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綺堂ディジタル・コレクション





つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル 化したものです。
 岡本綺堂の『今古探偵十話』より「ぬけ毛」です。上州の温泉宿を舞台とした若い女達の悲劇の物語。
 なお、入力者(和井府)自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




◆ ぬけ毛

  『今古探偵十話』より

岡 本 綺 堂 kido_in.jpg


      一

 暮春の一夜、例の青蛙堂で探偵趣味の会合が催されたことは、すでに前巻の「探偵夜話」に紹介したが、当夜は意外の盛会で、最初は十五六人の予定であったが、あとからまた七、八人も不意に押し掛けて来て、それからそれへと種々の新しい話が出た。そこで、わたしは「青蛙堂鬼談」の拾遺として更に「近代異妖編」を綴ったように、今度もまた「探偵夜話」の拾遺として、更に「今古探偵十話」を綴ることにした。前巻に掲げた話は殆んど皆その舞台を現代に取ったものであるが、今度の舞台は単に現代ばかりでなく、江戸時代、桃山時代、または支那、南洋にまで亘っているので、話題の範囲が頗る広い。したがって、前巻に比して、また何等かの特色があるかも知れない。
 C君は語る。

 これは僕の友人の飯塚君の話である。飯塚君は薬剤師で、まだ三十を越したばかりであるが、細君もあれば子供もある。その飯塚君がおととしの夏のはじめに上州の温泉場へ行って、二週間ほど滞在していた。その当時飯塚君は軽い神経衰弱に罹っていたのであった。夏のはじめであるから東京の客はまだ来ない。殊に東京の客のあまり来そうもない方面を選んで行ったのであるから、なおさらのことである。ちょうど養蚕《ようさん》の季節であるから土地の人達はもちろん来ない。広い旅館はほとんど飯塚君一人のために経営されているような姿で、かれはのびやかた気分で当座の四、五日を送っていた。
 いかに旬《しゆん》はずれでも、毎日こんなことでは旅館がさすがに行き立つわけのものでない。まだ一週間とは経たない或る日のゆう方に、三組の客がほとんど同時に落ち合って来た。そのふた組はそれぞれの座敷へ案内されて、飯塚君とはなんの交渉もなかったが、そのひと組はすこしく彼の平和を破った。旅館の番頭はかれの座敷へ来て、ひどく気の毒そうにこう言い出した。
「まことに申しかねましたがお座敷を換えて頂きたいと存じます。こんなことを申し上げましては相済まないのでございますが、何分にもお客様が御承知なさらないもんでございますから。」
 居なじんだ座敷を取り換えるのは、誰でも心持のよくないものである。殊にあとから来た、客のために追い立てられるのかと思うと、飯塚君は決していい心持はしなかった。
「なぜ取り換えろというのだ。」と、彼はなじるように聞き返した。
 こっちの顔色がよくないので、番頭も困ったらしい。彼はいよいよ恐縮したように小鬢《こびん》をかきながらまた言った。
「いえ、どうも相済みませんので……。なにしろ御婦人方はいろいろの御無理をおっしゃるもんですから。」
 番頭の説明によると、先月の末から今月へかけて半月以上もこの三番の座敷に滞在していた二人の女客があった。それが帰ってから二日目に飯塚君が来て、入れ換わってかれらの座敷の主人となったのである。もちろんこの奥座敷の三番の座敷は、畳も新しい、造作も綺麗である。殊に東の肱掛窓をあけると、上州の青い山々は手がとどきそうに近く迫って、眼の下には大きい池が横たわっている。池のほとりには葉桜のあいだから菖蒲の花の白いのが見える。その眺望といい、造作といい、この旅館ではまず一等のいい座敷であるから、誰しもここを望むのは人情で、かの女客も今度ここへ来た時にはやはりこの座敷へ入れてくれと約束して帰った。しかしそれがいつ来るとも判らないので、旅館の方ではそのあとへ来た飯塚君をここへ案内してしまった。すると、その女客が今日もまた突然にやって来て、前の約束を楯に取って是非とも三番へ案内しろというのであった。もう先客があるという事情を訴えても、女客はなかなか承知しない。番頭も持て余して、飯塚君のところへよんどころない無理を頼みに来たのである。その無理は番頭の方がよく承知しているので、彼はあやまるようにして飯塚君に頼んだ。
 頼まれてみればいやともいえない義理にたって、飯塚君は不愉快ながら承知した。
「では、仕方がない。すぐにほかへ引っ越すのか。」
「まことに恐れ入りますが、六番の方へどうかお引き移りを願います。いえ、お急ぎでなくともよろしゅうございます。あちらのお二人は唯今お風呂へ行っていらっしゃいますから。」
 この交渉は面倒で少し手間取ると思ったので、番頭はともかくも女客を風呂場へ追いやって置いてそれからこちらへ掛け合いに来たらしい。飯塚君が今度引き移るという六番の座敷に、かの女客の荷物のたぐいを仮りに運び込んであると番頭は言った。
「いえ、六番のお座敷だって決して悪くはないのでございます。どうかあすこで我慢して頂こうと存じまして、一旦あすこへ御案内したのですけれども。あちら様がどうしても御承知なさらないので……。」と、かれは繰り返して説明した。
