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綺堂コレクション




つぎは綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。 入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。



年賀郵便
           岡本綺堂
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 新年の東京を見わたして、著るしく寂しいやうに感じられるのは、回礼者の減少である。もちろん今でも多少の回礼者を見ないことは無いが、それは平日よりも幾分か人通りが多いぐらゐの程度で、明治時代の十分の一、乃至二十分の一にも過ぎない。
 江戸時代のことは、故老の話に聴くだけであるが、自分の眼で視た明治の東京――その新年の賑ひを今から振返ってみると、文字通りに隔世の感がある。三ケ日は勿論であるが、七草を過ぎ、十日を過ぎる頃までの東京は、回礼者の往来で実に賑やかなものであった。
 明治の中頃までは、年賀郵便を発送するものは無かった。恭賀新年の郵便を送る先は、主に地方の親戚知人で、府下でもよほど辺鄙な不便な所に住んでゐない限りは、郵便で回礼の義理を済ませると云ふことはなかった。まして市内に住んでゐる人に対して、郵便で年頭の礼を述べるなどは、有るまじき事になってゐたのであるから、総ての回礼者は下町から山の手、或は郡部にかけて、知人の戸別訪問をしなければならない。市内電車が初めて開通したのは明治三十六年の十一月であるが、それも半蔵門から数寄屋橋見附までと、神田美土代町から数寄屋橋までの二線に過ぎす、市内の全線が今日のやうに完備したのは大正の初年である。
 それであるから、人力車に乗れば格別、さもなければ徒歩のほかは無い。正月は車代が高いのみならす、全市の車台の数も限られてゐるのであるから、大抵の者は車に乗ることは出来ない。男も女も、老いたるも若きも、殆どみな徒歩である。今日ほどに人口が多くなかったにもせよ、東京に住むほどの者は一戸に少くも一人、多くは四人も五人も一度に出動するのであるから、往来の混雑は想像されるであらう。平生は人通りの少い屋敷町のやうなところでも、春の初めには回礼者が袖をつらねてぞろ[#「ぞろ」に傍点]/\と通る。それが一種の奇観でもあり、また春らしい景色でもあった。
 日清戦争は明治二十七八年であるが、二十八年の正月は戦時といふ遠慮から、回礼を年賀ハガキに換へる者があった。それ等が例になって、年賀ハガキがだん/\に行はれて来た。明治三十三年十月から私製絵ハガキが許されて、年賀ハガキに種々の意匠を加へることが出来るやうになったのも、年賀郵便の流行を助けることになって、年賀を郵便に換へるのを怪まなくなった。それが又、明治三十七八年の日露戦争以来いよ/\激増して、松の内の各郵便局は年賀郵便の整理に忙殺され、他の郵便事務は殆ど抛擲されて仕舞ふやうな始末を招来したので、その混雑を防ぐために、明治三十九年の年末から年賀郵便特別扱ひといふことを始めたのである。
 その以来、年賀郵便は年々に増加する。それに比例して回礼者は年々に減少した。それでも明治の末年までは昔の名残りをとゞめて、新年の巷に回礼者のすがたを相當に見受けたのであるが、大正以後はめっきり廃れて、年末の郵便局には年賀郵便の山を築くことになつた。
電車が初めて開通した当時は、新年の各電車こと/″\く満員で、女や子供は容易に乗れない位であったが、近年は元日二日の電車でも満員は少い。回礼の著るしく減少したことは、各劇場が元日から開場してゐるのを見ても知られる。前に云ったやうなわけで、男は回礼に出る、女はその回礼客に応接するので、内外多忙、とても元日早々から芝居見物にゆくやうな余裕はないので、大劇場はみな七草以後から開場するのが明治時代の習ひであった。それが近年は元日開場の各劇場満員、新年の市中寂寥たるも無理はないのである。
 忙がしい人に多大の便利を与えるのは、年賀郵便である。それと同じに、寥を感ぜしむるのも、年賀郵便であらう。


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底本:岡本綺堂『思ひ出草』(昭和12年、相模書房)一六四―一六七頁
入力:和井府 清十郎
公開:2000年12月18日





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