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綺堂ディジタル・アーカイヴ




つぎは綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです.
「綺堂歌舞伎論3部作」の一つとして、岡本綺堂による劇作家としての河竹黙阿弥論をまず公開します.このように熱く書かれた文章を見たことはありません.たぶん黙阿弥に対するみなさんの見方も変わるでしょう.
なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください.




明治以後の默阿彌翁
           岡本綺堂
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 河竹默阿彌翁は、明治廿六年の一月廿二日、七十八歳を以て長い一生の事業を終つた。
 私の古い日記によると、この日は日曜日で、朝から西北の風が強かつた。銀座邊でも手水鉢にあつい氷が張つた。この寒い風は午後三時廿分頃から淺草西鳥越に火を吹き起して、全燒百六十七戸、鳥越座――舊の中村座――もまたこの禍を逃れることが出來なかつたと記してある。默阿彌翁の臨終は午後の四時頃であつたと傳へられてゐるから、翁の著名の作の一といふ「高時天狗舞」を初めて上場した劇場が、今や猛火に亡ぼされつゝある時に、翁もおなじく亡びたのであつた。猿若勘三郎の系統をひいた鳥越座の古い櫓は、燒跡の灰に埋められたまゝで、再興することが出來なかつた。翁も釋默阿彌居士と改名して、同じく冷たい灰となつた。
 この三月には市村座も燒けた。明治廿六年といふ年は東京の劇界に取つては厄年であつた。羽左衞門の父の家橘も死んだ。
 傳ふる所によれば、默阿彌翁の臨終は極めて平靜であつたといふ。私もさうであつたものと固く信じてゐる。個人としての翁は家庭にも世間にもなんの不足も無くして、安らかに眠つたに相違ない。しかも嘉永から明治に亙つて、劇界に權威を有してゐた劇作家としては、その晩年は頗る荒涼たるものではなかつたらうか。明治十四五年以來の默阿彌翁は、おそらく彼が子孫や門弟によつて描き出されてゐるやうな春風駘蕩の圖ではなかつたと想像される。謹愼の二字を生涯の守りとしてゐた翁にあつては、おそらく周圍のものに對しても滅多に愚痴も不平も洩らさなかつたであらう。併しこれは多辯と沈默とを以て決定せらるべき問題ではない。俎上の魚が叫ばぬといふを以て、かれに不平が無いと認めるのは人間の手前勝手である。翁はおそらく叫ばなかつたであらう。叫ぱなかつた所に、我々は無限の悲痛を感ずるのをとゞめ得ないのである。
 明治以前の默阿彌翁については世既に定評がある。わたしは晩年に就いていさゝか云ひたい。
 三百六十諸侯が頭を下げること無しには通ることが出來なかつた上野の山に對して、一たび大砲の火蓋が切られると同時に、あらゆる江戸の事物はその故郷と別離を告げた。芝居と吉原と、この最も密接な關係を持つてるた兩者のうちで、吉原は明治五年の解放以來、まつたく新しい世界に移つてしまつたが、芝居はまだ移らなかつた。芝居は世間見ずの懐ろ子のやうに、所詮は去らねばならぬ運命を恐れつゝも、やはり故郷の土に戀着してゐた。
 明治五年に、翁は「ざんぎりお富」をかいた。勿論、舞臺は昔の江戸に取つてあるが、ざんぎり[#「ざんぎり」に傍点]といふ流行詞を取入れてあるところが注目に値する。ざんぎり[#「ざんぎり」に傍点]といふ詞は江戸時代にも用ひられてはゐたが、東京といふ新しい名と共に廣く世に行はれた産物であることは誰も知つてゐる。そのざんぎり[#「ざんぎり」に傍点]といふ詞を臺帳に初めて書いたのが、翁が新しい方へ動き始めた前提であるらしく見えた。翁がはじめて明治の時代に世界を取つた作物は、翌年守田座における「東京日日新聞」であつた。これは不評のうちに葬られたと傳へられてるる。その翌年には「三人片輪」を書いた。これも不評であつたといふ。勿論、營利的の興行者と相談のうへで筆を執つたそれ等の際物めいたものに封して、兎やかうと云ふのは氣の毒であるかも知れぬが、これ等の作が見物に悦ばれなかつたのは、それが眼馴れないざんぎり[#「ざんぎり」に傍点]の世界であつたと云ふこと以外に、作者も責任を負はねばならなかつた。翁は新しい方へ動いたやうに見えて、實は動いたのではなかつた。
 わたしは今こゝで明治の演劇史を書かうと云ふのではない。又、默阿彌翁の傳記を書かうと云ふのでもない。そんなことを一々列べてゐると、讀む人も書く人もいたづらに面倒を感ずるばかりである。これからは大掴みに明治時代における翁の作物全體について少しく云ひたいと思ふ。
