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岡本綺堂  年譜と主要作品



1872 明治5年
    
    祖父は、奥州二本松の藩士、武田芳忠で、父はその3男であった。父は岡本敬之助(維新後に純[きよし]と改名)といい、岡本家は百二十石取の徳川家の御家人であった。明治元年4月、野州宇都宮に戦い、夏に奥州白河で戦って負傷して、江戸へ帰った。
     明治2年の春から、英国商人ブラウンの紹介によって芝高輪の英国公使館のジャパニーズ・ライター(書記官)として雇われた。
     母は幾野(きの)といい、芝の町家の出で、当時の習慣により御殿奉公にでた。明治2年の末から夫妻再び同居し、高輪泉岳寺の近く、今の高輪北町に高井蘭山の旧宅を借家した。ここに明治6年まで住む。明治3年に姉の梅(うめ)が誕生した。
     敬二(のちの綺堂)は10月15日に出生。父の旧称敬之助の一字をとって敬二と命名。「二」の字を用いたのは君父の二者を敬するの意という。
     この1872年12月3日を以て、太陰暦から太陽暦に改められ、明治6年1月1日とする。




1873 明治6年 1歳
    
    秋、英国公使館の飯田町移転に伴い、岡本家も麹町区飯田町二合半坂に転居。



1875 明治8年 3歳

    
    秋、公使館は新築落成して5番町に移転。岡本家も麹町区元園町1丁目に新築。父より三字経の素読を学ぶ。



1979 明治12年 7歳

    
    初めて新富座に芝居を見物する。父に連れられて楽屋に市川團十郎を訪ねる。



1881 明治14年 9歳

    
    父に漢詩、武田の叔父に英語を学ぶ。
     公使館に出入して留学生にも英語を学び、外国の童話などを聞く。



1882 明治15年 10歳
    
    4月、麹町平河小学校、中等科第3級(今日の小学校5年)に編入。



1884 明治17年 12歳

    3月、東京府中学校入学。
    
    草双紙、正本、八犬伝や浮世風呂などを読む。
    公使館の留学生に就て、ラムのシェークスピア物語などを聞く。



1886 明治19年 14歳
    
    「演劇改良会」が興り、演劇の論議がさかんなのに刺戟されて、劇作家・文学者になろうと決心し、父も賛成。藩閥政府全盛時代で、佐幕派の子弟は官途に立身の望みがないと感じたからという。
     しきりに演劇に関する書を読み、各劇場へ立見に行き、小芝居を巡礼し、特に鳥熊の芝居(春木座・本郷春木町)の恩恵をうけた。公使館ではことに書記官アストンの感化を受けた。アストンは明治期屈指の知日英人で、後に「日本文学史」「日本神道論」の著書がある。



1887 明治21年 15歳

     狂言作者の竹柴其水に面会し、劇作家志望には賛成といわれる。



1889 明治22年 17歳

   7月 中学卒業。
  10月 父の命を受けて甲府に赴く。往復徒歩、金策調わずに帰る。
 11月 歌舞伎座開場。団十郎の紹介で、福地桜痴と会う。



1890 明治23年 18歳

     父の知人で、東京日日新聞社社長の関直彦を訪い、入社を頼む。
  1月 見習記者として尾張町に通い、編集の傍らに校正を手伝う。
  6月 劇評の筆をとる。狂言綺語に因んで初め「狂綺堂」と号するが、後に「綺堂」と改めた。
     社中の先輩である塚原澁柿園、西田菫坡に教えを受ける。



1891 明治24年 19歳

  6月 榎本虎彦の紹介によって、福知桜痴を訪ねる。
  9月 夜学に通うため実家を出て京橋区五郎兵衛町に借間。
 11月 同人雑誌『東もやう』に「盲心中」、『東京日日新聞』に「高松城」発表。



