあると見せかけて、相手を威嚇するためであった。殊に、「生兵法(なまびょうほう)大疵の基で先年信州にて思わぬ不覚を取り」などと書いたのは、町人どもが生兵法にわれを生け捕るなどと企てると、思わぬ不覚をとるぞよと暗に戒めたものらしく、その用意周到なる点がどう考えても貧しい職人風情の知恵ばかりとは思われず、その背後に何者かが糸を引いているものと係りの役人はにらんだが、彼はあくまでも強情を張り通しているので、その裁判はすぐに落着(らくちやく)しなかった。
 かれが手紙をなげ込んだのは、日本橋馬喰町から芝宇田川町まで十軒あまりで、どの家の主人もたびたび奉行所へよび出されて迷惑した。そのなかですぐに訴え出たものは唯一軒で、これは無事に済んだが、他のものは早く訴え出なかったという落度で、みな叱られた。殊に和泉屋市兵衛は訴え出(い)でを怠るのみか、賊のいうに任せてその金をつかわしたのは不埒であるというので、最もきびしく叱られた。賊が手紙をなげ込むに、歴々の大(おお)町人を目指さず、また小商人(こあきんど)の店をも避けて、中流の町家のみを狙ったのもなかなか賢こい遣り方で、その金高も二分にとどめたのは、相手は思い切って出し易いためであろう。それがもう一両となれば、どこでも躊躇するに相違ない。それらの用心から察しても、あるいはほんとうの浪人者などが知恵を授けたのではないかと思われたが、彼はどうしても自分ひとりの思い立ちであると言い切っていた。右の十軒あまりの中で金を出して置いたのは和泉屋と若狭屋だけで、後者は無難に済んだのであるから、実際の被害は和泉屋だけに過ぎなかった。その二分の金は宇田川町で捕えられたときに振り落としてしまったのか、それとも誰かの手に伝わったのか、結局被害者へは戻らなかったそうである。金をうしなった上に、最もきびしいお咎めを蒙って、和泉屋が一番貧乏くじを引いたわけであった。
 江戸時代にこういう手段を用いた賊は甚だめずらしいといわれた。したがって判決の先例がないので、奉行所でもその処分に苦しんで、その七月まで落着延引しているうちに、賊は七月八日に牢死した。伝えるところによると、奉行所では遠島と内定していたそうである。本来ならば結局重追放ぐらいで済むべきであったが、その書状のうちに放火して焼き払う云々という「おどし文句があるので、かりにも放火などというは重々不埒であると、死罪に次ぐべき重罪に問われることになったのであるという。
 今から百年前には、この種の犯罪も係りの役人の頭を悩ますほどに珍らしがられたのであった。今日の不良少年もその時代に生まれたら、あっばれの知恵者として世間をおどろかしたかも知れない。
                           大正十三年二月作「新小説」



底本:岡本綺堂読物選集第6巻 探偵編
昭和44年10月10日発行 青蛙房
入力:和井府 清十郎
公開:2002年11月18日





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