 默阿彌翁が世に劇作の大家と喧傳せらるゝ所以はどこにあるか。これ觀る人によつて思ひ/\の議論もあらうが、私一個の考へで翁の長所ともいふべきものは勿論その着想でない。その脚色でもない。翁はおそらく何等かの概念があつて筆を取つたと云ふやうな例はあるまいと思はれるが、私はこれを以て翁を難じようとはしない。而もその筋立の蘇り巧妙でないと云ふことは翁に取つて頗る不利益であつた。どの脚本の筋立もいたづらに事件を紛糾させることにのみ努めて、所謂さらりとした昧ひに乏しいのを私は甚だ遺憾とする。翁は生ッ粹の江戸つ子でありながら、其點はあまり江戸つ子でなかつた。わたしは一代の大家として翁を尊敬しながらも、この薩摩汁のやうなものに箸を着けるのを躊躇する場合が往々あることを自白する。翁はあれほどの大家でありながら、脚色に於てはあまりに巧みな人ではなかつた。
 翁を弁辯護する人は斯う云つた。
「今と昔とは芝居が違ひます。むかしは一座の役者に皆それ/”\の見せ場をあてがつて遣らなければなりません。それには何うしても無駄な場面をこしらへたり、こぐらかつた筋も立てなければなりません。さらりとした筋を立てたのでは、みんなの役が出來ません。」
 私はその辯護を肯んじなかつた。私がこの場合に用ゐる「さらりとした」と云ふ詞は、平々坦々、湯を飮むやうなものと云ふ意味ではない。いつの世にも湯を飮むやうなものが面白い道理はない。こゝでその意味をくどく説明するよりも、二三の例を引いた方が早くわかる。並木五瓶の「五大力」、瀬川如皐の「切られ與三」、「うはゞみお由」、默阿彌翁自身の「村井長庵」と云ふたぐひ、これ等が私のいふさらりとして面白いもの、部に屬する。これらとても今日の眼からみれば好い加減にごたついてはゐるが、それと同時代の他の産物に比較すれぱ確かに水際立つてゐる。垢ぬけがしてゐる。江戸の侍と勤番の侍ぐらゐは違ふ。憾むらくは、默阿彌翁の作には斯ういふ味ひのものが多くない。
 では、お前はどういふ點について、翁の靴の紐を解くのか。
 わたしは左のごとく答へる。
 翁の作物その内容がごた/\してゐる――このごた/\は豐富とか充實とか云ふ意味でないことは勿論である。先づ錯雜とか紛糾とか云ふたぐひであらうか。――にも拘らず、翁の世話物の舞臺を觀、又はその脚本を讀むと、場ごとの舞臺の上に一種江戸式の空氣がながれてゐる。人物の上ばかりではない、その持つてゐる花の一枝も、屋臺の隅にころがしてある土瓶の一つも、表できこえる飴屋の笛も、屏風に貼つてある錦繪一枚も、すべてがその氣分を助くべき重大の使命を果してゐる。この點に於て、翁は他と懸絶した世界を持つてるた。隨分世間にありふれた脚本のなかには、それを名古屋へ持つて行つても、三州豐橋へ持つて行つても、格別差支へないやうなものが多い。しかも翁の舞臺は江戸に限られてゐた。俳句で云へば「題が動かぬ」といふ強味を持つてるた。翁の長所はこゝにあつた。世話物を得意とした所以もこゝにあつた。
 と云つたら、何だ、それだけのことかと笑ふ人があるかも知れぬ。が、それだけのことが滿足に出來る人、それだけの舞臺技巧に富んだ人、それは默阿彌翁のほかに無かつた。それだけのことが出來れば、わたしは立派に其人を尊敬してもいゝと思ふ。諸君が若し廣重の繪畫を褒めるならば、同時にわが默阿彌翁の作を褒めてもよからうと思ふ。
           *
 前にも云つた通り、翁が料理の原料はやゝ田舍料理に近いものであつたが、これに山葵や防風や生海苔などを巧みにあしらつて、膳や椀や箸にまで意匠を凝らしたので、人は皆これを江戸前として賞翫した。翁自身もこれを得意としてゐたらしい。が、これは江戸にうまれて江戸に生きてゐたおかげであつたとも云へる。江戸のまん中に産れて、江戸に何十年住んで、その人に相當の文才があつたとすれば、その作物に江戸式の室氣があらはれてゐるのは、自然の道理だとも云へる。要するに、翁はその一群の中でも最も色彩の濃い人であつた。觀察力の強い人であつた。文藻の豐富な人であつた。
 翁は飽までも江戸の作者であつた。
 その江戸も東京と變つた。比較的にあゆみの遲い芝居の世界にも、薄い、勿論極めて薄い光がぼんやりと投げられた。芝居の見物もまた變つて來た。むかしは勤番者と嘲けられた人々が、最も高償の棧敷代を佛つて、舞蔓を見おろす大切の御客樣となつた。江戸つ子の多くは零落した。芝居の世界は薄暗いながらに少しく動搖し始めた。
 憚りなく云へば、翁は常時に於て、かの「野暮な屋敷の大小捨て」た江戸の侍と共に、その筆を捨つべき時であることを感じたかも知れなかつた。たとひ翁自身にはさう云ふ自覺が無かつたとしても、若し他に新しい有力の作者があらはれたら、或はその筆を捨つべく、餘儀なくされたかも知れなかつた。而もその當時には翁を凌ぐほどの強い作者はなかつた。如皐は既に衰へてゐた。翁の門下のうちでも三世新七や、其水はまだ若かつた。翁は依然として作者部屋の帝王であつた。所謂文明開化の潮流は、すさまじい勢を以て日本中に漲つた。殊に東京はその奔流が急激であつた。江戸つ子の多くは牛肉を食つて、トンビを着た。