1892 明治25年 20歳

  6月 尾張町の下宿屋に移る。1年志願兵の体格検査、丙種不合格。
 10月 三十間堀に1戸を構えた。



1893 明治26年 21歳

   小遣い稼ぎに地方新聞に小説など書く。東京日日を辞して中央新聞に移る、社会部主任で、劇評を兼ねる。



1894 明治27年 22歳

  4月 有楽町3丁目に移る。
     日清戦争起り、編集多忙、脳貧血で卒倒。
 12月 中央新聞を辞し、創刊の絵入日報社に入る。



1895 明治28年 23歳

 5月 絵入日報社不振のため、退社。有楽町の所帯を畳んで実家に帰り、地方新聞の小説や雑誌の原稿を書く。



1896 明治29年 24歳

   英国公使館附武官サトリオス大佐の日本語教師となる。
 8月 『歌舞伎新報』に史劇「紫宸殿」1幕を発表、処女戯曲。
 9月 東京新聞社に入る。自由党の機関紙で、たびたび発行停止に逢う。



1897 明治30年  25歳

 1月 金森えい(改造社版では、小島邦重の長女栄)(23歳)と結婚。



1898 明治31年 26歳

 東京新聞解散。
 この頃しきりに戯曲を書くも、各劇場は門戸を閉じて局外者の作を容れない方針のため、また、新聞雑誌も戯曲の掲載を喜ばないため、 30余種を書き溜める。



1900 明治33年 28歳

 10月 やまと新聞社に入る。條野採菊翁(小説家、鏑木清方の父)の教えを受けた。



1901 明治34年 29歳

 8月 経営困難のため、やまと新聞を辞す。



1902 明治35年 30歳

 1月 歌舞伎座で岡鬼太郎との合作「金鯱噂高浪《こがねのしやちうわさのたかなみ》」4幕を上演する。自作の初上演。世評はよろしくなかった。
 4月 父死去。69歳。英国公使館に勤続34年。



1903 明治36年 31歳

 1月 英国公使館内にある留学生の語学致師となる。
 5月 10年目で東京日日新聞社に再勤務。



1904 明治37年 32歳

 日露開戦。
 7月 従軍記者として渡満。



1905 明治38年 33歳

 4月 各社の演劇記者が文士劇若葉會を組織し、歌舞伎座で開演。岡本作「天目山」上演。



1906 明治39年 34歳

 6月 若葉會は東京毎日新聞社の経営となって、東京毎日新聞演劇会と改めた。このため、東京日日から東京毎日に移り、俳優の鑑札を受けた。以来、6回の公演に自作自演をつとめた。作としては注目されたが、俳優としては落第であったという。



1908 明治41年 36歳

 川上音二郎が革新劇を組織し、その依頼によって「白虎隊」3幕を書く。更に「奇兵隊」3幕を追加して『維新前後』と題して発表。『維新前後』は戯曲の最初の著書となる。
  9月 明治座上演。「白虎隊」好評、市川左團次の鍾撞番が注目された。綺堂の出世作となり、「綺堂左團次の提携」のさきがけとなる。
 12月 東京毎日新聞社の経営移動により社員も全部退社し、演劇会も解散。



1909 明治42年 37歳

 1月 「振袖火事」
 3月 昨秋、伊豆修善寺に遊んで腹案を得た「修禅寺物語」を書く。戯曲を『新小読』、『文芸倶樂部』に発表した。
 8月 やまと新聞杜に8年目で再勤。
11月 「承久絵巻」3幕、左團次のために専ら戯曲を書いた始めである。「太平記足羽合戦」「黒船話」「貞任宗任」「村上義光」。



1911 明治44年 39歳

  5月 『文芸倶楽都』に載った「修禅寺物語」を明治座にて初演。左團次の夜叉王、好評。
  6月 菊五郎のために初めて書いた「大津絵草紙」市村座上演、不評。
  7月 麹町元園町1丁目19番地から同27番地に転居。
  9月 梅幸のために初めて「平家蟹」を書く。
 10月 「箕輪の心中」明治座上演。左團次のために初めて書いた世話物である。



1912 明治45年・大正元年 40歳

  9月 中村歌右衛門のために初めて「細川忠興の妻」を書く。他にも劇作多い。
 12月 胃腸病む。神経性リュウマチ。



1913 大正2年 41歳

  9月 仙台、松島、金華山に参詣、水戸に寄る。紀行『仙台5色筆』
 11月 神経衰弱、不眠症、脳貧血を病む。
 12月 やまと新聞社を退社。24年間の新聞記者生活を終える。
     この年の新作戯曲12篇。



