logoyomu.jpg

綺堂ディジタル・コレクション




 つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。岡本綺堂の随筆集である『猫やなぎ』からのもので、比較的短いものですが、綺堂の人格なりが出ている作品ではないかと思います。先の「日光の茶店」とならんで人格シリーズとしてとりあげました。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




隣の※[#奚+隹、鶏の俗字]
             岡本綺堂
kido_in.jpg

 十一月廿七日の朝である。
 郊外の大久保あたりは霜が深い。わたしの庭は雪が降つたかと思はれるやうに白くなつてゐた。その霜柱を踏み碎いて、西の垣根に沿うた植込ふのあひだに、何かの足跡が亂れて印してゐる。鳥の羽のやうな白いものが散紅葉の上におびたゞしく散つてゐる。ゆうべはさしたる風もなかつたのに、どこからこんな.ものが吹き寄せられたのかと思つた。
 女中たちも不思議に思つたらしく、その鳥の羽の散つてゐるあとを辿つてゆくと、枯すゝきの一叢しげつてゐる低い垣を越えて、その向うに三十坪ほどの空地がある。ダリアやコスモスはもう枯れ盡して、その一部には家の者が慰み半分に作つてゐる小さい畑の大根の葉が朝霜に白く染められてゐる。鳥の羽はそこらまで散りながらに續いて、畑に近い枯草のあたりには、大きい羽や細い毛がむしり取つたやうに亂れてゐる。更に檢査すると、枯草の深いなかに一羽の白い鶏が横たはつてゐるのを見出した。鶏は喉をむごたらしく食ひ破られ、下腹部をも咬み裂かれて、鮮血に染みて死んでゐるのであつた。
 鼬や狐ならば、いきなり喉笛にでも咬ひついて其血を吸つてしまふのであるから、こんなに殘酷な殺し方をする筈はない。おそらく戸山が原あたりから入り込んで來た野犬の仕業であらうといふことに一決した。さうして、その鶏は隣のM氏の飼鳥であると判つた。わたしの家の者はその鳥をよく識つてゐた。
 隣の家には四五羽の大きい白い鶏を飼つてゐる。そのうちの一羽は生垣の下をくゞつて、毎日わたしの庭や裏口へ白い姿をみせた。他の鳥は曾て來たこともないのに、その一羽だけは必ず出て來て、妻や女中達のあたへる菜つ葉など喜んで食つてゐた。さういふわけで、その鳥は家内一同のおなじみになつてゐたので、その酷たらしい最後が感傷的の女たちの心を一層傷ましめた。わたしも決して愉快ではなかつた。
 かうなつた以上、もう何うにもならないのであるが、兎もかくも亡骸を飼主に送りとゞけることにして、すぐに女中に持たせて遣つた。散つてゐる羽もすぐに掃かせてしまつたが、綿のやうな細い毛はそこらへ亂れ飛んで、枯薄の穗と共に櫻や躑躅の下枝にかゝつて、初冬の晴れた日光に白く戰いてゐるのも、一種のさびしい思ひを誘ひ出させた。
 午ごろになつて、M氏の奧さんがわざ/\挨拶に來た。となりと云つても脊中合せのやうになつてゐるので、わたしはその鶏がどんな風に飼はれてゐるのかを能く知らなかつたが、奧さんの話によると、家には五羽の鶏を飼つてゐゐ。雄鳥一羽に對して雌鳥四羽である。ところが、その雄鳥がどういふわけか、一羽の雌鳥をひどく憎んで、決して自分のそばへ寄せ附けないばかりか、食物をあたへた場合にも決してその雌鳥には食はせない。彼女が食物の分け前にあづからうとして近寄ると、雄鳥はたちまち飛びかゝつて、口嘴や蹴爪を働かして彼女を突き退け蹴飛ばしてしまふのである。飼主も可哀さうに思つて、その雌鳥にだけは内證で食物を遣ることにしてゐたが、それでも雄鳥がそれを知ると、すぐ邪魔に來て殘酷に彼女を追ひ佛つてしまふので、自然彼女は遠いところへ行つて食物をあさらなければならない。彼女が群をはなれて、常にわたしの家の庭口や裏口をさまよつてゐたのは、かういふ悲しい事情に餘儀なくされてゐたのであつた。
 M氏の裏口には鐵網を張つた鶏舍があつて、夕方五時をかぎつて五羽の鶏を追ひ入れるのであるが、そのときにも雄鳥は彼の一羽のめん鳥を入れまいとして必ず一と騷ぎを起すので、飼主もいよ/\可哀さうに思つて、一羽だけは何處へか遣らうかなどと云つてゐるうちに、今朝の事件が出來したのであつた。おそらく其前日の夕方に雄鳥が例のごとく彼女を追ひ出したか、あるひは彼女自身が雄鳥の迫害を恐れて拔け出したか、それに氣が付かずに女中達が鶏舍の扉を閉ぢてしまつたらしい。いづれにしても、彼女だけは鶏舍に這入つてゐなかつた爲に、かうした悲慘の死を招いたのであつた。
 この話を聽かされて、わたしの家の女たちも涙ぐんだ。わたしもいよ/\暗い心持になつた。鶏が鼬や犬に襲はれるのは左のみ珍しいことでもないが、彼女は雄鳥に虐待されるために、自分の塒にも安じ得られないで、霜の寒い夜にそこらをさまよひ歩いて、獰猛な野犬の牙にかゝつたのである。彼女が唯一羽でわたしの庭口や裏口へ毎日の餌をあさりに來る時、その白い羽毛の下にはいかに悲しい寂しい心をいだいてゐたであらうか。さうと知つたらば、もつと可愛がつて遣つたものをと、女たちは今更のやうに悔んでゐた。わたしの家内の者はみな寢坊であつた爲に、自分の庭の内にこんな事件の起つてゐたのを些つとも知らなかつたのである。早くそれを知つたらば、あるひは彼女の敵を追ひ退けて、不幸な雌鳥を救ひ得たかも知れないのであつた。それもまた悔まれた。
 雄鳥に絶えず迫害されて、食を得られず、塒を得られず、晝は飢に苦しみ、夜は寒さに苦しんで、果はおそろしい敵に肉を咬まれ、血を畷られ、羽毛をむしり取られて、無慘の死骸を朝霜の上に横へた雌鳥の運命は、あまりに悼まし過ぎるではないか。わたしは彼女を弔ふやうな心持でこの文をかいた。書いてしまつて、心ひそかに祈つた。
『人間の女性の上にもこれに類する禍ある勿れ』
-----
底本:岡本綺堂 猫やなぎ 昭和9年4月20日発行 岡倉書房
入力:和井府清十郎

※塒《ねぐら》


公開:2001年4月23日




綺堂事物ホームへ

(c) 2000 All rights reserved. Waifu Seijyuro
inserted by FC2 system