 翁の運命はもうこの時に定まつてゐた。江戸の作者が江戸の空氣を離れて生きられる筈がなかつた。幸ひにこゝに守田勘彌なる人物が出現して、かの新富座全盛時代が眼前に開かれた。翁に取つては悼尾の一振ともいふべきであるが、所詮は強弩の末であつた。翁の才筆も嚴島のゆふ日をまねく清盛の扇であつた。
 翁が明治年間における作物だけでも、脚色と創作とを合して百八十餘種にのぼると傳へられてゐる。量に於ては殆ど天下無比と云つてよい。しかも舞憂を明治に取つたものは殆どみな失敗であつたやうに思はれる。
「富士額男女繁山」(ふじびたひつくばのしげやま)(女書生)
「人間萬事金世中」(にんげんばんじかねのよのなか)(リットンの飜案)
「霜夜鐘十字辻占」(しもよのかねじふじのつじうら)(窮士族、按摩等)
「木間星箱根鹿笛」(このまのほしはこねのしかぶえ)(神經病の怪談)
「島鵆月白浪」(しまちどりつきのしらなみ)(島藏と千太)
「滿二十年息子鑑」(まんにじふねんむすこかがみ)(徴兵の狂言)
「戀闇鵜飼燦」(こひのやみうかひのかがりび)(藝者小松)
「月梅薫朧夜」(つきとうめかをるおぼろよ)(箱屋殺し)
 これらがその主なるものであるが、興行の當り不當りは別問題として、作としてはいづれも思はしからぬものであつた。故人團十郎は曾て私にむかつて「河竹のざんぎり物では霜夜鐘なぞが一番良い方でせう。」と云つたが、わたしは首肯することを躊躇した。私は寧ろ「島鵆」の方を取ると云つた。
 なぜ默阿彌翁は明治を舞臺とした作物にこと/”\く失敗したか。これは翁が江戸の人で、東京の人でなかつたと云ふ根本の相違から來たのであるが、もう一つの原因は、少しも作風を新たにしなかつたと云ふことにある。由來いづこの劇作家でも小説家でも、その文學的生涯を第一期、第二期、若くは第三期に區劃されるのが多いやうであるが、默阿彌翁には殆どそれが無い。翁が三十九歳にして初めて筆を執つたといふ「昇鯉瀧白旗」から、その絶筆と傳へられる七十七歳の作「奴凧」の淨瑠璃に至るまで、約四十年間の作物は殆ど終始一貫、實に些の變化もなかつたと云つてよい。褒めていへば、翁は少しも動搖しなかつた。惡く云へば、翁は少しも進歩しなかつた。小猿七之助や辮天小槍を書いた時と、同じ態度おなじ筆法を以て、悠然と明治の舞臺へ乘り込んで來た。さうして、明治の材料を取つて明治の舞臺に上せた。ざんぎり頭の人間が依然として所謂「厄攘ひ」の名句を歌つてゐた。
 お孃吉三が大川端の春の夜にたゝずんで、「月もおぼろに白魚の」と歌ひ出したときに、我々は一種の詩趣をおぼえる。しかも世界を明治に取つた「鵜飼燎」で、藝者小松がその情人と割臺詞で「がツくり島田のつゞら折、それもほどいて掻き上げる、箱根の山の玉櫛笥」などと語つてゐるのを聞い時に、われ/\は一種の苦笑を洩らさずにはゐられない。面白いとばかりは云つてゐられない。しかも翁は更にこれを怪まなかつた。當時の見物もまた怪まなかつたかも知れない。しかしそれが永續すべき筈のものではない。芝居を別世界と心得てゐる習氣の脱しない時代とは云ひながら、翁は依然として三人吉三や、辮天小僧を以て明治の材料に對してゐたのは、餘りにマンネリズムに囚はれすぎてゐた。明治の材料を舞臺に陳列してあつても、そのあつかひ方はすべて江戸時代のものと變らなかつた。翁がざんぎり物で失敗したのも偶然でない。
 翁は座附作者である。座主の註文によつては自分の氣の乘らぬものも書かねばならない。翁も内心は不得意のざんぎり[#「ざんぎり」に傍点]物を避けてゐながら、よんどころなしに筆を執つた結果が斯うなつてしまつたのかも知れない。もし果してさうであるとす九ぱ、翁に對して前のごとき批難を加へるのは、甚だお氣の毒であるかも知れない。わたしも翁の立場には同情する。しかし私は翁に同情をよせると共に、翁に封しては少しく愚痴も云ひたい。その愚痴を云ひたさに、先づ第一番にざんぎり物を引合ひに出したのである。褒めていゝことはあとでゆつくり書く。
 そこで、これは翁一人の責ではなく、興行者や俳優も無論その責を頒たなければならないが、なんと云つても直接に筆を執つた人に責任の大部分が歸着するのは已むを得ないことである。前にも云つた通り、翁がもし彼のざんぎり物に對して例の三人吉三や、辮天小僧以外になんとか新しい工夫を加へて、もう少し明治の世界に適應するやうな新しい作風を案出してくれたならば、ざんぎりものは今日までも榮えてゐた筈である。そのころには新派も新しい劇團もなかつた。芝居は歌舞伎俳優が獨占の舞臺であつた。その舞臺に於てざんぎり物に好成績を占め得たらば、所謂新派は勃興の餘地も口實も無かつたかも知れない。たとひ彼等は當然興るべきものとしても、所謂舊派の舞臺に於ても昔の物とざんぎり[#「ざんぎり」に傍点]物と相駢んで上場をつゞけてゐられたに相違ない。
