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 綺堂ディジタル・コレクション

つぎは、綺堂のオリジナル作品をデジタル化したものです。
 綺堂さんの語り口がうかがえるようですね。こんな風に話していたのでしょう。
 なお、入力者自身による校正はいたしましたが、ベーター版ですので誤字などありましたら、ご連絡ください。




職業についた頃

  ――還暦記念祝賀会を前に――

                   岡本綺堂
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 還暦記念祝賀会にちなんでと言われても私は何もしていないのだから――それでは私が初めて職業に従事した頃の話をしましよう。

入社の年は帝国議会の初開会

 明治二十三(一八九〇)年の正月、数え年十九の時、私は新聞社へ入りました。そのころ銀座の通りはなんでしてね、皆新聞社でかたまっていましたよ。
 入った頃は編集見習で、合間には校正もやりました。昔は新聞記者は昼夜兼勤で、われわれのような下廻りは朝の九時から夜の十時頃まで勤めることが再々でした。二十三年入社の年は帝国議会が初めて開かれ(十一月二十五日)、それが今とは違って夜までやることがある。八時、九時となる、それが済んでから編集をするから午前一時、二時になる。それが毎日続く。けれども新聞社は忙しいもの、普通の倍は働くものと考えていたから、今ならさしずめ労働問題ですがね、別にどうのということはありませんでしたがね。
 ただ助かったのは日曜の休みです、それで息をついた。ところが、駈出しはまたその日曜日も休めない。それ番人が要るんです。それにはいい人は来ませんや。われわれみたいなペーぺーが出る。閑《ひま》だから給仕を相手に将棋を指したり、天気がよければ銀座を散歩したりする。新聞は休刊があるが、われわれぺーぺーはやっぱり無休刊でしてね。
 その七月一日から三日まで初めて第一議会の総選挙があって、五日頃から選挙が始まった。選挙法違反の取締りがないから、至る所で殴り合いがある、喧嘩が始まる、大変なものでした。有権者を一票五円で買収したとか、千円の鰹節を贈ったとか、買収は罪になりませんからね。
 八月に電話が初めてかかりました。それでおもしろいのは、第一聞く人が下手、しゃべる人も下手、それに器械も悪かったんでしょう、実に聞きにくい。皆電話をいやがってわれわれぺーペーに押しつける。そのうちでも悩んだのは、蠣殻《かきがら》町(米穀取引所。いまの中央区日本橋蛎殻町一丁目一二番)へ行っている者が前場《ぜんば》の相場を電話で知らせてくる。これは一銭を十銭と聞き違えても大変、これには参りましたよ。

文学青年が食うには新聞社が一番

 どうして新聞社へ入ったって?われわれはまず文学青年、貧乏ですから食うことを考えなければなりませんや。その頃、雑誌社といったって、博文館もありゃしませんでしたからね。ほかにないんですよ、新聞社以外には、私たちみたいな奴のすることは。
 明治二十五年十月、京橋東仲町から三十間堀へ抜ける狭い横町(当時の京橋区三十間堀一丁目三番、いまの中央区銀座四丁目七番北部)に初めて家を持ちました。二十一歳の時で、その家《うち》っていうのが、二・六・二の三間、二階が六畳一間、それで家賃が二円六十五銭。地主が越前堀(いまの中央区新川一丁日南東部、新川二丁目北東部)にいる人で、初めは二円七十五銭だった。それを二円五十銭に負けろって交渉して、結局十銭だけ負けたんです。家賃を十銭負けろ、いや負けないなんて、おもしろいじゃありませんか。
 その時分、銀座の裏通りには商人店《あきんどみせ》がほとんどない、しもた屋ばっかりでした。ですから仲通りへ行けば誠に静かなもので、勤め人とか通い番頭さんとか、お妾《めかけ》さん、それに長唄の御師匠さんらが住んでいたものです。変わりましたね。
 独身で女中を一人置いていたんですが、商人屋《あきんどや》がないから商人が来た時に買いはぐれるともう買えない。日用の買物をするのに、木挽町(いまの中央区銀座三丁目一〇〜一五番、同四丁目一〇〜一四番、同五丁目一二番、同六丁目一四番、同七丁目一二番、同八丁目一三番)まで川(当時の三十間堀川)を渡って行ったものです。
 忘れもしない、大根河岸――五郎兵衛《ごろべえ》町(いまの中央区八重洲二丁目八、九番)ですね、もと医者が住んでいたっていう空家がありましてね。いい家でしたが、家賃が四円五十銭で高いんでやめましたがね。なんでもそれってェのが――二十五年に米が一円に一斗二升、二十七年から二十八年の日清戦争当時が八升、「戦争は恐ろしいな、米が八升になった」といいましてね。

実に暗かったお堀端

 「その頃、銀座は暗かったか」って?仲通りは軒ランプがついていたからそれほどでもなかった。暗い話といえば、二十三年頃、議会が終わり、日が暮れてから元園町の家(いまの千代田区麹町二丁目一二番)へ帰るのに、銀座から数寄屋橋を渡り三宅坂へ出る。半蔵門へ来るまで灯りというものが一つもない。桜田門の傍へ交番が一つあったきり、雨なんぞの降る日は困りましてね。七時、八時という頃、お堀端を歩く人はなかった。実に暗かった。
 四つの年の冬、飯田町《まち》から元園町へ移って今でも家はそこにありますが、私は間に下町へ出ていました。今また帰って来ましたがね。その飯田町の借家(いまの千代田区富士見一丁目一、二番あたり)というのが、元旗本の古い屋敷で名代の化物《ばけもの》屋敷だったそうで、そこへ小《こ》一年も住んでいたんですが、近火で焼けた。
 一時、離れたところへ越していましたが、出入りの酒屋が来て、女中に「何もなかったか」と聞いたんですが、女中は知らなかった。おふくろが聞いていて、小僧に訳を尋ねると、もといた家が化物屋敷だっていうことが判ったんです。知らなかったから何もなかったんですね。
 話せば人生六十年、いろいろのことが思い出されます。

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岡本綺堂 風俗明治東京物語(昭和62年5月6日 河出文庫)
初出誌「読売新聞」文芸欄 昭和7年10月14―17日
入力:和井府 清十郎




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