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綺堂の小説・随筆・俳句ほか




綺堂の小説

 岡本綺堂の作品で、小説の範疇に入れられているものは、つぎの2作品と下記の新聞小説である。


タイトル出版社出版年月日
『玉藻前』天佑社1918(大正7)年12月15日
『両国の秋』平和出版社1917(大正6)年1月12日


 『玉藻前』は、謡曲や人形浄瑠璃の「殺生石」をもとに、西洋の伝奇小説からヒントを得て書かれたものと言われている。狐の憑いた美少女と少年、それに陰陽師も争闘する、悲恋もの。時代は綺堂としては珍しい、平安時代の京の都が舞台であるが、リアリティもあって読ませる。
 『両国の秋』はへびつかいの女の、いわゆる心中物であるが、夏の終わりから秋への移り変わりが情緒溢れている。『両国の秋』は青空文庫にデジタル化されているなど、いずれも入手しやすい。



新聞小説
 新聞および雑誌に連載された小説は、ほぼ現代物である。演劇第一で、あくまでも小説は副業ということらしい。年譜などの記述から分かっているのはつぎのものである。全部で14+α本ということになる。執筆年代がほぼ40歳代に集中しているのも興味深い。
発表年タイトル発表新聞発表時の年齢(満)
1891(明治24)年11月「高松城」『東京日日新聞』
1891.11.27−12.19
19歳
1893(明治26)年「小遣い稼ぎに地方新聞に小説など書く」、具体的には不明東京日日新聞社勤務。この年に中央新聞に移る。21歳
1914 大正3年 5月「二三雄」『日本新聞』
1914.5.20−8.12
42歳
1915 大正4年 4月「妹」『時事新報』
1915.4.29―9.15(140回)
43歳
同 9月「鳥籠」『時事新報』
1915.9.16−1916.1.13
1916 大正5年 7月「絵絹」『時事新報』
1916.7.7−11.8
44歳
同 7月「墨染」前・後篇『國民新聞』
(前篇)1916.7.26−11.17、(後篇)1916.11.18−1917.2.13
同上
1917 (大正6年) 5月 3月
(6/22/2002訂正)
「夏菊」『福岡日日新聞』
1917.3.28−8.4 (130回)
45歳
同 6月「曙」『萬朝報』
1917.6.16−11.16
1918 大正7年 1月「片糸」『東京日日新聞』
1.1−2.28
46歳
同 1月「うす雪」『報知新聞』
1.10−2.18
同 7月「人形の影」『読売新聞』
不明
同 9月 7月「誓の石」『萬朝報』
7月25日―1919年1月18日
1920 大正9年 4月「小坂部姫」『婦人公論』
1920.4.1−12.1
48歳
同 9月「極楽」『萬朝報』
1920.9.13−1921.3.15


新聞小説のうち、後に単行本化されたのはつぎの3作品:
タイトル出版社出版年月日
『片絲』玄文社 東京市芝公園 発行者 長谷川巳之吉(芝公園9号地) 定価 1円50銭。前編と後編 全718頁1918.8.15(大正7年)
『絵絹』天佑社1919.4.5(大正8年)
『うす雪』文泉堂 (牛込区神楽町) 発行者 遠藤孝篤(同2丁目11番) 文庫本サイズ 定価1円10銭
「うす雪」1−162頁、「海賊船」1−132頁の2作品を含む

○細目次
うす雪
 其の一 雪の日
   二 藤の紋
   三 短刀
   四 妹の恋
   五 進藤老人
   六 夢か真か
   七 銀紙と手紙
   八 海岸の一夜

海賊船
 其の一 兵庫の暁
   二 女七人
   三 軽業師
   四 両国
   五 置いてけ堀
   六 壁の穴
1919.4.25(大正8年)

連載第1回の記事(いづれも一部分)
 

 ・「妹」  第1回 『時事新報』1915年4月29日 (156KB)
 ・「絵絹」 第1回 『時事新報』1916年7月 7日 (140KB)
 ・「鳥籠」 第1回 『時事新報』1915年9月16日 (236KB)