 然るに翁のざんぎり[#「ざんぎり」に傍点]物はいづれも思はしい成績を收め得なかつた。やはり昔の物の方が面白いと云ふことになつた。これは見物の罪ばかりとは云へまい。さうしてざんぎり[#「ざんぎり」に傍点]物は殆ど歌舞伎の舞臺から驅逐されてしまつた。それが舊派と新派と二つの國を作る基となつた。歌舞伎の俳優は現代の人物に扮する資格がないかのやうに、いつとは無しに決められてしまつた。歌舞伎の俳優は一種の能役者になつてしまつた。三百年の歴史を有する國劇を保存するのも勿論結構である。わたしもそれに故障は云はない。が、現代の材料をあつかふ資格が無いやうに決められてしまつたのは、かれらの不幸でないとは云へまい。
 これは見物も惡い、俳優もわるい。作者が最も惡かつた。若しその初めに於て、せめて形式だけでも明治の舞臺に相應するやうな工夫を凝らしてゐたならば、こんな片輪な世界は出來なかつたらうと思はれる。勿論、歌舞伎の俳優は絶對に現代劇を演じないでも差支ないといふならば、議論は又おのづから變つて來る。しかし世にさういふ議論を唱へる人ばかりもあるまい。少くとも私一人はその議論に同意したくない。
 或人は云ふ。それは時の勢ひで、翁一人を責めるのは無理であると。たしかに無理である。無理と知りつ、もその遠因に遡ると、わたしは遺憾ながら我が尊敬する默阿彌翁に射して矛を向けたいやうな氣がすることがある。淵のために魚を驅るものは獺なりとか孟子は云つてゐる。新派のために見物を驅つたものは、歌舞伎の作者と幾多の劇場關係者とであつた。そのなかでも翁はふだんから細心の人であつた。仕事には忠實の人であつた。一時の楡安や怠慢からこの過失を釀したのでないことは私も萬々察してゐる。が、あの時にあ、もして呉れたらと、思はず愚痴をこぼすことが凄ヒあるのを詐はる鐸には行かない。くり返していふ、これは私の愚痴に過ぎない。
 その新派も一時は衰へ又あたらしい機運に向つてゐる。舊派はます/\現代と遠ざかり行くやうな傾きがみられる。助六や忠臣藏が盛んに歡迎される。わたしは默阿彌翁に向けた矛を倒まにして今の劇場關係者をもあはせて攻めねばならぬ。これは愚痴でない、眞劍である。
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 材を明治に取つた新作のうちで、最も世間に賞揚されてゐるのは「水天宮利生深川」三幕で、二幕目の筆屋幸兵衞發狂の場は翁の長所と短所とを最もあざやかに表現したものである。實際、この時代には斯うした曹士族の悲劇が所々に實演されたに相違ない。この作などもこれに似寄りの事實があつたのを敷衍脚色したものだと傳へられてゐるが、この作をよんで誰でもすぐに氣の附くのは、全曲に現はれた人物のうちに一人も明治らしい人間が出てゐないと云ふことである。これは寧ろ江戸時代の事件として脚色された方がよかつたらうと思はれる。
 ある人はこの發狂の場に竹本と清元とを遣ひ分けた技倆を嘆賞する。しかし少しく舞臺に經驗のあるものから考へたら、こゝで清元を遣つた方が作者としてはどんなに氣樂であるかを覺るであらう。殊に清元を遣ふことが大好きの――と云ふよりは、延壽翁夫婦に對する關係上寧ろ贔屓といふ方に近かつた――翁としては、どうしても清元をつかつて氣樂の方へ逃げるのは當りまへである。翁は箸を持つて飯をくつたに過ぎない。それに感服するのは力負けではあるまいか。
 わたしは筆屋幸兵衞の悲劇を江戸時代に書き直した方がよいと云つた。その意味に於て、明治以後の翁の新作もやはり江戸時代に舞臺を取つたものが最も成功してゐる。
「梅雨小袖昔八丈」(つゆこそでむかしはちぢやう)(髮結新三)
「宇都宮紅葉釣裏」(うつのみやにしきのつりよぎ)(釣天井)
「大岡政談」(おほをかせいだん)(天一坊)
「早苗鳥伊達聞書」(ほととぎすだてのききがき)(伊達騷動)
「黄門記童幼講葎」(くわうもんきをさなかうしやく)(水戸黄門記)
「鏡山錦楓葉」(かがみやまにしきのもみぢば)(加賀騷動)
「天衣紛上野初花」(くもにまがふうへののはつはな)(河内山)
「大杯鵤酒戰強者」(おほさかづきしゅせんのつはもの)(馬場三郎兵衞)
「極附幡隨長兵衞」(きはめつきばんずゐちやうべゑ)(長兵衞最期)
「新皿屋鋪月雨量」(しんさらやしきつきのあまがさ)(お蔦と宗五郎)
「四千兩小判梅葉」(しせんりやうこばんのうめのは)(金藏破り)
 此等が先づその主なるものであらう。勿論、このうちには史劇の部類に屬すべきやうのものもあれば、純世話物式の物もあるが、就中「髮結新三」と「河内山」とが最も有名になつてゐる。實をいふと、髮結新三の筋は人情話にも講談にもある。例の「鰹片身」の件などは人情話をそのまゝ筆記したと云つてもよいくらゐで、故人柳櫻の人情話を聽いた方が舞臺で觀るよりも寧ろ面白いのであつた。唯、高座と舞臺とは呼吸が違ふといふことを十分に會得して、人情話から與へられた筋道を壞さずに、しかも舞憂に乘るやうに巧みに取扱つてあるところに翁の伎倆は確かに認められる。こゝが翁の特長である。自分の創意でないものを巧妙に舞臺化する鮎に於ては、殆ど空前で又或は絶後であるかも知れない。所謂座附作者としては、今後も或は翁のごとき人は容易に求め得られないかも知れない。少くとも翁は空前の座附作者であつた。
