◆綺堂の小説 岡本綺堂の作品で、小説の範疇に入れられているものは、つぎの2作品と下記の新聞小説である。
『玉藻前』は、謡曲や人形浄瑠璃の「殺生石」をもとに、西洋の伝奇小説からヒントを得て書かれたものと言われている。狐の憑いた美少女と少年、それに陰陽師も争闘する、悲恋もの。時代は綺堂としては珍しい、平安時代の京の都が舞台であるが、リアリティもあって読ませる。 『両国の秋』はへびつかいの女の、いわゆる心中物であるが、夏の終わりから秋への移り変わりが情緒溢れている。『両国の秋』は青空文庫にデジタル化されているなど、いずれも入手しやすい。 ◆新聞小説 新聞および雑誌に連載された小説は、ほぼ現代物である。演劇第一で、あくまでも小説は副業ということらしい。年譜などの記述から分かっているのはつぎのものである。全部で14+α本ということになる。執筆年代がほぼ40歳代に集中しているのも興味深い。
新聞小説のうち、後に単行本化されたのはつぎの3作品:
連載第1回の記事(いづれも一部分) ・「妹」 第1回 『時事新報』1915年4月29日 (156KB) ・「絵絹」 第1回 『時事新報』1916年7月 7日 (140KB) ・「鳥籠」 第1回 『時事新報』1915年9月16日 (236KB) ・「夏菊」 岡本綺堂 連載: 福岡日日新聞 1917(大正6)年3月28日(八)頁 ― 8月4日 (全130回連載)。 岡本綺堂の新連載小説は、江見水蔭の「敵(かたき)」(連載130回)が、大正6年3月27日付で終了した後を受けついだ連載である。作品の舞台は東京で、当時の現代もののようである。どのようないきさつがあったのかはわからないが、現代物で書ける作家を探したのかもしれないし、綺堂と知り合いがこの新聞社にいたのかもしれない。 福岡日日新聞は、現西日本新聞の前身である。この新聞では、もう一つ小説の連載があって、時代もののようだった。同新聞は、都合2本掲載していたわけである。 挿絵の作者は、落款はあるものの、読めないので、誰であるかわからない。大正期の時期の挿絵としては、他の新聞の挿絵をすべて比較した訳ではなく、また私に審美眼があるとはいないので、個人的な感想にとどまるが、絵も比較的丁寧であり、大正という時代風俗を映すような作風、とくに言えば竹久夢二にも通じるような印象であると感じられる。 この「夏菊」はロマンティックな響きがあるので期待もしていたが、この作品だけは散逸しておそらく読めないのではないかと危惧していた。というのは同新聞を古くから蔵書した図書館や施設を探してもなかったからである。しかし、同新聞のほとんどは現在ではマイクロフィルム化されたので、われわれも読むことができるようになった。しかし、この新聞のマイクロフィルムを蔵書している図書館・施設は残念ながら少ないようだ。しかも、地域柄、西日本に偏っていもいる。 マイクロフィルムからのコピーでもあったので、写りが鮮明でないところがあったが、その第1回分だけをつぎに掲載しておきます。判読不明な文字があるのはご容赦いただきたい。
◆綺堂の随筆 綺堂は随筆にも妙があると思う。あくまでも平明で、具体的である。生前中に単行本として出版されたものはつぎの表のとおりである。なお、遺漏があるかもしれません。
『猫やなぎ』の表紙(30KB) 『随筆 思ひ出草』の表紙(50KB)布張製で三色のおしゃれなもの 『明治劇談』の表紙(17KB)ただし、大東出版社版(昭17年)で、岡本経一氏の編集 ◆俳句その他 ・仕事 大正12年、震災で二度目に引っ越したのが麻布宮村(麻布十番)、日蓮宗の寺の門前で、東の坂がくらやみ坂、西の坂は狸坂……今日からは想像が尽きませんが 狸坂くらやみ坂や秋の暮 『随想 思い出草』「十番雑記」より ・「春の雨」 浅草や五重の塔に春の雨 南朝の春や吉野のひな祭り ○ 鶯を売らばや我も年の暮 ――『女性』9巻2号(大正15年2月) ・旅 千鳥 木屋町やひとり寝る夜の川千鳥 『風露集』より ・人など 大石蔵之助の図 十八個条申開きて年のくれ 『風露集』より ・句集『独吟』より 鬼とならず佛とならで人の秋 大仏の物思ふ日や花ぐもり 楊貴妃のなみだや雨の梨の花 猫やなぎ光りて背戸の真昼かな 病む人をそよと起すや秋の風 紙ぎぬた更けて橋場や江戸の月 五位鷺の綾瀬に落ちて天の川 金魚ひとつ生き残りけり今朝の秋 せり売りの声や夜店の秋暑し 吹き飛ばす雲も木の葉も厄日かな 雨隣あき家となりて秋の暮 (『舞台』(岡本綺堂追悼号)10巻5号より採録) ・会員と伊豆山に遊びて 綺堂 汐鳴りや伊豆と相模を五月雨るゝ (山上貞一「先生 有難うございました」『舞台』(岡本綺堂追悼号)10巻5号より) ・昼もねて聞くや師走の風の音 (昭和13年12月作) 春待つや薬の並ぶ枕もと (岸井良緒「雨の音風の音」『舞台』(岡本綺堂追悼号)10巻5号より) ・たそがれや山時鳥杉の雨 蚊の啼かぬ宿に箱根の一夜哉 (三橋久夫「追憶」『舞台』(岡本綺堂追悼号)10巻5号より) 綺堂は、句会にも通っていたようです。また、自身の句集もいくつか出されている。たとえば、『風露集』があり、『独吟』(自家版、昭和7年10月10日刊)は、自身の還暦に自ら上梓した句集である。また、随筆の中にも読みこまれたものが多数ある。 生活記録としての俳句 綺堂の俳句をいくつか読んでみると、ちょっと今日の俳句の観念やイメージとはことなっている感じがすることに気づかれるであろう。たとえは悪いかもしれないが、ちょうど小学生や中学生の俳句を読んでいるような感じがするとは思いませんか。 俳趣に欠けるとか素人っぽくて下手だといっているのではない。日記や日誌を句にしたというイメージなのである。日常の生活を句にしたという感じなのである。それを備忘録として、日誌や日記にしているようなのである。わび・さびの芭蕉とは、ちょっと違う感じですね。 ちょっと俳句のイメージと違うなぁ…と感じていて、いずれ俳句に対する綺堂の考えを知りたいものだと思っていたら、つぎのように指摘する文に出遭った。 「綺堂の句はすべてが生活記録であり、見聞記であり、感想記である。現代人の俳句は、自己の現実生活や実験から発生するもの、というのが綺堂の持論であった。」(福田宏子「岡本綺堂」昭和女子大学近代文学研究室・近代文学研究叢書44巻165頁(1977・昭和52))。 なるほどこの説明に尽きているようである。綺堂の俳論をぜひ聞きたい・読みたいところです。なぜ、現代人の俳句は、現実の生活や体験を読まなければならないのか?芭蕉のような立場をどう思っていたか。俳句ではないけれども、明治31年2月12日から「日本」に連載された、正岡子規の『歌よみに与ふる書』などに対する見解など、写実主義や現実主義の影響や当時の俳論の動きとの比較、誰かの影響など疑問や興味は広がっていく。 ◆綺堂の新聞記事ほか 綺堂(狂綺堂の署名)の劇評および新聞記事 もっとも明らかではないのは、綺堂が自身が新聞記者時代に書いた劇評とその他の新聞記事である。このあたりの収集を進める必要があろう。 |