「よろしい。むこうの荷物が置いてあるんじゃ直ぐに行くというわけにも行くまい。むこうが風呂からあがって来たら報らせてくれたまえ。」
「かしこまりました。」
 番頭が幾度もお辞儀をして立ち去ったあとで、飯塚君は手廻りの道具などを片付け始めた。そうして一種のおちつかないような不愉快た心持で、六番の客が風呂からあがって来るのを待っていたが、女二人はなかなか戻って来ないらしかった。それから小一時間も経ったかと思う頃に、番頭が再びこの座敷へ顔を出した。
「どうも御無理を願いまして相済みません。六番のお客様がお風呂からおあがりになりましたから、どうぞあちらへ……。」
 こう言いながら番頭はすぐに座敷へはいって来て、飯塚君のカバンや手廻りの道具をずんずん運び出した。それにつづいて飯塚君も座敷を出ると、廊下で二人連れの女客に出逢った。その女達はほかの女中に自分の荷物を持たせていた。飯塚君を三番の座敷から追い出した事情を彼女らも承知していると見えて、ふたりの女は摺れ違いながら飯塚君に会釈《えしゃく》した。
「どうもいろいろのわが儘を申しまして相済みません。」と、一人の若い女が小腰をかがめて丁寧に言った。[※底文には、カギカッコあり]
「いえ、どうしまして。」
 それぎりで両方で別れてしまった。六番の座敷におちついて、飯塚君はすぐに風呂場へ行って来ると、長い日ももう暮れ切って、八畳の座敷には薄明かるい電灯がついていた。五番の座敷から廊下が折れ曲がって、その向きはまるで変わってしまったので、飯塚君は今までの眺望をすっかり奪われた。眼隠しのように植えてある中庭の槐樹《えんじゅ》や碧桐《あおぎり》が、欄干《てすり》の前に大きい枝をひろげているのも欝陶しかった。今まで空き座敷になっていたので、床の間には花も生けてなかった。
 床の間に列んだ違い棚の上に鏡台が据えてあったので、飯塚君は湯あがりの髪をつくろおうとして鏡台の前に行った。そのひきだしをあけると小さい櫛が出た。櫛の歯がすこし湿《しめ》っているのは、前の女達が湯あがりの髪を掻きあげたのではないかと思われて、櫛の歯には二、三本の長い髪の毛が絡みついていた。それをすぐに使うのはなんだか気味が悪いので、飯塚君は半紙でそのぬけ毛をふき取って、その紙を引んまるめてひきだしの奥へ押し込んで、それから櫛を持ち直して鏡にむかった。
「どうも遅《おそ》なわりました。」
 お勝という若い女中が夕飯の膳を運んで米た。彼女も座敷換えの事情を知っているので、気の毒そうに言った。
「ほんとうに済みません。どうぞあしからず思召《おぼしめ》してください。あちら様がぜひ三番でなけりゃいやだと仰しゃるもんですから、帳場でも困ってしまいまして……。」
「あの人達はたびたび来るの。」と、飯塚君は箸をとりながら訊いた。
「いいえ、先月はじめていらしったんです。ここは静かで大層気に入ったと仰しゃって、帰るとまたすぐに出直していらしったんですよ。ええ、この前の時もやっぱりお二人連れで、そりゃ本当にお静かで、一日黙っていらっしゃるんですの。もっともここらになんにも見る所もありませんけれど、めったに外へ出るようなこともありませんし、お風呂へはいる時のほかは唯おとなしく坐っていらっしゃるんです。」
「病人かい。」
「いいえ、そうでもないようです。一人の方は可愛らしい方ですよ。あなた御覧になりませんか。」
「さっき廊下で摺れ違ったけれど、薄暗いのでよく判らなかったが、そんなにいい女かい。」と、飯塚君は箸を休めてまた訊いた。
「ええ、まったく可愛らしいかたですよ。まるで人形のような、あれでももう二十歳《はたち》か廿一ぐらいでしょうね。もう一人のかたはひどい近眼で、このかたも同い年ぐらいですが、やっばり悪い御容貌《ごきりょう》じゃありません。」
「どこの人だい。」
「東京の小石川のかたで、なんでも余っぽどいい家《うち》のお嬢さん達でしょうね。」
「いい家の若い娘達がたった二人ぎりでいつも来るんだね。」
「そうです。」
「すこし変だな。」
「変でしょうか。」
 そのうち飯を食ってしまったので、お勝は膳を引いて行った。それほどの美しい娘達が付き添いもなしに温泉場へたびたび来るというのが、なんだか飯塚君の気にかかった。あしたになったら明かるいところで能くその正体を見届けようと思いながら、東京から持って行った探偵小説を少しばかり読んだ後に、飯塚君は例のように早くから寝床にはいったが、座敷が変わったせいか、今夜は眼がさえて眠られなかった。神経衰弱でとかくに不眠勝ちの彼は、もうこうなったらいかにあせっても眼瞼《まぶた》が合わなかった。無理に眼をとじても、頭のなかは澄んだようにさえていた。
 幾たびか寝がえりをしているうちに、夜はだんだんに更けて来て、そこらの池で蛙の声が騒々しくきこえた。飯塚君は這い起きて、枕もとに置いてあった葡萄酒を一杯飲んだ。そうして、再び衾《よぎ》のなかへもぐり込んだときに、廊下を忍ぶように歩いて来るらしい足音が微かにひびいた。飯塚君は枕に顔を押し付けたままで耳を澄ましていると、その上草履の音は彼の座敷の外にとまった。なおも耳を澄ましていると、外の人はからだを少しかがめて、障子の腰ガラスを透かして座敷の内をそっと窺っているらしかった。
 言い知れない恐怖が飯塚君をおびやかした。かれは薄く眼をあいて、これもガラスを透して外の様子を窺うと、ガラスにはっきりと映っているのは若い女の白い顔であった。と思う間もなく、その白い顔は忽ち消えて、低い草履の音は三番の座敷の方へだんだんに遠くなった。