・「夏菊」 岡本綺堂

連載: 福岡日日新聞 1917(大正6)年3月28日(八)頁 ― 8月4日 (全130回連載)。
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岡本綺堂の新連載小説は、江見水蔭の「敵(かたき)」(連載130回)が、大正6年3月27日付で終了した後を受けついだ連載である。作品の舞台は東京で、当時の現代もののようである。どのようないきさつがあったのかはわからないが、現代物で書ける作家を探したのかもしれないし、綺堂と知り合いがこの新聞社にいたのかもしれない。

福岡日日新聞は、現西日本新聞の前身である。この新聞では、もう一つ小説の連載があって、時代もののようだった。同新聞は、都合2本掲載していたわけである。

挿絵の作者は、落款はあるものの、読めないので、誰であるかわからない。大正期の時期の挿絵としては、他の新聞の挿絵をすべて比較した訳ではなく、また私に審美眼があるとはいないので、個人的な感想にとどまるが、絵も比較的丁寧であり、大正という時代風俗を映すような作風、とくに言えば竹久夢二にも通じるような印象であると感じられる。

この「夏菊」はロマンティックな響きがあるので期待もしていたが、この作品だけは散逸しておそらく読めないのではないかと危惧していた。というのは同新聞を古くから蔵書した図書館や施設を探してもなかったからである。しかし、同新聞のほとんどは現在ではマイクロフィルム化されたので、われわれも読むことができるようになった。しかし、この新聞のマイクロフィルムを蔵書している図書館・施設は残念ながら少ないようだ。しかも、地域柄、西日本に偏っていもいる。

マイクロフィルムからのコピーでもあったので、写りが鮮明でないところがあったが、その第1回分だけをつぎに掲載しておきます。判読不明な文字があるのはご容赦いただきたい。
           
福岡日日新聞大正6年3月28日付(1万1927号)(八)

 夏菊 「一」     岡 本 綺 堂


「おゝ寒い。」
千住通ひの川蒸気船が濁つた浪を揺つて向嶋の言問下に着くと、20四五の背のすらりとした女が鶯茶のコートの裾をかき合せながら、桟橋の土にひらりと飛びあがつた。三月初旬(はじめ)の麗(うらゝ)かに晴れた日の午後で、白い帆をあげた船の影が二つ三つ緩く流れて、川上の遠い空がする紫に沈んでゐるのも昔の江戸絵に見るやうな隅田川の長閑な春の景色を描いてゐたが、川面を鈍(ゆる)く撫でる風の底に春の尖つた寒さのまだ忍んでゐるのは、鐘ヶ淵から千住の方へかけては高く聳えてゐる工場の烟突(えんとつ)の烟が、東南にむかつて軽く靡いてゐるのを見ても知られた。

