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綺堂ディジタル・コレクション




つぎは、綺堂のオリジナル作品を林田Sさんがデジタル化されたものです。現在、文庫本などでの作品の入手困難な現状に鑑み、「青空文庫」向けにテキスト・ファイル化されたものを、そのご厚意により先立って公開させていただきました。
 『三浦老人昔話』は関東大震災直後の大正12年10月から書かれ、翌13年1月に雑誌『苦楽』(第一期)に連載された、全12話からなる作品です。後年のミステリーや怪奇色はこの作品ではあまりないのですが、むしろ人間性、日常生活の不合理・不条理を扱ったヒューマンな作品といえるでしょうか。個人的には、「人参」「矢がすり」あたりが不条理や余韻とともに心に残ります。
 なお、入力者自身による校正はされていますが、第三者による校正を経ていないベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




人参  ――『三浦老人昔話』より
             岡本綺堂
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      一

 その日は三浦老人の家《うち》で西洋料理の御馳走になった。大久保にも洋食屋が出来たという御自慢であったが、正直のところ余り旨くはなかった。併しもと/\御馳走をたべに来たわけでないから、わたしは硬いパンでも硬い肉でも一切鵜呑みにする覚悟で、なんでも片端から頬張っていると、老人はあまり洋食を好まないらしく、且は病後という用心もあるとみえて、ほんのお附合に少しばかり食って、やがてナイフとフォークを措いてしまった。
「わたしには構わずに喫《た》べてください。」
「遠慮なく頂戴します。」と、わたしは喉に支えそうな肉を一生懸命に嚥《の》み込みながら云った。食道楽のために身をほろぼした今宮という侍に、こんな料理を食わせたら何というだろうかなどとも考えた。
「今お話をした今宮さんのようなのが其昔にもあったそうですよ。」と、老人はまた話し出した。「名は知りませんが、その人は大阪の城番に行くことになったところが、屋敷に鎧が無い。大方売ってしまったか、質にでも入れてしまったのでしょう。さりとて武家の御用道中に鎧櫃を持たせないというわけにも行かないので、空の鎧櫃に手頃の石を入れて、好《い》ゝ加減の目方をつけて坦ぎ出させると、それが途中で転げ出して大騒ぎをしたことがあるそうです。これも困ったでしょうね。はゝゝゝゝ。」
 老人はそれからつゞけて幕末の武家の生活状態などを色々話してくれた。果し合いや、辻斬や、かたき討の話も出た。
「西鶴の武道伝来記などを読むと、昔はむやみに仇討があったようですが、太平がつゞくに連れて、それもだん/\に少くなったばかりでなく、幕府でも私《わたくし》にかたき討をすることを禁じる方針を取っていましたし、諸藩でも表向きには仇討の願いを聴きとどけないのが多くなりましたから、自然にその噂が遠ざかって来ました。それでも確かに仇討とわかれば、相手を殺しても罪にはならないのですから、武家ばかりでなく、町人、百姓のあいだにも仇討は時々にありました。なにしろ芝居や講釈ではかたき討を盛に奨励していますし、世間でも褒めそやすのですから、やっぱり根切《ねき》りというわけには行かないで、ときどきには変った仇討も出て来ました。これもその一つです。いや、これは赤坂へ行って半七さんにお聴きなすった方がいゝかも知れない。あの人の養父にあたる吉五郎という人もかゝり合った事件ですから。」
「いえ、赤坂も赤坂ですが、あなたが御承知のことだけは今ここで聴かせて頂きたいもんですが、如何でしよう。」と、わたしは子供らしく強請《ねだ》った。
