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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品を林田Sさんがデジタル化されたものです。現在、文庫本などでの作品の入手困難な現状に鑑み、「青空文庫」向けにテキスト・ファイル化されたものを、そのご厚意により先立って公開させていただきました。
 『三浦老人昔話』は関東大震災直後の大正12年10月から書かれ、翌13年1月に雑誌『苦楽』(第一期)に連載された、全12話からなる作品です。後年のミステリーや怪奇色はこの作品ではあまりないのですが、むしろ人間性、日常生活の不合理・不条理を扱ったヒューマンな作品といえるでしょうか。個人的には、「人参」「矢がすり」あたりが不条理や余韻とともに心に残ります。
 なお、入力者自身による校正はされていますが、第三者による校正を経ていないベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




鎧櫃の血  ――『三浦老人昔話』より
             岡本綺堂
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      一

 その頃、わたしは忙しい仕事を持っていたので、兎かくにどこへも御無沙汰勝であった。半七老人にも三浦老人にもしばらく逢う機会がなかった。半七老人はもうお馴染でもあり、わたしの商売も知っているのであるから、ちっとぐらい無沙汰をしても格別に厭な顔もされまいと、内々多寡をくゝっているのであるが、三浦老人の方はまだ馴染のうすい人で、双方の気心もほんとうに知れていないのであるから、たった一度顔出しをしたぎりで鼬《いたち》の道をきめては悪い。そう思いながらも矢はり半日の暇も借しまれる身のうえで、今日こそはという都合のいゝ日が見付からなかった。
 その年の春はかなりに余寒が強くて、二月から三月にかけても天からたび/\白いものを降らせた。わたしは軽い風邪をひいて二日ほど寝たこともあった。なにしろ大久保に無沙汰をしていることが気にかゝるので、三月の中頃にわたしは三浦老人にあてゝ無沙汰の詫言《わびごと》を書いた郵便を出すと、老人からすぐに返事が来て、自分も正月の末から持病のリュウマチスで寝たり起きたりしていたが、此頃はよほど快《よ》くなったとのことであった。そう聞くと、自分の怠慢がいよ/\悔まれるような気がして、わたしはその返事をうけ取った翌日の朝、病気見舞をかねて大久保へ第二回の訪問を試みた。第一回の時もそうであったが、今度はいよ/\路がわるい。停車場から小一町をたどるあいだに、わたしは幾たびか雪解のぬかるみに新しい足駄を吸取られそうになった。見おぼえの杉の生垣の前まで行き着いて、わたしは初めてほっとした。天気のいい日で、額には汗が滲んだ。
「この路の悪いところヘ……。」と、老人は案外に元気よくわたしを迎えた。「粟津の木曽殿で、大変でしたろう。なにしろここらは躑躅《つゝじ》の咲くまでは、江戸の人の足踏《ぶ》みするところじゃありませんよ。」
 まったく其頃の大久保は、霜解と雪解とで往来難渋の里であった。そのぬかるみを突破してわざ/\病気見舞に来たというので、老人はひどく喜んでくれた。リュウマチスは多年の持病で、二月中は可なりに強く悩まされたが、三月になってからは毎日起きている。殊にこの四五日は好い日和がつゞくので、大変に体《からだ》の工合がいゝという話を聴かされて、わたしは嬉しかった。
「でも、このごろは大久保も馬鹿に出来ませんぜ。洋食屋が一軒開業しましたよ。きょうはそれを御馳走しますからね。お午過ぎまで人質ですよ。」
 こうして足留めを食わして置いて、老人は打ちくつろいで色色のむかし話をはじめた。次に紹介するのもその談話の一節である。