1914 大正3年 42歳

  5月 「二三雄」を『日本新聞』に連載。
  8月 福島県須賀川町の姉夫婦を訪問、帰途、上州磯部鉱泉に滞在、妙義山登山、長野・善光寺参詣。
 11月 歯痛に悩む。
   
    「浪華の春雨」「なこその関」ほか。
    この頃より新聞連載の長編小説多く、雑誌には翻訳や創作の探偵物やスリラー物を多く書く。一方では左團次の人気上昇と共に、岡本の作は「綺堂物」と呼ぱれる。名実ともに新歌舞伎作者の第1人者となった。



1915 大正4年 43歳

 4月 小説「妹」を『時事新報』に連載(140回)
 8月 上州磯部に滞在し、「鳥辺山心中」1幕を書く。
 9月 小説「鳥籠」を『時事新報』に連載
 「増補信長記」「尾上伊太八」「能因法師」「景清」など。



1916 大正5年 44歳

  5月 上州磯部に滞在、「隅田川心中」1幕を書く。
  6月 「半七捕物帳」を起稿。
  7月 小説「絵絹」を『時事新報』に連載。
  8月 小説「墨染」を『國民』、に連載。
 11月 神経衰弱、連夜不眠。
 12月 国府津海岸に転地静養。
  「番町皿屋敷」「隅田川心中」「阿蘭陀船」など。



1917 大正6年 45歳

  1月 『文芸倶楽部』に「半七捕物帳」掲載する。以来68篇となる。
  2月 脳貧血。
  5月 小説「夏菊」を『福岡日日』に連載。
  6月 小説「曙」を『萬朝報』に連載。
 10月 『婦人公論』に歴史小説の代表作である「玉藻前」連載。
    「半七捕物帳」続編を起稿。
   劇作として「京の友禅」「籠釣瓶」「清正の娘」ほか。
 


1918 大正7年 46歳

 1月 小説「片糸」『東京日日』、「うす雪」『報知』に連載。
    修善寺温泉に滞在。「春の修善寺」を読売に書く。
 7月 小説「人形の影」『読売』連載。
 9月 小説「誓いの石」『萬朝報』に連載小説。



1919 大正8年 47歳

  2月 帝劇の委囑を受け、大戦後の欧米劇界視察の旅で、米、英、仏などを廻って8月帰朝。
 11月 帝劇のために「戦の後」を書く。
     小説「雁の翅」『読売』連載。



1920 大正9年 48歳

 4月 小説「小坂部姫」『婦人公論』連載。
    「半七聞書帳」『文芸倶楽部』連載。
 9月 小説「極楽」『萬朝報』連載。
 「小粟栖長兵衛」「くちなは物語」など3篇。



1921 大正10年 49歳

  3月 流行性感冒。
  5月 箱根・堂ヶ島温泉滞在。
 10月 劇作家協会主催の50回誕辰祝賀会が帝国ホテルにて開かれる。
  「村井長庵」「俳諸師」「大阪城」「俳諧師」など作。



1922 大正11年 50歳

 7月 母幾野逝去。77歳。
 『御影堂心中』『西南戦争聞書』『階級』など劇作11篇。



1923 大正12年 51歳

  3月 歯痛。奥歯7本抜く。
  9月 1日、大震災に遭う。元園町の家財蔵書など全焼。
     2日、目白・高田町の額田六福方に立退く。
       「火に追はれて」の記事『婦人公論』。
 10月 12日、麻布宮村町10番地に仮寓。
  「熊谷出陣」「両國の秋」など7篇。



1924 大正13年 52歳

  1月 「三浦老人昔話」が「苦楽」(1月創刊号)誌上に連載はじまる。
  3月 市外大久保百人町301番地に移る。初めての郊外生活となる。
  5月 春陽堂より『綺堂戯曲集』第1巻、以来14巻。劇作9篇。
  8月 胃腸カタル。
 12月 「青蛙堂鬼談」が「苦楽」誌上に連載はじまる。
 