「じゃあ、まあお話をしましょう。なに、別に勿体をつけるほどの大事件ではありませんがね。」
 老人は笑いながら話しはじめた。

 安政三年の三月――御承知の通り、その前年の十月には彼の大地震がありまして、下町は大抵焼けたり潰れたりしましたが、それでももう半年もたったので、案外に世直しも早く出来て、世間の景気もよくなりました。勿論、仮普請も沢山ありましたが、金廻りのいゝのや、手廻しの好《い》いのは、もう本普請をすませて、みんな商売をはじめていました。猿若町の芝居も蓋をあけるという勢いで、よし原の仮宅《かりたく》は大繁昌、さすがはお江戸だと諸国の人をおどろかしたくらいでした。
 なんでもその三月の末だとおぼえています。日本橋新乗物町に舟見《ふなみ》桂斎という町医者がありましたが、診断《みたて》も調合も上手だというのでなか/\流行っていました。小舟町三丁目の病家を見舞って、夜の五つ頃(午後八時)に帰ってくると、春雨がしと/\と降っている。供の男に提灯を持たせて、親父橋《おやじばし》を渡りかかると、あとから跟《つ》けて来たらしい一人の者が、つか/\と寄って来て、先ず横合から供の提灯をたゝき落して置いて、いきなりに桂斎先生の左の胸のあたりを突きました。先生はあっと云って倒れる。供はびっくりして人殺し人殺しと呼び立てる。その間に相手はどこへか姿を隠してしまいました。
 桂斎先生の疵は脇差のようなもので突かれたらしく、駕籠にのせて自宅へ連れて帰りましたが、手あての甲斐もなしに息を引取ったので、騒ぎはいよ/\大きくなりました。雨のふる晩ではあり、最初に提灯をたゝき消されてしまったので、供の者も相手がどんな人間であるか、どんな服装《なり》をしていたか、些《ちつ》とも知らないと云うのですから、手がかりはありません。しかし前後の模様から考えると、どうも物取りの仕業ではないらしい。桂斎先生に対して何かの意趣遺恨のあるものだろうという鑑定で、町方《まちかた》でもそれ/″\に探索にかゝりました。さあ、これからは半七さんの縄張りで、わたくし共にはよく判りませんが、なにか抜きさしのならない証拠が挙ったとみえて、その下手人は間もなく召捕られました。それを召捕ったのが前にもいう通り、半七さんの養父の吉五郎という人です。
 その下手人はまだ前髪のある年季小僧で、人形町通りの糸屋に奉公している者でした。名は久松――丁稚《でつち》小僧で久松というと、なんだか芝居にでも出て来そうですが、本人は明けて十五という割に、からだの大きい、眼の大きい、見るから逞しそうな小僧だったそうです。しかし運のわるい子で、六つの年に男親に死別れて、姉のおつねと姉弟《きようだい》ふたりは女親の手で育てられたのです。勿論、株家督《かぶかとく》があるというでは無し、芳町のうら店《だな》に逼塞して、おふくろは針仕事や洗濯物をして、細々にその日を送っているという始末ですから、久松は九つの年から近所の糸屋へ奉公にやられ、姉は十三の年から芝口の酒屋へ子守奉公に出ることになって、親子三人が分れ/\に暮していました。そんなわけで、碌々に手習の師匠に通ったのでも無し、誰に教えられたのでも無く、云わば野育ち同様に育って来たのですが、不思議にこの姉弟は親思い、姉思い、弟思いで、おたがいに奉公のひまを見てはおふくろを尋ねて行く。姉は弟をたずねる。弟も姉の身を案して、使の出先などからその安否をたずねに行く。まことに美しい親子仲、姉弟仲でした。
 これほど仲が好《い》いだけに、親子姉弟が別々に暮していると云うことは、定めて辛かったに相違ありません。それでも行末をたのしみに、姉も弟も真面目に奉公して、盆と正月の薮入りにはかならず芳町の家にあつまって、どこへも行かずに一日話し合って帰ることにきめていたので、その日も暮れかゝって姉弟がさびしそうに帰ってゆくうしろ姿を見送ると、相《あい》長屋の人達もおのずと涙ぐまれたそうです。