 「河内山」も種の出所はいふまでもない。有名な入谷の寮も、寺西閑心と櫨八小紫とを金子市之丞と直侍三千歳とに振り替へたものと認められる。猶その他にも秋月一角と金五郎小さんもある。舞臺面と云ひ、人物のならべ方と云ひ、いづれも類型的のもので、敢て翁の創意と認むべきほどのものではないが、それを巧みに書き活かして、いかにも面白さうに人をひき附けるところに翁の力量が認められる。翁に外國語の知識があつて、色々の飜案物をかいたら定めて面白いものが出來たことであらうと思はれる。實際、翁は巧妙なる飜案者であつて、全然その創意に成つたらしく認められるものは、おそらく甚だ少數であらう。かの「四千兩」で有名な牢内の場の如きも、その功績の大半は田村成義氏に分たなければなるまい。この狂言で面白く見られるのはこの牢内の場だけで、他は尋常一樣の筋をたどつてゐるに過ぎないのである。
 こゝで私が、自分の創意でないものを巧妙に舞臺化すると云つたのは、筋立の妙を讚へたのではない。翁は不幸にして狂言の筋を仕組むことには大なる才分をあたへられてるなかつた。單に舞臺技巧に富んでゐたのであつた。あまり面白くない筋立でも、それを面白く見せるだけの技倆を備へてゐた。早くいへぱ書き樣の上手な人であつた。作意も思はしくない、筋立もあまり妙でない。而もそれが舞臺のうへで面白く見られるといふのは、一種の舞臺技巧を恃むより外はなかつた。翁はこの方面に於て大なる力量をもつてゐた。さうしてそれを縱横無盡に發揮した。翁の舞臺技巧は名將の兵を操るがごとくに千變萬化して人の目を眩惑した。
 わたしは今日、筆を劇作に染めてゐる幾多の才人あるを知つてゐる。それらの諸才人はいづれもその着想に於ても、結構に於ても遙に默阿彌翁を凌いでゐること勿論である。しかも翁以上の舞臺效果を期待し得らるゝや否やは疑問に屬するものが少くない。いかに無技巧を主張しても、劇と名くる以上は所詮一種の技巧を要せぬわけには行くまい。こゝで云ふ技巧は單に舞臺の上の動きばかりを意味するのでない。默阿彌翁の作にも所謂動きのないものもある。それでも何處にか人を魅する魔力を有してゐるのは、舞臺技巧のすぐれたものと認めなければなるまい。現代諸才人の作物の上に、更に翁の技巧を附け加へたらば殆ど鬼に鐵棒であらう。翁は自在に鐵棒を振りまはした。そこに翁の強味があつた。しかも翁の本髓は鬼でなかつた。
 話は少しく横道にそれた。
 私が常に感ずることは、翁が得意とする世話物が果していつまでの壽命を保つであらうか、翁が寧ろ不得意とする時代物が果していつまでの壽命を績けるであらうかといふ問題である。翁が世話物に秀でてゐたことは誰も認める、翁自身もさう認めてゐたに相違あるまい。而もその生命の長短に於ては、或は反對の結果を來すやうなことがありはしまいか。
 繰返していふ、翁は飽までも江戸前の作者であつた。池の魚が海に棲むことが出來ぬと同じやうに、江戸の作者も江戸の空氣を離れて生きられる筈がないとすれば、その産物たる純江戸式の世話物も、江戸の空氣のまだ幾分か殘つてゐる明治時代に於てこそ、その生命を保つてゐられたであらうが、果して今後はどうであらうか。第一これを演出するに最も適當な俳優を見出すに苦むであらう。勿論、今日でも翁の世話物は絶えず上場されてゐる。しかも書きおろし當時の興味を見出し得ないのは、我も人も遺憾に堪へないところであるが、これは必ずしも俳優が未熟の罪ではない、俳優の生れた時代が違ふからである。この缺點は年を追うてます/\暴露されてゆくものと覺悟しなければならない。したがつて興味はます/\薄れてゆく。これに對して長期の保險をつけるのは頗る冒險ではあるまいかと危ぶまれる。
 そんなら近松翁はどうだと云ふ人があるかも知れない。しかし近松翁と默阿彌翁とは大分そのあひだに相違がある。前者も元禄當時に於ける大阪の市井寫してはゐたが、そのつかんだ點に古今共通の生命がある。後者は何分にも舞臺技巧本位に書かれてあるので、その時代の人々にはいかほど強く感じられたことでも、後代の人々には殆どなんの感銘をもあたはないやうなことが少くない。即ち歳月の流れによつて、だん/\に洗ひ去らるべき性質をもつてゐる。委しくいへば、近松翁は元禄を離れても生きられるやうに出來てゐる。默阿彌翁は江戸を離れては生きられないやうに出來てゐる。蛙は水を離れても生きてゐられるが、鯉や鮒が水を去れば早晩死なねばならない。
