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綺堂ディジタル・コレクション





つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル 化したものです。
 なお、入力者(和井府)自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆  2 箕輪の心中

  『創作の思ひ出』より

岡 本 綺 堂 kido_in.jpg


 藤枝外記と大菱屋綾衣との心中がその當時有名であつたことは、かの「君と寝やろか五千石取ろか、なんの五千石、君と寝よ」の流行唄をみても知られる。山東京傳はその翌年発行の「指面草(さしもぐさ)」のなかに王義之屋の遊女小夜衣といふのが武家と心中して、その魂が女郎蜘蛛になることを書いてゐる。新内節には有名な早衣喜之助がある。しかし何分にも相手が歴々の旗本であるといふので、芝居の方では遠慮したらしく、この事件を劇化したものは無いやうである。
 一体、江戸で出來た狂言に心中を主題としたものは殆ど無いと云つてよい。心中や道行を書いたものがないではないが、それが本筋ではなく、大抵は一種の色取りとして用ひられてゐる。主人公の男と女とが心中を遂げて、その芝居が結末を告げるといふものは見當らないやうである。誰も知る通り、近松の心中物は別として、大阪でもその後に書かれた心中物は、いよ/\最期といふ場になつて男も女も救はれるのが多い。堀川のお俊傳兵衛でも、紙子の助六揚巻でも、みなそれである。八代將軍の時代に、心中物の上演を禁止されたのが、第一の原因であるが、その禁令が弛んだ後でも、男も女も空しく亡びてしまふと云ふのでは、一般の観客にも喜ばれなくなつたらしい。又一方には、江戸時代の芝居のやうに幕数も多く、事件も色々に複雑してゐるものでは、男と女の心中だけを主題として一日の狂言をまとめることは困難でもあつたらしい。いつれにしても江戸から明治にかけて、心中そのものを主題として書かれたものは極めて少ない。明治以後では三世河竹新七が吉原の品川楼盛糸と八木豊永との心中をかいた新比翼塚ぐらゐに過ぎないやうである。近松の作を平素愛読してゐるわたしは、それを何だか物足らないやうにも感じて、心中といふ事件だけを主題として一つの狂言を書いてみようと思ひ立つた。さうして外記と綾衣との事件を撰んだのは、一方の男が堂々たる旗本の殿様であると云ふことと、かの「君と寝やろか」の小唄とが、わたしの興味を惹いたからであつた。大名で心中したのは米倉丹後守、旗本で心中したのは藤枝外記、徳川時代を通じてこの二人ぎりであるらしい。
 しかしわたしは外記と綾衣との事實について余り多くを知らなかつた。太田蜀山の書いたものや、その他二三の記録に拠つて、外記の身分と、心中の年月と場所と、その墓が淺草田中町の幸龍寺であると云ふことを知り得たに過ぎなかつた。近來になつて、三田村鳶魚君がこの心中の顛末を大分委しく発表されたが、わたしがそれを起稿したのは明治四十二年の三月で、今から十数年以前のことであるから、何分にも委しいことが判らない。三田村君もまだ其頃には今ほどの穿索がとゞいてゐないらしかつた。さういふ訳であるから、三幕の狂言全部はこと/"\く私の空想の産物である。
 外記の心中は天明五年の出來事であるが、それが七月十三日とも云ひ、八月十三日ともいふ。どちらがほんたうか判らなかつたが、七月の方には盂蘭盆といふ景物があつて、精霊棚や盆燈籠や迎ひ火や、色々の芝居らしい道具が揃ふので、舞台の都合上、それを七月のことにした。心中の場所は淺草千束村の餌まき屋である。餌まきと云ふのは、百姓が幕府の命をうけて、鷹狩の鳥を飼ひ馴らすために毎日二回づつの餌をまいて置く役目で、三人扶持乃至五人扶持を貰ふのが彼等の役得であつた。百姓と云つても幾分か武家に縁があるので、何かのことから外記はその百姓を識つてゐて、そこへ女を連れ込んだものらしい。わたしもその餌まきの家にしようかと思つたのであるが、餌まきは專ら冬のあひだの仕事で、孟蘭盆の世界には關係がないので、普通の農家にしてしまつた。併し見ず識らずの百姓家へ這入り込んで心中するのも変であるから、すこし月並ではあるが、それを外記の乳母の家とした。綾衣の實家にしようかとも思つたが、それではいよいよ月並になりさうなので見合はせた。場所は千束村であるから淺草田圃でなければならないが、淺草田圃と云ふと今日の千束町を聯想して何だか俗つぼく感じられるので、近所の箕輪田圃といふことにした。
 藤枝外記は養子である。心中の當時、その養母はまだ存命であつたといふ。高尾を請出した榊原侯も養子であつた。養子のために家をほろぼされた藤枝家は氣の毒であるが、或ひは彼が養子であつたと云ふことの爲めに、心中の悲劇が醸(かも)し成されたのではないかとも想像される。したがつて、この養子關係を取扱つたならぽ、事件が更に複雑になるかとも思つたが、わたしは努めて事件を複難にすることを避けて、単に恋愛一点張りで終始押通さうとした。養子問題などは無視してしまつた。
 最初は一幕物を書くつもりで、第三幕の心中の場だけを書いたのであるが、どうもそれだけでは纒まらないので、更に第二幕の外記の屋敷を書き足した。さうして、演藝画報に発表したのであるが、それを明治座で上演するにあたつて、外記の屋敷と箕輪の農家だけではまだ何うも物足らなく思はれるので、更に又第一幕の梅若境内と武藏屋の場を加へることにした。恰も近松の心中物三段の作風を模したのであるが、最初に第三幕、次に第二幕、最後に第一幕と、全く逆さまに書いて行つたのは、わたし自身としては異例に属する。近松もこの逆さまの筆法を用ひてゐたらしいことは、かの小春治兵衛の「天網島」を、下の巻の「謡の本は近衛流、野郎帽子は若紫」から書きはじめたと云ふのを見ても知られるが、勿論、それは正しい書き方ではない。
 わたしが「箕輪の心中」といふ題をつけたに就いて、劇場側では警視庁がそれを許可するか何うかと懸念してゐた。明治以來、心中といふ題をつけた新作が無かつたからである。併しその時は無事に通過した。その後に「鳥邊山心中」を書いた時も、別に故障はなかつた。ところが、大正五年六月、歌舞伎座で「隅田川心中」を上演しようとすると、警視庁では許可しない。どうしても心中の二字を削れといふので、よんどころなく、「風流一代噺」と改題して、辛うじて通過することになつた。その後しばらくは「心中」といふ題を冠らせることは禁物であつたが、近年再びその禁を解かれて、心中も再びお構ひ無いことになつたのは幸ひである。                          (大正一四)



底本:岡本綺堂 「甲字楼夜話」綺堂劇談313−314頁
  青蛙房 昭和31年2月10日
入力:和井府清十郎
公開日:2007年8月17日





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