 このあいだは桐畑の太夫さんのお話をしましたが、これもやはり旗本の一人のお話です。これは前の太夫さんとは段ちがいで、おなじ旗本と云っても二百石の小身、牛込の揚場《あげば》に近いところに屋敷を有《も》っている今宮六之助という人です。この人が嘉永の末年に御用道中で大阪へゆくことになりました。大阪の城の番士を云い付かって、一種の勤番の格で出かけたのです。よその藩中と違って、江戸の侍に勤番というものは無いのですが、それでも交代に大阪の城へ詰めさせられます。大阪城の天守が雷火に焚《や》かれたときに、そこにしまってある権現様の金の扇の馬標《うまじるし》を無事にかつぎ出して、天守の頂上から堀のなかへ飛び込んで死んだという、有名な中川|帯刀《たてわき》もやはりこの番士の一人でした。
 そんなわけですから、甲府詰などとは違って、江戸の侍の大阪詰は決して悪いことではなかったので、今宮さんも大威張りで出かけて行ったのです、普通の旅行ではなく、御用道中というのですから、道中は幅が利きます。何のなにがしは御用道中で何月何日にはどこを通るということは、前以て江戸の道中奉行から東海道の宿々に達してありますから、ゆく先々ではその準備をして待ち受けていて、万事に不自由するようなことはありません。泊りは本陣で、一泊九十六文、昼飯四十八文というのですから実に廉《やす》いものです。駕籠に乗っても一里三十二文、それもこれも御用という名を頂いているおかげで、弥次喜多の道中だってなか/\こんなことでは済みません。主人はまあそれでもいゝとして、その家来共までが御用の二字を嵩《かさ》にきて、道中の宿々《しゆく/″\》を困らせてあるいたのは悪いことでした。
 早い話が、御用道中の悪い奴に出っくわすと、駕籠屋があべこべに強請《ゆす》られます。道中で客が駕籠屋や雲助にゆすられるのは、芝居にも小説にもよくあることですが、これはあべこべに客の方から駕籠屋や雲助をゆするのだから怖ろしい。主人というほどの人は流石《さすが》にそんなこともしませんが、その家来の若党や中間《ちゆうげん》のたぐい、殊に中間などの悪い奴は往々それを遣って自分たちの役得と心得ている。たとえば、駕籠に乗った場合に、駕籠のなかで無暗《むやみ》にからだを揺する。客にゆすられては担いでゆくものが難儀だから、駕籠屋がどうかお静かにねがいますと云っても、知らない顔をしてわざと揺する。云えば云うほど、ひどく揺する。駕籠屋も結局往生して、内所で幾らか掴ませることになる。ゆする[#「ゆする」に傍点]と云う詞《ことば》はこれから出たのか何うだか知りませんが、なにしろ斯ういう風にしてゆするのだから堪りません。それが又、この時代の習慣で、大抵の主人も見て見ぬ振をしていたようです。それに余りにやかましく云えば、おれの主人は野暮だとか判らず屋だとか云って、家来どもに見限られる。まことにむずかしい世の中でした。
 今宮さんは若党ひとりと中間三人の上下五人で、荷かつぎの人足は宿々で雇うことにしていました。若党は勇作、中間は半蔵と勘次と源吉。主人の今宮さんは今年三十一で、これまで御奉公に不首尾もない。勿論、首尾のわるい者では大阪詰にはなりますまいが、先ずは一通りの武家気質《かたぎ》の人物。たゞこの人の一つの道楽は食い道楽で、食い物の好みがひどくむずかしい。今度の大阪詰についても、本人はたゞそれだけを苦にしていたが、どう仕様がない。大阪の食い物にはおい/\に馴れるとしても、当座が困るに相違ない。殊に大阪は醤油がよくないと聞いているから、せめては当座の使い料として醤油だけでも持って行きたいという註文で、銚子の亀甲万一樽を買わせたが、扱《さて》それを持って行くのに差支えました。
 武家の道中に醤油樽をかつがせては行かれない。と云って、何分にも小さいものでないから、何かの荷物のなかに押込んで行くというわけにも行かない。その運送に困った挙句に、それを鎧櫃に入れて行くということになりました。道中の問屋場《といやば》にはそれ/″\に公定相場と云うようなものがあって、人足どもにかつがせる荷物もその目方によって運賃が違うのですが、武家の鎧櫃にかぎって、幾らそれが重くても所謂「重た増し」を取らないことになっていましたから、鎧櫃のなかへは色々のものを詰め込んで行く人がありました。今宮さんも多分それから思い付いたのでしょうが、醤油樽は随分思い切っています。殊にその樽を入れてしまえば、もうその上に鎧を入れる余地はありません。鎧が大事か、醤油が大事かと云うことになっても、やはり醤油の方が大切であったとみえて、今宮さんはとう/\自分の鎧櫃を醤油樽のかくれ家ときめてしまいました。しかし鎧を持って行かないでは困るので、鎧の袖や草摺をばら/\に外して、籠手《こて》も脛当《すねあて》も別々にして、ほかの荷物のなかへ何うにか欺うにか押込んで、先ず表向きは何の不思議も無しに江戸を立つことになりました。