「久ちやんは男だから仕方もないが、せめておつねちやんだけは家《うち》にいるようにして遣りたいものだ。」と、近所でも噂をしていました。
 おふくろも然う思わないではなかったでしょうが、おつねを奉公に出して置けば、一人口が減った上に一年幾らかの給金が貰える。なにを云うにも苦しい世帯ですから、親子がめでたく寄合う行末を楽みに、まあ/\我慢しているというわけでした。どの人も勿論そうでしょうが、取分けてこの親子三人は「行末」という望みのためばかりに生きているようなものだったのです。
 ところが、神も仏も見そなわさずに、この親子の身のうえに悲しい破滅が起ったのです。その第一はおふくろが病気になったことで、おふくろはまだ三十八、ふだんから至極丈夫な質だったのですが、安政二年、おつねが十七、久松が十四という年の春から不図煩いついて、三月頃にはもう枕もあがらないような大病人になってしまいました。姉弟の心配は云うまでもありません。おつねは主人に訳を話して、無理に暇を貰って帰って、一生懸命に看病する。久松も近所のことですから、朝に晩に見舞にくる。長屋の人たちも同情して、共々に面倒を見てくれたのですが、おふくろの容態はいよ/\悪くなるばかりです。今までは近所の小池玄道という医者にかゝっていたのですが、どうもそれだけでは心もとないと云うので、中途から医者を換えて、彼の舟見桂斎先生をたのむことになりました。評判のいゝ医者ですから、この人の匕加減でなんとか取留めることも出来ようかと思ったからでした。
 桂斎先生は流行《はやり》医者ですから、うら店などへはなか/\来てくれないのを、伝手《つて》を求めてよう/\来て貰うことにしたのですが、先生は病人の容態を篤とみて眉をよせました。
「これは容易ならぬ難病、所詮わたしの匕にも及ばぬ。」
 医者に匕を投げられて、姉も弟もがっかりしました。ふたりは病人の枕もとを離れることが出来ないので、長屋の人にたのんで医者を送って貰って、あとは互いに顔を見あわせて溜息をつくばかりでした。この頃はめっきり痩せた姉の頬に涙が流れると、弟の大きい眼にも露が宿る。もうこの世の人ではないような母の寝顔を見守りながら、運のわるい姉弟はその夜を泣き明かしました。芝居ならば、どうしてもチョボ入りの大世話場《おおせわば》というところです。

       二

 それだけで済めば、姉弟の不運は寧ろ軽かったのかも知れませんが、あくる朝になっておつねは長屋の人から斯ういうことを聴きました。その人がゆうべ医者を送って行く途中で、あのおふくろさんは何うしてもいけないのですかと聞くと、桂斎先生は斯う答えたそうです。
「並一通りの療治では、とてもいけない。人参をのませれば屹《きつ》と癒ると思うが、それを云って聞かせても所詮無駄だと思ったから、黙って来ました。」
 人参は高価の薬で、うら店《たな》ずまいの者が買い調えられる筈がないから、見殺しは気の毒だと思いながらも、それを教えずに帰って来たというのでした。その話を聴かされて、おつねは喜びもし、嘆きもしました。まったく今の身のうえで高価の人参などを買いとゝのえる力はありません。人参にも色々ありますが、その頃では廉《やす》くとも三両か五両、良い品になると十両二十両とも云うほどの値ですから、なか/\容易に手に入れられるものではない。ましてこの姉弟がどんなに工面しても才覚しても、そんな大金の調達の出来ないのは判り切っています。それでも何うかしておふくろを助けたい一心で、おつねは色々にかんがえ抜いた挙句に、思いついたのが例の身売です。