 近頃江戸趣味といふことが大分流行する。それにつれて默阿彌翁も復活した。翁の作物が頻りに上場される。一見まことに結構のことではあるが、調子に乘つて片つ端から無暗に默阿彌劇の庫拂ひをするといふことは、翁のために幸か不幸か、賢明なる各劇場興行者に一考を煩はしたいと思ふ。これがために早く世間から飽きられて、却つて翁の生命を切り縮めるやうなことが無ければ幸である。翁の作物、殊に世話物を研究するのは好い。わたしも常に研究しつゝある。而も多くの場合には單に讀むことに止めて置きたい。今日これを上場する場合には、決して原作をよんだ時ほどの興味を感じ得られないものと覺悟をしてかゝらねばならない。三馬の「船頭新話」でも、春水の「梅暦」でも、あれが讀み物であるから仔細はない。若しこれを舞臺に上せようとすると、多くは失敗を免かれない。したがつて原作を傷けることになる。一般の見物は其理由を深くたづねずして、直ちに原作そのものを批難するのが習であるから。
 翁の世話物が案外に壽命の少なるべきことは前に云つた。これに反して時代物の方が寧ろ壽命が長くはないかと思はれる點が多い。世間では一般に翁の世話物のみを賞揚するが、翁の時代物も決して輕侮すべきものではない。殊にこの方面の作物は材を古い歴史に取つてあるだけに、また純江戸式のやうな精細な描寫がないだけに、早く云へば古今共通の意味において、今日の東京人にも理解され易い大まかな點を多く所有してゐる。翁は歴史上の人物や事件に對して、新しい解釋を加へようなどと試みてはゐない。翁は何人を捉へ來つても、これを普通の芝居の鑄型に入れて溶解してしまつた。それが翁の短所であると共に、所謂お芝居としてはいつまでも生存してゐられる一種の強味を有してゐるとも云ひ得られる。
 いかに古い物だからと云つても、繪本太功記や鎌倉三代記では今日の人間とあまりに世界が懸け放れてしまつて、あんまり馬鹿々々しいとか冗談らしいとか云ふやうな批難が起る日が早晩來るであらう。こゝに於てか翁の時代物が古典的唯一の作物として、その價値を見出されることになるであらう。翁の時代物も勿論太功記や三代記から系統をひいてゐるものには相違ないが、あれほどに荒唐無稽ではない、あれ程には特別の技藝を要しない。普通の俳優が普通に演じてゐれば、今日の人間にもお芝居としては相當に面白く觀てゐられる。今日の情勢から云ふと、いかに古劇保存の聲が高く叫ばれても、太功記や三代記のたぐひを長く保存するといふことは、俳優の技藝からかんがへても、見物の趣味から考へても、到底不可能のことらしく想像される。おそらく古劇として保存に堪へ得る程度のものは、翁の時代物あたりを限りとするのではあるまいか。勿論、歌舞伎十八番のたぐひは例外であるが、それとて助六のやうなものはどうであらうか。その運命甚だ覺束ない。
 翁の作物が長く世に傳へられるとすれば、それはどう考へても、その得意とする世話物でなくして、却つてその不得意とする時代物であらう。作者自身としては或は不本意であるかも知れないが、村井長庵や辮天小僧は結局一種の參考書にとゞまつて、一部の研究者には多大の裨益をあたへようとも、舞臺の上で長く見物に對すると云ふことは困難であらう。翁の遺族によつて默阿彌脚本集の定本が完成してゐることは、賢明の虚置と云はなければならぬ。
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 わたしの貧しい知識から考へると、翁の時代物は世話物とは反對に、明治以後に於て多量の佳作を出だしてゐるらしく思はれる。
「桃山譚」(もゝやまものがたり)(地震加藤)
「太鼓音智勇三略」(たいこのおとちゆうのさんりやく)(酒井の太鼓)
「夜討曾我狩場曙」(ようちそがかりばのあけぼの)(曾我の討入)
「川中島東都錦糟」(かはなかじまあづまのにしきゑ)(川中島合戰)
「牡丹平家譚」(なとりぐさへいけものがたり)(重盛諫言)
「二代源氏譽身換」(にだいげんじほまれのみがはり)(仲光)
「北條九代名家功」(ほうでうくだいめいかのいさをし)(高時天狗舞)
「關原神葵葉」(せきがはらかみのあふひば)(関ヶ原合戰)
「紅葉狩」(もみぢがり)(淨瑠璃)
「土蜘」(つちぐも)(淨瑠璃)
「戻橋」(もどりばし)(淨瑠璃)
 これ等が先づその主なるもので、仲光や重盛諫言のごときは少しく芝居離れのした嫌ひがないでもないが、兎もかくも以上十餘種は今後まだ/\長い壽命を保ち得られるに相違ない。いかに新らし演劇が天地を壓して來ても、これ等の時代物は歌舞伎劇の代表作として、必らずどこかの舞臺の隅でその光を放つてゐられると思ふ。この意味から云へば、翁は明治以後まで生きてゐたことを幸福とせねばならぬ。正直にいへば翁自身から觀ても、我々からみても、翁の作物は明治以前までに踏みとゞまつてゐて貰ひたかつた。なまじひに混沌たる明治の劇界へは足踏みをして貰ひたくなかつた。而もその結果は不思議の矛盾を衆たして、舞臺に上せらるべき作物としては、明治以後の默阿彌翁が却つて光彩を放つやうなことになつてしまつた。