      二

 暁け方になってようようにうとうと眠り付いたので、明くるあさ飯塚君が眼を醒ましたのはもう七時を過ぎた頃であった。早々に楊枝をくわえて風呂場へ出かけてゆくと、そこには誰もいなかった。一人でゆっくりと、風呂にひたって、半分乾いている流しへ出てくると、風呂番の男が待っていた。いつものように背中を流してもらいながら、飯塚君は風呂番に訊いた。
「三番の女連れはもう風呂へはいったのかね。」
「はあ、もう一時間ばかり前に……。あの人達はいつも早いんですよ。」
「大変にいい女だというじゃないか。」
「そうです。どちらも好い容貌ですね。可哀そうに一人はひどい近限で、まるで盲目《めくら》も同様ですよ。風呂にはいるときには、いつでも片方の人に手をひいてもらっているんですが、それでもあぶなくって、はらはらするくらいですよ。」
「そりゃお気の毒だな。」
 一方それほどの近眼であるとすれば、ゆうべ自分の座敷を覗きに来たのは、もう一人の美しい可愛らしい女でなければならない。彼女はなんの必要があって、夜ふけによその座敷を窺いに来たのか、飯塚君の好奇心はいよいよ募って来た。好奇心というよりも、彼はその当時なんともいえない恐怖心に支配されていたので、いわゆる怖いもの見たさで、その女達の身の上を切《せつ》に探りたかった。
 なぜ怖ろしいのか、それは飯塚君自身にもよく判らなかったが、彼は夜ふけに自分の座敷を覗きに来た美しい女が唯なんとなく不気味であった。彼はその女達の身の上について、風呂番の口から何かの秘密を探り出そうと試みたが、それは結局失敗に終った。ふたりの女は風呂番に対して殆んど口を利いたことがないというのであった。飯塚君は失望して自分の座敷へ帰った。
 帰って彼は鏡台にむかった。櫛を出そうとしてそのひきだしをあけると、ゆうべのひん丸めた紙片が隅の方にころがっていて、その紙のあいだからぬけ毛の端があらわれていた。飯塚君はなんという気もなしに、ふたたびその紙片をとって眺めると、漆のように黒く美しいぬけ毛の色が彼の注意をひいた。ゆうべは電灯の暗い光りでよく気がつかなかったが、その毛の色沢がどうも普通でないらしいので、飯塚君はその毛のひと筋をぬき取って、座敷の入口の明かるいところへ持って出て、碧桐の若葉を洩れて玉のように輝く朝日の前に、その毛を透かしてよく視ると、色も光沢も普通の若い女の髪の毛でなかった。飯塚君は薬剤師であるだけに、それが一種の毛染薬を塗ったものであることをすぐに発見した。
「あの女は白髪染めを塗っているのか。」
 飯塚君がゆうべこの櫛を手にとったときに、櫛の歯がまだ湿っていたのから考えると、このぬけ毛はどうしてあの女客の髪でなければならない。少なくとも彼女らの一人は白髪染めを塗っているのである。美しい若い娘その一人の髪は薬剤をもって黒く彩られているのである。こう思うと飯塚君は急に気の毒になった、むしろ惨《いじ》らしいような気にもなった。
 彼はその黒髪を自分の口のさきへ持って行って、廊下から庭へ軽く吹き落とした。そうして、自分の臆病を笑った。ゆうべ自分の座敷を覗きに来たのは、おそらく夜ふけを待って白髪染めを塗り直すつもりであったに相違ない。若い女に取っては大事の秘密である。もしやその秘密を誰かに窺われはしないかというおそれから、自分の座敷に最も近いこの六番の座敷をそっと覗きに来たのであろう。彼女らが無理に自分を追い立てて、三番の奥まった座敷を選んだ理由も大抵は氷釈すると共に、飯塚君はいよいよ自分の臆病がおかしくなった。訳もない恐怖におびやかされて、さなきだに尖っている神経をいよいよ尖らせて、ゆうべ一夜をほとんど不眠状態で明かしてしまった自分の愚かさが悔まれた。
 それにつけても、彼はその女達がどんな人間であるかを見極めたいと思ったが、なるほど宿の女中のいう通り、三番の女客は自分の座敷に閉じ籠ったぎりで、ほとんど廊下へも出たことはなかった。奥まった座敷であるから、わざとそこへ行かないかぎりは、その座敷の前を通り過ぎる機会もなかった。女中のお勝が午飯《ひるめし》の膳を運んで来た時に、飯塚君は彼女に訊いた。
「三番のお客はどうしているね。」
「いつもの通り、黙っていらっしゃるんです。なにか訳があるんでしょうね。」
「そうだろう。風呂へはたびたび行くかい。」
「たいてい朝早くと、それから夕方の薄暗い時と、一日に二度ぐらいですね。」
「そのほかは黙って坐っているのだね。」
「そうですよ。」と、お勝はうなずいた。「それでも時々に短冊を出して、なにか歌のようなものを書いていることがあります。絵の具を持ち出して水彩画のようなものを描いていることもあります。けれども、大抵は黙ってしょんぼりと俯向いていることが多いようです。考えてみると少し変ですね。」
 一種の退屈凌ぎと好奇心とが一緒になって、飯塚君はしきりに白髪染めの女の素姓を探り出したくなった。午後になって、彼は散歩に出るついでに旅館の帳場に寄って、番頭に頼んで宿帳をみせてもらうと、かの女客の住所は東京小石川区白山とあって、ひとりは金田春子二十歳、他は高津藤江廿二歳としるされてあった。