 それは六月の末、新暦で申せば七月の土用のうちですから、夏の盛りで暑いことおびたゞしい。武家の道中は道草を食わないので、はじめの日は程ケ谷泊り、次の日が小田原、その次の日が箱根八里、御用道中ですから勿論関所のしらべも手軽にすんで、その晩は三島に泊る。こゝまでは至極無事であったのですが、そのあくる日、江戸を出てから四日目に三島の宿《しゆく》を立って、伊賀越の浄瑠璃でおなじみの沼津の宿をさして行くことになりました。上下五人の荷物は両掛けにして、問屋場の人足三人がかついで行く。主人だけが駕籠に乗って、家来四人は徒歩《かち》で附いて行く。兎かく説明が多くなるようですが、この人足も問屋場に詰めているのは皆おとなしいもので、決して悪いことをする筈はないのです。もし悪いことをして、次の宿の問屋場にその次第を届け出られゝば、すぐに取押えて牢に入れられるか、あるいは袋叩きにされて所払いを食うか、いずれにしても手ひどい崇をうけることになっているのですから、問屋場にいるものは先ず安心して雇えるわけです。しかしこの問屋場に係り合のない人足で、彼の伊賀越の平作のように、村外れや宿はずれにうろ付いて客待をしている者の中には、所謂雲助根性を発揮して良くないことをする奴もありました。そんなら旅をする人は誰でも問屋場《といやば》にかゝりそうなものですが、問屋場には公定相場があって負引《まけひき》が無いのと、問屋場では帳簿に記入する必要上、一々その旅人の身許や行く先などを取りしらべたりして、手数がなか/\面倒であるので、少しばかりの荷物を持つた人は問屋場の手にかゝらないことになっていました。勿論、お尋ね者や駈落者などは我身にうしろ暗いことがあるから問屋場にはかゝりません。そこが又、悪い雲助などの附込むところでした。
 今宮さんの一行は立派な御用道中ですから、大威張りで問屋場の手にかゝって、荷物をかつがせて行ったのですが、間違いの起るときは仕方のないもので、その前の晩は、三島の宿《しゆく》に幾組かの大名の泊りが落合って、沢山の人足が要ることになったので、助郷までも狩りあつめてくる始末。助郷《すけごう》というのは、近郷の百姓が一種の夫役のように出てくるのです。それでもまだ人数が不足であったとみえて、宿はずれに網を張っている雲助までも呼びあつめて来たので、今宮さんの人足三人のうちにも平作の若いようなのが一人まじっていました。年は三十前後で、名前はかい[#「かい」に傍点]助と云うのだそうですが、どんな字を書くのか判りません。本人もおそらく知らなかったかも知れません。なにしろかい[#「かい」に傍点]助という変な名ではお話が仕にくいから、仮りに平作と云って置きましょう。そのつもりでお聴きください。
 人足どもはそれ/″\に荷物をかつぐ。彼の平作は鎧櫃をかつぐことになりました。担ごうとすると、よほど重い。平作も商売柄ですから、すぐにこれは普通の鎧櫃ではないと睨みました。這奴《こいつ》なか/\悪い奴とみえて、それをかつぐ時粗相の振をしてわざと問屋役人の眼のまえで投げ出しました。暑い時分のことですから、醤油が沸いて呑口の筌《せん》が自然に弛《ゆる》んでいたのか、それとも強く投げ出すはずみに、樽に割れでも出来たのか、いずれにしても、醤油が鎧櫃のなかへ流れ出したらしく、平作が自分の粗相をわびて再びそれを担ぎあげようとすると、櫃の外へも醤油の雫がぽと/\と零れ出しました。
「あ。」
 人々も顔を見あわせました。
 鎧櫃から紅い水が零れ出す筈がない。どの人もおどろくのも無理はありません。あまりの不思議をみせられて、平作自身も呆気《あつけ》に取られました。

       二