 人参の代にわが身を売る――芝居や草双紙にはよくある筋ですが、おつねも差当りその外には思案もないので、とう/\その決心をきめたのでした。いっそ容貌が悪く生れたら、そんな気にもならなかったかも知れませんでしたが、おつねは鳥渡《ちよつと》可愛らしい眼鼻立で、みがき上げれば相当に光りそうな娘なので、自分も自然そんな気になったのかも知れません。それでも迂潤にそんなことは出来ませんから、念のために医者の家へ行って、おふくろの命は屹《きつ》と人参で取留められるでしょうかと聞きますと、十に九つまでは請合うと桂斎先生が答えたそうです。おつねは喜んで帰って来て、弟にその話をすると、久松も喜んだり嘆いたりで、しばらくは思案に迷ったのですが、姉の決心が固いのと、それより外には人参代を調達する智慧も工夫もないのとで、これもとう/\思い切って、姉に身売をさせることになってしまいました。
 おつねは長屋の人にたのんで、山谷《さんや》あたりにいる女衒《ぜげん》に話して貰って、よし原の女郎屋へ年季一杯五十両に売られることになりました。家の名は知りませんが、大町小店《だいちょうこみせ》で相当に流行る店だったそうです。式《かた》のごとくに女衒の判代や身付《みづき》の代を差引かれましたが、残った金を医者のところへ持って行って、宜しくおねがい申しますと云うと、桂斎先生は心得て、そのうちから八両とかを受取って、すぐに人参を買って病人に飲ませてくれたが、おふくろの病気は矢はりよくならない。久松も心配して、色々に医者にせがむので、先生はまた十両をうけ取って人参を調剤したのですが、それも験《げん》がみえない。おふくろはいよいよ悪くなるばかりで、それから半月ほどの後にとう/\此世の別れになってしまったので、久松は泣いても泣き尽せない位で、とりあえず吉原の姉のところへ知らせてやりましたが、まだ初店《はつみせ》ですから出てくることは出来ません。長屋の人たちの手をかりて、久松は兎もかくもおふくろの葬式をすませました。
 こうなると、おつねの身売は無駄なことになったようなわけで、これから十年の長いあいだ苦界《くがい》の勤めをしなければならないのですから、姉思いの久松は身を切られるように情《なさけ》なく思いました。それから惹いて、医者を怨むような気にもなりました。 「人参をのませれば屹《きつ》と癒ると請合って置きながら、あの医者はおふくろを殺した。それがために姉さんまでが吉原へ行くようになった。あの医者の嘘つき坊主め。あいつはおふくろの仇だ。姉さんのかたきだ。」
 今日《こんにち》はそんなこともありませんが、病人が死ぬとその医者を怨むのが昔の人情で、川柳にも「見す/\の親のかたきに五分《ふん》礼《れい》」などというのがあります。まして斯ういう事情が色々にからんでいるので、年の行かない久松は一層その医者を怨むようにもなり、自然それを口に出すようにもなったので、糸屋の主人は久松に同情もし、また意見もしました。
「人間には寿命というものがある。人参を飲んで屹《きつ》と癒るものならば、高貴のお方は百年も長命する筈だが、そうはならない。公方《くぼう》様でもお大名でも、定命《じょうみよう》が尽きれば仕方がない。金の力でも買われないのが人の命だ。人参まで飲ませても癒らない以上は、もうあきらめるの外はない。むやみに医者を怨むようなことを云ってはならない。」
 理窟はその通りですが、どうも久松には思い切りが付きませんでした。姉の身売の金がまだ幾らか残っているのを主人にあずけて、自分は相変らず奉公していましたが、おふくろは此世に無し、姉には逢われず、まったく頼りのないような身の上になってしまったので、久松はもう働く張合もぬけて、ひどく元気のない人間になりました。毎月おふくろの墓まいりに行って、泣いて帰るのがせめてもの慰めで、いっそ死んでしまおうかなどと考えたこともありましたが、姉は生きている。年季が明ければ姉は吉原から帰ってくる。それを楽みに、久松はさびしいながらも矢はり生きていました。