「近眼の人はどっちだね。」と、飯塚君は番頭に訊いた。
「近眼のかたは年上の御婦人です。しかしちょっと見ると、どちらも同い年ぐらいにしか思われません。」
 言いかけて番頭は急に口をつぐんでしまったので、飯塚君も気がついて見かえると、噂のぬしは二人連れで、あたかもここへ出て来たのであった。番頭は丁寧に会釈した。
「御運動でございますか。今日はよいお天気で結構でございます。ごゆっくり行っていらっしゃい。」
 女達はただうなずいたばかりで、店の者の直してくれた草履を突っかけて、しずかに表へ出て行った。偶然の機会で疑問の女二人をしみじみと見ることが出来たので、飯塚君は彼女らの頭のてっぺんから爪さきまで見落とすまいと眼を据えてじっと見つめているうちに、二人の姿は旅館の門前から左へ切れて、葉桜の繁っている池の方へ遠くなった。
「絵でもお描きなさるんでしょうね。」と、番頭は言った。飯塚君もそうであろうと思った。ひとりの女は片手に連れの女の手をひきながら、片手には絵具箱らしいものを持っていた。
 宿帳に偽名をしるしていない限りは、絵を描こうとするらしい二十歳《はたち》ばかりの女が金田春子であった。春子は女としては背の高い肉付きのよい方で、色の白い眼の美しい、なるほど宿の者の褒めるのも嘘はないと思われるような可愛らしい顔をもっていた。その白い顔を一層引き立たせるように、大きい庇髪がぬれた鴉のように艶々しく輝いているのが飯塚君の眼をひいて、白髪染めのぬしは彼女に相違ないと思われた。他のひとりは結局高津藤江でなければならない。これも春子と同じくらいの背格好であったが、肉は彼女よりも痩せていた。透き通るような色の白い細おもてで、やや寂しい冷たい感じのするのを瑕《きず》にして、これも立派な令嬢らしい気品を具えていた。彼女は度の強そうな眼鏡をかけて、ほとんど探るような覚束ない足どりで歩いていた。
 飯塚君もあとから旅館の門を出た。見ると、かの二人は睦まじそうに肩をならべて池の方へ静かに歩いてゆくらしかった。その池はおよそ千坪ぐらいであろう。汀《みぎわ》は青い葦《よし》や芦《あし》がところどころに生い茂って、その間には野生らしい菖蒲《しようぶ》が乱れて白く咲いていた。まん中の水は青黒く淀んで、小さい藻の花が夢のように白く浮かんでいるのを飯塚君は知っていた。自分もやはりその池の方角へ足を向けようとしたが、若い女達のあとを尾《つ》けていくように思われても悪いと遠慮して、飯塚君はわざと反対の右の方角を取って行った。  右の方には広い桑畑が見果てもなしに広がっているばかりで、なんの風情も眺望もなかった。しかも方向《むき》が悪いので、もう夏らしい真昼の日光は帽子の庇《ひさし》をきらきら射て、飯塚君は長く歩いているのに堪えられなくなった。ステッキを振りながらもとの旅館の方へ引っ返して来ると、池のみぎわにはかの二人のただずんでいるうしろ姿が小さく見えたので、飯塚君の足は自然にその方へひかれて行った。池は旅館の門前から一町ほどもはなれた所にあって、上州の山々は葉桜のこずえに薄暗く横たわっていた。
 だんだんに近づくにつれて、二人の姿ははっきりと飯塚君の眼にはいった。春子は葉桜の立木をうしろにして、みぎわの石に腰をおろして、この古池の夏景色をスケッチしているらしかった。藤江はおなじ立木によりかかって、春子の絵筆の動くのを覗いているらしかった。こうなると、今までの遠慮は消え失せてしまって、飯塚君はやはり一種の探偵になりたくなった。彼は足音をぬすんで、彼女らから少し距《はな》れた木の蔭へ忍んで行つて、なにげなく池を眺めているような風をよそおいながら、耳と眼とを絶えずそっちへ働かせていると、やがて藤江はうしろから何かささやいたらしく、春子は振り仰いでこれに何か答えているらしかった。両方の声が低いので、飯塚君の耳には殆んど聴き取れなかったが、唯これだけのことが切れぎれに洩れてきこえた。
「暑いから止したらどうです。」と、近眼の女は言った。「そんなに急がないでも……。」
「でも、三日ぐらいには……。」と、絵筆を持っている女は言った。「それでないと……。もしもここへ誰か来ると……。一日も早く描いてしまって……。一日も早く……。生きているとお互いに……。」
 飯塚君はまたぎょっとした。この切れぎれの詞《ことば》を継ぎあわせて考えると、この二人には何か生きていられない事情でもあるらしく思われた。彼は息をつめて聴き澄していたが、それから先きはなんにも聴き取れないので、少し焦れったくなってもうひと足進み寄ろうとする時に、かれの抱えていたステッキの先きが桜の幹に軽くこつりと触れた。
 その軽い音も神経の鋭い女達の耳にはすぐに響いたらしい。ふたりは同時に振り向いて、春子は飯塚君にむかって黙礼した。飯塚君も黙って会釈すると、春子は急に絵具箱を片付けはじめた。