1925 大正14年 53歳

  5月 春陽堂より『綺堂読物集』第1巻、以来7巻。
  6月 麹町1丁目1番地に移る。半蔵門外である。
 12月 脳貧血、静養。
   
    劇作「虚無僧」「小梅と由兵衛」「新宿夜話」など。震災後にまた作風が変わり、「虚無僧」「小梅と由兵衛」「時雨ふる夜」「新宿夜話」の作がある。



1926 大正15年・昭和元年 54歳

  2月 感冒に罹患、中耳炎併発
  7月 胃痙攣
 11月 3日、旧宅の元園町1丁目27番地へ移転(区画整理が完了したため)。
   
    菊五郎のために自作の半七捕物帳を脚色し、「勘平の死」「お化師匠」「湯屋の2階」「三河萬歳」と、捕物劇ブームを起す。 ほかに「権三と助十」「風鈴蕎麦屋」「江戸っ子の死」など。世話物作家として名があがる。



1927 昭和2年 55歳

 1月 「増補信長記」露訳され、レニングラードの国立アカデミック・ドラマ劇場で上演。
 6月 「修禅寺物語」仏訳、パリのシャンゼリゼー劇場にて上演。ほかにも外国語訳されたもの多数。
   新作「牡丹燈記」「正雪の2代目」「水野十郎左衛門」「相馬の金さん」「おさだの仇討」などの代表作。



1929 昭和4年 57歳

  1月 湯河原に転地
  2月 熱海
  6月 改造社版『世界怪談名作集』の翻訳。
   『朝鮮屏風』『天保演劇史』の作。



1930 昭和5年 58歳
 1月 嫩《ふたば》会同人を中心とした戯曲誌『舞台』創刊。戯曲の添削編集にあたり、指導し、新人作家を多く送り出す。
 「直助権兵衡」「荒木又右衛門」。



1931 昭和6年 59歳

 神経衰弱、不眠症、脳貧血、中耳炎、歯痛、咽喉カタル、口内炎、神経痛、胃痙攣、腎臓痛などの持病を煩う。
 前年あたりから老弱の感あり、湯河原や熱海で静養することが多くなった。



1932 昭和7年 60歳

     上目黒に別宅落成。
 10月 還暦祝賀会。還暦記念の句集『獨吟』を配布。自壽の句「鬼とならず佛とならで人の秋」



1933 昭和8年 61歳

 5月 元園町の家を引払い、上目黒に移転。



1934 昭和9年 62歳

 4月 随筆集『猫やなぎ』上梓。
 「第1日の午前」「菅相丞」の劇作。
 初めてのラジオ・ドラマ「書画屋の半時間」。



1935 昭和10年 63歳

 随筆集『ランプの下にて』、訳著『支那怪奇小説集』上梓。「河村瑞軒」「幡随院長兵衛」の作。



1936 昭和11年 64歳

   「長崎奉行の死」「影」



1937 昭和12年 65歳

  6月 劇界を代表して第1回の芸術院会員。
 10月 「思い出草」(相模書房)
   戦時中のため戯曲を書きなやむ。



1938 昭和13年 66歳

   感冒のために食欲不振、不眠に悩む。気管支炎を併発して心臓衰弱を伴う。
  6月 箱根に転地した。最後の旅となる。
  9月 『短歌研究』に「目黒の寺」の随筆(最後の原稿)。
    「崇禅寺馬場」130枚を書いた。
 12月 絶対安静。



1939 昭和14年 66歳

 3月1日 死去。



作成にあたり、岡本経一編「岡本綺堂 年譜」『現代日本文学全集56巻・小杉天外・小栗風葉・岡本綺堂・真山青果 集』(1957、筑摩書房)、ならびに「岡本綺堂 年譜」『岡本綺堂・長田幹彦集』(1930、改造社)ほかを参照しました。なお、これらの年譜では、年齢を数え年を用いているが、上の表では、満の年に改めた。

なお、記述に誤りや補充がありましたら、ご連絡くださると幸いです。


◆訂正・追加メモ◆
・1915(大正4)年の項:
「5月 小説「妹」『時事新報』に連載」(「岡本綺堂年譜」『岡本綺堂・長田幹彦集』(1930・改造社))とあったのを、「4月」に訂正した。『時事新報』4月29日付から同年9月15日付まで合計140回の連載を確認した。(07/13/2000)


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