 そのうちに、又こんなことが久松の耳に這入りました。初めておふくろの病気をみていた小池という医者が、途中で取換えられたのを面白く思っていなかったのでしょう、それに同商売忌敵《いみがたき》というような意味もまじっていたのでしょう。その後近所の人達にむかって、あの病人に人参をのませて何になる。いくら人参だと云っても万病に効のあるというものではない。利かない薬をあてがうのは、見す/\病家に無駄な金を使わせるようなものだ。高価な薬をあたえれば、医者のふところは膨らむが、病家の身代は痩せる。医は仁術で、金儲け一点張りではいけないなどと云う。それが自然に久松にもきこえましたから、いよ/\心持を悪くしました。それでは桂斎の医者坊主め、みす/\利かないのを知っていながら、金儲けのために高い人参を売り付けたのかも知れないという疑いも起ってくる。桂斎先生は決してそんな人物ではないのですが、ふだんから怨んでいるところへ前のような噂が耳にひゞくので、年の行かない久松としては、そんな疑いを起すのも無理はありません。商売の累《わずら》いと云いながら、桂斎先生も飛んだ敵《かたき》をこしらえてしまいました。  それでもまあそれだけのことならば、蔭で怨んでいるだけで済んだのですが、桂斎先生のためにも、久松姉弟のためにも、こゝに又とんでもない事件が出来《しゆつたい》したのです。それはその年十月の大地震――この地震のことはどなたも御承知ですから改めて申上げませんが、江戸中で沢山の家が潰れる、火事が起る、死人や怪我人が出来る。そのなかでも吉原の廓《くるわ》は丸潰れの丸焼けで、こゝだけでもおびたゞしい死人がありました。おつねの勤めている店も勿論つぶれて、おつねは可哀そうに焼け死にました。久松の店も潰れたが、幸いに怪我人はありませんでした。桂斎先生の家は半分かたむいたゞけで、これも運よく助かりました。
 おふくろは死ぬ、それから半年ばかりのうちに姉もつゞいて死んだので、久松は一人法師《ぼつち》になってしまいました。おふくろのない後は、たゞ一本の杖柱とたのんでいた姉にも死別れて、久松はいよ/\力がぬけ果てゝ、自分ひとりの助かったのを却って悔むようになりました。おまけに姉のおつねが以前奉公していた芝口の酒屋は、土台がしっかりしていたと見えて、今度の地震にも家根瓦をすこし震い落されたゞけでびく[#「びく」に傍点]ともせず、運よく火事にも焼け残ったので、久松はいよ/\あきらめ兼ねました。姉も今までの主人に奉公していれば無事であったものを、吉原へ行ったればこそ非業の死を遂げたのである。姉はなんのために吉原へ売られて行ったのか。高価の人参は母の病を救い得ないばかりか、却って姉の命をも奪う毒薬になったのかと思うと、久松は日本朝鮮にあらんかぎりの人参を残らず焼いてゞもしまいたい程に腹が立ちました。その人参を売りつけた医者坊主がます/\憎い奴のように思われて来ました。
 糸屋の店では一旦小梅の親類の家《うち》へ立退いたので、久松も一緒に附いて行きました。場所柄だけに、店の方はすぐに仮普請に取りかゝって、十二月には兎もかくも商売をはじめるようになったので、主人や店の者は日本橋へ戻りましたが、焼跡の仮小屋同様のところでは女子供がこの冬を過されまいというので、主人の女房や娘子供は矢はり小梅の方に残っていることになりました。それがために小僧もひとり残されることになったので、久松がその役にあたって、あくる年の正月を小梅で迎えました。そのうちに三月の花が咲いて、陽気もだん/\にあたたかくなり、世間の景気も春めいて来たので、主人の家族もみんなこゝを引払うことになって、久松もはじめて日本橋の店ヘ戻ってくると、土地が近いだけに憎い怨めしい医者坊主めのことが一層強く思い出されます。勿論、小梅にいるあいだも毎日忘れたことはなかったのですが、近間へ戻ってくると又一倍にその執念が強くなって来ました。
