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明 治 演 劇 年 表

  
    【おことわり】

    1.底本とした岡本綺堂著『明治劇談 ランプの下にて』岩波文庫版(1993.9)には、岡本綺堂自身の年表と、収録にあたって、弟子の一人である三好一光氏によって加筆された部分が存在する。このため、ここでは三好一光氏の著作権がおよぶ加筆部分を除外しました。
    2.三好氏によると、氏が書かれた箇所は、社会現象や当時の風俗事象などが下欄部分と、上欄(綺堂執筆にかかる年表本体)のカッコ書の部分、および一字下げ記載部分(○書部分)です(同319頁)。
     三好氏の記述部分や取り上げられた事象も、上欄の綺堂による年表と併せて読むと興味深いのであるが、右の事情から省かざるを得なかった。ぜひ底本もご覧いただきたい。
    3.底本の親本は、『明治劇談ランプの下にて』(1965,青蛙房)である。青蛙房版のときに、この「年表」が収録されたようです(岡本経一「解説」岩波文庫版385頁)。他に、『明治劇談 ランプの下にて』(1935・昭10年3月、岡倉書房)もしくは、『明治劇談』(大東選書、1940・昭和17年)、『ランプの下にて』(1955,旺文社文庫)があるが、「明治演劇年表」は、私が確認したところでは、後者(大東選書版)には存在しません。他は未見。現在のところ、その初出誌も不明です。
    4.三好氏附注の(丸)カッコ書部分は除外したため、以下の年表中の( )書きは、綺堂自身によるもの、および底本の振り仮名を示します。また、本年表は、明治40年末までをカヴァーしていますが、私の都合のため、10年間毎の公開です。
    (和井府 清十郎)



明 治 演 劇 年 表      岡 本 綺 堂kido_in.jpg


 明治時代の劇を研究する人々の参考にもなろうかと思って、左の演劇年表を作ってみた。勿論完全な物ではないが、先ずこのくらいの事は知っていても好かろうという程度で編集したのである。但しその年表が東京だけにとどまって、関西方面まで手が廻らないのは、編者が関西劇界の事情をよく譜(そら)んじていないがためである。明治の初年は、江戸から東京へ移った過渡時代で、編入すべき事項も頗る多いが、ここにはその大体を記すにとどめて置く。あまり繁碩にわたることを避けたためである。            (岡本綺堂)


  明治元年(戌辰) 一八六八
〇天下の形勢不穏のため、猿若町の三座中村、市村、守田)とも正月興行を休み、二月に至りて漸く開場。
○五月十五日、市村座と守田座の開演中に、上野彰義隊の戦闘あり。その後も市中おだやかならず、劇界不振をきわむ。
○八月、市村家橘(かきつ)改名して五代目尾上菊五郎となる。時に二十五歳。
○九月二十三日の夜、河原崎権之助、今戸の宅にて浪士の強盗に斬殺せらる。養子権十郎(後の九代目市川団十郎)は幸いに免かる。



   二年(己巳) 一八六九
○三月、河原崎権十郎、養父のあとを襲いで七代目河原崎権之助と改め、市村座において「勧進帳」の弁慶を勤む。
○八月、市村座において「桃山譚(ももややものがたり)」を初演。権之助の地震加藤、大好評。
○劇場は依然として不振の状態をつづけ、各座いずれも経営に苦しむ。




   三年(庚午) 一八七〇
○三月、守田座において市川左団次の丸橋忠弥初演、大好評。
○四月、三代目沢村田之助、再び脱疽(だつそ)のために残る片足を切断す。
○六月、市村座六月興行の入場料は、桟敷代八十五匁、高土間八十匁、平土間七十五匁。
 参考のために市村座の入場料を掲げたるが、他も大同小異と知るべし。これは桟敷または土間一間(ひとま)の価にて、その当時の一間は七人詰なり。江戸時代には桟敷三十五匁、土間二十五匁が普通にて、それに比較すれば明治以後は大いに騰貴したる次第なるが一匁は一銭六厘五毛なれば、平土間七十五匁は一円二十三銭七厘五毛、それを七人に割付けるときは、一人前は十七銭六厘余に相当す。
○十二月十八日、三代目関三十郎死す、六十六歳。

   四年(辛未) 一八七一
○一月、中村翫雀大阪より上京し、守田座における御目見得狂言の三浦之助、好評。
○七月、守田座にて「亀山の仇討」を開演中、石井兵助を勤むる嵐璃鶴が召捕られて、後に懲役三カ年を申渡さる。小林金平の妾おきぬが璃鶴と私通し、遂に金平を毒殺するに至りしより、おきぬは死罪、璃鶴は連坐の刑に問われしなり。
○十月二十二日、六代目市川団蔵、大阪に死す、七十二歳。彼は前名を九蔵といい、天保十一年河原崎座において「勧進帳」初演の当時、富樫左衛門を勤めたり。
○十月、仏人スリエ、九段招魂社にて曲馬を興行す。