 翁に取つては喜ぶべきことか、悲むべきことか。得意のものは葬むられ、不得意のものが却つて世に生きる。翁としては少數の研究者にその得意の作を渇仰されるのを以て滿足するか。或はたとひ不得意の作としても、汎く多數の觀劇者に賞美せられるのを以て滿足するか。  かの近松翁自身としても、或は斯ういふ矛盾を感じてゐたかも知れない。われ/\は翁の世話淨瑠璃を以て一種の國寶であるかのやうに尊崇してゐるけれども、翁自身もその時代の人々も却つてその時代淨瑠璃に就て誇りを持つてゐたかも知れない。現に近松翁の三傑作と稻せらるゝものが「曾我會稽山」と云ひ、「國姓爺合戰」といひ、「雪女五枚羽子板」と云ひ、いづれも時代物に限られてゐるのを見てもわかる。尤もこの時代の風習として、時代物は相當の準備と苦心とを以て製作せられたやうに考へられ、世話物は單に端物として今日の三面雜報同樣に見なされた結果、自然に時代物を重んずる傾向を來たしたに相違ないが、兎もかくも翁の一代に於ては作者自身も世間の人も時代物の方を比較的に重んじてゐたらしい。それが反對の結果を生んで、後世に於ける近松は殆ど世話淨瑠璃の作家として不朽の名譽を傳ふるやうになつてしまつた。
 この點に於ては默阿彌翁も近松翁も殆ど相一致してゐると云ひ得られる。しかし近松翁の方はたとひ本人はなんと思つてゐやうとも、萬人の睹る所、確かに世話淨瑠璃の方がすぐれてゐるのであるが、默阿彌翁の方はさうでない。本人も世話物を得意とし、他人もさう信じてゐるにも拘らず、却つて反對の結果を來たすことになつて來たのであるから、幸か不幸か、少しく疑はざるを得ないやうにもなる。
 が、翁自身もその晩年に於ては、時代の趨勢にも驅られ、また俳優の要求にも促がされて、おれにだつて書けると云ふやうな一種の反抗心から、努めてその不得意の畑に鍬を入れたやうな傾きが見えぬでもない。むかしは一種の別世界のやうに認められ、或は無學者の學問所であるとか云はれてるた演劇其物が、明治以來やうやく其位地を高めると同時に、劇に對する色々の註文があらはれて來た。在來の劇には滿足が出來ぬといふやうな攻撃が起つた。その攻撃軍の先鋒となり、大將分となつてゐるやうな人々の多くは、劇について十分の知識を有してゐない顯官や學者のたぐひであつた。演劇改良などと口でばかり偉さうなことを云つてゐても、實は劇に就ても小説に就てもお先まつ暗な連中が多かつた。かれらは演劇を高尚にすべしと叫んだ。どろぼうや藝者が出ては演劇でないやうにかんがへてゐた。彼等は在來の作者の無學を罵つた。學問さへあれば誰にでも脚本が書けるものゝやうに考へてるた。かれらは在來の演劇の筋が荒唐無稽であると一圖に卑しんで、その作に含まれてゐる詩趣などを省みる餘裕がなかつた。そのほかにも曰く何、曰く何、かれらの多數から提出された註文は、今日から顧れば寧ろ劇の進歩を阻害するかのやうに感じられるものが多きを占めてゐた。
 勿論、彼等の盡力や斡旋によつて、日本の演劇の地位が著るしく高まつたのは、爭ふべからざる事實であつた。その點に於ては、か札らも我が劇界に對する功勳者の名譽を要求する權利があるかも知れない。しかもそれとこれとはおのづから別種の問題で、彼等は前にいふやうな無理無麗な註文を眞向に振りかざして、しきりに我が劇界を鞭撻し、攻撃し、威嚇し、壓迫した。劇界は甚だしく動搖した。單に偉い人達ばかりでなく、なま物識りの徒までが附和雷同して、在來の國劇を滅茶苦茶に破壞しようと企てた。かれらは八方から聲を大にして叫んだ。空疎な頭から無理に色々の理窟を絞り出して、時の作者を無二無三に罵り辱かしめた。踏みにじつた。
 かくの如くにして、明治十五六年から廿四五年に至る約十年間は、殆ど空前ともいふべき狂言作者迫害の時代であつた。自然の結果として、その代表者たる默阿彌翁は荊の冠を戴かねばならぬやうな破目に陷つた。思へば實に涙である。翁は温厚の人であつた。謹直の人であつた。平生から絶えて他人と事ふやうなことの無かつた人であつた。隨つてこの無道なる迫害に對しても、表面には曾て反抗の氣勢を示さなかつた。翁は魚のごとくに默して岨上に横はつてゐた。繰返していふ、思へば實に涙である。
 翁が河竹新七の名を門人に讓つて、明治十七年四月を以て退隱したのも、老年のためとは云へ又一つにはこれらの不滿――と云ふよりは寧ろ面倒を避けるために――が原因をなしてゐるのではあるまいか。翁はこ、に默阿彌と改名した。さうして、その名の如くに默してゐた。しかし前にも云ふ通り、俺にだつて書けるといふ江戸つ子の負けじ魂は、彼の老いたる筆を驅つて所謂活歴物に向はしめた。それが仲光となり、高時となり、伊勢三郎となつた。團十郎は得意でこれを演じた。世間でも歡迎した。それが俑を作つて時代物はすべて活歴といふ邪道に陷つた。今日でも史劇に對して史實そのまゝにあれと要求する人がある。その當時の演劇改良論者には殊にそれが多かつたので、翁も一種の負けじ魂と周圍の壓迫とに制せられて、心にもない活歴の作者となつてしまつた。その系統を引いた櫻癡居士のことは今こゝに云ふまい。