 三月末の陰《くも》った日に、久松が店の使で表へ出ると、途中で丁度、桂斎先生に逢いました。はっと思いながらも、よんどころなしに会釈をすると、先生の方では気が注かなかったのか、それともそんな小僧の顔はもう見忘れてしまったのか、素知らぬ風でゆき過ぎたので、久松は赫《かつ》となりました。使をすませて主人の店へ一旦帰って、奥にいる女房のまえに出て、去年からあずけてある金のうちで一両だけを渡して貰いたいと云いました。なんにするのだと聞くと、おふくろの一周忌がもう近づいたから、お長屋の人にたのんで石塔をこしらえて貰うのだという返事です。久松の孝行は女房もかねて知っているので、それは奇特のことだと云ってすぐに一両の金を出してやると、久松はそれを持って再び表へ出ましたが、もとの長屋へは行かないで、近所の刀屋へ行って道中指のような脇差を一本買いました。
 その脇差をふところに忍ばせて、久松は新乗物町へ行って桂斎先生の出入りをうかゞっていると、日のくれる頃から春雨が音もせずに降って来ました。先生の出て行くところを狙ったのですが、どうも工合が悪かったので、雨にぬれながら親父橋《おやじばし》の袂に立っていて、その帰るところを待ちうけて、今年十五の小僧が首尾よく相手を仕留めたのです。
 久松はそれから人形町通りの店へ帰って、平気でいつもの通りに働いていたのですが、間もなく吉五郎という人の手で召捕られました。町奉行所の吟味に対して、あの桂斎という薮医者はおふくろと姉の仇《かたき》だから殺しましたと、久松は悪びれずに申立たそうです。なにぶんにもまだ十六にも足らない者ではあり、係りの役人達も大いにその情状を酌量してくれたのですが、理窟の上から云えば筋違いで、そんなことで一々かたき討をされた日には、医者の人種《ひとだね》が尽きてしまうわけですから、どうしても正当のかたき討と認めることは出来ないのでした。
「それにしても、母と姉との仇討ならば、なぜすぐに自訴して出なかったか。」と、係りの役人は聞きました。
 かたきを討ってから、久松は川づたいに逃げ延びて、人の見ないところで脇差を川のなかへ投げ込んで、自分もつゞいて川へ飛び込もうとすると、暗い水のうえに姉のおつねが花魁《おいらん》のような姿でぼんやりあらわれて、飛び込んではならないと云うように頻りに手を振るので、死のうとする気は急に鈍った。かんがえてみると、今こゝで自分が死んでしまえば、おふくろや姉の墓まいりをする者はなくなる。迂闊に死急ぎをしてはならない。生きられるだけは生きているのがおふくろや姉への孝行だと思い直して、早々にそこを立去って、なに食わぬ顔をして主人の店へ戻っていたと、久松はこう申立てたそうです。姉のすがたが見えたか見えないか、それは勿論わかりませんが、或は久松の眼にはほんとうに見えたのかも知れません。
 奉行所ではその裁き方によほど困ったようでした。唯の意趣斬にするのも不便、さりとて仇討として赦すわけにも行かないので、一年あまりもそのまゝになっていましたが、安政四年の夏になって、久松はいよ/\遠島ということにきまりました。島へ行ってから何うしたか知りませんが、おそらく赦《しや》に逢って帰ったろうと思います。

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底本:「岡本綺堂 菊池寛 久米正雄 集」 大衆文学大系7(講談社) 一九七一(昭和四六)年十月二〇日 第一刷
入力:林田S

※今日の人権意識からすると不適切と思われる語句や表現が見受けられますが、時代的な背景と作品の価値に鑑み、また原文の同一性を保持・尊重する立場からそのままとしました。




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