<挿絵アリ>

女につゞいて二三人の客が桟橋に昇(のぼ)つた。それを遣過(やりすご)して、女は焚火の傍へ行った。
「少しあたらして下さいよ。今日は」
女は馴々しく声をかけると、そこに焚火をしてゐる切符受取の若い洋服の男がにや/\笑いながら軽く会釈した。
「天気になっても寒いですね。」
「えゝ、嫌に薄ら寒いことさね。いつになつたら真実(ほんとう)に春らしくなるんでせうねえ。」
 うす黒くうづ巻いて※る烟(けむり)の中へ、女は少し眉を皺めながら白い顔を遠慮なく突き出した。
「今日は三囲(みめぐり)ですか。御信心ですね。」
「だつて今日は午の日ですもの。」と女は真面目に云った。「平生は兎も角も御縁日だけは缺(かゝ)すわけにやあ行きませんわ。」  一台の自働車が水神の方へ向かって堤を走つて行つた。車の中には派手な服装をした若い女が二人乗つてゐた。此方(こちら)の女はそれに※図眼(※ずめ)をつけて、焚火から離れて伸上るやうに見送つてゐたが、やがて人違いと判つたらしく、また黙って火の方へ向き直つた。
「あの自働車の人、あなたは識つているんですか。」と、男は訊いた。
「いゝえ、人違ひ。」と、女は微笑みながら首を掉(ふ)つた。「この堤(どて)は随分自働車が通りますね。」
「あなたが過日(このあいだ)こゝで講話(はなし)をしてゐた若い女の人があるでせう。」と、この男は長い火箸で火を掻き起しながら又訊いた。」
「ねゝ。あの人が何うかしましたか。」女は少し真面目になつて、俯向いてゐる相手の顔を覗き込んで訊き返した。
「いゝえ。別にどうと云うことも無いんですが、……。あの人、どこかの女工ですか。」
「いゝえ。さうぢやありませんけれわ。ですけれども、女工と見えるかも知れませんね。この頃は何処の女工さんでも皆な綺麗にしてゐますから。」と、女は顔を陰(くも)らせた。
「女工ぢやないんですか。」と、男は的が外れたやうな顔をして黙つて了つた。
「ほゝ、女工なら何うするの。不可ませんよ。手なんか握つちやあ。妾(わたし)が承知しませんよ。」と、女は軽く睨むやうな眼をして蓮葉らしく笑つた。
 何処かの工場で汽笛の音が突然に劈(つんざ)くやうに響いた。これに促されたやうに、女はコートの袖に白く降りかゝつた焚火の灰を払ひながら起(た)つた。
「もう、行きませう。毎度お邪魔さま。」
 女は挨拶して堤(どて)を昇(あが)つてゆくのを見遣つて、桟橋の際で※の鎖を繕つてゐた洋服の男が入替わつて焚火の傍へ寄つて来た。
「今日も来たね。午の日だから来るだろうと思つてゐた。」
「君は内々(ない/\)で待つているんだね。」と前の洋服の男は笑つた。「ありやあ何者だらう。芸妓(げいしや)か知ら。」
「以前は芸妓だつたさうだが、今は何でも今戸の八幡の近所に囲(かこ)はこわれてゐるんださうだ。旦那は兜町の人間で何でも唐橋とか云んだとか聞いているが……。」
「ひどく詳しいね。内/\で中々贔屓してゐると見えるね。」と、前の男はまた笑つた。
 自分のうしろで斯んな噂が聞えてゐるとも知らないで、女は堤(どて)を昇つて半町ばかり南へゆくと、桟橋の方からぶら/\来かゝる二人連の若い学生に出遭つた。一人は20二三であらう。色の白い、眉の薄い、口元の引締まつた顔を有つた男で、銘仙の飛白(かすり)の羽織を着て、セルの袴を穿いて、私立大学の制帽を被つてゐた連(つれ)の学生も同じ制帽をかぶつて、制服を着(つ)けてゐた。
「あら、あなた。」と、女は立停(たちどま)つて丁寧に会釈した。
 飛白の羽織の学生も鳥渡(ちよつと)足を止めて帽を脱(と)つた。

お断り:表記を改めたところがあります。

・旧漢字を新漢字に改めた。
・全文ルビを省略し、一部を( )書に改めた。
・江(を崩したような字) → え
・判読不明文字は、※で示した。


綺堂の随筆

 綺堂は随筆にも妙があると思う。あくまでも平明で、具体的である。生前中に単行本として出版されたものはつぎの表のとおりである。なお、遺漏があるかもしれません。
タイトル出版社出版年月日
『五色筆』南人社1917(大正6)年11月25日
『十番随筆』新作社1924(大正13)年4月15日
『歌舞伎談義』舞台社1931(昭和6)年8月25日
『風俗江戸物語』調査中調査中
『猫やなぎ』岡倉書房1934(昭和9)年3月 4月20日
『ランプの下にて 明治劇談』岡倉書房1934(昭和9)年3月2日
『随筆 思ひ出草』相模書房1937(昭和12)年10月18日


五色筆 南人社 下谷区池之端萱町2丁目14番地 川口陟 大正6年11月25日発行 定価70銭 文庫本サイズ 表紙 カラー絵 全243頁
目次

仙台五色筆
山霧
磯辺の若葉
旅すゞり
大師詣
後の大師詣
雨と月と
船中
海城のやどり
秋の潮
 ○
二階から
時雨ふる頃
思出草  (赤とんぼ、西郷星、湯屋ほか)

白魚物語
一日一筆  (ヘボン先生、品川の台場ほか)
木鼠忠太の死
鎌倉時代に新聞が有ったならば

 『猫やなぎ』の表紙(30KB)
 『随筆 思ひ出草』の表紙(50KB)布張製で三色のおしゃれなもの
 『明治劇談』の表紙(17KB)ただし、大東出版社版(昭17年)で、岡本経一氏の編集