      三

 その晩から陰《くも》って来て、あくる日は朝から降り暮らした。飯塚君は絶えず三番の座敷に注意していたが、ふたりは薄暗い座敷に閉じ籠ったぎりで、相変わらず沈黙の一日を送っているらしかった。雨はその晩降り通して、次の日はやはり暗かったが、午後から雨がに小やみになって時々鈍《にぶ》い日の光りが薄く洩れた。二時をすこし過ぎたかと思う頃に、春子は足音を忍ばせて六番の座敷の前を通って行った。飯塚君はわざと知らない顔をして俯向いていたが、彼女が例のスケッチに行くらしいことは、その携帯品を見てもすぐに覚られた。
 近眼の藤江を残して、きょうは春子一人でスケッチに出たのは、降りつづいた雨あがりで路の悪いせいかも知れないと思いながら、飯塚君はなにごころなく廊下へ出て、欄干《てすり》から中庭を見下ろしているうちに、白いハンカチーフが裏梯子のあがり口に落ちているの発見した。ここを通るものは三番の客のほかにはない。きっとあの春子が落として行ったのであろう。飯塚君はともかくもそれを拾ってみると、普通の新しい絹ハンカチーフで別に名前などは繍ってなかった。しかしそれが春子の所持品であることは判り切っているので、彼はそれを手がかりにして近眼の客に接近しようと考えた。
 若い女ひとりの座敷を不意に訪問するのは余り無遠慮だとは思いながら、飯塚君はもうそんなことを考えていられなかった。彼はセル地の単衣の前をかき合わせて、三番の座敷の前に立った。それから小腰をかがめて内を覗こうとして少し驚いた。廊下にむかった障子の腰ガラスには、いつの間にか内から白い紙が貼りつげてあった。飯塚君は外から声をかけた。
「ごめんください。」
うちでは返事をしなかった。飯塚君は重ねて呼んだ。
「ごめんください。」
「はい。」と、うちから低い返事がきこえた。
「あの、失礼でございますが、お連れのかたがハンカチーフを廊下に落としてお出でになりましたから、ちょっとお届け申しにまいりました。」
「ああ、さようでございましたか。それはどうも恐れ入ります。」
やがて障子を.細目にあけて、眼鏡をかけた若い女の顔があらわれた。
「これはお連れのかたのでございましょう。」
飯塚君はハンカチーフを差し出すと、藤江は眼を皺めて透かすように眺めていた。
「わたくしにも能く判りませんが、多分そうでございましょう。廊下に落ちておりましたか。」
「裏階子《ばしご》のあがり口に落ちておりました。今出て行く時にお落としなすったのでしょう。」 「そうでございましょう。ともかくもお預かり申して置きます。」と、藤江は丁寧に礼を言った。「どうも御親切にありがとうございました。」
「きょうはあなたは御一緒にお出掛けにならないのですか。」
「はい。何分にも路が悪いのに、わたくしはこの通り近眼でございますから。」
「お眼はよほどお悪いのですか。」
「零度に近いのでございます。」
「零度……。それは御不自由でございましょうね。」と、飯塚君も同情するように言った。
「めくらも同然でございます。お察しください。」
気の毒になって飯塚君もしばらく黙っていると、藤江は沈んだ声でこんなことを訊いた。
「あなたもきょうは御散歩にいらっしゃいませんか。」
「さあ。路が悪いのでどうしようかと思っています。ちっと雨が降ると、ここらはひどい泥濘《ぬかるみ》になりますからね。」
「さようでございますね。」と、藤江は失望したように軽くうなずいた。「ですけれども、いっそ雨の降った方がよろしゅうございます。あなたは……きのうあの池のふちへ散歩にいらしったようでございますね。」
「はあ。まいりました。お連れのかたが熱心にスケッチをしておいでのようでした。」
「御覧になりましたか。」
 藤江の顔色は見るみる陰った。彼女は細い溜め息をつきながら言った。
「あの、あなたはあしたも散歩にいらっしゃいますか。」
「天気ならばまいります。」
「やはりきのうの時刻でございますか。」
「いつと決まったこともありませんが、まあ大抵あの時刻に出て行きます。」
 なぜそんなことを詮議するのかと、飯塚君もすこし不思議に思っていると、藤江は幾たびか躊躇しているらしかったが、やがて思い切ったようにこう言った。
「あの、まことに相済みませんが、あしたもあさっても……。丁度あの時刻に池のところへいらしって下さる訳にはまいりますまいか。」
 別にむずかしいことでもないので、飯塚君はすぐに承知した。しかしその理由を知りたいので、かれは何げなくさぐりを入れた。
「しかし折角熱心に描いておいでの所へ、むやみに近寄るのはお邪魔じゃありませんかしら。現におとといも私が何心なくおそばへ行きますと、お連れの方はあわてて止めておしまいになったようですから。」
 藤江は悲しそうな顔をして黙っていた。
「いや、わたくしの方はちっとも構いません。」と、飯塚君は言い足した。「そちらさえお邪魔でなければ、わたくしはきっと拝見に出ます。」
「あなたが傍へいらしったら、あのかたは絵を止めるかも知れません。止めても構いません。止める方があのかたの為にもなり、わたくしの為にもなりますから。」
 飯塚君はいよいよ判らなくなって来た。彼はどうかしてこの謎を解きたいとあせった。
「あのかたは何を描いているのです。やはりあの池の風景をスケッチしているのですか。」
「そうでございます。あのかたは水彩画が非常にお上手なんですから。」
「そんならなおのこと、わたくし共がお邪魔をしては悪いでしょう。」と、飯塚君は腑に落ちないように首をかしげて見せた。
「ですけれども……。」と、言いかけて藤江は急に俯向いた。眼鏡の下をくぐって落ちる涙のしずくが青白い頬に糸をひいて流れるのを、飯塚君は見逃がさなかった。
「いや、今も申す通りお邪魔をする方がよいということならば、わたくしは幾らでもお邪魔にまいりますよ。どうで毎日退屈して遊んでいるのですから、なんどきでもお邪魔にまいります。が、おなじお邪魔をするにしても、その理由がこっちの頭にはいっていますと、非常に都合がよいと思うのですが……。」
「それは申し上げられません。どうぞお訊きくださいますな。」と、藤江はきっばり断わった。「唯わたくし共を可哀そうだと思召して、わたくしが唯今お願い申したことを御承知くだされば、まことに有難いと存じます。」
「では、なんにも伺いますまい。そうして毎日あのかたがスケッチするお邪魔に出ましょう。」と、飯塚君は約束した。
「ありがとうございます。」と、藤江は感謝の頭をさげた。「そうして、あなたはいつ頃まで御逗留でございます。」
「もう一週間ぐらいは滞在していようかと思います。」
「もう一週間……。」
 藤江は頼りないように再び深い溜め息をついた。にぶい日光はいつか隠れて、庭の若葉の影が急に黒ずんで来たかと思うと、細かい雨がまたしとしとと降り出した。飯塚君は暗い空をみあげた。
「また降って来ました。」
「降ってまいりましたか。」
 彼女も眼鏡越しに空の色を仰いで、ほっとしたようにつぶやいた。
「でも、あのかたは困っておいででしょう。」