 まえにも申す通り、武家のよろい櫃の底に色々の物が忍ばせてあることは、問屋場の者もふだんから承知していましたが、紅い水が出るのは意外のことで、それが何であるか鳥渡《ちよつと》想像が付きません。こうなると役目の表、問屋《といや》の者も一応は詮議をしなければならないことになりました。今宮さんの顔の色が変ってしまいました。こゝで鎧櫃の蓋をあけて、醤油樽を見つけ出されたら大変です。鎧の身代りに醤油樽を入れたなどと云うことが表向きになったら、洒落や冗談では済まされません。お役御免は勿論、どんな御咎をうけるか判りませんから、家来達までが手に汗を握りました。
 問屋場の役人――と云っても、これは武士ではありません。その町や近村の名望家が選ばれて幾人かずつ詰めているので、矢はり一種の町役人です。勿論、大勢のうちには岩永《いわなが》も重忠《しげたゞ》もあるのでしょうが、こゝの役人は幸いにみんな重忠であったとみえて、その一人がふところから鼻紙を出して、その紅い雫をふき取りました。そうしてほかの役人にも見せて、その匂いを鳥渡《ちよつと》かぎましたが、やがて笑い出しました。
「はゝ、これは血でござりますな。御具足櫃に血を見るはおめでたい。はゝゝゝゝ。」
 入物《いれもの》が鎧櫃であるから、それに取りあわせて紅い雫を血だという。ほんとうの血ならば猶更詮議をしなければならない筈ですが、そこが前にもいう重忠揃いですから、何処までもそれを紅い血だということにして、そのまゝ無事に済ませてしまったので、今宮さん達もほっとしました。
「重ねて粗相をするなよ。」
 役人から注意をあたえられて、平作は再び鎧櫃をかつぎ出しました。今宮さんは心のうちで礼を云いながら駕籠に乗って、三島の宿を離れましたが、どうも胸がまだ鎮まらない。問屋場の者は表向きは無事に済ませてくれたものゝ、蔭では屹《きつ》と笑っているに相違ない。それにつけても、おれに恥辱をあたえた雲助めは憎い奴であると、今宮さんは駕籠のなかゝら駕籠屋に訊きました。
「おれの鎧櫃をかついでいるのは、矢はり問屋場の者か。」
「いえ。あれは宿《しゆく》はずれに出ているかい[#「かい」に傍点]助というのでございます。」と、駕籠屋は正直に答えました。
「そうか。」
 実は今宮さんも少し疑っていたことがあるのです。あの人足が鎧櫃を取り落したのは何うもほんとうの粗相ではないらしい、わざと手ひどく投げ出したようにも思われる――と、こう疑っている矢先へ、それが問屋場の者でないと聞いたので、いよ/\その疑いが深くなりました。一所|不定《ふじょう》の雲助め、往来の旅人を苦しめる雲助め、おそらく何かの弱味を見つけておれを強請《ゆす》ろうという下心であろうと、今宮さんは彼を憎むの念が一層強くなりましたが、差当り何うすることも出来ないので、胸をさすって駕籠にゆられて行くと、朝の五つ半(午前九時)前に沼津の宿に這入って、宿はずれの建場《たてば》茶屋に休むことになりました。朝涼《あさすず》のあいだと云っても一里半ほどの路を来たので、駕籠屋は汗びっしょりになって、店さきの百日紅《さるすべり》の木の下でしきりに汗を拭いています。四人の家来たちも茶屋の女に水を貰って手拭をしぼったりしていましたが、三人の人足どもはまだ見えないので、若党の勇作は少し不安になりました。
「これ、駕籠屋。あの人足どもは確かなものだろうな。」
「はい。ふたりは大丈夫でございます。問屋場に始終詰めているものでございますから、決して間違いはございません。かい[#「かい」に傍点]助の奴も、お武家さまのお供で、そばにあの二人が附いておりますから、どうすることもございますまい。やがてあとから追い着きましょう。しばらくこゝでお休みください。」と、駕籠屋は口をそろえて云いました。
「むゝ、こちらは随分足が早かったからな。」
「はい。こちら様のお荷物はなか/\重いと云つておりましたから、だん/\後《おく》れてしまつたのでございましょう。」
 荷物が重い。――それが店のなかに休んでいる今宮さんの耳にちらりと這入ったので、今宮さんはまた気色を悪くしました。かの鎧櫃の一件を当付けらしく云うようにも聞き取れましたので、すこしく声を暴くして家来をよびました。
「勇作。貴様は駕脇についていながら、荷物のおくれるのになぜ気がつかない。あんな奴等は何をするか判ったものでない。すぐに引返して探して釆い。源吉だげこゝに残って、半蔵も勘次も行け。あいつ等がぐず/\云ったら引っくゝって引摺って来い。」