   五年(壬申) 一八七二
○二月、守田座の座主守田勘弥、猿若町より京橋床新富町六丁目へ転座を出願し、四月に至って許可せらる。  天保以後、明治の初年に至るまで、三座はみな浅草の猿若町に封じ籠められ、中村座は一丁目、市村座は二丁目、守田座は三丁目にあり。江戸が一東京と改まりしに就ては、劇場が浅草のごとき偏寄(かたよ)りたる場所にあるは不利益と観て、市の中央たる京橋に打って出づることを企てしは、守田勘弥の慧眼というべし。
○二月、二代目岩井紫若、八代目半四郎と改名す。
○五月、中村座の大切浄瑠璃に「音響曲馬鞭(おとにきくきよくばのかわむち)」を上演、そのころ渡来せる西洋曲馬を脚色したるものにて、菊五郎が伊太利人ジョアニに扮して好評。
○八月二十七日、各劇場の座主は東京府へ召喚せられ、興行中は見物人の多少にかかわらず、桟敷、土間の間数を標準として、日々百分の一の税銀を上納すべしと申渡さる。劇場に対する観覧税の始めなり。
○新富町守田座、新築落成して、十月三日より開場。狂言は一番目「三国無双瓢軍扇(さんごくぷそうひさごのぐんばい)」、二番目「ざんぎりお富」にて、権之助、左団次、仲蔵、半四郎、翫雀ら出勤す。同座は在来の構造に種々の改良を加え、その当時の劇場としては、もっとも進歩したるものと称せらる。



   六年(発酉) 一八七三
○三月、村山座(市村座、負債のため昨年より暫く改称)の一番目「酒井の太鼓」にて、権之助の酒井左右衛門尉と菊五郎の鳴瀬東蔵との渡り台詞に「かく文明の世の中に、開化を知らぬは愚(おろか)でござる」 といい、観客はその時代違いを咎めずして、大いに喝采せり。いわゆる文明開化という言葉が、いかに流行したるかを察すべし。
○六月、中村座の二番目「梅雨小袖昔八丈」を初演。菊五郎の髪結新三、仲蔵の家主長兵衛と弥太五郎源七、いずれも好評。 ○九月、河原崎権之助は市川三升(さんしょう)と改名。
○十一月、守田座にて「東京日日新聞」を上演。新聞物を舞台に上(の)せたる嚆矢なり。
○東京府令によって市内の劇場を十カ所と定められたれば、在来の三座のほかに、京橋区中橋の沢村座、日本橋区久松町の喜昇座、おなじく蠣殻町の中島座、四谷の桐座、本郷区春木町の奥田座など、相前後して新築開場せり。



   七年(甲戌) 一八七四
○一月、中村座の番附に「午前七時より相始め、午後五時迄」と記載す。これまで劇場の開演時間に一定の制限なく、単に多年の習慣に因って、「早朝より相始め」というに過ぎざりしに、中村座が初めて開場と閉場の時間を番附に明記したり。
○五月、沢村座の番附に、桟敷代上等金一円八十五銭、中等一円四十銭、高土間上等一円七十銭、中等一円三十銭、平土間上等一円五十銭、中等一円十銭と記載す。劇場の観覧料は多年の習慣に従って、今まで銀何匁と唱え来たりしが、この座が初めて何円何十銭に改め、爾来その例に倣うもの続々あらわる。
○七月、芝新堀に河原崎座の新築落成して開場。市川三升は九代目市川団十郎を襲名して座主となる。時に三十六歳。
○九月、嵐璃鶴は満期出獄して団十郎の門下となり、市川権十郎と改名して河原崎座に出勤す。


   八年(乙亥) 一八七五
○一月、守田座は新富座と改称す。巨額の負債の嵩みしためなり。但し一月狂言の「大岡政談」 に、彦三郎の越前守、菊五郎の天一坊、左団次の伊賀之亮いずれも好評。
○一月、東京府令により、俳優は税金として上等五円、中等二円五十銭、下等一円、劇場附の茶屋は一円を納むることとなる。いずれも月税なり。
○六月十四日、二代目尾上菊次郎大阪に死す、六十二歳。江戸末期を盛りとしたる女形にて、名人小団次の女房役者として世に知らる。

   九年(丙子) 一八七六
○三月、中村座の二番目に新作「偽織大和錦」を初演。仲蔵の馬子丑蔵が田舎訛りのベエベエ詞のゆすり場、大好評。
○片岡我童、片岡我当の兄弟、大阪より上京して、中村座の三月興行より出勤。
○五月、中村座にて「重盛諌言」を上演。団十郎の重盛は毀誉相半ばしたるが、いわゆる「活歴」なる史劇の新形式は、この頃よりおいおいに芽を噴きたるなり。
○五月、市川女寅(めとら)が本郷の春木座へ稽古に通う途中、湯島切通しの坂へ差しかかりし時、俄かに眩暈めまいを感じて人力車を降り、路ばたの西洋小間物屋へ転げ込みしに、店の人々は大家の夫人と見誤まりしという。この当時の女形の風俗を察すべし。
○十一月二十九日、日本橋区数寄屋町より失火して、中橋座も新富座も類焼す。
○十二月三十一日、浅草区馬道八丁目より出火して中村座も村山座も類焼す。

   十年(丁丑) 一八七七
○四月、新富座の仮普請出来(しゆつたい)して開場。俳優菊五郎左団次、仲蔵、半四郎、芝翫の一座にて、大阪より中村宗十郎も上京して加入す。
○八月七日、三代目桜田治助死す、七十六歳。明治以後は多く振るわざりしが、江戸末期における著名の狂言作者の一人にて、黙阿弥らの先輩なり。「鬼神お松」「鈴木主水(もんど)」「おその六三(ろくさ)」「明がらす」など、その当り作として知らる。浄瑠璃にも有名の作少なからず。
○十月十三日、五代目坂東彦三郎、大阪に客死す、四十六歳。江戸末期より明治の初年にわたる名優の一人にて、団十郎、菊五郎も一時は彼に圧倒されたるなり。
○十二月、新富座にて「黄門記童幼講釈(こうもんさおさなこうしやく)」を初演。
団十郎の水戸黄門、菊五郎の河童の吉蔵、仲蔵の盲人玄碩、いずれも好評。


 -公開日: 8/30/2004-


(以下、続く)



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