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綺堂ディジタル・コレクション





つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル 化したものです。
 なお、入力者(和井府)自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆  8 京 の 友 禅   『創作の思ひ出』より

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 左團次は初演ぎりであるが、その後に壽美藏が再三上演、現に昨年も寳塚で上演した。外にも新之助が屡々上演、わたしの作中では上演回数の多い方である。友禅染などを主題にして、舞台面が美しいせゐであらう。
 京の友禅――その名がいかにも柔かい美しい響きを與へるので、その友禅を題材にして何か綺麗な一幕物を書いてみたいと思つてゐたのであるが、何分にもその創始者の友繹といふ人物に就いては飴り詳しく知られてゐないので躊躇してゐた。つまり友禅といふ人が創めたから友禅といふ、単にそれだけの事しか判らないので困つた。
 普通に傳へられるところでは、友禅は宮崎氏、加賀の人とも云ひ、京都の人で後に加賀に移つたとも云ふ。いづれにしても有名な染物職人で、絵をも巧みに描いたので、途に友禅染のやうな華麗な染物を案出して大いに世に行はれたと云ふことになつてゐる。また一説には、友禅といふのは僧侶の名であるといふ。絵を描く僧、いはゆる絵法師で、最初は扇面や衣裳のたぐひに肉筆で美しい草花などを書いたのが京の女たちに持て囃され、肉筆ではなか/\間に合はないので、その下絵によつて染めることになつた。故に呼んで友禅染と云ふ。 友禅といふ名から判断すると、後の設の方がほんたうらしく、禅宗の僧侶で友禅と名乗つてゐたのではないかとも思はれる。現に貞享四年版の「女用訓蒙圖彙」にも「こゝに友禅と號する絵法師ありけらし、一流を扇に書き出せしかば、貴賤の男女喜悦の眉をうるはしく、丹花の唇をほころばせり、云々」とある。友禅は元禄の初年に榮えた人で、貞享四年の次が元緑元年であるから、女用訓蒙圖彙の作者は友禅と同時代に生きてゐた人で、眼のあたり看たことを書いたのであるから、おそらく間違ひはあるまいと思はれる。それらから考へると、友禅といふのは絵を書く絵法師の名でなければならない。
 今日では一ロに友禅染と云ふけれども、最初は無論書絵、即ち友禅が一々に筆を執つて白無垢や浴衣の上に美しい模様を散らし書にしたものに相違ない。貞享出版の「男色大鑑」には「友禅が萩の裾書き」とあり、元禄出版の「好色年男」には「あさぎ続の肩さきから帯の際まで友禅が墨絵の虫づくし」とあり、同じく「好色敗毒散」に「白き小袖に村雀、ゆふぐれ笹を友禅が墨絵にされし物好み」とあるを見ても知られる。それが享保出版の風流友三味線」には「上は光琳梅に雲鳥、むらさき鹿の子、裾には菊にませ垣の友禅染」とあつて、前には「書く」と云ひ、後には「染」とあるのを見ても、書絵から染物に移つた変遷かうかゞはれる。あまり廣く行はれて、書絵で間に合はないために染めを工夫したのか、或ひは友禅の没後に染めとなつたのか、いつれにしても貞享元禄時代の友禅が書絵であつたことは、以上の例を見ても判る。
 それにしても、肝腎の本人に就いては殆ど何にも傳つてゐない。祇園の梶女の歌集「梶の葉集」に友禅の筆が残つてゐて、風流同士の交際でお梶とも懇意であつたかも知れない。風流の絵法師と歌人の才女、いゝ封照だと思ひながらも、わたしはそれを芝居に取入れることが出來なかつた。前に云ふ通りの次第で友禅その人の経歴が判然しない。勿論、劇的の傳説などもない。何か友禅について逸話のやうなものでもないかと、心あたりを聞き合わせてみたが、かの「梶の葉集」以外には殆ど雲をつかむやうなわけで、結局、一切をわたしの空想で書くの外はないと決心した。
 そのうちに不圖思ひ附いたのは、ユーゴーの小説トイラース・オブ・ザ・シー(海の労働者)であつた。御承知の通り、この小設の主人公ギリアツトは船乗りで、絵のことなどには何の關係もないのであるが、その最後にギリアツトが自分の恋してゐるデスデモナといふ娘に嫁入衣裳をあたへる。その衣裳はギリアツトの母が我子の嫁とする女にやる積りで、かねて拵へてあつた物であるといふ。その一節が面白く思はれたので、それからヒントを得てこの芝居を組立てることにした。ともかくも友七の失恋と嫁入衣裳と、この二つの事件はギリアツトの借物である。
 いつまで調べてゐても際限がないので、わたしは少し焦れて來て、友禅の身許調べは先づ好い加減にして、思ひ切つて筆を執ることにした。職人といひ、絵法師といひ、両様の説があるから、私はそれを折衷して、最初は職人で後に絵法師になるといふことに作り替へた。随つて職人の友七が失恋の結果剃髪するといふやうな筋に、わたしが勝手に作り出したもので、事實の詮議などをされては困る。最初の考へではもつと綺麗な、むしろ濃艶に過ぎるやうなものを書いてみたいと思つてゐたのであるが、どうも思ふやうに筆が運ばないので、案外さびしいものになつたのは遺憾である。勿論、主題が友禅であるから、遊女とか舞子(その頃に舞子はあるまいが)と禅か云ふやうなものを捉へて來れば、せめて舞台面だけでも派手にならうが、それも何だか卑怯なやうに思はれたので、地味な舞台で哀れに美しい氣分を描き出さうと企てたのが却つて失敗の基で、やはりもつと華かな、ぱつとした舞台面を選んだ方が好かつたやうに思ふ。 わたしの最初の腹案では、織子のおいよも失恋の結果、心機一転して遊女になると、その許へお京の婿が通ひ詰める。又それに絵法師の友禅が絡むといふ段取りであつたが、それでは余り長くなつて到底一幕には書けないから、結局、友七が友禅になるまでのことに纏めてしまつた。あれだけでは風流の絵法師といふ俤がちつとも浮び出さない。
 努めて無駄な文句を省いて、せい/"\足を早めてゐるのであるが、それでも案外に時間のかゝるのに驚く。それであるから、脚本を書く場合に私がいつも恐れてゐるのは、丁数の伸びることで、いつも書きたいと思ふことがありながらも、長くなるのを恐れて大抵は半分ぐらゐで筆を控へることになる。それが第一の苦痛である。さうかと云つて、新作物で一時間以上は些と長過ぎるし、どうしていゝか判らない。この脚本なども無暗に足を早めて、それでも五十分かゝつてゐる。わたしが今最も悩んでゐるのは、いかにして脚本を短く書くかと云ふことである。
 前にも云ふ通り、この芝居は一幕物であるが、友七が髪を切つて絵師となつてからも未だ書くことがありさうである。お京やおいよの後日も劇的材料がありさうなので、そのうちに続編を書かうと思ひながら、いつか二十年の月日が過ぎてしまつた。この作談をかきながらも、今さら自分の老いに驚いてゐる次第である。               (昭和一一・六)


底本:岡本綺堂著 綺堂劇談 昭和三一年二月一〇日発行 青蛙房
入力日:二〇〇九年一月四日
入力:和井府清十郎
おことわり:一部旧漢字になっていない箇所があります。





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