「かしこまりました。」
 勇作はすぐに出て行きました。二人の中間もつゞいて引返しました。どの人もさっきの鎧櫃のむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]があるので、なにかを口実に彼の平作めをなぐり付けてゞも遣ろうという腹で、元来た方へ急いでゆくと、二町ばかりのところで三人の人足に逢いました。平作は並木の松の下に鎧櫃をおろして悠々と休んでいるのを、ふたりの人足がしきりに急き立てゝいるところでした。
「貴様たちはなぜ遅い。宿《しゆく》を眼のまえに見ていながら、こんなところで休んでいる奴があるか。」と、勇作は先ず叱り付けました。
 勇作に云われるまでもなく、問屋場の人足どもは正直ですから、もう一息のところだから早く行こうと、さっきから催促しているのですが、平作ひとりがなか/\動かない。こんな重い具足櫃は生れてから一度もかついだことが無いから、この暑い日に照らされながら然う急いではあるかれない。おれはこゝで一休みして行くから、おまえたちは勝手に先へ行けと云って、どっかりと腰をおろしたまゝで何うしても動かない。相手がお武家だからと云って聞かせても、こんな具足櫃をかつがせて行く侍があるものかと、空嘯《そらうそぶ》いて取合わない。さりとて、かれ一人を置いて行くわけにも行かないので、人足共も持て余しているところへ、こっちの三人が引返して来たのでした。
 その仔細を聴いて、勇作も赫《かつ》となりました。平作とても大して悪い奴でもない。鎧櫃の秘密を種にして余分の酒手でもいたぶろうという位の腹でしたろうから、なんとか穏かに賺《すか》して、多寡が二百か三百文も余計に遣ることにすれば、無事穏便に済んだのでしょうが、勇作も年が若い、おまけに先刻からのむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]腹で、この雲助めを憎い憎いと思いつめているので、そんな穏便な扱い方をかんがえている余裕がなかったらしい。
「よし。それほどに重いならばおれが担いで行く。」
 かれは平作を突きのけて、問題の鎧櫃を自分のうしろに背負いました。そうして、ほかの中間どもに眼くばせすると、半蔵と勘次は飛びかゝって平作の両腕と頭髻《たぶさ》をつかみました。
「さあ、来い。」

      三

 平作は建場茶屋へ引き摺って行かれると、さっきから苛々して待っていた今宮さんは、奥の床几を起って店さきへ出て来ました。見ると、勇作が鎧櫃を背負っている。中間ふたりが彼の平作を引っ立てゝくる。もう大抵の様子は推量されたので、この人もまた赫となりました。
「これ、そいつがどうしたのだ。」
 この雲助めが横着をきめて動かないと云う若党の報告をきいて、今宮さんはいよ/\怒りました。単に横着というばかりでなく、こんなに重い具足櫃はかついだことが無いとか、こんな具足櫃をかつがせて行く侍があるものかとか云うような、あてこすりの文句が一々こっちの痛いところに触るので、今宮さんはいよ/\堪忍袋の緒を切りました。
「おのれ不埒な奴だ。この宿場の問屋場へ引渡すからそう思え。」
 こゝへ来る途中でも、もう二三度は中間共になぐられたらしく、平作は散らし髪になって、左の眼のうえを少し腫らしていましたが、這奴《こいつ》なか/\気の強い奴、おまけ中間どもに撲られて、これもむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」腹であったらしい。立派な侍に叱られても、平気でせゝら笑っていました。
「問屋場へでも何処へでも引渡して貰いましょう。わっしはその荷物が重いから重いと云ったゞけのことだ。わっしも十六の年から東海道を股にかけて雲助をしているから、具足櫃と云うものはどのくらいの目方があるか知っています。わっしを問屋場へ引渡すときに、その具足橿も一緒に持って行って、どんな重い具足が這入っているのか、役人達にあらためて貰いましょう。」