 私はその當時の翁の胸中に立ち入つて、色々の想像を逞しうするに忍びない。が、翁も人間である。しかも負けぬ氣の強い江戸つ子である。日本の演劇といふものを碌々に研究もせず理解もせずに、唯えらさうな空論を吐いて自己の領土を無殘に破壞しようと企てつゝある人々に對して不平や不滿がなくて濟まうか。生きた蛙を丸呑みにするほどの忍耐力があれば格別、さもないかぎりは不平も出る。反抗心も起る。それは當然のことである。而も温厚なる翁は沈默してゐた。鳴かぬ螢が身を焦す。すこしく料簡のあるものならば、その當時の翁に對して同情を拂ふに躊躇しないであらう。
 嗣子河竹繁俊氏の書かれた「河竹默阿彌」といふ一書によると、かの「高時」は求古會の註文に背かないやうに筆を執つたので、書いてゐるあひだも、また書き上げてからも、翁は「どうも芝居にならなくて、いけねえ、いけねえ。」と滾し拔いてゐたさうである。わたしの亡父も求古會員の一人であつた。私はまだ子供でその當時のことは些とも知らないが、これに據るとわたしの父もどうやら翁を壓迫した一人であるらしく思はれる。元來かの求古會なるものは團十郎が例の活歴物を演ずる必要上、史實や服裝等に明るい人々(十人ぐらゐのやうに聞いてゐる。)を招待して、その談話などを聽いたのが始まりで、自然それが一種の會を組織するやうになつたのであるから、高時は勿論、仲光や伊勢三郎その他に封しても何か容喙したかも知れない。惡いことをしたものである。「高時」はもとより惡い作ではないが、もし他に掣肘するものが無くして、翁に自由の筆を揮はせたら、もつと面白いものが出來たであらう。わたしは翁に多大の同情を寄せると同時に、自分の父もどうやら翁の敵であつたらしいことを發見したのを深く悲まなければならない。わたしは特に此事を記して、父に代つて翁の靈前に謝したいと思ふ。
「河竹默阿彌」のうちに、又かう云ふことが書いてある。翁が春陽堂から狂言百種を發行したときに、第一卷「村井長庵」の卷頭にこんな序文を掲げた。

  「(前略)素より野鄙な世話狂言、無學無識の手になれば、まがひ物の拙作を不斷着のまゝ、修正の洗濯もせず出版せしは、鳴呼肩身の狹きことにこそ。」

 さうして「所謂改良劇の呼び聲の高かつた當時には、默阿彌もお座なりでなく、眞實かう感じてもゐたらしい。」と、著者は附記してゐる。が、これはその嗣子として父の傳を草する場合に特に卑下して斯う書いたのではあるまいか。翁は果して眞實かう感じてゐたであらうか。翁はみづから恃むに足るだけの力量を立派に持つてゐる。いくら温厚でも謙遜でもむやみに自から屈するいはれがない。翁は殆ど無意味に屬するその時代の演劇改良論を呪ふまでには至らずとも、少くも冷笑してゐたに相違あるまいと思はれる。もし又、眞に肩身が狹いと感じてゐたとすれば、いよく哀れが深い。
 いづれにしても、翁の晩年は得意の境界ではなかつた。翁が死去の當時、わたしは相當の知識階級の人の口から「默阿彌も今が死に時だらうよ」といふ冷淡な詞を聞いた。それは「もう用のない人間である」と云ふやうな意味らしく受取られた。無論、翁の死が傳へられると同時に、諸新聞も世間の人もみな口々にその死を悼んだが、それは殺して置いて記念碑を建てる格ではなかつたらうか。たとひ翁自身には毛頭の不滿もなく、所謂演劇改良論者の非道なる攻撃も壓迫も當然の事として甘受して、悠々その天命を終つたにもせよ、我々多感の人間からみれば確かに同情の涙に値する。まして無言のうちに幾多の不足や不滿を藏めてゐたとすれば更に悲しくはあるまいか。
 その演劇改良論は疾うの昔に亡びてしまつた。翁は再びその眞價を見出ださるゝやうになつた。月並の文句でいへば、翁は瞑すべきであらう。たゞ遺憾とするのは、翁の名がその不得意とする時代物に因つて長く世に傳へらるゝことである。これも時代の變遷で已むを得ないと云へばそれ迄であるが、我々としては何となく物足りないやうに思はれてならない。しかし櫻田治助や瀬川如皐の名が忘れられる時が來ても、翁はおそらくその時代物によつて長く生命を保ち得られるであらう。
                (大正十三年・新作社刊『十番隨筆』、後、
                 昭和二十四年・同光杜刊『歌舞伎談義』所收)



底本:明治文学全集9 河竹默阿彌集、筑摩書房 昭和四十一年七月一〇日 発行
入力:和井府 清十郎
公開:2002年7月1日
なお、振りかな(ルビ)は《》で示す

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