     四

 不思議な役目を受け合って、飯塚君は自分の座敷へ帰ったが、彼はなんだか夢のようであった。春子が池のほとりへ行って風景をスケッチする、それを自分が毎日妨害にゆく……。それが春子の為でもあり、藤江の為でもあるというのは、そこに一体どんな秘密が忍んでいるのであろう。どう考えても彼はその要領を掴むことが出来なかった。
 しかしここに二つの材料が列べられてある。春子は白髪染めを用いている。藤江は盲目《めくら》に近い近眼である。若い女達としてはどちらも悲しいことに相違ない。そうした不幸な女同士が繋がり合って、比較的にさびしいこの温泉場に忍んでいる以上、かれらのうしろに暗い影が付きまつわっていることは想像するに難くない。生きているとお互いの――おとといあの池のほとりで春子の口から洩れた一句がそれを証明しているように思われて、飯塚君はまたぞっとした。いっそ帳場の者に注意して、警察へ早く密告した方が安全であろうとも思ったが、それを表沙汰にして若い女ふたりに恥辱をあたえるのは、なんだか忍びないようにも思われて、飯塚君はそれを断行するほどの勇気も出なかった。
 春子はやがて濡れて帰って来た。飯塚君の代りに、きょうは雨が彼女の邪魔をしたのである。飯塚君は藤江の安心したような顔色を想像しながら、タオルをさげて風呂場へ行った。風呂からあがって帰って来ると、それを待っていたように、春子が彼の座敷へ来て、さっきのハンカチーフの礼をいった。しかし藤江とは違って、彼女は用のほかにはなんにも言わないで早々に行ってしまった。雨は夕方から夜にかけて小やみなしに降りつづいた。
 白髪染めを用いている若い女と、ほとんど盲目に近い若い女と、その運命について飯塚君はいろいろに考えさせられた。それにつけても何とも想像の付かないのは、春子のスケッチ問題であった。藤江はなぜ他人に頼んでそのスケッチの妨害をして貰おうというのか。それがどうして二人の為であるのか、飯塚君はそれからそれへと駈けめぐってゆく空想にふけって、今夜も安らかには眠られそうもなかった。客の少ない旅館は早く寝静まって、十一時頃には広い家じゅうに物の音もきこえなくなった。雨には風が少しまじったらしく、庭の若葉が時々にざわざわと鳴っていた。
 廊下をやわらかに踏んで来る上草履の音が低くきこえたので、飯塚君は油断なしに耳を引き立てていると、それは三番の方から響いて来るらしかった。飯塚君は枕に顔を押しつけながら、薄く眼をあいて障子の方を窺っていると、草履の音は果たしてこの座敷の前に停まった。つづいて腰ガラスに映る女の顔を飯塚君はひそかに想像していると、彼女は座敷の外に立ったままで内の様子を窺っているらしく、障子の紙に触れる袂の音がさらりさらりと微かにきこえた。どうするかと、息を忍ばせて耳を澄ましていると、やがて障子の外から低い声で案内を求めた。
「もうお寝みでございますか。」
 それは春子の声であった。飯塚君は半身を起こしてすぐに答えた。
「いや、まだ起きています。どうぞおはいりください。」
「はいりましてもよろしゅうございますか。」
「どうぞ御遠慮なく……。」と、飯塚君はうながすようにはっきり言った。
「では、ごめんください。」
 障子をそっとあけて、春子は影のようにすう[※「すう」に傍点]とはいって来た。それでも無論に遠慮して、男ひとりの枕もとから努めて遠いところにつつましやかに坐っていた。
「なんぞ御用ですか。」
「先刻はどうもありがとうございました。」と、春子は再び丁寧に礼を言った。「夜分遅く出ましてまことに失礼でございますが、少々うかがいたいことがございまして……。」
「はい。」と、飯塚君はうなずいた。
「あの、あなたは先刻わたくしの留守に、ハンカチーフをお届け下さいましたが、その時にわたくしの連れのかたがあなたに何か申し上げましたかしら。」
「いいえ、別に……。」
 飯塚君はまずあいまいに答えると、春子は蛇のような眼をして相手の顔をじっと見込んだ。彼女はその返答を疑っているらしかった。 「まったくなんにも申し上げませんでしたか。」
「なぜそんなことをおたずねなさるのです。」と、飯塚君の方から逆襲した。
「いいえ、ほんとうになんにも申し上げなければよろしいんですが……。もしやあのかたが何かお話し申しはしまいかと存じまして……。」 「いや、ハンカチーフをお渡し申すと、わたくしはすぐに帰って来ました。なにしろ御婦人ひとりのところに長くお邪魔をしているわけにはいきませんから。」
「ごもっともでございます。どうも夜分お妨げをいたしました。お寝《やす》みなさいまし。」
 春子は消えるように出て行ってしまった。飯塚君はあとからそっとその座敷を窺いに行こうかと思ったが、夜ふけに若い女達の寝床を覗きに行くのも余りに気が咎めるので、そのままに衾を引っ被ったが、とても落ちついて眠られる筈はなかった。よそながら、三番の座敷の動静に気を配って、とうとう夜の明けるまでまんじりともしなかったが、三番の方ではこそりという音もきこえなかった。
 暁け方から雨はやんで、あくる日は上州一面の大空が青々と晴れ渡っていた。爽快な朝の空気のなかに庭いっばいの若葉が濡れて匂っていた。早朝に風呂にはいって、不眠の重い頭を冷たい水で洗って、飯塚君は少しはっきりした気分になって、自分の座敷へふらふら戻ってくると、風呂場へかよう渡り廊下の中ほどで春子と藤江とに出逢った。
「お早うございます。」
 飯塚君の方からまず声をかけると、ふたりの女も会釈して通った。両方が摺れ違うときに、春子が険しい限をしてこちらをじろりと見返ったらしいのが、飯塚君の注意をひいた。
 午後になると、ふたりの女はつながって外へ出た。それから少し間を置いて、飯塚君もつづいて出た。藤江との約束があるので、彼はすぐに池の方角へ忍んでゆくと、二人のすがたは果たしてそこに見いだされた。春子はやはり熱心にスケッチしているらしかった。藤江はその傍にたたずんでいた。飯塚君は木の間をくぐってだんだんにそこへ近寄ると、春子は真っさきに振り向いた。彼女はこわい眼をして飯塚君を睨んだが、またすぐに寂しい笑顔をつくった。
「御散歩でございますか。」
「よい天気になりました。」と、飯塚君も笑いながら言った。「なかなか御勉強ですね。」
「いいえ、どういたしまして……。」と、春子はいやな顔をして眼をそらしてしまった。
 藤江は哀れみを乞うような眼をして飯塚君をそっと見たが、これもすぐに眼を伏せて、足もとの葦の根に流れよる藻の花をながめていた。邪魔をするのが自分の役目である以上、飯塚君は早々にここを立ち去るわけにはいかないので、彼はなにかの話題を見つけ出して、それからそれへと休みなしに話しかけると、春子はよんどころなしに手を休めて受け答えをしていたが、堪えがたい憎悪《ぞうお》と嫌忌《けんき》の情が彼女の少し蒼ざめた顔にありありと浮かんでいた。自分がこうして邪魔をしていることが、春子に取っては非常の苦痛であるらしいことを飯塚君もよく察していたが、その子細はやはり判らなかった。
 どんな事情があるのか知らないが、いかにも苦痛に堪えないような春子の顔付きをいつまでも残酷に眺めているのは、飯塚君としても随分辛い仕事であった。藤江との約束がなければ無論立ち去るのであるが、一旦それを受け合ったかぎりはその義務を果たさなければならないと、飯塚君も辛抱して一時間ほどもそこに立っていた。いつまでいても際限がない。もうここらでよかろうと思ったので、彼はふたりの女に会釈して池のほとりを離れた。春子の方でもほっとしたであろうが、飯塚君も実はほっとした。そうして、飛んでもない役目を引き受けたのを悔むような気にもなった。
 もう一つ、かれに不安をあたえたのは、春子の物凄いような眼の光りであった。彼女は飯塚君と迷惑そうな会話を交換しながら、ときどきその物凄い眼を走らせて藤江の方を見返っていた。それは獲物を狙うときの蛇の眼であった。飯塚君はなんということもなしに藤江という女が可哀そうになって来た。
「ひょっとすると、あの春子というのは実は女装した男で、藤江という可憐の女を誘拐して来ている のではあるまいか。」
 飯塚君はそんなことまでも考えるようになった。そうして旅館の門前までぶらぶら引っ返して来たが、俗に胸騒ぎというのでもあろうか、ある怖ろしい予覚が突然に彼の胸に湧いて来た。自分の立ち去ったあとで、あの二人はどうしたであろうか。それが何だか気にかかってならないので、飯塚君は急に方向を変えて、もとの池の方へ再び忍んで行った。午後二時ごろの日光は桜の青葉を白くかがやかして、そこらで蛙の鳴く声が静かにきこえた。そよりとも風の吹かない日で、大きい池のおもては一つの皺をも見せないで、平《たいら》かによどんでいた。
 飯塚君がふたりの女に一旦別れて再びここへ引っ返して来るまでに、多く見積もっても十五分を過ぎない筈であった。その短いときの間に、ふたりの上にどういう急激の変化が起こったのか知らないが、春子と藤江との影が池のみぎわにもつれあって、闘っているらしかった。闘っているというよりも、微弱な抵抗を試みている藤江を春子が無理無体に引き摺って行こうとしているらしかった。飯塚君はいよいよ驚いて駈け寄ろうとする間に、藤江は春子にするすると引き摺られて行って、池の底へ見るみる沈んでしまった。
 あっけに取られてしばらくは口も利けなかったが、飯塚君はやがて大きな声で人を呼んだ。自分も水泳の心得があるので、すぐに着物をぬいで水のなかへ飛び込むと、池は想像以上に深かった。飯塚君の声を聞きつけて、遠い桑畑から三、四人の男が駈けて来た。かれらも飯塚君に力を合わせて、ようように二人の女を水の底から担ぎあげると、二人ともにもう息はなかった。春子は藤江をしっかりとかか、えていた。みぎわには描きかけた水彩画の紙がずたずたに引き裂かれて落ち散っていた。