 こうなると、這奴《こいつ》をうっかり問屋場へ引渡すのも考えもので、いわゆる藪蛇のおそれがあります。憎い奴だとは思いなが何《ど》うすることも出来ない。そのうちに店の者は勿論、近所の者や往来の者がだん/\にこの店先にあつまって来て、武家と雲助との押問答を聴いている。中間どもが追い払っても、やはり遠巻きにして眺めている。見物人が多くなって来たゞけに、今宮さんもいよ/\そのままには済まされなくなりましたが、前にもいう藪蛇の一件があります。こゝの問屋場の役人たちも三島の宿とおなじような重忠揃いなら仔細はないが、万一そのなかに岩永がまじっていて野暮にむずかしい詮議をされたら、あべこべにこっちが大恥をかゝなければならない。今宮さんは残念ながら這奴《こいつ》を追いかえすより外はありませんでした。
「貴様のような奴等にかゝり合っていては、大切の道中が遅くなる。きょうのところは格別を以てゆるして遣る。早く行け、行け」
 もうこっちの内兜を見透しているので、平作は素直に立去らない。かれは勇作にむかって大きい手を出しました。
「もし、御家来さん。酒手をいたゞきます。」
「馬鹿をいえ。」と、勇作はまた叱り付けました。「貴様のような奴に鐚《びた》一文でも余分なものが遣られると思うか。首の飛ばないのを有難いことにして、早く立去れ。」
「さあ、行け、行け。」
 中間どもは再び平作の腕をつかんで突き出すと、さっきからはら[#「はら」に傍点]/\しながら見ていた駕籠屋や人足共も一緒になって、色色になだめて連れて行こうとする。なにしろ多勢に無勢で、所詮腕ずくでは敵わないと思って、平作は引き摺られながら大きい声で怒鳴りました。
「なに、首の飛ばないのを有難く思え……。はゝ、笑わせやあがる。おれの首が飛んだら、その具足櫃からしたじ[#「したじ」に傍点]のような紅い水が流れ出すだろう。」
 見物人が大勢あつまっているだけに、今宮さんも捨てゝ置かれません。この上にも何を云い出すか判らないと思うと、もう堪忍も容赦もない。つか/\と追って出て、刀の柄袋を払いました。
「そこ退け。」
 刀に手をかけたと見て、平作をおさえていた駕籠屋や人足共は、あっと悸《おび》えて飛び退きました。
「えゝ、おれをどうする。」
 ふり向く途端に平作の首は落ちてしまいました。今宮さんは勇作を呼んで、茶店の手桶の水を柄杓《ひしやく》に汲んで血刀を洗わせていると、見物人はおどろいて皆ちり/″\に逃げてしまう。駕籠屋や人足どもは蒼くなって顫《ふるえ》ている。それでも今宮さんは流石に侍です。この雲助を成敗して、しずかに刀を洗い、手を洗って、それから矢立の筆をとり出して、ふところ紙にさらさらと書きました。 「当宿の役人にはおれから届ける。勇作と半蔵は三島の宿へ引返して、この鎧櫃をみせて来い。」
 こう云いつけて、勇作は何かさゝやくと、勇作は中間ふたりに手伝わせて、彼の鎧櫃を茶屋のうしろへ運んで行きました。そこには小川がながれている。三人は鎧櫃の蓋をあけてみると、醤油樽の底がぬけているようです。その樽も醤油も川へ流してしまって、櫃のなかも綺麗に洗って、それへ雲助の首と胴を入れました。今度は半蔵がその鎧櫃を背負って、勇作が附いて行くことになりました。
 三島の宿の問屋場ではこの鎧櫃をとゞけられて驚きました。それには今宮さんの手紙が添えてありました。
 先刻は御手数相掛過分に存候。拙者鎧櫃の血汐、いつまでも溢れ出して道中迷惑に御座候間、一応おあらための上、よろしく御取捨|被下度《くだされたく》、右重々御手数ながら御願申上侯。早々
               今 宮 六 之 助
問 屋 場  御 中

 問屋場では鎧櫃を洗いきよめて、使のふたりに戻しました。これで鎧櫃からこぼれ出した紅い雫もほんとうの血であったと云うことになります。沼津の宿の方の届も型ばかりで済みました。一方は侍、一方は雲助、しかも御用道中の旅先というのですから、可哀そうに平作は殺され損、この時代のことですから何うにも仕様がありません。
 今宮さんはその後の道中に変わったこともなく、主従五人が仲よく上って行ったのですが、彼の一件以来、どうも気が暴《あら》くなったようで、左もないことにも顔色を変えて小言を云うこともある。しかしそれは一時のことで、あとは矢張り元の通りになるので家来共も別に気に留めずにいると、京ももう眼の前という草津の宿《しゆく》に這《は》入る途中、二三日前からの雨つゞきで路がひどく悪いので、今宮さんの一行はみな駕籠に乗ることになりました。その時に、中間の半蔵が例の手段で駕籠をゆすぶって、駕籠屋から幾らかの揺すり代をせしめたことが主人に知れたので、今宮さんは腹を立てました。