俳句その他

 ・仕事
      大正12年、震災で二度目に引っ越したのが麻布宮村(麻布十番)、日蓮宗の寺の門前で、東の坂がくらやみ坂、西の坂は狸坂……今日からは想像が尽きませんが

    狸坂くらやみ坂や秋の暮   『随想 思い出草』「十番雑記」より

・「春の雨」
     浅草や五重の塔に春の雨 

    南朝の春や吉野のひな祭り
          ○
    鶯を売らばや我も年の暮

                   ――『女性』9巻2号(大正15年2月)
   ・旅
    千鳥
  木屋町やひとり寝る夜の川千鳥   『風露集』より

 ・人など
    大石蔵之助の図
  十八個条申開きて年のくれ  『風露集』より


 ・句集『独吟』より

  鬼とならず佛とならで人の秋

  大仏の物思ふ日や花ぐもり

  楊貴妃のなみだや雨の梨の花

  猫やなぎ光りて背戸の真昼かな

  病む人をそよと起すや秋の風

  紙ぎぬた更けて橋場や江戸の月

  五位鷺の綾瀬に落ちて天の川

  金魚ひとつ生き残りけり今朝の秋

  せり売りの声や夜店の秋暑し

  吹き飛ばす雲も木の葉も厄日かな

  雨隣あき家となりて秋の暮

  (『舞台』(岡本綺堂追悼号)10巻5号より採録)

 ・会員と伊豆山に遊びて  綺堂

   汐鳴りや伊豆と相模を五月雨るゝ

  (山上貞一「先生 有難うございました」『舞台』(岡本綺堂追悼号)10巻5号より)

 ・昼もねて聞くや師走の風の音  (昭和13年12月作)

  春待つや薬の並ぶ枕もと

 (岸井良緒「雨の音風の音」『舞台』(岡本綺堂追悼号)10巻5号より)

 ・たそがれや山時鳥杉の雨

  蚊の啼かぬ宿に箱根の一夜哉

 (三橋久夫「追憶」『舞台』(岡本綺堂追悼号)10巻5号より)

 綺堂は、句会にも通っていたようです。また、自身の句集もいくつか出されている。たとえば、『風露集』があり、『独吟』(自家版、昭和7年10月10日刊)は、自身の還暦に自ら上梓した句集である。また、随筆の中にも読みこまれたものが多数ある。

生活記録としての俳句

 綺堂の俳句をいくつか読んでみると、ちょっと今日の俳句の観念やイメージとはことなっている感じがすることに気づかれるであろう。たとえは悪いかもしれないが、ちょうど小学生や中学生の俳句を読んでいるような感じがするとは思いませんか。
 俳趣に欠けるとか素人っぽくて下手だといっているのではない。日記や日誌を句にしたというイメージなのである。日常の生活を句にしたという感じなのである。それを備忘録として、日誌や日記にしているようなのである。わび・さびの芭蕉とは、ちょっと違う感じですね。
 ちょっと俳句のイメージと違うなぁ…と感じていて、いずれ俳句に対する綺堂の考えを知りたいものだと思っていたら、つぎのように指摘する文に出遭った。
 「綺堂の句はすべてが生活記録であり、見聞記であり、感想記である。現代人の俳句は、自己の現実生活や実験から発生するもの、というのが綺堂の持論であった。」(福田宏子「岡本綺堂」昭和女子大学近代文学研究室・近代文学研究叢書44巻165頁(1977・昭和52))。
 なるほどこの説明に尽きているようである。綺堂の俳論をぜひ聞きたい・読みたいところです。なぜ、現代人の俳句は、現実の生活や体験を読まなければならないのか?芭蕉のような立場をどう思っていたか。俳句ではないけれども、明治31年2月12日から「日本」に連載された、正岡子規の『歌よみに与ふる書』などに対する見解など、写実主義や現実主義の影響や当時の俳論の動きとの比較、誰かの影響など疑問や興味は広がっていく。



綺堂の新聞記事ほか
 綺堂(狂綺堂の署名)の劇評および新聞記事
もっとも明らかではないのは、綺堂が自身が新聞記者時代に書いた劇評とその他の新聞記事である。このあたりの収集を進める必要があろう。




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