     五

 温泉旅館に滞在している若い女二人が同時に池に沈んだのである。土地の騒ぎはいうまでもない。ふたりは旅館へ運ばれて、いろいろに手当てを加えられたが、春子はどうしても生きなかった。藤江は幸いにその魂を呼び返された。しかし彼女は口をつぐんで何事も打ち明けなかった。あまりに神経を興奮させてはよくないという医者の注意によって、駐在所の巡査も取り調べを中止して一旦引き揚げた。
 春子の死体は別室に移された。藤江はやはり三番の座敷に横たわっていた。その枕もとには宿の女中が替るがわるに坐っていた。夜の九時頃である。飯塚君がその容態を見に行くと、女中のお勝が看病に来ていた。
「どうです。その後は……。」
「もう大丈夫だとお医者も言っていました。」と、お勝はささやいた。「今は少しうとうとと眠っていらっしゃるようですよ。」
「そう。」と、飯塚君も安心して枕もとに坐った。そうして藤江の真っ蒼な顔を差し覗くと、彼女は薄く眼をあいた。
「どうです。心持はもう快《よ》うござんすか。」
「いろいろと御厄介になりまして相済みません。」と、藤江は微かに言った。
「あなたはもう大丈夫です。御安心なさい。」
「もう一人のかたは……。」
 飯塚君はお勝と顔をみあわせた。
「もういけませんか。」と、藤江はそれを察したらしく言った。
 なまじいに隠すのは悪いと思って、飯塚君は正直に事実を話した。それからお勝を遠ざけて、かれは藤江にさとすように言い聞かせた。
「そこで、春子さんという人がもういけないとすると、宿の方でも相当の手続きをしなけれぱなりません。さっきすぐに東京へ電報をかけると、小石川にはそんな者はいないという返事がきました。もうこうなったら仕方がありませんから、あなたがたの身分や本名を正直に言ってくれませんか。」
 藤江は蒲団に顔を押し付けて黙っていた。
「一体あの春子さん……むろん偽名でしょうが……という人はどこの人です。」と、飯塚君はまた訊いた。「あの人はなぜ毛染薬を用いているのですか。」
びっくりしたように藤江は顔をあげた。
「あなた、どうして御存じです。」
「わたくしの座敷の鏡台のひきだしからあの人のぬけ毛を発見しました。わたくしは薬剤師です。そのぬけ毛になにが塗り付けてあるかということは直ぐに判ります。」
 藤江はまたしばらく黙っていた。
「わたくしの邪推かも知れませんが、あの人はそれを苦にして、あるいはそれがなにかの原因となって、死のうと思い詰めたのじゃありませんか。」と、飯塚君はかさねて言った。
 一々に星を指されたらしく、藤江は俯向いて考えていたが、とうとう思い切ったように起きなおった。彼女は電灯の光りを恐れるように眼を皺めながら、うるんだ睫毛《まつげ》を幾たびかしばたたいた。
 「皆さんにも御心配をかけまして重々相済みません。仰しゃる通り、あのかたが死んでしまった以上は、もういつまでも隠しているわけにはまいりません。宿帳に記してありますのはみんな偽名で、あのかたは矢田秋子さんとおっしゃるのでございます。わたくしは宮島辻子と申します。」  矢田と宮島、この二つの姓を一緒にならべられて、それが二つながら富豪の実業家であるらしいことを飯塚君は思い出した。試みにその親たちの名を指してきくと、藤江の辻子はそれに相違ないと答えた。
「矢田秋子さんはどういうものか子供の時から白髪が多くて、十六七の頃にはもう七十以上の女のように真っ白になってしまいました。秋子さんはひどくそれを苦にやんで白髪染めの薬を始終塗っていましたが、努めてそれを秘密にしていたので、ほんとうに仲の好い二、三人のお友達のほかには、世間では誰も知らないようでした。」
「すると、あなたも親友のお一人なのですね。」
「はい。」と、辻子は眼をふきながら答えた。「御覧の通り、わたくしもまた子供の時から強い近眼で十七八の頃からめくら同様になってしまいました。宿帳にわざとわたくしを年上のように書いて置きましたが、実は秋子さんと同い年で、どちらもことし二十歳《はたち》でございます。どちらにもこういう欠陥があるもんですから、自然に二人が特別に親しくなって、まるでほんとの姉妹《きょうだい》のように、どんな秘密も明かし合って親密に交際していました。そうして、二人とも一生独身で暮らそうと約束しました。ところが、この二月頃になって秋子さんに結婚の話が始まったのでございます。」
 言いかけて辻子はすこし躊躇した。飯塚君はあとを催促するように追いかけて訊いた。
「では、その結婚問題から面倒が起こったのですね。」
「まあ、そうでございます。これはわたくしの邪推ばかりでなく、大勢の人達から確かに聞きましたところでも、秋子さんは大層その縁談に気乗りがしていたようでした。その相手の男の名は申されませんが、それは立派な青年紳士でございます。一生独身で暮らすと約束しながら……しかしそれも秋子さんの身になって無理もないことだと存じまして、わたくしも蔭ながらその縁談のなめらかに進行することを祈っておりますと、いよいよという間ぎわになって先方から破談になりました。誰が洩らしたのか知りませんけれど、白髪染めの秘密が相手の男の耳にはdたのだそうです。わたくしも心からお気の毒に思いました。秋子さんも非常に失望して、その当座は毎日々々泣いていたとかいうことです。ところが、ここに不幸なことは、その縁談の相手の男というのはわたくしの家の親戚にあたる者で、わたくしもふだんから識っているのでございます。で、秋子さんは……何だかわたくしを疑っているらしいのです。白髪染めの秘密はわたくしの口から洩れたのではないかと疑っているようにも思われるのです。つまり独身生活の約束を破ろうとするのをわたくしが怨んで、故意に秋子さんの縁談に邪魔を入れたと、こう思っているらしいのでございます。秋子さんはその以来、いっそ死にたい死にたいと口癖のように言っていましたが、先月の中旬になって、いよいよわたくしも一緒に死んでくれと言い出したのでございます。」