「貴様は主人の面に泥を塗る奴だ。」
 半蔵はさん/″\に叱られましたが、勇作の取りなしで先ず勘弁して貰って、霧雨のふる夕方に草津の宿に着きました。宿屋に這入って、今宮さんは草鞋をぬいでいる。家来どもは人足にかつがせて来た荷物の始末をしている。その忙しいなかで、半蔵が人足にこんなことを云いました。
「おい、おい。その具足櫃は丁寧にあつかってくれ。今日は危なくおれの首を入れられるところだった。塩っ辛《かれ》え棺桶は感心しねえ。」
 それが今宮さんの耳に這入ると、急に顔の色が変わりました。草履をぬいで玄関へあがりかけたのが、又引返して来て激しく呼びました。
「半蔵。」
「へえ。」
 何心なく小腰をかゞめて近寄ると、ぬく手も見せずと云うわけで、半蔵の首は玄関先に転げ落ちました。前の雲助の時とは違って、勇作もほかの中間共もしばらく呆れて眺めていると、不埒の奴だから手討にした、死骸の始末をしろと云いすてて、今宮さんは奥へ這入ってしまいました。
 主人がなぜ半蔵を手討にしたか。勇作等も大抵察していましたが、表向きは彼のゆすりの一件から物堅い主人の怒りに触れたのだと云うことにして、これも先ず無事に片附きました。
 それから大阪へゆき着いて、今宮さんは城内の小屋に住んで、とゞこおりなく勤めていました。かの鎧櫃は雲助の死骸を入れて以来、空のまゝで担がせて来て、空のままで床の間に飾って置いたのでした。なんでも九月のはじめだそうで、今宮さんが夕方に詰所から退って来て、自分の小屋で夕飯を食いました。たんとも飲まないのですが、晩酌には一本つけるのが例になっているので、今夜も機嫌よく飲んでしまって、飯を食いはじめる。勇作が給仕する。黄《きいろ》い行燈が秋の灯らしい色をみせて、床の下ではこおろぎが鳴く。今宮さんは飯をくいながら、今日は詰所でこんな話を聴いたと話しました。
「この城内には入らずの間というのがある。そこには淀殿が坐っているそうだ。」
「わたくしもそんな話を聴きましたが、ほんとうでござりましょうか。」と、勇作は首をかしげていました。
「ほんとうだそうだ。なんでも淀殿がむかしの通りの姿で坐っている。それを見た者は吃と命を取られると云うことだ。」
「そんなことがござりましょうか。」と、勇作はまだ疑うような顔をしていました。
「そんなことが無いとも云えないな。」
「そうでござりましょうか。」
「どうもありそうに思われる。」云いかけて、今宮さんは急に床の間の方へ眼をつけました。
「論より証拠だ。あれ、みろ。」
 勇作の眼にはなんにも見えないので、不思議そうに主人の顔色をうかゞっていると、今宮さんは少し乗り出して床の間を指さしました。 「あれ、鎧櫃の上には首が二つ乗っている。あれ、あれが見えないか。えゝ、見えないか。馬鹿な奴だ。」
 主人の様子がおかしいので、勇作は内々用心していると、今宮さんは跳るように飛びあがって、床の間の刀掛に手をかけました。これはあぶないと思って、勇作は素早く逃げ出して、台所のそばにある中間部屋へ転げ込んだので、勘次も源吉もおどろいた。だん/\仔細をきいて、みんなも顔をしかめたが、半蔵の二の舞はおそろしいので、誰も進んで奥へ見とゞけに行くものがない。しかし小半時ほど立っても、奥の座敷はひっそりとしているらしいので、三人が一緒に繋がって怖々ながら覗きに行くと、今宮さんは鎧櫃を座敷のまん中へ持出して、それに腰をかけて腹を斬っていました。

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底本:「岡本綺堂 菊池寛 久米正雄 集」 大衆文学大系7(講談社) 一九七一(昭和四六)年十月二〇日 第一刷
入力:林田S

※今日の人権意識からすると不適切と思われる語句や表現が見受けられますが、時代的な背景と作品の価値に鑑み、また原文の同一性を保持・尊重する立場からそのままとしました。




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