 秋子の我儘を憎みながらも、飯塚君は黙って聴いていると、辻子はひと息ついてまた語り出した。 「その時にいっそきっばりと断わったらよかったかも知れません。無論、わたくしも一応は秋子さんに意見しましたが、秋子さんはどうしても肯かないのでございます。そればかりでなく、わたくしもめくら同様の身の上で生きていても詰まらないと思ったことも、今までにないことはございません。第一にわたくしの心を寂しくさせたのは、秋子さんの結婚問題でございます。いいえ、同性の恋などという、そんな間違ったことじゃありませんけれども、一生きっと独身で押し通すとあれほど堅く誓って置きながら、勝手にその約束を破ろうとする。して見ると、親友などというものも決して的《あて》にはならないものだと思いまして、実を申せばなんだかこの世が頼りないような果敢《はか》ないような、寂しい悲しい心持になっているところへ、秋子さんからその相談をかけられて、わたくしもとうとうその気になってしまいました。それから二人は親の金を持ち出して、どこか人の知らないところで死のうと約束して、まずここへまいりました。ところが御承知の通り、先月の末には毎日のように雨が降りましたので、どうすることも出来ませんでした。」
「雨が降ったので……。」と、飯塚君は腑に落ちないような顔をした。自殺と花見とは同一でない以上、なにも天気をえらむ必要もなさそうに思われた。
「それには訳があるのでございます。秋子さんは水彩画が大層お上手ですから、のちの形見に自分の死に場所をスケッチして、世の中に残して置きたいという考えで、ここの池の景色を描こうとしたのですが、雨が降りつづくのでひと足も外へ出ることが出来ません。東京の家の方でもきっと秘密に捜索しているに相違ないと思いますと、いつまでも一つ所に滞在しているのは不安だと思いまして、ふたりはとうとうここをあきらめて、近所の山の中の温泉場へまいりましたが、ここは案外に雑沓していますので、やっばり先のところがよいということになって、もう一度ここへ引っ返して参りましたのでございます。こうしてあっちこっちさまよっておりますうちに、わたくしの考えはだんだんに変わってまいりまして、何のために死のうとするのかはっきりと判らなくなって来ました。わたくしはやっぱり生きていたくなりました。しかし秋子さんはもう堅く思いつめているので、わたくしの意見などはどうしても肯きません。殊にわたくしの決心がだんだんにぶって来たらしいのを見て、わたくしの挙動を厳重に監視するようになりました。秋子さんはどうしてもわたくしを一緒に殺そうとしているのでございます。それは前にも申し上げた通り、白髪染めの秘密をわたくしが洩らしたと疑っているせいもありましょう。わたくしも一旦約束した以上、秋子さんを振り捨てて逃げようとは思いません。また逃げようとしても秋子さんが逃がしますまい。所詮どうすることも出来ない運命と覚悟はしていながらも、一寸のがれに一日でも、長く生きていたいような未練から、こっちへ今度まいりましても雨のつづくのを祈っておりました。秋子さんが池のスケッチを描きあげる日がわたくし共の最後の日でございます。あなたに邪魔をしてくれとお願い申したのもその為でございましたが、それが禍いの種になって、とうとうこんなことが出来《しゆつたい》してしまいました。」
 これでいっさいの事情は判明した。この長い話を聴いているうちに、飯塚君は女というものについていろいろのことを考えさせられた。 「そうすると、まだその水彩画を描きあげないうちに、突然死ぬことになったのですね。」
「秋子さんはわたくしがあなたに何か頼みはしないかと疑っていたのでございます。ところへ、あなたが今日わたくし共のあとを追ってお出でになりまして、いつまでもスケッチの邪魔をしていたのを見て、いよいよそれに相違ないと思いつめてしまったのでございましょう。あなたのうしろ姿が見えなくなると、秋子さんは描きかけているあの絵をずたずたに引き裂いてしまって、もう一刻も躊躇してはいられないから、さあ直ぐに一緒に死のうと突然言い出したのでございます。わたくしは何だか急に怖ろしくなりましたが、逃げる訳にもまいりません。大きい声を出す訳にもまいりません。唯おどおどしてふるえていますのを、秋子さんは無理無体に引き摺って行って……。それから先きはなんにも存じません。」
 二人の女の身許が確かにわかったので、宿からはすぐに電報を打つと、あくる日の午前中に両方の家から迎いの者が来て、死んだ女と生きた女とを秘密に受け取って行った。
 三番の座敷はこれであいたが、飯塚君は再びそこへ戻る気にもなれなかった。それでも一度そのあき座敷へはいって、そっと鏡台のひきだしをあけて見ると、薄気味の悪い女のぬけ毛が隅の方からたくさんに見いだされた。それにはみな毛染めの薬が血のように黒く沁みていた。

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底本:「綺堂読物選集 6 探偵編」青蛙房 昭和四四年10月10日
入力:和井府清十郎
公開:2005/07/25





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